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12/6にケンペケカゴシマというイベントの一回目があるということで参加させていただきました。
ケンペケカゴシマ第1回目のイベントは「建築のすすめ」と題し、関西発の歴史あるレクチャーシリーズ-2010-2011年のアーキフォーラムでコーディネーターを務めた山口陽登さんをゲストに迎えて開催します。
アーキフォーラム https://www.archiforum.jp/archive.html
SDレビュー2014受賞作やこれまでの設計活動、入居者全員でリノベーションしながら仕事をするシェアオフィス-上町荘などの建築に関するお話はもちろん、立ち上がったばかりのケンペケカゴシマの将来像についてもコーディネーターとして経験豊かなゲストといっしょに探っていきたいと思います。
SDReview_2014 https://www.kajima-publishing.co.jp/sd2014/sd2014.html
上町荘 https://www.facebook.com/uemachisou食事、お酒も飲みながらのリラックスした雰囲気のレクチャー+交流会です。
どうぞ、お気軽にご参加ください。
<フェイスブックのイベントページより>
山口さんはとても親しみやすい方で分かりやすく話して下さり、レクチャーも楽しませていただきました。
レクチャーの中から私なりにピックアップすると
・(ケンペケを通じて)鹿児島ならではの建築のムーブメントができれば素晴らしい。
・環境はあたり前のもので、あたり前から建築をつくる。
・環境を考えることによってそれを建築化したい。
・環境は面白いし、いろいろなものを内在していて上手くつかうことで最短距離で面白いものをつくるのに使える。そういう強度がある。
・僕らの世代が「環境」という言葉の持つ息苦しさのようなものを突破して面白いものをつくりたい。そのために見方を変えたい。
と言う感じでしょうか。
「環境」という言葉はいろいろな使い方ができ、建築に近すぎる、あたり前過ぎるので逆に焦点を絞るのが難しいのではと思ったのですが(試しに自分のブログを環境というワードで検索をかけると100件近くの記事がヒットしました)、そこを突破するためのキーワードとして面白がる、というのが出てきたように思います。
「あたり前である環境を面白がることによって息苦しさを突破する」といった時に頭をよぎったのは塚本さんの「実践状態」という言葉と「顕在化によるリアリティ」というようなことでした。
以前書いた記事から抜き出すと
その木を見ると、木というのは形ではなくて、常に葉っぱを太陽に当てよう、重力に負けずに枝を保とう、水を吸い上げよう、風が吹いたらバランスしよう、という実践状態にあることからなっているのだと気がついた。太陽、重力、水、風に対する、そうした実践がなければ生き続けることができない。それをある場所で持続したら、こんな形になってしまったということなのです。すべての部位が常に実践状態にあるなんて、すごく生き生きとしてるじゃないですか。それに対して人間は葉、茎、幹、枝、根と、木の部位に名前を与えて、言葉の世界に写像して、そうした実践の世界から木を切り離してしまう。でも詩というのは、葉とか茎とか、枝でもなんでもいいですけど、それをもう一回、実践状態に戻すものではないかと思うのです。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B174 『建築と言葉 -日常を設計するまなざし 』)
個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。 『 つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)』 これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」の最後の一文、 『この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。 』が重なって妙に印象に残りました。 僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)
という部分です。
つまり、環境を面白がるということは、息苦しさを持ってしまった環境という言葉を再び実践状態に戻すことであり、また、よく知っているはずである環境という言葉に再び新たに出会うことであり、それによって活き活きとしたリアリティのようなものが浮かび上がるのではと言うのが私の解釈です。
これは(建築化というところまでなかなか結び付けられていませんが)最近興味を持っていることとも重なり、とても興味深く聞かせていただきました。
また、2次会では哲学(社会学?)分野の方も参戦して面白い議論を聞くことが出来ました。鹿児島では建築家と異分野の人の議論を聞く機会が殆ど無いので良い体験をさせていただいたと思います。
酔っていたのと、理解不足で正確な議論は思い出せないのですが「建築の不自由さ」や作家性・非作家性のようなことに対する哲学的視点からの議論だったと思います。
これについては議論の最後まで見届けたいところでしたがタイムオーバーで消化不良でしたので、その後考えてツイッターに書いたことをメモ的に貼り付けておきます。
onokennote:河本英夫の対談集「システムの思想(2002)」を読み始めたので随時メモ。
氏は今日のシステムを特徴づけるのは自在さの感覚とし、自在さは自由さと違うと言う。自由とはあくまで意識の自由だが、自在さは何よりも行為にかかわり、行為の現実にかかわる。
自由な建築と自在な建築と言った場合、同じように意識と行為にかかわるのであれば、自由な建築を目指すといった時に逆説的に不自由さを背負い込んでしまうのではないか。
(酔ってて細部が思い出せないのだが)先日のケンペケの2次会で哲学分野の人から突っ込まれた建築の不自由さのようなものは、このあたりとも関わるのではないか。
僕はどこまでいってもデザインする行為があるだけで、意味のようなものを探そうとする態度は困難なのでは、というようなことを言おうとしたのだけども今もってうまく言えない。
だけど、設計を行為だと捉え、そこに自在があるのであれば、自在な建築をつくりたい、ということが言えないだろうか。意味のようなものがどこかにある、と言うよりは自在な行為の中から発見的に生まれるものなのでは。
ある本でオートポイエシスは観察・予測・コントロールができないというように書いていたような気がするけど、最近ほんの少しだけ接点のイメージが出来てきた気がする。だけどぼんやりしすぎて全然捉えられてない。
あと、「ハーバーマス・ルーマン論争」に関するあたりで何か掴めそうでやっぱり掴めない。
『対してルーマンは、問題を脱規範化すべきだという考えです。問題をもっとちゃんと抽象化して、脱モラル化することで、社会のメカニズムというものを理論的に解明することが必要だという立場だと思うんです。つまり理論的に解明することによって、問題に実践的に対応できる。(西垣)』
このくだりでなんとなくだけど藤村さんが頭に浮かんだ。ハーバーマスが現状を説明しているだけじゃないかと言い規範を持ち出すことに対して、時間的に経験や社会が変わることに対してより実践的なのは規範→行為ではなく行為→規範の方だという感じが、動物化せよというのとなんとなく重なって。
理解を深めるヒントがありそうな気がするんだけど整理できず。意識・自由・規範と行為・自在・脱規範の違いってbe動詞と動詞の違いに似てる。(こういう感じのこともどこかに書いてたけど思い出せず)
まだ読み始めたばかりなので時間を見つけて少しずつでも読み進めよう。多分表現のための方法論ではなくて、行為のためのイメージを自分の中に持っておきたいんだと思う。
まだうまく言えないのですが、建築の不自由さはポストモダン的な振る舞いとしての行為、自在な建築(設計)というあたりから乗り越えられるのではという予感があります。
また、これらはおそらく環境を面白がるという行為・態度とおそらく地続きだろう、というのが今の時点でのぼんやりとした仮説のようなものです。
この辺は機会があればもう少し突き詰めてお聞きしたいところであります。
鹿児島に建築の議論の場を。というのは私も願っていたところでケンペケにはおおいに期待していますし、私は場を作ることに関してはあまり得意でないのでこういう場を作る動きが若い世代から生まれてきたことは非常に喜ばしいです。
こういう場はこれまでも何度も生まれてきては文化として定着できなかったということがあったと思うのですが、この場が定着するまで続くことを願いますし、そのために自分ができることはサポートしたいと思っています。
とはいえ、まだまだよちよち歩きを始めたばかり。最初は簡単な事でもいいと思いますし、大人数でなくても良いと思います。なにはともあれ関心を維持しつつ歩み続けることが大切かと思います。そういう風に続けることで鹿児島での議論の場として少しずつ成長していって欲しいと思います。
そのために一つだけ期待することと言えば、出来るだけ多くの人が今回のイベントを面白かったで済ませずに、何らかの言葉で残すようになることです。はじめは稚拙でも良いし短い一文でもいいかと思います。ノートに書くでも良いし、人に話すでも良いし、もしろんSNSやブログに書いてオープンにするのでも良いかと思います。
私も学生の頃は本を読んでもさっぱり意味が分からなかったのですが、とにかく何か書く、恥ずかしくても書く、ということを続けているうちに少しづつですが理解できることの幅が広がってきたように思いますし、そういうことなしにはなかなか議論の場になっていけないんじゃないかと言う気がします。それに、どんなに稚拙であろうと自分の中から絞り出した言葉には書いた本人に限らず何らかの発見があるはずです。
とは言いつつ、それでもやっぱり歩み続けることが一番大事だと思うので楽しんでいきましょー。
なんだか、最後おじさんが書くような話になってしまいましたが、実際そろそろおじさんなんだなー・・・。まだまだ建築の入口を掴みかけたかどうかという感じなのですが。
最後に廣瀬さん含め運営の方々、良い可能性の場をありがとうございました。
あっ、レクチャーの動画貼っておきます。
ここのところ夜にツイートしながら考える癖をつけようとしていて、たまにはそれをストックとしてピックアップしてまとめておこうかと。
基本的にその時その時考えた”つぶやき”なので考えは変わっていくと思われます。
台風週末に合わせて3冊購入し、ゆっくり読もうと思っていたけど、気圧変化センサーが反応。頭痛薬も余り聞かず。うぬぬ。
最近、毎日文字なり線なり何かを書きながら思考を積み重ねることを続けねばとの思いがつよくなり、ツイッター熱再燃させたくなってきた。
とりあえず、頭痛中でもなんとか読めそうな坂口さんの新書をペラペラと。
すぐに「ギブソンによれば、ニッチとはどこに住むかを示す概念ではなく、むしろいかに住むかを示す概念であり、したがって同じ場所に多様な動物のニッチが共存しうると考えることができる。」という言葉が頭に浮かぶ。
『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』 https://onoken-web.com/blog-3976 からだけど生態学的転回という言葉がぴったり嵌りそうな一冊。
あと2冊は藤村さんの新書。態度のようなものが多少なりとも参考にできればと思っている。いいかげん「オノケンノート」を何らかの実践に具体的に落とし込める道筋を作りたい。
考えて来たことをきちんと構造化して簡潔にまとめ、自分の行動指針のようなものにできればと思っている。その構造化の部分にしっかり時間をつぎ込みたい。
方法論を見つけ出すための方法論、のようなもので参考になるようなものがないだろうか。この場合粘り強く書き出しながら構造を見つけていく以外にないような気もしているけれど。
坂口さんの新書。共感もしたし面白かったけれども概論的な感じが強かった。もっとなまなましく掴みとれないような感覚を味わいたい気もするので小説をあたってみるか。
生態学的転回という言葉に嵌りそうというのはまさにそうだったと思う。独自の言葉で感覚を現実との関係性の中で描いたのはすばらしいが、逆にもっと論としての鋭さを増したものも読んでみたい気がした。その部分では独立~の方が勢いがあった印象。
でもヒントもあったし、自分の問題としても感じられた。また、知覚や認識がいかに「現実」に規正されているか(バランスを崩しているか)、そこからどう抜け出すのかは時代的な問題でもあるのかもしれない。
ハンナアレント的な公共のイメージも出てきたように思うけれども、この辺は自分の感覚としてしっかり根付いたものにしておきたい気もする。いずれにせよもっと感度を高めたいな。
一冊目読了。自分のアプローチできる規模と課題の設定及び設計主体の体制に応じたカスタマイズが必要かと思われる。
現れに対する批判は手法に対する批判とは少し区別する必要があると思っていて、現れは課題設定や主体と設計で如何様にもなると思っている。課題や主体が異なれば当然現れもことなる。
ホンマタカシ的にニューカラー的な建築とブレッソン的な建築があるとすればニューカラー的な振る舞い(手法)はブレッソン的な現れも内包し得る。ブレッソン的な現れが必要であれば課題(変数)に組み込めば振る舞いによる多重性は維持しつつ期待する現れをそれこそ批判的に乗り越えられるのでは。
自らを振り返るといずれの現れも達成できているとは言い難い。ニュアンスによる片鱗のようなものがやっとでどっちつかずな中途半端な感じ。どうにか乗り越えたい。
再引用「ギブソンによれば、ニッチとはどこに住むかを示す概念ではなく、むしろいかに住むかを示す概念であり、したがって同じ場所に多様な動物のニッチが共存しうると考えることができる。
環境の場合も同様に、人間を含めて動物が世界にいかに生きるかを示す概念であり、それゆえ同じ世界に多様な環境が共存しうる」
恐竜や哺乳類でなく昆虫(個人事務所)として生きるとした場合も異なる知覚形式による環境が立ち現れそれに見合った形態(組織形態)と振る舞い(方法論)が生まれるはずである。小型化を逆手にとる。昆虫って寿命短いかな・・・
小型化のメリットはあるはずでデメリットを埋めることもある程度考えられるはず。そういえば子供の頃は昆虫少年だった。
(せめて猿くらいのサイズになりたくないわけでもない。)
とりあえず自分は昆虫なのだ、という目で環境を知覚してみることからはじめて、変態を目指してみる。よりシンプルかつユニークなシステムのものになるのかいなか。
プラン上手く解けたと思ったけど風水で玄関の位置を変えて苦戦中。
狭小敷地なので無駄なスペースがほとんど取れず動線の位置変更は痛い。考え方をがらっと考えないといけないんだろうけどむずい。
玄関の方位変更に伴うプランニング、何とかまとまってきた。
狭い中で動線のやりくりと狭さをカバーするための抜けの検討をしていくといつもに増して複雑な感じになってきた。
3Dを作りこみながら確認、修正を繰り返したので、このまま頭の中で考えていることと合わせてそのまま図面化出来そう。
何点か課題はあるもののほぼまとまった感じ(課題として見えてるので検討していくうちに解けると思われる)。いつもならこのまま進めてディテールをどこまで詰めるかという流れになる。
でも今回はあと二あがきくらいしたいところ。それなりに詰めたので何をどうあがくか今のところ見えていないけど、しばらく探索モードに集中してみよう。
どう探索するか。どういう視点がありうるか文字にしながら考えてみるべ。(こういう時に対話しながら考える相手がいたら楽なんだろうな・・・)
こういう時にいくつかの視点をカードか何かからランダムに選んで強制的にそれについて考えたら、とかをよく考える。あんまり良い手だとは思わないけど。
そんなことを考えてたらブログのフッターのcのところにランダムボタン仕込んでたの思い出した。現段階の案をこれで出てきた内容に関連させて文字にしながら考えて、その後できれば案に反映させる、ということを試してみようかな。
昨日から二日間、最近恒例になりつつあるお施主さんとの塗装DIY。今日ははじめてお子さんの参加があった。
お施主さんの思い出とか愛着づくりといった意味もあるけれども、その他にもいくつかの効果があると思っている。一つは単純にコスト削減。VEの段階で安易にクロスに逃げたくないときに提案している。
もう一つはお施主さんに建築が単なる商品の寄せ集めではなくて一つ一つ人が作っているものだということを体験的に理解してもらうこと。
住宅なんかは緊張感ばかりではなくある程度の緩さを許容するようなものであっていいと思っているのだけれども、そこにクライアントの理解がなければクレームになりかねないし、その微妙なラインを完全に読み取るのは難しい。
しかし、体験的に理解してもらえればお施主さんの許容の幅を広げることができるしクレームのリスクを低減できる。また、クライアント、職人双方の心理的距離が縮まり、現場に一体感ができる気がする。
ただし、あまりにも素人臭くならないギリギリのラインは守りたいところ。あまりに素人っぽければ、丁寧に仕事をされてる職人さんのやる気をそぎかねないし、いろいろな面で逆効果になりかねない。
今まで使ったのはDIY用でローラー塗りができる珪藻土のホワイト。施工が比較的簡単だし、ムラを無くすように丁寧に作業すればフラットな印象の白い壁や天井になる。左官のようないかにもな手跡ものこらない。
それでいて素人塗りなのでちょっとした液ダレのような凹凸ができるのだけど嫌味でない範囲で緩さが出ることになるし、(自分でやったんだし)これはこれでいいと思えるギリギリのライン。養生の精度によるはみ出しなんかのケアは課題かな。
あと、自分でメンテナンスできるというメリットも。ただし、誰にも提案できるというものではないのでここで見誤ると危険。まー、提案して面白いのでやりましょう、という方は今のところ大丈夫だし、現場の雰囲気も良くなることが多い。
デメリットといえば、忙しい時に重なると自分の首を締めることになるということか・・・・。それでも今のところメリットのほうが勝るかな。
あと、リアルに首が痛くなる・・・
養生テープを剥がした後にはみ出てた部分をいつ削りに行くか。一応、VEで手間代をカットしてもらった以上こちらからやってよというのは筋が通らないので。今度から、あとのケアは金額に入れててもらうかな。
モノの側から、と人の側からの話は僕も気になる。おそらく相反する事ではない気がするんだけどうまく言葉にならない。
今計画中の狭小住宅も狭さゆえただの箱では成立せず、ふるまいのようなものを想像しながら密度を上げていきたいと思っている。
そうすると自然と人との距離が近づくことになるけれども、それが人(の欲望)から産まれたものではなくてモノの方から歩み寄った、又は人、モノ双方から歩み寄ったと言うような存在の仕方でないと失敗するように思う。
人との距離は近づけたい、しかし自律性のようなものは維持したい。たぶん、そこで作られ方の見え方のようなものが大事になってくるんじゃないだろうか。
完成形としてブラックボックス的、商品的にものが立ち現れるのではなく、モノからの歩み寄りのプロセスが可視化されてる、というか。それが今回のディテールを考える上でのテーマになるのではというのが今の段階。
それで自律性のようなものがどこまで確保できるかはまだ分からない。
前に書いた自主工事も距離感や関係性をコントロールするための一つの手段と捉えている。(そうでなければやらない)
例えば島田陽さんの家具等の扱いにも同様の意味合いがあるのではと思っているけどそこはまだ研究不足。作品集とか読みたい。
昨日は午後から五木村の集落をまわった。自給自足に近い生活の住まいにはふるまいのようなものであふれていて、ちょっとした無力感を感じるなど。どうすればこういったものを現代の生活の中に取り込むことができるんだろう。
時間もなく貨幣による交換によってこういったものを分断していくことで成立している生活。同じ生活に戻すことは出来ないとしても、現代の生活の中から何を発見していくか。押し付けではうまくいかないしね。
「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」。道具までその場でつくってしまうようなところにやっぱり力を感じるんだけど、道具-家具-建築、このあたりにヒントはないかな。
道具はモノの側なのか、ヒトの側なのか。みたいな。どちらでもあるんだろうけど。ちゃんと読み込めてなかったけど『知の生態学的転回2』の終盤でギブソンの道具論を扱ってた。自律性についてもやもやした感じが残ってるけどそれに対するヒントがありそう。明日新幹線で読み返してみよう。
新幹線で道具論関係のところを読み返してみたけれども、まー、あまり良く分からなかった。
無理やり引き寄せると、ギブソンの対象の分類によれば建築は地球から見て付着対象(attached object)で道具は人から見て付着対象(使用時)と遊離対象(detached object/非使用時)を行き来するもの、となる。
家具は地球から見た遊離対象であるとすれば、建築的でありながら道具の側に少し寄った存在と言えるかもしれない。対象としての位相が若干変わる。それで?の域からでまだ出られないけど。
自律性のような流れで言うと、「社会性とは内面化されない他者(固有名を持った存在)との対話の間で生まれるもの( https://onoken-web.com/blog-3006 )」だとすれば、建築を対話の対象となる固有名を持った存在にどうすればできるか、というのが課題に設定できそう。
建築を家具化することの意味を考えた時、建築の一部を固有名を与えうる対象として家具(detached object)的に切り離すことは建築に社会性を付与する一つの方法と言えないだろうか。(社会性という言葉の使い方がまだなじまないけど)
ピノコがブラックジャックに切り離されることによって姉の体の奇形としての一部から固有名を持った存在になったように。(?)
おそらく、物理的に切り離して可動にすることが必ずしも必要ではなく、あり方としてそういう風に取り出す、ということが重要なのだろう。それは前に書いた作り方の表れによっても成せるかもしれない。
残された建築はより地形的・自律的なふるまいができるのでは。その地形的建築は家具的なふるまいの拠り所を提供することによって関係を取り結ぶ。みたいな。違ったあり方も当然あるだろうけど一つの指針にはなりそう。
毎日ツイートすることで少しずつでも考えを進められそう。ストックとしてたまにブログにまとめてみるべ。
試してみたシートはクライアントとのプロセス共有にはある程度役立った気がするけれども、仕事を進めるためのTODOチェックツール以上にはなっていないかも。
一人で考えるのであれば、図面と3Dを同時に進めて画面上で中を歩き回りながら探索と発見、フィードバックをリアルタイムにがんがん繰り返した方が有効かもしれないし、探索の精度をあげることに注力したほうがいいかも。
その中で必要に応じて方法のようなものが生まれればいいのだけど。(それだと何も前進してないのでは、という罠。だけど、進め方のイメージは前よりもクリアになったかも)
小さな敷地での店舗併用住宅の計画。
まずは敷地条件の中でどう機能をまとめるか。
うちの事務所の構成をベースに、様々なものを計画に織り込んでいこうかと考えています。
さらに空間の密度が高くしっかりとリアリティを感じられるものにできれば。
小松原陸橋の近くで工事をしていた雑貨とカフェと古道具の店『Patrie(パトリ)』が明日オープンします。
オーナーさんの長年の夢であったお店。
いろいろとあって予算が限られていたのと、オーナーさん自ら店作りに関わりたいとの希望で必要最小限のみ職人さんにお願いし、残りはオーナーさんとDIYで作り上げました。
塗装や棚類、カウンターやテーブル、ベンチ等々、素人ながらもその都度考えながら手を動かして何とか完成。
自分が考えたり手を動かす手間を含めてトータルの金額を抑えるために、私自身も「お手伝い」の範囲で関わるという条件を設定して挑みました。
そのため、基本的な判断はオーナーさんに任せていたのでいつしか「これでいいですかね」「良いんじゃないでしょうか」というのが合言葉のように。
若干の不安はありましたが、オーナーさんの頑張りもあって最後にはいい感じに出来上がったと思います。
(こういうやり方はオーナーさんが手を動かせて、その判断も信頼でき、なおかつ仕上がりのゆるさをある程度許容できるような場合にしか成立しない特別なケースだと思いますが、今回は上手くいったと思います。)
ランチもあるようですので機会があれば是非お立ち寄り下さい。
写真は実績のページにアップしています。
藤村 龍至 (著)エヌティティ出版 (2014/9/24)
早速『プロトタイピング-模型とつぶやき』と合わせて読んでみた。
これまでの取り組みをまとまった形で読んでみたいとずっと思っていたので待望の単著である。
氏の理論、手法、そして建築を取り巻く環境に対する態度のようなものをどうにかして自分の中の生きたものとして消化してみたいと思っていたし、このブログ(オノケンノート)で考えてきたことを実践に役立つよう具体的に落としこむための道筋を作らねばともずっと思っていた。
なので、フォロアーの劣化版になることを怖れず、これを機会に自分なりにカスタマイズし消化することを試みてみたいと思う。
自分の中の大きな問題意識の一つは、自明性の喪失自体が自明となったポストモダンをどう生き抜くか、ということにある。
藤村氏流に言い換えると、全てが別様で有りうるポストモダンを、単純に受け入れ何でもありをよしとするのでもなく、単純に否定し意味や実存の世界に逃げこむのでもなく、それを原理として受け入れ、分析的・戦略的に再構成する第三の道としてどう提示するか、となるだろうか。
ポストモダンを受け入れた上でどうすればこれを乗り越えられるか。
それは批判的工学主義の持つ問題意識とも重なると思うし、新しい権力・アーキテクチャのもと茫漠とした郊外的風景をどう変えうるかという点で、私自身の問題意識の原点ともぴったり重なる。
超線形設計プロセスは私自身にとって大いに参考になると思われるのだが、ここで私自身の状況に応じたカスタマイズを試みたい。
具体的には小規模な建築物に対して個人事務所として設計にあたるという今直面しているケースを想定して考えてみることとする。
ここで最も影響が大きいのは組織形態が単独の個人事務所である、ということである。
「批判的工学主義の建築」では「その主体はアトリエ化した組織か、組織化したアトリエ」のような組織像とあるが、そのどちらにも該当しなさそうだ。
当然、組織化を目指すという選択肢もあるがそれは可能性としておいておき、あくまで個人事務所として先に上げたケースでの場合を考えてみる。
まずは、カスタマイズに先立って個人事務所のメリットとデメリットを上げてみる。
メリット1:組織の維持コストが抑えられるので、それをクライアントに還元することができる。建築事務所があまり認知されておらず、低予算の案件の割合が大きい地方においては、うまくすれば生き抜くための一つの形態と成りうると考えられる。
メリット2:プロジェクト全体に目を行き届かせることができるし、組織内のコミュニケーションコストを抑えられる。
デメリット1:分業が出来ず、一度に掛けられるマンパワーが限られる。
デメリット2:複数の視点を得ることが難しく、視点の固定化・マンネリ化の危険性が高い。
個人による超線形設計プロセスの利用を考えた場合、経験的に言うとマンパワーと保管場所の点でプロセスごとに模型を作成し保管することは設計のリズムを維持する上でも負担が大きく難しい。
もし、手法の肝と思われるプロセスごとの模型の作成と保管を放棄すると考えた際、デメリットとして
1:コミュニケーションツールが失われるため、プロセスの共有が難しくなる。
2:立体的・視覚的に見ることによる課題自体を探索する機能が失われ、進化の精度・スピードが低下する。
の2点が考えられる。
1については組織内のコミュニケーションの必要性が小さいという本ケースのメリットによってある程度は緩和されると思われるが、少なくともクライアントとのコミュニケーションは必要である。
2については図面や3DCADによるパースやウォークスルー、また必要に応じて模型を作成することで、常に模型を制作せずともある程度は補えると思われる。
以上から、個人事務所がさらなる効率化のために超線形設計プロセスのプロセスごとの模型作成を省略し、これの利用を試みた場合に考えられる課題は
課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)
また、それらに加えて
課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。
の4点が考えられる。
ここで模型のかわりとしてプロセスプランニングシートのようなものが利用できないか考えてみる。
A3用紙の左側に縮小図面やスケッチ・パース等を進捗に合わせてレイアウトし、右側にプロセスに関わるパラメータを記述する。
その際、右側のパラメーターは例えば、横軸にクライアント、環境、意匠・メタ、構造、設備を、縦軸に解決済み、検討中、新規、消失などとした表の中にプロットしていく(できればパラメータ間の構造も表現)。
これによって、左側は例えばディテールやインテリアなども表現でき総体としての比較精度は落ちるがプロセスをより詳細に記述できるようになり、右側はパラメーターの変遷もプロセスごとに一望・比較しやすくなる。
このシートをプロセスごとに作成しながら設計を進めていく。
また、設計作業を探索過程と応答過程に区分し、実際の作業も明確に分けて行う。
探索過程では、シートの内容を現在の環境として捉え、そこから新たなパラメーターを発見したりパラメーターの構造化などを行う。
『知の生態学的転回2 』における関博紀氏の考察を使わせていただくと、パラメーターの出現・消失・復帰・分岐、連結・複合などの操作を行うことになる。
応答過程では、シートの内容をもとにパラメーターと図面の不整合を取り除くべく設計作業を進めていく。
これらは『知の生態学的転回2 技術: 身体を取り囲む人工環境』によるところの知覚・技術・環境に当てはめることができるだろう。
このように対応させることにより、生態学的な(知覚-技術-環境)の構造による循環に載せることが出来そうだ。
これは、先に上げた課題に対して
課題A-2:クライアントとのコミュニケーション精度をどう高めるか。(UIの強化?)
→ プレゼン・打ち合わせ時等にクライアントとともにプロセスプランニングシートを順になぞることで、かなりのプロセスを共有できる。これによってプレゼンの精度を高められるとともに資料作成の手間を省略し効率性も高められる。また、思考プロセスを共有していないことによる無駄な手戻りも防ぐ効果も生まれる。
課題A-3:探索機能をどのように備えて、どう進化の精度とスピードを高めるか。(検索能力の強化)
→ 多くの事務所ではおおまかにはボスが探索過程を担当し、スタッフが応答過程を担当するといった形がとられているように思うが、それを視覚化しつつ一連の流れの中に意識的に配置することで単独でも効率的にこのサイクルを回せるようになり、探索機能を個別に確保できるようになる。また、協力事務所等に作業を依頼する際にもスムーズな連携がとれる。
課題A-4:効率性とともに、どうすれば固有性を高めることができるか。
→ このプロセスの生態学的な循環によって、建築を含めた環境は常に構造的変化を伴い固有性が高められると考えられる。
というように一定の効果があると思われる。
残る課題は
課題A-1:複数の視点を欠如をどう補うか。(データベースの強化?)
であるが、これは課題A-2,3,4に対しても影響が大きいと思われる。
これまでブログで考えてきたことや経験してきたことはデーターベースの強化に役立てられると思うのだが、これを成果につなげるべくプロセスに組み込むにはどうすればいいだろうか。
また、どうのようにすれば探索過程によって発見したパラメーター間の構造を視覚化し、効率性と固有性を高められるだろうか。
ここで残された課題を、先の知覚・技術・環境に当てはめてみると
課題B-1:知覚・・・探索過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-2:技術・・・応答過程に有効なデータベースをどうすれば強化し運用できるか。
課題B-3:環境・・・上記2つで見出された環境をどうすれば構造的に視覚化でき、循環の精度を高めることができるか。
の3つに整理できるように思う。
個人的なメモのように位置づけているブログ(オノケンノート)は属人的課題のようなものを何とか言葉にしようとしてきたものである。
それを成果につなげるためには、これまで考えてきたことや経験してきたことを社会的課題や個別的課題を含めて探索過程と応答過程に分類し整理することが必要と思われる。
ブログでは「何を」考えなければいけないか、つまり探索過程を重点的に考えてきて、「どう」建築につなげるか、つまり応答過程については今後の課題として余り考えられていないと思う。
なので、まずはブログで考えてきたこと探索過程のデータベースとして整理し、次にこれまで経験したことをもとに応答過程のデータベースとして整理することを考えてみたい。
ここで整理する際に枠組みとして例えば以前考えた「地形のような建築」が利用できそうな気がする。
ここでは地形のような建築の特質として自立的関係性とプロセス的重層性の2つを挙げているのだが、
自立的関係性:これを高めるためには青木淳氏の決定のルールのようなものが有用かと思われる。こういった性質を持ったパラメータをデータベースとして整理する。
プロセス的重層性:プロセスを織り込むことは手法自体に組み込まれているので、ここでは重層化することができるパラメーターを並列的にデータベースとして整理する。
といったように整理する枠組みとして利用できないだろうか。これによって応答過程においてもパラメーターを成果に結びつけやすくなりそうな気がする。
ただ、プロセスを共有するためには相手になぜこの枠組を用いたのかを説明し理解して貰う必要が出てくるかもしれない。なるべく簡潔に説明できるようにしておく必要があるだろう。
これは一つの例で他にも統合してみたいモデルがいくつかあるので、枠組み自体は今後変化していくものと思われる。
ということで、まずはシートのフォーマットを作成し実践に組み込むことから始め、平行してB-1,2,3の課題解決に向けて手を動かしてみようと思う。
また、この過程を通じてシステム自体の汎用性と固有性のバランスを調整し、徐々に固有のシステムへと変化させていければと思っているし、それには実践を通じて自分の環境自体にも同様の循環を重ねて発見とフィードバックを重ねる必要がある。まだまだ先は長い。
藤村氏の論の構造と流れについてはある程度は理解できたような気もするが、氏がデータベースの構築と運用をどのように行っているのか?多くは氏の頭の中にのみ存在するのか、それとも何らかの方法で共有がはかられているのか?興味のあるところである。
MSGSの写真アップしました。
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海まで徒歩一分のこの住宅。サッシも入って屋内からの景色も確認できるようになりました。
視線と風が様々な方向に抜けるように考えていたのですが想像以上に開放的に感じる空間になりそうです。
写真を撮っていたら棟梁に「こげん凪ん時ばっかい撮ってもダメやっど。台風の時に撮りにこんば。」と言われました。
台風の経路によってはかなりの強風になるので、海が見えるのは相当に恐ろしいかもしれません。でも撮ってみたい気もしますね。
今日は生憎の天気でしたが他でも上棟式、地鎮祭などの祭事・祝い事が多かったようですね。
こちらの物件は平面が角度を振ってる上に、屋根形状をシンプルに見せるために寄棟に近い形で3面を一点に集めているため、上棟までが一つの山だと思っていました。
でも、大工さんやプレカット屋さんやおかげでなんとかびしっと納まりホッとしています。
内部は面積のわりにかなりボリュームがあるように感じます。
基礎の段階ではかなり狭く感じましたが、基礎時と上棟時の広さの感じ方のギャップはこれまでで一番大きかったかもしれません。
平面を振ることでズルズルとした奥行きを作ろうとした狙いがあたったかもです。
まだ、いくつか山がありそうですが、気を抜かなければ良い感じになりそうな手応えを感じました。
五木村のとあるプロジェクトでオフィスフィールドノートの砂田さんのお手伝いをさせて頂いているのですが、この日は2つの会議と合わせてフィールドワークに出るということで同行させて頂きました。
初日ということもありいくつかの地区をざっと見て回ったのですが、何件かの民家では、お話をお伺いしたり、生活の道具などを見せて頂くことが出来ました。
五木村は御存知の通りダム計画によって半世紀にわたり翻弄されてきた地域ですが、いくつかの本を読んで浮かび上がってきたのは、村に残った人、村を出た人、さまざまな人が村を愛しながら生きていくために一生懸命なリアルな姿でした。その中には村の将来のために涙を飲みながらダムを受け入れるという選択をした人がたくさん含まれています。
村の中心地がダムに沈むということで多くの人が村を離れましたが、それはそれまで何とかバランスを保っていた他の地域の生活にまで大きな影響を及ぼしました。
ダムが中止になったからといって、水没予定地の生活と歴史・自然はもう取り戻せませんし、崩れたバランスをそのまま元に戻すことも難しいでしょう。
それでも、村では現状を見据えて未来をみざるを得ない人々が現在進行形で格闘をしています。
仕事柄、生活とは何か?どうすれば豊かな生活が送れるのか?また、自然とどのような関係を築けるか?ということをいつも考えているのですが、ここ五木村にはその2つが理想的な形で結びつきながら存在しています。
幾つかお話を聞かせて頂いた民家では、自然の中で生きていくために工夫をしながら身近な材料で道具を自作し、小さな暮らしを継続させてきた姿を見ることが出来ました。
手元にあるもので自ら「道具を作る」ということがどれほど豊かな生活に結びついているかを再確認させられました。これらの道具がもし他の地域・他の材料で大量生産されたものであったならばこれほど豊かな印象は抱けなかったと思います。(それは、外部からの視点でしかないかも知れませんが、自分の経験からしてもそこにはある種の満足感や安心感が存在するはずです。)
貨幣経済は生活を細分化し、私たちの手元から遠ざけてきました。それは昔に戻りそのままの形で取り戻せるようなものではなく、現代の生活の中で新たなあり方を模索していかなければならないものだと思います。
先述したように五木村でも人が村から離れ道路が通り便利になることで、これらの理想的な形の継続が困難になってきている地域もたくさんあります。
こういった道具のあり方も失われていくかもしれません。
おそらく、この場所でもこれから新しい生活あり方が強く求められるのだと思います。
だからこそ、この現在存在している(存在していた)理想的な生活のあり方の形を適切に浮かび上がらせて次の世代へと伝えていく必要があるのでしょう。
それは過去を懐かしむためにではなく、ここ五木村でこれまで強いられ現在も続いている格闘のように、新しい未来をつくっていくために必要なのだと思いますし、ここを訪れる人にも何かの未来を過去とともに示してくれる価値のあるものだと思います。
できることはちっぽけな事かもしれませんが、そのような気持ちでこのプロジェクトに関われることができればいいなと思っています。
大きな反省点は肝心な写真が上手く撮れていなかったり言葉を記録できてなかったりで、いざブログに書いてみようと思い立った時にあまり良い資料が残っていなかったことです。
同行している人と同じことをしても邪魔になるかなと思ったり、住民の方に遠慮したりしていたのですが、せっかく行くからにはきっちり写真を取り、スケッチ・メモ書きを残そうと心に決めた次第。
ブログに書こうとすることも調査の心がけにつながるような気がします。ただし、そればかりに心を囚われないように気をつけないと現場で感じることが疎かになりそうですが・・・(おそらく僕の役割としては具体的な記録よりも現場の空気を肌で感じて共有できるものを見つけることの方が大切だと思うので)。
rirakuの2店舗目が天文館にオープンしました。(今回はカタカナ表記のリラクを使用されるそうです。)
場所は天文館のうなぎの末吉向かいの地下1階です。(パスタ屋さん(Darolo)の行列ができてるところです)
※夜の営業は20:00-23:00から変更になってます。(今週中はもしかしたら変更前かも)
写真はこちら
快晴のもと地鎮祭を行いました。
雑木林をつくるコンセプトのこの区画。緑と人の生活が息づいて、とても良い雰囲気になりつつあります。
新しくこの区画の仲間入りするこの家が、この場所をさらに魅力的なものにしてくれますように。
昨日の地鎮祭。多少暑かったですが、天気にも恵まれました。
静かな場所に波の音がひびきます。
夜、こんな場所でお酒でも飲みながらのんびりできるなんていいですね。
いろいろな選択肢の中からこの場所を選ばれたお施主さんの思いに応えないとです。
軸組関係の工事はほぼ完了しているのですが、トップライトの納期がかかっている関係で屋根とその後の住宅瑕疵担保責任保険の検査が待ちの状態。
そのため、内部の壁・天井下地を先行しているのですが、空間の輪郭が見えながら奥まで見通せます。
構成が良く分かりなかなか楽しい感じです。
大工さんが枠関係も先に進めるというので、慌てて納まりのスケッチを起こしたりバタバタと。
偏頭痛持ちのため梅雨時期は毎年調子が悪くなるのですが、現場も計画も待ってはくれません。早く梅雨あけろー。
写真は少し前に手持ちのコンパクトカメラで取ったもの。もう少し広角で撮りたかったな。
現場ももう少し進んでいます。
乾久美子+東京藝術大学 乾久美子研究室 (著)
TOTO出版 (2014/4/17)
前回の「デザインの生態学」の最後にも少し触れましたが、本屋でたまたま目にして購入したもの。
それらに魅力的な物が多い理由は、その場で提供される空間的サービスが、時間をかけて吟味され尽くしているからだと考えられる。その場で受け取ることのできる地理的、気候的、生態的、人為的サービスを何年にもわたって発見し享受する方法を見出し続けることで、その場における空間的サービスの最大化がなされたと考えれば、あのように包み込まれるような魅力や、あたかも世界の中心であるかのような密度感や充実感も納得できるのだ。
本書は「発見されたもの」を集積したものと言える。
(「発見されたもの」とは、著者により発見されたものであると同時に、その光景が生み出されれる過程において誰かに「発見されたもの」でもある。)
また、「どうつくるのか」という問題は本書では開かれたままになっている。
では、その「発見されたもの」と「どうつくるか」、発見と創造をどうすれば結びつけることができるだろうか。
ここでも「デザインの生態学」での深澤直人氏の発言が参考になりそうだ。
感動にはプロセスがあり、場があり、状況がある。(中略)デザインされたものやアートもそのもの単体ではなく状況の作りこみである。埋め尽くされたジクソーパズルの最後のピースがデザインの結果であるが、そのすべてのピースがその最後の穴を形成していることを忘れてはならない。
創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。
それは発見する側の者が関われる余白を状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。
(ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。)
そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。
例えば佐藤可士和のセブンカフェのデザインはある文脈では批判もされたが、そういった視点で見ると発見(リアリティ)を創造と結びつける可能性の一端を指し示す事例のように思えるし、おそらくこうしたことをかなり意識してデザインされたもののように思う。(当然クライアントの目指す方向性を前提とした判断であるでしょうが)
本書を活かすために、挙げられた膨大な写真を簡単にスケッチに写していってこういった光景を手に覚えさせようかと考えていたのだが、
・この光景がどのような状況のもと生まれたのかを想像する。
・この光景が生まれる前の「状況」のいくつかの段階を想像してスケッチし、並置してみる。
・この光景と状況の関係をセットとして捉えた上で記憶に留める。
・この光景が生まれた状況をどのようにすればつくることができるかを考える。
といったことを合わせて行えば、本書を使った「どうつくるのか」の良い訓練になるような気がする。
一度やってみよう。
その際、
観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしてしまうことは、おそらく押し付けられる刺激のようになりがちで、体験者から「探索する」「発見する」と言った能動的な態度、すなわちリアリティを奪いかねません。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)
といったことは念頭に置いておいたほうがいいかもしれない。
結果そのものではなく、それが生まれた状況もしくは余白の質をとりだしてみること。
設計者が自ら発見して直接形に置き換えたもの(観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしたもの)はここで挙げられたような魅力を持ち得ないのか、という問いもありますが、そこでの状況とその形の関係性が必然性と発見に付随する感情の質のようなものを伴って体験者に体感されることが必須なのかもしれません。
この辺りはもう少し考えてみます。
後藤 武 (著), 佐々木 正人 (著), 深澤 直人 (著)
東京書籍 (2004/04)
ちょうど10年前の本ですが、これまでの流れから興味があったので読んでみました。
個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。
つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)
これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」をの最後の一文、
この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。(Now – JParchitects)
が重なって妙に印象に残りました。(輪郭についての考察もたまたま見た俵屋宗達の番組と重なってアフォーダンス的だなー、と思ったのですがそれはとりあえず置いときます。)
僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。
アフォーダンスが伝える環境の情報とリアリティは、知識化・情報化された社会における身体の本音なのである。身体がえる情報と脳が蓄える知識としての情報のバランスが著しく乱れた社会に生活する人間に、アフォーダンスはわれわれ自信に内在していた「リアリティ」を突きつけた。(p.142 深澤)
坂本一成さんが
現在の私たちにとって意味ある建築の行為は、いつも同じだが、人間に活気をもたらす象徴を成立させることであると言いたかった。そこで私たちは<生きている>ことを知り、確認することになるのであろう。そのことを建築というジャンルを通して社会に投象するのが、この水準での建築家の社会的役割と考えるのである。(『建築に内在する言葉』)
と書いているけれども、「人間に活気をもたらす象徴を成立させること」とかなり一致するものがあるのではないか。
むしろ建築はアートであってはいけない、に近いくらいの感覚を持っていたけれども、そういう意味ではむしろ建築にこそアート的な何かしらが必要なんじゃないか。という気がしてきました。
先のアートに関する定義は深澤氏の言葉を借りて繋ぎあわせただけですが、少なくともこの言葉ではじめて建築の立場からアートという言葉に出会えた気がしていますし、これまでなかなか掴まえられなかった何かを見つけた感じがしています。(遅すぎるといえば遅すぎる出会いですが)
この本で、深澤氏は環境の捉え方から話をはじめていて、自己と環境を分けるのではなく自己も他人も含めた入れ子状のものを環境として捉えられるようになってから、デザインの源泉を客観的な視点で見つけられるようになった、というようなことを書いています。また、会田誠氏が別のところで次のようなことも書いています。
「芸術作品の制作は(性的であれ何であれ)自分の趣味嗜好を開陳する、アマチュアリズムの場ではない――表現すべきものは自分を含む“我々”、あるいは“他者”であるべきだ」(会田誠 色ざんげが書けなくて(その八)- 幻冬舎plus)
では、主観的なものも含めたうえでどうすればそういう視点を維持しつつ建築のデザインを行うことができるのか。
ここにアフォーダンスの捉え方が生きてくる気がしています。
一般的に知覚とは脳が刺激を受け処理する、というように受動的なものと捉えられているかもしれませんが、アフォーダンスの考え方では知覚とは体験者が能動的に環境を探索することによってピックアップする行為です。
建築が設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係の中でアフォーダンス的に知覚されるものだとすれば、建築にアート的なものを持ち込むとしても決して設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係のあり方として持ち込みたいと思っています。
建築そのものにアフォードさせることが肝要で、いうなれば建築は環境そのものとなるべきかと思います。
そして、そこで生まれた体験者の能動的・探索的な態度こそがアフォーダンス的(身体的)リアリティなのではという気がしていますし、そこでは、体験者と建築が渾然一体となった生きられた場が生まれるのではないでしょうか。
これは、僕が「棲み家」という言葉に感じていた能動性とリアリティにもつながる気がします。
また、そうした場をつくりたい、というのは多くの人に共有された意識ではないか、とも思うのですが、それはそういった場が失われていっていることの裏返しのような気がします。
では「どうつくるのか」という問いが当然出てきます。
今日ふらっと立ち寄った本屋でたまたま目に入った『小さな風景からの学び』という本を買ったのですが、今回書いたことにかなり近いものを感じました。(冒頭で出てきたサービスというキーワードもアフォードを擬人化したものと近い言葉に感じました。)
小さな風景がなぜ人を惹きつけるのか、という問いに対してたくさんの事例を集めたものですが、安易に「どうつくるか」で終わらせないように慎重に”辛抱”しています。
生きられた場所が誰かのための密実で調和のとれたコスモスだとするならば、その中から「どうつくるか」を学ぶというよりは、そもそも「何をつくるのか」「なぜつくるのか」と言った根源的な問い、つまり、人はどういう「場所」を求めているのかを見つめなおすきっかけを求めるべきかもしれないと感じるようになったのだ。(『小さな風景からの学び』)
「何をつくるのか」「なぜつくるのか」という問いに対しては、今回の流れで言えば「既知の中の未知を顕在化しアフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出せるもの」「建築が人間に活気をもたらす場とするために」とできるかもしれませんが、「どうつくるのか」のためにはおそらく観察が必要で、このような成果は有益だと思います。
しかし、深澤・乾両氏がそれぞれ似たことを書いているように、観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしてしまうことは、おそらく押し付けられる刺激のようになりがちで、体験者から「探索する」「発見する」と言った能動的な態度、すなわちリアリティを奪いかねません。
ですので、「どうつくるか」という部分には”辛抱”も必要だと思いますし、こういった作り方にはかなりの粘り強さが必要になるんだろうな、という予感がします。(それを克服するために方法論のようなものも求められるんだろうとも。)
こういった問題に対し、アートの分野では様々な蓄積があると思いますので、(今回の文脈上の)アートについてもいろいろと知りたくなってきました。
4/24,25とサインの作成と写真撮影に屋久島に行ってきました。
今後いつでも自作可能なようにオーナーさんと一緒にサインつくりに挑戦。
一旦白く塗った板にマスキングテープと型紙を張り、色付け部分をカッターで切り抜いてスプレーで色を付けました。
少しアクシデントもあって、案内看板は設置まで出来なかったのですが、後日オーナーさんの方で設置してくれたようです。(前回現場に言った時に間に合わなかった珪藻土塗りも夫婦二人で完璧にこなされていました。今後どういう風に手を入れられていくか楽しみです。)
また、屋久島特有の気まぐれな天気の合間をぬって撮影を行いました。
時間の合間で簡単なホームページもつくりましたので御覧下さい。
■ヴィラ ウルー | 丘の上の小さな宿
現在、保健所の手続き待ちですがホームページからでも予約できるようになる予定です。
オープン間近。どうぞご贔屓に。
( 写真は宿のホームページと同じものを実績のページにアップしています。 ■オノケン » VillaHeureux 丘の上の小さな宿 )
LEAP5月号「建築のある街並み」及びSUMIKA45号「特集 光の計画」にインタビュー記事が掲載されました。
宜しければ手にとって頂ければと思います。
Nさん、Kさん、ありがとうございました!