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生態学的な能動的態度に優れた人々 B190 『アトリエ・ワン コモナリティーズ ふるまいの生産』(アトリエ・ワン)

アトリエ・ワン (著)
LIXIL出版 (2014/4/25)

コモナリティの意図するところ

出版された当時はまだピンと来ずに購入を見合わせていたが、「おいしい知覚/出会いの建築」(以下[知覚])をまとめる過程で関心を持った知覚の公共性と関連があるように思ったので購入した。
序盤で本書の意図について書かれているが、これ以上要約のしようがないほど密度の高い文章なので、途中省略しながらそのまま引用したい。

20世紀後半の日本の奇跡的なGDPの伸びを駆り立てたものとして、さまざまな領域での産業化があった。だがこの過程によって思わぬ副産物が生まれた。それは、自分が生きる自然とどんな折り合いをつければよいか、自分の街にどんな家を建てたらよいか、パブリック・スペースを自分たちでどう実践したらよいか、といったことを知らない人々である。知らないと言うことは、連帯することができないということである。すると人々は「個」へとばらばらにされ、「公」やマーケットが認めるシステムに依存することになる。人々が自分で判断して自律的にふるまう余地と機会が、徐々に奪われてきたのである。[・・・]でも残念なことに、それでは個が個であることを越えることができない。そんな個は貧しい。この風景に欠けているのは、世代の違いを越えて受け継がれ、主体の違いを越えてその場所で共有される建築の形式や人々のふるまいであり、それが反復されることにより成立するいきいきとした街並みや卓越した都市空間である。そうしたものの成立のためには、私たちは優れた建築を設計する偉大な個人にだけでなく、時代や主体の違いを越えた偉大な人々にならなければならない。偉大な人々の一部であると感じることができれば、自信と誇りが湧いてくるだろう。それがないから「幸せかどうかわからない」のではないだろうか。[・・・]その仕組みは人びとというまとまりを、純粋な「個」と純粋な「公」に分離生成していく傾向をもっている。[・・・]「個」と「公」に重きを置きすぎた20世紀の建築が「共」を取りこぼしてきたのなら、「共」に軸足をシフトした建築実践の冒険を始めよう。
そして、そこに広がる「共」の領域を、建築のコモナリティと呼ぼうというのが本書の意図するところである。(強調引用者)

アトリエ・ワンはコモナリティを軸にし、個体の違いを越えて共通するタイポロジーや、「公」が求める「空っぽの身体」に対する「スキルをもった身体」といったことを手掛かりに、「住宅の系譜学」「窓のふるまい学」「マイクロパブリックスペース」「広場・公園の設計」の4つの領域でデザインを展開している。
本書ではそれらをベースに理論や観察、実践例等幅広い視点を横断しながら「コモナリティ」という言葉を描き出している。

コモナリティの生態学的解釈

塚本氏はおそらく生態学を理論のベースとしていると思われるが、本書では(おそらく意図的に)生態学には触れていない
ここで自分の言葉に引き寄せるために[知覚]で書いたこととの関連をまとめておきたい。
[知覚]では知覚の性質の一つとして知覚の公共性を挙げたが、コモナリティでは「公」と「共」を明確に分けており「共有性」という言葉を用いている。その違いはなんだろうか。
[知覚]で公共性という言葉を用いたのは、人間の集合的存在としてのあり方をより良く表していると判断したからであるが、個々の知覚・ふるまいの場面においては共有性という言葉の方がより直接的で相応しいようにも思う。これについては「公」「共」「個」とは何か、「公共性」とは何か、を含めて今後考えていきたい。

ここから、先の引用文を[知覚]の言葉で捉えなおしてみる。

ふるまい方を知らない人々は、「公」やマーケットが認めるシステムに依存して、生態学的な能動的態度を忘れてしまった人々であり、そこに内在する悦びを忘れた人々と言えるだろう。
ここで「公」とは制度として人々のふるまいの能動性を奪うもの(本書でいうところのフーコーの「生権力」)、[知覚]でいえば、囲い込むことで受動的態度に人々のふるまいをとどめるものである。ここでは「はたらき」は有効に作動せず、「予定的自己決定」から出ることはできない。そこには遊びの余地はなく、予測誤差は痛みとしてのみ現れる

知覚の公共性によって初めて、個人や時間、空間などを越える、言い換えると(私、今、ここ)を越えることが出来るようになるが、それが制限されることによって、同時に、皆とともにいること、そこに住んでいること、歴史の中にいること、文化を共有していること、といったいわば人間が人間であることを奪われるように思う。

本書でいう偉大な人々というのは、そういう人間の集団的存在としてのあり方に能動的に参加しうる人々と言えるだろう。
また、タイポロジーは集団的存在としての人間の文化・技術・歴史に内在する不変項であり、「スキルをもった身体」とは生態学的な能動的態度に優れており、個人として相互行為にか関わる技術(アフォーダンスの探索・利用スキル)を持った人々である。また、そういったスキルの発動可能性を多様に担保することが生態学的な倫理であり、それに対して建築は大きな責任を負っているように思う。
このようにコモナリティは知覚の公共性に重なる概念であるといえる。

これまで建築と都市や社会との関係性がいまひとつ捉えられないでいたが、ようやくぼんやりとではあるがイメージできるようになってきた。
この本でも多くの書籍が紹介されているが、それらも参考にしながら、そのイメージの解像度を上げ、建築の実践につなげられるようにしていきたいと思う。




それぞれのスケールにとって適切な流れの大きさや速さ、それに伴うデザインがある B189『流れとかたち――万物のデザインを決める新たな物理法則』(エイドリアン・ベジャン)

エイドリアン・ベジャン (著)
紀伊國屋書店; 46版 (2013/8/22)

本屋でふと目について買ったもの。

流れの法則

この本の主張は至ってシンプルである。

有限大の流動系が時の流れの中で存続する(生きる)ためには、その系の配置は、中を通過する流れを良くするように進化しなくてはならない。

コンストラクタル法則は、単にこう言っているにすぎない。すなわち、動くものはすべて、時がたつにつれて進化する流動系であり、デザインの生成と進化は普遍的な現象であるということだ。

コンストラクタル法則によると、すべての流れるものは
より良く(より早く、より容易に、より安く)流れるように進化する
・それは、最も多くの流れをより早くより遠くまで動かす流れと、もっと少ない流れをもっとゆっくりもっと短い距離だけ動かす流れの2つで構成され、それらの流れに要する時間は等しくなる
・上記の構成は階層的・入れ子的に多くのスケールの構造となり、それぞれのスケールにふさわしいデザインとなる。

著者はコンストラクタル法則を物理法則の第一原理に位置づけているがそれが適切かどうかは分からない。
しかし、これまで見てきた生態学やオートポイエーシスなどと同様に、一つの視点から多様な世界を眺める視点を与えてくれる。(その際に染み付いた常識を取り払ってみる必要があるのも同様。)
その範囲は、河川領域、気管支樹、雪の結晶や動物の動きなどから、生きていることの定義、生命の起源、知識や情報の流れや社会制度、空港や都市のデザインから黄金比や歴史まで、生物・無生物、物・現象を問わずあらゆる流れに適用される。

それは観察の結果導かれるもの、ではなく、単純な法則によって現象や未来を予測できるものである。それは例えば空港や都市をデザインするという行為において、確かに有効な視点であると感じられた。

ここで、デザインという行為(本書ではデザインは普遍的な現象として必然的に現れるもの、と捉えられている。)に活かすことを考えた時に、重要になるのは「何が流れるか」を認識すること、もしくはそれを問うことである。

建築を何が流れるか

コンストラクタル法則ではそれぞれのスケールにとって適切な流れの大きさや速さ、それに伴うデザインがあるとされる。
であれば、都市的なスケールで考えることと、建築的なスケールで考えることでは、扱う流れの大きさや速さ、それに伴うデザインは当然異なってくることになる。

都市的なスケールで人やモノ、情報や文化の流れはイメージしやすい。
では建築的スケールでは「何が、どのように流れる」とイメージできるだろうか。

ここで今考えている『おいしい知覚/出会う建築』と接続してみると、知覚もしくは出会いのさまざまが流れている、と言えそうである。

例えば生活や文化、歴史や思考、といったものの知覚が流れていると想像してみる。
都市のスケールではそれらはより大規模に早く流れ、建築のスケールでより小規模にゆっくりと、よりヒューマンな体験として流れている
それらは分断されたものではなく、一連の流れであり、それぞれのスケールにおいてふさわしいかたちをとる。

このように考えてみると、都市と建築の関連と役割がぼんやりとではあるがイメージできるような気がするし、それはここ最近ようやく掴めてきた感覚である。

しばらくはこのイメージをより鮮明にすることを考えてみたいと思っている。