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 二-六 流れ―レイアウトと法則

流れのレイアウト

「私(私たち)である」と感じる領域の中には、その場所ごとの出会いの質とそのレイアウトによって、流れのようなものが生まれる。

その場所の出会いが、例えば見回す、歩き回る、見つめる、立ち止まる、座る、触る、食べる、などの行為に関わるものであるとすれば、それによって流れの方向が生まれる。そして、その流れのレイアウトが、「私(私たち)である」と感じる領域の中に流れの場を作り出す。

その場は例えば(探索的な)移動を促し出会いを活性化するような質のものもあるだろうし、そこにじっと立ち止まり、直接的な出会いの質を静かに高めていくことを促すような質のものもあるだろう。そのレイアウトはある程度の部分が建築によって生み出されるものだと思うが、決して固定的なものではなく、「私(私たち)」によってその都度経験的に発見される自在さをもったものであり、そういった自在さを含めて、その場に特有の流れというものがあるように思う。

流れのスケール

また、エイドリアン・ペジャンによると、あらゆる流れが、より良く(より早く、より容易に、より安く)流れるように進化し、それは、最も多くの流れをより早くより遠くまで動かす流れと、もっと少ない流れをもっとゆっくりもっと短い距離だけ動かす流れの2つで構成され、それらの流れに要する時間は等しくなる。また、このの構成は階層的・入れ子的に多くのスケールの構造となり、それぞれのスケールにふさわしいデザインとなる、という。

これを建築の出会いと流れに当てはめて考えてみると、流れはその場のスケールにふさわしい大きさと速さとデザインとなる。例えば、都市のスケールではその場はより大規模に早く流れ、建築のスケールでより小規模にゆっくりと、よりヒューマンな体験として流れる。それらは分断されたものではなく、一連の流れであり、それぞれのスケールに対してふさわしいかたちをとる。例えば高速道路の脇に、普通の住宅が普通の配置デザインで建っていたとしたら、おそらく異様な光景だろうし、きっとその流れの速度に相応しい住宅のデザインがあると考えるはずだ。同様に、身の周りの建物のデザインを見てみると、その場の流れに相応しいもの、流れとは全く無関係に見えるもの、いろいろとあることに気づくかもしれない。

このように考えてみると、都市と建築の関連と役割がぼんやりとではあるがイメージできる。その場のスケールに相応しい流れの場と出会うことによって、例えば都市と建築、さらに小さなスケールが一つの流れとしてつながることができる。

人は建築で、場の流れと出会う。また、その流れはスケールに対してふさわしいかたちをとる。




 二-五 移動―私のいる空間が私である

私のいる空間が私である

人は見渡す、歩きまわる、見つめるなどの探索的な移動(ここでは身体を動かさずに環境を探索するような行為や想像力も含む)によって、あらゆる場所に同時にいる、もしくはあらゆる場所にいることが可能、というような感じを得る事が出来る。それは、「私のいる空間が私である(ノエルアルノー)」というような感覚かもしれない。

この「私である」と感じるような領域は、想像力も含めた探索的な移動によって大きく広げることができる。

例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になるし、高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じるかもしれない。快適なテラスは家の中にいながら外部へ、そして空へとイメージを広げるし、さらに想像力をたくましくすれば空は地球上の全ての場所とつながってると感じられる。鹿児島のシンボル的な存在である桜島はそれが見えることで私たちのイメージを一気に引き伸ばしてくれる。

また、視線の先に階段があるとそれば、その階段を直接登れないとしてもも、階段は登ることを想像させその上の部分にまで私の領域を広げる。(これを場所のチラリズムと呼んでいた。)。

こんな風に、移動によって、「私のいる空間が私である」と感じるような領域は大きく広がるが、そこにはその領域を広げるような出会いの積み重ねがある。

そして、「私のいる空間が私である」と感じるような領域は社会的に共有できる。同じ景色を見ている、同じ場所に住んでいるというように、「私たちのいる空間が私たちである」と感じるような領域へと拡張できるだろう。この「私」から「私たち」への拡張は、その場所やへの愛着や他の「私たち」への親しみといった社会的な感情の礎になるように思う。

この「私である」と感じる領域、または「私たちである」と感じる領域は、おそらく探索的な移動の中で何とどれだけ出会えるかと関連があるだろうし、その領域をかたちづくる出会いの多くは建築に関わるものだと思う。

人は建築で出会い、「私である」と感じる領域、または「私たちである」と感じる領域をかたちづくっていく。




 二-四 自然―抽出と再構成

自然の再構成

光や雨・風・熱・緑・その他自然の要素はそれ自体が生きていくために必要な情報に満ちていて、意味や価値で溢れている。

まず単純に、人は建築で自然と出会う。おそらくそこでは、根源的な悦びややすらぎ、あるいは親しみのような何かと出会っている。

それに加えて、自然との出会いに感じる「何か」を観察し、その特質を抽出・再構成することで、その「何か」との出会いを建築として再現したようなものがある。

例えば、比例などによるプロポーションや、1/fゆらぎのリズムによる配置、あるいはフラクタルな構成など。

後期のコルビュジェはモデュロールによってより自由に振る舞えるようになったそうだけど、それは「何か」と出会うきっかけがモデュロールによって既に埋め込まれているからかもしれない。

また、まちの中には自然そのものの他にも、これまでの歴史の中で埋め込まれてきた自然性のようなものがたくさんあり、それによって悦びや、やすらぎ、親しみと言ったものが得られているのかもしれない。(ここでも、もしそれらがなかったら、と想像してみると良いと思う。)

人は建築で、自然そのもの、または再構成された自然と出会う。




 二-三 五つの探索モード―重なりと責任

探索モードの重なり

人の知覚をベースとした出会いの探索には五つのモードがある。一つは先に書いた「重力」との出会いを探索するモード。後の四つは、「見え」「音」「感触」「味と匂い」のそれぞれとの出会いを探索するモードである。

知覚をベースにしたそれらのモードは、実際には複数のモードによる出会いが重なりながら、一つの出会いの感じを生み出す。

例えば、洞窟の中に温泉があったとすると、そこでは、暗闇の中の水面の光といった「見え」、洞窟で反響した水の「音」、温泉独特の肌触りや温度による「感触」、硫黄の「匂い」などといったそれぞれでの出会いが、この場所に特有の感じ、固有性を与える。

建築はそれらの全ての探索モードに関わることができ、その重なりによる固有性と出会える重要な存在だと言えそうだ。

おそらく、そこで生まれた固有性と多様に出会えることは幸せなことだろうし、その機会をなくしてしまうことはもったいないことなんじゃないだろうか。だとすると、そこには次の世代に対する責任があるはずだし、建築における出会いの形式を守ったり、新しく考えたりすることには倫理的な意味があるように思う。

人は建築で、出会いの重なりによる固有性と出会う。そして、そこには次世代に対する責任がある。




 二-二 姿勢―重力の現れ

活動の基本としての姿勢

この世界は基本的には重力に支配されている。その中で、姿勢を保つことはあらゆる活動の基本であり、人は、どこを歩けるのか、飛び越えられるのか、座りやすい場所はどこか、ここで横になるのは安全で心地よいか、などと姿勢の可能性を絶えず探っている。

また、建築を含めたあらゆる物も重力に支配されている。人は、重力を介した物と物との関係性・姿勢からも重力の作用を読み取る。

例えば、建築家は力の流れを素直に表現して安定感を出したり重力を可視化しようとしたりするし、逆に、重力を感じさせずに浮遊感を与えたりして、重力との出会いをより強調したりする。

重力との出会いは、人間の活動の基本であるため、出会いの感じも強いものになりそうだし、それゆえ重要な出会いだと言えないだろうか。

人は建築で、姿勢・重力と出会う。




 二-一 素材―固有性と社会性

素材と固有性

まず、人は素材と出会う。
人は、その素材の特質・テクスチャから情報を抽出し、例えばどんな物質で構成されているのか、硬いのか柔らかいのか、曲げられるのか、壊れるのか、食べられるのか、といったさまざまな性質を特定する。それは生きていくために意味と価値を抽出していく過程と言える。

その先で、人は固有性と出会う。それがそれであること、いうなればものの固有性は、生きていくための環境を特定する上で不可欠なものである。逆に、固有の情報が読み取れないところに意味や価値を見い出すのは難しいだろう。固有性というのは、出会いにおいて意味や価値を見い出すための前提なのである。

一方、現在のものづくりの現場の多くはは大量生産による工業製品に覆われている。工業製品の理念は多くのものを同じ品質で生産することにあり、そこでは固有性のようなものは注意深く取り払われている。

これまで純粋な実感として、工業製品の多くは人々の気持ちを受け止める力が弱い、と感じていたのだが、この文脈で言えば、環境を特定する情報・固有性に乏しいため、意味や価値を見い出しにくくなっている、と言えそうである。例えば固有性に乏しい工業製品が年月を経て風化することで味が出たり愛着を感じることがある。風化と言えば否定的に聞こえるかもしれないけれども、徐々に固有性を獲得していった過程だと考えると肯定的に捉えられそうな気がしてくる。

ただし、工業製品の持つ役割や意味も理解できるし、大勢を占めている工業製品を全て悪、と決めつけるのも可能性を狭めてしまうように思う。また、固有性は素材だけから導かれるものでもない。素材そのものの固有性に頼らない場合でも、別のルートによって固有性を獲得し、意味や価値を発生させる建築というものがあるように思う。

また、固有性が出会いにとって重要だというのは、禅の思想にある、主客の分離を超え、あらゆるものを否定し尽くしてもなお残る「個」というものに近いように思う。

道元は「山是山(山は山ではない、山である)と言ったそうだ。

観念としての「山」ではなく目の前のそれがそれであるところの山を感じることが悟りの感覚である、というようなことだろうか。これは「山」という言葉によって、つい出会いが間接的なものになってしまいがち(「山」という言葉の示す観念としての「山」と出会ってしまいがち)なのを、目の前の山へと引き戻し、山そのものと直接向き合い出会えるように導く、ということではないだろうか。

固有性と社会性

また、固有性を持つことは社会性とも深く関係がある。

柄谷行人によれば、社会性とは異なる共同体との間に生まれるコミュニケーション、内面化されない他者との対話の間にうまれるものである。全てが内面化され、固有性を持たず、新たな出会いの生まれないところでは、対話は成立しないし、社会性も生まれない。

例えば大量生産型の住宅が「商品」となり、全てを客の内面化可能な範囲にコントロールしようとする方向で構造化されてきたことを考えてみよう。

このような「商品」としての住宅は、誰でも設計・施工することができて、たいていの客の理解の範囲内にあり、クレームを最小限に抑える必要性を満たすことが求められる。そうでなければ、多くの人に受け入れられるように商品として展開することができない。

そのため、そこで用意されるものや価値観は多くの客が内面化できるもの(またはそう錯覚されるもの)となるように、厳選の上コントロールされている。そこで与えられる価値観もそこから外れないように予め準備されているものだ。固有性を装うことはあっても、実際には固有性は取り除かれ、「内面化されない他者」となることは注意深く避けられている。他者となることを嫌う。それが商品化住宅の宿命である。

そういった場は新たな出会いに乏しく、その場との対話は生まれにくい。固有性を持たないもの、すなわち社会性の契機のないものばかりに囲まれたまちがあるとすると、そこでの生活や子供の成長といったものはどんなものになるだろうか。無意識に不安が蓄積したりしないだろうか。よく、そんなことを考える。

「建築は社会性を持つべきだ」という話をたまに聞いたりする。しかし、その意味するところは良く分からないことが多い。

自立に関するところでも書きたいと思うが、建築はまず、固有性を持つ存在であるべきだと思う。そうでなければ建築との対話は成立しないし、社会性も生まれない。

「建築は社会性を持つべきだ」というとき、建築は、社会性を持つべき相手にとって、固有性を持った存在であることが、最初の前提だと思う。そうやってはじめて、そこで出会うことができる、すなわち意味と価値が生まれるのである。

「建築は社会性を持つべきだ」というのは、固有性が排除され出会いが失われてきたからこそ生まれた言葉なのかもしれないし、固有性を持った建築が貴重な存在であることを示しているのかもしれない。

人は建築で、固有性と出会う。そして、固有性は社会性の基盤でもある。




二 何と出会うのか

何と出会うのか

では建築で何に出会うことができるのだろう。何に、ということはここまであまり触れずに来たので良く分からなかったかもしれない。これは言葉にしようと思うと案外難しいけれども、思いつく限り挙げてみたいと思う。

先に書いたように、出会いはそのままで、生きる悦びやリアリティ、社会的倫理といったものを宿している。そのことを前提として、何と出会うのか、を考えていきたい。

もちろんこれから書くことは、それで全てではなく、他にもいろいろ考えられるはずだし、便宜的に分けただけのものなので、互いに関連し合ったり重なり合ったりすると思う。
また、何と出会うのかは、目の前の建築の意味と価値を考えるためのとっかかりであると同時に、建築を設計するための一つの視点でもあると思う。この言葉・視点によって、観察と創作の問題がほんの一瞬でも出会う事ができたらな、と思う。




一 出会いについて

建築の意味と価値

「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」と言ったとき、その意味と価値とは何を差すのだろう。
建築の意味といってもなんだか良く分からない、という人が多いかもしれないけれども、とりあえず「建築の意味とは、その建築にどんな出会いがあるか、その可能性の集まりのこと」としておきたい。
意味が豊富な、つまり、出会いの可能性が豊富な建築は、それだけで豊かだと言えそうだし、意味の豊富さはその建築を知りたいというきっかけ、動機になる。

同じように、「建築の価値とは、その建築に含まれる出会いによって何が得られるか、その可能性の集まりのこと」としておく。
価値の大きな、すなわち出会いによって得られるものが大きかったり多様だったりする建築は、言葉の繰り返しになるけれども、価値ある建築だと言えるだろうし、価値の大きさは、その何かを得ようとする行動のきっかけ、動機になる。

例えば、「この建築は文化的に意味と価値がある」と言った場合には、その建築で文化的なものに出会うことができ、そこから、何かしら文化的なものを得ることができる。ということになる。また、その文化的なものに関心のある人はその建築をもっと知ろうとするだろうし、自分たちの集団にとってその建築から持続的に文化的価値を得続けることに意義がある、と認められれば保存や活用をしていこう、ということなるかもしれない。
もし、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」ということが一つのモノサシとして多くの人に共有されるようなことになれば、そこでの出会いと得られるものを整理しながら記述していくことで、その建築の意味と価値を共有したり、議論したりすることができるようになるんじゃないかと思ったりしている。

生きる基礎としての出会いと価値

では、建築における出会いとはどういうものを指すのだろうか?
ということを考えたいのだけれども、その前に、人にとっての出会いはどういうものか、を考えてみたい。
ちょっと回りくどく、分かりにくいかもしれないけれども、出会いが必要だ、と言うためには大切なことだ。

僕たちは、日々、さまざまなものと出いながら生活をしている。そして、意識するかどうかに関わらず、その出会いの中から意味を探り、自分にとって価値のあるものを選び取ることで生きながらえている。

出会うことは人が生きていくための基礎であって、出会うこと=生きること、と言っても良いくらいに大切なことだ。人は(人に限らず全ての動物は)出会い、選択することなしに、生きていけないのだから。
つまり、人にとって出会いそのものが価値だと言える。そうであるなら、人は無意識的であっても出会いを求めるだろうし、進化論的に言うと「環境の変化の中、適切に出会い、価値を得ようとする動機を持つものが選択的に生き残ってきた」とも言えるだろう。また、経験を通じて、適切な出会いと結びつくように学習・成長もするだろう。
もし、周りを見渡しても、何も出会いがなく、意味も価値も読み取れないとしたらどうだろう。または、同じようなものばかりで、多様性もなければ選択肢もないような状況に投げ込まれたとしたらどうだろう。たぶん、そんな環境は耐えられないんじゃないだろうか。逆に、雄大な自然に包まれた時のように、例え自分にとっての直接的な価値はなくても、その場所が多様な出会いに満ちていたとしたらどうだろう。そこになんとも言えない心地よさを感じたりしないだろうか。出会いを追い求めるのが生きていくための術だとしたら、出会いとある種の感情(例えば悦び)が結びついたとしても不思議はないように思う。

つまり、出会いは生きていくことの基礎であって、出会いそのものが価値であり、時に感情とも結びつく。
他のあらゆるもの(音楽や文学、芸術などに限らず、身近ななんでもなさそうなものであっても)と同様に、建築を通じてさまざまなものと出会うことができるし、何かを得ることもできる。それは、建築が生きていくことの基礎に根ざしているということであり、建築の存在そのものが価値や悦びに結びつくかもしれない、ということだ。

人は建築で、生きることの悦びと出会う。

直接的な出会いとリアリティ

出会いには直接的な出会いと間接的な出会いがある。
直接的な出会いは、直接向き合うことができる出会いであり、それをどこまでも細かく調べようとすることができる。
間接的な出会いは、他者によって何かしらのかたちで切り取られたものとの出会いであり、その切り取られた範囲以上に向き合い調べることはできない。 
例えば、「リンゴ」という文字やリンゴの写真は、文字や写真そのものとは直接的に出会うことはできるけれども、リンゴそのものとは間接的に、一定の範囲でしか出会うことができない。

では、動物の生存にとって、直接的な出会いと間接的な出会いのどちらが重要だろうか。単純に考えたら直接的な出会いだろうが(リンゴは食べられるけれど、リンゴの写真は食べられない)、人のような社会性を持つ動物にとっては間接的な出会いが可能性を押し拡げるかもしれない(リンゴの木のありかを示した地図は食べられないけれども、たくさんのリンゴを食べられるようになるかもしれない)。どちらが良いとは言う話ではなく、それぞれ役割が違うということかもしれない。

だけども、どちらにリアリティを感じるか、と言えば直接的な出会いの方だろう(リンゴの写真には写真としてのリアリティは感じるけれどもリンゴとしてのリアリティは感じない)。
この、どこまでも細かく調べようとすることができるという可能性の存在が、人との結びつきを強め、直接的な出会いにリアリティを与えるのかもしれない。また、そうだとしたら、どこまでも調べようとするような、能動的な姿勢がリアリティを引き出すとも言えそうだ。
(例えば、リンゴとリンゴの写真を全く同じ見え方になるように二つ並べて、それを、周りの環境変化がない部屋で、全く頭や眼球を動かすことなく眺めたとしたら、すなわち能動的な働きかけを禁じたとしたら、おそらくどちらが本物か判別ができないだろう)

このリアリティの感じ方の差は、今後、技術によってどんどん埋められていくのだと思うけれども、まだ直接的な出会いの持つリアリティの方に分があるだろう。建築にはさまざまな直接的な出会いが埋め込まれている。それゆえ建築は、これからも人々のリアリティを支えるような役割を担っていくのだと思う。(技術によって、間接的な出会いのリアリティが直接的な出会いのリアリティを凌ぐようなことがあれば、違う可能性が無限に広がりそうだ。そうなれば、建築の役割は何か、という問いをより強く突きつけられるんじゃないだろうか。)

建築で人は、リアリティと出会う。

メディアとしての出会いと超えていく力

また、出会いはメディアである。そこにある出会いは、他の人も出会うことが出来るのだ。
例えば、みる人に感動とインスピレーションを与えるような絵画が描かれたとする。それを見た他の誰かが、何かを受取り、新しい他の何かを生みだしたりするかもしれない。その誰かは、言葉の通じないような他の民族かもしれないし、ずっと後の時代の、全く別の場所の誰かかもしれない。
こんな風に、出会いは、時間、空間などさまざまなものを超えていくことのできるメディアであって、そこでコミュニケーションが発生したりする。
建築は長い間そこに存在し続けることのできるメディアである。古い建築を通じて、何百年、何千年も昔から今に至る間の何か、例えば当時の社会状況や価値観、職人の技術や思考など、さまざまなものと出会うことができるかもしれない。または、今作ったもの、今使っているものと、何百年後の誰かが出会うかもしれない。そういう役割を担っているとも言えそうだ。

建築で人は、時間や空間、個人の殻や社会的な壁など、さまざまなものを超えて、さまざまに出会う。

共有物としての出会いと倫理

さらにもう一つ。出会いは共有物である。
人が他の動物から突出しているのは、人は集団として出会いを共有化し蓄積してきた、ということだ。
人は個人として何かと出会い、価値を得、学ぶだけではなく、それを、例えば知識や文化・技術として、文字や言葉、言い伝えや祭り、教育システムや師弟システム、その他さまざまなものに埋め込んでいく。そうして埋め込まれたものを蓄積し、更新していくことによって、人間の集団は文化的・歴史的に発展してきた。
そこで、人は個人として出会いを求めるだけでなく、集団としても出会いを求め、共有物としての出会いを蓄積しながら集団に還元していく。それは、メンバー各々の出会いの可能性を担保しようとすることでもある。変遷する多様な世界で、多様な人々が多様に生きていくには、多様な出会いの可能性が社会に存在している必要があるのだ。
そういう風に、集団が出会いを共有化・蓄積していくことは社会的倫理なのである。

そして、先に書いたメディアとしての建築の、長く存在し、さまざまなものを超えていく力は、この集団(社会)の共有物としての出会いを建築が担えること、建築が倫理的な存在であり得ることを示しているし、建築をつくり守ることによって、個人に「その社会的倫理の一端を担っている」という悦びを与えるものでもある。

人は建築で、可能性と社会の倫理と出会う。

出会いはなぜ重要なのか

出会いはなぜ重要か。
それは、出会いが生きる悦びやリアリティ、社会や文化といったものに、アプローチするための足がかりを与えてくれるからであり、そこに意味や価値、倫理といった建築の存在に対する肯定的意味や社会的役割のようなものを見いださせてくれるからである。
しかし、その重要性は建築の専門家だけのものでは決してなく、社会の一員である多くの人々にとっても重要な事だと思うのである。




〇 はじめに

目の前の建物を語る言葉

今、目の前にある、その建物。

その建物に、どんな意味や価値があるだろうか。また、それを語る言葉を持っているだろうか。

多くの建築家と呼ばれる人々は、建物を設計する際に、または、ある建物に意味や価値を見出した時に、あるいはその建物が意味や価値を持つことを期待して、その建物のことをわざわざ「建物」ではなく「建築」と呼んだりする。そして、その建築の意味や価値をどこまでも追い求める。

だけども、建築家たちが切磋琢磨して追い求める、その建築の意味や価値は、多くの人々に認められていると言えるだろうか。

『良いものをつくれば、それは必ず人々に伝わるはずだ。』

もしかしたら建築家はこう言うかもしれない。それはある面で正しいと思う。だけども、やっぱり多くの人々はその建物を語る言葉を持っていないし、その素晴らしさに気付くことなく通り過ぎてしまう。

まちの景観や、歴史的建物の保存・活用などが、限られた人たちだけの話題となってしまい、なかなか有益な議論や結果に結びつかない、ということの根底には、殆どの人の中には、建築という概念、または建築の意味や価値を語るための言葉が存在していない、ということがあると思う。

建築は、私達の生活する環境をかたちづくるものであって、生きていくうえで大切な要素だと思うのだけど、ほとんど人に語られてこなかった。まずは、誰でもが建築の意味や価値について考えられるような、言葉や状況を生み出す必要があるんじゃないだろうか。

そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。

唐突だけども、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」という説を、建築を考えるための一つのモノサシとして提案してみたい。
そして、そのモノサシが、、多くの人々が建築の意味と価値を考えたり、議論したり、つくったり、守ったりするための礎になることを夢想してみたい。

例えば、身の回りのの建築の中にどんな出会いが隠れているか探ってみたとする。

すると、たくさん見つけられる建物、ほとんど見つけられない建物、いろいろ出てくるだろう。好きなまちや建物にどんな出会いが含まれているかを思い浮かべて、目の前の建物と比べてみても良い。身の周りの環境に以外な魅力をみつけるかもしれないし、もしかしたら、そこに含まれる出会いの薄っぺらさに愕然とするかもしれない。
(その前に、出会いって何のこと?と思うかもしれない。それは順番に書いていくので、とりあえずは、その場所で自分の心や行動に何かしらの影響を与えるもの、くらいで捉えておいて欲しい。)

二十世紀は、出会いをなるべく抑制し、均一なものとすることによって、住環境の工業化や商品化を進めてきた。工業化や商品化は、均一であることを善とし、予期せぬ出会いはそれを乱すものとして悪者扱いされ慎重に排除される。その流れの中で、多くの出会いの機会が失われ、生活がのっぺりとしたものになってしまったように思う。

だけども、それが良いことなのか悪いことなのか、というのは簡単には言えないかもしれない。ある面で、人はそれを求めて来たのだし、風向きは変わりつつあっても多くの人は今もそれを求めている。どんなものにも得るものと失うものがあり、何かの価値があるのだと思うし、人に求められてきたものにはそれなりの理由があるはずだから。

建築の意味と価値を信じたい

善悪の判断は難しいけれども、それでもなお、「そこにどんな出会いがあり、何が得られるか、が、その建築の意味と価値である。」ということ、建築には意味と価値があり、それを考え、語り、つくり、守ることが必要だ、と言ってみたい。

それは、建築というものの価値を肯定的に捉えて信じたい、という職業的な願望もあるけれども、いろいろ調べているうちに、そんな風に一度言い切ってしまうことによって、はじめて描ける世界観や倫理観があるんじゃないかと思えてきたのだ。

ここで書こうと思っていることは『Deliciousness おいしい知覚』の本文、及び引用元の文献が基にあるけれども、ここでは、そこで使われているような専門的な言葉や引用をできるだけ使わずに、なるべく簡単な言葉で書いてみたいと思う。

そして、それが誰かが建築の意味や価値について考え始めるきっかけになれば、と思う。




SILASU 社会科見学 vol.1 しょうぶ学園 に行ってきました。

SILASUによるイベントがしょうぶ学園であったので行ってきました。
FACEBOOK : SILASU 社会科見学 vol.1 しょうぶ学園 アール・ブリュットのお話と工房しょうぶを訪ねる

孤独ではなくハッピーを

工房の見学ツアー・トークライブ・ottoによるミニライブと内容盛りだくさんだったのですが、しょうぶ学園施設長の福森さんの話は前からお聞きしたいと思っていたので楽しみにしていました。

というのも、10年前、GOODNEIGHBORS JAMBOREEのotto&orabuのライブで衝撃を受けて、しょうぶ学園が気になりだしたのですが、以前、福森さんがアフォーダンスという言葉を使われているのを見て、これは一度お話を聞かなければ、と思っていたので。

今日、お話を聞きながら頭に浮かんだのが、保育における環境構成論(これも理論的背景にアフォーダンスがあります)と発達保障理論(話を聞きながら、これを書いたの、もしかして福森さんだったのでは、と確認したくらい)でした。

スタッフが利用者のやりたいことを引き出すように環境を整える役割を担う、というのは保育における環境構成論にそのまま重なるように思います。

ただ、保育の場合はそこに発達という目標が見いだせるけれども、しょうぶ学園のスタッフの方は、例えば関わるモチベーションとして何に向かっているのだろう、と思った時に、福森さんの話を聞いて浮かんだのが「発達保障理論」でした。
一般社会にあるような評価は軸の考え方次第で個性と捉えなおせるのだとしたら、その個性を伸ばそうと向き合うのも目標になりうるのかなと。

理屈としてはそんなことを考えたのですが、福森さんの話を聞いていると、健常者と障害者、サポートする人とされる人、というような関係は簡単に反転され無効化されますし、理屈よりもまず、実践されていることそのものの強さ・価値をまざまざと感じ取らされて、スタッフと利用者の関係性がとても羨ましく思えてきます。

工房で見た作品たちを見てため息がでるのも、そこに個性と、個性を個性のまま認めてくれる人の関係性を感じて、羨ましく思えてしまうからなのかもしれないですし、それを感じたくて、ここを訪れる人もたくさんいるんだろうな、と思いました。

また、福森さんは、今回のテーマであるアール・ブリュット(鑑賞されることを目的としない純粋で生の芸術)という言葉を使わない、という話も印象的でした。

アール・ブリュットが孤独感や危機感から逃れるためにつくられるとすれば、福祉の視点からは(例えそれに心を動かされたしても)それを絶賛することはできない。孤独や危機感を開放するのが福祉。環境として仕掛けていくことで作品が生まれることがあるけれども、それによって、孤独ではなくハッピーにならなければいけない。
というようなことを言われたのですが、otto&orabuや工房の作品に感動させられるのは、こういうことなんだな、と思わされました。やっぱり羨ましいなー。とも。


まだ、書いておきたいことはいろいろありましたが、アール・ブリュットのことや、建築をつくることとの関連は、会場で買った2冊の本を読んだ時に書けたらいいなと思います。(『アール・ブリュット』エミリー・シャンプノワ (著), 西尾 彰泰, 四元 朝子 (翻訳) と 『ありのままがあるところ』福森 伸 (著))
読むのが楽しみです。

 




珪藻土試し塗り


うちで定番化しているDIY用の珪藻土ローラー塗り。

実施した季節によっては、ボード継ぎ目のクラックが入ることがあったため、新しい下地材の検討。
使い勝手とコストのバランスが良ければ採用したいと思っています。
試し塗りをした感じだと、塗料のノリが良いので塗りやすそうですし、継ぎ目を丁寧に塗れば一回塗でもいけなくはなさそうです。

今回は新しい色も試してみようかと思っています。




千年の家 建て方

今日は桜ヶ丘の家の建て方でした。

階高は低めに設定することが多いのですが、今回は途中収納スペースを挟み込んだりして1階の階高をいつもより高めに設定しています。

ですので、1階が組み上がってきた時のプローポーションがとても新鮮でした。
内部が仕上がってきた時にどういう感じになるか、楽しみです。

上棟の儀。今だけの風景。ここで一杯やりたい。




外部空間に恋して ~KDP主催の講演会

KDP主催で、昨日、今日と建築家の酒井一徳さんと手塚貴晴さんの講演会があったのですが、県内の建築家の話を聞くのも、著名な建築家の話を聞くのも、どちらも貴重な機会だと思い参加してきました。

酒井さんの話は遠くの話のようで、身近な話でもあり、奄美大島という場所を拠点に奮闘を続けられている姿にたくさんの刺激を頂きました。
また、手塚さんの話はそこにいる人達が、そこにいることを心底楽しんでいる様子が伝わってきて、あらためて建築の可能性に触れられた気がしました。

外への憧れを思い出す

思い返してみると、方法は異なるかも知れませんが、酒井さんも、手塚さんも、どちらも外というものを信頼し、大切にされているように感じました。
酒井さんは、中庭やハイサイドライト、トップライトなどを用いることと、視線などをコントロールすることを併用しながら、外へとつながる豊かな場所を生み出すのが上手く、体験として外の感覚を持たれているんだろうな、と思いました。

手塚さんは、そもそも内だ外だと言ってるのがナンセンスに思えるくらい、そこにいる人(特に子どもたち)が内も外も変わらず楽しんで使っていて、人間本来の姿を見せられたように思いました。建築よりも先にそこにいる人達がいきいきとしていることに感動させられました。

そういえば、と、自分も、昔から屋上という場所が好きだったり、例えば20畳のLDKをつくるよりは10畳のLDK+10畳のテラスなどをつくる方が気持ちが良いんじゃないか、と思っていたり、外に対する強い憧れを持っていたことを思い出しました。

予算や敷地の関係などで、実務の中では思い切ったことがあまりできていないのですが、こういう外への憧れは時々自分の中に浮かんできます。
手塚さんのスライドに出てくる子どもたちをみると、やっぱり、建築の豊かさって外の豊かさによる部分もかなり大きいんじゃないか、という気がしてきます。
(内部の面積を一般的な予算で可能な面積の3分の2以下にしてもいいので、その分豊かな外をつくりたい、という奇特な方はいらっしゃいませんかー)

また、ニコ設計室の建物を見てすごく感じたのですが、よく言われるマチに開く、というのは、オープンさ・透明さというよりは、外をどう使い倒しているか、が重要なのではないか。建物の内部に籠もり切っていない、という姿勢の表れこそ重要なのではないか、という気がします。
酒井さんの一部の建物のように、たとえ一見、外部からの視線をシャットアウトしているような屋外空間だとしても、そこに、人に楽しく使われている外がある、というのが分かれば、僕はすごく親しみを感じてしまいますし、それも一つのマチへの開き方だと思います。

大断熱時代の外を考える

さて、今後日本も大断熱時代に突入していくと思いますし、それはとても重要なことだと思います。

一方で、手塚さんの人間は本来、雑多なもの(音・光・温度・細菌等々)に囲まれていることでバランスが保たれているという話は体感的に共感できましたし、個人的にも大切にしたいと思うことと重なります。
しかし、根本的な姿勢の部分で、手塚さんの言われたことと、建物の外皮を強化して内部を外の環境から切り離すこととは、少なからず相反する部分があるように思います。

これに関しては自分の中でも揺れ動く部分があって、「建築全体の豊かさが上がるのであれば断熱性能は多少犠牲になってもいい、という考えは言い訳なのではないか」とか「断熱を言い訳にして本来の豊かさを犠牲にすることは人間にとって(特にこどもたちにとって)本当に良いのか」と、いろいろ考えてしまします。

どちらも満たせるのが一番に違いないのですが、この大断熱時代において、豊かな建築のあり方とは何か、もしくは豊かな外のあり方とは何か、しっかり考えて答えを見つけていく必要があると改めて思わされました。

実は、これに関してもニコ設計室の建物がヒントになると思っていて、彼らの建物の多くは内部と同じように外部も人が使う大切な場として、マチと建物の間に挟み込まれるようにつくられていて、そういう建物は内部を高断熱な仕様としても、外があるおかげで息苦しく感じる建物にはならないように思います。また、うまくすれば外部が内部の温熱環境をコントロールするような役割を果たすことができそうです。
もしくは内部空間を温熱環境の異なる入れ子状の構成にすることで、外部との繋がり方をの度合いをコントロールすることもできるかもしれません。

まー、いずれにしても、一定の予算の中でどう実現するかというのが課題にはなってくるのですが・・・。

(もう一度。内部の面積を一般的な予算で可能な面積の半分以下にしてもいいので、その分豊かな外をつくりたい、という奇特な方はいらっしゃいませんかー)

※タイトルは象設計集団の『空間に恋して LOVE WITH LOCUS 象設計集団のいろはカルタ』のもじりです。そういえば象設計集団の外部は大好きです。




詩を編むように

このブログでは20代の頃から考えてきたことをいろいろと書き綴ってきているけれども、書いていることの根っこにあるものは昔からほとんど変わっていない。

子どもの頃や若い頃に感じたことの先には何があるのか、それを知りたいというのが一番の原動力で、主に何かを見たり、読んだりした時に感じたことを起点に自分の中の言葉を探そうとしてきた。

そして、ふと、今の自分にはどんな言葉が残ってるのだろう、という思いが湧いてきた。
昔のようにいろいろな言葉が次々と押し出てはこない。

しばらく考えて、なんとなく頭に浮かんだのは『詩を編むように、建築をつくりたい』という言葉。

これは、ふと浮かんできただけで、うまく説明できないけれども、これまで考えてきたあれやこれや、いろんなことが詰め込まれていそうな気がする。

現実的な経験を積んでくると、考えるときのモードが経験に支配されて、昔のような瑞々しさを失ってやしないかと不安になることがある。
だけど、この言葉は思考のモードを、経験と瑞々しさを合わせたようなものに整えてくれそうな予感がある。考えるときの姿勢を正してくれるというか。

実践以外の場でどんなにいろいろなことを考えても、そのままではなかなか建築そのものには持っていけない・届かない、というのがこれまでの実感である。
届けようとすれば、それを意識的に具体的な方法論に変換しインストールするか、実践に対する姿勢が無意識的に影響を受けていくのを待つか、のどちらかしかないように思う。

あくまで予感にすぎないので上手くいくかは分からないけれども、この言葉は後者に対して作用してくれそうな気がする。
少し待ってみようと思う。




既存住宅調査

不動産のお客様からご依頼があり、吹上の既存住宅の調査に行ってきました。

お客さんによると、内部の壁に一か所大きなひび割れがあり、家が傾く等問題がないか心配なので、ホームインスペクションをお願いしたい、とのこと。

宅建業法で位置付けられている「既存住宅状況調査」を行うことも出来ますが、この調査は状況をざっくり確認し、それを客観的な物件情報の一つとすることには意味があっても、それだけでは、具体的にその建物がどういう状況で、どのような対処が必要か、またどのような性能を充たしているか、といった個別の疑問には答えてくれません。

今回は、売主側からの依頼ではなく、買主側の疑問に答えることが目的なので、公的に位置付けられている「既存住宅状況調査」ではなく、建築士の視点からの個別調査というかたちで行うことを提案しました。

問題のひび割れ箇所を見てみると、塗材や左官材ではなく、ビニールクロスの壁が、縦に引き裂かれる形で割れていました。外周部の壁であったことから、外部を確認したところ、外壁や基礎には特に異常は認められません。

次に、不同沈下していないか外壁下部のレベルを確認してみました。

周囲を数カ所測量したところ、数ミリの違いしかなく、測定誤差・施工誤差の範囲でほぼ水平と言って良い状況でした。

ひび割れの原因が不同沈下でないとすれば、この状況で考えられるのは、下地等の木材が乾燥収縮等することで引っ張られたのではないかということ。ひび割れ位置はちょうど950モジュールのグリッド上にあります。

小屋裏に入れば何か分かるかと思い、押し入れ等の天井を探るも点検口はなし。幸いユニットバスに点検口があったので小屋裏に潜って状況を確認してきました。

問題の場所に行くと、ちょうどその位置にある柱が大きく背割れしていました。背割れに沿って壁下地が移動しひび割れが生じたのは間違いなさそうです。

せっかくなので、構造や断熱の状況を一通り見て回り、結果を報告。
・問題のひび割れは柱の背割れによるもので、地盤や構造の問題ではないので心配はいらないこと。
・ただし、筋交いの位置や本数、金物の使用状況などの構造的な状態や断熱の状況は、当時建てられたものによくあることではあるけれども、改善の余地があり、かつ改善は可能であること。
・その状況は、現場の割と丁寧な仕事の感じからして悪意ではなく知識不足によるもので、それほど不安にならなくても大丈夫であろうこと。
などをお伝えしました。

今後の判断材料に使ってもらえればと思います。
住まいと土地のコパン+オノケンではこのような調査も行っています。(費用は内容によります。)


↑今回、やむなく一番下のちびを連れて行ったのですが、後で真似をしていました。
 よく見てるなー




ダイアローグによって建築をつくりたい B229『見たことのない普通のたてものを求めて』(宇野 友明)

宇野 友明 (著)
幻冬舎 (2019/11/26)

twitterで知り合った友人が、この本を読んだ感想として「何となくオノケンさんと話をしている、あるいは話を聞かせて貰ってるような、そんな感じだった。」と書かれていたのを見て興味を持った。

最初は、自分と同じようなものであればむしろ買って読むまでもないかな、と思ったのだけど、その友人は、と同時に何かしら反発心のようなものもあったそうなので、なおさら読まねばいけない気がした。

モノローグとダイアローグ

著者は、設計者として独立した後、設計と施工が分離した状態に疑問と限界を感じ、自ら施工も請け負う決断をしながら、何よりもつくるということそれ自体を大切をしている。

建築の精度も経験の深さも全く敵わないけれども、求めているものはやはり自分と近いものを感じた

それを実践されていることに羨望の念を抱くことはあっても、大きな反発心を感じることはなかったように思う(反発心を感じられなかった自分には少し残念な気持ちもある)。

しかし、同時に自分と異なる部分も感じる

どこに、その違いを感じるのだろうかと考えて気づいたのは、著者の文章は断定的な物言いが多いけれども、自分はどうしても「~と思う。」「~ではないだろうか。」といった曖昧な表現で終ることが多い、ということだ。

それは、自分の文章、というより自分の行動に対する覚悟の違いであることは間違いない。自分はそれほどの強さを持てていない。
だけども、それだけではないような気がする。

思えば、自分も学生時代、当時の関西の建築学生の例にもれず、安藤忠雄に傾倒している時期があった。その覚悟に満ちた凛とした姿勢の建築に大きな魅力を感じた。
しかし、大学を出てからは、それとは違う、もしくは対局にあるような建築の魅力というものもあるのではないか、という気持ちが芽生えつつ、安藤忠雄の建築のような魅力も捨てられないという迷いの中を彷徨うことになる。
それは、現在に至るまで続いており、このブログは、その迷いの先にあるものを探し続けてきた記録でもある。

今のところ、そのどちらでもあり、どちらでもないような、建築の在り方を求め続けるプロセスの中にその答えがるのではないか、と思い至っており、それが曖昧な表現につながっているように思う。

言い換えると、おそらくモノローグではなくダイアローグによって建築をつくりたいのだ。

著者は、自分の中の声に、職人の手の声に、素材の声に耳を澄ませ、偶然もしくは天の声に身を委ねており、決して独りでつくっているわけではない。しかし、その声を限定し削ぎ落としていくことによって強さを獲得している、という点でモノローグ的であると思う。
しかし、そうではなく、なるべく多くの声との対話を繰り返すことで建築に強さを与えるようなダイアローグ的なつくりかたもあるのでは、と思っている。

それは、著者や安藤忠雄の建築を否定しているのでは決してない。
そうではなく、彼らがそういう風にしかつくれないように、自分にもこうしかできない、というつくりかたがあるのだと思うし、今、さんざん迷いながらもたどり着いているものは、それが今の自分の姿なのだと思うのだ。(それを受け入れてよいのでは、もしくは受け入れるしかないのでは、と思えるようになったのは最近のことだけれども。)

プロと出会い、仕事の舞台を整える

さて、最初に書いた友人の抱いた反発心について、自分は同じようなものを直接的には感じることは出来なかったけれども、設計者の仕事の意義や役割について人一倍責任感の強い(と思う)氏のことなので、思うことは分かる気がする。

著者が信頼できる職人と出会い、その職人が良い仕事ができるように準備することをその職務としているように、設計者も信頼できる施工者と出会い、彼らが良い仕事ができることをその職務とすることはできると思うし、設計と施工を統合することに意義や可能性があるのと同様に、設計者であることに専念することの意義や可能性もまた存在すると思う。

いずれにせよ、良い建築をつくるためにやるべきは、自分の仕事に責任と誇りを持っているプロと出会い、彼らが良い仕事ができるような舞台を整えることである。
そして、そのどちらも困難で大変な大仕事には違いないと思う。




家は特別。

このサイトの左下にあるコピーライト(©2002 onoken )の©の文字のところが、こっそりランダムボタンになっていて、どこかの過去記事に飛ぶようになっています。

よく自分でこのボタンを押して、このころはこんなこと書いてたんだな、と思い出したりするのですが、その時思ったことを時々ここに書いてみようかと思います。( デザインのたねの続きの感じで。)

今回はこれに飛びました。
オノケン│太田則宏建築事務所 » B134『くうねるところにすむところ06,08,14,16,21』

このシリーズ、最後に書いてある「発刊のことば」がすごく好きなのです。

環境が人を育みます。家が人を成長させます。家は父でもあり、母でもありました。家は固有な地域文化とともに、人々の暮らしを支えてきました。かつて、家族の絆や暮らしの技術が家を通して形成され、家文化が確かなものとして水脈のように流れていました。
いま、家文化はすっかり枯れかかり、家自体の存在感も小さくなり、人々の家に対する信頼感も薄らぎ、急速に家は力を失いつつあります。家に守られる、家を守る、家とともに生きるという一体となった感覚が、極端に衰退しています。
(中略)家の確かさと豊かさと力強さを取り戻すため、建築家が家の再生に取り組む必要があります。
その第一歩として大切なことは、まず建築家が、子どもの目線で家について伝えることです。本書は、子どもたちが家に向き合うための建築家、そしてアーティスト、作家などによる家のシリーズです。(『発刊のことば』より)

 
 
建物にも、オフィスや商店、駅や学校など様々なものがありますが、家というのはその中でも特別なもので、これほど人の生活と直接寄り添いあえるものは、なかなかないと思います。

だからこそ家は確かで、豊かで、力強いものであって欲しい。(と同時に、時に不確かで、控えめで、弱々しい部分もあわせ持って欲しいとも思うのですが。)
 
 
いやいや、まちもみんなの家みたいなものだと考えたら、オフィスや商店、駅や学校だって、人の生活と直接寄り添いあえるようなものの方が良いに違いない、と思いますが、それでもそれはみんなのもの。

家はやっぱりその人にとっての特別なものだと思いますし、自分が関わった家がそうであってくれたらいいなと思います。




あいだにある壁を価値に変えよう B228『建築と不動産のあいだ そこにある価値を見つける不動産思考術』(高橋 寿太郎)

高橋 寿太郎 (著)
学芸出版社 (2015/4/25)

同じ著者が書かれた、『建築と経営のあいだ』を購入する際に前から気にはなっていたこの本も合わせて購入。
こちらの方が書きやすそうなので先に書いておきたいと思います。

建築と不動産のあいだには価値がある

建築と不動産のあいだには価値がある。誰にとっての価値かといえば、クライアントとなる建主の価値

逆に言うと、建築と不動産、それぞれの業務が別々に無関係に行われ、その間に大きな壁がある現状は、クライアントにとっての不利益があり、実際に困る場面があるということです。

例えば、先日書いた記事(『家づくりは生活の優先順位を決めていくこと(お金について)』)のように、土地の購入前に相談して頂いたおかげで、設計者としての視点からアドバイスできた、ということも多々あります。
ですが、この本に書かれているあいだにあるものには、個別にはその存在に気づいていながら、なかなか手が出せなかったことも多いです。

また、それらが一つのまとまり・流れの中に配置されたことで、その必要性をより強く感じさせられました。

ワンストップサービスであること

この本で大切なのは、提供するものが、(例えば家づくりの場合)家づくりを検討し始めてからの全てのプロセス、フロー全体を通してサポートを受けられるというワンストップサービスであるということにあるように思います。

こに頼めばそれで大丈夫、という状態をつくることで初めて、お客さんは家づくりに関する不安からようやく開放されます

そういう意味では、全体を俯瞰して、どういうサービスがあればお客さんが安心して頼めるようになるかを考え埋めていく必要があります。
また、そのサービスは、建築と不動産のあいだにある、融資や税などを含めたファイナンスや手続きのサポートなどだけでなく、建築や不動産それぞれの業務に含まれているもの(例えば建築の構造や断熱性能、耐久性等の基本性能を適切に設定することや、イニシャルコストとランニングコストによるコストプランニング、その人に合わせた価値提供など)においても多くの要素がありますし、それらの重要性は増すばかりです。

幸い、妻が不動産業(住まいと土地のコパン)をやっており、ファイナンシャルプランナーの資格も持っています。
実務的なフローを具体的に詰めていけば、すぐにでも提供可能なことは多そうです。

近いうちにそれらを一つのパッケージとして示したいと思います。
そして、その上でより魅力的なものがつくれるようにしていきたいです。




桜ヶ丘の家 足場解体


桜ヶ丘の家、足場解体。全体が見えるようになって来ました。
この瞬間はいつもわくわくすると同時にドキドキします。




リノベーションオブザイヤー2019受賞報告会に参加してきました


リノベーション協議会が実施しているリノベーションオブザイヤー2019で、鹿児島から株式会社大城が総合グランプリを、株式会社プラスディー設計室が地域資源リノベーション賞を受賞し、その報告会があったので参加してきました。

AWARDED WORKS 受賞作品一覧 | リノベーション・オブ・ザ・イヤー2019 | リノベーション協議会

総合グランプリを受賞された大城さんは、断熱化の遅れている鹿児島で、その中でも特に断熱が軽視されている賃貸で、実際にHEAT20G2レベルまで断熱化した部屋と、断熱化を行わなかった部屋との違いを比較実証されたのですが、その向かうべき未来への本質的な取り組みとメッセージが評価されたようです。
(詳しくは ■鹿児島断熱賃貸〜エコリノベ実証実験プロジェクト〜|リノベーション・オブ・ザ・イヤー2019|リノベーション協議会

また、大城さんの熱い、断熱に関する解説はとても分かりやすく、自分自身理論的に誤ったイメージを持っている部分があることに気付かされたり、とても勉強になりました。

断熱に関してはもはや分からない・できないでは済まないものになっています。それについても、一度要点や考えをまとめてみたいと思っています。