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「Encounters 出会う建築」をまとめてアップしました

ブログ記事として少しづつアップしようと思っていましたが、普段のブログとは色合いが異なるので別カテゴリーをつくり一つにまとめました。

オノケン│太田則宏建築事務所 » Encounters 出会う建築

これまで考えてきたことを極力難しい言葉を使わずにまとめたものです。ご笑覧ください。




四 棲み家

学生時代からの道のり

ここまで書いてきて改めて思うのは、学生の頃に考え始めた「棲み家」という言葉をずっと追い求めていた、ということである。

ずっと前にブログに書いた「棲み家」についての記事を読むと、これまで書いてきた出会いに関するいろいろが、この中に散りばめられていたように思う。

それを出会いという視点から捉え直し、建築の意味と価値とは何か、という問題に答えようとしたのが本論である。

この道のりの最後に、その出発点となった記事を過去のブログから抜き出して転載しておこうと思う。

棲みか (2002 onoken ブログより)

学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉から生まれる可能性のようなことを考えていたことがあった。
しかし、そのときはうまく言葉に出来なかった。

最近、再び「棲みか」という言葉の持つニュアンスに何か惹かれるものを感じはじめたので、今回は何に惹かれるのかということを何とか言葉にしてみようと思う。

「生きること」のリアリティ

テレビ番組などで会社勤めを辞め、田舎で自給自足をしている人などの特集をよく目にするが、そこには「生きること」のリアリティを求める人の姿があるように思う。

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。

なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

僕は「住宅」よりも「いえ」、「いえ」よりも「棲みか」という言葉に積極的に環境とかかわっていこうとする意志を感じる。

それは、子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるように思う。

単純に環境との関わりを考えると、大地や空との接点、天候や四季の移り変わりを感じること、また社会的な人との関わりなどが思い浮かぶ。それらはリアリティを感じるために重要なテーマになるし、僕も大切にしていきたいと思う。

自由と不自由の隙間

最近強く感じ始めたのだが、機能的で空調なども完璧にコントロールされた完璧に体にフィットするような環境は(そんなものは有り得ないと思うが)、快適であると同時に何か気持ち悪さを感じる。

僕は自由や快適さ・機能性などと同じように、不自由さや不快さなどにもある種の価値が存在すると考えている。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。

そのように環境と関わっていった結果、自由や快適さを得られればそれでよいし、それによって別の何かを得られるのではないだろうか。

環境と関わる意志

20世紀は自由や快適さを闇雲に求めてきたし、様々な面で受身の姿勢が見についてしまった。しかし、受身のままでは得られないものもある。

21世紀はそのことへの反省も含め不自由さや不快さにも価値が見出されていくように思う。

そのときに重要になるのが、自由や快適さとの「隙間」、その距離感に対するバランス感覚であり、自発的に環境と関わろうとする意志であると思う。そして、僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。」(太田)

deliciousness おいしい知覚

『出会う建築』の基になった、「deliciousness おいしい知覚」はnoteに少しづつアップしていきます。
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三 出会いと設計

「何か?」から「どう?」へ

これまで、建築における出会いとは何か、何とどう出会うのか、ということを書いてきたけれども、それらは建築の専門家であるかどうかに関わらず、自らの体験として捉えることが可能なものだったのではないか思う。

しかし、設計者の立場としては、そのような建築がどのようにつくられるのか、どのようにすれば設計可能なのか、という点に興味がある。

そこで、ここからはどうやってつくるのか、について出会いとはたらきの点から考えてみたい。

はたらきとしての設計

出会う建築と言った場合、同様に出会う設計というものがあるように思う。
それは、環境を能動的に探索しながら情報をピックアップし、何かに出会うことによって調整する、というこのと循環による自律的なはたらきとしての設計である。

ここで、設計をはたらきとして捉えることが決定的に重要であるように思われる。

概念のところで書いたように、思考とは自己と自己との言語を介した出会いの循環、そこで生成された言葉と出会うことで、次の言葉を生成し、またその言葉と出会うというサイクルである。
同様に設計も、自己と環境との、出会いと行為のサイクルだと捉えられるが、そこにはそのサイクルが動き続けるとというはたらきがある。

それは、設計行為に関わるはたらきが環境の中で回転し続けることで、建築がその形や境界を調整しながら形成されていく、といったような動的なイメージであり、そのはたらきを豊かに維持し続けることが設計の密度へとつながり、ひいてはつくられた建築での出会いを豊かなものにするように思う。

遊びと分散

設計のはたらきにおいてさまざまな予期せぬものに出会う。ここでいう予期せぬものは物理的なものに限らず、要望や社会・文化・歴史的環境、さらには、その時点の図面や模型、パースなどのように設計者によって投入される事柄も含む。

その予期せぬものは、主観的な設計意志に対する制約(痛み)ではなく、遊びの文脈に乗った探索可能な出会いの可能性であり、設計行為を出会いと行為のダイナミックなはたらきへと導くものである。

また、それらの予期せぬものは、多様であればあるほど出会いの可能性を高めるが、あまりに突出した要素は他の要素の探索を阻害し、循環によるはたらきを弱めてしまうため、適度に分散されていることが望ましい。

そうやって、出会いを多様に分散することは、設計による調整行為にある種の自在さのようなものを与えるように思うし、その自在さが、出会いと行為のはたらきを持続可能なものにするように思う。

出会いの投入

ところで、建築の設計過程で、オノマトペのような言葉や思考により生み出された概念、その他これまで考えて来たようなものとの出会いが発見されたとすると、それれは設計のはたらきにどのように関わりうるだろうか。

先の遊びと分散で書いたことを思い出すと、設計の過程で発見されたこれらの出会いは、設計の原理というように強いものではなく、可能性としての予期せぬものとして、再び設計環境に投入されることが好ましいように思われる。

そうすることで、設計のサイクルにおける出会いの可能性をより多様なものできるはずだ。

少年のモード

また、設計の問題は「どのようなはたらきの中に身を置くか」というように置き換えられる。それはシステムの問題であるが、設計のはたらきを豊かに作動させ続けるためには、経験を開くような態度が必要である。

経験を閉じて、一定の範囲の価値基準や手法の中で設計を行うのでは、そこに出会いは生まれないしはたらきは維持できない。絶えず目の前の予期せぬものを、遊びの文脈で可能性としてキャッチするような態度こそが求められるように思う。

それを河本英夫氏は経験に対する少年のモードと呼んだ。

それは自分の経験と建築とを前に進めるための態度であり、「どのようなはたらきの中に身を置くか」を実践するためのものである。その先には、手法に焦点を当てるのではなく、態度へと焦点を当てた設計論がある。

つまり、出会う設計とは、理論的手法から実践的態度への転回のことなのである。




 二-二十三 建築―出会いの瞬間

建築と出会う

ここまで、建築の出会いについていくつか書いてみたが、そういった出会いの可能性を豊かに持つものを、「建物」ではなく「建築」と呼びたいと思う。

そこにはさまざまな出会いがあるけれども、それらをひっくるめて、まさに建築と出会った、としか言えないような出会いの瞬間がある。それは、生きていることのリアリティをまざまざと感じさせてくれる瞬間であり、そのような建築との出会いそのものが、まさしく建築の意味と価値なのである。

人は建築で、まさに建築と出会う。




 二-二十二 地形―関係性とプロセス

「地形」のような建築

ここで、「地形」のような建築ということを考えてみたい。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。 そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。 そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志があり、出会いと行為、意味と価値に溢れている。

「地形」の二つの特質

「地形」が、そういった意味と価値に溢れたものであるとすると、そこには二つの特質があるように思う。

一つは先に書いたように、人と建築それぞれが自立し、並列の関係性を保てているということ。

もう一つは、プロセスが重層的に織り込まれている、ということ。

地形は地球レベルのとてつもない時間の中で隆起や侵食などを繰り返してできた自然条件による現時点での結果であり、その結果にはそれまでのプロセスが織り込まれている。もし、それが平らに造成されてしまったとしたら、すくなくともあるスケールに於いては織り込まれたプロセスがリセットされてしまい、出会いの可能性は限られたものになってしまうように思う。そう考えると重層的なプロセスの存在が「地形」の出会いをより豊かにしていると言えそうだ。

必ずしも地形のような形態である必要はないが、このような二つの特質をもった建築が「地形」のような建築だとすると、そのような建築も、とても貴重なものだといえるだろう。

人は建築で、地形と出会う。




 二-二十一 距離感―自立と自律

出会うための距離感

建築を出会いの対象と考えた時、建築はあくまで環境であり他者である、というようなあり方が重要となる。

人が何かと出会うためには、人が能動的に関わる必要があるし、そのためには、建築がその人の内面に回収されてしまうようなものではなく、人と建築の間にある程度の距離感が必要である。それは、人と建築とが一方が一方に従うような縦の関係ではなく、並列の関係としてそれぞれ自立しているような状態である。これは、関係性を持たない、ということではなく、むしろ横の関係であることによってお互いの関係性を担保しあっているような状態である。

これは、社会性のところでも書いたけれども、商品化されたような建物は主従の関係性を軸にしてきたため、こういう距離感はなかなか保てないし、出会いは限られたものになってしまうように思う。そんな中、人との距離感を保ち、自立しているような建築は、商品化された建物と比較して「不便なもの」としてネガティブに捉えられやすい。しかし、その「不便なもの」と捉えられるものは、「出会いを可能とする隙間、可能性の海」としてポジティブなものに転回可能であることが多いように思うし、現代社会においては、むしろ出会いの機会として貴重なものかもしれない。

自立と距離感

また、建築が自立しているためには、私との距離感の他にも他者・耐久性・矛盾といった要件があるように思われる。

まず、他者から切り離されたものは出会いの環境とはなれない。それでは孤立である。建築が孤立ではなく自立するためには、他者と切り離されるのではなく、むしろ他者の存在によって初めて成り立つような相互関係の距離感を保つ必要がある。

また、建築が存続しなければそこで出会うことは出来ない。建築が自立し続けるためには当たり前のようだが、物理的・経済的・機能的な耐久性、さらには愛着といった心理的・社会的耐久性が不可欠である。それによってはじめて持続的に出会いの環境となれる。

さらに、建築が意味や価値を持つには自立しているだけでなく、矛盾のように、人との距離を固定化せず、出会いのはたらきの動力となるようなものが必要かもしれない。

自律と他律

ところで、ここまで自立という言葉を使ってきたが、自立と自律はどう違うのだろうか。
分析記述言語では自立は構造に帰属され、自律はシステムに帰属されるそうだ。これまで考えてきたのは、建築が人と並列の関係であるべき、という構造に帰属される問題であり、自立性である。

では建築の自律性とは何かというと、これはシステム(つくり方・つくられ方)の問題になるように思う。
何と出会うのか、と同様に、出会う建築はどうつくられるか、というつくり方・つくられ方の問題も重要であるだろう。これに関しては後で書いてみたいけれども、自律的につくられるか、他律的につくられるかで、そこに生まれる出会いにも違いが出てくるように思う。

人は建築で、ある距離感のもと出会う。




 二-一九 はたらき―出会いの連鎖

出会いの連鎖と「生きている」こと

私たちの生活は、出会いと行為の絶え間ない連鎖であり、そこにははたらきがある。

一人ひとりの中に出会いの連鎖のはたらきがあり、また、集団としての社会的・文化的・歴史的はたらきがある。そのはたらきのことを「生きている」と言ったりする。時々、生物が「生きている」と言うのと同じように、社会や都市が「生きている」と言うこともあるけれども、そこには出会いの連鎖のはたらきを見ているのである。

このはたらきそのものは、直接見ることができないが、はたらきとの出会いはどのようなものが考えられるだろうか。

例えば、技術の項で書いた「保留されたものとの出会い」がそうかもしれない。出会いが積み重ねられた一つの状態には、それまでのはたらきが現れているし、今が、静止した状態ではなく、はたらきの最中にあることを感じさせてくれる。

また、はたらきとの出会いを考えた時、、流動、更新、変転、生成といったようなはたらきが含まれている言葉との出会いを考えてみても良いと思う。私たちの環境が、静止したモノではなく、変わり続けるコトとして感じられた時、はたらきとの出会いが生まれるのかもしれない。

建築について考えてみると、このようなはたらきの存在を自然と感じさせてくれるような建築というものがあるように思うし、そのような建築はやはり貴重な存在だと言えるだろう。

人は建築で、はたらき、すなわち「生きている」ことと出会う。




 二-一八 まとまり―他人と力

まとまりと認識

まとまりとはなんだろうか。

まとまりは認識に似ている。まとまりの感覚、認識はそれを他人と共有可能なものにし、自己と周囲との接触を維持する能力である。
 
まとまりによって、いくつもの要素と同時に、かつ持続的に出会うことが出来るようになるし、「あれ」とか「あの感じ」のように他人と共有できる可能性が開かれる。まとまりとの出会いは他人との出会いのはじまりでもある。

不足と関係性に向かう力

また、まとまりは、他のまとまりや、その上位のまとまり、ひいては全体との関係性の中ではじめて成り立つもので、それら他のまとまりや全体を捉えようとする動機と一体のものである。

実際には、全体を捉え尽くすことはできない。であるから、まとまりには、絶えず不足があり、それを補い新たに出会おうとする力、関係性へと向かう力を内に秘めている。逆に言うと、そのような関係性に向かう力の感じられないないところは、まとまりに欠け、他人との共有可能性に乏しい、という孤独な場所なのかもしれない。

まとまりとの出会いの豊富な建築は、いろいろな力を内に秘め、他者とつながる可能性を豊かに含んだ貴重なものだといえるかもしれない。

人は建築で、まとまりと出会う。それは他人との出会いであり、関係性へと向かう力との出会いでもある。




 二-一七 建てること―住まうことを補完する

建てることと住まうこと

現代社会は工業化・分業化などによって「建てること」と「住まうこと」が分断されている状況だと言っても良いだろう。

「住まうこと」が「建てること」と分断された状態では、人間は住まうことことの本質の一部しか生きられない。つまり、「建てること」と出会うことによって、はじめて本来の「住まうこと」と出会うことができる。

建てる人の「手」と「頭」

では、現代社会における「建てること」との出会いはどんなものがあるだろうか。

一つは、自ら「建てること」に関わることによって「建てること」と出会う。これは「建てること」と「住まうこと」の分断を直接的に関わることによって乗り越えるものである。DIYブームなどは、この分断を乗り越えようとする欲求の現れなのかもしれない。

または、技術と出会うことによって「建てること」と出会う。ある種の職人の技術は、手の跡やその技術の歴史など、「建てること」に関わる情報を埋め込むことができる。人は、その埋め込まれた技術と出会うことによって「建てること」と出会うことができる。これは、建てる人の「手」との出会いとも言える。

また、どのような場合でも、どうつくるのか、を考えるはずだが、その思考のプロセス自体が隠蔽されず、出会いに満ちて固有性を持ち、見た人によってトレース可能なものであれば、、結果としてその場に埋め込まれる。人は、その思考の痕跡と出会うことによって「建てること」と出会うことができる。これは、建てる人の「頭」との出会いとも言える。

これら3つは、それぞれ現代の施主・施工・設計に当てはまる。それらが3つに分断されており、さらに、それぞれがそれぞれの「建てること」を失いつつあるのことが「建てること」と「住まうこと」の分断を助長している。そのような中では、「建てること」と出会える建築は貴重な存在だと言えるのかもしれない。

人は建築で、「建てること」と出会い、本来の「住むこと」と出会う。




 二-十七 都市―体験の空間的・時間的レイアウト

体験のレイアウト

建築単体ではなく、都市という視点で出会いを考えた時に、建築と都市はどう考えることができるだろうか。

まず、単純に建築を都市の側から見た時に、どんな意味や価値が見いだせるか、どんな出会いがあるか、という視点がある。建築はそれを直接利用する人だけでなく、道を歩く人や、そこに住む人、観光に訪れる人にとっても意味や価値がある。例えば、道を歩く人が、建築の固有性を感じ取ったり、そこに住む人の生活を感じたりすることで、まちに愛着や親しみを感じたりするかもしれないが、そうして生まれる出会いの集積、体験のレイアウトが「私たちである」という領域をかたちづくる。

もしかしたら、都市とはそういう体験のレイアウトがかたちづくる領域のことなのかもしれないし、一つ一つの建築がそのレイアウトを構成しながら、その構成に変化を与えている、という視点も重要だろう。

もちろん、その体験のレイアウトは、個人としてのものだけではなく、多くの人にとっての意味や価値が重ね合わせられながら、社会的・歴史的に積み重ねられてきたものでもある。それが固有性を持ち、出会いのきっかけを豊富に持っているかどうか、がその都市の性格を方向づける。

ここで、例えば萌芽、余白、流動、更新、喪失、参照、標、刻印、遮蔽、隅などといった言葉が頭に浮かぶが、都市は、体験が空間にレイアウトされるだけではなく、時間的にもレイアウトが変化しながら動き続ける。もし、そこにある建物が喪失されたとしたら、都市における体験のレイアウトはそれに応じて変化するだろう。

人は建築で、都市に出会う。そこには体験の空間的・時間的レイアウトがある。




 二-十六 概念―埋め込まれた思考

思考のサイクルと出会いの密度

思考とは自己と自己との言語を介した出会いの循環、そこで生成された言葉と出会うことで、次の言葉を生成し、またその言葉と出会うというサイクルである。

それは出会いの高速循環であり、圧縮された意味と価値、いうなれば概念のようなものを生む。それは物理的なものではないが、人間にとっては特別な出会いを生むものである。

建築の中にも、それをつくる際にガイドラインとなったような概念が埋め込まれている。その結果としての建築と、体験的、直感的に出会うことももちろん出来るけれども、基になった概念にアプローチし出会うことができれば、、その概念を自らの思考のサイクルに取り込むこともできる。比喩的に書くならば、そこに至る思考プロセスの圧縮されたデータが建築に埋め込まれており、それを自らの中で解凍することで、引用したり改変したりと再利用が可能となる。そのデータの圧縮と解凍の精度は作り手や受け手の技量に大きく関わると思うが、そのデータ量、すなわち、思考のサイクルをどれだけ繰り返したかの違いは、誰にとっても分かりやすい要素なのではないかと思う。

その建築に至るまでどれだけ思考をしたかは、その思考をトレースできなくても(データの中身が理解できなくても)出会いの密度として直感的に感じ取られるものだと思うのだ。

人は建築で、埋め込まれた思考とその密度に出会う。




 二-十五 社会・歴史・文化―時間と空間を超えて

時間と空間を超える

前に書いたように出会いは、個人や、時間、空間などさまざまなものを超える。

言い換えると、(私、いま、ここで)を超える。私はこれを建物が建築になるための一つの要件だと考えているのだけれども、(私、いま、ここで)を超えるということは、それによって(私、いま、ここで)を支えることでもある。関係性を持つこと、相対的であること、すなわち他者との出会いががなければ、(私、いま、ここで)にも出会えない(意味や価値が見いだせない)のだ。

(私、いま、ここで)を超えて、皆とともにいること、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること。それらは、いずれも他者との出会いの中にあってはじめて生まれるものである。

建築は、個人や、時間、空間などさまざまなものを超えて出会える他者となれるものである。そして、それによって(私、いま、ここで)との出会いを支えることが出来る。

人は建築で、社会や歴史、文化と出会い、それによって(私、いま、ここで)とも出会う。




 二-十四 オノマトペ―出会いの形式

体験的な言葉

擬声語・オノマトペなどの言葉は曖昧で物質的に明確な輪郭を持たず、絶えず出会いに対して開かれていながら、何らかの出会いの形式を指し示している。

例えば、ある建築を体験した時に「ぐるぐる」という言葉が浮かんだとする。そこには渦のような場の流れと同時に、淀みのような流れに守られた場があるのかもしれないし、逆に言えば、「ぐるぐる」というような体験的な言葉が浮かぶ建築は、それに相応しい出会いの形式を備えているということかもしれない。おそらく、こういう建築は、体験的にその建物の構成を感じ取りやすいのであろうし、そこに出会いの悦びやリアリティが生まれる可能性は高いように思う。

人は建築で、体験的な言葉と出会う。




 二-十三 構成―意味の現れとずれ

現れとずれ

構成とは建築の部分と全体の関係性のことである。

建築にはいろいろな構成が考えられるが、構成は意味の現れとずれによって出会いのきっっかけとなる。

例えば、動物や植物がどのような部分と全体の関係性でできているかを考えた時に、その構成には何らかの意味、もしくは必然性のようなものが読み取れる。同様に、建築の構成に、意味や必然性のようなものが読み取られた時に、そこに出会いが生まれる。

その意味は必ずしも機能的なものである必要はないけれども、例えば、窓の形状や壁の仕上げ、その他諸々の部分による構成によって、劇的で気持ちのよい光を体験できたとする。そして、その光がまさに建築の構成によって生まれたと、無意識にでも感じ取ったとすると、そこには光との出会いと同時に構成との出会いがある。そして、その出会いの重なりによって、出会いに感じる悦びとリアリティはより大きなものとなるのではないだろうか。

また、例えば、動物の形態にはキリンやゾウなどのように、一般的な構成の論理から外れるような、大きな特徴があるものが多いように思う。このずれは、意味や必然性の現れが極端に出たものでもあるだろうが、その極端なずれによって全体の構成が乱され、新しいバランスの構成が必然的に導かれている。

私たちが動物園に期待するのは、それぞれの動物の姿に見られる、意味の現れやずれ、それに伴う独特な構成の緊張関係などであり、その構成の不思議なほどに多様なバリエーションなのかもしれないし、そこはきっと、出会いの悦びに溢れているに違いない。

同様に、建築の構成に、既存の構成からのずれがあることは出会いのきっかけとなるだろうし、それによって新たに導かれた構成は、建築に固有性を与え、出会いをより持続的で活発なものとするだろう。

人は建築で、建築の構成、意味の現れとずれに出会う。




 二-十二 生活―意識を超えた豊かさ

生活に根ざした多様な出会い

生活という言葉には何か意識を超えた豊かさにつながるイメージがある。

生活とは日常における出会いの連続のことである。それは、生きることの基礎であり、直接的なものであり、文化や技術などの公共的な蓄積の基盤である。

生活には本来、出会うことによる悦びや生きることのリアリティが豊かに含まれているものであった。しかし、利便性などを追求する時代の流れの中で、生活の中の出会いの地位は低くなってしまっているように思う。そこでは、生活に本来含まれていた出会いの豊かさは、意識という枠の中に閉じ込められている。

建築における生活のあり方も、出会いを閉じ込めようとした結果であるか、出会いを歓迎した結果であるかで大きく異なってくるし、当然、それを体験する人にとっての出会いの質も異なってくる。後者の建築には、生活に根ざした多様な出会いがあり、意識を超えていくことの爽快さがある。

人は建築で、生活の意識を超えた豊かさに出会う。




 二-十一 遊び―出会いの作法

誤差と遊び

何かをするときには必ず予測とは異なることが起きる。

例えば、理想が先にあってそれに向けて何かがなされるときには、その誤差はネガティブな要素、痛みとなる。そこでは、誤差はあってはいけないものであり、なかったことにするために全力が尽くされる。

一方、その誤差を、環境から受け取った情報と捉えると、それはポジティブな要素、何かを想像するきっかけとなる。そこでは、誤差は自分とは異なることを楽しめるような遊びの対象になり、そこに出会いが生まれる。

つまり、遊びとは出会いの作法であるといえる。

例えば、建築の中に予測を裏切るような遊びの要素があるとする。その遊びの要素は人の出会いに対する感度を鋭敏にし、それまで気付けなかったことに着付くきっかけを与えるかもしれない。

また、例えば、建築の中に一般的に痛みの要素と捉えられがちなネガティブなものが、遊びの要素へと変換された痕跡を見つけた時、可能性が開かれたような爽快な気分になることがあるかもしれない。その、痛みから遊びへの転回の痕跡と出会うこと自体も一つの悦びである。

人は建築で、遊びと出会う。




 二-十 アート―知っていたはずのものとの出会い

既に知っていたはずのものとの新鮮な出会い

ここでいうアートとは表現者の主体的な表現ではなく、既に知っていたはずのものとの新鮮な出会いを与えてくれる何か、のことである。

それは、日常の中に既にありながら、通り過ぎてしまっていたような意味と価値に出会うきっかけを与えてくれるものである。出会いを活性化し鮮やかに浮かび上がらせてくれるもので、それは出会い技術の一つと言って良いように思うし、そこにはやはり、出会う悦びや生きることのリアリティがある

建築には本来、限りない出会いの可能性があるはずである。しかし、それらの可能性のほとんどは隠れたもので、気付かずに通り過ぎてしまうものだろう。そんな中で、何らかのかたちで、その可能性を出会いとして浮かび上がらせるものがアートだとすると、アートは建築の中の可能性を開放し、人に悦びやリアリティを与えてくれる。だとすると、建築にはアートこそが必要なのかもしれない。

人は建築で、知っていたはずのものと新しく出会う。




 二-九 ふるまい―いきいきとしたモノたち

モノのふるまい

ここでいうふるまいとは、出会いとそれに伴う行為の現れのことである。これまで、主にそこにいる人が何とどう出会うのか、ということを考えてきたけれども、ここでのふるまいは人のふるまいに限らない。
例えば、窓やテーブル、階段、手摺などの建築の部位やモノ、都市における建築物や、光や風、雨といった自然など、さまざまなもののふるまいが考えられる。もちろん、例えば雨が何かしらの判断・選択をするわけではないので擬人的な表現に違いないのだけれども、雨が、あたかも何かと出会い、行為をしているように見える場面はあるように思うし、その時、その雨のふるまいを通じて、間接的に雨が出会ったであろうものと出会うことができる。
そういういろいろな出会いを含んだふるまいを見せるモノは、いきいきとしているようにみえるだろうし、そこには、いきいきとしたモノたちとの出会いの悦びがある。

また、多くの時間を経て獲得されたふるまいというものもあるだろう。擬人的に例えて、新しく出来た建物のふるまいが青年のそれだとすると、その地域の昔ながらの建物のふるまいは、いろいろな経験を通じていい塩梅にバランスした、味わい深い長老のふるまいのようなものかもしれない。

建築には多くの要素が含まれている。もし、それらの要素のそれぞれがが、お互いに影響し合いながら生き生きとしているとすると、その建築は多様な出会いに溢れ、悦びに満ちたものである、と言えるかもしれない。

人は建築で、いきいきとしたモノたちのふるまいと出会う。




 二-八 技術―出会いの方法

新鮮な出会い

技術とは、環境から新しく意味や価値を発見したり、変換したりする技術、言い換えると、新しい仕方で環境と関わりあう技術である。言い換えると、技術とは新鮮な出会いの方法である。

また、住宅など日常使いの建築の場合、常に新しい発見として出会うことは難しいかもしれない。しかし、一度生じた出会いの新鮮さは、「私である」と感じる領域の一つの要素としてある程度定着するように思う。であるから、出会いにはその瞬間のものだけではなく、経験として「私である」と感じる領域に定着したものも含まれる、と考えられるし、その出会いが新鮮であればあるほど「私である」と感じる領域は強くかたちづくられ、愛着や親しみと言った付随的な感情も増すように思う。

重ね合わせ・保留・ずらし

では、建築において新鮮さを伴うような出会いの方法にはどのようなものがあるだろうか。他にもたくさんあると思うが、3つほど列挙したい。

一つは出会いが重ね合わされたものである。例えば、一つのもの、要素にいくつもの意味や価値が重なりあって内在しているデザインに何とも言えない魅力を感じることがある。いくつもの可能性、環境との関わり方が埋め込まれており、自由さや不意に意味を発見する悦びとつながっている。

あるいは保留されたもの。例えば、完全に計画されたものではなく計画を保留されたある状況の中で、何らかの出会いと行為のサイクルが生まれ、その結果として、環境がさまざまな出会いを内包するに至ったとする。その環境に直面した時、何ともいえない魅力を感じる。これは、いわば自然に積み重ねられた技術と出会う悦びである。
全てを計画し切る建築というものはありえないだろうし、生活の中で不意に訪れる出会いは、ある状況から無計画に発生した環境にあることが多いように思うのである。

もう一つはスケールでも書いたようなずらされたもの。ずれそのものが新鮮さを伴うものであるし、ずれは、出会いの感覚を継続的なものとして定着させるように思う。

人は建築で、新鮮に出会う。




 二-七 スケール―橋渡しとずれ

スケールの橋渡し

生物の進化、人間の社会や歴史、科学的技術の利用等を考えると、体験可能な空間的スケール・時間的スケールの幅はミクロからマクロまで限りなく幅広い。しかし、日常的に体験する空間的スケール・時間的スケールは行動単位で考えればせいぜい日~秒、キロメートル~ミリメートルの範囲であるし、その幅は限定的なものになりがちである。多くの人はかなり限定的なスケールに出会うだけで一日が過ぎてしまうことが多いのではないだろうか。

毎日の自分の生活のスケールだけに浸かっていると、それが世界のすべてだと錯覚してしまいそうになる。そんな時、大きな空のスケールに触れると、自分のスケール感をリセットできる。時には空のようなスケール、時には小さな花のようなスケールに触れるのは大切なことだろう。

例えば、建築の中に日常的なスケールとは異なるスケールと出会えるようなきっかけがあるとしたら、建築は日常のスケールとミクロやマクロなスケールとの橋渡し役となれるかもしれない。

スケールのズレ

また、建築の中に日常的なスケールとは微妙にずれたスケールがあるとすると、そのスケールとの出会いは何らかの意味をまとうように思う。空間的なスケールでも時間的なスケールでも良いと思うが、先に書いたようなその場の流れに相応しいスケールとは微妙にずれたスケール、たとえば建築の中に都市的なスケールが紛れ込んでいたとすると、建築の中に都市が流れ込むような場の流れが生まれるかもしれない。

そういったさまざまな空間的・時間的なスケールの混合した状態は、その場での出会いを活性化するだろうし、それは出会い、すなわち意味や価値が多様にある、という意味で望ましいことのように思う。

人は建築で、さまざまな空間的・時間的スケールと出会う。