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B143 『藤本壮介|原初的な未来の建築』

藤本 壮介 (著)
INAX出版 (2008/4/15)


影響されるのが怖くて我慢してたのですが、結局買ってしまいました。

藤本氏は1971年生まれで、ほぼ同年代。違和感なく、すっと入ってきました。

当たり前でいて新しい

書いてることややってることは、一見、当たり前のようでいて、実はすごく新鮮で説得力があります。
こういう、『原初的』な説得力を持ちながら『未来の建築』を発見しているところが才能なんだろうなぁ、と思います。

ところで、僕も学生の頃『棲み家』の魅力というものを考え始めて、
オノケンノート ≫ 棲み家

僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。

今でも、それを追っているようなところがあるのですが、こういう欲求は藤本氏はじめ、僕らの年代にある程度は共通しているような気がします。

それではそういう欲求はどこから生まれているのでしょうか?

集団的無意識への欲求

藤本氏はいろいろな関係性をその『成り立ち』のところまで遡って、その関係が生まれる前の未分化な状態に思いを馳せることで発想を得ているようです。

最後の藤森照信との対談では(若干、噛みあっていない気もしましたが)藤森氏が述べた『集団的無意識』というのがキーワードになったと思うのですが、それで藤本氏の目指すイメージが少し浮かび上がったような気がします。

民家の魅力は、集団の無意識を満たしていることにあります。ああいう形が練り上げられ、成立するために、ものすごい時間をかけているからなんです。その長い時間の中で、自然化が行われるんですね。(中略)その秘密は時間なんです。時間は個人を越えた、集団的無意識のような感覚に働きかける力がある。それを人為的に出来るのかということですよ。(藤森照信)

近代化は時間や集団性といったものとの断絶を前提として進められたと思うのですが、そんな中で育った僕たちには時間の生み出す集団的無意識に包まれたいという欲求がたまっているのかもしれません。

そういう欲求が建築を、自然の生み出すような自分たちの手の内を越えたような存在であって欲しいという願いになっているのかもしれません。

藤森氏はその可能性を「材料」の持つ時間に見出していますが、藤本氏はあえてそれに頼らず、建築の「成り立ち」だけで実現しようと考えているようです。

工業製品である建築材料のみを使ってその「成り立ち」だけを実現する、庭のような建築を生み出せないかと考えています。(藤本壮介)

藤森氏が「藤本さんは時間を偽造したいと言ってるのではないでしょうか?」と言っていますが、藤本氏は原初的な関係性にまで遡ってそれを未来に接続することで時間(自然)を建築に取り込もうとしているように思います。

ルイス・カーンはじめ、建築の原初に遡ろうとする考えはこれまでもあったと思います。
それと、集団的無意識に包まれたいというような強い欲求がつながったところが新鮮さの秘密なのかもしれません。




犯罪が私たちを不安にしているのか

少年犯罪、最近では犯罪被害者について書いている藤井氏が対談集を出すようです。

対話集の仮タイトルは『犯罪が私たちを不安にしているのか』(双風舎)。|藤井誠二のブログ

いま編集中の本の仮タイトルは『犯罪が私たちを不安にしているのか』

鋭く対立している議論もあれば、ぼくがインタビューアーに徹しているパートもある。いずれにせよ、「重罰化社会」をどう考えればいいのかという切り口が満載で、いまゲラを読んでいてもかなりの読みごたえがある。この問題に関心がある方は必読だと思う。

最近こういう問題に首を突っ込みかけたのでこれも読んでみよう。




評価シート

事務所でなんとなく読んだ日経アーキテクチュア (2008-3-10)に竹中工務店の作成した環境配慮設計(環境人間学)評価シートというのが掲載されていました。

CASBEE(建築物総合環境性能評価システム)等の省エネ等環境に配慮しているかどうかを評価するシステムはこれまでもありましたが、これと併用するもうひとつの軸として、「自然を媒介とした情感の部分」を軸に評価するシステムを独自に作成したものです。エコとエモだそう。

転載は自粛しますが、このシートがまるまる掲載されていてなかなか良さそうです。

「知覚の素地」「触覚」「嗅覚」「聴覚」「味覚」「視覚」のそれぞれの項目に対して、「配置」「中間領域」「平断面」「素材」「ディテール」の各設計段階でどのような配慮を行ったかを具体例をもとにチェックしていくというものです。

例えば「触覚」の「中間領域」の具体例は「温湿感変化のある経路空間/湿とりしたピロティ・半地下空間/風を冷やす中庭の池・水盤/風を通す出窓の風穴/光風を取り込む屋上庭園/風邪の抜けるピロティ/その類」とあります。

僕もエクセル化して活用しようと思っていますが、学生の人なんかは参考になるのではないでしょうか。

ただ、このシートを使えば自動的にいいものが出来るというわけではなく一つのツールでしかありませんし、注意しないと大手らしい優等生的建物になりがちだと思われます。(雑誌なんかを見ていても、大手事務所はきれいにまとまりすぎてるのでだいたいすぐに分かります)

経済性のみで建築が決まることが往々にしてありますし、こういう「エモ」な側面は軽視されがちなので、こういうシートで具体的に評価をする習慣ができればある程度の成果は上がるかもしれません。弊害ももちろんあるでしょうが、役所なんかにこういうのが広まるのは価値観のカウンターとしていいんじゃないでしょうか。

ただ、もっと違う視点のものも欲しいということで、これまでブログなどで考えてきたことのまとめも兼ねて、第3の軸、自分なりのオリジナルシートをつくってみようかと思っています。

とりあえず、最初のバージョンが出来たらアップします。

追伸

とりあえず作りかけのヤツを置いときます。
竹中版は最初の方でとまってたみたい。
誰か補完してくれたらな~。




B142 『犯罪不安社会 ~誰もが「不審者」?』

著 浜井 浩一 (著), 芹沢 一也 (著)
光文社 (2006/12/13)


引き続き芹沢氏関連の本を読みました。

凶悪犯罪は増えていないし、低年齢化もしていない。っていうのはよく聞きますが、こういうことを他の人に話した時に「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応が何度か返ってきたことがあります。

それで、一冊は関連の本を読んでみようと思っていたところにこの本にぶつかったので読んでみました。

凶悪犯罪は増えていない

第1章で浜井氏がやさしく解説してくれているので、詳細は本書にあたっていただきたいですが、犯罪統計を読むと凶悪犯罪は増えていませんし低年齢化もしていません。

反社会学講座 第2回 キレやすいのは誰だ
少年犯罪データベース少年による殺人統計
等のサイトを見ても分かりますし、少年犯罪データベースのほかのページには昔の凶悪犯罪が列挙されていて、現在が犯罪が増えてるわけでも凶悪化しているわけでもないことが分かります。(あまり気持ちのいいものではないのですが)

それでは何が変ったのかというと犯罪の語られ方が変ったということです。
それまでもあった個々の犯罪が「時代の象徴」として語られるようになり、その次には「恐怖の対象」として語られるようになった。
それによって、「犯罪」が増えたのではなくて「犯罪不安」が増えた。

では、それの何が問題なのでしょうか。

ヒステリックな社会はごめんだ

子供たちを人が信じられない子に育てたくはないが、事件が起こる度、やはり私も子供たちに「知らない人がお菓子をあげるといっても、ついていっても、ついていっちゃダメよ」と話をしてしまう。
先日、散歩に出かけた時に、手をポケットに入れたまま、子供たちを乗せた乳母車に近づいてくるおじさんとであった。
おじさんは手を出し「かわいいねぇ」となでようとしただけだったが、その頃、刃物をポケットに隠し持ち、いきなり子供を切りつけるという事件を聞いた直後だったので、血の気が引いた。(『朝日新聞』名古屋版2006.3.18)

上の文は芹沢氏が引用した文ですが、実は僕も「血の気が引いた」ことが何度かあります。

普通のコミュニケーションの機会が恐怖の瞬間になる。
冷静に考えて、目の前のおじさんが通り魔である確立はどれぐらいでしょうか。その確立は車に乗って、あるいは道を歩いていて交通事故にあう確立に比べたらどうなんでしょうか。

もし根拠のない単なるイメージによって、ヒステリックな息苦しい社会で不審者に怯えながら生活をしなければいけないとすれば、それはちょっとごめんだと僕は思います。

また、そのヒステリックな社会から締め出され追い詰められるのは例のごとく、高齢者や障害者等の弱者です。(刑務所に入所しているのはこういった人たちばかりで、それは治安悪化の結果でなく、治安悪化「神話」の帰結だそうです)

そういう、他人へのイマジネーションを欠いた社会も、単なるイメージに世論と政治が振り回される社会もやっぱりごめんだと思います。

考える一つの基盤として一読してても良いかもです。

メモ

・犯罪の語られ方についての芹沢氏の「醒めない夢」から「醒めない悪夢」へという例えは秀逸。

「醒めない夢」:1988年に起きた宮崎勤の事件をきっかけに、「醒めない夢」という解釈ゲームに引きずり込まれた。不可解な事件の時代性が語られる。いくら解釈を試みても決して実態のつかめない「醒めない夢」
「醒めない悪夢」:2001年の池田小の事件をきっかけに、犯罪は解釈ゲームの対象から恐怖の対象へと変る。犯人は解釈不能な怪物となり、その怪物の影に怯える社会。「不安」という実体のないものによる恐怖は決して消えることのない「醒めない悪夢」

芹沢氏の分析には流れというかストーリーがあって分かりやすいのですが、このインタビューの第2回、第3回で語られているようにそのベースには「フーコー的なものの見方」があるようです。

・「そんなはずはない。そういう見方もあるかもしれないけど実感とは違うからおかしい」という反応から読みはじめた本ですが、こういう問題で一番大切なのは、人間は偏見を持ちイメージに流されるもので、自分も例外ではない、というところからスタートすることかもしれません。
どこまで疑ってもきりがないかもしれませんが、その自覚は絶えずなくさないようにしたい。自戒を込めて。

・「ヒステリックな社会」も「他人への配慮」も方向はまったく逆ですが同じイマジネーションがベースになっています。
その違いはどこから生まれるのでしょうか。
・自分は偏見を持つという自覚の有無
・それによる「知る」責任の自覚の有無
・イマジネーションの射程距離。自分の直近だけしか想像しないか、自分を離れたもっと多様なものへイマジネーションを広げられるか。

・とかそんな感じか?ほかには?




B141 『狂気と犯罪―なぜ日本は世界一の精神病国家になったのか』

芹沢 一也 (著)
講談社 (2005/01)


ちょっと長くなりそうです。

仕事で略称「医療観察法」について調べる機会がありました。

最初に医療観察法.NETにたどり着いたのですが、どうもいろいろと議論のある法律のよう。
このサイトの「入門編~初めての方へ~」のところにあるリーフレット(PDF・最後だけでも是非読んでみてください)の八尋氏の書いた結びの文章が心に残ったので、


を最初に読み、その他いろいろと調べているうちに司法と医療の関係に問題がありそうだと分かり、そしてたどり着いたのが本書です。

他にも


等が参考になりました。マンガの好きな方は『ブラックジャックによろしく』が分かりやすいかと思います。
こういうデリケートな問題をマンガにするには相当な勇気がいったのではないでしょうか。

この非常にデリケートな問題に対し、数冊読んだだけでは断定できないとは思いますが、この法律に肯定的で説得力のある文章には今のところ出会えていません。どうやら根本的なところに問題が潜んでいそうな気がするのですが、本書はそれに対してひとつの見方を示してくれています。

また、僕の親しい人の中にも精神科ユーザーが何人もいますが、信頼できる魅力的な人たちばかりです。
デリケートな問題なので触れるべきではないとも考えましたが、この問題の根本には誤解やイメージの捏造が最大の問題としてある事を考えるとやはり何かしら書くことにします。

医療観察法の問題点

この法律を調べていて気付いた大きな問題点は大まかに次の二つです。

・精神障害者=危険という偏見・誤解を強化してしまうということ。
・医療という名のもとで精神障害者が司法の世界からはじき出され不当に扱われてしまうこと。

精神障害者=危険という偏見

問題はこの法律が単なるイメージの刷り込みによる世論をうけて出来たということです。

詳しくはいろいろなところでも書かれているので省きますが、『精神障害者=危険』というのはイメージだけで、実際には犯罪率や再犯率はむしろ低いのです。

『ブラックジャックによろしく』でも描かれていますが、きっかけになった池田小の事件の犯人は精神病を詐病してたのですが、メディアは煽るだけ煽って肝心なその後のフォローをほとんどしていません。

結果、『精神障害者=危険』というイメージのみが一人歩きをしてしまいました。そして、ここが一番の問題なのですが、この法律はその誤ったイメージに『国のお墨付き』を与えてしまいます。つまり国が『精神障害者=危険』ということを認めた、というメッセージを流してしまうのです。

それが、多くの精神科ユーザーやその家族の方をどれだけ追い込んだか想像してみて下さい。
あなたやあなたの大切な誰かがふとしたことで追い込まれる様子を想像してみて下さい。
それが正当な理由なく、単なるイメージの暴走で国を挙げて行われている悔しさを想像してみて下さい。

人間は自分は偏見を持たないと思っていても、誤ったイメージで偏見を抱いてしまうものだと思います。
オノケンノート ≫ BSドキュメンタリー『脳をどこまで変えるのか』

僕は見た目でこんなにも人を判断しているのか、ということを見せ付けられた気がした。

この番組をみて、同じ人に対する僕の見方がこんなにも見た目で左右されるのかと本当にショックを受けました。
人間は偏見を抱いてしまうもの。そこからスタートしなければならないと思いました。
そして、偏見に気付くには「知る」しかありません。

精神障害者=危険なのではなく、一般の人々と同じく、危険な人もいればそうでない人もいる。それだけです。

保安処分?

医療観察法では「再犯のおそれあり」と判断されると無期限で施設に収容される可能性があります。
司法による懲役刑よりもはるかに長く収容される可能性もあり、いわゆる「保安処分」以外なにものでもありません。

「保安処分」の是非そのものについてはここでは置いておきますが、問題は保安処分が必要だとすれば実際には再犯率の高い性犯罪者などもっとしかるべき対象がいるのに、なぜイメージだけで精神障害者だけが特別扱いされるのか。ということです。

ここにもうひとつの問題、医療と司法の関係についての問題があるように思います。

狂気と犯罪との偽装結婚

本書でその医療と司法の関係の歴史が紐解かれるのですが、そこで描かれているのは精神医学が主導権を握るために司法に介入し狂気と犯罪との関係を捏造していく歴史です。

だが、ここに大いなる詐術が持ち込まれる。犯罪と「狂気」との関係が、犯罪を行った人間をこえて一般化されるのだ。犯罪と「狂気」の関係はもはや偶然でないとされ、そこに普遍的な因果関係が捏造されてしまうのである。そうなると、たまたまある精神障害者が犯罪に及んだものとは、もはや考えられなくなる。ここが「狂気」の歴史に生じた最大の転換点だ。

まさに、精神医学が狂気と犯罪とを偽装結婚させたのです。

そうなると問題は、刑法第39条「心神喪失者の行為は罰せず、心身耗弱者の行為はその刑を軽減する」にあるのではないかという気がしてきます。
実際、刑法第39条によって裁判を受けることも出来ずに不利益をこうむることも多いようですが、これによって精神障害者が特別扱いされることが、『精神障害者=危険』というイメージを強化する源泉となっているようです。また、重大な事件をおかした者を司法から医療へ丸投げしてしまうことによる弊害も計り知れません。

「狂気の脱犯罪化」という思想

何よりも必要なことは、精神の病を過剰な意味づけから開放して、「普通の病気」にすることではないか。「狂気」の脱犯罪化こそが、現在、最も求められていることではないか。
そのためには、犯罪を行った精神障害者も裁判を受けることができる仕組みをつくるべきではないだろうか。

僕が今まで考えた中では、この思想の先にしか最終的な解決策はないのではないかという気がしています。
精神障害者も同じ司法の上で平等に扱われるために、刑法第39条を見直すことも必要かもしれません。(刑を軽減することはあっても良いと思いますが)

どうですか?保岡法相。

p.s
・難しい問題ですので、間違い等ありましたらご指摘ください。
・調べている途中こういうページを見つけて最初びっくりしてしまいました。これなんていう誘導尋問?っていう感じでとても調査とは言える代物ではないですが、これを内閣府がしてたのだから今は少しはましになってるのかもしれません。昭和36年は保安処分が刑法に採用されかけた年みたいです。
・先のプロポーザルはまだもやもやしてますが、『精神障害者=危険という偏見・誤解を強化してしまうということをできるだけ避けること』を主題にしました。あまり過激にはしてませんが、おそらく発注者サイドには受け入れられないと思います。




追い込み


勤務先でとあるプロポーザルに参加しているのですが、仮眠をすませ、明日の夕方の提出に向けて最後の追い込み中です。

このプロポーザルでは、対象施設の存在意義や設計者の社会的責任と振る舞いについてなどいろいろと考えさせられたのですが、いまだに自分の中で明確に答えが出ていません。(いや、本当は答えが出てるのかもしれませんが)

コミットすべきではない、という想いと、問題意識を持たない設計者よりはマシ、という思いとの間で悶々としたままですが、今はやれることをやります。

何冊も関連書籍をあさったので、詳しくは落ち着いたら書いてみようかと思っています。

あー、このプロポーザル、本心では採れて欲しいような欲しくないような・・・。複雑な心境です。




『ウィンドウ・ショッピング』の世界展 ギャラリートーク


RAIRAIで『ウィンドウ・ショッピング』の世界展のギャラリートークがあったので行って来ました。

鹿児島大学准教授の井原慶一郎さんとイラストレーターの大寺聡さんのコラボレーション。
展開がまったく予測できなかっただけに楽しみにしていた展覧会です。

ギャラリートークでは展示されている作品の背景などを順に説明して下さって興味深い話を沢山聞くことが出来ました。

この展覧会のもとになった『ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン』は特定のメッセージを声高に主張するようなタイプの本ではなさそうです。研究の一成果の中からどういうメッセージをうけとるのかは個々が何を感じ考えるのかによるのかもしれません。(まだパラパラとしか読んでいないので誤解しているかもしれませんが)

そういう意味では特定のメッセージと言うよりはこの本をきっかけとした大寺さんの世界観が展示されているのだと思います。そこにコラボレーションの面白さがあると思うのですが、その世界に羨望の視線を送りながらも、職業柄かこの本で提示されている視点を僕の中でどう位置づけたらいいのかということに興味が向きます。

管理された視線?

ギャラリートークを聞きながら印象として浮かんだのが「移動性をもった仮想の視線」というものも管理された視線でしかないのではということ。
大寺さんのsale@departmentという作品の中、エスカレーターに乗っている人たちは主体性を剥ぎ取られた監獄の中の人のように見えました。

「パノラマ、ジオラマ、ショーウィンドウ、パサージュ、デパート、万国博覧会、パッケージツアー、映画、ショッピングモール、テレビ&ビデオ、ヴァーチャルリアリティ・・・」、どれも見る側と見られる側、見る空間と見られる空間がはっきりと区別でき、その視線はあらかた計画・管理されたものでしかありません。

パノプティコン(全展望監視システム)の断面が描かれた作品がありましたが、「移動性をもった仮想の視線」は見られる側に主体性を与えているようで、管理の仕方が実はより巧妙になっただけではないのかなと言う気がしました。
例えばショッピングモールにしてもそのミニチュア世界の完結した中で自由に振舞ってもらっている限り、客を管理することは容易になります。
オノケンノート ≫ B065 『ポストモダンの思想的根拠-9・11と管理社会』

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。 管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

後で井原さんに聞いてみたところもともとはフーコーがパノプティコンを引用して描いた主体と、ここでいう遊歩者は対立する概念だったようですが、パノプティコン的遊歩者というような概念も後に提示されているようでした(間違ってたらごめんなさい)。

想起するキーワード(備忘録として)

わけが分からないと思いますが、この展覧会の前後に浮かんだキーワードを備忘録として時系列で並べてみます

移動する仮想の視点-現実の再現
リアリティリアル-フィジカル
コルビュジェ建築的プロムナード写真→映像
アフォーダンス移動する視線環境とのインタラクティブな関係リアリティ
ミニチュア
ポストモダンシミュラークルアートデザインの役割
パノプティコン管理社会
受動性と能動性モチベーションの減退
スーパーフラットバリアフリーメンテナンスフリー○○フリー
歴史の消滅時間・記憶の消滅

なんとなく「ウィンドウ・ショッピング」的なるものに否定的な見方になってしまいそうですが、否定的な部分とそうでない部分も混ぜ合わせたようなイメージがもてればいいなと思います。

また、最近の伊東豊雄や青木淳の「動線体」、藤本壮介初め若手建築家などをみると、「見る側と見られる側、見る空間と見られる空間」のような単純な図式を溶解させることによって新しい主体性を得ようとしているように思いますが、これとうまくつながるのかどうか。

8月11日まで

展覧会は明日(本日)8月11日19時までです。まだの方は機会があれば是非。

ちなみに、大寺さんのヴィジュアルブック(写真左・500円)はかなりオススメです。

『ウィンドウ・ショッピング―映画とポストモダン』はじっくり読んでいずれ感想書く予定です。