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 二-十七 都市―体験の空間的・時間的レイアウト

体験のレイアウト

建築単体ではなく、都市という視点で出会いを考えた時に、建築と都市はどう考えることができるだろうか。

まず、単純に建築を都市の側から見た時に、どんな意味や価値が見いだせるか、どんな出会いがあるか、という視点がある。建築はそれを直接利用する人だけでなく、道を歩く人や、そこに住む人、観光に訪れる人にとっても意味や価値がある。例えば、道を歩く人が、建築の固有性を感じ取ったり、そこに住む人の生活を感じたりすることで、まちに愛着や親しみを感じたりするかもしれないが、そうして生まれる出会いの集積、体験のレイアウトが「私たちである」という領域をかたちづくる。

もしかしたら、都市とはそういう体験のレイアウトがかたちづくる領域のことなのかもしれないし、一つ一つの建築がそのレイアウトを構成しながら、その構成に変化を与えている、という視点も重要だろう。

もちろん、その体験のレイアウトは、個人としてのものだけではなく、多くの人にとっての意味や価値が重ね合わせられながら、社会的・歴史的に積み重ねられてきたものでもある。それが固有性を持ち、出会いのきっかけを豊富に持っているかどうか、がその都市の性格を方向づける。

ここで、例えば萌芽、余白、流動、更新、喪失、参照、標、刻印、遮蔽、隅などといった言葉が頭に浮かぶが、都市は、体験が空間にレイアウトされるだけではなく、時間的にもレイアウトが変化しながら動き続ける。もし、そこにある建物が喪失されたとしたら、都市における体験のレイアウトはそれに応じて変化するだろう。

人は建築で、都市に出会う。そこには体験の空間的・時間的レイアウトがある。




 二-十六 概念―埋め込まれた思考

思考のサイクルと出会いの密度

思考とは自己と自己との言語を介した出会いの循環、そこで生成された言葉と出会うことで、次の言葉を生成し、またその言葉と出会うというサイクルである。

それは出会いの高速循環であり、圧縮された意味と価値、いうなれば概念のようなものを生む。それは物理的なものではないが、人間にとっては特別な出会いを生むものである。

建築の中にも、それをつくる際にガイドラインとなったような概念が埋め込まれている。その結果としての建築と、体験的、直感的に出会うことももちろん出来るけれども、基になった概念にアプローチし出会うことができれば、、その概念を自らの思考のサイクルに取り込むこともできる。比喩的に書くならば、そこに至る思考プロセスの圧縮されたデータが建築に埋め込まれており、それを自らの中で解凍することで、引用したり改変したりと再利用が可能となる。そのデータの圧縮と解凍の精度は作り手や受け手の技量に大きく関わると思うが、そのデータ量、すなわち、思考のサイクルをどれだけ繰り返したかの違いは、誰にとっても分かりやすい要素なのではないかと思う。

その建築に至るまでどれだけ思考をしたかは、その思考をトレースできなくても(データの中身が理解できなくても)出会いの密度として直感的に感じ取られるものだと思うのだ。

人は建築で、埋め込まれた思考とその密度に出会う。




 二-十五 社会・歴史・文化―時間と空間を超えて

時間と空間を超える

前に書いたように出会いは、個人や、時間、空間などさまざまなものを超える。

言い換えると、(私、いま、ここで)を超える。私はこれを建物が建築になるための一つの要件だと考えているのだけれども、(私、いま、ここで)を超えるということは、それによって(私、いま、ここで)を支えることでもある。関係性を持つこと、相対的であること、すなわち他者との出会いががなければ、(私、いま、ここで)にも出会えない(意味や価値が見いだせない)のだ。

(私、いま、ここで)を超えて、皆とともにいること、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること。それらは、いずれも他者との出会いの中にあってはじめて生まれるものである。

建築は、個人や、時間、空間などさまざまなものを超えて出会える他者となれるものである。そして、それによって(私、いま、ここで)との出会いを支えることが出来る。

人は建築で、社会や歴史、文化と出会い、それによって(私、いま、ここで)とも出会う。




 二-十四 オノマトペ―出会いの形式

体験的な言葉

擬声語・オノマトペなどの言葉は曖昧で物質的に明確な輪郭を持たず、絶えず出会いに対して開かれていながら、何らかの出会いの形式を指し示している。

例えば、ある建築を体験した時に「ぐるぐる」という言葉が浮かんだとする。そこには渦のような場の流れと同時に、淀みのような流れに守られた場があるのかもしれないし、逆に言えば、「ぐるぐる」というような体験的な言葉が浮かぶ建築は、それに相応しい出会いの形式を備えているということかもしれない。おそらく、こういう建築は、体験的にその建物の構成を感じ取りやすいのであろうし、そこに出会いの悦びやリアリティが生まれる可能性は高いように思う。

人は建築で、体験的な言葉と出会う。




 二-十三 構成―意味の現れとずれ

現れとずれ

構成とは建築の部分と全体の関係性のことである。

建築にはいろいろな構成が考えられるが、構成は意味の現れとずれによって出会いのきっっかけとなる。

例えば、動物や植物がどのような部分と全体の関係性でできているかを考えた時に、その構成には何らかの意味、もしくは必然性のようなものが読み取れる。同様に、建築の構成に、意味や必然性のようなものが読み取られた時に、そこに出会いが生まれる。

その意味は必ずしも機能的なものである必要はないけれども、例えば、窓の形状や壁の仕上げ、その他諸々の部分による構成によって、劇的で気持ちのよい光を体験できたとする。そして、その光がまさに建築の構成によって生まれたと、無意識にでも感じ取ったとすると、そこには光との出会いと同時に構成との出会いがある。そして、その出会いの重なりによって、出会いに感じる悦びとリアリティはより大きなものとなるのではないだろうか。

また、例えば、動物の形態にはキリンやゾウなどのように、一般的な構成の論理から外れるような、大きな特徴があるものが多いように思う。このずれは、意味や必然性の現れが極端に出たものでもあるだろうが、その極端なずれによって全体の構成が乱され、新しいバランスの構成が必然的に導かれている。

私たちが動物園に期待するのは、それぞれの動物の姿に見られる、意味の現れやずれ、それに伴う独特な構成の緊張関係などであり、その構成の不思議なほどに多様なバリエーションなのかもしれないし、そこはきっと、出会いの悦びに溢れているに違いない。

同様に、建築の構成に、既存の構成からのずれがあることは出会いのきっかけとなるだろうし、それによって新たに導かれた構成は、建築に固有性を与え、出会いをより持続的で活発なものとするだろう。

人は建築で、建築の構成、意味の現れとずれに出会う。




 二-十二 生活―意識を超えた豊かさ

生活に根ざした多様な出会い

生活という言葉には何か意識を超えた豊かさにつながるイメージがある。

生活とは日常における出会いの連続のことである。それは、生きることの基礎であり、直接的なものであり、文化や技術などの公共的な蓄積の基盤である。

生活には本来、出会うことによる悦びや生きることのリアリティが豊かに含まれているものであった。しかし、利便性などを追求する時代の流れの中で、生活の中の出会いの地位は低くなってしまっているように思う。そこでは、生活に本来含まれていた出会いの豊かさは、意識という枠の中に閉じ込められている。

建築における生活のあり方も、出会いを閉じ込めようとした結果であるか、出会いを歓迎した結果であるかで大きく異なってくるし、当然、それを体験する人にとっての出会いの質も異なってくる。後者の建築には、生活に根ざした多様な出会いがあり、意識を超えていくことの爽快さがある。

人は建築で、生活の意識を超えた豊かさに出会う。




 二-十一 遊び―出会いの作法

誤差と遊び

何かをするときには必ず予測とは異なることが起きる。

例えば、理想が先にあってそれに向けて何かがなされるときには、その誤差はネガティブな要素、痛みとなる。そこでは、誤差はあってはいけないものであり、なかったことにするために全力が尽くされる。

一方、その誤差を、環境から受け取った情報と捉えると、それはポジティブな要素、何かを想像するきっかけとなる。そこでは、誤差は自分とは異なることを楽しめるような遊びの対象になり、そこに出会いが生まれる。

つまり、遊びとは出会いの作法であるといえる。

例えば、建築の中に予測を裏切るような遊びの要素があるとする。その遊びの要素は人の出会いに対する感度を鋭敏にし、それまで気付けなかったことに着付くきっかけを与えるかもしれない。

また、例えば、建築の中に一般的に痛みの要素と捉えられがちなネガティブなものが、遊びの要素へと変換された痕跡を見つけた時、可能性が開かれたような爽快な気分になることがあるかもしれない。その、痛みから遊びへの転回の痕跡と出会うこと自体も一つの悦びである。

人は建築で、遊びと出会う。




 二-十 アート―知っていたはずのものとの出会い

既に知っていたはずのものとの新鮮な出会い

ここでいうアートとは表現者の主体的な表現ではなく、既に知っていたはずのものとの新鮮な出会いを与えてくれる何か、のことである。

それは、日常の中に既にありながら、通り過ぎてしまっていたような意味と価値に出会うきっかけを与えてくれるものである。出会いを活性化し鮮やかに浮かび上がらせてくれるもので、それは出会い技術の一つと言って良いように思うし、そこにはやはり、出会う悦びや生きることのリアリティがある

建築には本来、限りない出会いの可能性があるはずである。しかし、それらの可能性のほとんどは隠れたもので、気付かずに通り過ぎてしまうものだろう。そんな中で、何らかのかたちで、その可能性を出会いとして浮かび上がらせるものがアートだとすると、アートは建築の中の可能性を開放し、人に悦びやリアリティを与えてくれる。だとすると、建築にはアートこそが必要なのかもしれない。

人は建築で、知っていたはずのものと新しく出会う。




 二-九 ふるまい―いきいきとしたモノたち

モノのふるまい

ここでいうふるまいとは、出会いとそれに伴う行為の現れのことである。これまで、主にそこにいる人が何とどう出会うのか、ということを考えてきたけれども、ここでのふるまいは人のふるまいに限らない。
例えば、窓やテーブル、階段、手摺などの建築の部位やモノ、都市における建築物や、光や風、雨といった自然など、さまざまなもののふるまいが考えられる。もちろん、例えば雨が何かしらの判断・選択をするわけではないので擬人的な表現に違いないのだけれども、雨が、あたかも何かと出会い、行為をしているように見える場面はあるように思うし、その時、その雨のふるまいを通じて、間接的に雨が出会ったであろうものと出会うことができる。
そういういろいろな出会いを含んだふるまいを見せるモノは、いきいきとしているようにみえるだろうし、そこには、いきいきとしたモノたちとの出会いの悦びがある。

また、多くの時間を経て獲得されたふるまいというものもあるだろう。擬人的に例えて、新しく出来た建物のふるまいが青年のそれだとすると、その地域の昔ながらの建物のふるまいは、いろいろな経験を通じていい塩梅にバランスした、味わい深い長老のふるまいのようなものかもしれない。

建築には多くの要素が含まれている。もし、それらの要素のそれぞれがが、お互いに影響し合いながら生き生きとしているとすると、その建築は多様な出会いに溢れ、悦びに満ちたものである、と言えるかもしれない。

人は建築で、いきいきとしたモノたちのふるまいと出会う。




 二-八 技術―出会いの方法

新鮮な出会い

技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。言い換えると、技術とは新鮮な出会いの方法である。

また、住宅など日常使いの建築の場合、常に新しい発見として出会うことは難しいかもしれない。しかし、一度生じた出会いの新鮮さは、「私である」と感じる領域の一つの要素としてある程度定着するように思う。であるから、出会いにはその瞬間のものだけではなく、経験として「私である」と感じる領域に定着したものも含まれる、と考えられるし、その出会いが新鮮であればあるほど「私である」と感じる領域は強くかたちづくられ、愛着や親しみと言った付随的な感情も増すように思う。

重ね合わせ・保留・ずらし

では、建築において新鮮さを伴うような出会いの方法にはどのようなものがあるだろうか。他にもたくさんあると思うが、3つほど列挙したい。

一つは出会いが重ね合わされたものである。例えば、一つのもの、要素にいくつもの意味や価値が重なりあって内在しているデザインに何とも言えない魅力を感じることがある。いくつもの可能性、環境との関わり方が埋め込まれており、自由さや不意に意味を発見する悦びとつながっている。

あるいは保留されたもの。例えば、完全に計画されたものではなく計画を保留されたある状況の中で、何らかの出会いと行為のサイクルが生まれ、その結果として、環境がさまざまな出会いを内包するに至ったとする。その環境に直面した時、何ともいえない魅力を感じる。これは、いわば自然に積み重ねられた技術と出会う悦びである。
全てを計画し切る建築というものはありえないだろうし、生活の中で不意に訪れる出会いは、ある状況から無計画に発生した環境にあることが多いように思うのである。

もう一つはスケールでも書いたようなずらされたもの。ずれそのものが新鮮さを伴うものであるし、ずれは、出会いの感覚を継続的なものとして定着させるように思う。

人は建築で、新鮮に出会う。




 二-七 スケール―橋渡しとずれ

スケールの橋渡し

生物の進化、人間の社会や歴史、科学的技術の利用等を考えると、体験可能な空間的スケール・時間的スケールの幅はミクロからマクロまで限りなく幅広い。しかし、日常的に体験する空間的スケール・時間的スケールは行動単位で考えればせいぜい日~秒、キロメートル~ミリメートルの範囲であるし、その幅は限定的なものになりがちである。多くの人はかなり限定的なスケールに出会うだけで一日が過ぎてしまうことが多いのではないだろうか。

毎日の自分の生活のスケールだけに浸かっていると、それが世界のすべてだと錯覚してしまいそうになる。そんな時、大きな空のスケールに触れると、自分のスケール感をリセットできる。時には空のようなスケール、時には小さな花のようなスケールに触れるのは大切なことだろう。

例えば、建築の中に日常的なスケールとは異なるスケールと出会えるようなきっかけがあるとしたら、建築は日常のスケールとミクロやマクロなスケールとの橋渡し役となれるかもしれない。

スケールのズレ

また、建築の中に日常的なスケールとは微妙にずれたスケールがあるとすると、そのスケールとの出会いは何らかの意味をまとうように思う。空間的なスケールでも時間的なスケールでも良いと思うが、先に書いたようなその場の流れに相応しいスケールとは微妙にずれたスケール、たとえば建築の中に都市的なスケールが紛れ込んでいたとすると、建築の中に都市が流れ込むような場の流れが生まれるかもしれない。

そういったさまざまな空間的・時間的なスケールの混合した状態は、その場での出会いを活性化するだろうし、それは出会い、すなわち意味や価値が多様にある、という意味で望ましいことのように思う。

人は建築で、さまざまな空間的・時間的スケールと出会う。




 二-六 流れ―レイアウトと法則

流れのレイアウト

「私(私たち)である」と感じる領域の中には、その場所ごとの出会いの質とそのレイアウトによって、流れのようなものが生まれる。

その場所の出会いが、例えば見回す、歩き回る、見つめる、立ち止まる、座る、触る、食べる、などの行為に関わるものであるとすれば、それによって流れの方向が生まれる。そして、その流れのレイアウトが、「私(私たち)である」と感じる領域の中に流れの場を作り出す。

その場は例えば(探索的な)移動を促し出会いを活性化するような質のものもあるだろうし、そこにじっと立ち止まり、直接的な出会いの質を静かに高めていくことを促すような質のものもあるだろう。そのレイアウトはある程度の部分が建築によって生み出されるものだと思うが、決して固定的なものではなく、「私(私たち)」によってその都度経験的に発見される自在さをもったものであり、そういった自在さを含めて、その場に特有の流れというものがあるように思う。

流れのスケール

また、エイドリアン・ペジャンによると、あらゆる流れが、より良く(より早く、より容易に、より安く)流れるように進化し、それは、最も多くの流れをより早くより遠くまで動かす流れと、もっと少ない流れをもっとゆっくりもっと短い距離だけ動かす流れの2つで構成され、それらの流れに要する時間は等しくなる。また、このの構成は階層的・入れ子的に多くのスケールの構造となり、それぞれのスケールにふさわしいデザインとなる、という。

これを建築の出会いと流れに当てはめて考えてみると、流れはその場のスケールにふさわしい大きさと速さとデザインとなる。例えば、都市のスケールではその場はより大規模に早く流れ、建築のスケールでより小規模にゆっくりと、よりヒューマンな体験として流れる。それらは分断されたものではなく、一連の流れであり、それぞれのスケールに対してふさわしいかたちをとる。例えば高速道路の脇に、普通の住宅が普通の配置デザインで建っていたとしたら、おそらく異様な光景だろうし、きっとその流れの速度に相応しい住宅のデザインがあると考えるはずだ。同様に、身の周りの建物のデザインを見てみると、その場の流れに相応しいもの、流れとは全く無関係に見えるもの、いろいろとあることに気づくかもしれない。

このように考えてみると、都市と建築の関連と役割がぼんやりとではあるがイメージできる。その場のスケールに相応しい流れの場と出会うことによって、例えば都市と建築、さらに小さなスケールが一つの流れとしてつながることができる。

人は建築で、場の流れと出会う。また、その流れはスケールに対してふさわしいかたちをとる。




 二-五 移動―私のいる空間が私である

私のいる空間が私である

人は見渡す、歩きまわる、見つめるなどの探索的な移動(ここでは身体を動かさずに環境を探索するような行為や想像力も含む)によって、あらゆる場所に同時にいる、もしくはあらゆる場所にいることが可能、というような感じを得る事が出来る。それは、「私のいる空間が私である(ノエルアルノー)」というような感覚かもしれない。

この「私である」と感じるような領域は、想像力も含めた探索的な移動によって大きく広げることができる。

例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になるし、高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じるかもしれない。快適なテラスは家の中にいながら外部へ、そして空へとイメージを広げるし、さらに想像力をたくましくすれば空は地球上の全ての場所とつながってると感じられる。鹿児島のシンボル的な存在である桜島はそれが見えることで私たちのイメージを一気に引き伸ばしてくれる。

また、視線の先に階段があるとそれば、その階段を直接登れないとしてもも、階段は登ることを想像させその上の部分にまで私の領域を広げる。(これを場所のチラリズムと呼んでいた。)。

こんな風に、移動によって、「私のいる空間が私である」と感じるような領域は大きく広がるが、そこにはその領域を広げるような出会いの積み重ねがある。

そして、「私のいる空間が私である」と感じるような領域は社会的に共有できる。同じ景色を見ている、同じ場所に住んでいるというように、「私たちのいる空間が私たちである」と感じるような領域へと拡張できるだろう。この「私」から「私たち」への拡張は、その場所やへの愛着や他の「私たち」への親しみといった社会的な感情の礎になるように思う。

この「私である」と感じる領域、または「私たちである」と感じる領域は、おそらく探索的な移動の中で何とどれだけ出会えるかと関連があるだろうし、その領域をかたちづくる出会いの多くは建築に関わるものだと思う。

人は建築で出会い、「私である」と感じる領域、または「私たちである」と感じる領域をかたちづくっていく。




 二-四 自然―抽出と再構成

自然の再構成

光や雨・風・熱・緑・その他自然の要素はそれ自体が生きていくために必要な情報に満ちていて、意味や価値で溢れている。

まず単純に、人は建築で自然と出会う。おそらくそこでは、根源的な悦びややすらぎ、あるいは親しみのような何かと出会っている。

それに加えて、自然との出会いに感じる「何か」を観察し、その特質を抽出・再構成することで、その「何か」との出会いを建築として再現したようなものがある。

例えば、比例などによるプロポーションや、1/fゆらぎのリズムによる配置、あるいはフラクタルな構成など。

後期のコルビュジェはモデュロールによってより自由に振る舞えるようになったそうだけど、それは「何か」と出会うきっかけがモデュロールによって既に埋め込まれているからかもしれない。

また、まちの中には自然そのものの他にも、これまでの歴史の中で埋め込まれてきた自然性のようなものがたくさんあり、それによって悦びや、やすらぎ、親しみと言ったものが得られているのかもしれない。(ここでも、もしそれらがなかったら、と想像してみると良いと思う。)

人は建築で、自然そのもの、または再構成された自然と出会う。




 二-三 五つの探索モード―重なりと責任

探索モードの重なり

人の知覚をベースとした出会いの探索には五つのモードがある。一つは先に書いた「重力」との出会いを探索するモード。後の四つは、「見え」「音」「感触」「味と匂い」のそれぞれとの出会いを探索するモードである。

知覚をベースにしたそれらのモードは、実際には複数のモードによる出会いが重なりながら、一つの出会いの感じを生み出す。

例えば、洞窟の中に温泉があったとすると、そこでは、暗闇の中の水面の光といった「見え」、洞窟で反響した水の「音」、温泉独特の肌触りや温度による「感触」、硫黄の「匂い」などといったそれぞれでの出会いが、この場所に特有の感じ、固有性を与える。

建築はそれらの全ての探索モードに関わることができ、その重なりによる固有性と出会える重要な存在だと言えそうだ。

おそらく、そこで生まれた固有性と多様に出会えることは幸せなことだろうし、その機会をなくしてしまうことはもったいないことなんじゃないだろうか。だとすると、そこには次の世代に対する責任があるはずだし、建築における出会いの形式を守ったり、新しく考えたりすることには倫理的な意味があるように思う。

人は建築で、出会いの重なりによる固有性と出会う。そして、そこには次世代に対する責任がある。




 二-二 姿勢―重力の現れ

活動の基本としての姿勢

この世界は基本的には重力に支配されている。その中で、姿勢を保つことはあらゆる活動の基本であり、人は、どこを歩けるのか、飛び越えられるのか、座りやすい場所はどこか、ここで横になるのは安全で心地よいか、などと姿勢の可能性を絶えず探っている。

また、建築を含めたあらゆる物も重力に支配されている。人は、重力を介した物と物との関係性・姿勢からも重力の作用を読み取る。

例えば、建築家は力の流れを素直に表現して安定感を出したり重力を可視化しようとしたりするし、逆に、重力を感じさせずに浮遊感を与えたりして、重力との出会いをより強調したりする。

重力との出会いは、人間の活動の基本であるため、出会いの感じも強いものになりそうだし、それゆえ重要な出会いだと言えないだろうか。

人は建築で、姿勢・重力と出会う。




 二-一 素材―固有性と社会性

素材と固有性

まず、人は素材と出会う。
人は、その素材の特質・テクスチャから情報を抽出し、例えばどんな物質で構成されているのか、硬いのか柔らかいのか、曲げられるのか、壊れるのか、食べられるのか、といったさまざまな性質を特定する。それは生きていくために意味と価値を抽出していく過程と言える。

その先で、人は固有性と出会う。それがそれであること、いうなればものの固有性は、生きていくための環境を特定する上で不可欠なものである。逆に、固有の情報が読み取れないところに意味や価値を見い出すのは難しいだろう。固有性というのは、出会いにおいて意味や価値を見い出すための前提なのである。

一方、現在のものづくりの現場の多くはは大量生産による工業製品に覆われている。工業製品の理念は多くのものを同じ品質で生産することにあり、そこでは固有性のようなものは注意深く取り払われている。

これまで純粋な実感として、工業製品の多くは人々の気持ちを受け止める力が弱い、と感じていたのだが、この文脈で言えば、環境を特定する情報・固有性に乏しいため、意味や価値を見い出しにくくなっている、と言えそうである。例えば固有性に乏しい工業製品が年月を経て風化することで味が出たり愛着を感じることがある。風化と言えば否定的に聞こえるかもしれないけれども、徐々に固有性を獲得していった過程だと考えると肯定的に捉えられそうな気がしてくる。

ただし、工業製品の持つ役割や意味も理解できるし、大勢を占めている工業製品を全て悪、と決めつけるのも可能性を狭めてしまうように思う。また、固有性は素材だけから導かれるものでもない。素材そのものの固有性に頼らない場合でも、別のルートによって固有性を獲得し、意味や価値を発生させる建築というものがあるように思う。

また、固有性が出会いにとって重要だというのは、禅の思想にある、主客の分離を超え、あらゆるものを否定し尽くしてもなお残る「個」というものに近いように思う。

道元は「山是山(山は山ではない、山である)と言ったそうだ。

観念としての「山」ではなく目の前のそれがそれであるところの山を感じることが悟りの感覚である、というようなことだろうか。これは「山」という言葉によって、つい出会いが間接的なものになってしまいがち(「山」という言葉の示す観念としての「山」と出会ってしまいがち)なのを、目の前の山へと引き戻し、山そのものと直接向き合い出会えるように導く、ということではないだろうか。

固有性と社会性

また、固有性を持つことは社会性とも深く関係がある。

柄谷行人によれば、社会性とは異なる共同体との間に生まれるコミュニケーション、内面化されない他者との対話の間にうまれるものである。全てが内面化され、固有性を持たず、新たな出会いの生まれないところでは、対話は成立しないし、社会性も生まれない。

例えば大量生産型の住宅が「商品」となり、全てを客の内面化可能な範囲にコントロールしようとする方向で構造化されてきたことを考えてみよう。

このような「商品」としての住宅は、誰でも設計・施工することができて、たいていの客の理解の範囲内にあり、クレームを最小限に抑える必要性を満たすことが求められる。そうでなければ、多くの人に受け入れられるように商品として展開することができない。

そのため、そこで用意されるものや価値観は多くの客が内面化できるもの(またはそう錯覚されるもの)となるように、厳選の上コントロールされている。そこで与えられる価値観もそこから外れないように予め準備されているものだ。固有性を装うことはあっても、実際には固有性は取り除かれ、「内面化されない他者」となることは注意深く避けられている。他者となることを嫌う。それが商品化住宅の宿命である。

そういった場は新たな出会いに乏しく、その場との対話は生まれにくい。固有性を持たないもの、すなわち社会性の契機のないものばかりに囲まれたまちがあるとすると、そこでの生活や子供の成長といったものはどんなものになるだろうか。無意識に不安が蓄積したりしないだろうか。よく、そんなことを考える。

「建築は社会性を持つべきだ」という話をたまに聞いたりする。しかし、その意味するところは良く分からないことが多い。

自立に関するところでも書きたいと思うが、建築はまず、固有性を持つ存在であるべきだと思う。そうでなければ建築との対話は成立しないし、社会性も生まれない。

「建築は社会性を持つべきだ」というとき、建築は、社会性を持つべき相手にとって、固有性を持った存在であることが、最初の前提だと思う。そうやってはじめて、そこで出会うことができる、すなわち意味と価値が生まれるのである。

「建築は社会性を持つべきだ」というのは、固有性が排除され出会いが失われてきたからこそ生まれた言葉なのかもしれないし、固有性を持った建築が貴重な存在であることを示しているのかもしれない。

人は建築で、固有性と出会う。そして、固有性は社会性の基盤でもある。




二 何と出会うのか

何と出会うのか

では建築で何に出会うことができるのだろう。何に、ということはここまであまり触れずに来たので良く分からなかったかもしれない。これは言葉にしようと思うと案外難しいけれども、思いつく限り挙げてみたいと思う。

先に書いたように、出会いはそのままで、生きる悦びやリアリティ、社会的倫理といったものを宿している。そのことを前提として、何と出会うのか、を考えていきたい。

もちろんこれから書くことは、それで全てではなく、他にもいろいろ考えられるはずだし、便宜的に分けただけのものなので、互いに関連し合ったり重なり合ったりすると思う。
また、何と出会うのかは、目の前の建築の意味と価値を考えるためのとっかかりであると同時に、建築を設計するための一つの視点でもあると思う。この言葉・視点によって、観察と創作の問題がほんの一瞬でも出会う事ができたらな、と思う。




一 出会いについて

建築の意味と価値

「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」と言ったとき、その意味と価値とは何を差すのだろう。
建築の意味といってもなんだか良く分からない、という人が多いかもしれないけれども、とりあえず「建築の意味とは、その建築にどんな出会いがあるか、その可能性の集まりのこと」としておきたい。
意味が豊富な、つまり、出会いの可能性が豊富な建築は、それだけで豊かだと言えそうだし、意味の豊富さはその建築を知りたいというきっかけ、動機になる。

同じように、「建築の価値とは、その建築に含まれる出会いによって何が得られるか、その可能性の集まりのこと」としておく。
価値の大きな、すなわち出会いによって得られるものが大きかったり多様だったりする建築は、言葉の繰り返しになるけれども、価値ある建築だと言えるだろうし、価値の大きさは、その何かを得ようとする行動のきっかけ、動機になる。

例えば、「この建築は文化的に意味と価値がある」と言った場合には、その建築で文化的なものに出会うことができ、そこから、何かしら文化的なものを得ることができる。ということになる。また、その文化的なものに関心のある人はその建築をもっと知ろうとするだろうし、自分たちの集団にとってその建築から持続的に文化的価値を得続けることに意義がある、と認められれば保存や活用をしていこう、ということなるかもしれない。
もし、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」ということが一つのモノサシとして多くの人に共有されるようなことになれば、そこでの出会いと得られるものを整理しながら記述していくことで、その建築の意味と価値を共有したり、議論したりすることができるようになるんじゃないかと思ったりしている。

生きる基礎としての出会いと価値

では、建築における出会いとはどういうものを指すのだろうか?
ということを考えたいのだけれども、その前に、人にとっての出会いはどういうものか、を考えてみたい。
ちょっと回りくどく、分かりにくいかもしれないけれども、出会いが必要だ、と言うためには大切なことだ。

僕たちは、日々、さまざまなものと出いながら生活をしている。そして、意識するかどうかに関わらず、その出会いの中から意味を探り、自分にとって価値のあるものを選び取ることで生きながらえている。

出会うことは人が生きていくための基礎であって、出会うこと=生きること、と言っても良いくらいに大切なことだ。人は(人に限らず全ての動物は)出会い、選択することなしに、生きていけないのだから。
つまり、人にとって出会いそのものが価値だと言える。そうであるなら、人は無意識的であっても出会いを求めるだろうし、進化論的に言うと「環境の変化の中、適切に出会い、価値を得ようとする動機を持つものが選択的に生き残ってきた」とも言えるだろう。また、経験を通じて、適切な出会いと結びつくように学習・成長もするだろう。
もし、周りを見渡しても、何も出会いがなく、意味も価値も読み取れないとしたらどうだろう。または、同じようなものばかりで、多様性もなければ選択肢もないような状況に投げ込まれたとしたらどうだろう。たぶん、そんな環境は耐えられないんじゃないだろうか。逆に、雄大な自然に包まれた時のように、例え自分にとっての直接的な価値はなくても、その場所が多様な出会いに満ちていたとしたらどうだろう。そこになんとも言えない心地よさを感じたりしないだろうか。出会いを追い求めるのが生きていくための術だとしたら、出会いとある種の感情(例えば悦び)が結びついたとしても不思議はないように思う。

つまり、出会いは生きていくことの基礎であって、出会いそのものが価値であり、時に感情とも結びつく。
他のあらゆるもの(音楽や文学、芸術などに限らず、身近ななんでもなさそうなものであっても)と同様に、建築を通じてさまざまなものと出会うことができるし、何かを得ることもできる。それは、建築が生きていくことの基礎に根ざしているということであり、建築の存在そのものが価値や悦びに結びつくかもしれない、ということだ。

人は建築で、生きることの悦びと出会う。

直接的な出会いとリアリティ

出会いには直接的な出会いと間接的な出会いがある。
直接的な出会いは、直接向き合うことができる出会いであり、それをどこまでも細かく調べようとすることができる。
間接的な出会いは、他者によって何かしらのかたちで切り取られたものとの出会いであり、その切り取られた範囲以上に向き合い調べることはできない。 
例えば、「リンゴ」という文字やリンゴの写真は、文字や写真そのものとは直接的に出会うことはできるけれども、リンゴそのものとは間接的に、一定の範囲でしか出会うことができない。

では、動物の生存にとって、直接的な出会いと間接的な出会いのどちらが重要だろうか。単純に考えたら直接的な出会いだろうが(リンゴは食べられるけれど、リンゴの写真は食べられない)、人のような社会性を持つ動物にとっては間接的な出会いが可能性を押し拡げるかもしれない(リンゴの木のありかを示した地図は食べられないけれども、たくさんのリンゴを食べられるようになるかもしれない)。どちらが良いとは言う話ではなく、それぞれ役割が違うということかもしれない。

だけども、どちらにリアリティを感じるか、と言えば直接的な出会いの方だろう(リンゴの写真には写真としてのリアリティは感じるけれどもリンゴとしてのリアリティは感じない)。
この、どこまでも細かく調べようとすることができるという可能性の存在が、人との結びつきを強め、直接的な出会いにリアリティを与えるのかもしれない。また、そうだとしたら、どこまでも調べようとするような、能動的な姿勢がリアリティを引き出すとも言えそうだ。
(例えば、リンゴとリンゴの写真を全く同じ見え方になるように二つ並べて、それを、周りの環境変化がない部屋で、全く頭や眼球を動かすことなく眺めたとしたら、すなわち能動的な働きかけを禁じたとしたら、おそらくどちらが本物か判別ができないだろう)

このリアリティの感じ方の差は、今後、技術によってどんどん埋められていくのだと思うけれども、まだ直接的な出会いの持つリアリティの方に分があるだろう。建築にはさまざまな直接的な出会いが埋め込まれている。それゆえ建築は、これからも人々のリアリティを支えるような役割を担っていくのだと思う。(技術によって、間接的な出会いのリアリティが直接的な出会いのリアリティを凌ぐようなことがあれば、違う可能性が無限に広がりそうだ。そうなれば、建築の役割は何か、という問いをより強く突きつけられるんじゃないだろうか。)

建築で人は、リアリティと出会う。

メディアとしての出会いと超えていく力

また、出会いはメディアである。そこにある出会いは、他の人も出会うことが出来るのだ。
例えば、みる人に感動とインスピレーションを与えるような絵画が描かれたとする。それを見た他の誰かが、何かを受取り、新しい他の何かを生みだしたりするかもしれない。その誰かは、言葉の通じないような他の民族かもしれないし、ずっと後の時代の、全く別の場所の誰かかもしれない。
こんな風に、出会いは、時間、空間などさまざまなものを超えていくことのできるメディアであって、そこでコミュニケーションが発生したりする。
建築は長い間そこに存在し続けることのできるメディアである。古い建築を通じて、何百年、何千年も昔から今に至る間の何か、例えば当時の社会状況や価値観、職人の技術や思考など、さまざまなものと出会うことができるかもしれない。または、今作ったもの、今使っているものと、何百年後の誰かが出会うかもしれない。そういう役割を担っているとも言えそうだ。

建築で人は、時間や空間、個人の殻や社会的な壁など、さまざまなものを超えて、さまざまに出会う。

共有物としての出会いと倫理

さらにもう一つ。出会いは共有物である。
人が他の動物から突出しているのは、人は集団として出会いを共有化し蓄積してきた、ということだ。
人は個人として何かと出会い、価値を得、学ぶだけではなく、それを、例えば知識や文化・技術として、文字や言葉、言い伝えや祭り、教育システムや師弟システム、その他さまざまなものに埋め込んでいく。そうして埋め込まれたものを蓄積し、更新していくことによって、人間の集団は文化的・歴史的に発展してきた。
そこで、人は個人として出会いを求めるだけでなく、集団としても出会いを求め、共有物としての出会いを蓄積しながら集団に還元していく。それは、メンバー各々の出会いの可能性を担保しようとすることでもある。変遷する多様な世界で、多様な人々が多様に生きていくには、多様な出会いの可能性が社会に存在している必要があるのだ。
そういう風に、集団が出会いを共有化・蓄積していくことは社会的倫理なのである。

そして、先に書いたメディアとしての建築の、長く存在し、さまざまなものを超えていく力は、この集団(社会)の共有物としての出会いを建築が担えること、建築が倫理的な存在であり得ることを示しているし、建築をつくり守ることによって、個人に「その社会的倫理の一端を担っている」という悦びを与えるものでもある。

人は建築で、可能性と社会の倫理と出会う。

出会いはなぜ重要なのか

出会いはなぜ重要か。
それは、出会いが生きる悦びやリアリティ、社会や文化といったものに、アプローチするための足がかりを与えてくれるからであり、そこに意味や価値、倫理といった建築の存在に対する肯定的意味や社会的役割のようなものを見いださせてくれるからである。
しかし、その重要性は建築の専門家だけのものでは決してなく、社会の一員である多くの人々にとっても重要な事だと思うのである。




〇 はじめに

目の前の建物を語る言葉

今、目の前にある、その建物。

その建物に、どんな意味や価値があるだろうか。また、それを語る言葉を持っているだろうか。

多くの建築家と呼ばれる人々は、建物を設計する際に、または、ある建物に意味や価値を見出した時に、あるいはその建物が意味や価値を持つことを期待して、その建物のことをわざわざ「建物」ではなく「建築」と呼んだりする。そして、その建築の意味や価値をどこまでも追い求める。

だけども、建築家たちが切磋琢磨して追い求める、その建築の意味や価値は、多くの人々に認められていると言えるだろうか。

『良いものをつくれば、それは必ず人々に伝わるはずだ。』

もしかしたら建築家はこう言うかもしれない。それはある面で正しいと思う。だけども、やっぱり多くの人々はその建物を語る言葉を持っていないし、その素晴らしさに気付くことなく通り過ぎてしまう。

まちの景観や、歴史的建物の保存・活用などが、限られた人たちだけの話題となってしまい、なかなか有益な議論や結果に結びつかない、ということの根底には、殆どの人の中には、建築という概念、または建築の意味や価値を語るための言葉が存在していない、ということがあると思う。

建築は、私達の生活する環境をかたちづくるものであって、生きていくうえで大切な要素だと思うのだけど、ほとんど人に語られてこなかった。まずは、誰でもが建築の意味や価値について考えられるような、言葉や状況を生み出す必要があるんじゃないだろうか。

そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。

唐突だけども、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」という説を、建築を考えるための一つのモノサシとして提案してみたい。
そして、そのモノサシが、、多くの人々が建築の意味と価値を考えたり、議論したり、つくったり、守ったりするための礎になることを夢想してみたい。

例えば、身の回りのの建築の中にどんな出会いが隠れているか探ってみたとする。

すると、たくさん見つけられる建物、ほとんど見つけられない建物、いろいろ出てくるだろう。好きなまちや建物にどんな出会いが含まれているかを思い浮かべて、目の前の建物と比べてみても良い。身の周りの環境に以外な魅力をみつけるかもしれないし、もしかしたら、そこに含まれる出会いの薄っぺらさに愕然とするかもしれない。
(その前に、出会いって何のこと?と思うかもしれない。それは順番に書いていくので、とりあえずは、その場所で自分の心や行動に何かしらの影響を与えるもの、くらいで捉えておいて欲しい。)

二十世紀は、出会いをなるべく抑制し、均一なものとすることによって、住環境の工業化や商品化を進めてきた。工業化や商品化は、均一であることを善とし、予期せぬ出会いはそれを乱すものとして悪者扱いされ慎重に排除される。その流れの中で、多くの出会いの機会が失われ、生活がのっぺりとしたものになってしまったように思う。

だけども、それが良いことなのか悪いことなのか、というのは簡単には言えないかもしれない。ある面で、人はそれを求めて来たのだし、風向きは変わりつつあっても多くの人は今もそれを求めている。どんなものにも得るものと失うものがあり、何かの価値があるのだと思うし、人に求められてきたものにはそれなりの理由があるはずだから。

建築の意味と価値を信じたい

善悪の判断は難しいけれども、それでもなお、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」ということ、建築には意味と価値があり、それを考え、語り、つくり、守ることが必要だ、と言ってみたい。

それは、建築というものの価値を肯定的に捉えて信じたい、という職業的な願望もあるけれども、いろいろ調べているうちに、そんな風に一度言い切ってしまうことによって、はじめて描ける世界観や倫理観があるんじゃないかと思えてきたのだ。

ここで書こうと思っていることは『Deliciousness おいしい知覚』の本文、及び引用元の文献が基にあるけれども、ここでは、そこで使われているような専門的な言葉や引用をできるだけ使わずに、なるべく簡単な言葉で書いてみたいと思う。

そして、それが誰かが建築の意味や価値について考え始めるきっかけになれば、と思う。