1

B093 『はじめて考えるときのように』

野矢 茂樹、植田 真 他 (2004/08)
PHP研究所

植田真の心地よいイラストと野矢茂樹の心地よい文にひかれてなんとなく買ったもの。
気分転換のために再読。

考えなくてはいけない、とかそんなこと考えなくてもよいとか考えるけれども、考えるっていうことはどういうことだろうか。

そんな感じの疑問から始まる。

つまるところ考えるということは出会いなのかもしれない。

そのために

つめこんでゆさぶって空っぽにする

そして、はじめて考えるときのように考えよう。




鹿児島のかたち・地域のかたち

鹿児島、生活地域建築塾主催のシンポジウムがあったので行って来ました。

JIAの案内を見て知ったのですが講師はなんと象設計集団の富田玲子さん、U研出身の齊藤祐子さん(僕はU研と象とがごっちゃになっていましたが・・・)、そして進行が一つ前の記事で加世田で活動されていると書いた菊野憲一郎さんでした。びっくり。
また鹿児島サイドからは創建築計画研究所の溝口さん、かごしま探検の会の東川隆太郎さんが講演を行ったのですが、この東川さんという方が鹿児島のプロともよべる人で話がとてもおもしろく、そして熱い思いをもっていらっしゃる方でした。

東川さんは建築が専門ではないのですが、建築を含めた環境に対する視点や思いは設計者が反省を込めて見習わなければいけない、と強く感じました。

僕自身、地域性に対するある種の憧れは持っていても正直どうアプローチすればよいか、ピンとくる感覚を持てなかったのですが今日の話で何かヒントが得られたような気がします。

スライドでも笠原小学校などが紹介されましたが、吉阪隆正氏や象設計集団の建物、それから小松義夫さんの写真などをみると、自然と楽しくなってきますし、生命の力が湧いてくるような感じさえ受けます。
”これが建築なのだ”と思えます。
多くの人はこの楽しさを忘れてしまっているのではないでしょうか。
忘れているのならまだよいのですが、僕はこの楽しさを知らないというまま子供が育ち、それが世間の大半を占めてしまうということが非常に怖いのです。
現にそれはかなり現実のものになりつつあるように思います。

それをくいとめるには”楽しい、気持ちよい”こと、東川さんの言葉だと”なつかしい”と感じられること、これっていいでしょ、ってことをあきらめずに言い続ける以外にないのかもしれません。

今日の話は一般の人を含めたもっと沢山のひとに是非とも聞いてもらいたかったです。
みながこの”楽しさ・気持ちよさ”を知ったら街はずっといいものになるのにな。

懇親会では(最初お腹がすき過ぎて言葉が出なかったのですが)、齊藤さんや東川さんと楽しく話させて頂いてとても実りの多い時間でした。




ジュニア・チャンプルー

象のブログを発見。
その中の故・大竹康市を偲ぶところが心に響く。

象の本を読んだときのように、なんだかため息が出てしまいました。

ここにもでてくる菊野憲一郎さんという方は、どうも今は加世田で活動していらっしゃるよう。一度お会いしてみたいです。




やまとことば

今日はある現場の地鎮祭がありました。
そのなかの”祝詞奏上”のところで神主さんが建築物の名称や住所、施主や設計者、施工者などの関係者を含めた台詞でお祈りを申し上げます。

そこで、神主さんの台詞になんとなく違和感を覚えたのだけれどもなぜだろうと考えると、住所に数字などが多く記号的になっているのと、固有名詞の中にほとんど訓読みが含まれていないことに気づいた。
すべて漢字の名称であってもほとんどが音読みである。
それが神主さんの口から出ると変によそよそしく感じてしまう。
まだ事務所名は考え中なのだけれども”エーリリースビルディングワークショップ”では地鎮祭では違和感ありまくりだろう。

志村建世さんという方のブログで憲法第9条の第1項を漢語なしで表現することを試しているんだけれども、これが結構いけてます。
あまり、”やまとことば”を意識することはないけれども、意識してみればけっこう奥行きがあってよいものかも、と思った次第であります。




PDF

Acrobat Reader はバージョンアップしてだいぶ早くなったもののそれでもブラウザがすっ止まってしまったりしてPDFファイルをクリックしたらしまったーと思ったものです。

もっとシンプルな単なるリーダーがないかと思ったらありました。

Foxit Reader

さくさく動きます。ブラウザにプラグインできないけれどもAcrobat Readerに比べればまし。

ソフトやOSはシェアの高い物ほどそれにあぐらをかいているのかやたらに重かったり、痒いところに手が届かなかったりすることが多い気がします。




B092 『コート・ハウス論―その親密なる空間』

西澤 文隆
相模書房(1974/07)

僕が生まれる前の年の本。
コートハウスについて論じられているのだが、図版つきで具体的に書かれているので解りやすく今でも十分に参考になる。

著者によるとコートハウスに期待するところのものは

敷地全体を、庭と室内を含めて、あますところなく住居空間として企画し、屋外にも残部空間を残さない住居であり、囲われた敷地の中に自然と人、室内と室外の緊密な関係を造り出す

ことにある。
このことは、僕が住宅に期待する大きな要素でもあるのだが、それは近代建築の作法や伝統的な日本建築の知恵などと重なる部分も多い。

しかし、周りを見渡すととてもコートハウスやコートハウス的思想が定着しているとは思えない。

住宅を快適にするにはかなり有効な方法に違いないのになぜだろうか、と考えるといくつか理由が考えられる。

一つは、日本の敷地の取り扱い方がコートハウスを困難にしている事にある。(民法では近隣の合意が得られない限りは隣地境界線から50cmは建物を離さなくてはいけない)

もう一つは、コートハウスは敷地の形状や特性に合わせていろいろな工夫をする必要があり、メーカー住宅などの規格化に向かない事にあるように思う。
規格化するためには、内外の緊密な関係などに興味を持たずに住宅というパッケージの中身だけで満足してもらっているほうが都合が良いのだ。(規格化というのは特別な工夫が要らず誰でもつくれる、ということでもある)

さらには、現代の近視眼的な傾向もコートハウスが目を向けられない要因の一つであると思う。というか、近視眼的な住宅・生活環境が人々を近視眼的にしているという側面もあると思うのだ。

建築を学んでいてコートハウスに魅かれない人はなかなかいないと思うのだが、それがなかなか一般の人に共有されていかないのはやっぱり少し寂しい気がする。

MEMO

■住宅はどこまでも外界から隔絶された絶対個人の空間でなければならない。そして敷地が広くない場合、自然を100パーセント楽しむためには敷地全体が庭であり、同時にまた住居空間でなければならない。
■住宅は劇場でも教会でも料理屋でもないから、そのような驚きを住む人にあたえることは禁物である。住む人はなんの心の抵抗もなく住めなければならない。しかしこのことは住宅が無性格であったり、無気力なものであることに通じるのではない。住宅は住む人びとに快い安らぎを与え、未来の飛躍に向かって前進すべき人柄のなかへと、ちょうど太陽が生きとし生けるものの身にしみわたっていくように浸透していくべき性質のものであらねばならない。
■サーキュレーション・チャンネルとして使われる廊下はできるだけ少なく、またその部分でも変化が楽しまれ、これにぶらさがる個人のプライバシィをその必要度に応じて保ちながら廊下から居間へ、居間から個室へと移りゆくに従って変化ある庭がもてるようにというのが私が住宅を設計する場合の願いである。

住宅が外部に対してオープンであるべきかどうかという事を悩んだりもするが、それは実は通りに対してもさして重要でないのかもしれない。
散歩をしていてなんとなくいい感じの家だなと思うのは、塀などで囲われていても、その中の庭や家の中での豊かな時間の流れが想像できるものが多い気がする。
そういう家は、住宅そのものがその敷地に対して安心して座り、満足しているような感じを受ける。それが、敷地の上に無造作に置かれ、さらし者にされているような家ではやっぱりあまりよい印象を受けない。敷地の上で住宅それ自信が安心し、楽しんでいるか。そのような見方も建物の良否を見分ける基準になるかもしれない。




ドット絵


ドット絵のエディタもフリーでいいのがある。

メニュー用の小さいアイコンを作ろうと思って久しぶりにドット絵をかいたけど、なんとなくノスタルジックな気分になった。
昔、(中学生の頃)MSXというパソコンとゲーム機の中間みたいなのでちょっとしたゲームをつくって遊んでいた。そのころの性能だと8x8だとか16x16のドットが標準で色も横一列に対して1色しか使えない制限があったりして、1mm方眼紙をせっせと塗りつぶしてキャラを考えたりしていた。
その制限がかえってイメージを喚起して今の高解像度な画像にはない楽しさがあったと思う。
(その前は、ポケコンという計算機程度の横一列の画面の中で今でいうアスキー・アートみたいなキャラでダンジョンを冒険したりドラゴンと戦ったりしたのだから、そうとう想像力がたくましかった)
また、雑誌の投稿で1画面プログラムと言う、たしか40文字x24行ぐらいの画面の中にBASICのプログラムをおさめるというのがあって、これも制限を逆に楽しめた。俳句のような感じ。
僕も一度だけ投稿したことがあったのだけど、そのときは大作のパズルゲームは落選して”けんだま”というシンプルな1画面プログラムがなんかの賞をもらったことがある。
何が言いたかったかというと、あの頃はなんであんなに暇があったんだろうということと、制約もまた楽しということと、MSXなんてマイナーなネタにのる人がいたらすごいなぁ、ということです。




TARA DESIGN EXHIBITION

p070204.jpg


今日は久しぶりに街に出たので、黎明館でやっているタラデザイン専門学校の卒業展を覗いてきました。
僕はデザインの教育っていうのを受けたことがないので学生がどういうのをつくるか興味があったので。

20歳前後?ということもあるでしょうが、テーマは全体的に自分の内面やその近辺、もしくは空想の世界のどちらかが多くその中間的な部分、それらを繋ぐような部分は少ないのかなという印象を受けました。
リアリティを感じる部分がそのあたりに多いということでしょうか。

うーん、うまく言えませんがリアリティの行方が気になりました。僕もオジサンです。

だけど、若いっていいですね。彼らの中から内面だとか空想だとかを突き抜けてそれらの間を自由に飛び回るような人が出てくるかもしれません。

(印象だけで書いているので何を書いているのかさっぱりかもしれませんが)

今年は出来るだけ外に出向いていろいろなものを見ようかと思っています。




B091 『藤森照信の原・現代住宅再見〈2〉』

下村 純一、藤森 照信 他 (2003/04)
TOTO出版

前巻に続いて2も読んでみた。
今回は前巻にも増してバラエティに富んでいて面白い。
(青木淳の「S」や石山修武の「世田谷村」等、わりと近作も載っている。)

時代はモダニズムをどう乗り越えるかというところ。
そういう背景もあってか、またまた藤森さんはうまい具合に人間味を浮かび上がらせている。

住宅の背後に人間が見えるか、または住宅が建築として生きているか。それがどの程度できているかが住宅の懐の深さとなるような気がする。
薄っぺらで上っ面だけのきれいな表情にだまされてはいけない。

< 3>がでるとすれば妹島和世や藤本壮介なんかの住宅もあって、これまた面白くなりそう。
・・・と思ったらもう出てたのね・・・




B090 『99人のデザイナーとつくる未来の本』

萩原 修 (2005/09)
ラトルズ

99人のデザイナーがそれぞれの架空の本のタイトルを設定すると言うかたちで発想の原点のようなものを少しづつ紹介していく。

「デザイナーなんていなくてもいいと考えることがある。それぞれの人が身のまわりのすべてをデザインする世界の方が自然ではないかと。・・・・・(中略)・・・・・「デザイナーと未来をつくっていける」と考えることがある。どんな生活をしたいのかは、それぞれの人が考えればいい。だけど、それを実際にかたちにしていくのにデザイナーの力が必要なこともある。(萩原 修)

デザイナーはあくまで手助け、手助けという言葉も傲慢に聞こえるなら、一緒に楽しんだり未来を見ることしか出来ないのかもしれない。




B089 『space 狭小住宅:日本の解決法』

マイケル・フリーマン、境 紀子 他 (2005/02/11)
河出書房新社

アジアのデザインに詳しいロンドン在住の写真家が日本のコンパクトな住み方を紹介。

しかし、”狭さ”も楽しめるひとつの特色となりうる。

この本でも紹介されている9坪ハウスが典型的だが、積極的な狭さ、なのであり”楽しめる”ことがキーなのだ。

「どちらかというと、家が買い手を選別する」・・・・増沢の根本にあった価値観である、簡潔さと必要性に共感できる人たちだけを惹き付ける家づくりだ。土地がないから狭い場所で我慢をする消費者を対称にしているものではない。自分に必要なものだけを要約したら9坪のスペースで十分だと自分のライフスタイルを掴んでいる消費者に向けてのプロジェクトなのだ。

しかし、実際には狭い土地しか手に入れらないことも多いだろう。
そのときの”狭さ”をどうやって”楽しさ”へ転化するか。
そのためには、住み手が”楽しめる”ことが一番の条件だが、どうやってそれを引き出せるか。
そのために自分がどう楽しめるか。だ。




オープンハウス

ASJ主催の住宅オープンハウスがあったので行ってきました。(設計:CASE施工:阿久根建設

写真は住宅と言うことで残念ながらNG。

風の通りや光の導き方、動線などをしっかり誠実に考えた住宅でした。
特別奇をてらったようなところはなく、毎日の日常が自分のイメージの器ののなかでしっかりと営まれれていく感じ。
住宅っていうのはそれでいいのかもしれないな。




B088 『建築の可能性、山本理顕的想像力』

山本 理顕 (2006/04)
王国社

山本理顕の著書を読むと、建築にも何かやれそうな気がして勇気が出る。(というかほとんどは何もやってこなかったんじゃないか)

彼ほど、制度に対して逃げずに真摯に取り組んでいる建築家、建築が制度となってしまうことに対して敏感な建築家は他にはいない。

建築が制度と化してしまい、制度がまた建築を規定しまうという悪循環の中で、その悪循環を断つには思考停止の循環に陥る前にあったであろう仮説のもとの思想や理念に立ち返るしかない。
そのうえで、

やはり問われるのは、共感してもらえるような仮説が提案できるかどうか

が重要となる。

建築はもはやかたちではなくて、さまざまな人が参加できるような仕組みをつくること自体が建築じゃないかと思います。建築をつくる過程もふくめて、人々が参加するシステムをつくるのが建築なのではないかと。そのためにも建築家の他者への想像力というのか、その他者を包含できるような新しい空間を提案する能力がますます問われているように思います。個人の表現やかたちを目的にしない、それでも多くの人を魅了する空間、そういう意味でのいい建築をつくることが必要なんでしょうね。

かたちではなく、と言い切れるところに彼の強さがある。
建築=かたちであると思われているところに業界の内と外のギャップが生まれているし、それが自分達の首を絞めることになってきているのだから、そういいきるところから始めるのは有効なのかもしれない。




ゆらり

つんく♂と糸井重里の対談の”ゆらり”にドキリとする。

なんとなくゆらぎのようなものを捉まえるには自分もゆらぎに身を任せないといけないような気がするときがある。
まじめに硬くなりすぎると何かを取りこぼしそうな気がして。

だけどゆらぎを捉まえるには、ゆらぎ漂っている獲物を捕獲するハンターのように重心を低く構え、鍛えぬかれた集中力と瞬発力をもってしてゆらぎに向き合わなければいけないのではないか。

そんな風に思った。
抽象的なことだけでは現実に抽象性を獲得することは出来ない。

だとすると同じ糸井重里が共感しているタモリのゆるさはなんだ。
それこそゆらりじゃないか。

そう思ったけれど、そうではなくタモリは自らゆらぎながらも重心低く忍び寄り、集中力と瞬発力をもってして獲物をとらえるカマキリなのではないか。

そのゆらりとした身のこなしに騙されてはいけない。
タモリこそ理想的なハンターかもしれない。

抽象性を獲得したければハンターであれ。

(前半と後半は多少矛盾しているような気もするが・・・気にしない)




B087 『昭和モダン建築巡礼 西日本編』




日系アーキテクチュアの連載をまとめたもの。
戦後の1945から1975年に建てられたモダニズム建築を西から順にレポートしていくのだが、スタートは宮崎の都城市民会館で鹿児島ではなかったのが残念。

最近妙にこの頃の建築に魅力を感じるのだけれどもなぜだろうか。
モダニズムを軸に建築に夢と希望と野心があった時代だからかもしれないが、建築が建築として生きている感じがする。
なんというか表情を持っているというか色気があるのだ。

今ではモダニズムっぽい建築は真似をすれば誰でもできるように思う。
ところが、数あるモダニズム(っぽい)建築のなかでもそのなかに色気を感じるもの、建築として生きている感じがするものといえば極端に数は絞られてくるし、それができる人はなかなかいない。

そもそもモダニズム自体が人間臭さを伴ったものだと思うのだがそのあたりをすっとばかした建築はやっぱり何かが足りないように思う。

建築であることの強さをもっと信じたっていいんじゃないだろうか、と割と素直に思えるようなそんな本でした。

あー、僕も巡礼したい。