1

hs22


hs21と同敷地で居場所を分散させた案。面積はほんの少しこちらが大きい。

hs21を詰めていくとすれば空間の質そのものに迫る感じ。
こちらを詰めていくとすればシークエンスと遊び心に迫る感じ。

なんとかこの2案だけでも年内に模型まで作っときたいな。




hs21


敷地に対してオーソドックスにはめ込んでみた案。
それなりにまとまりそう。
ただし、敷地に対して伸びやかさがないので、これはこれで模型を作成しながら他の可能性を探ってみる。




B156 『思想地図〈vol.3〉特集・アーキテクチャ』

東 浩紀 (編集), 北田 暁大 (編集)
日本放送出版協会 (2009/05)

興味を持った経緯

藤村龍至氏による「批判的工学主義」「超線形設計プロセス論」をまとめた論が載っているというので今後の建築の議論の前提として読んでおいた方が良いのかな、と思っていたところにtwiiterで

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。/動物化せよ!!というアジテーションに乗っかれないニンゲン=学生が印象論的に嫌悪感を抱いているという印象。設計うまい奴ほど動物なのにね。 RT @saitama_ya もしかして超線形プロセスって設計行為を動物的な方向に持っていくものとして、学生に見られがちなのかしらん。。。


というのを発見。
実は結構自分の興味と重なるのではという気がしてきました。

onokennote: 学生のころ(10年ほど前)妹島さんにポストモダンを突き抜けた先の自由のようなものを感じたんだけど、藤村さんの理論はそれを方法論として突き詰めた、ということなのだろうか。だとすれば大いに興味がある。早く思想地図3号をゲットして東さんの動物化との関連を知りたい。 [12/02 09:21]


オノケンノート ≫ B008『妹島和世読本-1998』

今考えると、妹島の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。 もちろん、妹島の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。

妹島さんにポストモダンを感じて以降、ポストモダンを生きる作法、意味を突き抜けた先にある自由のようなものに対する感心はずっと持っていて東 浩紀の動物化にも結構影響を受けたので、自分の興味とうまく繋がるんじゃないかという気がして早速図書館で借りてきて読んでみました。

まずは先に読んだ序章と藤村氏の部分について考えたことを書いておきます。
(twitter経由で本人が見られる可能性もあり多少尻込みしますが、不勉強な現時点での考えということで)

アーキテクチャの問題

まずはじめに前提となるアーキテクチャの問題について序章と冒頭及び共同討議の導入部を引用しておきます。

「アーキテクチャ」には、建築、社会設計、そしてコンピューター・システムの三つの意味がある。

この言葉は近年、批評的な言説の焦点として急速に前景化している。わたしたちは、イデオロギーにではなく、アーキテクチャに支配された世界に生きている。したがって、必要なのは、イデオロギー批判ではなくアーキテクチャ批判である。だとすれば、わたしたちはアーキテクチャの権力にどのような態度を取るべきなのか。よりよきアーキテクチャなるものがあるとすれば、その「よさ」の基準はなんなのか。そもそも社会を設計するとはなにを意味しているのか。イデオロギーが失効し、批評の足場が揺らいでいるいま、それらの問いはあらゆる書き手/作り手に喫緊のものとして突きつけられている。(東浩紀)

しかしいまや、権力の担い手というのは、ネットにしても、あるいは「グローバリズム」や「ネオリベラリズム」という言葉でもいいんですが、もはや人格を備えたものとしてイメージできない、不可視の存在に変わりつつある。(中略)しかし、その原因である世界同時不況がどうやって作られたのかというと、複雑かつぼんやりした話になってしまい、誰が悪いとは簡単には指差せない。(東浩紀)

僕がブログに感想を書いた本でいうと
オノケンノート ≫ B065 『ポストモダンの思想的根拠-9・11と管理社会』

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

というのが近いかもしれません。

コントロールする主体がつかめず訳がわからないまま何かに支配されている、そういう感覚が広がる中そういう問題にどうやったらアプローチできるのか、という事だと思います。

地方における問題

onokennote: 工学主義をどう乗り越えるかは、ここ鹿児島でもというより地方でこそ本質的で重大な問題。鹿児島で感じるもやもやを明確に示して貰った感じがする。 [18:08]


工学主義の定義は後で紹介するとして、例えば、街並みがハウスメーカーの住宅やコンビニ、大型商業施設といったどこに行っても同じようなもので急速に埋め尽くされつつある、と感じたことは特に地方都市で生活する方なら誰でもあるんじゃないでしょうか。

個々にとっては例えば地元の顔のみえる商店街も大切だと思ったり、潤いのある街並みのほうが好きだという気持ちがあっても、なぜか先に書いたような画一化の波は突き進んで行くばかりで止められないし、どうすればよいか分からない。

東京などの大都市においては規模があるのである程度の多様性は担保されるように思いますが、地方においては、その人口・経済規模の小ささ、情報伝播量の少なさから画一的な手法に頼りがちでこういった状況がより加速しやすい。と、鹿児島に帰ってきたとき最初に感じました。

皆があるイメージを共有し自らの判断の積み重ねでこの問題をクリアしていくのが理想だと思いますが、実際にはこのアーキテクチャの権力は強力でなかなかそれを許してくれないように思いますし、アーキテクチャの問題は地方でこそより切実だと感じます。

批判的工学主義

onokennote: 思想地図の藤村氏の論を読む。工業化→批判的機能主義(コルビュジェ) 情報化→批判的工学主義 の比較は非常に明確で食わず嫌いでいる必要は全くない [12/02 18:05]


こういう問題に対して藤村氏の提唱する「批判的工学主義」は思考の枠組みを与えてくれます。

本著を読むまではヒハンテキコウガクシュギと聞いて既存の単語のイメージを当てはめても何のことかよくわかりませんでした。
しかし、読んでみれば難しい話でなく、おそらく機能主義とコルビュジェの成果を知っている人であれば誰でも理解できるものでした。

工学主義の定義の部分を引用すると

東浩紀は、社会的インフラの整備による技術依存が進む私たちの社会環境の変化を「工学科」と呼び、整備された環境のもとで演出された多様性と戯れる消費者像の変化を「動物化」と読んでいる。(中略)ふたつの変化が同時進行する状況をひとまず「工学主義」と名付け、「建築形態との関係から、以下のように定義したい。

1.建築の形態はデータベース(法規、消費者の好み、コスト、技術条件)に従う
2.人々のふるまいは建築の形態によって即物的にコントロールされる
3.ゆえに、建築はデータベースと人々のふるまいの間に位置づけられる

まだよくわからないかもしれません。本著に載っている下の表がわかりやすいです。

[社会の変化と建築家の動き]
table1

「工業化」による機能主義に対してコルビュジェらは単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「機能主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、20世紀の新しい建築運動として提示』しました。その後コルビュジェらの建築は世界中に伝播し風景をガラリと変えました。(その広がりの裾野に行くに従い「批判的」の部分は徐々に失われてただの機能主義になっていったように思いますが)

「工業化」に対し「情報化」を当てはめ同じように考えた場合、”単に肯定するのでも抵抗するのでもなく、『「工学主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成し、21世紀の新しい建築運動として提示』”する第3の道の立場がありうることは誰にでも理解できると思います。

超線形設計プロセス論は風景を変えうるか

その第3の道の立場を実践するための方法論として藤村氏は「超線形設計プロセス論」を提唱しています。

詳細は本著を読んでいただくとして、この方法論の特徴の一つとして著者は「スピードと複雑さの両立」をあげていますが、これらによって例えば今の風景を変えることは可能でしょうか。

これに対してはよくわからなかったというか、あまたある設計手法の一つであって他の手法とそれほど大きな違いはないんじゃないか。というように感じていました。

だけど、今日、なんとなくどこの誰が設計しかも分からないような変哲もないマンションの前にたって、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみると、何か可能性のような物が見えた気がしました。
誰もがこの風景を少し変える方法論を身につけたとしたら、少し変わるのかな。と

onokennote: 何でもない羊羹形のマンションの前に立ち、これが超線形設計プロセスで設計されたものだったらと想像してみた。確かに街の風景を変えうる可能性がある。風景を変えるには、誰でも(例えば地方の組織系ともアトリエ系とも言えない設計事務所でも)使える汎用性のあるツールでなければならないと思う。そのためには組織系、アトリエ系それぞれに対応するパラメータの抽出と、それらを統合するノウハウの集積が必要。(前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める。どうせなら、WEB上でノウハウと事例を集積・公開し、集合知を形成するようなシステムと教育システムの構築までいって欲しい。そこまでいって初めて風景を変える力を持ちうるのだと思う。超線形設計プロセス理論に反感を覚える人は、これがアトリエ系とはまったく別のアプローチで汎用性を目指し長期的視点を持ったものであることを理解すべき。


誤解が含まれているかもしれませんが、重要だと感じたのは

・誰でも利用できること。
・組織型・アトリエ系それぞれの長所を結びつける手法であること。

だと思いました。
(アレグザンダーとの決定的な違いは何かということについてはまだ理解が足りない)

最初は「スピードと複雑さの両立」だけで何が変わるのか、と思いましたが、それらはパラメータの一組に過ぎず重要なのは、組織型・アトリエ系の再統合にあるのだと思いました。(例えば前者は実現可能性を高め、後者は伝播力を高める)

特に前例のコルビュジェは伝播力という点では天才だったと思いますし、彼は機能主義を「乗り越えた」というよりは自分のやりたい事のために「利用(戦略的に再構成)した」のだと思います。

藤村氏もメディアの利用や啓蒙するスタイルはコルビュジェに似ていると思いますが、コンテンツにおくウェィトは少し違いがあるように思います。学生たちの反応をみると、初期導入の部分ではコンテンツのウェイトを増した方がうけが良いようにも思いますが、そこは汎用性のあるプロセスを鍛えるためにあえて抑えているのかもしれません。
(こんな発言も)

ryuji_fujimura: と、強気な主張をしつつも、オリジナルのスタイルを確立してファンとだけ仕事をするサッカがうらやましく思えたりもする。「厨房には立ち入らないで下さい」とか言ってみたい。よほど自信が無いと言えないからそれが言えるだけでもすごいとは思う。


超線形設計プロセス論は風景を変えうるか、ということについてはまだ分かりませんが可能性のひとつのとしてはあるように思います。

批判的工学主義の立場を取る際の方法論は他にもあるかもしれませんし、アーキテクチャへのアプローチは今後意識するようにしようと思います。

ポストモダンを生き抜く作法となりうるか

僕の個人的な興味である、建築が”ポストモダンを生き抜く作法”を体現できるか、という意味での「動物化」との関連はよくわからなかったのですが、もしこのプロセスの応用によって、意味に頼らずとも魅力的なものができるのであれば可能性はあるのかもしれません。

最初の引用を繰り返すと

ryuji_fujimura: 超線形設計プロセス論って、レムコールハースと伊東豊雄と坂本一成とSANAAとMVRDVから学んだ方法論。条件を読み込んで、スキームを揉んで行くうちにどんどん育って行く感じ。同世代では石上さんと長谷川の設計手法が似ていると感じる。 [02:06]


ここに挙げられている方たちの建築は共通して”ポストモダンを生き抜く作法”を体現しているように見えます。

僕自身はそれに対して方法論を持ち合わせていないので、もう少し方法論に対して意識的である必要があるかもしれません。




素材の力(石・土)

オノケンノート ≫ B126 『無有』

竹原さんの建築文化の特集は穴が開くほど見たけれど、この本も穴が開くほど読む価値があると思う。実は図書館で借りたんだけど、絶対買いの一冊です。

少し前に購入しました。
それで、しばらくは家のスタディをする前に2章以降を1章ずつ再読して自分なりに消化してからスタディに取り掛かることにしてみます。

第2章『素材の力』・イサム家イズミ家・石と建築・土と建築・素材から空間へ

密度の高い文章でどこを抜き出しても趣深いのですがいくつか引用してみます。

石には「沈黙の美」を感じる。石は多くを語らないが、見るものに時間の重みを伝えてくれる。石が存在している、それだけで人の心を沈黙させる。(中略)ひとたび眠りから目覚めた石は、空気や雨に触れ、長い風雪に耐えながら、その質感を千変万化させ、新たな場を生み出していく。

雨が当たらないときには、石に生命を吹き込むように、水を打つという文化が日本にはある。そして水を打つことのできない内部空間では、石を鏡面に磨き、光を反射させる。

中でも効いている石がひとつだけある。「かい」と呼ばれるその石を感じた時、空間と、そこに佇む人の身体の重心が重なり合う。

と、続けていこうかと思いましたがキリがなさそう。もっと艶っぽい文章がたくさんあるのですが、引用は中断して僕なりにまとめることにします。(twitterの影響かなかなか文章が頭の中で組み立てられない。)

石について

さまざまな素材の中で石ほど時間の流れや、重力など自然の中に含まれる要素をストレートに表す素材はないのではないでしょうか。

それは人工物である建築の中であたかも自然の代理人もしくは案内人のように立ち現れます。

壁として立ち上がるときは地面の代理人のごとく私たちの前に現れ、その重量感は上から積まれたものが徐々に下へと伝わっていくというよりは、地面から壁としてたち表れる際に重力に抵抗した痕跡としての表情のように見えます。
大地と一部としてのそのあり方は、地球規模の懐の深さで私達を受け止めてくれます。

また、地面に敷かれた石は案内人として私達を目的の場所へと優しく導いてくれますし、置かれた石は想像力を通じて自然の奥行きを私達に感じさせてくれます。

それらの石の表情を決定付ける要素は例えば重量、色・テクスチャー、大きさ、厚さ、形、目地の幅や深さ、リズムなどであり、水や光の当たる場所かどうか、日常的な空間か非日常的な空間か、などでも変ってきます。
日本建築では「真・行・草」の概念のようにこれらの作法が高度に磨かれています。
建築よりは地面に属するものとしての扱いが多いかもしれません。

土について

土も自然そのままの状態に近い素材ですが、石に比べると人間のコントロールしやすい中間的な素材といえるかもしれません。

なんとなく大地から立ち表れた石壁が人間界に送り込むために産み出した子供のような感じがします。
地球的とはいわなくとも、工業的な時間ではなく農業的な時間を感じますし、左官の技は自然と人とを融合する高度な技術だと思います。

土の表情はテクスチャーに拠る部分が大きいように思います。混入する素材や荒さ、表面下げの技法等で様々な表情が生み出せます。それは、土を自然と人口の間のどこに位置付けたいかで変るかもしれません。荒く仕上げた自然に近い表情から、熟練の職人の技による繊細で緊張感のある表現まで。
どちらにしろ、完全に自然でも人口でもない表情であるところが面白いところです。

こちらは地面よりは建築としての方が扱いやすいかもしれません。

鹿児島の石と土

鹿児島では石や土というと火山によるものが一般的だと思います。
溶結凝灰岩 – Wikipedia

溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん、welded tuff)は、火山の噴火によって空中に放出された噴出物が地上に降下した後に、噴出物自身が持つ熱と重量によってその一部が溶融し圧縮されてできた凝灰岩の一種。

シラス (地質) – Wikipedia

シラス(白砂、白州)は、九州南部一帯に厚い地層として分布する細粒の軽石や火山灰である。鮮新世から更新世にかけての火山活動による噴出物であるが、地質学においてはこのうち特に入戸火砕流による堆積物を指す。

鹿児島は石倉や石塀、石橋、あとタノカンサァなど石が生活に溶け込んでいます。
検索結果 文化遺産オンライン
探検の会でも溶結凝灰岩という言葉はよく出てくるのですが、例えば加治木石というのがありました。
オノケンノート ≫ W042『すごいぞ!加治木のまち歩きRETURN』

島津義弘のお膝元ということで歴史の宝庫なのですが、地元の加治木石を利用した石垣などでつくられたまちなみが印象に残りました。

それは、溶結凝灰岩が比較的加工がしやすく手に入り易かったからというのがあるのでしょう。
その分強度がないのかと思いましたがそうでもないようです。
鹿児島と石の文化

溶結凝灰岩は、単位体積重量2gf/cm3、間隙率14~32%程度と軽くて空隙に富んでいますが、それなのに圧縮強度は115(軟質部)~749(硬質部)kgf/cm2と大きく(下図参照)、コンクリートと同程度を示します。

(大谷石の圧縮強度は151.8kgf/cm2? ■大谷石の物性試験(比重・吸水率・圧縮強度・曲げ強度):大谷石のKANEHON

ただ、溶結凝灰岩は重量感や存在感に乏しいように思います。
そういう意味ではシラス左官材として利用するのが正しいように思いますが、溶結凝灰岩は鹿児島の風景を形づくって来ているものですし、それは僕も好きな風景でもあります。

重量感や存在感に乏しい溶結凝灰岩の石としての使い方の決め手はまだ見えていないのですが、おそらく先に書いたような強く立ち表れる石のあり方とは違うとらえ方をしないといけないのだと思います。

まだまだ鹿児島の風景から学ばなくてはいけません。