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まちづくりの当事者は誰?

先日のエントリーにつづき素朴な疑問を。
長文です。

まちづくりの当事者は誰?

「だれのため?」というのが先日のエントリーの疑問だったわけですが、では、まちづくりの当事者っていうのは誰になるんでしょうか?

まだぱらっとしか読んでませんが、薩摩川内市中心市街地活性化基本計画(素案)をみてみると、

本市の中心市街地を活性化する必要性については、57.8%が「必要だと思う」となっている(p28)

とあります。
しかし、このうちどれぐらいの割合の人が、他人事(誰かがやってくれるなら活性化したほうが良い)ではなく自分のこととして「必要」と考えているでしょうか。(ちなみにパブリックコメントは4件です)

当然、一番の当事者は市街地で商売等をしている人、もしくはまちづくり団体や行政に違いないのでしょうが、それだけでは十分ではないように思いますし、実際には市街地で商売していても当事者意識が薄いことが問題であることも多いようです。

オノケンノート ≫ B110 『M2:ナショナリズムの作法』

フランスでは「連帯」という社会形式自体がコモンズだと考えられてきた。だから”家族の平安が必要だ”に留まらず、”家族の平安を保つにも、社会的プラットフォームの護持が必要だ”という洗練された感覚になる。日本人にはその感覚は皆無。家族の問題は家族の問題に過ぎない。

実際にフランスでどの程度コモンズの意識が共有されていて、何が守られ、どんな問題があるのか、ということは分かっていないのですが、「その社会に住む人が自分達の生活の質を確保するためにある意識を共有し、一定のコストを払うことに同意してる状態」というのは一つの理想として参考になるんじゃないかと思っています。

言ってみれば、多くの市民にまちづくりの当事者であると感じてもらい、その結果としてまちづくりも前進する、ということが一つの目標であっていいんじゃないでしょうか。

当事者意識

当事者意識を持ってもらえるというのは
中心市街地の存在理由 – 薩摩之風

この「そこに集まって住む理由」が希釈されてきてるんじゃないかと思うわけです。

という問題意識の延長、まちのアイデンティティとか生活のリアリティとかの割とみんなの生活に直結することにつながると思いますし、逆に言えば、中心市街地の一つの機能(存在理由)として「まちのアイデンティティ(当事者意識)を守り育てること」というのが想定されてもいい様に思います。
(当然、郊外大型店が戦略として同じ機能を目指すことも考えられますが)

また、その際に重要だとすぐに思いつくのは二つあります。

一つは「ひと」。たぶん当事者意識の伝播は「ひと」を介してしか行われないと思うから。

もう一つは(建物だけでなくあらゆる意味での)「デザイン」。デザインには事物を分かりやすくしたりして「感じ方」を左右する力があると思うから。

当事者=プレイヤー?

とここまで書いてきて、川内組とだいぶ前に議論?した「プレイヤー論」と同じでね?前に進んでないんでない?という気がしてきました。
(参考)
商店街の活性化と地元にオープンした大型SCのこと – 薩摩之風
さつませんだい徒然草:オーディエンス化する社会その2
オノケンノート ≫ 都城市民会館秋祭り-追記-
など。

そういえば
中心市街地の存在理由 – 薩摩之風

プレイヤーはどこに居るのかな プレイヤー=商業者、じゃなくてもいい

てなことを書いてますね。

ただ、それぞれの定義や役割をもう少し練れば、人々の振る舞いを「プレイヤー(選手)」「ディレクター (スタッフ)」「オーディエンス(観客)」という3つの型で仮定するのは思考の枠組みとして使えるような気がします。
あっ、あと無関心組も追加しないといけないかな。

余談:当事者意識の限界?

少し余談になります。
僕は今年は行けなかったので思いっきり推測で物を言いますが、甑島でつくる活動はこの当事者意識の伝播の共同体のようなものではないかという気がします。

応援隊のブログを読んだり、twitterオフ会で@undoundyと@norigoeの会話を横聞きしてそう思ったのですが、主催者や応援者、住民と当事者意識を共有しているまたは共有したいという欲求がこの活動を支える一つの力になってるんじゃないかという気がします。
ただ、「当事者意識の共同体」は「外部」の存在を意識した場合に共同体ゆえの限界があるかもしれません。(共同体がだめと言うわけではなく可能性の問題として)

同じようにまちづくりを当事者だけの問題とすることには可能性とともに限界を生むかもしれないなと感じます。

余談:その他

・こんなやたら長い文よりも
指宿商店街ゆるり散歩 – 4代目若女将の成長記録
ってな行動の一つ一つの方が大切かも。っていうか、さすがの行動力です。脱帽。

・@rectuswarkyのひとりブレストに反応しようかと思いましたがそれはまた。っていうか、ハッシュタグつけてtwitterに晒せば反応しやすいように思いますがどうなんでしょう。




HS14 MODEL


ようやく去年の案の模型をつくり終えました。
このスケールでこのプランだと1/100でスキップフロアを表現するのは難しいですね。
内部をある程度は作りこんでますが外からはあまり見えず。

えーっと、あとプランを3つ、模型を7つ。
今年中にできるだろうか・・・・

オノケンノート ≫ HS-14 小さな廻る家




中心市街地の存在理由って何?

川内の友人がまちづくりに関わっているのですが、関心があったので川内を案内してもらいました。

時間不足であまりつっこんだ話はできなかったので、ここではとりあえず川内を案内してもらう前から漠然と思っていたことを書くことにします。

中心市街地の存在理由って何?

「まちづくり」についてはまだきちんと体系立てて勉強したことがないのでごくごく基本的な疑問になって申し訳ないのですが、中心市街地の存在理由って何なのでしょうか。

消費が郊外の大型店舗に逃げているということは、多くの消費者がそちらを選択したということで、選挙で言えば先日の自民党のように大敗したようなものです。(大多数の瞬間的な選択が必ずしも豊かな未来を指し示しているとは限らなかったりもしますが)
極端な話、中心市街地の商店街なんて別になくてもいいじゃん、と言われたらなんと答えるでしょうか。

ここでちょっと[中心市街地存在理由]でググってみたところ下記のような文章に当たりました。(多少古い記事ですが)

S067中心市街地活性化への七つの扉

漠然と「買い回り商店街」あるいは「地域中心商店街」、「広域商店街」などという「定義」がされているかも知れませんが、この程度の定義では郊外型ショッピングセンターと区別が付きません。区別がつかないということは、無意識のうちに郊外型ショッピングセンターがやっている商売にはるかに劣る質と規模で追随している、ということです。
(中略)
商店街活性化=広域で分担する商業機能を決定し、機能を整備すること。それも「買い回り型商店街」などというレベルではなく、郊外型ショッピングセンターとの関係をはっきり認識したレベルで、存在理由=デスティネーションを設定し、充実させていくことが中心市街地活性化の最大の課題です。

僕も郊外の大型店だけあればいいとは思いませんし(どちらかというと昔ながらの商店街の雰囲気の方が好き)、まちには多様性があった方がいいと思います。

だけど、雇用や地域経済の問題、コミュニティや生活そのものの質・ライフスタイル又は高齢化の問題、その他いろいろな問題があるとは漠然と思っていても、「中心市街地の存在理由って何?」と聞かれてすぐに簡潔に説明できる言葉を持ち合わせていません。

中心市街地が「誰にとって」「どんな価値」がある(どんな価値を提供できる)のか、簡潔に誰にでも分かるように答えられるようでないと目的を共有し具体的に前に進んでいくのは難しいように思います。

・「中心市街地の存在理由」を簡潔に(例えば140文字以内で)書くとすればどうなるでしょうか。

・具体的に「誰にとって」「どんな価値」を(例えば優先順位をつけて10個)箇条書きで書くとすればどうなるでしょうか。

について別のエントリーで考えてみようかと思いますが、宜しければ皆さんの意見をお聞かせ下さい。

「誰にとって」の「どんな価値」にウェィトを置くかは場所によって異なるように思いますし、それによっても目指す方向に違いが生まれるように思います。




B153 『建築史的モンダイ』

藤森 照信 (著)
筑摩書房 (2008/09)

藤森氏の著書らしく、すらすら読めていくつも目から鱗が落ちる一冊。

著者の書く文章の分かりやすさは、建築史家としての視点につくる側の視点、建築家としての視点がうまくまざって、つくる上での「具体的な勘所の指摘」がなされている点にあるように思います。

こういう勘所はたぶん一般の人には必要ないし、むしろそうと気付かれずに決定的な違いを生み出して「なぜか分からないけど、ナニナニと感じた!」と感じさられたほうがいい。(勘所を知っていれば知っているで鑑賞の楽しみができますが)

だけど、つくる側にとっては

・・・具体的なデザイン上のポイントはどこにあるのか。そのことがはっきりしない限り、建築を物として、形として造るしか能のない建築家はまことに困るのである。

と著者が書いているように、その勘所こそが重要で、そういう勘所を自ら発見してこっそりと建築に忍び込ませることができるか、それによって決定的な何かを生み出せるかどうかが、建物を建築たらしめられるかどうかを決めるのだと思うのです。

そういう意味で、藤森氏の文章を読むといつもいくつかの鱗が落ちるのとともに初心に帰ることができます。

例えば古い建物からでも現代に通ずるような勘所を拾い上げられるような観察眼を鍛えることが僕の課題の一つですね。




hs19

オノケンノート ≫ HS-19 とんがり親子の家




HS18 MODEL


あと一歩何か考えてもよかった気がしますが、それは何なんだろうか。

オノケンノート ≫ HS-18 カタツムリの家




B152 『天工人(テクト)流―仕事を生み出す設計事務所のつくりかた』

山下 保博 (著)
彰国社 (2009/04)

久々の読書。
著者は鹿児島出身で毎回創意に満ちた作品をつくられるので気になっていた人です。
tekuto.com
タイトルにも興味があったので読んで見た。

一般の人にも分かりやすくさらさらっと書いていますが、やってることはかなりチャレンジング。

当たり前のことを、当たり前にやるのが天工人流

とあるけど、試行錯誤をしながらもやるべきことを明確にし淡々と進めていく様子が良く分かる。

また、運営費の4分の1は新しい工法や材料の開発・研究にあてられているようだけど、産官学を巻き込みながらビジネスとして前に進めていく実践力は大いに参考になる。

鹿児島だと独自の材料(石才など)を扱う技術を持った人なんかと何かできれば面白そうな気がした。

建築家の華やかさ・するどさをそんなに感じさせない文体ですが、それがかえってものづくりを支える裏側の様子をストレートに伝えてくれます。
今やっていることがそんなに間違っていないという励ましと、こういう風にやれば道が切り開けるという勇気をもらえる、そんな本でした。

つい先日大学の同級生から独立の案内が届き、嬉しさと共に多少の焦りを感じたのですが、僕のやるべきことを淡々とやるのみです。