構成についてのメモ3
吉岡徳仁によるバーゼル ワールド2009のスワロフスキーブース
きれい、というのと同時に巨大な生物のようで少し怖いという感じがしました。
この動画を見た感じだと、一つの要素の動きに応じて隣接する要素の挙動が決まってくる構造のようですが、個々の要素の関係性によって全体があらわれる一つの例ではないでしょうか。
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吉岡徳仁によるバーゼル ワールド2009のスワロフスキーブース
きれい、というのと同時に巨大な生物のようで少し怖いという感じがしました。
この動画を見た感じだと、一つの要素の動きに応じて隣接する要素の挙動が決まってくる構造のようですが、個々の要素の関係性によって全体があらわれる一つの例ではないでしょうか。
大学生・建築専門学校生のころは結構家庭教師のバイトをしましたが、その中に
■おのけんのーと ≫ Blog Archive ≫ なんで勉強しないといけないのぉ?
家庭教師のバイトなんかをしてても、だいたい親にやれって言われてやってる子は伸びないし、何かの瞬間に自分でやると決めた子は伸びる。
という確信のもとのなった、また
■仮説テント 脳内ポジショニングの技法
初めて自分の言葉として人に伝えたのは、大学時代に家庭教師をしていたときだが、分かってもらえたかどうかは分からないがその生徒は共感してくれ、受験生に対して「脳内ポジショニングの技法」なんて本を出せば大ヒットになるなどと盛り上がった。
と盛り上がった、ある印象的な生徒がいました。
家庭教師をしたのは、僕が大学生で彼が確か高2ぐらいのころだったと思います。
えー、貧乏学生だった僕は家庭教師の日は、まず彼の実家に行って、夕食とお風呂をご馳走になって、(彼以外の)みんなで『名探偵コナン』を見て、その後で、彼と一緒に僕のアパートまで自転車で来て、それからようやく勉強を始めるという、けっこうめちゃくちゃなことをさせてもらっていました。(恩返しが出来ないのがすごく悔しいです・・・)
その彼ですが、家庭教師のバイトをたくさんした中で、唯一『こいつはもう大丈夫』と思った生徒でした。
決して成績が劇的にあがったわけでもないし、実際大学受験ではそうとう苦労をしたみたいだけど、それでも「大丈夫」と思ったのは間違いなかったと思います。
教えてその部分が分かるようになる生徒はたくさんいたのですが、「こいつは自分がいなくても受験勉強を自分で進められるし、問題を解く肝を自分で見つけていける」という確実な手ごたえがあったのは多分彼だけだったと思います。
また、彼は家庭教師を自分から親に頼んでつけてもらい、家庭教師代の(たしか)半分を自分で払っていた唯一の生徒でもありました。
「問題を解く肝」なんてものは問題の回答や解説の中にころころ転がっているのですが、たぶん受身の勉強では言われるまでそこに気づきません。
今の彼を見てこういうことを言っていいのか分かりませんが、彼にもともとあふれる数学の才能があったというわけではないと思います。ただ、彼の能動的な姿勢がそういう肝をみつける目を育てたのだと思いますし、その後のすばらしい出会いを生み、自らの道を切り開いていってるのだと思います。
それに、その時の僕の手ごたえは、僕の中である種の確信になっていますし、今後子供を育てていく上での一つの助けにもなってくれると思います。
前置きが長くなりましたが、その後どうも代ゼミの人気講師になったらしい彼が最初の問題集を出したようです。
アマゾンで買うことも出来たのですが、せっかくなので鹿児島で直接と思い入荷情報をチェックしていたのですが、ようやくオプシアで手に入れることができました。
おぉぉぉ!すごいね~。鹿児島上陸でっせ。
これも、まだまだ道の途中なんだろうけど、とりあえずおめでとさん。
久しぶりに問題集なんて眺めてみたらけっこう懐かしく感じました。
P.Sちなみにこの本の表紙のイラストはちょっと納得いきません。こいつ誰やねん。誤解するやん。(著者のイラストってわけじゃなさそう)
あと、最近のブログは見てられん。
デジカメがなかったのでとりあえず携帯で撮影。
模型にしてみると思ってたよりも一筆書感がでてました。
プランと構造がうまく絡んで割といい感じ。
忙しくなるので、少しの間模型づくりはできそうにないです。
えー、『多様で豊かな関係性を(ほどほどに)もてるのがいい家』なんて言っておきながらなんなのですが、近所のおばあさんに困っています。
詳細は書きませんが前々から親しくしていたおばあさんがあまりにも他人の迷惑を考えない言動ばかりになって、終日家で子守をしている妻がかなりまいっている状況。
僕としては、生活環境(特に子供が育つ環境)としては多様性を許容する町であるべきだという思いもあって、なんとか仲良く出来ないかという気持ちと、妻に悪いという気持ちの間でもんもんとしていたのですが、考え方を変えるとすっきりしました。
多様性のある町といっても、誰とでも等しく仲良くしなくてはならないというわけではありません。
昔ながらのコミュニティが崩れ都市化・個別化が進んだのは、昔ながらのコミュニティの持つ一種の同調圧力のような煩わしさから逃れたいという欲求を多くの人が持ったからからであって、それを現代において強要してコミュニティを、といってもうまくいくはずがありません。
もし、いろいろな人がいる中で『誰とでも等しく仲良くしなくてはならない』ということを推し進めていけば、やがて多様性そのものを否定せざるを得なくなって結局は個別化に進んでしまいます。
そうではなく、気の合う人もそうでない人も含め、多様な人がいることを許容するというのが大切であって、そのために仲良くするための作法の他に現代的に割り切ってしまうような作法もありなのかなと思いました。
そういう自由のある中での共存である方が可能性があるように思いますし、近所だから何をしたっていいということではなく、一定の緊張感・マナーのある中で関係性を築くべきだと思います。
ですから、『仲良くせざるをえない』という回路の他に、一時的にでも『ばっさり切っちゃうよ』という回路も担保しておくべきかもしれません。
例えば(たこ阪さんは分かると思いますが)関西では単純に笑いという意味ではなくもっと複雑な意味で『おもろいやつ』であるかどうかというシビアな基準が存在します。
それは人に対してよりもむしろ自分にたいしてシビアな目線であって、一定の緊張感の中で人間関係が築かれているように思いますし、その緊張感が逆に、(ある意味無根拠な)信頼関係を生み人間関係を円滑にしている面はあると思います。
(多分他の地域の人にはその緊張感は見えずに妙な連帯感だけが見えるのでしょうが。)
また、『おもろい』にも関西圏共通で通用するメタおもろいから一部だけで通じるマイナーなおもろいまで、いろいろなレベルのおもろいが存在していて、それが連帯感と多様性を同時に担保しているように思います。
なんの話かよく分からなくなりましたが、家づくりやまちづくりにも、こういう作法の構造が応用できるんじゃなかろうか、という話と、近所のばあさんは僕はもう相手にしない、という話でした。
つづく(かな?)
実質製作時間4時間くらい。
朝、子供が寝てる間につくっているのですが、調子が上がってきた頃に起きてきたりして、それぐらいの時間をつくるのもなかなか大変。
それはそれでいい訓練になってます。
テレビでチラッと見かけてずっと気になっていたこの集団。
残念ながらアートマーケットには行くことができず面識もないのですが、やられたっていう感じのポジションです。
前に書いた技術の問題
■オノケンノート ≫ B117 『藤森流 自然素材の使い方』
技術とは何だろうか。と考えさせられる。 藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。 だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。 それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。
技術を身近なところにひきよせることに成功している(チャレンジしている)ように見えるし、僕自身がまだ全然できていないところをいい感じでやっているのでちょっとしたジェラシーです。
僕も手を動かすのは好きな方ですがまだまだですね。(集団っていうのもいいし。)
全体を感じさせる関係性を持ったモノのネットワークを仮に構成体と呼んでみる。(オートポイエーシス単体と呼んでみたいところだけどまだ良く分かっていないので)
自分とは全く別の存在として構成体がある、ということでも親近感のようなものを感じるだろうが、もし、自分もそのネットワークの一部、構成素であると感じられることが出来るとしたら、それは好ましいことかもしれない。
オートポイエーシスに近づくことが必要かどうかは別として、利用する人や自然環境、その他さまざまな要素を取り込み、それらに応じて現れ方・感じ方が変わるとすれば少しオートポイエーシスに近づけるのではないか。
また、何をどれだけネットワークに取り込めるかが空間の豊かさに関係するように思うのだが、如何に。
HS8の地上部分を8割方作成。
時間を見つけて少しずつでも作ってかないと・・・
地下は細かくつくりたいのでしばらくかかりそうかなぁ。
HS9は簡単そうだけど早く模型にしてみたい案なので地下を飛ばしたい気もするけど先に済ませとこう。
建築やってる人だったら一度はリートフェルトのシュレーダー邸のような構成を突き詰めたものを作ってみたいと思ったことがあると思う(?)。
僕もテクニックとしてもっとうまくなりたいという欲求はある。
でも、誰か忘れてしまったけどどこかの設計事務所のHPに、「昔は構成に興味があったけれども、最近は関係性に興味が移ってきた」というようなことが書かれていて、「それも良く分かる。構成のための構成じゃつまんないな」と思ってしまって構成に対する態度を決めかねてるところがあった。
だけど、ちょっとまって。構成って関係性のことじゃないだろうか。
例えば、(厳密には物には厚さがあるけどそれは置いといて)ただの点・線・面・立体を、ちょっと関係性を持たせるような感じで配置するだけで生き生きとした何かが生まれる気がする。
(例えばこんな感じ)
僕らの周りの物は全て、何かしらの関係性の中に存在しているし、生物なんてのも関係性のシロモノだといえる。
このあたりは最近ちょっとかじりかけたオートポイエーシスに通じるところがあるように思うし、ただのモノの集まりじゃなくて、関係性を持ったモノのネットワークが全体を感じさせるところにもしかしたら親近感を抱くのかもしれない。
構成そのものを躊躇する必要はなさそうだ。(あえてそれを避けるという発見の仕方もあるでしょうが)
それに自然を拒絶するよりは共存する感覚に近い日本では、デ・ステイルなんかよりはるか昔から洗練された構成それだけで豊かな世界を描いてたんじゃなかろうか。