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「発見される」状況をセッティングする B179 『小さな風景からの学び』

乾久美子+東京藝術大学 乾久美子研究室 (著)
TOTO出版 (2014/4/17)

前回の「デザインの生態学」の最後にも少し触れましたが、本屋でたまたま目にして購入したもの。

発見と創造をどうつなぐか

それらに魅力的な物が多い理由は、その場で提供される空間的サービスが、時間をかけて吟味され尽くしているからだと考えられる。その場で受け取ることのできる地理的、気候的、生態的、人為的サービスを何年にもわたって発見し享受する方法を見出し続けることで、その場における空間的サービスの最大化がなされたと考えれば、あのように包み込まれるような魅力や、あたかも世界の中心であるかのような密度感や充実感も納得できるのだ。

本書は「発見されたもの」を集積したものと言える。
(「発見されたもの」とは、著者により発見されたものであると同時に、その光景が生み出されれる過程において誰かに「発見されたもの」でもある。)
また、「どうつくるのか」という問題は本書では開かれたままになっている。

では、その「発見されたもの」と「どうつくるか」、発見と創造をどうすれば結びつけることができるだろうか。
ここでも「デザインの生態学」での深澤直人氏の発言が参考になりそうだ。

感動にはプロセスがあり、場があり、状況がある。(中略)デザインされたものやアートもそのもの単体ではなく状況の作りこみである。埋め尽くされたジクソーパズルの最後のピースがデザインの結果であるが、そのすべてのピースがその最後の穴を形成していることを忘れてはならない。

創造に関して、「発見されたもの」すなわち結果そのものを作ろうとするのではなく、「発見される」状況をセッティングする、という視点を持ち込むこと。

それは発見する側の者が関われる余白状況としてつくること、と言えるかもしれないが、このことがアフォーダンス的(身体的)リアリティの源泉となりうるのではないだろうか。
(ここで「発見」を「既知の中の未知との出会い」と置き換えても良いかもしれない。)

そういった質の余白を「どうつくるのか」ということを創造の問題として設定することで、発見の問題と創造の問題をいくらかでも結びつけることができるような気がする。

例えば佐藤可士和のセブンカフェのデザインはある文脈では批判もされたが、そういった視点で見ると発見(リアリティ)を創造と結びつける可能性の一端を指し示す事例のように思えるし、おそらくこうしたことをかなり意識してデザインされたもののように思う。(当然クライアントの目指す方向性を前提とした判断であるでしょうが)

本書の活かし方?

本書を活かすために、挙げられた膨大な写真を簡単にスケッチに写していってこういった光景を手に覚えさせようかと考えていたのだが、

・この光景がどのような状況のもと生まれたのかを想像する。
・この光景が生まれる前の「状況」のいくつかの段階を想像してスケッチし、並置してみる。
・この光景と状況の関係をセットとして捉えた上で記憶に留める。
・この光景が生まれた状況をどのようにすればつくることができるかを考える。

といったことを合わせて行えば、本書を使った「どうつくるのか」の良い訓練になるような気がする。
一度やってみよう。

その際、

観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしてしまうことは、おそらく押し付けられる刺激のようになりがちで、体験者から「探索する」「発見する」と言った能動的な態度、すなわちリアリティを奪いかねません。(オノケン【太田則宏建築事務所】 » B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』)

といったことは念頭に置いておいたほうがいいかもしれない。
結果そのものではなく、それが生まれた状況もしくは余白の質をとりだしてみること。

設計者が自ら発見して直接形に置き換えたもの(観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしたもの)はここで挙げられたような魅力を持ち得ないのか、という問いもありますが、そこでの状況とその形の関係性が必然性と発見に付随する感情の質のようなものを伴って体験者に体感されることが必須なのかもしれません。
この辺りはもう少し考えてみます。




アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉える B178 『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』

後藤 武 (著), 佐々木 正人 (著), 深澤 直人 (著)
東京書籍 (2004/04)

ちょうど10年前の本ですが、これまでの流れから興味があったので読んでみました。

アートとリアリティと建築

個人的な引用(メモ)は(後日)最後にまとめるとして、この中で個人的に印象に残ったのが次の箇所。

つまり、アフォーダンスは人間が知っているのに気づいていない、あるいは知っていたはずのことを知らなかったという事実を暴露したのだ。その未知の中の既知が見いだせるのがアーティストにとっての特権であったし、特殊な才能であった。(p.140 深澤)

これだけだと、それほど印象に残らなかったかもしれませんが、ちょうどこの辺りを読んでいた時にtwitterで流れてきた松島潤平さんの「輪郭についてのノート」をの最後の一文、

この鳴き声が、僕にとっての紛うことなきアート。 出会っていたはずのものに、また新たに出会うことができるなんて。(Now – JParchitects)

が重なって妙に印象に残りました。(輪郭についての考察もたまたま見た俵屋宗達の番組と重なってアフォーダンス的だなー、と思ったのですがそれはとりあえず置いときます。)

僕は、アートといいうものがうまく掴めず、少なくとも建築を考える上では結構距離を置いていたのですが、アートを「既知の中の未知を顕在化し、アフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出すこと」と捉えると、建築を考える上での問題意識の線上に乗ってくるような気がしました。

アフォーダンスが伝える環境の情報とリアリティは、知識化・情報化された社会における身体の本音なのである。身体がえる情報と脳が蓄える知識としての情報のバランスが著しく乱れた社会に生活する人間に、アフォーダンスはわれわれ自信に内在していた「リアリティ」を突きつけた。(p.142 深澤)

坂本一成さんが

現在の私たちにとって意味ある建築の行為は、いつも同じだが、人間に活気をもたらす象徴を成立させることであると言いたかった。そこで私たちは<生きている>ことを知り、確認することになるのであろう。そのことを建築というジャンルを通して社会に投象するのが、この水準での建築家の社会的役割と考えるのである。(『建築に内在する言葉』)

と書いているけれども、「人間に活気をもたらす象徴を成立させること」とかなり一致するものがあるのではないか。

むしろ建築はアートであってはいけない、に近いくらいの感覚を持っていたけれども、そういう意味ではむしろ建築にこそアート的な何かしらが必要なんじゃないか。という気がしてきました。
先のアートに関する定義は深澤氏の言葉を借りて繋ぎあわせただけですが、少なくともこの言葉ではじめて建築の立場からアートという言葉に出会えた気がしていますし、これまでなかなか掴まえられなかった何かを見つけた感じがしています。(遅すぎるといえば遅すぎる出会いですが)

体験者と建築

この本で、深澤氏は環境の捉え方から話をはじめていて、自己と環境を分けるのではなく自己も他人も含めた入れ子状のものを環境として捉えられるようになってから、デザインの源泉を客観的な視点で見つけられるようになった、というようなことを書いています。また、会田誠氏が別のところで次のようなことも書いています。

「芸術作品の制作は(性的であれ何であれ)自分の趣味嗜好を開陳する、アマチュアリズムの場ではない――表現すべきものは自分を含む“我々”、あるいは“他者”であるべきだ」(会田誠 色ざんげが書けなくて(その八)- 幻冬舎plus)

では、主観的なものも含めたうえでどうすればそういう視点を維持しつつ建築のデザインを行うことができるのか。
ここにアフォーダンスの捉え方が生きてくる気がしています。

一般的に知覚とは脳が刺激を受け処理する、というように受動的なものと捉えられているかもしれませんが、アフォーダンスの考え方では知覚とは体験者が能動的に環境を探索することによってピックアップする行為です。

建築が設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係の中でアフォーダンス的に知覚されるものだとすれば、建築にアート的なものを持ち込むとしても決して設計者の表現としてではなく、体験者とモノとの関係のあり方として持ち込みたいと思っています。
建築そのものにアフォードさせることが肝要で、いうなれば建築は環境そのものとなるべきかと思います。

そして、そこで生まれた体験者の能動的・探索的な態度こそがアフォーダンス的(身体的)リアリティなのではという気がしていますし、そこでは、体験者と建築が渾然一体となった生きられた場が生まれるのではないでしょうか。
これは、僕が「棲み家」という言葉に感じていた能動性とリアリティにもつながる気がします。

また、そうした場をつくりたい、というのは多くの人に共有された意識ではないか、とも思うのですが、それはそういった場が失われていっていることの裏返しのような気がします。

では「どうつくるのか」

では「どうつくるのか」という問いが当然出てきます。

今日ふらっと立ち寄った本屋でたまたま目に入った『小さな風景からの学び』という本を買ったのですが、今回書いたことにかなり近いものを感じました。(冒頭で出てきたサービスというキーワードもアフォードを擬人化したものと近い言葉に感じました。)
小さな風景がなぜ人を惹きつけるのか、という問いに対してたくさんの事例を集めたものですが、安易に「どうつくるか」で終わらせないように慎重に”辛抱”しています。

生きられた場所が誰かのための密実で調和のとれたコスモスだとするならば、その中から「どうつくるか」を学ぶというよりは、そもそも「何をつくるのか」「なぜつくるのか」と言った根源的な問い、つまり、人はどういう「場所」を求めているのかを見つめなおすきっかけを求めるべきかもしれないと感じるようになったのだ。(『小さな風景からの学び』)

「何をつくるのか」「なぜつくるのか」という問いに対しては、今回の流れで言えば「既知の中の未知を顕在化しアフォーダンス的(身体的)リアリティを生み出せるもの」「建築が人間に活気をもたらす場とするために」とできるかもしれませんが、「どうつくるのか」のためにはおそらく観察が必要で、このような成果は有益だと思います。
しかし、深澤・乾両氏がそれぞれ似たことを書いているように、観察結果を安易に「どうつくるか」の答えにしてしまうことは、おそらく押し付けられる刺激のようになりがちで、体験者から「探索する」「発見する」と言った能動的な態度、すなわちリアリティを奪いかねません。
ですので、「どうつくるか」という部分には”辛抱”も必要だと思いますし、こういった作り方にはかなりの粘り強さが必要になるんだろうな、という予感がします。(それを克服するために方法論のようなものも求められるんだろうとも。)

こういった問題に対し、アートの分野では様々な蓄積があると思いますので、(今回の文脈上の)アートについてもいろいろと知りたくなってきました。