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本を読もうぜ、ベイベー

薩摩川内市にある知性派たこ焼やさん(すばらしい!)からTB返しを頂いたのでさらにコメントしてみました。

短時間でさすがっ、ていう記事がアップされてました。
なにがさすがかって言うと、すかさず自分の言葉で意見が言えるところがさすが。(何が自分の意見かというのも難しいですが)レバレッジの記事がなるほどと思えます。
僕なんかはときどき人の言葉でごまかしてしまうところがあるので見習わなければ。

市場を透明な協調的談合主義化する、というのは理想としてはアリとは思うけど、じゃあだれがそれまでの既得権益を手放す? というところに現実感がないのも事実。特に鹿児島みたいなアンバランスなところに住んでるとどうしても・・・、ねぇ? 実際のところ、まだまだ人はビジョンよりも経済的利害(それも短期の)で動くのが大半ですから。

まさに”透明な協調的談合主義化”というあたりが僕の借り物のごまかしであったりするんだけど、上記引用はかなり実感として分かります。
ただ、”ビジョンよりも経済的利害”の中の”経済的利害”の意味合いだとかあり方をずらして”ビジョン≒個人的(共同体的)利害”という状態に近づけられる余地が鹿児島などの方が残されている気もするのです。(というか期待ですが・・・)

主流にはなれないかもしれないけれど、”なんかいいじゃん”というスタイルができるんじゃないかと。
さらに、そういうあり方のほうがグローバリズムの中では強度があるんではないかとも思います。(その強度を増すには『イチロー? 誰それ?』という価値観や感受性が必要でしょう)

せんだいの田舎で知性派のたこ焼屋というのはまさにこういう可能性に期待してるんじゃないかと密かに思ってますが、いかがでしょう。

『狭義の自己責任』っていうのは当然あると思います。
でも”自由が欲しくてフリーターになってみた”つもりが、”あれっ、別に自由なんかいらなかったぞ”って気づく事も往々にしてあると思う。そして、それが命取りになることも。
『自己責任』があるってことを知らずに『自己責任』に関わる選択をしてしまってることが問題なんだろうなぁ。

だから、借り物の言葉を声を大にして言います。
本を読もうぜ、ベイベー

個人的には『イチロー? 誰それ?』っていうのにすごい憧れるんですが、相方に”しっかりしてよ”と突っ込まれるのが怖くて僕にはなれないかも。弱いなぁ。




ドメイン取得!

屋号も変えて、しばらくはオノケンでいこうかという気になったので思い切ってドメインを取得しました。
取得したドメインはonoken-web.com です。

onoken.comのドメインが空いてなかったのでonoken-web.comとしました。
いくつかの候補の中で、これが語呂合わせが良いように思ったのは”OK Wave“に音が似てたからだと今気づきました。
ブックマーク・リンクされてる方はお手数ですがアドレス変更お願いします。
(ブログをFC2から移転するかどうかはあまりにも手間がかかるためどうしようか思案中です。)




B113 『天才をプロデュース?』

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/ルポルタージュ


「本がすき!」より。
オフィス北野の社長であり、長年、北野武(ビートたけし)と歩いてきた著者によるプロデュース論。いわゆるHOWTO本というよりは著者自身の体験をもとに仕事に関する考えを書いたもので、それをどう読んで生かすかは読者次第といった内容。

僕が中学生のころだったと思うが、たしか1代目そのまんま東が「たけしさんはどんなに酔っ払った時でも、周りのみんなが寝てしまった後、毎日欠かさず一人で机に向かって勉強をしていた。それを見てこの人は本当にすごい人だ。かなわないと思った。」というような話をしているのを聞いたことがある。
この本でも同じようなエピソードが紹介されていて思い出したのだが、この話は結構僕の心に残り続けていて、何かをなそうとしたとき苦労とかそういうことじゃなくて、当たり前のこととしての努力があるということを知ったのはそのときだし、漠然と”プロフェッショナル”という言葉に憧れを持つようになったのは今思えばこの話がきっかけだったのかもしれない。
それ以降、僕の中では今で言うとビートたけしよりも北野武という見方が強くなった気がする。

そんな北野武の近くでプロとしての姿勢を学んだ著者の話は示唆に富むものばかりだが、大切なのはつまるところ自分自身をプロデュースできるか、という点に尽きるのではないだろうか。

「天才とは99%の努力が問題ではなく、1%の才能のことを言うのだ」というたけしさんの言葉と同じで、やれば出来る、なんていう嘘をついちゃいけません。-中略ー本当にやっている人は、やれば出来るなんて思っていません。やっても出来ないことがこれだけあるということを知った上で、限られた時間の中で自分がやるべきこととは何かを知っています。それが客観性というものであり、それを分かっている人が天才と呼ばれるのでしょう。(あとがきにかえて~「やればできる」の嘘より)

北野武にしてもイチローにしても天才と呼ばれる人はプロに徹し、やるべきことを淡々とやる。自らをプロデュースする能力が人並みはずれているのだ。ナカタにしても自分の人生をプロデュースすることに徹し、あれほど才能に恵まれたサッカーを一つの手段でしかないと捉えられるのがすごい。

プロフェッショナルでありたい。そう思える良著でした。
(当然、北野武の最新作のプロモーションも兼ねてのこのタイミング、というのがしたたか。著者の狙い通り観たくなりました。)




建築基準法 改正

6月20日に改正建築基準法が施行されました。
耐震偽装問題の影響で立場が性善説から性悪説に変わった改正と言われ、建築士には相当の負荷がかかる厳しいものです。(以下愚痴です)

構造に関しては基準の見直し、中間検査の実施、ピアチェック(他の構造設計者が行政から委託を受けチェックを行う)の導入というのが大まかな変更で、ある意味仕方ないのかなというところもあります。
しかし、中間検査やピアチェックの手数料は上乗せされるので施主にはウン十万円の出費増になり、その分設計料などが圧迫されるのは必至。

また、確認申請の途中で図面の差し替えは認めない、不整合があるものは再度申請しなおさなければならない(当然手数料が新たに必要)ため、申請前に相当のチェック期間が必要。申請書類の内容が増え手間も増える。確認にかかる期間が長くなったのでその分設計期間が圧迫される。
といったことは、全て設計者(及び施主)に負荷がかかることです。現場を知らない人が作ってるとしか思えません。

改正に伴い、無駄と思われる大量の書類や法律を整理してくれればまだ納得もいったのですが、そういったことはありません。ただお役所が責任がとりたくはないためにひたすらに無駄な書類がふえるばかり。

雑用に忙殺され、本当に必要な検討の時間や費用が奪われるとすれば本末転倒ではないでしょうか。姉歯事件では設計サイドの悲惨な現状が事件の原因の一つとして浮き彫りになったんじゃなかったんですかね。

いやぁ今日は単なる愚痴です・・・建築基準法には納得のいかないものが他にもたくさんありますが・・・。

こんな横暴な法律がほんとうに施行されるのかちょっと信じられなかったのですが、どうも本当に施行されたようです。それにしても6月20日施行の法律の最終内容が公表されたのが6月19日の官報というのはめちゃくちゃ過ぎませんかねぇ。

とにかく、施行されたからにはそれに対応するしかありません。大量の資料に目を通すしか完全に理解することはできそうにないなぁ。『建築知識』ではやく特集してくれ~。

(ちなみに国土交通省の関連ページはここ。ここにたどり着くのも大変で、行政のサイトはどこも、どれが重要で何が最新の情報なのかがさっぱり分かりません。相応のコストをかけて作ってるだろうに)




A-RELEASE 改め オノケン

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このたび架空事務署名をA-RELEASE BUILDINGWORKSHOP 改めオノケン としました。

あわせてこのブログはオノケンノートとタイトルを変えます。

5年ほど前、鹿児島に戻ってきてホームページを作り始めたときにとりあえず何か名前を決めないとと思って”ONOKEN”とつけました。太田則宏建築事務所の略です。(断じてシンケンさんのパクリでもたるけんさんのパクリでもありません。当時は両者とも知らなかったですからー)

その後何度か変えたのですが、分かりやすく憶えやすいほうがいいだろうと言うことで、このたびカタカナのオノケンに変えることにしました。

ロゴ等はぼちぼち考えて行きます。

ということで今後ともよろしくお願いします。




B112 『ル・コルビュジエ建築の詩―12の住宅の空間構成』

富永 譲
鹿島出版会(2003/06)

またまたコルビュジェ。
またまた溜息が出ます。
あ゛ーとかう゛ーとか言いながら読んでいたので妻はさぞかし気味が悪かっただろう。
象設計集団のときも同じように溜息が出たけど、あー豊かだなぁと感じるわけです。
コルビュジェ、吉阪隆正、象設計集団
という溜息の連鎖に、藤森照信が紹介する住宅を加えて、なぜそれらを見ると溜息が出るのかを考えてみると、そこには関わった人の顔が見える気がします。

鹿児島市などの地方都市で特に顕著だと思うのですが、街を歩きながら建物を見ても、そこに見えるのはメーカーやディベロッパーの顔だったり、工場のラインや収支計算書の数字だけしか見えてこない、つまりはその奥に”金”しか見えてこない建物ばかりになりつつあります。
それに関わっている人間の顔が見えてこないのですね。
こんな建物だけで埋め尽くされた街で子供が育つと考えただけでぞっとします。

だけど、先に挙げた溜息建築には使う人の生き生きとした顔だけでなく、設計者がアイデアを思いついたときの少年のように喜ぶ顔まで思い浮かびます。
そんな生き生きとした建物があふれる街のほうが楽しそうだと思いませんか?

あとがきで著者が

具体的な物のキラメキに出会えるような批評、読み込んでいくと、すぐに新たな設計の筆をとりたくなるような研究。本書がそんな類のものになっているかどうかは分からない。

と書いているけど、そんな心配は無用。コルビュジェの作品そのものにそんな建築少年の心を呼び戻す力がある。
ある意味、そんな建築少年、建築オジサンを生み出しているという意味ではコルビュジェは罪な人ですが。

本書を読んで浮かび上がってくるのは、多様な軸、多様な要素、多様な欲求・・・多様なものを重ね合わせ、関連付け、秩序付ける力とそこから飛び出そうとする力が均衡するコルビュジェの建築であり、そこには一つの視点からでは捉えきれない奥行き・多様性がある。
それは、コルビュジェ自身の持つ奥行き・多様性であるし、それがそのまま建築に表れているから、そこにコルビュジェの魅力を感じ取り僕は思春期の少年のように溜息が出てしまうのだ。
あー、こんなにもわくわくしたんだろうなぁ、と。




再・々・宣言!


boot ○ampの通販番組をはじめてみた時、あぁ、なんかダメ。と思った。

THE☆アメリカ。みんな妙に生き生きしながら同じ動きをしている。やっぱりダメ、ウケツケマセン。

こんなの日本じゃ流行るワケナイヨ。これがスキって言う人がいたら日本人ジャナイネ。とまで思っていたら、いるじゃないですか、アメリカンな人が。
僕の隣に。

(妻が面白いの見つけた、と嬉しそうに教えてくれたので、もしやと思えばまさにboot c○mpでした。)

おまけにかなり流行っているそう。
どうなってんだ。

どうだと言わんばかりの不自然なムキムキがいや。洗脳されちゃったような不自然な笑顔がイヤ。自分の体も力ずくで変えてしまえと言う不自然な健康志向が嫌。

僕のイメージとしては”自然の中で生き抜く民が自然に身につけた自然な健康体”、しなやかで謙虚な身体(まさに自然体)が理想なのだ。
しかし、現実は”不自然な都市生活の中での不自然な不健康体”で”ぶよぶよの尊大な肉体”。
やばい。なんとかせねば。

boo○ campの映像を何度も見てるうちに、なんだか楽しそうに見えてきた。相方と一緒にやるか・・・アメリカ的”不自然な健康志向”を拒絶するのもこれまでか・・・・・

と思っていたら、ナイスな考えが浮かんできました。

それは、これまで2度挫折しているチャリンコ通勤を再開すること。

1度目はチャリンコがパンクして挫折。
2度目は急にはりきり過ぎて膝が痛くなって挫折。

しかし、今は息子を風呂に入れるため、いつもより2時間ほど早く通勤しています。朝はそんなに暑くないし、えっちらほっちらゆっくりこいでも遅刻する心配はありません。チャリンコ通勤にはもってこいじゃないですか。

と言うことで、またかと言う感じですが、チャリンコ通勤復活をここに再・々・宣言いたします!

スタートは妻が近々b○ot campを手に入れるようなので、手に入ってから。僕はチャリ通、妻はbo○t camp。どちらが続くか、どちらが効果が出るか勝負です。(僕の予想では妻は2,3日しかもたないでしょう。ふふふ)

今回の勝負、僕の個人的な問題ではなくなって来ました。
日本人がアメリカ的価値観に屈服することなく謙虚な心を持ち続けることができるかどうか。今後の日本の行く末を占うような重大な勝負になりそうです。

頑張らねば。

P.S 本当はやりたくて(楽しそう)うずうずしてるんですが、 僕は負けません。




B111 『生きさせろ! 難民化する若者たち』

Amazonで購入
livedoor BOOKS
書評/社会・政治


「本が好き!」より。
若者の不安定な労働環境を伝えながら『生きさせろ!』というのが如何にリアルで深刻な問題であるかを訴える。
日本が目指してきた社会の歪がすでに『生きさせろ!』という生存権を主張しなくてはならないところにまで来ている。

著者と同じ歳で、東京と鹿児島で派遣のバイトもしていた僕としてはかなりリアルに感じられる内容である。知っている人は知っているが、一歩間違っていれば僕だって負の連鎖に巻き込まれて這い上がれなくなるかもしれないという割とギリギリの位置にいたのだ。
だから、本著で紹介されている気付けば全く身動きの取れないところに落ちてしまっていた、というような事例は、その過程がかなりリアルに想像できてしまう。

いくら働いても生存ギリギリの収入しか得られず、風邪などのちょっとしたきっかけでホームレスに転落してしまうようなフリーター、過労死をいつするかわからない程働かされても何も言えないような正社員。
彼らは根性がないわけでも、怠けているわけでもない。
ただ、たまたま社会や企業の都合の良いところにはめられてしまっただけなのだが、それらが『甘い』とか『自己責任』といった言葉でかたずけられてしまうのがこの問題の一番厄介なところである。(本当に『甘く』なれないからこそ、過酷な条件に耐えてでも働いてしまう。『自己責任』という言葉はフリーター批判者の自己肯定の道具にもなるし、フリーター自信が問題を内面化し、自らをさらに追い込んでしまう原因ともなる。)

具体的なことは本著や類似書をあたって欲しいが、これらの問題は個人的な問題ではなく社会の構造の問題だということをはっきりしなくてはならない。
”派遣”という労働形態が”解禁”になったのはつい最近のことであるし、95年の日経連では労働者を①正社員②契約社員③フリーターに分類してそれらをうまく使いなさいというようなことを提言している。また、最近のホワイトカラーエグゼプションの議論は記憶に新しい。
ようはグローバル化した社会を勝ち抜くために、若い労働力を安く使い捨てにするというのは国をあげての政策であり、3割とも4割とも言われている非正規で使い捨てにされる労働者には、根性があろうがなかろうが、あなたの変わりに誰かがなってしまうということである。

『戦後最大の利益』なんてのは単に若者を使い捨てにした結果であって、”利益”を喜んだり、グローバル経済の恩恵を受けながらフリーターを批判するのは矛盾以外の何ものでもない。

それでは、僕らに何が出来るのだろうか。

月並みではあるがやはり、現状を知ることからはじめるしかないのではないだろうか。
前回読んだ本で宮台真司が日本人は”ゲーム盤”(自分が所属する社会のたとえば環境やルールなど)を意識するのが苦手、と指摘していたが”ゲーム盤”が今どのようなものであるかを知り、ゲームのルールを自分たちで変えていくんだ、という意識を持つことが大切である。
本著で”プレカリアート(不安定を強いられた人々)”という言葉が紹介されている。生きていくのに絶えず不安に曝され続けなくてはならないゲーム盤がすばらしいとはとても思えない。

皆がおかしいと思い少しずつでも声を上げれば少しずつでも変わっていくだろうし、現に民主党などはそういう雰囲気を感じ取って(小泉政権からの)ネオリベ的な自民党に対抗するような軸を設定し始めたようにも見える。

もう一度いう。これらの問題は『自己責任』といった個人レベルの問題ではなく、グローバリズムを背景とした社会の構造的な問題である。
『自己責任』という安易な言葉に逃げずに自分が、もしくは自分の子供が同じ状況に追い込まれたらという想像力のもと、一度彼らの現状に向き合ってみて欲しい。そして、自分たちの問題としてどのようなゲーム盤であって欲しいのか考えてみて欲しい。

また、本著は子供を持つ親や、今まさにフリーターであるという方たちにも読んで頂きたい。いざと言う時に自分を守ってくれる法律や方法、そして「もやい」や「フリーター全般労働組合」といった一緒に行動してくれるところも紹介されていて、それらを知っているだけでも不安は軽減されるだろうから。

新自由主義(ネオリベラリズム)とか現代の自由主義(ニューリベラリズム)とかややこしいですね。

wikipediaより
□新自由主義(ネオリベラリズム)
□現代の自由主義(ニューリベラリズム)
□コーポラティズム

よって、リベラリズムは自己決定を推奨し、国家による富の再配分または地域社会による相互扶助を肯定する。すなわち、市場原理主義では大企業が利益を最大化する一連の行為のために、失業問題や構造的貧困や環境問題など様々な弊害・社会問題が生じ、それは古典的自由主義の意図に反して人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、古典的自由主義を修正する思想である。

というようにネオリベを修正した現代の自由主義というのもあるようですね。(ますます混乱。)
ちなみに、宮台氏は『ネオリベ的な市場万能主義は誤りで、市場を(透明な)コーポラティズム(協調的談合主義)的に制約すべき』としています。

こういうのが一般教養としてもっと広まって、例えば『前回はネオリベ的小泉に期待したけど、どうもうまくないみたいだからどこかもっとコーポラティズムよりの政策を打ち出すところがあればそこに入れよう!』とかいう会話が普通に聞かれるようになってもいいのかもしれない。(それが民度が高いってことか。)

6/28追伸
おたこはんさんが言われるように身近な範囲でコミュニケーションの機会をつくって他の世界へのリンクの可能性を担保するのは必要かもしれない。