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W021『マミィクリニック伊集院』


□所在地:鹿児島県鹿児島市
□設計:有馬裕之+アーバンフォース
□用途:診療所
□竣工年:2004年

4月の26日に義弟の奥さんがここで赤ちゃんを産んだので早速お見舞い(見学?)にいってきました。
前回の鹿児島市建築文化賞受賞作なのですが、有馬さんは全国区で活躍されている方。ずるいなぁ、と思っていたら鹿児島出身なのですね。
建築文化賞も受賞メンバーがある程度決まってきた感があるので刺激になっていいのかもしれません。

助産院やカフェ・スタジオ・エステといった施設が付随していてトータルにサポートする方針のようです。

まさに白いモダニズム正統派という感じの建物ですがやっぱりうまいですね。
構造体を感じさせ軽快な白い建物が光に溶け込むように作られていて、非常に開放的な気持ちになります。

内装はともかく外装に関しては建物完成時が一番美しく、後は汚れるだけというのは否定できないと思いますが、クリニックとしての清潔感を優先させたということでしょう。今後長い期間どういうかたちで街に存在するのか気になります。

物質感を感じさせないぬけのある建築はやっぱり魅力的と思ってしまいました。

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B105 『ヒット商品を最初に買う人たち』

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書評/ビジネス


イノベータ理論に的を絞ったシンプルで解りやすいマーケティングの入門書。

ヴォリュームは少なめでさっと読めるし具体的な事例も載っているので著者が『『初心者にもわかりやすく」「それでいて中級者にも読むに耐える」本を目指した』と書いているとおり、ほんとの入門者がイノベータ理論のざっとしたイメージを掴んだり、中級者がそのイメージを固めたりするのには良い本だと思う。

イノベータ理論では消費者を「イノベータ」「アーリーアダプタ」「フォロワー」の3つのグループに分類するのだが、その中で最初に商品を買うのが「イノベータ」で彼らは、他人の意見を気にせず自分なりの判断基準を持ちよいものであれば新しいものでも積極的に手を出す。
それらを横目で見て真似をするのが「アーリーアダプタ」。商品が定着してから行動するのが慎重派の「フォロワー」。(それぞれの人口比率は「イノベータ」10~12%、「アーリーアダプタ」15~35%、「フォロワー」60~70%と言われている)

商品がそれらのグループに順に波及していくのをイメージすると物理の波動実験を見ているようで面白い。

そして、そのようにインーベータから順に戦略的に波及させようというのが「スキミング戦略」であり、本書の中心テーマである。(スキミング戦略は市場の上澄み(sikm)であるイノベータをまず捕らえることからきている。)

ここで思ったのだが、この本を献本して頂いた「本が好き!」プロジェクトは「あなたの書評からヒットが生まれる」というキャッチフレーズのとおり、まさにこの「スキミング戦略」を実行しているのではないだろうか。
そうなれば、僕らの役割はイノベータということになるから、自分の判断基準に忠実に書評を書くことが役割になろう。(この本でもヤラセのイノベータが発覚して問題になった例が取り上げられている。)

さて、例えば一品生産の仕事に近い建築設計事務所でこの理論は適用できるだろうか。

そのまま適用できるかは分からないが、自らの技術を商品と考えたとき、安易に大多数である「フォロワー」のウケを狙うのではなく、価値基準を持つ「イノベータ」に受け入れるだけの技術や価値を提供できることが大切ということだろうと思う。
あたり前の結論だけど。

その他イノベータ理論の周辺の「プロダクトライフサイクル」「プロダクトコーン理論(規格・ベネフィット・エッセンス)」「ペネトレーション戦略」「ゲームのルールを変える(従来型イノベータ・革新型イノベータ)」「ダブルイノベータ構造」といったキーワードにも触れられていて参考になります。




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前々からやってみたかったんだけどもGW前に気が向いたので。
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B104 『シラス物語―二十一世紀の民家をつくる』

袖山 研一 (監修)
農山漁村文化協会 (2005/2/1)

鹿児島県工業技術センター袖山氏監修による丸ごと一冊シラスな本。
(株)高千穂のシラス壁とOMソーラーを使った住宅の多くの事例をもとにシラスの魅力が紹介されていて、高千穂&OMソーラーの宣伝本という色合いがないではないが、よくある宣伝本とは一線を画したなかなかの良書である。

シラスの歴史やその他の最新技術の紹介など、シラスが多面的に語られていて、鹿児島に住みながら恥ずかしくも知らなかったことばかり。最近は鹿児島の石文化にも興味が出てきたのでとても面白く読めた。

また、関係者の語る言葉には思想や哲学を感じることができる。良くある宣伝本のようにまず商品ありきでそこに無理やり思想らしきものをくっつけるのではなく、まず思想や熱い思いがあってそれを実現するための技術であることが良く分かる。
そういうものは信頼できる。

宣伝に加担しようと言うのではないが、シラス壁の機能は次のとおり。

  • 調湿機能があり、湿度50%を境に吸湿、放湿をするために、カビや結露が出ない。
  • 消臭作用があり、たばこのにおいやペットのアンモニア臭を、2時間でほぼ消してしまう能力がある。さらにシラス壁以外の壁材床材に含まれるシックハウスの原因のホルムアルデヒドまで消臭する。
  • マイナスイオンを放出し、疲労軽減やリラックス効果が見込める。
  • 抗菌性、抗カビ性により、室内の空気を正常化する。
  • シラスは不燃で多孔質であり、熱の伝導率も低く、したがって耐火・断熱性能がある。また、吸音性にも優れている。

他にも自然素材100%で質感がよく施工性やコストパフォーマンスに優れていると言うメリットがある。

これを踏まえてなお、僕が強調したいのは、こういう素材には『時間』を受入れる許容力があると言うことだ。

以前なにかの本で、時代と共に時間の質が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」と移り変わってきたと読んだことがある。
これはなんとなく実感として分かるし、本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだと思う。(これについては別に以前書いた
しかし、身の周りの多くの環境から「農業の時間」は失われていっているように思う。
身の周りから自然そのものが減少しているし、建物は内外ともお手軽な新建材で覆われている。
環境が「機械の時間」「電子の時間」で埋め尽くされれば生活にゆとりを感じられなくなるのは当然だろう。(Michael Endeの『モモ』を思い出す)

新建材でできたものの多くはは時間を受入れる許容力はない。ツルツルとメンテナンスフリーを謳ったものに感じる時間はあくせくと動く社会の「機械の時間」を体現しているし、そこにそれ以上の時間の深みというものが感じられないのだ。

単にブームやキャッチフレーズとしての自然素材には胡散臭さも付きまとうが、自然のキメを持ち時間と共に変化する素材は「自然の時間」が宿っていて人間との親和性が良いはずである。
それはフラクタルやアフォーダンスと言った理論からも説明できる。

自然の原理によってできたテクスチャーを心地よいと感じるように人間のDNAに刻まれていると考えることはそれほど無理のある考えではないだろう。
また、汚れると言うと印象が悪いが、「材料に風化し、時間を表現する機能がある」と言うように捉えなおすと、新建材に覆われ、時間の深みを表現できない街並みはなんとも薄っぺらに見えてくるのである。

OMソーラーも紹介されているので、欲張ってさらに述べると、この技術は人間と環境との橋渡しとなるうまいバランスを持っていると思う。
すべてを機械任せにするのではなく、環境に関る余地が残っている。その余地が生きることのリアリティへと変わると思うのだ。




B103 『YES、YOU CAN Ver.2.0 (2)』

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本が好き!プロジェクト6冊目。

「元祖・カリスマ美容師」山野愛子の長男であり山野美容専門学校の理事長である著者がアメリカで過ごした波乱万丈の青春時代を振り返りながら若い人へ向けてエールを贈る。

18歳の時に単身アメリカへ渡り、様々な苦労を経て成功を掴むのだが、正直スタートラインから恵まれた環境であったことは間違いない。誰もが同じ時代に同じようなことができたか、というとそうではないだろう。経済的にというよりはむしろ、目標となる人間や肝心なところで先を示してくれる人間が身近にいたという点で。

しかし、同じような環境であれば誰でも同じような結果が得られたかというと、それも否である。
最初は読みながら、「自慢かいっ!」と突っ込みたくなることもしばしばだったけれども、読み進めていくうちにまっすぐな著者の思いに惹きこまれていく。著者のようなまっすぐさがあったからこそ成功できたのだろうし、自慢話のようなことも著者のまっすぐな思いの表れだと思うと違和感はなくなった。

本著のタイトルの元になったのだろうが、単身アメリカへ渡って最初のつらい時期に「YES,I CAN.(俺ならできる)」と自分に言い聞かせたそうだ。未来を切り開けるかどうかは最終的には自分をどこまで信じることができるかで決まると思う。
著者は、いつも「思えば叶う」と言いそれを実際に自分の身で示してきた山野愛子の姿を見てきたからこそ自分を信じ前に向かって突き進むことができたのだろう。そういう意味では、そういう親の元に生まれてきたのはやはり幸運なことだ。

本書で村上龍の「親になったとき、子どもにしてやれる最大の贈り物は、自分が好きなことをやって生活している姿を見せることである」という言葉を引用していたが、僕もそれが将来子どもにとって何にも変えがたい力になると信じている。にも書いたが、自分の親はまさにそういう姿を僕に示してくれた。今度は自分の番である。少し勇気をもらった。

僕はアメリカ的な成功というのを単純には信じることができない。(その裏側も忘れてはならないと思うから。)だけども、本著で書かれたさまざまなアドバイスは著者の実感や信念から出ているもので素直に受け入れられるものであったと思う。そして僕に不足している点もいくつか気付かせてくれた。今、まさに社会に出ようとしている人、そして身の周りに本当に尊敬できる人がいないという人は是非本著を素直な気持ちで読んでみて欲しい。そうすれば、きっと「YES,YOU CAN.」というメッセージが理屈ではなく勇気をもらえるというかたちで届くと思うから。著者は自分が受けた恩・幸運を返すつもりで、若い人の将来と真剣に向き合いながら教育に携わり、学生に対して万全のサポート体制を敷いている。
本著を読みながら、彼の学校から、将来への希望と勇気という何にも変えがたいものを胸に社会へ出はばたいていく若者の姿が思い浮かぶようであった。その姿は「どうせ生きるからには、明るく楽しく美しく生きたいんです。暗い顔をしてしょぼしょぼ生きているより、胸を張って堂々とね。そしてみんなから喜ばれ、感謝され、好意を持って迎えられるとしたら、思っただけで楽しいし、そうあるべきなんです。」という山野愛子そのものである。(少しそういう子どもが羨ましかったりして)山野愛子について書かれたものを読んでみたくなりました。
(ところで、表紙の写真とタイトルのver2.0の意味が分からなかったです)




DVD 『博士の愛した数式』

博士の愛した数式 寺尾聰、小川洋子 他 (2006/07/07)
角川エンタテインメント


週末にDVDを借りてきてよく観るのだけど、映画についてコメントするのはどうも苦手。
そんななか、これはちょっと感想を書いておきたい映画だった。

”数式を愛する”っていうのをテーマにどう描くのだろうかと、前から気になっていたのだけど思ってた以上に良く描かれていて、まったく嫌味なく数の神秘を感じさせてくれます。

数字という記号そのものは人間の使う道具の一つに過ぎないのかもしれないけど、その道具を通して見えるのは自然であり宇宙の仕組みである。
それは浅はかな人間の考えをはるかに超えて、寛容に全てを包み込むように存在している。
博士が包み込むような優しさを持っているのはそのためで、きっと数式を通してまっすぐに真理を見つめているのだ。

建築でも古代のオーダーからコルビュジェのモデュロールとその多くの歴史は数字に魅せられて来たと言ってもいい。
それによって、建築の中に自然の寛大さを得ようとしてきたのだと思う。

自然のエッセンスを獲得しているものに触れると、私たちの中のDNAに刻まれた自然のかけらが共鳴する。
自然のかけらを鳴らす技術を磨かないといけない、と改めて感じたのだが、そういうエッセンスを見事に表現した映画でした。

他にもオートポイエーシスやその他生物システム論などヒントになる気がする。アフォーダンスの佐々木正人氏は精力的にデザイン関連の本を書いている。面白そう。




B102 『ごきげん朝ごはん』

  • 著:山崎 佳
  • 出版社:講談社
  • 定価:1260円

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本が好き!プロジェクト5冊目。
うーん、まいった。
書評を書く前に同じ本について他の人が書いた書評を読むかどうかいつも迷うのだけど、今回はついつい覘いてしまった。
そこには

ただしレシピを期待するには物足りない、エッセイとして読むなら生活感がなくて気取った感じがする、そんな内容でした。

と書かれていたのですが、全く同感。うーん、これ以上端的に感じたことを書けそうにありません。
ということで、全体的な印象としては上記引用の指摘のように料理とエッセイ、どちらもどっちつかずで物足りない感じがしたのですが、それで書評を終わるわけにもいきません。
もう少し著者が何を感じているのだろうか、と著者の思いに近づこうとしましたが、そこで見えてきたのは僕は感覚的にオジサンなんだなぁということ。

この本を申し込んだときに期待したのはわくわくするようなアイデアのレシピや料理が踊るような鮮やかな写真、ふと心温まるような深みのあるストーリーなどなど、だったのですが、この本にはそういうオジサンの期待するようなものが期待するような形では全くのっていないのです。

そこにあるのはありきたりのレシピとどこかピントのぼけた写真、女の子を演じるために借りてきたような軽い言葉、そしてそれらをひっくるめた個人的に閉じた世界。
本人は意味を求めてるのかもしれませんが、その根には、深さや意味に絡めとられて大人の仲間入りすることを拒んでいるような、若さによる抵抗を感じます。

それに違和感を感じかけてるあたりやっぱりオジサンなんだなぁと。
ちょっと頑張って余計なものを振り落とし、「これでいいじゃん」と軽い気持ちになれたならこの本の『ごきげん』に少しだけ近づける気がしました。

毎日を瑞々しく生きる女の子と、近頃理屈っぽくなったなぁと思うおじさんに。

著者のHPの方が雰囲気がでてるかも。




NATUKI TO AKUMA









昔のMOの中から、SHADEという3Dソフトの練習ファイルが見つかって、その中に懐かしいものがあった。このころ友達の誕生日に冗談で絵本をつくって送ってたんだけど、その中のひとつ。東京にいるころで仕事もそれなりに忙しかったはずなのに、よくこんな暇があったなぁ・・・
(上のボタンで絵が切り替わります。)




B101 『働く女性のための「こころのサプリメント」』

  • 著:ピースマインド(編)
  • 出版社:マガジンハウス
  • 定価:1260円

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ピースマインドという国内最大規模の民間カウンセリング機関があるそうだが、この本はそこに寄せられた相談のうち20~40代のケースを中心に3人のカウンセラーが書いた日経新聞のコラム「こころのサプリメント」を再編集したもの。

相談者とカウンセラーのQ&Aというかたちで136の相談が取り上げられているが、それら一つ一つが見開きにゆったりと収まっているのでさっと気楽に読める。

”子育て”という仕事に奮闘中で、やがて働くかもしれない妻のために、と思って「本が好き!」に申しこんだのだが、恋愛のパートを除けば、どっちかというと僕向けだったかもしれない。

というのも、ここんところ疲れやすく、なんとなく冴えない感じも続いていて漠然と何かを「変えなきゃなぁ」と思っているところだったから。(この本のプチうつチェックでも「お疲れ度80憂うつ型」と判定されたし、妻にあなたは性格的に欝だといわれた)

かと言ってなんとなく冴えないところに押し付けがましいのは御免なので、この本ぐらいの軽さがちょうど良かった。

そう、装丁も含めまさに「サプリメント」ぐらいの軽さがちょうど良かったのだ。
136のサプリの中から自分に合いそうなのを2,3個選び、常に携帯してしておいて気が向いたときにちょっと実践して頭を切り替えてみる。
そういうサプリメントのような気楽さがこういう「自分をちょっと変える」道具には必要なのかもしれない。(効果があっても実践しなければ意味がない。)

個人的なことだが、大学を出て東京に行くときに、大学のアパートは溜まり場で結構遊んだから、しばらくは勉強に集中するために孤独になろうと決めて上京した。
その影響が鹿児島に帰ってきた今もずるずるとどこかしら残っている感じだ。
この本にも『人によっては、気づかないうちに消極的な行動が癖になっていく場合も少なくありません』とあるように、東京での仮の姿のつもりでいた消極性がいつしか癖になったのかもしれない。
その上、それが「仮の姿」だと思っているので気持ちが冴えない。
うつっぽいのもまんざらではないのだが、そろそろ「仮の姿」という言い訳もやめにしようと思っているので少しずつ変えていこうと思う。手始めに、明日はいくつかの「サプリメント」を心の片隅にしまって出かけてみよう。




あ゛--っ!

ようやく100冊まであと一冊にせまりました!と思ったら『B078』番が2つあるではないか。

番号を振りなおすと・・・・あっ、100冊いってた。

・・・・節目の100冊目は雑誌『旅』に。

人生とは旅であり、旅とは人生である。
俺が『サッカー』という旅に出てからおよそ20年の月日が経った。
8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅から・・・

・・・違うか。

思えば1997年の酒鬼薔薇事件から10年。その間、自分に、建築に何が出来るだろうかと考えて続けてきたけれども、この100冊で何をつかめただろう?

これからは案を考えながらこれらの断片をつなげる作業をしていこう。
読書もぼちぼち続けますが。




B100 『旅 2007年 05月号』

  • 著:「旅」編集部
  • 出版社:新潮社
  • 定価:700円

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本が好き!プロジェクト3冊目。
旅雑誌のローマ特集であります。

僕が海外に行ったのは学生の頃、建築旅行でヨーロッパにいった時のみ。そのときはローマにも2泊して「地球の歩き方」を片手に早朝から夜真っ暗になるまで歩きに歩いたのを思い出します。
そのときは朝市や蚤の市にも行きたいと思いながら観光名所を巡るのに精一杯で行けずじまい。

この雑誌ではそういう観光名所はほどほどにして、グルメやショッピングにおしゃれにプチホテルと、ローマを等身大に楽しむための情報が満載です。
ただ、個人的には旅行者もしくは旅行者相手の視点を出来るだけ排除した、生活者により近い視点で書かれた旅雑誌を勝手に期待していたのでそういう意味では期待はずれでした。
今度、僕が旅行するとしたら、旅行者向けのところだけでなく、いわゆる旅行者を相手にしていないようなところにも行きたいですから、もっとディープなところまで踏み込んで欲しかった。「旅」という言葉にこめる意味や期待も人それぞれですね。

うーん、占いやファッションなどのページも多くどうも女性向けの雑誌のようでした。
最近は子育ての本ばかりでファッション誌を読むことが少なくなった妻は、目の保養になったと言って喜んでましたが。
(日本の特集は「佐賀・有田」でした。まずは、ローマといわず有田からでも旅したいですねぇ。)

あと一冊でとりあえずの目標の100冊です。節目はやっぱり建築本にしようかな。
・・・と思ったらこれが100冊目でした・・・数え間違い・・・。




W020 『THE☆郡山』


かごしま探検の会の2007年度第1回まち並みウォークラリー。今回は妻と息子を連れて行ってきました。
[gmaps:31.68118660523632/130.465350151062/17/460/300]稲荷神社[/gmaps]


1. おなじみ?田のかんさぁ

上園の田之神
この田之神は、元文元(1736)年に建立されたもので、郡山周辺ではもっとも古いものです。姿は、田之神舞型で、高さは約80センチ、頭には大きな敷きをかぶり、右手に杓子、左手に椀を持っていますが、欠落がひどくて、顔の表情は理解できません。(ウォークラリー・レジュメより以下同じ)

田のかんさぁの土台の部分に小さい穴が開いてることが多いのですが、その穴は子供がトリモチを作るときに出来たそう。へぇ~~
2. 郡山城跡

郡山城跡
中世の頃の山城で、かつては郡山氏が領有していました。しかし、南朝方の伊集院忠国によって、攻め落とされるなど、苦境にあいますが、後々灯志島氏によって伊集院氏は敗走させられることになります。

3. 途中にあった石倉。
この後地頭仮屋後に寄ったのですが今はJAになって面影が残っていませんでした。(立派な石垣があったそうです)

地頭仮屋後
江戸時代のはじめの郡山は、島津氏の重臣である平田氏が領有していましたが、平田増宗が入来峠で暗殺されてしまい、藩の直轄領になりました。それが慶長15(1610)年のことで、この地に地頭仮屋が置かれることになりました。



4~14. 稲荷神社緑に彩りを添えるようなかたちで桜が咲いていてとても雰囲気のいい場所でした。
7.立派な杉が五本立っています。東川さん指定の”世間遺産”に選ばれました(南日本新聞木曜夕刊参照)。
10.里山の風景を見るとなんだかほっとします。
11.12.社を守るようなかたちで向かいあって立つ石碑(なんて呼ぶのでしょうか?)実は穴からのぞくとそこには。言われないと気づかないかも。
13. 子泣きじじぃのようなキュートな田のかんさぁ。



15.16.菅原神社

菅原神社
創建は不明ですが、昭和55(1980)年に社殿を改築した際に、拝殿正面に慶安5年と嘉永6年と書かれた文字が見つかったことから、その頃と推測されます。御祭神は菅原道真公

17.招魂碑群

招魂碑群
西南の役に従軍した35名、日清・日露戦争のもの、上海事変から太平洋戦争までの招魂碑が並んでいます。

その他いろいろと面白い話を聞いたのですがここには書ききれません。
歴史がずっと(かなり)苦手だったのですが、興味が湧いてきました。知識があればもっと話を楽しめるはずなのにもったいないなぁと。定員の40名近くは参加してたんじゃないでしょうか。他の参加者の方たちが話をしているのを聞くのも面白いです。年配の方が多いのですが、歩きながら庭の趣味や家のたたずまいについて話をしているのを横で聞いているだけでもためになります。
今日も平屋の家々が自然にとけこむ風景を見て「やっぱり平屋がいいねぇ」と盛り上っていました。土地の条件等あるので一概には言えませんが、やっぱり昔の民家の方がたたずまいとして美しいですね。すぐに結果は出ないかもしれませんが、こうして歴史やまち並み、その中に現れる人間の営みに触れていくうちに何かしらの影響が僕の思う建築にも出てくるんじゃないかと思っています。

今日も虎翔はみんなに愛嬌を振りまいていました。(子育ての先輩方がたくさん。)
この後、健康の森公園で食事・散歩して図書館によって帰り、選挙にも行ってなかなか充実した週末でありました。




B099 『我々はどこへ行くのか―あるドキュメンタリストからのメッセージ』

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書評/ルポルタージュ

世界を駆けめぐり、NHKスペシャルを150本も作った日本を代表するドキュメンタリストの本。
──世界をこれだけのスケールで見つめたドキュメンタリストは、ほかにいない。
──世界をこれだけのスケールで描いた本は、ほかにはない。
私たちは毎日、あらゆる出来事についての膨大な報道に接する。だが、膨大な断片になった報道にいくら接しても、私たちは世界を知ることはできない。世界観を持てない私たちは、場当たり的な反応だけで世界と接し、次第に孤立を深めている。
私たちはなぜ、世界を知らなければならないのだろう。
日本が世界のなかで存在感を示せず、漂っているのはなぜだろう。
そのなかで生きる私たちひとりひとりの孤独感や浮遊感は、どこから生まれてくるのだろう。
日本の置かれた現状と、私たちが抱えている心もとなさは、同じ根っこから発生しているのではないだろうか。
膨大で断片的な報道は、世界観を持つことができない私たちの有り様をそのままに表している。
報道とはなにか。
世界を理解するとはどういうことなのか。
私たち人間はなにを求めて生きているのか。
世界で起きたあらゆる事件を語りながら、川良浩和は、同時にそれを読者に語りかけている。
いま、これだけのものが書けるドキュメンタリストは、どこにもいない。

”本が好き!”プロジェクト。いきなり内容解説の全文引用から始めたけれど、この本を読んで感じたことのかなりの部分がこの解説文に凝縮されていたように思う。

私たちはなぜ、世界を知らなければならないのだろう

この疑問にどう答えるか。それがこの本のひとつのテーマだろう。
それについては後述するとして、まずこの本の印象から。

最初に目次を見たときに一瞬、入門書なんかでありがちな退屈な事実の羅列ではないか、という不安がよぎった。しかし、時代を椿の花に例える出だしの文章でその不安は消えた。そこには著者自身の視点があった。

個々の番組や事実の羅列だけから複雑な世界を捉えることは難しい。
しかし、本著は一貫して著者個人の視点から描かれているため、ひとりの人間が感じたひとつのストーリーとして時代を捉えられ、著者の視点を通して時代と向き合うことができる。
内容は昭和が平成に変わりベルリンの壁が崩壊した1989年から9・11を経てテロの頻発する最近までの、いわば世界の戦争の歴史とでも言うものをドキュメンタリーを制作している現場からの視点で描いたもの。

人間はさまざまな理由をつけてこれでもかと悲しい歴史をくりかえすのだが、「歴史は繰り返す」の元の意味は『忘れられた歴史は繰り返す』より正確には『過去を記憶できないものは、その過去を繰り返す運命を背負わされる。』という意味だそう。
著者はさまざまな事件をより真実に近い場所で見てきた末、次のようなシンプルな考えに至る。

本書の筆を置くのが近づくにつれ、私は、いろいろな理屈は信じまいと思うようになった。(中略)森(光子)さんの青春は戦争一色だった。森さんは過去を振り返りながらこう言った。「ああしなければいけないとか、こうしなければいけないとか、いろいろ理屈はあっても、戦争だけは絶対にやってはいけません。」と。これは至言だと思った。なるほど、戦争へ向かっているのか、そうでないのか、すべてをそこで判断するという基準を持てば、はっきりするし、わかりやすい。今はそう思って生きることが一番正しいような気がしている。

そのように生きるため、歴史を繰り返さないためには、やはり『過去を記憶』すること、すなわち世界を知ることは必要なことではないだろうか。

メモ

■もうちょっと<私たちはなぜ、世界を知らなければならないのだろう>という問いに対して考えてみたい。

■この本のコソボの内戦のあたりを読みながら、妻に”悲しい現実ばかりだ”というようなことを言った。すると、妻はそれを聞いて悲しいものは見たくないと言った。それに対し僕はうまく答えることができなかった。悲しいものを見たくないのは素直な感情だと思う。だけど、悲しい現実から目を背けてばかりでは未来は描けない。
本著であらわになるのは、私たちの今の現状がいかに不安定なものであるかということであり、人間は愚行へと流されやすいという現実である。世界は今でも不安定だし、日本だって決して例外ではない。
もし、日本の現状が揺さぶられ、”悲しい現実”を招く流れが生まれそうになったときに、<世界観を持てない私たち>であったならばその流れに逆らうことができるだろうか。茶色の朝の恐怖が現実のものとならないためにも世界を知ろうとすることは必要なことのように思う。

■また、さまざまな”悲しい現実”が起こっている現状と私たちの生活は全く別の世界ではなく、同じ構造の上にある。その原因の一部であるかもしれない私たちがそれについて全く目をそらしてよいものだろうか。世界を知ろうとすることは私たちの最低限の責任ではないか。その責任から目をそらしてきたことが今のテロの世紀につながっているのではないだろうか。

■さらに身近なことに限っても、膨大な情報にさらされ<世界観を持てない私たち>と<私たちひとりひとりの孤独感や浮遊感>とは無関係ではなく、それが今を生き難く感じるひとつの要因だと思う。
だとすれば”世界を知る”こと、世界に解釈をあたえることは、今の生き難さを克服するための手段となりうるのではないだろうか。
原理主義に至るような極端な解釈は危険であるが、生き難さやそれに伴う不安や恐れが戦争の引き金になるならば世界を知ることはやはり有効であると思う。

■いろいろと考えてみたが、遠くの悲劇を語ることはできても、知ることの必要性を自らの身近なものとして感じられるようにするのは簡単なことではない。遠くの悲劇はいつもの日常から簡単にこぼれ落ちてしまう。
それを自分の問題として捉えるためにこそ知ることが必要なのだから、知る以前からそれを要求するのは無理な話だ。
<私たちはなぜ、世界を知らなければならないのだろう>、それを知るためには世界を知ることが必要なのだ。

■9・11の後、アメリカの街に星条旗が並ぶ光景に違和感を感じまったく理解できなかったのだが、下の文を読んで少しは理解できた気がした。

「アメリカは、私はアメリカ人だという自覚で成り立っている。この求心力を喪失するとアメリカは簡単に解体するのだ。」アーサー・シュレジンガー

アメリカの人々が、ことあるごとに国旗を手に国家を歌っているのは、夢が永遠に消えないことを祈っているのだ。夢を追ってきた短くも美しい歴史をいとおしく思う気持ちが絆となって、多様な人種が共存するアメリカという国を成立させてきた。「夢」がアメリカのすべてといっても過言ではないのである。

しかし、アメリカ人であるため、夢にしがみつくために戦争が必要だとしたら、そんな夢は早く手放して別の道を探るべきだ。