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ARCH(K)INDY vol.8 他メモ


4/23-24と福岡で開催されるイベントに行ってきました。
vol.8 (長谷川豪) – ARCH(K)INDY/アーキンディ

幼稚園というの親密なスケールの場で、飲み食いしながらのレクチャーとその後の朝までコース?な議論が特徴です。

「建築について考えていること」という題のレクチャーで、「建築言語の生命力」ということを軸に建築や都市との関わり方が語られました。

メモを基にいろいろと書こうと思っていたのですが、どうもメモしたノートをどこか(車?)に忘れてしまったようなので、記憶の範囲でメモ的に書き残す程度にしておきます。
以後メモ(※言い回し等正確でないところもあると思います。ノートを見てから後で勝手に追加・修正するかも知れません)

メモ都市と身体性・視点・人と何との間に・厳しさの維持

・一番印象に残ったのは、都市の問題が身体性という言葉を絡めて語られたこと。とかく、都市の問題というと実感を伴わないことが多く、無力感を多少なりとも感じてしまうことが多かったのだけど、身体性と言う言葉で、おそらく人の視点から語られたことに、何か実感を持ったとっかかりを得られたような気がした。

・「個人によって生きられる時間と人類学的時間」・・・これらを同時に担保するために「建築言語の生命力」を導入するとした場合、建築の持つ強度のようなものが大きく現れるのかな、というようにぼんやり思うけれども、その後の話やできたものとの印象と合わせると、そうでもないよな、ともやっとしたものが残る。
・それに関して途中、全く要領を得ない質問をして困らせた&困ってしまったのだけれど、長谷川さんに返していただいた言葉を思いながら考えてみると、身体性、そして、人の視点から、さらに何に対してかというのがすごく大切なのかなと思った。
・たとえば、「個人によって生きられる時間」の集積のようなものからぼんやりと建築の輪郭のようなものが生まれて欲しい、そして、願わくばその建築が人格のようなものを持った関係性を築ける確かな存在でもあって欲しい、と思っていたのだけど、それについてもなんとなくもやっとしたものが残って大きな声では言い切れない感じがしていた。そこで考えてたことの一つは「人と建築の関係性」のようなものだけど、人との間に関係性が生まれるべきものは果たして「建築」なのか?というのは今後考えるテーマになりうる気がした。というかかなり根本的な問題です。
・長谷川さんが言われたのが「建築の生命力」ではなくて「建築言語の生命力」だと言う点に多分ヒントがあるんだと思う。人からの視点から身体性と言う言葉を手がかりに考えたときに建築あるいは空間がいかなる存在なのか。言語のような存在?

・翌日イノウエサトルさんのはからいで某住宅を見学させていただいた。そこで、トリップと言う言葉を聞き、いろいろと考える。例えば長谷川さんの話を都市へのトリップ、身体性の拡張のようなものと捉えると、この週末の経験が一つにつながる気がした。それぞれの場所や人に応じた身体性の拡張の方法と、建築ができることをどこに定めるかということ。
・この辺の話は建築を考える上で当たり前といえば当たり前の話だけど、それを実現させるためには、そのための方法論とある種の覚悟のようなものがいるのかも知れない。僕もブログを始めた頃
に学生の時に書いたメモを起こして
オノケン【太田則宏建築事務所】 » 私と空間と想像力

自分という領域があるとすれば、それは周りの環境や想像力によって無限に大きくなると思います。 例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になります。高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じます。

というようなことを書いていて、自分の中では一つの大きなテーマでもあったし、それには奈良や屋久島で遊んだ子供の頃の経験が大きく影響してる気がする。思えば、昔の仮想事務所名が「A-release building workshop」で、建築・空間を通して人間の想像力・身体性を開放したいというものだったり。

・鹿児島、もっと言えば特定の敷地において、これらのことから何を考えられるか。都市と言う言葉をどうとらえられるか。例えば周りが整然と区画された土地にハウスメーカーの家が載ってるだけの、全国的にどこにでもありそうな場所の場合、どういうアプローチが可能か。それは東京などでのアプローチと多少異なるかも知れない。

・最近、特に震災以降建築の言葉から遠ざかっていたような気がするけれども、常に触れるようにしておかないと失語症になってしまうなとあらためて実感・反省。同時に自分の中に建築に対する厳しさをどう住み続けさせるかは、鹿児島での環境という点も含めて大きな課題だと感じさせられた。

(・イノウエさんにWEBでの印象とだいぶ違った、年上だと思っていた、と言われ軽くショックを受ける。まー、大学の時におじいちゃんと呼ばれてたぐらいなので仕方ないか・・・)




YNGH 2nd


とりあえず一通り3Dで起こしてみた段階。ここからどこまで粘り強く検討を重ねるかが勝負。




B164 『建築家の読書術』

平田晃久 , 藤本壮介, 中村拓志, 吉村靖孝, 中山英之, 倉方俊輔 (著) )
TOTO出版 (2010/10/25)

本当に久しぶりの読書記録です。気持ちを新たに、ということでこのタイトルから。

この本は5人の建築家がそれぞれ20冊を紹介しながらレクチャーを行った記録なのですが、それぞれの建築への取り組み方と紹介された本が密接に関係していて面白く読めました。
紹介されている本はこちら(※PDF)にまとめられています。

僕もこのブログはもともと読書記録からスタートしていて、

気がついたらなんとなく過ごす日々が多くなっていた。
本棚の本も読み流したままで自分の言葉にする作業を怠っていた。
脳みそも錆付きかけている。
そんな日常から抜け出すために溜まった本を読み返し、そこから自分の言葉を見つける作業を始めよう。
そうして、見つけた言葉の断片を寄せ集めて、もう一度自分の地図を描こう。(『読書記録』カテゴリー冒頭文)

と書いているように自分なりの地図、もっと言えば建築に向き合う際の羅針盤となるようなものをつくりたいという思いから始めたもので、読書記録を文字に起こすのはこれで164冊目になります。

建築に関して自分がどこに関心があって、どういう事を大切にしたいか、というのはこれまででぼんやりと浮かび上がってきているので、これからは実践を通してそれを建築に落としこむ方法をつくっていこうと思っています。

さて、この本に関してですが、登場する建築家が同年代ということもあり感覚的な部分で共感できるものが多かったのですが、その中でも中村拓志さんの「微視的設計」のところが参考になりました。(佐々木正人さんの本が紹介されてたり、自分と重なる部分も多かったように思います。)

こういう視点はいろいろな方がいろいろなところで語られていると思いますが、最近ネットをいじってることが多いこともあって、例えば下記のように直接建築とは関係の無いところから現在の身体感覚のようなものを感じました。

こうした、身体の行動、挙動に着目した、微視的なアプローチというのは、ネットの空間でも行われていると思うんですね。たとえばツイターのように、誰かがちょっとつぶやいたものがみんなに広がって、それがリアクションになって積み重なっていく。SNSでもアクセスが足跡履歴となって、反応が残る。足跡とかつぶやきというのはまさに小さなふるまいですね。そういうものが積み重なり、共振することで、公共的なるものがなんとなく現れる、というのがいまの社会だと思います。
それは、マスコミュニケーションの時代、マスメディアの時代とは全然違うと思うんです。マスメディアというのはやっぱり巨視なんですよ。(p139)

ツイッターがそのまま建築の形になるということではないわけですが、アプローチの仕方を変えることで建築の持つ質は変えうると思いますし、自分なりのアプローチを見つけなければ設計をしていてもどこかで行き詰ってしまいます。

この視点は藤村さんの超線形設計プロセスやdot architectsのアプローチにもつながる気がするのですが、小さなスタディを数が全体の輪郭をぼんやり出現させるところまで繰り返し、それによって生まれる豊かな関係性の可能性というのは確かにあるんだろうなという気がします。

また、手数がそのままコストに反映してしまうとするならば、施工の方法にアプローチしたり、思考・スタディの繰り返しによる密度・手数を、生まれた豊かさを損なわなずに再度シンプルなものに還元するような方法がテーマとしてありうるかも知れません。(その一つが寸法に還元するということでしょうか)

そういう事を考えながら、本を読むということは僕にとって自分のペースを維持するのに必要なんだなと感じました。
どんなに忙しくても、読書の時間ぐらいは確保できるように環境を整えていかなければ。




YNGH 1st






YOSHINONGE.Hの第1案模型(1/50)
今、少し面積を増やした第2案を検討中です。
30坪程度の住宅で、ローコスト化をはかりながらどうすれば、空間の質を確保できるか。
高さ関係の寸法の見極めと素材の扱いがキーになりそうです。
最後はコストとの戦いになりそうな予感。