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B117 『藤森流 自然素材の使い方』

藤森 照信 (著), 大嶋 信道 (著), 柴田 真秀 (著), 内田 祥士 (著), 入江 雅昭 (著)

彰国社 (2005/09)

技術とは何だろうか。と考えさせられる。
藤森さんのやってること(技術)はその筋の人が見ればもしかしたら子供だましのようなことかもしれない。
だけれども、藤森さんは自分で考え手を動かす。
それによって近くに引き寄せられるものが確かにある。

藤森さんは自分のことを建築家というよりは職人だと位置づけているようだ。
専門化が進む中、技術に対して恐れを持たずに自分の頭や手に信用を寄せられるのはすごいことだと思う。
今の建築は気を抜けばすぐにカタログから選んだ工業製品の寄せ集めになってしまう。(その原因に技術に対する恐れが多分にあると思う)
工業製品を一つの素材と捉えて、そこに命を吹き込むこともできるだろうが、それを意識的に行うのは相当な腕がなければ難しい。

なんというか藤森さんにはコルビュジェと似た匂いを感じる。(きっと本人も自覚していると思う。)
コルビュジェが庭園を語りながら、建築が植物に飲み込まれるのを恐れて植物から距離をとった、というような分析があったが、 なんとなくそれに対するリベンジのような感覚じゃないだろうか。だけど、藤森さんのやってることはかなりギリギリのところだと思う。
自然と人工の関係を扱うには藤森さんのような濃さとバランス感覚がないと、あっという間に胡散臭いエセ自然になってしまう。
藤森さんの建物でさえ、そのまま屋久島なんかに持っていったら自然に飲み込まれて胡散臭いシロモノになってしまうのではないか。藤森VS屋久島是非対決を見てみたい




色気や愛着について

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縁があって屋久島の住宅を計画しています。

個人的にお手伝いをさせて頂くので現場監理がほとんどできません(離島&今はサラリーマンですので・・・)
その分、設計段階でどこまで検討し、どこまで図面化できるかが非常に重要になります。

今、平面が少しずつまとまりつつあるのですが、ここからどうやって飛躍するか。そこが問題。

色気・愛嬌・親しみやすさ・・・何といっても良いでしょうが、そういったある種性格のようなものを建物が獲得できるかどうか。それが、良い建築になれるかどうかの分かれ目だと最近強く思うようになりました。(それはデザインの強度と密接に関っていると思います。)
その色気のようなものが建物を単なる箱ではないものにし、ひいてはその建物に対する愛着・思い入れになり、その雰囲気が建物の佇まいとなり、潤いのある街並みをつくります。

では、どうすればそういった性格を獲得できるか。

何か一つ突出する欲求があり、そのためにそのほかの部分を引き算してでもその欲求を満たしたい、というような衝動を内包したもの。その結果、いびつなバランスとでも言うようなものを獲得したものはその可能性があるように思います。

しかし、そういったケースはまれで、むしろそういった欲求を持たないのが大半ではないでしょうか。(そういう欲求が必ず必要だとは思いません)
そうではない場合はどうやって獲得するか。

全体をまとめあげる一つのアイデアが浮かべば、それが獲得のきっかけにもなるでしょうし、光や素材の扱いを含めた各々の要素を全体を見ながら注意深くデザインしていくことでも獲得できるように思います。

さて、今回の計画。
派手ではありませんが獲得のための種を平面の中に仕込んであります。
決められたコストの範囲でそれをどうやって成長させるか。
(今回は現場監理ができないという制約もあります。)
断面や素材の扱い等いくつかのぼんやりとしたアイデアは浮かんでいますがそれをまとめあげるには検討の時間が必要。

じっくり取り組もうと思います。




under’s high

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少し前にMBCのどんかごで、たまたま見かけて気になっていたフリーペーパー『under’s high』
ひょんなきっかけから再び意識にのぼったのでもらってきました。

ちょうど打ち合わせ先の近くのTSUTAYAにあるようなので帰りに探してみるとなかなか見つからない。
本を買うわけでもなく、ただフリーペーパーをもらうだけなので忙しそうなレジの人にもなかなか聞けず、しばらくうろうろ探してもやっぱり見つからない。
もう品切れなのかなぁ、と思いつつレジがすいた時に意を決してレジのお姉さんに「すみません、フリーペーパーの・・」と言い掛けた瞬間、目の前のカウンターの上に見つかりました。

ちっちゃー。

ハンディサイズとは知らず、見逃してました。「すみませんフリーペーパーの・・・・これもらっても良いですか。」ときょどりながらごまかしてしまいました・・・。

さて、それは良いとして今回の特集はランドスケープ。

最近、建築はモニュメントではなくランドスケープに向かおうとしているように思います。

それは、建築の焦点が人間のアクティビティや関係性に向いてきたからで、まちを歩いているときにさまざまな活動や関係が立ち現れてくるような楽しさに目覚めたからのように思う。

単体の建築の中でもランドスケープ的な視点が注目されているのですが、そうでなくても個々の建築(外溝なんかも含めて)が豊かになればまちは活気付くと思います。

翻って、自分達の周りを見渡してみると、人の思いの見えない(人々の息遣いや関係性の豊かさも見えない)建物が増えつつあるように思いますがいかがでしょうか。

今の生活の多くはさまざまな関係性を無視することで成立している側面が強いですが、それによってつまらなくなっていることも多いと思います。

関係性を捨てるのが都市化の原動力だったかも知れないけれど、それに反するのではなく、関係性をデザインによって楽しさに結びつけることができれば、まちはきっと面白くなるだろうと思います。(SA・KURA・JIMAプロジェクトなんかそういう意味でもほんと面白かった)

そうそう、ちょっと恥ずかしい思いもしたハンディサイズですが、個人的にはこのちっちゃい感がけっこう好み。

模型も今は1:100でつくっているけど。同じ密度で1:200でつくりたいな、とか思ってしまいました。

とにかく、鹿児島を考える熱いフリーペーパーですので一度てにとってみてください。




探すよりは作り出す

たこ阪さんの記事『「やりたいことを見つける」ってどうよ?』を読んで。
やっぱり、何かに向かって突っ走って、才能もあってやりとげる、って人はなかにはいると思う。
でも、その人にしたって「やりたいこと」を探して見つけた、というのとはちょっと違う気がする。
どこかにやりたい「こと」ってしうシロモノがあって、それを見つけだせば幸せになれるというのは、チルチルミチル的な幻想ではないだろうか。

僕は「こと」はあくまで手段であって、代替可能なものだと思う。
こういう風に生きたい、というような目的があれば、「こと」はそれに適したものを選べばいいのであって、目的に適うのであればなんだっていい。
それを「こと」を見つければ結果もセットになってついてくると逆から考えるとおかしくなる。どんな手段を手にしても目的がいい加減だと結果の出しようがない。

最初に書いた突っ走る人っていうのは、本能的に目的を掴んでいて、それが人よりも突出していて、たまたま近くにあることを手段にしてしまっただけではないだろうか。他のことが近くにあったって何らかの結果を出したはずだ。

僕の今がやりたいことかと聞かれるとそんな気もするが、他にやりたいことはいくらでもあるし、探して見つけた訳でもない。
たまたま関わり始めたのが今の仕事で、それを手段として今まで続けてきた、と言うだけの話である。(といってもいい加減にやってるわけでは全くありませんから!)
「探していたものと違う」と言って捨てるような機会はいくらでもあったし、今だっていつ捨てたっておかしくない。だけども、手段にしてやろうと思っている。

うまく言えないけれど、どこかにあるものを「探して見つける」、と言うよりは手段を「つくりだす」という感じ。

そういえば前にも似たことを考えたことがあった。
ポストモダンの時代、目的そのものも絶対的なものを探すよりは仮説であっても自らデザインして生み出す(ようは、なんだっていい!)というような態度の方がうまく生きていける気がします。(誤解されそうな表現だけど)

P.S やっぱり誤解を受けてそう・・・。僕は建築が好きだし出会えたことは幸運だったと思います。
ただ、どんなことでもそうだろうけど、そう思えるまでに、「こんなはずじゃなかった。他の仕事のほうがいいんじゃないか。」ということは一度や二度ならずあるはずです。(建築なんて結構いぢめられます)
その度に、それは建築と言う「こと」が違ったからという判断をして違う「こと」を探していたらきっといつまでたっても何も得られないままだったと思う。
何かをモノにするには継続する意志が必要、て言うようなことを書きたいだけでした・・・。