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hs22


hs21と同敷地で居場所を分散させた案。面積はほんの少しこちらが大きい。

hs21を詰めていくとすれば空間の質そのものに迫る感じ。
こちらを詰めていくとすればシークエンスと遊び心に迫る感じ。

なんとかこの2案だけでも年内に模型まで作っときたいな。




hs21


敷地に対してオーソドックスにはめ込んでみた案。
それなりにまとまりそう。
ただし、敷地に対して伸びやかさがないので、これはこれで模型を作成しながら他の可能性を探ってみる。




B156 『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』

東 浩紀 (編集), 北田 暁大 (編集)
日本放送出版協会 (2009/05)

興味を持った経緯

藤村龍至氏による「批判的工学主義」「超線形設計プロセス論」をまとめた論が載っているというので今後の建築の議論の前提として読んでおいた方が良いのかな、と思っていたところにtwiiterで

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。/動物化せよ!!というアジテーションに乗っかれないニンゲン=学生が印象論的に嫌悪感を抱いているという印象。設計うまい奴ほど動物なのにね。 RT @saitama_ya もしかして超線形プロセスって設計行為を動物的な方向に持っていくものとして、学生に見られがちなのかしらん。。。


というのを発見。
実は結構自分の興味と重なるのではという気がしてきました。

onokennote: 学生のころ(10年ほど前)妹島さんにポストモダンを突き抜けた先の自由のようなものを感じたんだけど、藤村さんの理論はそれを方法論として突き詰めた、ということなのだろうか。だとすれば大いに興味がある。早く思想地図3号をゲットして東さんの動物化との関連を知りたい。 [12/02 09:21]


オノケンノート ≫ B008『妹島和世読本-1998』

今考えると、妹島の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。 もちろん、妹島の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。

妹島さんにポストモダンを感じて以降、ポストモダンを生きる作法、意味を突き抜けた先にある自由のようなものに対する感心はずっと持っていて東 浩紀の動物化にも結構影響を受けたので、自分の興味とうまく繋がるんじゃないかという気がして早速図書館で借りてきて読んでみました。

まずは先に読んだ序章と藤村氏の部分について考えたことを書いておきます。
(twitter経由で本人が見られる可能性もあり多少尻込みしますが、不勉強な現時点での考えということで)

アーキテクチャの問題

まずはじめに前提となるアーキテクチャの問題について序章と冒頭及び共同討議の導入部を引用しておきます。

「アーキテクチャ」には、建築、社会設計、そしてコンピューター・システムの三つの意味がある。

この言葉は近年、批評的な言説の焦点として急速に前景化している。わたしたちは、イデオロギーにではなく、アーキテクチャに支配された世界に生きている。したがって、必要なのは、イデオロギー批判ではなくアーキテクチャ批判である。だとすれば、わたしたちはアーキテクチャの権力にどのような態度を取るべきなのか。よりよきアーキテクチャなるものがあるとすれば、その「よさ」の基準はなんなのか。そもそも社会を設計するとはなにを意味しているのか。イデオロギーが失効し、批評の足場が揺らいでいるいま、それらの問いはあらゆる書き手/作り手に喫緊のものとして突きつけられている。(東浩紀)

しかしいまや、権力の担い手というのは、ネットにしても、あるいは「グローバリズム」や「ネオリベラリズム」という言葉でもいいんですが、もはや人格を備えたものとしてイメージできない、不可視の存在に変わりつつある。(中略)しかし、その原因である世界同時不況がどうやって作られたのかというと、複雑かつぼんやりした話になってしまい、誰が悪いとは簡単には指差せない。(東浩紀)

僕がブログに感想を書いた本でいうと
オノケンノート ≫ B065 『ポストモダンの思想的根拠-9・11と管理社会』

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

というのが近いかもしれません。

コントロールする主体がつかめず訳がわからないまま何かに支配されている、そういう感覚が広がる中そういう問題にどうやったらアプローチできるのか、という事だと思います。

地方における問題

onokennote: 工学主義をどう乗り越えるかは、ここ鹿児島でもというより地方でこそ本質的で重大な問題。鹿児島で感じるもやもやを明確に示して貰った感じがする。 [18:08]


工学主義の定義は後で紹介するとして、例えば、街並みがハウスメーカーの住宅やコンビニ、大型商業施設といったどこに行っても同じようなもので急速に埋め尽くされつつある、と感じたことは特に地方都市で生活する方なら誰でもあるんじゃないでしょうか。

個々にとっては例えば地元の顔のみえる商店街も大切だと思ったり、潤いのある街並みのほうが好きだという気持ちがあっても、なぜか先に書いたような画一化の波は突き進んで行くばかりで止められないし、どうすればよいか分からない。

東京などの大都市においては規模があるのである程度の多様性は担保されるように思いますが、地方においては、その人口・経済規模の小ささ、情報伝播量の少なさから画一的な手法に頼りがちでこういった状況がより加速しやすい。と、鹿児島に帰ってきたとき最初に感じました。

皆があるイメージを共有し自らの判断の積み重ねでこの問題をクリアしていくのが理想だと思いますが、実際にはこのアーキテクチャの権力は強力でなかなかそれを許してくれないように思いますし、アーキテクチャの問題は地方でこそより切実だと感じます。

批判的工学主義

onokennote: 思想地図の藤村氏の論を読む。工業化→批判的機能主義(コルビュジェ) 情報化→批判的工学主義 の比較は非常に明確で食わず嫌いでいる必要は全くない [12/02 18:05]


こういう問題に対して藤村氏の提唱する「批判的工学主義」は思考の枠組みを与えてくれます。

本著を読むまではヒハンテキコウガクシュギと聞いて既存の単語のイメージを当てはめても何のことかよくわかりませんでした。
しかし、読んでみれば難しい話でなく、おそらく機能主義とコルビュジェの成果を知っている人であれば誰でも理解できるものでした。

工学主義の定義の部分を引用すると

東浩紀は、社会的インフラの整備による技術依存が進む私たちの社会環境の変化を「工学科」と呼び、整備された環境のもとで演出された多様性と戯れる消費者像の変化を「動物化」と読んでいる。(中略)ふたつの変化が同時進行する状況をひとまず「工学主義」と名付け、「建築形態との関係から、以下のように定義したい。

1.建築の形態はデータベース(法規、消費者の好み、コスト、技術条件)に従う
2.人々のふるまいは建築の形態によって即物的にコントロールされる
3.ゆえに、建築はデータベースと人々のふるまいの間に位置づけられる

まだよくわからないかもしれません。本著に載っている下の表がわかりやすいです。

[社会の変化と建築家の動き]
table1

「工業化」による機能主義に対してコルビュジェらは単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「機能主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、20世紀の新しい建築運動として提示』しました。その後コルビュジェらの建築は世界中に伝播し風景をガラリと変えました。(その広がりの裾野に行くに従い「批判的」の部分は徐々に失われてただの機能主義になっていったように思いますが)

「工業化」に対し「情報化」を当てはめ同じように考えた場合、”単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「工学主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、21世紀の新しい建築運動として提示』”する第3の道の立場がありうることは誰にでも理解できると思います。

超線形設計プロセス論は風景を変えうるか

その第3の道の立場を実践するための方法論として藤村氏は「超線形設計プロセス論」を提唱しています。

詳細は本著を読んでいただくとして、この方法論の特徴の一つとして著者は「スピードと複雑さの両立」をあげていますが、これらによって例えば今の風景を変えることは可能でしょうか。

これに対してはよくわからなかったというか、あまたある設計手法の一つであって他の手法とそれほど大きな違いはないんじゃないか。というように感じていました。

だけど、今日、なんとなくどこの誰が設計しかも分からないような変哲もないマンションの前にたって、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみると、何か可能性のような物が見えた気がしました。
誰もがこの風景を少し変える方法論を身につけたとしたら、少し変わるのかな。と

onokennote: 何でもない羊羹形のマンションの前に立ち、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみた。確かに街の風景を変えうる可能性がある。風景を変えるには、誰でも(例えば地方の組織系ともアトリエ系とも言えない設計事務所でも)使える汎用性のあるツールでなければならないと思う。そのためには組織系、アトリエ系それぞれに対応するパラメータの抽出と、それらを統合するノウハウの集積が必要。(前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める。どうせなら、WEB上でノウハウと事例を集積・公開し、集合知を形成するようなシステムと教育システムの構築までいって欲しい。そこまでいって初めて風景を変える力を持ちうるのだと思う。超線形設計プロセス理論に反感を覚える人は、これがアトリエ系とはまったく別のアプローチで汎用性を目指し長期的視点を持ったものであることを理解すべき。


誤解が含まれているかもしれませんが、重要だと感じたのは

・誰でも利用できること。
・組織型・アトリエ系それぞれの長所を結びつける手法であること。

だと思いました。
(アレグザンダーとの決定的な違いは何かということについてはまだ理解が足りない)

最初は「スピードと複雑さの両立」だけで何が変わるのか、と思いましたが、それらはパラメータの一組に過ぎず重要なのは、組織型・アトリエ系の再統合にあるのだと思いました。(例えば前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める)

特に前例のコルビュジェは伝播力という点では天才だったと思いますし、彼は機能主義を「乗り越えた」というよりは自分のやりたい事のために「利用(戦略的に再構成)した」のだと思います。

藤村氏もメディアの利用や啓蒙するスタイルはコルビュジェに似ていると思いますが、コンテンツにおくウェィトは少し違いがあるように思います。学生たちの反応をみると、初期導入の部分ではコンテンツのウェイトを増した方がうけが良いようにも思いますが、そこは汎用性のあるプロセスを鍛えるためにあえて抑えているのかもしれません。
(こんな発言も)

ryuji_fujimura: と、強気な主張をしつつも、オリジナルのスタイルを確立してファンとだけ仕事をするサッカがうらやましく思えたりもする。「厨房には立ち入らないで下さい」とか言ってみたい。よほど自信が無いと言えないからそれが言えるだけでもすごいとは思う。


超線形設計プロセス論は風景を変えうるか、ということについてはまだ分かりませんが可能性のひとつのとしてはあるように思います。

批判的工学主義の立場を取る際の方法論は他にもあるかもしれませんし、アーキテクチャへのアプローチは今後意識するようにしようと思います。

ポストモダンを生き抜く作法となりうるか

僕の個人的な興味である、建築が”ポストモダンを生き抜く作法”を体現できるか、という意味での「動物化」との関連はよくわからなかったのですが、もしこのプロセスの応用によって、意味に頼らずとも魅力的なものができるのであれば可能性はあるのかもしれません。

最初の引用を繰り返すと

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。 [02:06]


ここに挙げられている方たちの建築は共通して”ポストモダンを生き抜く作法”を体現しているように見えます。

僕自身はそれに対して方法論を持ち合わせていないので、もう少し方法論に対して意識的である必要があるかもしれません。




素材の力(石・土)

オノケンノート ≫ B126 『無有』

竹原さんの建築文化の特集は穴が開くほど見たけれど、この本も穴が開くほど読む価値があると思う。実は図書館で借りたんだけど、絶対買いの一冊です。

少し前に購入しました。
それで、しばらくは家のスタディをする前に2章以降を1章ずつ再読して自分なりに消化してからスタディに取り掛かることにしてみます。

第2章『素材の力』・イサム家イズミ家・石と建築・土と建築・素材から空間へ

密度の高い文章でどこを抜き出しても趣深いのですがいくつか引用してみます。

石には「沈黙の美」を感じる。石は多くを語らないが、見るものに時間の重みを伝えてくれる。石が存在している、それだけで人の心を沈黙させる。(中略)ひとたび眠りから目覚めた石は、空気や雨に触れ、長い風雪に耐えながら、その質感を千変万化させ、新たな場を生み出していく。

雨が当たらないときには、石に生命を吹き込むように、水を打つという文化が日本にはある。そして水を打つことのできない内部空間では、石を鏡面に磨き、光を反射させる。

中でも効いている石がひとつだけある。「かい」と呼ばれるその石を感じた時、空間と、そこに佇む人の身体の重心が重なり合う。

と、続けていこうかと思いましたがキリがなさそう。もっと艶っぽい文章がたくさんあるのですが、引用は中断して僕なりにまとめることにします。(twitterの影響かなかなか文章が頭の中で組み立てられない。)

石について

さまざまな素材の中で石ほど時間の流れや、重力など自然の中に含まれる要素をストレートに表す素材はないのではないでしょうか。

それは人工物である建築の中であたかも自然の代理人もしくは案内人のように立ち現れます。

壁として立ち上がるときは地面の代理人のごとく私たちの前に現れ、その重量感は上から積まれたものが徐々に下へと伝わっていくというよりは、地面から壁としてたち表れる際に重力に抵抗した痕跡としての表情のように見えます。
大地と一部としてのそのあり方は、地球規模の懐の深さで私達を受け止めてくれます。

また、地面に敷かれた石は案内人として私達を目的の場所へと優しく導いてくれますし、置かれた石は想像力を通じて自然の奥行きを私達に感じさせてくれます。

それらの石の表情を決定付ける要素は例えば重量、色・テクスチャー、大きさ、厚さ、形、目地の幅や深さ、リズムなどであり、水や光の当たる場所かどうか、日常的な空間か非日常的な空間か、などでも変ってきます。
日本建築では「真・行・草」の概念のようにこれらの作法が高度に磨かれています。
建築よりは地面に属するものとしての扱いが多いかもしれません。

土について

土も自然そのままの状態に近い素材ですが、石に比べると人間のコントロールしやすい中間的な素材といえるかもしれません。

なんとなく大地から立ち表れた石壁が人間界に送り込むために産み出した子供のような感じがします。
地球的とはいわなくとも、工業的な時間ではなく農業的な時間を感じますし、左官の技は自然と人とを融合する高度な技術だと思います。

土の表情はテクスチャーに拠る部分が大きいように思います。混入する素材や荒さ、表面下げの技法等で様々な表情が生み出せます。それは、土を自然と人口の間のどこに位置付けたいかで変るかもしれません。荒く仕上げた自然に近い表情から、熟練の職人の技による繊細で緊張感のある表現まで。
どちらにしろ、完全に自然でも人口でもない表情であるところが面白いところです。

こちらは地面よりは建築としての方が扱いやすいかもしれません。

鹿児島の石と土

鹿児島では石や土というと火山によるものが一般的だと思います。
溶結凝灰岩 – Wikipedia

溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん、welded tuff)は、火山の噴火によって空中に放出された噴出物が地上に降下した後に、噴出物自身が持つ熱と重量によってその一部が溶融し圧縮されてできた凝灰岩の一種。

シラス (地質) – Wikipedia

シラス(白砂、白州)は、九州南部一帯に厚い地層として分布する細粒の軽石や火山灰である。鮮新世から更新世にかけての火山活動による噴出物であるが、地質学においてはこのうち特に入戸火砕流による堆積物を指す。

鹿児島は石倉や石塀、石橋、あとタノカンサァなど石が生活に溶け込んでいます。
検索結果 文化遺産オンライン
探検の会でも溶結凝灰岩という言葉はよく出てくるのですが、例えば加治木石というのがありました。
オノケンノート ≫ W042『すごいぞ!加治木のまち歩きRETURN』

島津義弘のお膝元ということで歴史の宝庫なのですが、地元の加治木石を利用した石垣などでつくられたまちなみが印象に残りました。

それは、溶結凝灰岩が比較的加工がしやすく手に入り易かったからというのがあるのでしょう。
その分強度がないのかと思いましたがそうでもないようです。
鹿児島と石の文化

溶結凝灰岩は、単位体積重量2gf/cm3、間隙率14~32%程度と軽くて空隙に富んでいますが、それなのに圧縮強度は115(軟質部)~749(硬質部)kgf/cm2と大きく(下図参照)、コンクリートと同程度を示します。

(大谷石の圧縮強度は151.8kgf/cm2? ■大谷石の物性試験(比重・吸水率・圧縮強度・曲げ強度):大谷石のKANEHON

ただ、溶結凝灰岩は重量感や存在感に乏しいように思います。
そういう意味ではシラス左官材として利用するのが正しいように思いますが、溶結凝灰岩は鹿児島の風景を形づくって来ているものですし、それは僕も好きな風景でもあります。

重量感や存在感に乏しい溶結凝灰岩の石としての使い方の決め手はまだ見えていないのですが、おそらく先に書いたような強く立ち表れる石のあり方とは違うとらえ方をしないといけないのだと思います。

まだまだ鹿児島の風景から学ばなくてはいけません。




建築家twitter追跡ブログ

建築家twitter追跡ブログを開設しました。

onokennote 【建築家twitter追跡ブログ】を開設。関連ツイートを追跡。ハッシュタグも72時間追跡。毎日0:30自動更新。今のところ (@ryuji_fujimura) @kurakata @taroigarashi の3氏。追跡リクエストも募集中 https://bit.ly/6dCjyQ[11/30 20:09]

今建築家で一番twitterを積極的に利用しているのは藤村龍至氏(@ryuji_fujimura)だと思います。

なかなか発言を追えてないのと、いくつか関連著書を読んでみてから読み返したいと思い、twitterの関連postをTwitterSearchで検索し、ログをとろうとしたのですが、なぜか@ryuji_fujimura氏の発言が引っかかりません。

それで

onokennote (@ryuji_fujimura) さんをTwitterSerchで捕捉できない。https://bit.ly/1kwtxwで発言やログをとりたいと思ったんだけど。 @ryuji_fujimura 捕捉Botをつくると面白いかなー。講演会等のハッシュタグ追いかけ含めて[11/29 04:42]

と思い、つくってっました。

講演会のログ等とり損ねたのも多いのでもっと早くつくればよかった。

あと、コードの使いまわしで

onokennote ついでに【かごんま弁ついーと】も開設。有名人のついーとを勝手にかごんま化。今は (@ikedanob) @tanabe1969 @renho_sha @kohmi @MaywaDenki @HikaruIjuin @kazuyo_k https://bit.ly/6clyBe[11/30 20:13]




HS20 MODEL


オノケンノート ≫ HS-20 門型の家

屋根はスチレンボードを曲げて作ろうと思ってましたがきれいに行かなかったので、結局直線と曲線の型を当ててスタイロカッターで切り出しました。
空間としてはなかなか楽しげな感じです。

今年はHS22までつくる予定だったのをHS21までとすることに変更。
次はもうちょっとだけ時間をかけたいです。




B155 『建築プレゼンの掟』

高橋 正明 (著)
彰国社 (2008/06)

「10の掟」とありますが、この10の掟を守るべしというノウハウが書いてあるのではなく、10人のそれぞれのプレゼンに対する姿勢からあなたのプレゼンに対する掟を見つけてくださいと言う内容。

なので相手とのコミュニケーションという基本的な部分は共通しているにせよ、その姿勢や手法は様々でそれぞれに考えさせられます。

中でも、ちょうど去年の神戸芸工大のオープンスタジオの内容がそうだったと思いますが、青木淳さんの模型の話が面白かったです。

模型には、2種類あります。まず「こうなってほしい」という模型。それはどちらかというと小さくて、夾雑物をはぎとって残った、本質に近いというか抽象的な模型です。(略)もうひとつは、「こうなってしまう」という模型です。(略)

スタディをしながら「こうなってしまう」模型と「こうなってほしい」模型とのギャップを埋めていく。スタディ用か説明用に模型が分かれているのは模型を使いこなしているとはいえない。

プレゼントは何かといったら、先ほど説明した「こうあってほしい」と「こうなってしまう」の、どちらから見ても大丈夫な模型をつくって、見せることです。
だいたい、判断を下すトップの人が見る時間は5秒くらいですね。それで結論がでるんですから、「いいか悪いか」だけです。このときに、「こういうことがやりたかった」「もう少しこういう感じなんだけど」と言葉で補っても、仕方ないわけです。そのモノで判断してもらうしかないんです。それがプレゼンですよね。いかに少ない材料で分かってもらえるか、ということです。
そこに至るには、さっき言ったように、自分のやりたいことを明確に表してみること、その努力しかないのではないかなと、自分に言い聞かせています。

ところで今僕が作っている模型はどうでしょうか。

何度もスタディを繰り返す時間がないというのもありますが、「こうなってほしい」というものに「こうなってしまう」だろうというものが多分に含まれた中間的な模型になってしまっているように思います。

「こうなってほしい」だけでは素人にはおそらくリアリティを感じてもらえないだろうし、厳密なスタディを経ない「こうなってしまう」は陳腐なものになってしまうだろうし。

ギャップをなくすことが理想ですが、限られた時間の中でうまいバランスをとりたいと思います。

それと、一つは「こうなってほしい」と「こうなってしまう」のギャップを埋めるスタディに時間をかけたものもつくりたいですね。30分の1ぐらいで。




HS16 MODEL


オノケンノート ≫ HS-16 外柱の家

これであと3案。
なんとか射程距離内かな。




W049 『鹿児島大学キャンパスめぐり』

かごしま探検の会のまち歩きに参加してきました。

いつも東川さんの解説を歴史音痴の僕が聞くだけではもったいないし、うまくブログで伝えられないともどかしく思っていたのですが、今回は録音許可をもらったので試験的に東川さんの解説音声をつけてみました。

解説音声はこちらのケロログで聞いて下さい。

音声の公開には大分手間取ったけれど、記録としてはいいんじゃないでしょうか。

もっと早くやればよかったと少し後悔。




HS15,HS17 MODEL

hs15model
オノケンノート ≫ HS-15 外部デッキと空の家

hs17model
オノケンノート ≫ HS-17 黒白の家

遅れを取り戻すために一気にふたつ作成しました。
HS16は気分的に後回し。

これであと、案を3案+模型4つ。
ちょっと厳しいかな。遊びすぎました。




久しぶりに折り紙おりました

久しぶりに折り紙を折りました。

ori1

ori3

詳細はこちら
おのけんのーと ≫ Blog Archive ≫ おりがみったー

たぶんヨーダは僕が今まで折った中では再難関。僕の今の力で折れるギリギリの難しさだったと思います。

正直、プリントしたPDFを見ても良く分からなかったのですが、折り紙って頭で理解できなくても、手や折り紙そのものが折り方を導いてくれるものです。

なんとなく、手を動かしてるうちにぴたっと納まるところが見つかる感じ。

子供の頃はけっこう折り紙にはまったので、今でも手がいろいろ覚えててて、手が考えてくれるような感覚があるのですが、@undoandyのリクエストがちょうど今の僕の手が考えられるギリギリのところだったというところ。

こういう経験をすると、頭は身体の一部でしかない、というか、身体も頭の一部というか、あまり頭と身体に優先順位をつけるのは意味がないと感じます。

モノをつくったり、絵を書いたりする人はきっと共感してもらえると思うのですが、頭で筋道を立てて考えることももちろん重要ですが、それだけで形に出来るわけではなく、それと平行して手などの身体がどんどん決めていってくれるということがすごく大切です。

それは、最初のスケッチだけでなく詰めのディテールに対しても同じ。

だから、頭だけでなく身体にもいろいろなアイデアの導き方を覚えこませる訓練をしなければいけません。

ということで模型づくりと案のスケッチ再開!




Twitter Botをつくってみた。

勢いでTwitter Botをつくってみた。

@machi_search / まちサーチ

@syoutengai / oh!商店街

@kagoben / かごんまべんBOT

詳細はこちら(Twitter Botについて)




B154 『構造デザイン講義 』

内藤 廣 (著)
王国社 (2008/08)

東大の土木学科への講義をまとめたもの。

内藤氏の建築や言葉には大切な根っこの部分に対する深い哲学が詰まっていて、いつもちょっと待てよと立ち止まらせてくれます。

まずは備忘録も兼ね気になったところをいくつか抜き出してみます。(原文のままではなくはしょったり強調したりしています。)

デザインとは翻訳すること
・一つ目は「技術の翻訳」技術が生み出す価値を一般の人が理解できるようにすることによって、技術は初めて社会に対して開かれたモノになる。
・二つ目は「場所の翻訳」構築物が存在する場所の持っている特性を理解し、誰にでも分かるような姿形としてデザインに活かす。その場所に存在する必然性。
・三つ目は「時間の翻訳」その場所に流れている時間を理解し、想像する感性が必要。歴史について学び、敬意を払い、その上でそれを受け継ぎ、未来に対して提言する。

スチールとコンクリートは人間の思考が持つ根源的な二つの性質が内在している対照的な素材。
スチールは父性的。整合性を欠くことを嫌い、「意志的」。構築的であるが故に禁止事項も多くストイック。
コンクリートは母性的。受容的、受動的で、人間の様々な要求を受け入れてくれる。
・また、コンクリートは「時を刻む素材」。コンクリートは化学材料であり、鋳物のように流し込んでつくられる材料であり、不純物であり、不均質であり、そして大地を呼吸し、エイジングしていく材料

本当のエンジニアとは何か
コンクリートを打設しようとしている時に小雨が降ってきた場合、その人の経験と見識でその現場をとめるかどうかの判断ができる人。
要領よくできることではなく、予想外のことが起きた時に適切な判断ができる、経験と見識と倫理が備わった人間が本当のエンジニア。

「木」があまりにわれわれの文化の基層を形成しているために、たとえ問題があるにせよ許してしまう心理がわれわれの中にある。これが「木」に対して思考停止を招いている。設計の中に何かを求めようとする人は、自らと社会の中にあるこの思考停止と意識的に戦わなければならない

構造計画全般にも言えるが、特に木造の場合は「部分の系と全体の系をどれだけ往復できるか」が重要になってくる。

これからは経済性も考えながら構築物に「リダンダンシー」をどうしたら持たせられるかが課題になる。

情け容赦ない非情な技術というものを人間の感情やモラルにどう繋げられるか、これがデザイン。技術を繋ぎ合わせて新しいビジョンを打ち出し、いかに人間生活や人間社会に対して構築するか、つまり文化として租借し得るか。

新しい構造、それは建築的な価値とは無関係。本当の意味での建築的な価値とは、「技術と芸術が結び合ったその時代の精神の現れ」

本著の中でも自分の頭で考え、感じることの大切さについて再三書かれています。

オノケンノート ≫ B020 『壁の遊び人=左官・久住章の仕事』

今、頭と身体、感覚をすべてこんなにうまく使える人は珍しい。 仕事が「頭でする仕事」と「身体でする仕事」に分けられてしまったため、一人の人間の中から引きはがされてしまったように思う。 (中略) どうしたら、「建築」にこういう仕事の仕方を引き寄せられるだろうか。 それは、僕が建築を続ける上で重要な問題だ。

今はパソコンがあれば机上の上で何でもできてしまうような錯覚に陥りがちですが、モノの振る舞いを身体的に理解することは危険を察知するという意味でも、空間の質を決定するという意味でもとても大切です。
おそらく内藤氏の空間が独特の空気感、時間の流れやモノの存在を感じさせる空気感を獲得できているのはこういう感覚に対する誠実さのためだと思いますし、それは僕の中のちょっとしたコンプレックスでもあります。

オノケンノート ≫ 技術

技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。
(中略) 専門化が進む中、技術に対して恐れを持たずに自分の頭や手に信用を寄せられるのはすごいことだと思う。

モノを身体的に理解し、技術の問題から建築を引き寄せること。

そのために具体的に何ができるか。真剣に考えていかないと。




HS19 MODEL

子供のヴォリュームの角度を少し振って、親のヴォリュームと少し隙間を空けた方が良さそうだったので急遽変更。

この辺のワンステップは重要。
まだあと数ステップあってもいいぐらいだけど時間的にこのあたりで。

オノケンノート ≫ HS-19 とんがり親子の家




まちづくりの当事者は誰?

先日のエントリーにつづき素朴な疑問を。
長文です。

まちづくりの当事者は誰?

「だれのため?」というのが先日のエントリーの疑問だったわけですが、では、まちづくりの当事者っていうのは誰になるんでしょうか?

まだぱらっとしか読んでませんが、薩摩川内市中心市街地活性化基本計画(素案)をみてみると、

本市の中心市街地を活性化する必要性については、57.8%が「必要だと思う」となっている(p28)

とあります。
しかし、このうちどれぐらいの割合の人が、他人事(誰かがやってくれるなら活性化したほうが良い)ではなく自分のこととして「必要」と考えているでしょうか。(ちなみにパブリックコメントは4件です)

当然、一番の当事者は市街地で商売等をしている人、もしくはまちづくり団体や行政に違いないのでしょうが、それだけでは十分ではないように思いますし、実際には市街地で商売していても当事者意識が薄いことが問題であることも多いようです。

オノケンノート ≫ B110 『M2:ナショナリズムの作法』

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。

実際にフランスでどの程度コモンズの意識が共有されていて、何が守られ、どんな問題があるのか、ということは分かっていないのですが、「その社会に住む人が自分達の生活の質を確保するためにある意識を共有し、一定のコストを払うことに同意してる状態」というのは一つの理想として参考になるんじゃないかと思っています。

言ってみれば、多くの市民にまちづくりの当事者であると感じてもらい、その結果としてまちづくりも前進する、ということが一つの目標であっていいんじゃないでしょうか。

当事者意識

当事者意識を持ってもらえるというのは
中心市街地の存在理由 – 薩摩之風

この「そこに集まって住む理由」が希釈されてきてるんじゃないかと思うわけです。

という問題意識の延長、まちのアイデンティティとか生活のリアリティとかの割とみんなの生活に直結することにつながると思いますし、逆に言えば、中心市街地の一つの機能(存在理由)として「まちのアイデンティティ(当事者意識)を守り育てること」というのが想定されてもいい様に思います。
(当然、郊外大型店が戦略として同じ機能を目指すことも考えられますが)

また、その際に重要だとすぐに思いつくのは二つあります。

一つは「ひと」。たぶん当事者意識の伝播は「ひと」を介してしか行われないと思うから。

もう一つは(建物だけでなくあらゆる意味での)「デザイン」。デザインには事物を分かりやすくしたりして「感じ方」を左右する力があると思うから。

当事者=プレイヤー?

とここまで書いてきて、川内組とだいぶ前に議論?した「プレイヤー論」と同じでね?前に進んでないんでない?という気がしてきました。
(参考)
商店街の活性化と地元にオープンした大型SCのこと – 薩摩之風
さつませんだい徒然草:オーディエンス化する社会その2
オノケンノート ≫ 都城市民会館秋祭り-追記-
など。

そういえば
中心市街地の存在理由 – 薩摩之風

プレイヤーはどこに居るのかな プレイヤー=商業者、じゃなくてもいい

てなことを書いてますね。

ただ、それぞれの定義や役割をもう少し練れば、人々の振る舞いを「プレイヤー(選手)」「ディレクター (スタッフ)」「オーディエンス(観客)」という3つの型で仮定するのは思考の枠組みとして使えるような気がします。
あっ、あと無関心組も追加しないといけないかな。

余談:当事者意識の限界?

少し余談になります。
僕は今年は行けなかったので思いっきり推測で物を言いますが、甑島でつくる活動はこの当事者意識の伝播の共同体のようなものではないかという気がします。

応援隊のブログを読んだり、twitterオフ会で@undoundyと@norigoeの会話を横聞きしてそう思ったのですが、主催者や応援者、住民と当事者意識を共有しているまたは共有したいという欲求がこの活動を支える一つの力になってるんじゃないかという気がします。
ただ、「当事者意識の共同体」は「外部」の存在を意識した場合に共同体ゆえの限界があるかもしれません。(共同体がだめと言うわけではなく可能性の問題として)

同じようにまちづくりを当事者だけの問題とすることには可能性とともに限界を生むかもしれないなと感じます。

余談:その他

・こんなやたら長い文よりも
指宿商店街ゆるり散歩 – 4代目若女将の成長記録
ってな行動の一つ一つの方が大切かも。っていうか、さすがの行動力です。脱帽。

・@rectuswarkyのひとりブレストに反応しようかと思いましたがそれはまた。っていうか、ハッシュタグつけてtwitterに晒せば反応しやすいように思いますがどうなんでしょう。




HS14 MODEL


ようやく去年の案の模型をつくり終えました。
このスケールでこのプランだと1/100でスキップフロアを表現するのは難しいですね。
内部をある程度は作りこんでますが外からはあまり見えず。

えーっと、あとプランを3つ、模型を7つ。
今年中にできるだろうか・・・・

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中心市街地の存在理由って何?

川内の友人がまちづくりに関わっているのですが、関心があったので川内を案内してもらいました。

時間不足であまりつっこんだ話はできなかったので、ここではとりあえず川内を案内してもらう前から漠然と思っていたことを書くことにします。

中心市街地の存在理由って何?

「まちづくり」についてはまだきちんと体系立てて勉強したことがないのでごくごく基本的な疑問になって申し訳ないのですが、中心市街地の存在理由って何なのでしょうか。

消費が郊外の大型店舗に逃げているということは、多くの消費者がそちらを選択したということで、選挙で言えば先日の自民党のように大敗したようなものです。(大多数の瞬間的な選択が必ずしも豊かな未来を指し示しているとは限らなかったりもしますが)
極端な話、中心市街地の商店街なんて別になくてもいいじゃん、と言われたらなんと答えるでしょうか。

ここでちょっと[中心市街地存在理由]でググってみたところ下記のような文章に当たりました。(多少古い記事ですが)

S067中心市街地活性化への七つの扉

漠然と「買い回り商店街」あるいは「地域中心商店街」、「広域商店街」などという「定義」がされているかも知れませんが、この程度の定義では郊外型ショッピングセンターと区別が付きません。区別がつかないということは、無意識のうちに郊外型ショッピングセンターがやっている商売にはるかに劣る質と規模で追随している、ということです。
(中略)
商店街活性化=広域で分担する商業機能を決定し、機能を整備すること。それも「買い回り型商店街」などというレベルではなく、郊外型ショッピングセンターとの関係をはっきり認識したレベルで、存在理由=デスティネーションを設定し、充実させていくことが中心市街地活性化の最大の課題です。

僕も郊外の大型店だけあればいいとは思いませんし(どちらかというと昔ながらの商店街の雰囲気の方が好き)、まちには多様性があった方がいいと思います。

だけど、雇用や地域経済の問題、コミュニティや生活そのものの質・ライフスタイル又は高齢化の問題、その他いろいろな問題があるとは漠然と思っていても、「中心市街地の存在理由って何?」と聞かれてすぐに簡潔に説明できる言葉を持ち合わせていません。

中心市街地が「誰にとって」「どんな価値」がある(どんな価値を提供できる)のか、簡潔に誰にでも分かるように答えられるようでないと目的を共有し具体的に前に進んでいくのは難しいように思います。

・「中心市街地の存在理由」を簡潔に(例えば140文字以内で)書くとすればどうなるでしょうか。

・具体的に「誰にとって」「どんな価値」を(例えば優先順位をつけて10個)箇条書きで書くとすればどうなるでしょうか。

について別のエントリーで考えてみようかと思いますが、宜しければ皆さんの意見をお聞かせ下さい。

「誰にとって」の「どんな価値」にウェィトを置くかは場所によって異なるように思いますし、それによっても目指す方向に違いが生まれるように思います。




B153 『建築史的モンダイ』

藤森 照信 (著)
筑摩書房 (2008/09)

藤森氏の著書らしく、すらすら読めていくつも目から鱗が落ちる一冊。

著者の書く文章の分かりやすさは、建築史家としての視点につくる側の視点、建築家としての視点がうまくまざって、つくる上での「具体的な勘所の指摘」がなされている点にあるように思います。

こういう勘所はたぶん一般の人には必要ないし、むしろそうと気付かれずに決定的な違いを生み出して「なぜか分からないけど、ナニナニと感じた!」と感じさられたほうがいい。(勘所を知っていれば知っているで鑑賞の楽しみができますが)

だけど、つくる側にとっては

・・・具体的なデザイン上のポイントはどこにあるのか。そのことがはっきりしない限り、建築を物として、形として造るしか能のない建築家はまことに困るのである。

と著者が書いているように、その勘所こそが重要で、そういう勘所を自ら発見してこっそりと建築に忍び込ませることができるか、それによって決定的な何かを生み出せるかどうかが、建物を建築たらしめられるかどうかを決めるのだと思うのです。

そういう意味で、藤森氏の文章を読むといつもいくつかの鱗が落ちるのとともに初心に帰ることができます。

例えば古い建物からでも現代に通ずるような勘所を拾い上げられるような観察眼を鍛えることが僕の課題の一つですね。




hs19

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HS18 MODEL


あと一歩何か考えてもよかった気がしますが、それは何なんだろうか。

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