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スケトレメモ おいしい自然

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モデュロールと自在さ

スケッチ載せるのやめとけば良かったと若干後悔しつつ、スケトレなのでこのまま続けます。続けてるうちにうまくなるかもしれないし。

「おいしい自然」は自然に含まれる意味をどう知覚させるか、と自然の中にある情報・不変項をどう抽出し再構成するか、ということが課題となる。

担当したクセナキスが波動ガラス面と名付けたラ・トゥーレットの回廊のガラス面は、モデュロールを利用したものだが、モデュロールも自然の中の不変項を抽出したものと言えるように思う。

コルビュジェは基準線(レギュラトゥール)による構成から、寸法(モデュロール)による関係性の構築へと移行したことにより、より自由に振る舞えるようになったが、そこにはより自然に近い秩序が生まれており、そこにより大きな知覚の悦びが発生しているように思う。

実績より

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ここでは建物の最上部にトップライトと東向きの窓を設けるとともに、間仕切り上部をガラスで構成することによって、太陽の進行に沿って室内に光が回り込むことを考えた。

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これは、雑木林に囲まれた生活、というコンセプトの敷地に対して、シンプルにいろいろな方向に緑が見えるようにすることで応えた住宅である。(撮影時はまだ植栽が完了していなかったので緑はあまり見えていないが)

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ここでは限られた予算の中で、宿泊施設にどのような象徴性を与えるかを考えた。モッチョム岳を背後に控える宿泊棟は垂直性をベースにした構成に、海側の母屋は軒を抑えた控えめな表現とした。
屋久島という自然のなかの構成に何かしら反応するものにしたかった。

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ここでは、途中壁を白にしたいという要望もあったが、海に向かった時に建物は背後に退くようなものにしないとその場所の特性を活かせないと考え、海に向かう時に目に入る壁面を黒に、反対側を白にし、屋根と床が水平に外へと伸びていくような構成とした。

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これまでは、自然をどう知覚させるか、ということが主題であったが、自然の不変項をどう取り込めるかを考えるための実験として、CADのスクリプトでランダムと擬似1/fゆらぎによるものの比較をしてみた。

ランダムなものは当然規則性はなく、それぞれの要素に重みや固有性は生まれないが、それにゆらぎを与えることでそれぞれの重みに変化が生まれ、固有性もしくは意味の萌芽のようなものが見られる気がする。
自然界のものは、全くランダムというものは考えにくく、その環境の違いによるゆらぎはどこかに現れているはずだ。

コストや手間を考えると、住宅などでどこまで出来るかは分からないけれども、寸法の扱いの中にそういうゆらぎやリズムを与えることはできるはずで、そういったことにもっと意識的に設計を行ってみたい。




スケトレメモ おいしい姿勢・音・手触り・味と匂い・見え

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共変による固有の場

「おいしい姿勢・音・手触り・味と匂い・見え」はギブソンによる5つの知覚システムに対応するおいしい知覚であり、複数の知覚システムが同時に共変することによって一つの意味のありかを特定する。

学生の頃にロンシャンの礼拝堂を訪れたことがあるが、その時、感じのよい老夫婦が賛美歌を歌い出し、とても荘厳な雰囲気を味わった。

マッシブな屋根が壁と縁を切られて宙に浮くような表現、エコーする歌声、手触りを感じさせる仕上げ、味や匂いは記憶に無いが、その壁を這いながら差し込む光。
それらの共変によって、ここにしかない固有の場が確かに生まれていた。

クチュリエ神父がコルにロンシャンの設計を依頼した際、最初、カトリックではないコルは頑なに断っていたそうだが、神父は、カトリックでないことは問題ではない、信心深い人々を受け止める芸術と霊性こそが必要だとコルを口説き落としたそうである。それは、さまざまな知覚の共変によって達成されたと言って良いかもしれない。

実作より

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トップライトから光が落ちる土間の壁を、凹凸のあるものにし、そこに等間隔で棒を設置した。
これは、光を砕くことによって壁の手触りを視覚へと変換し、同時に感じられるようにした共変の試みの一つと言えそうな気がする。

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物理的な音の質は置いておいて、洞窟の中のような守られた場所に響く音、を感じさせるような、形状、素材の選択、光の取り入れ方、を行った。
これも、音の感じを基準として、いろいろな要素で一つの意味を浮かびあがらせるような、共変の試みと言えそうな気がする。

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これは、スラブを片持ちとして宙に持ち出すこと、柱と縦樋を混在させた鋼管、屋根・天井や建具・ガラスの扱い等によって、建築そのものの姿勢(構造・重力の感じ)に対する、一般的な経験からのずらし、意味の発生を狙った。

これらの例は、これまでに、実物を見て回ったり、本で建築を見たりした時に「おいしい」と感じた体験を、実作において、その時の種々の条件のもとで再構成する試みであって、そういう体験と不変項の抽出・ストックは、今も昔も大切なんだな、と思う。




スケトレメモ おいしい素材

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時々、プラスディー設計室の主催しているスケトレにスカイプ又はハングアウトで参加させていただいているのだけど、テーマを決めて、その時考えたことなどを簡単にメモして行ってみよう、とふと思い立ったのでやってみる。(過去の分から順に気が向いた時にまとめる予定)

設定したのは、
・前に書いた『Deliciousness / Encounters』の「何を」の各項目を順にテーマとする。
・スケッチの題材はコルビュジェ縛り。
・自分の実績の中からも、何かしら関連しそうなものを見つける。
の3つ。
コルビュジェ縛りにしたのは、単にコルビュジェが好きなのもあるけど、コルが本来持っていたはずの「現代の矮小化されたモダニズムからこぼれ落ちたもの」を『Deliciousness / Encounters』の文脈から考えてみたい、と思ったからで、気楽にやってみようかと思う。

おいしい素材 ブルータリズムと固有性

最初の項目、「おいしい素材」の要点は、それがそれであること、いうなれば物の固有性が知覚の喜びや社会性の基盤となりうるのでは、ということ。

これに関し、コルビュジェで思い浮かぶのは、例えば型枠の材料一つ一つに固有性を与えるような、荒々しく、ラフなコンクリートの仕上げ。

O.F.D.A.:Taku Sakaushi | Text

後期コルビュジエの打放しコンクリートはコルビュジエ自らが「べトン・ブルートB?ton brut (生のコンクリート)」と呼び(図1)、1954年イギリスでブルータルリズムと称されることとなる。モダニズムの運動とは形や思想、すなわちアリストテレスの言葉で言えばその形相を尊重するイズムであり一方の極である質料を見放した。ところがその運動の終了寸前においてこの見放された質料を再考させるような批評の言葉が生まれた。それが「ブルータリズム」である。その意味でこの言葉の意味するところは大きい。 そしてコルビュジエは自らこの質料性の意味に自覚的であり、その点をアレグザンダー・ツォニスはこう述べている。
『ル・コルビュジエは木製型枠の痕跡を「しわや出産斑」とよび、美しい効果—「コントラスト」をもたらすために用いた。その「荒々しさ」、「強さ」、「自然さ」は近代的建設テクノロジーが可能にした精度、ディテール、完成度とは対極にある。表面の粗さ—「しわや出産斑」は美学上の問題をこえて、テクノロジーを応用する「人間」というクリエイティブな存在の手、思考へと回帰しようという姿勢の表明のように思える。』

コルは「質量」を再度建築に持ち込んだわけだが、「形相」を、それ自体から自由になるほど確かなものにできたからこそ、それが批評性を持ち得たように思う。あるいは、「質量」を持ち込むがために、「形相」を極めようとしたのかもしれない。

コルは、施工の不備、偶然から秩序を壊したり構成をかき乱すような不測の事態を好んだそうだが(『ル・コルビュジェの手』アンドレ・ヴォジャンスキー)、ここにもそういう性向が見てとれる。それを満たすためには、不測の事態を許容するような「形相」の強度が必要だったのだろう。

そういったせめぎあいの中から、コルの建築の固有性が生まれたように思うし、そこには固有性を知覚する悦び、さらには「コルの建築と向き合う」ことによる固有性との対話・社会性が生まれている。

実作より

実作でどこまで出来てるかは分からないけれども、各項目で何かしら関係することがないか探してみる。
ここは前に進むステップと考えて、恥を忍んで無理矢理にでも。

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素材に関して一番わかり易いのはこの写真の部分かもしれない。
自宅兼事務所なので実験的に使った部分もあるけれども(木製建具なんかは雨掛かりなので傷んでるけど、自宅なので手を入れればOK)、この写真ではモルタル壁・ガルバ壁・木製建具・コールテン鋼・コンクリート基礎、あと砂利と芝、というように素材そのものとして感じやすいものが集まっている。(モルタル・金属・木はわかりやすい材料だと思う)
木造の基礎の立ち上がりは一般的にはモルタルでしごいて綺麗に仕上げることが多いと思うが、物件の方向性によっては、そのままにして仕上げないことが多い。
地面との接点の部分を綺麗にし過ぎると、建築そのものの「質量」が失われる気がするし、せっかく型枠と手作業で生まれた固有性を消し去るのはもったいないと思う。
工業製品でラッピンッグされた住宅に対する、ささやかな抵抗。

工業製品は悪か?

スケトレの中で「工業製品は悪か?」という話も出た。
ささやかな抵抗はしているものの、工業製品の持つ役割や意味も理解できるし、大勢を占めている工業製品を全て悪、と決めつけるのもそれはそれで可能性を狭めてしまう。

他の人がみかんぐみの五本木の家をスケッチしていた。この建築は、一見チープな素材を貼り付けているだけに見えながら、何かしら固有性のようなものを感じさせる気がする。
後でやり取りしたコメントを転載すると、

さっきのみかん組の角の部分、みかんぐみがああいうことやるなら面と面の角で処理しないはずだと、どうしても気になって探したらディテールが載ってました。(建築知識2011.12)
アルミサッシの紹介ページに載ってたんですが、やっぱり角をアルミかなんかで見切ってますね。角のL型っぽいやつ。
意図としては、
・工業製品である固有性を持たないアルミサッシと対を為すように見切り材も(たぶん)アルミを使い、ともに、記号のレイアウトとして扱っている。
・木材もたぶんそれほど「木らしさ」を主張しないはずだと思ったら、やっぱり木製サイディングを使っていて、木でありながら出来る限り工業製品的な固有名をもたない記号として扱おうという意志が見えます。アルミサッシと並列に扱おうと言う意志。
というようなところがポイントかも。
前回の素材の固有性に反する気がしますが、あくまで記号の配列として素材をフラットに扱うことで、工業製品らしい素材の扱いをしつつ、そこに何らかの知覚的な効果、意味のずらしによる意味の発生のようなものを狙っているかと思われます。そこの割り切りに対する潔さがあります。

そのもの単体では固有性を持ち難い工業製品に、固有性を与えるためには、「その特質を一旦受け入れた上で、それが、あたかも固有性を持っているかのようなごまかしが生じないように配慮しながら、一種の記号のように取り扱いつつ、その構成・レイアウトによって、他からの逸脱が生まれるような操作を与える」というのが一つの方法と言えるかもしれない。
これは、弱さが反転したような、強度を持たないことによる強度。「質量」にも「形相」にも頼り過ぎない、微妙なバランスによるもう一つの質と言えないだろうか。

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これは何の変哲もない普通の化粧サイディングだけども、左右の微妙な非対称性と、庇の扱い(微妙なカットと、軒の出がある面とない面の並用)によって、微かに固有性のようなものを与えられたように思うし、その加減が、いろいろな表情の建物が混在している密集地域では、一つのあり方としてはアリだった気もする。

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これは、全体的に生活感を配した無機質な空間を指向している住宅の現場写真。
無機質さを指向しつつ、あまりに「形相」に傾倒するのは体験の質としてチープになりかねない、という中でのギリギリのバランスを探したもの。(ちなみにこれはカラー写真です)
天井に「質量」を感じさせる、材料ムラのある板材を貼った後、潰さない程度に白く塗ってそれを弱めることで、他とのバランスを取ることが出来たように思うし、今後什器等が入って来た時に、そのバランスを調整する役割を担ってくれるのでは、と期待している。(と言っても基本的にはクライアントの感覚に頼っている部分が多いわけですが。)
これなどは、おそらくその場の微妙な質としてしか表れないものだと思うけれども、その微妙な違いが知覚の質に案外大きな影響を与えると思うのです。

と、こんな感じでまとめながら、これまでまとめてきた言葉を、なんとかかんとか具体的な技術に結びつけていけたらな、と思ってます。