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朗報!

ヒラカワさんのブログを見てびっくり。

2011年に都城に移転予定の南九州大学が、市民会館の20年間の借用を申し入れ、市が前向きに検討するというコメントを出した。そんなニュ-スが飛びこんできたのが29日の朝9時過ぎでした。


慌ててニュース検索してみると
現代建築の傑作都城市民会館解体一転保存へ南九州大に貸与検討 =2007/10/30付 西日本新聞朝刊=

「現代建築の傑作」とされながら、解体される予定の宮崎県都城市民会館について、南九州学園(宮崎市)の渋谷義夫理事長が29日、都城市役所を訪れ、20年間の貸与を申し入れた。2009年4月に南九州大学キャンパスの一部を同市に移す同学園は、入学式などの会場として同会館を活用したいとしている。長峯誠市長も「公共性の高い大学施設としての活用なら市民も理解してくれる」と述べ、保存に前向きな意向を示した。

やったー!
こういうことってあるもんですね。大学の施設なら使われ方としては理想的じゃないでしょうか!

うーん嬉しい!11日どうしようかな~。

※このブログで都城市民会館にふれた記事はこちらからどうぞ




ハッピースカウター

たこはんさんのこの記事に便乗して、昔想像した事を。

ドラゴンボールのスカウターのようなハッピースカウターというものを装着していると想像してください。

目に見える、周りの人たちや犬や猫や植物や、いろんなもののハッピー指数がスカウター上に数値化されていて、それとともに様々なレベルのハッピー指数の合計も表記されている。(例えば目に見える範囲、今いる町、今いる国、地球全体といったレベル)

そして、その数値はリアルタイムに変化していて、例えばある人にいいことがあるとピローンという感じで「ハートマーク+132」とかいうのが頭のあたりに浮かび上がる。悪いことがあればブー「涙マーク-1791」 とか。自分の行動に関する数値の上下は合計値の部分にもピローンと表示される。

例えば自分が何かすることでピローン、ピローンと ハートマークが連発して周囲の合計値がぐっと上がれば気持ちいいだろうし、なにかを買ったとたん地球レベルの合計値が「-6819」とかでたりするとなぜ、って思うかもしれない。

みんながこれを実際に装着しているとしたら、サトラレみたいな気持ち悪さもあるかもしれないけど、みんなが自分がハッピースカウターをしている事を想像しながら行動するとしたら結構良くなるんじゃないかと妄想したりする。

例えば車を運転してるとして自分の都合だけでやたらとクラクションを鳴らしたりすれば、周りの数値がいっぺんに下がって気持ちが悪いだろうし、そっと、車を間に入れてあげれば小さいピローンの連鎖がきっと気持ちいい。利益を自分や自分の直近だけでなくもっと大きく捉えられるようになるように思うし、きっとそっちの方が気楽だ。

個人的には損か得かというと損なことでも、合計値があがればいいじゃないってこともあると思う。結果、自分のハッピー指数があがってたみたいな。

まぁ、良いとか悪いとか損とか得とかそんなことはどうでもよくても、ピローンの連鎖が気持ちよくないでしょうか。

ただ、笑顔が目的化すると気持ち悪い気もするし、数値がいっぺんに下がるのを楽しむ輩も必ず現れるでしょうが。

この想像、今は自分のオリジナルな気になっていますが、もしかしたらどこかで見たのかもしれません・・・




ハリボテ砂漠

僕が大学生のころ神戸の酒鬼薔薇事件があった。

それがあまりにショックで悶々としていたころ 宮台真司の『まぼろしの郊外』を読みさらにショックを受けた。

そのときのショックに対して落とし前をつけるために僕は建築に関っているといってもよいかもしれない。

いずれ『人生を変えた一冊』というテーマで記事にしようと思っていたのだが、少しここで考えをまとめないと前に進めなさそうなのでその後僕なりに考えたことを書いてみたい。

ハリボテ砂漠

何がサカキバラを生んだのだろうか。
それを考えているときに上記の本を読み、『郊外』というのが一つのキーワードになった。
『郊外』では土地が整然と区画され、そこにはサイディングなどの新建材を主体としたハリボテのような家が建ち並ぶ。土地の残りは所有を示す門や庭がほんの気持ち程度に作られるだけだ。そしてその隙間は車のための道路で埋められ、ところどころに公園然とした公園が計画される。
町は計画・機能化されたもので埋め尽くされ、どこにも息をつく場所、逃げ出す場所はない。( 事件では唯一の隙間であったタンク山で犯行が行われた。)
あたりの空気は大人のエゴで充満し、人の存在を受け止めることのできない建築群は人々、特に子供たちから無意識のうちに生きることのリアリティを吸い取ってしまう。
リアリティーを奪われてしまった人から見ると郊外の風景はハリボテの砂漠のように見えるに違いない。そこに潤いはなく、乾いた砂漠でどう生きていくかが彼らの命題となる。

そして、郊外の住宅地を計画し、ハリボテを量産しているのは間違いなく僕ら大人、それも僕が今から関ろうとしている建築分野の人たちだ。そのことが学生のころの僕にはかなりこたえたし、実際4回生の夏に親に建築をやめると相談したほどだ。

便利さや快適さと言った単純な一方向の価値観のみが追い求められ、深みや襞のようなものがなくなったぺラっとしたものばかりになってリアリティを失いつつあるのは何も建築だけの話ではなくあらゆる分野で起こっていることだと思うし、あらゆる人は今の子供たちが置かれている状況や問題と無関係ではない、というのが僕の基本的な考えだ。

こういう話がある種の説教臭さを伴った懐古趣味とどう違うのか、と自問もするが僕は決して新しく生まれてくる可能性までをも否定したいのではなく、むしろそういった新しい可能性に敏感に開かれていった先に今の閉塞感のようなものを抜け出すきっかけがあると信じている。

生きることのリアリティ

そういう事を考えているうちに、生きることのリアリティとは何か、というのがその後のテーマになったのだけれども、少なくともそういう問題から目を背けずにいることが建築に関わるものの最低限の良心だと思うし、何らかのリアリティを感じられるものを作れたときに僕が建築に関わった意味が生まれるのだと思う。

この最低限の良心の必要性は個々の建築を見たときにそれほど感じないかもしれない。しかし、その集積が町となって子供たちが育つ環境となることを考えたときに、この良心を持った上での積み重ねかそうでないかでその風景はずいぶんと違うものになると思う。(そして、今はそうでない風景、すなわちハリボテの砂漠になりつつあるように思う。)

では、 生きることのリアリティにどうすれば近づくことができるか。

そのために今考えているキーワードを重複・矛盾を恐れずざっとあげると以下のよう。

・環境と関わる意志をもつこと
・関係性をデザインすること。
・DNAに刷り込まれた自然のかけらを鳴らすこと。
・ポストモダンの振る舞いを突き詰めること。
・ポストモダンを受け入れながらも実存の問題を受け止めること
・「生活」というものに一度立ち返ること

それぞれに関することはこれまでにも何度も書いてきたけど、また別にまとめてみたい。




B125 『ウェブ進化論 -本当の大変化はこれから始まる』

梅田 望夫 (著)

筑摩書房 (2006/2/7)

遅ればせながらもやっと読みました。

もう2年近く前の本ですがさすがに面白かった。読み進めるごとに目の前がクリアになってその先に拡がっている可能性にワクワクと興奮しました。

ここで書かれているような事を、僕はちょうどこの2年のあいだにリアルに体験したような感じだったので「あー、この可能性を享受してるんだな」とその体験の復習という意味合いも強かった気がします。

著者の楽観主義に対する批判はあるようですが、その楽観主義も「あえて」のものだし、一つの大変化の節目となる著作であることは間違いない一冊です。もし未読の方がいましたら一読しておいて損はないでしょう。

ところで、この変化と変化に対して理解を深めることは僕自身にとってどういう意味をもつのでしょうか。

google等の提供する検索や「あちら側」のさまざまなサービスが生活そのものに大きく関わっているのは間違いないし、すでにこれらのサービスがない生活を想像するのが難しくなっています。

また、本書内で小泉圧勝についての項で書かれているように、大きな流れを生み出す力が開かれたこともそれがどういう方向に向くかは別として大きな意味を持つでしょうし、個人が何かをしようとしたときに大きな可能性が開かれたことは喜んでいいと思います。

まぁ、単純に便利、楽しくなったとも言えるでしょう。

では、建築の設計という仕事を考えたときにどういう意味があるかと問うと、まだ明確なイメージはありませんが、建築の一回性や設計の個別性を考えたときに案外ネットとの相性はいいんじゃないだろうかという気がしています。

ちょっとうだうだと書いてしまいますが、まず、自分の建築に対する考えをプレゼンテーションするツールとなります。分厚いポートフォリオを常に持ち歩いていなくとも、URLを書いた名刺がその代わりになりますし、名刺を渡さずとも知らない誰かがみてくれる可能性が広がっています。(実際はリアルベースのポートフォリオの方が説得力がありますが)

また、ロングテールで考えた場合、例えばハウスメーカーなどは明らかに恐竜の首でしょうし、小さい事務所は尻尾の方の存在でしかないでしょう。同じく顧客候補者の層も恐竜に例えた場合、ハウスメーカーでいいや、という層が首や胴体の方に存在し、生活にこだわりや信念のある多様な人が尻尾の方に存在します。

アマゾンなどのロングテールとは規模や意味合いが違うかもしれませんが、尻尾同士のマッチングが成立する可能性は大きくなったのではないでしょうか。

ただ、そのマッチングシステムはほとんど整備されていない気がします。ハウスコンペの類もありますが、ウェブの特性を特別活用しているものではないし、 設計者の負担を強いることで成立しているシステムでもあります。

設計事務所にとって相性の良いお客さんにめぐり合うことが最も重要なポイントなのですが、ウェブを特効薬的に利用するのはまだ難しいかもしれません。

とりあえず、ブログなどでのプレゼンテーションをし続けることしかない気がします。リンクを貼ってもらったりとネットワークが広がっていけばいずれ効果が出るかもしれません。(今はまだネット上の孤島のような存在ですが・・・)

ただ、営業営業したのはネットにそぐわない気がするし、最終的には設計というコンテンツが命です。

こつこつと楽しんでいきましょう。




If architects had to work like programmers…

僕も泣いた。

>惰訳 – 建築士がプログラマーのごとく働かねばならぬとしたら(404 Blog Not Found)

でも、笑えない・・・・・。

(ローカライズの変更はやっぱりねって感じ。)




サツマティック

先日、新聞やニュースでも取り上げられたので知ってる方も多いと思いますが、鹿児島を本拠地にして全国で活躍する3人のアーティスト(ohtematicさん、chinatsuさん、たけいしょういちろうさん)がNYで「サツマティック」という展覧会を行います。

ちょうど今オープニングレセプションで焼酎飲んでるころでしょうか。

企画したブレストの丸野は高校からの付き合いなのですが、(最近全然会ってません。連絡もなかなかつかないっす。)ずっと前からこういう発想をもっていて話をきいていましたが、着実にそれを実現していっている、という感じです。

単なる空想ではなく「田苑酒造」をスポンサーにつけてくるあたりが流石。

ローカルゆえに持てる強みというのをどう活かして勝負するのか。

その一つのヒントになると思います。

また、ここには3つの目線があると思います。

(A)ローカルな内向きの目線

(B)ローカルをしっかり見ることによって生まれる、外(世界)への目線

(C)外(世界)に目線を向けることによって生まれる外(世界)からローカルをみる目線

それによってさらに(A)の目線が磨かれる。

この3つの目線がぐるぐるとスパイラル状に登っていくイメージが浮かびますが、そのベースとなるスタート地点にはやはり(A)の目線の追求が不可欠な気がします。

(実際は外ばかり見ているか、内側しか見ていないかのどちらかが多いように思いますが)




いよいよ

ykh2.jpg
今日鹿児島で屋久島のお施主さんと打ち合わせをしました。

外壁材等若干変更になったのでイメージを組みなおしますが、おおむね方向が決まりました。
いよいよ実施設計に入ります。
32歳、建築男、最高の図面をばちィ~っと納めてみせるバイ!(※)
ここ参照




竣工パーティ

nkkk.jpg
土曜日に、担当していたK高校の百周年記念会館の竣工パーティがあったので行ってきました。

改めて多くの方の協力の下で完成したんだと実感。

当然、それゆえの難しさもありましたし、多くの人が設計に関わるときの進め方など個人的な課題も多々見えました。

話はそれますが、そんな竣工パーティで一番気になったのは実は新会館で行った生徒の発表。

「高校生母国を語る~過去・現在・未来をふまえた国際貢献の可能性」というテーマの高校生フォーラムで発表したものだそうです。

全体の流れとしては

過去:「郷中教育」 の紹介

現在:アメリカ的な個人主義(利己主義)、利益優先主義が広まり、いろいろな問題が起こっている。「公」より「個」のウエイトが大きくなってしまった。

未来:「公」を取り戻さないといけない。

提案:新しい武士道を実践する必要がある。郷中教育を見習い武士道を教育し、人を育て、その精神を示すことで国際貢献する。

というような感じだったと思いますが、最終的に道徳論のようなところにいきついてそこで終わってしまっているのが少し気になりました。

武士道が大事というのはそれでも良いと思いますが、ではなぜそれが失われたのか、それを取り戻すにはどういう壁があってどういうことをしないといけないか。そこから先にむしろ問題や提案があると思うのですが、抽象論や精神論で終わってしまって具体的な有効性を 突き詰めないところが日本的だなぁと。

例え稚拙であっても具体的な提案にまで踏み込んで欲しかったし、「じゃあどうすんの」とか「ほんとにできるの」とかの突込みを大人は入れても良かったんじゃないかと思いました。

実際には(僕にとっても)難しいことだと思いますし、高校生につっこんでも仕方がないのですが、前に読んだ本とのギャップをすごく感じたので。

すみません、つっこみすぎでした・・・。




B124 『「個」を見つめるダイアローグ』


村上 龍 (著), 伊藤 穰一 (著)

ダイヤモンド社 (2006/5/26)



JMMは6,7年前から購読しているのだけど(といっても、この頃はざっと拾い読みぐらいしかしてない・・・・)、そのころから村上龍が一貫して気を使っているのは、主語や目的語を曖昧にせず、言葉の定義や対象に意識的であることだと思う。

「日本は」とか「市民は」とかいう曖昧な言葉にイメージをのせてなんとなくそれらを共有して分かった気になる。

分かった気になるだけで、実は「1万時間話しても、問題すら見えてこない」はずなのに、ぼんやりしたイメージで満足してしまう。

そういうなんとなくで済ませて先送りにしてきたことがいろいろな問題となって噴出してきているのではないだろうか。

それぞれの立場や議論の前提を明確にする。そういう基本的なところから始めないといけない。

キーワードは「個」。

曖昧な全体のイメージの中に自分を溶け込ませてごまかすような事をやめ、個々が個々として、意志をもって考え行動する。そんな積み重ねがまちを動かすようになればきっと楽しい。




B123 『ウェブ人間論』

梅田 望夫 (著), 平野 啓一郎 (著)

新潮社 (2006/12/14)



先日川内でかえる文庫した本。
実は梅田氏の『ウェブ進化論』は読みそびれてしまったのと、各所で言及されているのでなんとなく読んだ気になってたのとで未読。近々”前提”としては読んでおこうと思っているところ。

本書は1960年生まれの梅田氏と、僕と同じ1975年生まれの平野氏との対談なのだが、梅田氏の方がウェブ世界の変化を不可避なものと受け入れてそこでサヴァイブしながら楽しもうと吹っ切れているのに対し、平野氏の方がウェブとリアルの世界の変化に慎重な態度をとっていたのが印象的だった。

新しい技術などによって生活習慣や価値観などが変化し、それがやがてスタンダードとなっていくのは人類が繰り返し経験してきたことだし、梅田氏にはおそらくそういう歴史を踏まえたうえでの人間に対する最終的な信頼のようなものをもっているのを感じた。逆に平野氏の方がその変化を若いころに生々しく経験したのと、職業柄、個の人間のより深くまで入り込んでしまうため、より危機感のようなものを感じてしまうのかもしれない。

あとがきで梅田氏が

平野さんは、「社会がよりよき方向に向かうために、個は何ができるか、何をすべきか」と思考する人である。(中略)私はむしろ「社会変化とは否応もなく巨大であるがゆえ、変化は不可避との前提で、個はいかにサバイバルすべきか」を最優先に考える。

と書いているがこの違いはどちらが正しいということではないにしても本質的な違いがある気がする。

僕がどちらの感覚に近いかというとリアルなものに対する危機感という点では平野氏に共感する。しかし、ネットの可能性という点に限ればどちらかというと楽観的かもしれない。

平野氏が

実は僕たちが公私の別を言うとき、そこで言う「公」というのは、僕たちがどんな人間であるかというのを表現できて、それを受け止め、記録してくれるかつてのような公的領域ではなくて、経済活動と過度の親密さによって個性の表現を排除してしまっている社会的領域に過ぎないのではないか、ということです。そうした時に、「ウェブ」という言葉でアレントが表現したような、人間が自分自身を表現するための場所として、いわば新しい公的領域として出現したのが、実は現代のウェブ社会なんじゃないかということ僕はちょっと感じているんです。(平野氏)

というようにアレントを引用していたが、アレントの言うような”奪われてしまった公的 なもの”をウェブが取り戻す可能性は大いにあるように感じた。

また、僕はウェブの世界にはわりと楽観的だけれども、単純にリアルな世界からリアルさが奪われていくのがやっぱり心配だ。(例えば町並みや触れる素材や温度や匂いや・・・・職業柄そんなことが気になる。)

ウェブをサバイブするにしたって、リアルな世界での土台のようなものは必要だろう。リアルな世界ですでにウェブをサバイブするための土台のできている人・世代はいいかもしれない。だけども、これから育つ子供たちがそういう土台を獲得できるかというとだんだん心配になってくる。(そんな土台は新しい世代には不要だ、とはちょっと思えないし。)

ウェブの進化によってリアルが不要になるのではなく(子供たちにとって特に)より重要になるのではないだろうか。

ただし、もしかしたら逆にウェブによってリアルに対する興味や接点が増すのではないかとも思っている 。

そう願いたいし、 そういう接点をウェブに編み込んでいくのが僕たちの世代の使命の一つかもしれない。




B122 『博士の本棚』


博士の本棚

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/国内純文学


久しぶりの本が好き!から。

『博士の愛した数式』の著者のものでどういう世界観に触れられるだろうかと思って読んでみた。

しかし、読んでみてよく分かったのは僕が「本が好き!」 というのが恥ずかしいぐらい本を読んでいないということ。

この本で最初に出てくる書名が『ファーブル昆虫記』なのだが、これは小学生2・3年のころに読んだ記憶がある。なかなかの出だしだと思ったら、そこから先読んだことのある本が全く出てこない。一冊も。(いや、これと並行して読んだ『ファインマンさん最後の授業』が唯一引っかかった)

何を隠そう、僕は小学校高学年から高校卒業まで本を読むことがどちらかというと嫌いだった、というより自分が影響されるのが怖くて避けていた。 (この期間で自発的に読んだのはマンガとミヒャエル・エンデの『モモ』ぐらいしか記憶にない)読書に関しては、まさしく大学デビューなのです。(それでも小説等はあんまり読んでませんが・・・)

そういうわけで、知らない本ばかりでなかなかチューニングが合わずに本書に没入できませんでした。

ですからここに収められた文章は皆、何の手がかりもない暗がりの中で、どうにかこうにか搾り出したものたちです。<あとがきより>

もし、同じ本を読んでいたらその搾り出したものに『そうそう!それを言ってほしかった』と共感することもあったのでしょうが、同じ本を読んでいない僕としてはその”搾り出した感”ばかりが目に付いてしまってうまくノレなかったと言うのが正直な感想です。

(個人的には『 何の手がかりもない暗がりの中で、どうにかこうにか搾り出した』というのは書いちゃいけないような気がします。そういうことを気付かれないように、というより逆に書くことの喜びに溢れているように書いて欲しかった。)

ノレれば凝縮された時間のようなものが浮かび上がって来そうな予感があっただけに、残念。波長が合う人には(波長が合う時期には)著者の目指しを共有できて気持ちの良い本なのかもしれません。(実際、他の評者の方は多くがそういう感じの好評価でした。)

うーん、とりあえず村上春樹の『中国行きのスロウ・ボート』でも読んでから再読してみようかなぁ。




問題。。

薩摩之風さんからの問題

【問題】

赤い帽子が4つ、白い帽子が3つの計7つから5つ選んで、A~Eの5人にかぶせた。

彼らは他の4人の帽子の色は見えるが、自分の帽子の色はわからない。

いま、5人に対して自分の帽子の色がわかる人は手を挙げろと言ったら、誰も手を上げなかった。

しかし、しばらくしてもう一度同じ質問をすると、何人かが手を上げた。

このとき手を上げたのは何人か?

そんなにパターンがないのでそれぞれ考えてみる。

1)赤0白5

白3までなので×

2)赤1白4

白3までなので×

3)赤2白3

赤かぶっている人から見えてる状況(以下(赤状)):赤1白3

>自分が赤だと分かるので1回目で挙手なので×

4)赤3白2

(赤状):赤2白2

(白状):赤3白1

5)赤4白1

(赤状):赤3白1

(白状):赤4白0

>自分が白だと分かるので1回目で挙手なので×

6)赤5白0

赤4までなので×

よって4)についてのみ考えればよい。

あれっ、いくつか可能性が残って、その中で白か赤どちらかのみが最終的な判断ができる。という流れかと思ったら一つしか残らなかった。

1回目挙手0人だとすると4)が確定。すると他の人をみると自分の帽子が 確定できるから、答えは全員挙手(5人)。(うーん、なんかすっきりしないから違うかも・・・)

赤白帽で有名どころを2題思い出しました。

【問題:4人の死刑囚】
4人の死刑囚がここにいます、その死刑囚達は幸運で
看守達のゲームに答えられれば死刑を無しにしてやろう、と言われました。
そのゲームとは自分の被っている帽子の色を当てるゲーム。

囚人A、B、C、Dの4人はある1つの部屋に入れられ
Aは図でいう左、その後ろ(図でいう右)に壁、そしてB・C・Dの順番で階段の用に右にいけば行くほど
高い位置に立つようになっています。さらに囚人達にはある5つのルールが課せられました。
※画像を見てください。

ルール1:帽子の色は赤か白のどちらかであり、数は2つずつの計4つである。
ルール2:全員は必ず前方(図で言うと青)の方向を向かなければならない。(画像だと矢印の方向。赤い方向は見れない。
ルール3:自分の帽子の色を『確信』した場合、必ず『合図』を出しなさい。
ルール4:『合図』以外の言葉は(「Bは何色だぜ」など)は決して発してはならない。
ルール5:『合図』は4人全員が聞こえるようになっている。

つまり、ルール2の決まりで、囚人CはBの帽子を、囚人DはBとCの帽子の色を見ることができる。
Aは何も見れない、Bは壁のみを見ることができる。

必ず死刑を免れることができるのはABCDのうち誰か?

※『合図』は「俺は○色だ!」などではなくただ単に「分かった!!」。

syuuzin.jpg

【問題:うそつき村】
旅人が分かれ道にやってきた。片方は正直村に、片方はうそつき村へと続いている。旅人は正直村に行きたいのだが、どっちが正直村なのかがわからない。そこに村人がやってきた。旅人はこの村人に一回だけ質問をして正直村に行く道を見つけだすにはなんと聞けばいいか?ただし、村人は正直村、うそつき村、どちらかの住人ではあるが、どちらの住人かわからない。また、正直村の住人は必ず正直な答えをし、うそつき村の住人はかならず嘘の答えをする。

答えは忘れましたが検索すればネット上にあります。
・・・となんだかネタの切れたさえない合コンみたいになってきました。(というか、その昔さえない合コンとやらで出されたネタですが。)別に解かなくていいですよー。

あーーーーー、また貴重な昼寝の時間が・・・




メタボザウルスは死んじゃいない(はぁ~~とかいってたら駄目やなぁ。)

9/27に解体予算が市議会を通過した都城市民会館。

その保存運動で走り回っているヒラカワさんの最新記事を読んで”はぁ~~とかいってたら駄目やねなぁ”と思いました。

この間のシンポジウムで彦坂氏の言葉に心を打たれたのも確かなのですが、実はそれよりもヒラカワさんの姿が印象的でした。

非常に厳しい現状の中、ヒラカワさんは絶えず笑顔で訴えかけていました。少し会場が重いムードになりかけていた中の最後のシメもとびきりの笑顔でした。

そんなヒラカワさんの姿を見ると、不思議と市民会館は残せるんじゃないだろうか、いや残そう!といった気持ちが沸いて来るのです。

それに比べて僕のこの前の記事はいけませんでした。ここでああいう記事を書くのは解体を認めたようなものだし、諦めムードを助長するものでしかありませんでした。言霊ではないですが、ああいうことを口に出していてはいい結果が得られるわけもありません。

ただ、これまでの体験を通して、運動は楽しくやることが必要だと考えます。そして、組織のための運動にならないように、あくまでも会館の保存が目的であり、みんなで楽しくやる運動が長続きするし、結果的によい結果をうむだろうとおもっています。

上意下達的な組織体も望みません。各人が自発的にアイデアを出し、それぞれが多彩に波状的にやる運動がベストです。そして、それぞれに協力できることをして楽しむ。ただ、好きなようにといっても、最低限のル-ルはあります。第一に、保存運動を体制批判に結び付けないということでしょう。わたしたちは市と市民の将来のために会館を保存したいと考えているわけであり、人とケンカすることが目的ではありません。第二に、人をあてにしないということです。やれることを考えて自分でやる。組織ができて、役員や幹部が決まると、なんとなく彼らがうまくリ-ドしてくれて、うまくやるだろうとまかせてしまいがちですが、そうすると、うまくいかないときに、そのことの不満を、彼らに抱くことになります。ひとの協力を求めることは重要ですが、あてにして、くだらない不満を抱くことは不幸なことです。そうなる前に、積極的に自分で動くことがいちばんです。(都城から建築をこめて『まだまだ続く市民会館』より)

ここから学べることはたくさんある気がします。

市民会館はまだ解体されていません。
最後の最後に都城はすばらしい決断をしてくれるはずです。
まだまだ市民会館は続きます。




B121 『ファインマンさん 最後の授業』

レナード ムロディナウ (著)

メディアファクトリー (2003/11)


チャビンさんのNoseGlassでかえる文庫したもの。

物理学の最前線という想像力の最も要求される場所の様子が垣間見れて面白かった。

ファインマンさんは著者との会話の中で「それで君は?」というように 自分自身がどう感じたかのかを何度も聞き返す。

そこにファインマンの自由さと創造性が垣間見える。

想像力(創造力)を要求される場では 、小さな雑音にもすぐにかき消されそうな内なる声を聞き取ることが求められる。ファインマンはそれを何事にも好奇心を持って楽しむスタイルとして確立している。(おそらく他の学者もそれぞれのスタイルがあるのだろう)

・・・これは全て自己満足だ。ファインマンの焦点は内側に向き、その内なる焦点のおかげで、自由になれたのだ。

ファインマンさんの何事も自由に楽しむスタンスを見て、『子どものための哲学対話』の『根が明るい人っていうのはね、いつも自分のなかでは遊んでいる人ってことだよ。・・・なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ』っていう一節を思い出した。

一方でファインマンさんは

個人的なレベルで自分自身を理解するなんて、どういう意味かも分からないね。よく、みんな、「自分がどういう人間か知るべきだ」なんて話してるのを聞くけど、何の話かさっぱりだ。

とも言う。

ファインマンさんの『内なる焦点』と今時のいわゆる『自分探し』、違いの決め手はどこにあるんだろう。

やっぱり内と外との違いだろうか、それともただ、結果を出せたかどうかの違いなのか。

あと、何より気になるのは、この本の途中のページにべったりとキスマークが付いてることと、裏表紙と背表紙にどうも図書館のバーコードを隠すような形で『リサイクル本』といういかにも手作りの紙が貼り付けられていること。こいつは僕の手元に来るまでどういう道をたどってきたんだろうか。