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レビュー04「建築の素材」 403architecture [dajiba]辻琢磨

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先日403architectureの辻さんを招いてのケンペケがあったので参加してきました。

自分なりに何か得るものがあったのでメモとして書いておきます。

メタとベタ、意識と行為

予習で意識していた二つの問い、
オノケン【太田則宏建築事務所】 » ケンペケ04 予習

この機会を通して、
・「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。
・「建築」を捉え直した先にどんな未来を描けるか。
の二つの課題に少しでも迫ることができればと思う。

話の流れからこれらに関して直接的な答えが得られたわけではないのですが、この機会を通して強く感じたのは
(a)明確にそしてまっすぐに(旧来からある)概念的な建築やその歴史に対して向き合っている。
(b)辻さん自体が”働き”である。
の2点です。
この2つに対するバランス感覚と両者の濃密な関係性が辻さんのオリジナリティだと感じました。
これらは強引にメタとベタと位置づけられそうな気がしますが、明確に建築を志向していながら、そこから演繹的に計画を行うだけではなく、そこにある状況に対して応答するようなあり方が維持されているのが新鮮で、河本氏的に言えば抽象的で自由な意識と現実的で自在な行為およびそれらの応答関係のようなものが浮かび上がってきたように思います。

レクチャー形式の第一部ではメタ的な説明は最小限に抑えられながら、辻さんの活動が次々と紹介されたのですが、なかなか核心に触れられないと感じつつ、かえってそれによって働きとしての辻さんのあり方が浮かび上がってきたように感じました。
セッション形式の第二部では限られた時間ではあったものの、メタ的な視点に触れられながらメタとベタの関係性が多少なりとも浮かび上がったように思います。

メタとベタをどう関連付けるか

はじめは「建築をどのように捉えているのか」「流動的なネットワークに何をみているのか」といったメタの部分の考え方を知りたい、という気持ちが強かったのですが、途中から関心は「建築としての思考と働きとしてのあり方」をどうつなげているのか」という方向に関心が変わってきました。
自分の問題に引き寄せた時に、例えば働きとしてのあり方を進めようとした際、言い換えるとベタな行為に自分を埋め込んでいった時に、メタな思考というのはどう位置づけられて、どう設計に関わらせることができるだろう、というのがずっとモヤモヤとした疑問としてありました。埋没させればさせるほど密度は上がるかもしれないけれども、建築的な思考からは遠ざかるのではないか、ということを感じながらそれに対する明確なイメージを持てずにいました。(これは、予習での「「建物」と「建築」の分断をどう乗り越えられるか。」という問いとも重なる気がします。)

第二部の終盤に出た「現場での瞬発力と議論はどういう関係か」というような質問とそれに対する応答が印象的だったのですが、403では「議論の積み上げ」と「現場等での応答」の2つが意識的に使い分けられているようです。
403の三人で可能性を排除していきながら、抽象のレベルで建築の強度を担保できるようなものが見つかるまで徹底的に議論を重ね、それを共有してから現場に出ることではじめて瞬発力がうまれる、というようなことが語られていました。
予習時に読んだ際には実感を伴って理解できなかった下記のテキスト

ちなみに、質疑でも答えさせていただいたが、私が考える建築のクオリティは、抽象的で計画的で演繹的な質と、具体的で現場主義的で帰納的な質との関係性によって決まる。その両者を関係付けさせる設計環境を用意することが何より重要である。それはほとんどそのまま、上記した言語と実体験の関係性と同義である。その環境を作る為の方法の一つが、言語や計画を生み出す場所(=設計事務所)と反応するべき現場(=プロジェクトサイト)を物理的に近づけるということであり、さらにその仕事のレイヤーに自らの生活のレイヤーを重ねることで一層両者の関係性は影響し合うだろうと私は考えている。しかしともかく私が彼らに伝えたかったのは、生活と設計と街と現場が一体となったような生き方についてである。(ARCH(K)INDY/博多/佐賀のこと : deline)

が、ようやく腑に落ちた感じがします。
メタとベタの話で言えば、あくまでもベタに振る舞いながら、そこで扱う素材の一つとしてメタを再配置することでメタをベタな働きの中に取りこんでいる、というように言えそうな気がします。そのように捉えることで、建築としての思考と働きとしてのあり方を連続したものにできないでしょうか。

僅かでもいいので新しい視点が発見できれば、と思いながら書いてみましたが、結局は引用したdelineの文章に全て含まれていた気がします。
しかし、自分にとってはそこが腑に落ちたのは結構大きいですし、それだけで今回のイベントに参加した意義がありました。

今の自分の課題は、
・メタ的な思考の精度を高めること
・働き的なあり方の密度をあげること
・両者を関係づける設計環境を用意すること
の3つかな。
いや、それ全部やん。




たこやき大学2015「メディアと共同体」メモ

先日年末恒例のたこ大があったのですが、予定が合いそうだったので忘年会のノリで参加してきました。

例年以上にモヤッとした感じでしたが、chanさんがうまくまとめて下さってました。おおまかな流れはこちらで。

たこやき大学の「もやっと」する授業ノートを大公開! | KagoshimaniaX

以下メモ。参加してない方には分かりにくいかもです。

メディアと共同体、個人の主体性と輪郭

マクルーハン/グーテンベルクを最初の起点にメディアの変遷から話題は多岐に渡ったのですが、自分なりに話を解釈するために横串を探しながら聞いていました。

・印刷技術と聴覚/視覚の変遷
 聴覚(印刷技術発明前、口伝的、私へ)→視覚(印刷技術発明、私から)→聴覚(ラジオやテレビ、私へ)→視覚(&聴覚)(テロップ、私から(&私へ))
 自分の場合、例えば音声による入力と視覚による入力を比較した時、視覚による情報の方が入力の精度が上がる気がします。
 音声の場合は時間の流れがコントロール出来ず受動的なのに比べて、テキスト情報の場合後戻りも含めて時間のコントロールが容易で能動的・主体的に振る舞いやすい。
 気になる動画があったとしても、テキスト化されたものを読んだり自分なりにテキストにまとめて反芻しないかぎりなかなか情報を捉えた実感まで辿りつけない気がします。
 テロップの頻発するテレビは音声とテキストの混合ですが、テロップの表示はある程度持続性があるので、その持続する時間の中に僅かではあっても主体性の入り込む余地が用意されていて、それがテレビをぼんやり眺めることの受動性と能動性の幅をつくりだして、視聴率もしくは視聴時間の増加を促しているのではないか。というのは一つの仮説。

・ものの価格
 定価(私へ)→一物一価の崩壊(私から)
 ものの価格そのものに対して主体性を見出すのは難しいかもしれないけれども、一物一価の崩壊によって選択の幅が広がり私が価格に関わる関係性の度合いは高まると言えそう。

・大量なものと情報へのアクセス可能性
 積読(選択(私から)と私の輪郭)
 大量の情報の中から主体的に選択して輪郭を生み出すことで一定の安心感が得られるのではないか。
 
いずれもメディアを介してのコミュニケーションという面は共通しているかもしれないけれども、そのベクトルの向きが私へと私からのどちらの割合が大きいかは違ってくるように思います。
一物一価の崩壊とテロップの時期の重なりによる共通点がなかなか見つからなかったのですが、そのベクトルやそれに対する欲求の変化と考えると串が通る気がしました。
ちょうど建築に関して「漂うモダニズム」という論考に関連する本を読んでいるところですが、一般的な問題としても大量のものや情報の大海原の中をどう生き抜くかというのがあるよう思います。
おおきな乗るべき船が見えなくなったその時に、一定の主体性や私の輪郭を求める、というのは人間の欲求としてあるように思います。

メディアと共同体というテーマに帰ってみます。
途中、サーカーチームがメディアになると宣言するようなことが紹介されました。
先の話で言えば、メディアの役割のベクトルも「私へ」と「私から」の間で揺らいでいると思うのですが、この宣言はどちらも担う存在になるということかもしれません。
それは私の主体性や輪郭を求める個々の欲求を媒介する役割を担おうとするもので、そこから浮かび上がる共同体は、「私へ」を受け止める個々の集合から、「私から」を求める個々の集合もしくはそれらの混合へと変わり、そこから産まれる私の輪郭の質も変わってくるのかもしれません。共同体をつなぐ糸の質がメディアと時代性によって変わるとも言えそうです。
いじるのが下手、という話も出ましたが、個が「私へ」を求める割合がまだ多いだけでなく、メディアとなる存在が「私から」を受け止める準備が出来ていないことにも原因があるのかなと思いました。時代の流れや潜在的な意識も含めたそれらのミスマッチがつなぐ糸の成長を阻害しているのかもしれません。

最後に、個性というものも話題に上がりましたが、「個性とはメディアに過ぎない」と言ってみるといいような気がします。
何かいいこと言ってそうな雰囲気も出ますし、おすし。