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物質を経験的に扱う B183『隈研吾 オノマトペ 建築』(隈研吾)

隈 研吾 (著)
エクスナレッジ (2015/9/19)

隈さんの本やアフォーダンスの本は時々読んでいる。
けれども、アフォーダンスで環境を読み込み設計を行うプロセスに関するものは何度か目にしているが、環境となる建築そのものの現れに関する具体的な事例はあまり見たことがないように思う。

足がかりとしてのオノマトペ

プロセスにおいても現れにおいても、その足がかりとしているのがオノマトペのようだ。
そこにアフォーダンス的な知覚、身体、体験といったものの感覚を載せることでモノと人との関係を調整しているように思われるが、その感覚を載せられる(体験を共有・拡張できる)という点にこそオノマトペの利点があるように感じた。

出来上がった作品や手法を見ると一見モダニズム以降の定番のもののようにも思えるが、そういった視点で眺めるとオブジェクト・形態を設計するのではなく体験を設計しているという点で根本的な違いがあるように思えてくる。
いや、モダニズムでも体験は重要な要素であったかもしれない。では、違いはどこにあるのだろうか

物質を経験的に扱う

うまく掴めているかは分からないけれども、氏の「物質は経験的なもの」という言葉にヒントがあるような気がする。
モダニズムにおいては建築を構成する物質はあくまで固定的・絶対的な存在の物質であり、結果、建築はオブジェクトとならざるをえなかったのだろうか。それに対して物質を固定的なものではなく相対的・経験的にその都度立ち現れるものと捉え、建築を関係に対して開くことでオブジェクトになることを逃れようとしているのかもしれない。

人と物質との関係を表す圧力

本書では圧力という言葉が何度も出てきているが、オブジェクトとそれぞれのオノマトペから受ける印象を、人と物質との関係(圧力)という視点で漫画にするとこんな感じだろうか。

onomatope

翻って、自分がよく直面する予算の厳しい小さな住宅ではこれをどのように活かせるだろうか
ここにある多くの手法は予算的に難しいように思うが、反面、身体的なスケールに近いため注意深くオブジェクトになることを避けることで関係性を築きやすいような気もする。
そのためには自分なりのスケールに適合したオノマトペのようなものを見つける必要があるのかもしれない。

心地よさと恐怖感

また、写真を眺めていると、建築が自然のような環境としてではなく、ガイア的な生命をまとっているもののように見えてくる瞬間があった。そこでは何か、野生の生存競争に投げ込まれたような恐怖を感じた。
それは、写真を見ただけで実際に体験していないからかもしれないし、建築をオブジェクトとして捉えることが染み付いているからかもしれないし、アフォーダンス的な何かが生存に関わるなまった感覚を刺激したからかもしれない。(見る時で感じる時とそうでない時があるので体調にもよるかもしれない)
大きなスケールの場合、もっと環境そのものと同化するような工夫がいるような気もするし、なまった感覚の方に問題があるような気もする。この辺のことはよく分からなくなってしまったので一度体験して見る必要がありそうだ。




振り返り

過去のブログを振り返り、次への問いを抽出するためのメモ

『ケンペケ03「建築の領域」中田製作所』

ここでの大きな問いは『「建てること」と「住まうこと」の分断をどう乗り越え、それによって住まうことの中に建てることを取り戻すか?』

それに対して、1.(施主を)直接的に「建てること」に巻き込む。2.(職人の)「建てること」の技術に光を当てて住まう人の建てることを代弁させる。3.(設計によって)「建てること」と「住まうこと」を貫く。の3つを挙げた。

1に対しての問いは単純だけど「どの部分をどうやって巻き込むか?それによって何を得られるか?」

2に対しては「どのような技術が住まう人の建てることを代弁しうるか?」

3に対しては「具体的にどのようになれば設計によってそれらの分断を乗り越えられたといえるか?」

また、安直な手仕事を「建てること」の復権と考えることは、場合によっては結果的に「住まうこと」そのものを貶める危険性を持っている気がするのだけど「どのような場合に「住まうこと」を貶めたことになるか?その逆は?」

これらを通して、また、最近よく考えることとして「どのような『つくり方』をすれば「建てること」と「住まうこと」の分断を乗り越えられるか?」というような問いがとりあえずは浮かんだ。

さっきの3つは最初に意図してたわけではないけれども、施主・施工・設計にそれぞれ対応してた。それぞれが「建てること」から離れてしまっているのかも。どれか、というよりそれぞれバランスよく対応できるような作り方が理想的なのかな。

昔はこれらは混然一体としたものだったのかも。これらの分断をどう乗り越えるのか、という問いと近いのかもしれない。

井出さんの写真見てると職人的技術とそれに頼りきらない際の設計者的技術があってそれぞれ届けられるものが違うのかもしれない、という気がする。技術そのものによって結果を見せるか、思考によってプロセスを見せるか。手の代弁者か頭の代弁者か。

tweet 11/23-05/16

男子脳・女性脳の流れから女性能的なおしゃべり=価値観の共有・われわれのリアリティが力を持ち出してる→「建築」なんていらなくね?→「建築」は時間・空間・概念的な遠投力を思考するもので男性的→建築が弱くなってきているというより「建物」が豊かになって来ているということでは。

この時「建築を志向する」ということの意義・役割とは何か?「建物」との関係をどう定義できるか?(この辺の自覚が重要になってきているのでは)

続いて、小さな風景の魅力は前状況と後状況の混在、もしくは多層的な状況にあるのでは。前状況のみの単調なものがパズルを解いただけ感につながってるのでは。「状況のレイアウト」を操作するという意識を持つことで豊かさにつなげられないか。

この時、その状況はどのような要素で捉えられるか?(時間軸・関与軸・動静軸など?)また、先ほどの「建築」「建物」の定義付けが出来たとしてそれらの混ざり具合のようなものとして捉えることができないか?それによって空間的な意味でリノベ・新築の分断のようなものを乗り越えられないか?

こないだの「住まうことの」の本質に含まれるべき住まう人の「建てること」において、施工は手を、設計は頭を代弁している(するべき)、というように思ったのだけれども、「建物」が単純な「住まうこと」に直結しているとして、「建築」は(「建物」に欠落している)何を代弁している、と言えるだろうか。

B182 『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門 』

3人を少年のモードを維持している実例が示される。そレによる端的な問いは「どうすれば自分が少年のモードを維持できるか」

3人のキーワードだけ列挙すると
【寺田寅彦/不思議のさなかを生きる】説明し分かったことにしない多様な現象を見る眼・問いの宙吊り・アナロジー/原型的直感・像的思考
【マティス/身の丈を一歩超え続ける】快と装飾・強度・存在の現実性・想起/再組織化・佇む・経験の拡張
【坂口安吾/成熟しないシステム】無きに如かざる精神の逆転・人為を超えたさらに一歩先・成熟もなく老いることもない・あっけらかんとした情感・一生束の間の少年

ここから自分にとっての方法論は世に問うというようなおおげさなものではなく自分の経験と建築を前に進めるための態度のようなものではないか。手法に焦点を当てるのではなく「どのような働きの中に身を置くか」を実現するためのものではないか。

では、そのような働きの中に身を置くために、障壁となっているものは何か、そのために具体的にどのような方法が考えられるか。