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B161 『今こそアーレントを読み直す』

仲正 昌樹 (著)
講談社 (2009/5/19)

オノケンノート » B002 『住み家殺人事件建築論ノート』

そこでキーとなるのがハンナ・アレントのいう「私的」「公的」という概念である。
『完全に私的な生活を送るということは、何よりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」deprivedということを意味する。』「人間の条件」ハンナ・アレント1994
『内奥の生活のもっとも大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらがいわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化され非個人化されない限りは、不確かで、影のような類の存在にすぎない。』(同上)
『世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人々の真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人々の真中にあることを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人々を結びつけると同時に分離させている。』 (同上)

オノケンノート » B123 『ウェブ人間論』

平野氏が
実は僕たちが公私の別を言うとき、そこで言う「公」というのは、僕たちがどんな人間であるかというのを表現できて、それを受け止め、記録してくれるかつてのような公的領域ではなくて、経済活動と過度の親密さによって個性の表現を排除してしまっている社会的領域に過ぎないのではないか、ということです。そうした時に、「ウェブ」という言葉でアレントが表現したような、人間が自分自身を表現するための場所として、いわば新しい公的領域として出現したのが、実は現代のウェブ社会なんじゃないかということ僕はちょっと感じているんです。(平野氏)
というようにアレントを引用していたが、アレントの言うような”奪われてしまった公的 なもの”をウェブが取り戻す可能性は大いにあるように感じた。

今ままで何度かハンナ・アーレントの名を目にしていて、一冊読んでみたいなーと思っていたのをようやく読みきることができました。

アーレントは「人間性」「活動」「複数性」「公的領域/私的領域」「自由」といった言葉を僕たちが普段使っている意味とはちょっと違う感じに再定義しているのだけども、それが結構新鮮でした。

哲学に関するような本を読んでると、概念をひねくり回して単なる言葉遊びをしてるんじゃないかという気になることがよくあるのですが、実際、人間は言葉によって思考の枠組みを固定化させられてしまう事の方が多く、逆に言葉に弄ばれてるような気がします。言葉を自分の手のひらにのせ直そうとするだけでも言葉遊びにも意味があるのかもしれません。

アーレントの核は多様な考え方が共存できるような状態を維持し、例えば全体主義に陥らないように注意深く思考や言葉を吟味していくことにあるのだと思うのですが、最近の政治や報道に対する単純な反応(って単純に思ってしまうことも含め)に対してカウンターになりそうな感じで、なおかつ簡単に捕まえられなさそうなところがいいです。

そういう意味でのアーレントは本書を読んで頂くとして、本書で書かれている人間性を空間性に置き換える事で建築について考えられそうな気がしたので少し書いてみます。

onokennote: メモ アーレントの活動・複数性・自由の定義は自由な空間・多様な関係性にそのまま接続できそう。アーレントの意義が説明可能ならそこから多様な関係性の意義に持っていけるのでは。 [04/24 17:38[org]]


例えば強引に

【人間としての最も重要なのは、複数性・多様な価値観の担保された公的な領域において、意見を交し合う活動であって、私的領域は公的領域を補完するためにある。また、複数性を保持し活発な活動がなされるには活動する各人の「間」に適切な距離を設定する「自由な空間」が必要である。また、自由は解放によって得られるのではなく構成によって生み出すべきものである。「自由な空間」において「活動」に従事することで「複数性」の余地が広がり「人間らしさ」を身につける】

と言うようなことを空間におきかえて

【空間として最も重要なのは、多様なものとの関わりあいを担保された公的な領域において、多様なものとの関係性を築くことであって、私的領域は公的領域を補完するためにある。また、多様なものとの関係性を築くためにはそれらに関わるための余地・隙間を適切に設定する「自由な空間」が必要である。また、自由は解放によって得られるのではなく構成によって生み出すべきものである。「自由な空間」において多様なものとの関係性を築くことによってリアリティを獲得するのである。】

と仮定してみると、このブログで考えてきたことに綺麗におさまりそうです。

公的領域/私的領域についてはちょっとニュアンスが違う気がしますし、例えば住宅を公的領域を主に考えることに対していろいろ議論の余地はありそうですが、考える方向性・可能性としては十分あると思いますし、実際にそういう議論も行われていると思います。

もう少し突っ込んでアーレントの「活動」「複数性」の性質を学んでみれば、新たな建築に対する視点・ヒントが得られそうな気がしますが、それはまた時間のあるときに。「人間の条件」ぐらいは読んでみたい。

ちなみに、以前、いろいろなものから開放・解放された自由な空間をつくりたい、という意味もこめて架空の事務所名を「A-RELEASE BUILDING WORKSHOP」としてたころもあったのですが、解放ということばに政治的な匂いとおこがましさを感じたので、あまり意味を含まない「オノケン」に変えたことがあります。

また、

onokennote: メモ:理解できたとは言えないけど、ツイッターは現代社会の中ではアーレントのいう”活動”における”複数性”を比較的確保できる可能性を持った場所なのかも知れない、と思った。”複数性”と空間の心地よさについても少し思いをめぐらせてみたい。 [04/20 23:31[org]]


ウェブ、特にツイッターについてアーレントの公の概念から考えられそうな気もしますが、それも気が向いたら。




世界を眺め自分の自由を見つける。


自分の中に強さと自由を見つけること。
それを核にして<社会>や<世界>を眺めてみる。
また、<社会>や<世界>から自分の核を眺めてみる。
多分両者はフラットな関係。
全ては強さのために。全てはデザインのために。

オノケンノート » B043 『ル・コルビュジェの建築-その形態分析』

コルの発明はやっぱりコルの発明であって、自らの匂いを嗅ぎ取らないことには自ら人間味のあるものはつくることはできないと思う。そういう過程を抜き去ってしまっていて、コルを批判は出来ない。

それは、おそらく問いのたて方に問題がある。 「乗り越える」という意識はおそらく無意味なのである。 「コルがコルであった」という事実を他人が乗り越えられるわけがない。

オノケンノート » B148 『原っぱと遊園地〈2〉見えの行き来から生まれるリアリティ』

前著は比較的分かりやすく誰にでも”利用”できる内容だったように思うが、今回は打って変わって私的な部分が表面に出てきたように思う。

おそらく青木淳が開いた建築的自由というものは、最後のところでは青木淳のものであって、自分にとっての自由は自分で作り出すほかない。

オノケンノート » B120 『吉阪隆正とル・コルビュジエ』

彼の「決定する勇気」は、形態や行動の振幅を超えて一貫している。世界を自らが解釈し、あるべき姿を提案しようとした。あくまで、強く、人間的な姿勢は、多くの才能を引きつけ、多様に受け継がれていった。

オノケンノート » B146 『14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に』

僕は最終的には<私>に還らざるを得ないと思いますし、『すべてがデザイン』という姿勢が今の社会では生きやすいんじゃないかなと思うのですが、<社会>や<世界>を一度通してから<私>を考えた方が楽だったり『デザイン』しやすかったりすることも多いように思います。