1

傲慢?

昨日は天気がよかったので家族3人でチャリンコに乗って永田川の上流の方まで行っておにぎりを食べました。
谷山も産業道路側は交通量が多くて落ち着かない感じがありますが、少し山の方にいくとすごいのんびりしてて良い感じ。
いい気分転換になりました。
チャリンコサイコー :にこ:

廃墟?

だけど、帰りに新しい住宅地の方を通ったのですが、この辺の風景を見ると気が滅入ります。

工業製品だけでつくられた建物が整然と並んでいる住宅地。

それにしても、何でこんなに気が滅入るのかと思ったら、建物ばかりでなく、外構含め、植栽などの緑が全くないのです。
建物たてたらそれで終わり。道路もアスファルトで固められてるし、どこにも人の気持が入り込む隙間がない。これじゃ廃墟としかいいようがありません。

それでも、こういう景色が次々と作られている現実を思うと、僕の感覚の方ががおかしいんじゃないかと不安になってしまいます。(育った奈良の五條というところも結構田舎だったし、屋久島は言わずもがなだし)

まぁ、僕の感覚じゃなくて、こういう景色の方がいびつなんだと信じることにして、やっぱりこれって「想像力が欠如した風景」なんじゃないかと思う。

これには「坪いくら」っていう考え方が結構影響していると思います。本当は外構や町並みなども含めての住宅なのに、坪いくらでは、広さとグレードが大事。外構その他はオプション、余計な出費。家の中は自分のもので大事だけど、それ以外は知らない。
それって逆に貧しい空間しか得られないのに。

傲慢?


「未来」を真正面から宣言した本
を読んで、今はみんなちょっと傲慢になりすぎてるのかなって思った。

いい時代を経験して、自分たちはなにもかも手に入れたと勘違いしてるんじゃないだろうか。
「未来」なんか想像しなくても自分たちは何もかも手に入れる権利があると勘違いしているんじゃないだろうか。
誰かが未来を持ってきてくれると勘違いしてるんじゃないだろうか。
失ったものだっていっぱいあるのに目をつぶってたほうが得策だと思ってるんじゃないだろうか。

説教くさいかもしれないけど、「想像もしない」未来なんてやってくるわけない。と思う。




B133 『建築をつくることは未来をつくることである』

山本 理顕 (著)
TOTO出版 (2007/04)


新しく開校したY-GSAのマニュフェストを軸に書かれたもの。
一見キャッチーなタイトルですが、そこにはY-GSAの校長にもなった山本理顕らしいストレートで熱い思いが凝縮されています。

想像力をはばたかせて未来を想像したことがありますか。

なぜ、私たちは「未来」「夢」「希望」というそれぞれに個別の意味を持つ言葉たちが、相互に関係があると考えたのだろう。それは、自分たちの願望や希望は単なる夢で終わるのではなくて、確実に実現すると思っていたからである。未来は私たちの夢が実現する未来だったからである。なぜ、そう思うことが出来たのか。
建築が未来を担ったからである。未来の都市が輝いていたからである。逆に言えば未来がこんなにも矮小化されてしまったのは、新しい建築に対して何の期待もしないようになったからである。私たち建築家が矮小化された未来に見合う程度の建築、単に現実を追認するような建築しかつくらなくなったからである。
矮小化された未来は新しい建築を必要としていない。それでは、新しい建築を必要としている未来社会はどのような社会なのか。それを私たち自身が問われているのである。その問いに答えることが建築をつくるということの意味である。建築をつくることは未来をつくることなのである。(はじめにより)

これを読んでどう思うでしょうか?
誇大妄想の建築家の思い上がりと思うでしょうか?ハコモノ依存の時代遅れのたわごとだと思うでしょうか?

そう思った方は自分の想像力の限り夢のある未来を想像したことがあるでしょうか?
はじめから未来を描く事を放棄して、今の制度や常識の殻の中に閉じこもっていないでしょうか?

歩いているだけでいろいろな関係性に触れることができ、自由で活き活きとした街は想像できないでしょうか?

建築はハコモノに意味があるのではなくて、そこでどういう豊かな生活が営まれるのか、どういう豊かな関係が紡げるのかに意味があると思います。
それがどんなに小さいものであっても、そこで豊かな関係が生まれればすばらしいし、同じつくるのであれば欲望のつまったものより夢のつまったものがいい
建築はそういう想像力を持った人たちのもとでなければ決してよいものは生まれないし、『現実を追認するような』ことばかりをよしとする社会では『現実を追認するような』ものしか生まれない。
建築家にとって想像力を刺激するのは大切な仕事でもあるだろうし、未来に対する想像力が社会に生きているかが生命線でもある。

また、この本を読んで、今必要なのは生活に対する想像力とそれを共有し拡げていく創造性ではないかと、改めて感じたところです。

以下、備忘録とメモ

***メモ***

その時に稲葉さんという人が「みなさん色々言うけれど、今、ここにいないもっと若い人たちや子供たちの事を本当に考えているのか」と問いかけたのです。稲葉さんの一言で、自分こそ今どうしたいか訴える権利があるかのように喋っていた人たちが、みんな黙ってしまったんですね。つまり、目先のことや自分自身の権利ばかりに気を奪われ過ぎてるんじゃないかと、多くの住民たちが稲葉さんの一言で気がついたのだと思います。(山本理顕)

■そういう想像力をいかに働かせることができるか。

マニフェストの第2パラグラフに<それでも建築はその社会のシステムに服従することを意味しない>とありますが、これがすごく大事な言葉なんです。便利に使われる建築をつくるのではなくて、建築が社会をつくっていく意識。(北山恒)

■これってすごく理解してもらいにくいことだと思う。けれど、<便利に使われる>だけの方が楽だからとこうした意識を忘れてしまえば建築をやる資格なんてないんじゃないかと思う。

とりわけ公共建築の設計をしていると、行政が求めているものはこうした既存の形式である事を強く感じます。そこには「未来」という視点は希薄で、現状の様々な要望やクレームに答えていくだけのストーリーが求められている気がします。
予定調和的な形式の建築というのは、予定調和的なアクティビティしか想定されていません。しかし、建築家の本来の役割は、この予定調和的なアクティビティ以上の、発注者の予想を上回る「未来」に向けた想像力を働かすことだと思います。(飯田喜彦)

■行政の中の人たちは個々では理解してもらえることもあるだろうけど、それをその人の立場の中で実行してもらうことは非常に困難。少しずつ変っていけばいいけど。

そこでコルビュジェが太字で強調したいことというのは、「いきいきとした生」ということです。コルビュジェは、形式的なものと生活的なものを同時に実現したがっているのです。(中略)それであのような、難しいことは何ひとつ書かれないという本になった。(西沢立衛)

■さすがコル。「同時に」という貪欲さと強さを持ってます。

今の時代になって、ようやくそうしたことが建築の問題として考えられるようになったと思うんです。高齢者介護や子供の養育など生活に関わる多くのことが、家族、あるいは個人の問題としてでは対処できないことが明確になってきたからこそ、共同体=コミュニティについて改めて真剣に考える必然性があると思います。つまり考えざるを得ない
(山本理顕)

■抽象的ではなく現実的な問題としてのコミュニティってところから可能性が広がりそうな気がする。

でも、現代社会が新たな地域社会を必要としているのだとすれば、それを建築がシンボライズする役割があると思う。(中略)そのためには、建築の存在自体が強いシンボルになるようなつくり方をする必要があると思う。表層的なものがシンボルになるとは思えませんからね。そうしたシンボル性を求めた時、構造形式がいっそう重要になってくると思います。(山本理顕)

■タブー化されてたシンボル化の見直し。そういう近代建築の教義化のなかでタブー視されたものの見直しや、ありかたのずらしっていうのが必要かも。

未来の環境を描くという役割は、建築の最も根源的な役割だと思います。建築家に求められているのは、いつの時代でも、その「未来」に対する想像力です。そして、その未来の建築を待っている人たちがいるのだと思う。その期待に応えることが<建築をつくること>だと思う。

■やっぱり「想像力」がキー。




サツマティック展 鹿児島

satumatic

加治屋町のRAIRAIでサツマティック展のオープニングがあったので行ってきました。

satsumatic7

satsumatic3
たくさんの人が来ていて大盛況でした。
オリジナル焼酎もゲットしようと思っていたのですが焼酎の販売はアミュの地下1階「焼酎維新館」もしくは田苑酒造のみだそうです。

いろいろと感じるところがあり、自分も頑張ろう!という気になれました。(今の自分と比較して軽く凹んだというのも無きにしも非ず :あー: 。)

ということで、スタディの方に力を入れようと思います。
時間は限られているので、しばらくは

  • 何かひらめいてもサイトのテンプレートをいじらない。(いじりだすと時間がすぐにたってしまいます。いくつか試したいのはあるのですが)
  • 今読んでいる1冊を書いたらしばらくBOOKSは休業する。(とりあえずぼんやりとアイデアがある4案をかたちにするまでは我慢します)

と決めて、ブログにかける時間をスタディに割り振ろうかと思っています。(たねを集めるのは気が向いた時に続けますが、ペースをつかむまでは更新がさらに経ると思います)

サツマティック展は4月20日まであるようなので機会のある方は是非!
(3月30日はギャラリートークもあるようです。)
[gmaps:31.586343067505656/130.54669618606567/17/460/300]RAIRAI[/gmaps]




模型

mokeiwk02
やっと出来た。
子供が寝ている隙になんとか完成。ってもう朝やん。




頭のビジュアル化ーrandomimage[WordPress]

このサイトも少しずつイメージに近づいてきました。

レンタルブログのときには画像によるアーカイブを手動でつくってたりもしましたが、それだと手間がかかる分、機動力が落ちます。
でもWordPressのだとプラグインとPHPなどの多少の知識があればたいていのことは自動化できます。

ということで、下記のプラグインに少し手をいれてトップページをいじってみました。(画像が多くなったので通信速度の遅い方はすみません)
404 ≫ 【WP】記事中の画像をランダム表示する。randomimage

『randomimage』はその名の通り、画像をランダム表示してくれるプラグインです。 画像を表示するだけでなく、該当記事にリンクも張ってくれる優れもの。

僕のブログの目的の一つに自分の頭の中の構造化・視覚化、もしくは雑多な考えや知識をぐちゃまぜのまま使えるようにする、っていうのがあるのですが、そのためにビジュアル化してまとめたいとずっと思ってました。
(下手なスケッチを書いてるのも、ナビゲーションをしょっちゅういじってるのもそのため)

まぁ、頭の中をさらけ出して恥ずかしくないの、っていう声もあるでしょうが、恥ずかしくてもさらけ出すのがこの仕事ですし、WEBだと割と自分の頭と他人の頭の境界を曖昧・混ぜこぜにしてくれるんでその分気楽っていうのもあります。

もっと言えば、その混ぜこぜ感、出力が自分でも予想できないようなところに意味があるというか、発見があるように思います。
オノケンノート – B128 『カーニヴァル化する社会』

特にネット上では「知性」の外部化を割り切り、他人の知性・感性を共に巻き込む形でこのループを繰り返して残される自らの「感性」を磨いていくような作法が流行っているように思う。

脳内メーカーなんかの複雑版とでも言ったらいいでしょうか。

その分、感じる力を養わないといけません。
あと、オリジナルコンテンツと・・・




主客の分離、言語体系の網をこえる。



ちょっと悟ったつもりになってみる。
感じることを邪魔しているいろいろなものを取り払ってありのままに感じられる時間をつくること。
例えばモノそのものと向き合うこと。

オノケンノート – B026 『はじめての禅』

主-客の分離を超え、言葉や時間によってとらわれることもない。 あらゆるものを否定し尽くし、それでもなお「個」があるところ、否定の先に大きな地平が拡がっているところに単なるニヒリズムにはない魅力があるのだ。

禅の思想のような曖昧に見えるもの、感覚的なものは現代社会から急速に奪われつつあるもののように思う。何か一方的な見方に世界が覆われていくような怖さを感じる。しかし、現代社会の行き詰まりを易々と突き抜けてしまいそうな、そんな期待を禅の思想は抱かせる。

『私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。』

どんどん抽象的になってきますがこれ以上に抽象的になることはないんじゃないでしょうか。(ランダムに記事をよんでも抽象論ばかりというのはこれまでこのブログで抽象的なことしか書いてないってことかも・・・)




スケールの橋渡し役となる。


建築が生活とミクロやマクロなスケールをつなぐ橋渡し役となること。

毎日の自分の生活のスケールだけに浸かっていると、それが世界のすべてだと錯覚してしまいそうになる。
そんな時、空のスケールに触れると、自分のスケール感をリセットできる。
時には空のようなスケール、時には小さな花のようなスケールに触れるのは大切なことだろう。
自然の雄大さに比べたら建築なんて無力だなぁと思ってしまうこともあるが、日々の生活のスケールとマクロな又はミクロなスケールの橋渡しの役を建築ができればステキだろうな。

(オノケンノート – スケール)

時にはフラクタルという楽器も使って。

”建築が橋渡し役”っていうのはいいかも。人と人との橋渡し、時間・歴史の橋渡しとか。