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吉野の家 珪藻土塗りDIY

吉野の家の今年最後の珪藻土塗りを行いました。
人数的に、遅い時間までかかるかな、と思っていたのですが、お子様たちが活躍してくれて、案外早く完了。

自分で塗った壁、愛着を持ってもらえるんじゃないかなと思います。




下竜尾町の家 オープンハウスを開催します。

STGI

お施主様のご厚意により、今週末、下竜尾町の家のオープンハウスを開催させていただきます。ご入居後のオープンハウスとなりますので、空間と生活を感じられる貴重な機会になるかと思います。関心のある方は是非いらして下さい。

場所はこちら

屋上は絶景です。




現場進行中の物件をwallstatでシミュレーションしてみた。

vectorworksからwallstatへcsv経由で移行させるツールは、結局プラグインオブジェクトにしたのですが、けっこういいところまで出来てきました。

試しに現場進行中の住宅の軸組で試してみました。(すでに図面があるので1,2時間で入力は終わります。)

かなりコンパクトで平面が正方形、という地震に対して有利な形状というのもありますが、神戸地震のデータでシミュレーションしても外周部がほとんど黄色になったくらいで大きな揺れもなく済みました。

黄色は変形角が0.008から0.033ラジアンなのでだいたい、0.5から1.9度の変形角におさまった感じでかなり良い結果でした。

今回は地震に対する偏りがないプランだったので良かったですが、もう少し偏りがあるようなプランでも、実際にシミュレーションをしてみて、弱いところを補強して、再度シミュレーションしてみる、というサイクルを回せばコストを抑えつつもかなり安全性を高められそうです。

いくつかシミュレーションしてみて、金物はかなり大事な要素ということも改めて実感した次第です。




吉野の家 建方


吉野の家の建方を行いました。


コンパクトながらも密度の高い空間になりそうです。




コロナ禍においてどのような思想を持つことができるかが問われている B234『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(熊代 亨)

熊代 亨 (著)
イースト・プレス (2020/6/17)

以前、千葉雅也氏のツイートで

というのを見かけ、気になったので購入しました。

始まりは違和感から

小学生の頃、近所の団地に住んでいた友達が、少し遠くの小綺麗な新興住宅地の小綺麗な家に引っ越したのですが、そこに初めて遊びに言った時に、自分の居場所がないような何とも言えない違和感を感じました
また、大学生の頃、神戸で自分を透明な存在と呼ぶ少年が連続殺人事件を起こした時に、その違和感を思い出しました

僕が建築について考えることはこの違和感からはじまっています

それは、本書で繰り返し描かれる、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」の違和感と同類のものだったように思います。

しかし、本書を読んで、大学で建築を学び始めてから20年余りの間に、その違和感について次第に鈍感になり、いろいろな場面で規律と習慣に絡め取られてしまっている自分がいることにも気づかされました。そのことが全て間違っているとは思わないけれども、少なくとも自分の中の違和感には敏感であり続けたい

違和感を語るだけでも始まらない

本書は終章を覗いては、ほとんどがその違和感について、どのように「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」と自由を獲得してきたか、および、それによって課せられることになった不自由とは何かを描くことに充てられています。

それに対して、同じような違和感からスタートしている自分としては、(見てみると著者は僕と同い年でした)、その違和感については自分も感じているけれども、知りたいのその先、その違和感に対する処方箋もしくは処世術のようなものだったので、少しもどかしく感じたのも確かです。

逆に、生まれながら「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」が成立しており、その規律と習慣が深く内面化されているような世代、その違和感のもととなるような時代を経験をしていないような世代にとっては、「あの頃は良かった」的な昔話に聞こえるかもしれない、とも感じました。

一人の精神科医が描ける社会のラフスケッチには限界があり、本書もまさにラフと言う他ない。(中略)・・・について書き続けてきた私が、間違いを恐れず、社会の全体像をラフスケッチするしかあるまい。(p.6)

と、著者自身が書いているように、本書はあくまでラフスケッチであり、それを承知の上で全体をスケッチしようと試みた著者の勇気には敬意を表したいと思います。
しかし、それが著者の役割ではないのは知りつつあえて言うならば、やはり、多くの人にこの問題提起を届けるためには、問題を一度抽象化して描き切るような作業が必要なように思います。

(そういう点で、千葉雅也氏をフォローしているのは問題を鋭く抽象化して見せるような力強さを感じるツイートが多いからだったりしますし、氏が紹介していたからこそ本書を購入した、というのもあります。氏の発言などを思い浮かべながら本書を読めたことは良かったと思います。)

コロナ禍においてはこの違和感に向き合わざるを得なくなる

千葉氏が紹介していたから、という理由の他に、本書を買ってみようと思ったもう一つの理由がありました。

それは、コロナ禍において、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」はますます要請されるようになっていますが、それに対して我々はどのような思想を持つことができるか、を考えたかったからです。

資本主義・個人主義・社会契約が「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」を当たり前なものとして規範化していく中で、我々は別の不自由さを与えられますが、コロナは、その規範化をますます進展させていくでしょう。しかし、そのことが、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」でなければならないという不自由さを鮮明に浮かび上がらせながら、大本にある資本主義自体に深刻なダメージを与え続けることになります。

そんな中で、我々が行きていくためには、資本主義・個人主義・社会契約による「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」とそれがもたらす不自由さの間にある矛盾と向き合わざるを得ません。もし、その不自由さをそのままにしていてはそれこそ経済が成り立たなくなってしまいます。

そのために、その矛盾を抱えたままそれを乗り越えるような新たな思想が求められるように思いますし、多くの人が知恵を絞った結果として新たな思想が生まれるようにも思います。

その思想は蓄積されてきたある種の生き難さを吹き飛ばすような、爽快なものになるような気がしますし、そうあって欲しいと願います。

新たな公共空間の成立に向けて

本書では空間設計(アーキテクチャ)に関する議論が取り上げられていますが、建築の根源的な問題だと思います。

先の、「その矛盾を抱えたままそれを乗り越えるような新たな思想」を考えるための抽象的な議論の一つとして、『公共空間の政治理論』「公共空間の成立条件とは何か?」という問いはヒントになるかもしれません。

ネオリベラリズムもしくはグローバリズムにおいては自由は求めるものではなく、課されるものになり、公共空間を奪われた開かれた世界では、互いの間に生じた摩擦を緩和することが出来なくなります。 そして、人々は無摩擦空間をどこまでも求め、互いに疎遠になっていく(疎遠化)と同時に、身近な他者に一致状態を求めるようになります(一体化)。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

公共空間の持つ中心性はさまざまな要素を集積し出会わせていく作用から、異物を除去し全体化する作用へと変容していきますが、それに伴い、秩序・安全を手に入れながら、不確かなもの、脆弱性を手放していきます。今回のコロナは不確かなものを手放してきたことによる非常時の脆さ、レジリエンスの低下を顕にしたと言えるかもしれません

バトラーは「不確かな生」で脆弱性の縮減、すなわち安全によって失われるものの意味を考える。 脆弱性は他者との関わりが不確かで解体しかねない状態、および関わる個々人が互いに傷つけられかねない状態であることだが、実はそれは我々の生を構成する条件であり、それが安全によって失われると言う。 相互扶助と傷つけ合う可能性の両義性を共有しながら他者との関わりに置いて脆弱性を生きることが生にとって必要なのであり、そのようにして生きていかざるを得ないということこそが、脆弱性の要請する政治なのである。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 脆弱性を受け入れ隙間を捉える B207『公共空間の政治理論』(篠原 雅武))

予期不可能なものを期待できることが、アーレントの公共空間における行為が行為であるための条件であり、安全という概念と引き換えに未来を放棄した私有空間はこの条件に反する。

さらに、この私有空間では危険が除去されているだけでなく、脆弱性を示しそうな現れが不可視化されコントロールされている。そこで阻止されているのは、耐え難い何かを知覚し判断していくための空間である。
現代の政治的活動は私有化された空間の外部に真実の公共空間を新たに創出するというよりは、支配的である現れ方の秩序に働きかけその変容を促すこと。身近なところにある、均質化の過程とそれが及ばないところの隙間に気付き、立ち止まって考えることである。

「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会」が公共空間たり得なくなっているのだとすると、不確かなもの、脆弱性を受け入れつつ、秩序ある社会の均質化の及ばない隙間を見つけ変容を促すような行為を模索し続けることが、今必要なのかもしれません

それは、我々が不確かな生をどう生きるか、という抽象的な問題であると同時に、このコロナ禍の中でどうsurviveしていくかという具体的な問題に関わることだと思いますし、それを実践し始めている人もたくさんいるように思います。




某施設 模型作成

某施設の打ち合わせに向けて模型を作りました。

2つの既存建物の間に建てる計画で、既存建物との関係を表現したかったので1/100で作成。
面積的にはそれほど大きな建物ではないですが、建築的なスケールを感じられるものにしたかったので、大屋根と樹木状の列柱を並べるような構成に。
1/100のスケールで表現するのはけっこう大変でしたが、イメージを共有することができたようで一安心。

打ち合わせの結果をもとに模型もどんどん修正していく予定です。




「政府への信頼」と「市民相互の信頼」を確立していくために B233『コロナが変えた世界』(ele-king編集部)

ele-king編集部 (編集)
Pヴァイン (2020/6/24)

ウイズコロナの時代をどういった思想を拠り所としていけばよいか。もしくは、拠り所としてはいけないか。
自分の中でもそういうところが今もぼんやりとしています。

コロナに関連したものを次の業態はこうなる的なもの以外で何か読もうと思って探していたところ、宮台真司や篠原雅武と言った名前(他にも内田樹や上野千鶴子など)を見てこれを読んでみることに。

だいぶ前に読み終えてましたが、流石に賞味期限が切れるので、今のうちに何か書いておこうと思います。

こういう複数の人が寄稿したようなタイプの本はなかなか感想を書きにくいので、理路整然とした宮台真司の寄稿文を下敷きに書いてみます。
(例のごとく、宮台真司の文章は無駄がなく組み立てられていて、ほとんど要約の余地がない密度なので関心のある人は本書を読んでみてください。)

感情の劣化と加速主義

こういう国または社会で乗り越えなければならない危機においては、「政府への信頼」と「市民相互の信頼」が必要と言います。
しかし、残念ながら日本ではそのどちらもない。

また、民主政の前提となる「他者の生き方や価値観に目を向け耳を傾ける」ような能力が劣化している(感情の劣化)と言います。
オカミに抗って市民社会を勝ち取ったという歴史がないため、自分たちの社会を自分たちで守りメンテナンスするという発想がなく、オカミに思考停止で依存し、同調圧力に屈することを他人にも要求するような安全厨ばかりになる。

不確実な状況では、動的に認識を変更しつつ行動を変えていく必要があるのに、思考停止ゆえに安全よりも安心が優先される

そういう状況を変えていくには、個人が自立し、オカミをスルーして仲間で助け合い、最終的には知らない人同士が助け合い、知らない人に向けて税金を払う「公民的規範をベースにした普遍主義」を確立していく以外に道はない。
そのためには、一度絶望へと落ちるような加速主義の発想をすべきと言います。国への絶望が自治体の自立の出発点(希望)となり、自治他への絶望が仲間集団の自立の出発点(希望)となり、仲間集団への絶望が個人の自立の出発点(希望)となる。それを逆回しするように、個人が自立し、仲間集団が自立し、自治体が自立し、国が自立する。それ以外の経路はない。「任せられない」という絶望こそが希望であると。

思考停止を避けること

僕は、こういう加速主義自体が正解かどうかは分かりません。実際、周りを見渡すと、既に、個人の自立→仲間集団の自立(一部では→自治体の自立も)のようなことは少しづつ起こりつつあるように思います。(自分自身は個人の自立を目指すだけで精一杯だったりしますが・・・)
また、絶望へと落ちきるところまで猶予のない人もたくさんいるでしょう。

ではそのような中、どういった思想を拠り所としていけばよいだろうか。もしくは、拠り所としてはいけないだろうか。

「安心」するのではなく、他人への想像力を持ち、とにかく思考停止となることをさけ続けること。これはコロナ禍において大切なことと言い切って良いように思います。
だとすると、何か一つの思想を拠り所とすることもまた危ういことかもしれませんし、常に変化し続けられるような構えこそが必要なのかもしれません。(このブログでも最近は似たことばかり書いていますのでそこは深堀りしません。)

政府に期待すること

最初に書いた「市民相互の信頼」を確立するためには上に書いたような、他人への想像力を持ち思考停止を避け続けることを積み重ねて行くしかないのかもしれません。

では「政府への信頼」を確立するにはどうすればいいのでしょうか。(最終的には「市民相互の信頼」の先に確立されるものなのかもしれませんが。)

どこかで、こういう不確実性の高い非常時の政府は、危機を乗り越えた暁には政権を降りる覚悟で、状況が刻々と変わる、その時々に決断を下し続けなければいけない、というような文章を読んだ記憶があります。

しかし、今の政府は(もしかしたら今の日本の政治の宿命なのかもしれませんが)一度決めたことは矛盾が明らかになってもなかなか変えられないように見えますし、それ故、責任を背負いながら決断をくだすことが難しくなっているようにも思います。
また、出された政策がどういう根拠に基づいて何を目的としているのか、いったいどのようなロードマップのどこに位置づけられているのか、政府として何を考えているのか、ということがほとんど見えてきません。前にも書きましたが、政策に政府のメッセージが見えてこない。(故に、解釈によって分断も起きる。)

前回読んだ本で、現在の医療分野では疫学的データによる統計的な根拠に基づいて医療行為を行うEBM(Evidence Based Medicine)が盛んであるとかいてありました。(なぜそうなるかというメカニズムの解明がなくとも、統計的にリスク要因を特定し管理することで健康を維持することができるという考え方。)

半年前ならまだしも、コロナについてかなりのことが分かってきていると思いますし、国をあげて疫学的調査をしたって良いと思います。

(タイムラグもある上、調査対象をどうするかで意味が変わり、検査陽性者と感染者も区別しないような)日々の感染者数を、ただ機械的に発表し、無駄に不安だけを煽るのではなく、EBMのように、きちんとした統計的なデータによる解析結果と、それを根拠としつつ、コストや経済などの他の要因を考慮した道筋を示し、説明しながら国民の信頼を得る、ということをやって欲しいと強く思います。(Evidence Based Policyのようなことがあるはずと思ったらウィキペデイアにありましたね。)

それでも不確実性は排除できなくて、間違うこともあると思いますし、道筋を日々調整していくことこそ必要だと思います。信頼を獲得するのが先か、信頼することが先か、というのはあるかもしれませんが、責任と根拠を持って決断をしたことに対しては、ある程度の失敗は許容するような市民が信頼する態度も必要かもしれません。

とにかく情報の公開とメッセージを

各市民が自立した判断をし「市民相互の信頼」を獲得していくためにも、もしくは、「政府への信頼」を獲得していくためにも、国でなければまとめられないような、人々の行動や国の方針のエビデンスとなりうる情報の公開と政府の描く道筋に基づいたメッセージを是非、発信していって欲しいですし、(ほとんどテレビを見ることはなくなりましたが)メディアもただ不安を煽るだけではなく、エビデンスとメッセージを正確に伝えるような番組作りが当たり前になればと思います。

もちろん、僕らもそれに頼り切ることなく、他人への想像力を持ち思考停止を避ける努力を続けなければいけないわけですが。




現場の物語と施主自身の物語への想像力を保ち続ける B232『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』(稲垣諭)

稲垣諭(著)
青土社 (2018/7/23)

ドゥルーズ(0925-1995)とマトゥラーナ(1928-)&ヴァレラ(1946-2001)、年代的にどの程度影響しあっていたのか分からないが、共通性に着目している人がきっといるはず、と検索するとこの論文がヒットし、稲垣諭という方に辿りついた。 氏の『壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―』はドゥルーズの生成変化とオートポイエーシスのどちらにも関連が深そうなので早速読んでみたいと思う。(オノケン│太田則宏建築事務所 » 動きすぎないための3つの”と” B224『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(千葉 雅也))

という経緯で買ってみたもの。
本書は哲学的視点を通して、臨床の現場の可能性を語るようなものであったが、内容や文体はかなり『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本英夫)に近いように感じた。(と、調べてみると、著者と河本英夫はいくつも共著を書いている。)

そういう点では新鮮さはなかったのだけど、『損傷したシステムは~』を補完しあうものと捉えると面白く読めた。(河本英夫やオートポイエーシスに馴染みのない方にとっては、新鮮に感じられるものだと思う。もしくは、意図することを掴みにくいか。)

本書では「哲学を臨床解剖する」として「働き」「個体」「体験」「意識」「身体」が、「臨床の経験を哲学する」として「操作」「ナラティブ」「プロセス」「技」「臨床空間」が章立てられている。

その中で、比較的新鮮に感じた「ナラティブ」の章について記しておきたい。

設計は臨床に似ている?

神経系を巻き込んだ人間の複雑な動作や認知機能の再形成には、解剖的、生理的、神経的要因だけではなく、年齢、性別、性格、職業、社会環境、家族構成と行った多くの変数のネットワークが介在してしまう。そのため、リハビリの臨床における治療の取り組みは自ずと、多数の仮設因子を考慮した上での「調整課題」もしくは「調整プロセス」とならざるをえないのである。調整課題とは、線形関数のような一意的対応で解が出るような問いではなく、多因子、あるいは他システムの連動関係を見極め、効果的なポイントに介入し、調整することで、そのつどの最適解を見出すような実践的、継続的アプローチである。(p.154)

建築士はときどき医者に例えられることがある。施主の思いや悩みを聞き、それに対してこうすれば良くなるというような回答を提出する。というように。

病気には何か明確な原因があり、科学的な因果関係を特定し、それを取り除くことで治療を行う、というのが医療行為の一般的なイメージだと思うけれども、現在の医療分野では疫学的データによる統計的な根拠に基づいて医療行為を行うEBM(Evidence Based Medicine)が盛んであると言う。なぜそうなるかというメカニズムの解明がなくとも、統計的にリスク要因を特定し管理することで健康を維持することができるという考え方だ。

しかし、目の前の患者の個別的な状況に対応せざるを得ないようなリハビリの臨床のような現場では、EBMの確率が難しく、個別の問題にどう対応するかという課題がある。

ここで、医療のタイプに対応した建築士の3つのタイプを想定してみると、

(A)旧来の医療タイプ:明確な課題を設定し、それに対して分かりやすい解答を与えるような設計を行うタイプ。旧来の建築家像。
(B)EBMタイプ:データを用いて、統計的な判断により設計を行うタイプ。今後AIの進展により盛んになる?
(C)臨床タイプ:できるだけ多様な因子を取り込んだ上で調整的・継続的に設計をすすめるタイプ。このブログで考えてきた建築家像。

という感じだろうか。

明確にどれかに当てはまる人もいるかも知れないけれども、実際は状況に応じてこれらを組み合わせながら設計を行っているのが一般的かもしれない。
その中で、(C)のようなタイプの設計は臨床に似ている、と言えるように思うし、ここではその可能性を考えてきた。

それに関連して、『第7章「ナラティブ」-物語は経験をどう変容させるか?』について書いてみたい。

ここでは、物語を河本英夫が書いているような複合システムのサイクル(ハイパーサイクル)の間で駆動する媒介変数のように捉えているように思うが、2つの方向での遂行的物語について語られているようだ。

語りかけとしての遂行的物語

ここでの物語はその意味でも、単に教訓や寓話として読み聞かされるようなものではなく、経験と行為を再組織化するきっかけとしての「遂行的物語」とでも呼ぶべきものとなる。医療従事者として、「患者の経験に寄り添うこと」、「患者の経験を動かすこと」、「患者の経験に巻き込まれること」といった全てが、物語を媒介しつつ、治療プロセスに非線形的に関与する。そこには、表出される言動の背後で作動している、「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」といった多くの非意識的な変数が関連している。(p.160)

例えば、外科手術の前に、術後の痛みの状況や対応などについてのメッセージを伝えた人と、伝えなかった人とでは、前者のほうが術後に使用する鎮痛剤の量が半分に減ったそうだ。

これはいわゆるプラシーボ効果のようなものだと思うが、そこでは「生体システム」に加えて「心的システム」や「社会システム」といった複数のシステムが先のメッセージの物語をきっかけとして何らかのカップリングが起きたと想定される。

例えば、施主に満足してもらうことを一つのゴールだとした場合、施主の希望を叶えるために分かりやすい解答を与えるというのは、一つの方法であると思う。しかし、実際には、そういった対応をしたにも関わらず、最終的に満足してもらえない、ということもありうるのがこの仕事(どんな仕事も)の難しいところかもしれない。

引用分のようなコミュニケーションにおける「まなざし」や「声」、「語気」、「呼吸」、「身振り」、「立ち振る舞い」だけでなく、他の些細な希望の見逃しや誤解・説明不足、職人さんの挨拶や、現場の整理整頓・養生の方法、さまざまなことが一つの物語となって積み重なっていく。その結果、全く同じ建築をつくったとしても、喜んでもらえることもあれば、不満を与えてしまうといった両極端な状況のどちらもが起こりうる

なので、全てのことを完ぺきにこなすことは簡単ではないけれども、現場の方には、とにかく最後は施主の方を見て仕事をして欲しい、とお願いしている。

その時、その現場の空気をつくる物語(それは与えるだけではなく、ともに作り上げていくものとしての物語)がある、ということを強く意識してその物語を組立てていくというのは大切なことかもしれない。

自己語りとしての遂行的物語

システムの連動を貫くように体験される物語が、遂行的物語である。それは、当人が意識的、意図的であることとは関係なく、併存する複数のシステムへと新しい変数を提供し、間接影響を与えることが条件となる。それは同時に、その意味的文脈とは独立に当人の体験世界の変化につながるものである必要がある。病の経験を、遂行的物語として実行することは、それを体験するものが、みずからを別様な経験へと開いていくきっかけを手にすることを意味する。ナラティブ・アプローチにおける語りとその物語は、患者が語ることを他者が傾聴し、新たな物語として語り直すというプロセスを何度も潜り抜けさせる中で、当人の経験に新しい変数を出現させ、体験世界の再組織化へと届かせようとするものである。(p.163)

本書においての遂行的物語としては、こちらのナラティブ・アプローチが本筋かもしれない。

住宅系のイベントなどで、「私たちとともに 新しい生活のカタチを みつけませんか」というキャッチコピーを使うことがある。

例えば家を建てるとしても、ただ家を建てるという経験だけが残るのではなく、施主自身の新しい体験の扉が開いていくことへとつながるような仕事がしたいと思っている。
家を建てたという実感だけではなく、日々の気持ちの持ちようや張り合い、家族や社会との関係性や自然の感じ方など、さまざまなことが新しく感じられるようなものをつくることに、この仕事の意味があるように思う。

そのためには、こちらが語り、与えるだけではなく、施主自身が関わることによって、その語りや物語が変わってくるようなあり方を考え整えていくことが大切なのではないだろうか。

そういった2つの物語に対する想像力を日々保ち続けないといけないな。




何が人生を変えてくれるか分からない B231『アニメ私塾流 最高の絵と人生の描き方』B232『アニメ私塾流 最速でなんでも描けるようになるキャラ作画の技術 』(室井 康雄)

室井 康雄(アニメ私塾) (著)
エクスナレッジ (2019/12/19)

室井 康雄(アニメ私塾) (著)
エクスナレッジ (2017/11/16)

少し前にtwitterで話題になった本。

息子二人のために購入

「キャラ作画」の方は結構前に絵を描くことが好きな次男(小5)のために購入。
春のコロナ休校の時、裏紙を閉じた冊子を渡して「何でもいいので自分で考えてすべてのページを埋めるように」と宿題を出したのですが、次男はこの本の序盤を自分なりにまとめてました。

「最高の絵と人生」の方は、最近絵(イラスト)を描くことにハマりだして将来のことをいろいろ考え出してそうな長男(中2)のために。
せっかくやるなら、何かしらの経験になればと思い買ってみました。

盆の間にざっと目を通してみましたが、押し付けがましくなく、楽しむことを忘れずに書き続けながら、上達するためには何が必要か、自分で考えることを促すような良い本でした。

原くんのこと

僕は、大学の4年の頃、建築をこのまま続けるかどうか悩んだ時期があって、気がついたら、就職も進学もほぼ募集が終わってました。とりあえず、東京にでも出てみようと、たまたま雑誌で見かけた一年制の建築専門学校に行ったのですが、そこで(確か)高知から来た原くんという子と仲良くなり、住んでいた場所が近いこともあって、よく一緒に過ごしてました。

原くんは、絵を描くことが好きで、昔からジブリなんかの画集を見ながらいろいろ描いてたようです。授業のプレゼンでもジブリ風の人や車などの添景をスラスラと描いていて、画力ではピカイチの存在でした。

また、その専門学校の先生はアトリエ系の設計事務所の主宰者が多かったのですが、その中でも、三輪先生のコンペ論の授業が人気があったように思います。
三輪先生はその頃、黒川紀章の事務所から独立して確か2年目くらいで、建築を楽しむことの根っこの部分を問いかけてくる、他の実務寄りの先生とは少し違う独特の雰囲気の先生でした。

そんな専門学校が卒業の時期を迎える頃、三輪先生のもとで働きたいという生徒はたくさんいたのですが、結局僕と原くんの二人が三輪先生の事務所で働くことになりました。
僕らよりも、建築的な発想に優れた人や、独特の個性を持っている人がいたのですが、先生は「何でもいいので一つ、自分より優れた光る部分を持っている人を雇おう」と考えていたようで、原くんはその画力、僕は模型の製作能力を見込まれたそうです。
(僕は、模型は全くの我流で自分ができる方なのかどうかも分からなかったのですが、課題で、全ての建具を閉じた状態からフルオープンにして格納できるような模型を、それこそ楽しんで作っていたので、そこを見込まれたのかな、と思ってます。)

その後、その事務所で怒られたり褒められたりいろいろな経験(ダメ出しがほとんどでしたが)をして、いろいろなことを学ばせていただきましたが、原くんは体調を崩して、僕よりも先に(確か)高知の方に帰ってしまい、それ以来会っていないです。

何が人生を変えてくれるか分からない

学ぶことは学びたくなった時に自分で学べればそれでいい、と思っているので、高校までの勉強は、何かを学ぶための練習くらいでいいのかなと思っています。

僕の場合は、やりたいこともはっきりしてなかったので、自分の可能性を残しておけるようにとりあえず「大学受験合格」をミッションに設定しました。(建築を選んだのは、受験間際になってからで、とりあえずものをつくるのが好きだから、という程度の動機でした。)。それでも、そのミッションをクリアするためにやれることは全力でやったと思います。

進学先によって人生は変わっていたと思いますが、その後、社会に出る段になって人生を変えてくれたり、支えとなったのは、子どもの頃に夢中になってやった自分の好きなことだったと思います。

小学生の頃は工作や折り紙(あと、昆虫も)が好きだったのですが、その時夢中になったことが、最初の事務所に勤めることのきっかけになりました。原くんもそうだったと思います。

中学校の時は買ってもらったパソコン(MSX,MSX2)で家にいる間はひたすらプログラムでゲームをつくったり、ゲームをつくるためのツールをつくったりしてました。それが、最近、設計ツールをBIM寄りに切り替えてからかなり生きてきてると思います。もし中学時代に、ちょっとかじって満足してたのでは対して意味はなかったかもしれません。(ちなみに、受験する学科で最後まで迷ったのは建築と情報でした。大学卒業後もかなりの期間、極貧生活を送ることになりましたが、情報を選んでたら、もっと早く人並みの生活が送れてたのでは、と思ったことは何度かあります。)

何が人生を変えてくれるか分からない。本当にそう思います。

今何をすべきか

例えば、長男がこれから進路について悩む時期だと思いますし、それについて具体的に行動しなければいけない時期になってきてるのかなと思います。

ですが、今、何をしなければいけないか、なんてことは僕には分からないし、きっと本人にも分からないと思います。

大学に行ける学力をつけておけば、その時点での選択肢は拡がると思いますし、人生の支えとなる交友関係も変わってくる可能性はあるとは思います。
だけど、今の時代、そのことがその後の人生までも保証してくれることはほとんどないと思いますし、結局、その時々に何をするかで人生の舵をとるしかありません。

なので、今の時間を全て受験に捧げろとは僕は言えません。それによって経験できなかった何かによってチャンスを失うことだってあるかもしれませんし、他を我慢して受験に身を捧げたことで人生が拓けるかもしれません。

そんなことは誰にも分からないです。
だから、先日、長男には、最後の説教(こんな風に考えたらどうか)を伝えて、後は勝手にどうぞ、と言いました。最後は自分の人生に本人が責任を持つしかありません

ただ、今の時間を何の目的意識も持たずに過ごすことは、単純にもったいないとは思います。
何をすべきか、正解は分からずとも、これをすると自分で決めて、それに向けて行動することはできます。行動することで何かを得ることができると思いますが、自分の意志で行動しない限りはほとんど何も学べません

この本でも、何度も、悩んでいる暇はもったいないので、目的を持って具体的に行動することを勧めます。プロになるべきとも言いませんし、なれるとも言いませんが、プロになるまでにはこういうハードルを超えていく必要があるのでなりたいのであれば具体的にこうすべき、と冷静に勧めます。

長く描く時間をつくりたいので、とりあえず大学(もしくは高校)までは行けるように必要な勉強をする、と決めてもいいですし、覚悟があるならこの道のプロになると決めても構わないと思います。とにかく、決めてそれに向けて行動をしてみて、修正が必要であれば、決めたことに修正を加えればいいと思います。
ただ、何も決めないまま、漠然と時間を過ごすのはもったいないように思います。

大人だって(きっとこの本の著者だって)何が正解かなんて分からないけれども、行動のために何かを決めるところから始めてるのだと思いますし、そのちょっとした最初の勇気を持てるかどうかが大きな違いを生むのだと思います。

再び、今何をすべきか

とりあえずでいいので何か目標なり何なりを決めてしまって、再び今何をすべきかを考えると、逆算的に自ずとやるべきことが決まってくると思います。
逆算のための情報(例えばこの本や、ブログや動画など)はいろいろなところにありますし、先輩や親に相談してもいいと思います。
今何をすべきか、は何かを決めた後でしか見えてこないのかもしれません。

この本では、具体的こう言うことをしてこういう力を身につけよう、というのが書いてあってとても参考になったのですが、翻って自分のことを考えてみると、完璧にできているとはとても言えません。
建築の造形力を身につけるためにすべきことはまだまだたくさんあったと思いますし、あの時、原くんがスラスラ絵を描くのに憧れて、練習しようと思いつつも、こういう本を買うのに20年も掛かってしましました。
今もやりたいこと、やらなければいけないことだらけです・・・。

この本、もっと楽しさを大切にしてもいい、という本だと思うのですが、結局長男への小言みたいな文章になってしまいました。

それよりもう一度原くんに会ってみたいなー。今頃どうしてるんだろう。




ARGN 写真等アップ+パノラマ

姶良の家は無事オープンハウス終了しました。ご来場頂いた皆様、ありがとうございます。

実績のページに写真等をアップしましたので御覧下さい。
 
 
 
また、リンク先の一番下にもつけてますが、360°カメラを使ってパノラマ写真とCGとの比較や、パノラマ動画を作ってみまっした。

▼オープンハウス時に作成したパノラマツアーと、検討時の3DCGパノラマツアーです。
新しいタブで開く

▼360°カメラで撮ってみたウォークスルー動画。
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姶良の家 オープンハウス

お施主様のご好意により8/1(土)2(日)の2日間オープンハウスを開催させていただきます。
時間は10:00~16:00予約不要です。
こんな時期ですのでたくさんの方に来てくださいとは言いにくいですが、いつものようにひっそりとやってますので気が向いた方はいらして下さい。
できる限りの予防対策をしてお待ちしております。

8/2(火)~7(金)の間で見学したい方がいらっしゃいましたら、問い合わせフォームよりご連絡下さい。




ファーストプレゼンについて~図面とCGと模型で、敷地のポテンシャルとイメージを共有する

ファーストプレゼンに時間をかけている訳

特別なケースを覗いて、通常は最初のヒアリングから1ヶ月程度の時間を頂いて、一つの案をじっくり検討してからプレゼンさせていただくようにしています。

簡単なプランは数日でも作成できるのですが、短い時間で考えた案をすぐに見せてしまうと、お施主さんも私自身もその案にイメージを引っ張られてしまい、様々な可能性を狭めてしまうことがよくあります

そのため弊所では最初にある程度の時間を頂き、敷地のポテンシャルを最大限引き出して、そこでの生活のイメージが湧くような案を、自分なりに納得できるところまで詰めてからプレゼンさせていただくようにしています。

図面とCGと模型で、敷地のポテンシャルとイメージを共有する

と言っても、ファーストプレゼンの案はあくまで最初のたたき台という位置づけで考えています。

その後打ち合わせを重ねて案が大きく変わることもありますし、ほとんどそのまま最後までいくこともありますが、それはどちらでも良いという考えです。

ですが、その敷地や予算などの条件でどんな大きさの建物ができるのか。また、どんな生活のイメージを描くことができるのか、その規模感のようなものを最初にお施主さんと共有しておきたい、との思いから、それを、できるだけ分かりやすく伝えることにかなりの時間を割くようにしています。

それを最初に共有できていれば、その後の打ち合わせもスムーズに進みますし、建築の専門ではない一般のお施主さんとそれを共有するには、それなりに準備が必要です。

例えば、弊所では、それを伝えるためのツールとして図面・CG・模型の3つを使用しています。(今後技術の変化等で変わるかもでしれませんが。)

STGI(下竜尾町の家)を例に説明します。

図面

一番オーソドックスなのは図面です。
平面図に配慮した点などを列記したり、具体的な断面図を描いたり、外観や内観の分かるパースを入れたりと、その敷地にこういう建物を建てることでどんな生活が可能になるか、をできる限り分かりやすく伝えるように心がけています。

CG

今は検討段階から3Dモデルのデータを作り込み、そのモデルの中を歩き廻りながら案を詰めていく、という手法をとっているので、ある程度案が固まってくる頃には3Dデータが作り込まれている状態になっています

図面のパースもCGですが、その状態からパースやアニメーション、パノラマツアーなどさまざまなものを取り出す作業はそれほど大変ではなくなってきています。

ですので、それらを使って、実際にそこに立った時のイメージをできる限り分かりやすく伝えるように心がけています。

例えば、下記のページではパノラマツアーとして、特定の地点に立った時の360°画像を移動しながら確認できるようになっています。
STGI パノラマツアー
(スタートをクリックして下さい。青緑の丸をクリックすることで視点の移動が可能です。)

また、下記のページではモデルをぐりぐり動かしたり、すきなところで切断したり、VRゴーグルをつけて歩きまわったりできます。(使い方は省力しますが)
STGI VWモデル

模型

また、最初の段階で1/50スケールの大きめの模型をできるだけ作るようにしています。

模型はなんと言っても手にとって自由に見ることができるので、建物イメージを一番リアルに感じることができます

また、スキップフロアーなどの複雑な断面形状を採用することも多いので、全体の構成を掴むには俯瞰して眺めることができる模型が一番です。

場合によりますが、内部もある程度作り込むようにしているので、1/100ではなく、1/50スケールを採用することが多いです。


 


 
こんな感じで、ファーストプレゼン時点でその敷地での可能性がなるべく伝わるよう心がけています。




STGI 引き渡し+写真アップ

下竜尾町の家を、本日無事にお引渡しできました。

崖に対する対応や、コロナ、長梅雨等もあり、お引渡しまで時間がかかりましたが、その分愛着もひとしお。
いつものことですが、現場を離れるのは少し寂しくもあります。(子どもが独り立ちするときもこんな感じかもしれません。)

とは言え、これからどんな風に住まわれていくのか、とても楽しみです。

入居後に再度撮影させて頂く予定ですが、仮に撮影したものをこちらにアップしましたので御覧いただければと思います。




雑木林

6年前に『雑木林と8つの家』プロジェクトで建てた姶良の家に、ちょっとした現調がてら行ってきました。

ここは8つの敷地と共用の広場の街区を雑木林と見立てたもので、竣工当時はほとんど植栽がなかったのが、だいぶ雑木林っぽくなっています。

建物もだいぶ緑に埋もれてきていい感じです。

ここは本当に子どもたちの記憶に残るんだろうなと思います。




腹落ちのための経営理論と36の指針 B230『世界標準の経営理論』(入山 章栄)

入山 章栄 (著)
ダイヤモンド社 (2019/12/12)

『建築と経営のあいだ』を読んだ後くらいに、知り合った人のフェイスブックで見かけたので即購入。

『建築と経営のあいだ』についての感想を書く前に、まずはこっちを読もうと思ったのですが、800ページ以上の大著。なかなか時間が取れずにちびちびと読んでいるうちに何ヶ月も経ってしまいました。

前編

腹落ちのための理論書

これほど、意図の明確な本もなかなかないと思うのですが、本書の目的は「世界の経営学の主要理論のほぼすべてを、複数の分野にまたがって体系的に解説すること」で、狙いは「本書で紹介した経営理論を「思考の軸」として活用してもらうこと」とあります。

30もの世界標準とされる経営理論に加え、理論とビジネス現象との関係性や経営理論の組み立て方・実証の仕方が、およそ800ページに渡り解説されているのですが、一冊を通して「理論を活用してもらう」という視点はブレることがありません。

また、ビジネス書でよく見るような、テンプレート化されたフレームワークはほとんど取り上げられていません。
フレームワークは理論の一部が形となったもの、と言えるかもしれませんが、それはwhyに応えてくれるものではないため、徹底的に理論が腹落ちすることにこだわる本書では意図的に取り上げなかったようです。

これまで、経営に関わるガイド的な本を手にとっても何かすんなり入り込めないものを感じていたのは、この腹落ちの部分が抜けていたからかもしれません。
そういう意味では今、出会うべくして出会った本のように思います。

答えはこの本の中にはない

網羅的に理論が解説されているからといって、この本の中に答えがあるわけではないです。

実際、ある理論と理論が矛盾し、相反するようなこともかなりあります。

それは、経営に関わる多様な人の営みを一つの理論として切り出すためには、何らかの前提を設けざるを得ないからですが、その前提・視点の違いは経済学、心理学、社会学といった理論の基盤となる分野の違いに根ざすものでもあるようです。

この本によって得られるものは、答えではなく、あくまで、経営を多様な視点から考えるための「思考の軸」なのであり、だからこそ変化の激しい現代社会において必要なものなのだと思います。

経営と建築

経営と建築は、
明確な答えが存在せず、絶えずいろいろな可能性に開かれているものであるが、その中で常に意思決定を積み重ねなければならない。
突き詰めると『人とは何か』という問いにいきつく。
という点で似たような性質をもった分野のような気がします。

経営者がみな経営学に精通しているわけではない。同様に設計者が例えば建築計画学に精通しているわけではない。
という点も重なる部分かもしれません。理論を知らずとも経験と勘である程度はカバーできますが、意思決定の精度を上げるためには「思考の軸」が大きな武器になる、ということは間違いないと思います。

しかし、最後に著者は「思考の軸に必要なのは、経営理論を信じないこと」と言います。
理論を信じそれを当てはめるだけでは考えたことになりません。
大切なのは、思考の軸となる理論を足がかりに、目の前の問題を自分の頭で考え、意思決定をし続けることなのだと思います。

(コロナによって様々な前提が無効になってしまった今、これまでに書かれた本がどこまで有効なのか疑わしくなってしまいましたが、だからこそ、理論を鵜呑みにせず、自分の頭で考え続けることを説く本書の意味はより大きくなっているかもしれません。)

理論を自分のものにする

とはいえ、まだ一通り目を通したに過ぎません。
しばらくは、理論を思考の軸とすべく、じっくり読み返してみようと思います。おそらく、それを自分の問題としていろいろと考えてみることでゆっくりと自分のものになっていくように思います。

また、ここで解説されている理論のそれぞれが『人とは何か』という問いに対するエッセンスだと思うので、それを建築に置き換えてみることで新たなイメージが湧くような気もします。

すぐに建築に置き換えることばかり考えることは悪い癖なのかもしれませんが、結局はどの分野も『人とは何か』という問いに遡ります
他の分野で生まれたぼんやりとしたイメージと別の分野で生まれたイメージが重なることはよくありますし、そういう発見が本を読む一つの醍醐味のようにも思います。

~(前編)は本書の全体的な印象について書きましたが、(後編)はもう一度読み直した後にもう少し内容に触れて書いてみたいと思います。

後編

36の指針

各章ごとにノートにまとめながら、それぞれの章から自分の思考や行動の指針となりそうなものを、ワンフレーズかツーフレーズで取り出すことを試みてみました。
慣れない分野で、かつ自分の関心が偏っていたり、自分の事業形態とは関係の薄いものがあったりしているため、内容に偏りや誤りがあるかもしれませんが、個人的なメモとして列記しておきたいと思います。

■人間は合理的な意思決定を行うと仮定する。

  • 完全競争の条件の逆を張れ。真似ができないように差別化を図り、価格をコントロールせよ。
  • リソースなしにアウトプットはつくれない。まずはリソースを押さえよ。
  • 企業の競争にはいくつかの型があり有効な理論が異なる。まずは型を見極めよ。
  • スクリーニングやシグナリング等で逆淘汰を解消し、情報の非対称性を味方につけよ。
  • 目的の不一致と情報の非対称性を乗り越え、モラルハザードを解消せよ。
  • 取引で発生するコストを最小化する形態・ガバナンスを発見せよ。
  • 互いに読みあった先に何が起きるかを分析し意思決定せよ。
  • 不確実性の高い状況では、将来のオプションをデザインすることで不確実性を解消し味方につけよ。

■組織・人間の認知には限界があると捉える。

  • うまくいっているときほど目線を高くしサーチせよ。
  • 知を活用させるために深化させるだけでなく、意識的に新しい知を探索し、両利きの経営を目指せ。
  • 知の保存と引き出しを仕組み化することで、組織の記憶力を高めよ。
  • SECIサイクルをまわすことで、形式知だけでなく暗黙知を活かして知を創造するループをつくれ。
  • ルーティンによって認知負担を減らしつつ、ルーティンを進化させよ。変化の時には新しく作り直すことも考えよ。
  • 変化し続けられるための実践の仕組み・シンプルなルールを設計せよ。

■個人の認知に焦点をあてる。

  • 状況に応じたリーダーシップの方法を考えよ。また、全員をビジョンを持ったリーダーとせよ。
  • 高いモチベーションを維持できるよう設計せよ。願わくばそれぞれがビジョンと他者視点を持てるようにせよ。
  • メンバーの多様性を高めて、個人の認知バイアスを組織で乗り越えよ。
  • 意思決定に絡むバイアスを意識せよ。しかし、時には理論より直感を重視せよ。
  • 認知をずらすことで状況に求められる感情をコントロールし、感情を隅々にまで伝播させムードをつくれ。
  • 行動からサイクルをまわして多義性を減らすことでセンスメイクし、ストーリーまで練り上げることで足並みを揃えよ。

■つながりと社会性のメカニズムに焦点をあてる。

  • 企業を超えて多様なネットワークを築け。
  • 強いつながりだけでなく、弱いつながりによってネットワークを変化させ、クリエイティビティにつなげよ。
  • 複数の縦軸を行き来することで、異なる領域のプレイヤー間の媒介となれ。
  • 弱いつながりと強いつながりのバランスをとることで、ネットワークの便益を得つつ、フリーライダーを押えた公共財の場を目指せ。
  • 自フィールド内のビジネスの常識を疑ってみよ。必要であれば塗り替えよ。
  • 依存度のアンバランスを脱却し、飛躍せよ。
  • 社会を大きな生態系と捉え超長期的な視点を持て。必要ならば新しい生態系に飛び込み、そこで社会の正当性を獲得せよ。
  • 組織内の淘汰・選択プロセスをデザインし、多様な人材・情報によって変化せよ。また、他の生態系の活力を取り入れ進化せよ。
  • 競争の中に身を置くことで共に進化せよ。ただし、環境の変化が大きい時にはライバルではなく自身のビジョンを競争相手とせよ。

■ビジネス現象と理論をつなぐ。(本書にはそれぞれのビジネス環境と経営環境の関係を示すマトリックスが載っています。)

  • 相反する理論を高次に組み合わせて、イノベーションを前提とした戦略を立てよ。
  • 環境の変化を捉えた上で理論を駆使してイノベーティブな人材を育てマネージメントせよ。
  • 多様な利害関係者を前提とした上で、理論を駆使して最適なガバナンスを考え抜け。
  • 国境に囚われ過ぎずに、理論を軸としてグローバルに考えよ。
  • 起業には何が必要でどこに進出すべきかを理論を軸に考えよ。
  • 企業の存在範囲・あり方を理論を軸に考え抜け。時には「永続を目指す」こと自体、資本主義すら疑え。
  • 理論はビジネスの全体を描けない。最後は、それぞれの理論を拡張し、組み合わせて、自らビジネスをデザインせよ。

まとめながら、いくつかの人(組織)の顔が何度も頭に浮かび、この人(組織)のここがこれにあてはまるな、と思いました。
必ずしも理論が先にあるわけではないと思いますが、活躍している人にはその理由があることが分かり、いろいろな点で腹落ちしました。
これからは、じっくり自分なりの応えで埋めていこうかと思います。

経営学とこれまで考えてきたこととの共通点

全体を通して読んでみると、古典的な経済学の「どうすれば安定した持続的な競争優位を獲得できるか」という論点が、「どうすれば変化する環境に合わせて企業自体が変化し続けられるか」へと移っていく流れがくっきりと浮かび上がってきます。

それは、環境をサーチ(探索)し、それに合わせて行動(変化)していくサイクルをどうやってうまくまわすか、ということだと思うのですが、これまでここで考えてきた、設計論、アフォーダンスやオートポイエーシスの考え方に驚くほど重なりました

オノケン│太田則宏建築事務所 » 実践的な知としてのオートポイエーシス B225『損傷したシステムはいかに創発・再生するか: オートポイエーシスの第五領域』(河本 英夫)

ここでイメージされるのは、次のようなサイクルである。
まずある場面で、何らかの行為を選択し「踏み出す」。ここで経験が起動するが、その踏み出しは経験の可動域を拡げるようなもの、また行為持続可能性の予期を感じさせるものが候補となる。
「踏み出す」ことによって、行為とともに何らかの「感触」が起こる。これは「踏み出す」ことによって初めて得られるものである。
この「感触」は連動する顕在システムや潜在システムとの媒介変数となり、複合システムの中を揺れ動く。そしてその中で次の行為の起動を調整するような「気づき」を得る。
その「気づき」は次の「踏み出し」の選択のための手がかりとなる。
つまり、「感触」によってカップリングとして他のシステムに関与すると同時に、他のシステムからも手がかりを得ながら、サイクルを継続的に回し続ける。
このサイクルによって複合システム自体が再組織化され、新しい能力が獲得される。ここで、新たなものが出現してくるのが創発、既存のものが組み換えられるのが再編である。


この図は上の引用元のページで書いたものですが、同じような図で、例えば「知の探索・知の深化」「SECIモデル」「ダイナミックケイパビリティ」「センスメイキング」「VSRSメカニズム」などもまとめられるように思います。

ビジネスは「  」のために

著者は、経営理論は部分のwhyに応えるものであるから、ビジネスそのものを説明できない。また、ビジネスの目的は何か、という問いに対する世界共通のコンセンサスを持っていないと言います。

最後は理論を武器(軸)にして、自らビジネスをデザインしないといけないのだと思いますし、そこが面白いところなんだろうなと思います。

第5部『ビジネス現象と理論のマトリックス』の最後、著者はこう問いかけます。

さて皆さんなら、この下線部には何を入れるだろうか。
“Law is to jusutice,as medicine is to health,as business is to ___.”(p.737)
法は正義のために、医学は健康のために、そしてビジネスは「  」のために。(p.732)

自分は建築をやろうと決意した時からこう決めています。
 ビジネスは「未来の子どもたち」のために。

皆さんなら何と入れるでしょうか。




下竜尾町の家 珪藻土塗りDIY

下竜尾町の家、恒例の珪藻土塗りDIYしました。

お施主さんの所属しているフットサルチーム関係の仲間に集まってもらいました。(僕もそのメンバーです)
施工会社の助人入れて総勢11名。
今までで面積的にも複雑さ的にも一番だったので、助かりました。

珪藻土塗りの経験者、甑島里の家のお施主さんも参戦。(→甑島で珪藻土DIY

3チームに分かれて塗っていきました、

足元の悪い最上階は僕が塗ることにしたのですが、養生で窓を締め切っていたので、熱気が上に登ってきてサウナ状態。すぐに汗だくに。

みなさんの頑張りでなんとか塗り終えることができました。

乾いて養生剥いだらけっこういい感じになると思います。

↓施工会社さんが動画撮ってインスタにアップしてたので、簡単に編集してみました。




EMARF3.0サービスを使ってみました

EMARFのサービスを使ってみました。

詳細はnoteに書いたのでそちらを御覧ください。

EMARF3.0サービスを使ってみた。|VECTORWORKS覚え書き|note




SNGN 写真アップ


SNGNの写真アップしました。
実績のページより御覧下さい。




千年の家、ムービー撮ってみました。

日程やコロナの関係でオープンハウスはできなかったのですが、お施主さんの了解を頂いたのでムービー撮ってみました。

上下にぶれたり、ピントが外れたり、課題もたくさんですが。

もう少し短くまとめた方が良かったかなー。




SGGA 写真アップ


SGGAの写真アップしました。
実績のページより御覧下さい。