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ぽこぽこシステム_建築メタver

前の記事でもリンクを貼った”ぽこぽこシステム”は例えば”建築文化”のようなことにも当てはめられそうに思います。

  • 産出物を”建築文化”のようなものを持った何かに絞る。建築的ぽこぽこ。何でも良い。
  • 建築的ぽこぽこが発生・産出している働きを建築的ぽこぽこシステムとする。(こう書くと箱物が量産されてる感じがしますが、産出しているのは”建築文化”のようなものを持った何かです)
  • 産出には変形と破壊も含まれる。
  • 産出物のうち次の建築的ぽこぽこシステムに参与するものを構成素とする。

とすると、オートポイエーシス・システム的に捉えられそうです。

例えば建築文化が浸透している場所では建築的ぽこぽこシステムが活発に機能していると言えそうですし、その逆も言えそうです。

建築的ぽこぽこシステムが活発に機能している状態では建築に対する意識の高い人達が多くなるはずなので、建築家の仕事・役割も増えそうですし、建築の質を高めることにつながるかも知れません。それなら次にどうすればシステムを活性化させられるだろうか、と考えるのは自然の流れのような気がします。

”建築的ぽこ”にどのようなものがありうるかは思いついた範囲でざーっと書いてみます。

  • 良い建物をつくる
  • 建物を利用する人が感動する
  • 口コミで建築の評判が広まる
  • まちなかの建物や景色をみて建築を感じる
  • ウェブ上で建物を紹介する
  • 展覧会を開く・参加する
  • 雑誌やテレビ等で紹介される
  • twitterで建築のことをつぶやく
  • メディアを見て建物を見に行く
  • 設計プロセスに参加してもらう
  • 講演会やワークショップを開く・参加する
  • 学校で”建築”を教える
  • 小説に建築を感じる
  • 絵に建築を感じる
  • 音楽に建築を感じる
  • 昔の生活に建築を感じる
  • 現在の生活に建築を感じる/li>
  • 未来の生活に建築を感じる
  • 建築史を描く
  • 建築マップをつくる
  • まちなかで普通の人が建築や景色について語り合う
  • 古き良き建物を大切に使う
  • 古き良き建物が壊されてしまう



建築的ぽこぽこシステムの根底には”良いものをつくる”というのがあるのは間違いないですし、ほとんどの方はそれに対して真剣に取り組まれているのだと思います。
しかし、建築的ぽこぽこシステムを維持・活性化するためにはどう働きかければいいかという視点で考えると、”良いものをつくる”ことの他にもできることがあるように思いますし、システムのコードを書き換えるような斬新なアイデアがでないとも限りません。

当然、徹底的に”良いものをつくる”ことにのみにこだわるのも有効だと思いますし、批評家やメディア関係者に任せるべきだというものも多いかもしれません。それに僕自身が何らかの策をもっている訳ではないです。
だけども、こういう枠組みをとりあえず提示することで、例えばuwagakiさんが視点を拡げて下さったように思わぬ展開が生まれるかも知れません。

ということで今日はここまで。
なんか当たり前のことを書いただけで何かが明確に浮かび上がった感覚がないので、後で思いついたら追加記事を書くかもです。
(ベタ・メタ・ネタ的に書いたほうが分かりやすかったかなー。本当は「ぽこぽこシステム_建築ベタver」の方をちゃんと考えたい・・・。)




B162 『オートポイエーシス論入門 』

山下 和也 (著)
ミネルヴァ書房 (2009/12)

今考えてることと直接的に関係があると思い、オートポイエーシス論をちゃんと理解しようと思い読み始めました。
『使えるオートポイエーシス論』を目指しているだけあって難解なオートポイエーシス論がみごとに整理されています。これで10年前に買って何度も挫折している河本氏の『オートポイエーシス―第三世代システム』がすっと読めそうです。
ただし、整理されていると言っても感覚的なコツをつかまないとなかなか理解が難しいのでオートポイエーシスを掴みたい方は先に 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』を読まれることをおすすめします。

ぽこぽこシステム論

ちょうどこの本を読み始めたときにマルヤガーデンズでジェフリー・アイリッシュさんと山崎亮さんの対談があり、どういう見方でイベントに臨むかを考えているときに「ぽこぽこシステム論」というのを思いつきました。

オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論 – かごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)
もう少し読み進めていくと、オートポイエーシスの社会システム論で言うところの構成素はコミュ二ーケーションである、というのを置き換えたに過ぎないと分かったのですが、考えた結果がオートポイエーシス論と重なったのは嬉しかったです。(その後@rectuwarkyさんが面白い論を展開して下さっています。)

オノケンノートとリノベ研

リノベシンポ鹿児島の後、なんの確信もないままかごしま(たとえば)リノベ研究会(ベータ)というサイトを立ち上げたのですが、ここに来てようやくサイトの立ち位置のようなものが見えてきたように思います。

オノケンノートとリノベ研、2つのサイトの立ち位置の違いを書いてみると、オノケンノートはあくまで僕個人の建築に対する考え方などを書いているサイトですが、リノベ研は建築分野の内外を問わず、いろいろな方の”産出物”、作品であったりテキストであったり姿勢であったり、が織り成す場、個々の活動をメタで見て考える場になればと思っています。(この論で言うところの1階言及システムもしくはn階言及システムにあたると思います)

リノベと関係ないようですが、今思えばリノベシンポ鹿児島で感じたもやもやは、具体的なリノベに関してではなくおそらく、個々の活動の繋がりの場や仕組みについてだったのだと思えるので方向性としては間違っていないように思います。(そもそも個人でリノベを考えるならサイトを立ち上げる必要はなかったはず)

なので、オノケンノートには自分が建築と向き合うときにどう考えるかという、どちらかというと自分に向けて書きます。
対して、リノベ研に書くことは当然自分の思考の整理と言う意味合いもありますが、どちらかというと個々の活動のメタな部分、例えば”リノベ研というシステム”に対して”ぽこぽこ”を期待して投げるような気持ちで書きます。社会外部へと言っても良いかも知れません。
(※社会と行った途端に対象がぼやけてしまいますのでとりあえずは外部へとしときます)

どちらも内部・外部両方に向けて書いてる部分はありますがウェイトとしてはそんな感じです。

オノケンノート的オートポイエーシス論

オートポイエーシス論はリノベ研的には社会システムとしての動きを記述・理解するのに助けになりそうに思うのですが、オノケンノート的にはどういう意味があるでしょうか。
もともとオートポイエーシスは個人的に(オノケンノート的に)追っていたものですが、

onokennote: オートポイエーシスにもう一つ期待しているのは設計プロセスについて。理論化まではしないと思うけどなんとなくのイメージはある。 [07/06 13:39[org]]


onokennote: 超線形のような感じでパラメーターを扱うけれど、設計プロセスのなかでパラメーター自体が生まれたり消えたり変化しながら全体の構造自体が動的に推移していくことで複雑性を得るようなイメージ。ただし超線形のような共有可能性は失われる。 Dot のやり方に近いかも。 [07/06 13:39[org]]


onokennote: と言っても設計論のようなものを実際の設計に活かす機会は今までつくれてない。それが出来るかできないか、必要か必要でないかも今後の課題ではある。 [07/06 13:42[org]]


というように書いているように設計プロセスについてヒントがありそうな気がします。
設計行為は施主や敷地や社会や経済や図面や模型や・・・、諸々とのコミュニケーションであり、継続的なコミュニケーションの中で例えば図面や実際の建物や関係者の満足感などを産出する一連の流れと考えられると思います。それは小さな社会システムとしてオートポイエーシス的に十分記述・分析できる可能性があると思うのです。
これは、個人の中でも言えると思いますし、dot architectsのような超並列?的な設計作業にも言えそうです。

それに、どんなものづくりであっても、さまざまなレベルで言えることだと思うので、リノベ研で考えたことがこちらにフィードバックもできるんじゃないかと思います。

またオートポイエーシスの環境、相互浸透、撹乱、コード、構造的ドリフト、構造的カップリング、言及システム、共鳴と言った概念を自分の目の前のことに置き換えることでその構造が見えてきて計画・対処できる可能性があるかもしれません。

そうでなくても、産出物のメタの部分でシステムが作動しているイメージを描けることは見方を拡げてくれそうです。




オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論

このところ、鹿屋だとか川内とかの鹿児島の中心部から少し外れたところがなんとなくアツく感じてて、それについてずっとぼんやり考えてたのですが、ブログやツイッター、メールでの一連のやりとりで自分なりに思うところがあったので、これまた投げ出し気味に仮説として書いてみます。

枠組みよりもぽこぽこ

コミュ二ティについてはずっと前から様々な議論がなされてきてると思いますし、僕も大学の卒論でコミュティに関することを書いたのですが、コミュニティという言葉にはイマイチ”実感”が伴っていませんでした。
だけど、このごろぼんやりとですが、中心部よりもう少し小さいスケールの場所でコミュニィティが新しい求心力を持ち始めているんじゃないかという”実感”があります。

なんでだろうと考えてたのですが、一連のやりとりでコミュニティへのアプローチの仕方・捉え方が違ってたのかなと気づきました。

今まではコミュニティについて考えるときにまず、まず枠組みのようなものを与えてそこから考えがちだったのですが、実は枠組みは一時的な結果でしかなく、それよりも、例えば自発的な楽しいとか、嬉しいとか、綺麗だとかそういう小さな出来事が”ぽこぽこと発生している”ことが一番のポイントなんじゃないだろうか。と思い始めています。

今までは都市部において経済規模の大きさ・情報量の多さによってこの”ぽこぽこ”が可視化されやすかった、もしくは捏造可能だったために魅力的に感じて田舎から都市部への移動が多かったと思うのですが、田舎でも可視化されなかっただけで都市部と同じように、もしくはそれ以上に”ぽこぽこ”自体やその可能性はあったのだと思います。

それが都市部と田舎との情報格差が比較的小さくなりメディアが細分化されるなかで、田舎でも”ぽこぽこ”が可視化されるようになってきています。特にツイッターはまさにその小さな”ぽこぽこ”を可視化するためにあるようなツールでこれによって、田舎の、それもより身近に感じるような”ぽこぽこ”が一気に視覚化されだしてるように思うのです。きっと、僕がそれに触れる機会が増えたので”小さいスケールの場所でコミュニィティが新しい求心力を持ち始めている”というような”感覚”を持つに至ったのではないだろうか、というのが今回の最初の仮説。

たとえば観光とかコミュニティとかの話の時に点→線→面というようなことがよく言われます。面が大事だよねと。だけど、点がないと線も面もないわけで、いきなり線や面から入っても点がこぼれ落ちてしまいます。もっというと、線や面は点の集合が描く一時の結果でしかない。さらに言うと点自体も一時的なものでしかなく持続していくには点・線・面が現れ続ける事が必要です。

オートポイエーシス的ぽこぽこシステム論

そういうようなことを考えたら、ちょうど先週からちゃんと勉強し直そうとやり始めたオートポイエーシス・システムに似てるんじゃないかという気がしてきました。(勉強中ですので間違いあれば指摘してください。また、後で内容を修正するかも知れません)

オートポイエーシス論入門(2010/山下 和也)によるとオートポイエーシス・システムの定義は

オートポイエーシス・システムとは、産出物による作動基礎付け関係によって連鎖する産出プロセスのネットワーク状連鎖の自己間欠的な閉域である。閉域形成に参与する産出物を構成素と呼ぶ

とあります。
なんのこっちゃ、という感じでしょうが、要件をいくつか端折って書くと、あるシステムが何かを産出し続けることができるとすれば、そのシステムはオートポイエーシス・システムと言える。
産出されたものは消えることも残ることもあるけれども、その産出されたものの関係性・システムの中からまた次のものが産まれる。それが連鎖してつづいている限りシステムは存続し、産出が止まるとシステムは消失する。
また、次のものが産まれることに関係する産出物が構成素と呼ばれる。全く次に参与しない産出物もある。
なんとなく生物をイメージすれば分からないでしょうか。細胞やら器官やらを絶えず産出し続け入れ替わりながら維持されるシステム。

ここで重要なのはオートポイエーシス・システムは産出物や構成素などの要素のことでも、要素の全体の構造のことでもなく純粋にシステム、産出する働きのあり方のことを指し、この捉え方が全く新しい目線を与えてくれるのですが、今までのものの見方をひっくり返すような過程がいるので、それをここで誤解なく理解してもらうのは多分ちょっと無理です。

無理なのですが続けます。

さっきの、自発的な楽しいとか、嬉しいとか、綺麗だとかそういう小さな出来事をぽこぽこと発生させているシステムを「ぽこぽこシステム」と呼ぶとします。
ぽこぽこと発生しているのは産出物で、そのうち次のぽこぽこに参与するのが構成素です。
そして、ぽこぽこが続いている状態はシステムが生きてますが、ぽこぽこが止まると死にます。瀕死の状態とか絶好調とかもありそうです。

ここで、さっきの都市部と田舎の話に戻ると、以前は都市部はぽこぽこシステムが盛んに機能していたと言えるでしょうし、田舎では控えめにしか機能していなかったと言えそうです。

それが、都市部のぽこぽこシステムは少し古臭くなって前より若干機能しづらくなってるように思います。捏造的ぽこぽこもちょっと苦しくなっています。
逆に一部の田舎では部分的にですがぽこぽこシステムが活発化しているところもあるように感じます。

なぜ活発化してるかというと、今までであれば次につながらずそれっきりだったぽこぽこ(産出物)が、さっき書いたような「ぽこぽこの可視化」によって誰かの刺激になったり、場の空気を変えたりして次のぽこぽこに何かしら関係する(構成素になる)可能性が増したからです。

田舎ではぽこぽこシステムにあまり参与することのなかったぽこぽこが、可視化によってシステムの活性化に貢献しだしている。

たこ藩現象について

また(大げさな)ローカルネタですが、川内でたこ藩現象(阪ではない)とも呼べる現象が起きています。
たこ阪という店(藩)に集う人たちが何となく”川内アツイ”という雰囲気を醸し出してるのですが、これは局地的にぽこぽこシステムが活性化しているからではないでしょうか。
たこ阪さんのさじ加減が絶妙で、今までの感覚だと「もっとバシッと枠組み与えてドンッと行けば」と思いそうなところを(実際そう思うこともありました)、ぽこぽこが自然発生することを阻害するような固定的な枠組みができないように、何となくのらりくらりとさじを振ります。

たこ阪さんに自主強制的?につくらされたボットももしかしたらぽこぽこシステムに載せられたのかもしれません。(ボットはだいたい罪悪感と共にあるもんですが、このボットはあまりないです)

たこ阪さんはなんでこんなことができるのか不思議なんですが、やっぱりそういう勘を絶えず磨いてるからなんでしょうね。

いえ、これに関してはたこ藩現象を自分なりに説明してみたかっただけですが。

ぽこぽこシステムという視点

少し戻って、マチをぽこぽこシステムという視点で評価できるとするならば、例えば建築やイベント、まちづくりの施策等を考える場合に如何にぽこぽこシステムを持続・活性化させるかという視点が生まれないでしょうか。(当然この指標が全てではなくある側面を評価することしか出来ないという前提でですが)
個々の要素や集まりを活性化させるというよりはシステムを活性化させるという視点。それはおそらくコミュニケーションに関わる視点だと思います。
ただ、オートポイエーシス・システムは観察・予測・コントロールができないというように『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方(2004/山下 和也)』には書かれていたので、どうアプローチできるのかはもう少し探求しないといけませんが社会システム論としても展開されているのでいろいろとヒントはありそうです。

前回のポストとそれに対して頂いたリアクションの次を考えるときに、ぽこぽこシステムを活性化させるような視点から可能性を探せないかな、と今思っているところです。

コミュニティの力

そんなことを考えてる時に、昨日マルヤガーデンズでジェフリー・アイリッシュさんと山崎亮さんの対談がありました。
びっくりするくらいタイムリーなゲスト。

いろいろな発見や確認できたことがあったのですが、その中でジェフリーさんの「集落に入って最初にやったのが住民の方々を撮った写真展だった」という話はまさに”ぽこぽこの可視化”だなと感じました。

また、今回のトークサロンのメインテーマは『つなげる、つながるーコミュニティの力ー』でした。そこで僕の感じた『小さいスケールの場所でコミュニィティが新しい求心力を持ち始めているんじゃないか』という感覚、コミュニティの力とスケールの問題についてジェフリーさんや山崎さんはどう感じているんだろうか、また、同じような実感があるとしたらその理由は何なのか、というようなことを聞いてみたかったです。(その時はうまく整理できてなかったのとタイムオーバーと個人的事情で聞けず)

皆さんはそのような実感はないでしょうか。

—-追記—-
ここに書いてることはちょっと似てると思うし、参考になりました。
すべてはコミュニケーションのために – 403 architecture