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B098 『電車の中で化粧する女たち―コスメフリークという「オタク」』

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書評/社会・政治


”本が好き!”プロジェクト書評第1弾。
つまらない本だったらどうしようかと思っていたが、そんな不安もなんのその、期待以上に面白い本だった。

僕自身は、最近の自己主張の強い化粧はなんだかなぁ、と思うぐらいで化粧にはさして興味も知識もなかったのだが、それが逆に本著の内容が新鮮に感じられて良かったのかもしれない。

文章も読みやすいし、「叶姉妹」「藤原美智子」「君島十和子」「中村うさぎ」と特徴のある個人を中心にした章立てもよかった。

化粧がガングロ・コギャルを皮切りに「大人の身だしなみ」から「ウチらのはやりモン」に、またスーパーモデルの登場によって「生来の美」から「獲得される美」へと変わり<叶姉妹>、”化粧は人格”とのカリスマ(教祖)の呼びかけで美人道という宗教になり<藤原美智子>、化粧そのものが自己目的化し膨大な語彙と文法、文体のある「読み」「書き」「語る」ことのできる趣味・道楽となって人々を虜にし<君島十和子>、「意味」から自由になるため、現実の世界から虚構の世界へと逃れるための手段となる<中村うさぎ>。

ダイナミックに話が展開するのには、読み進めるたびになるほど!と推理小説の謎を一つ一つを解いていくような喜びがあった。
終盤、コスメフリークが東浩紀の動物化するオタクと合流するあたりは、ようやく犯人にたどり着いた!という感じだ。

その謎解きの詳細は是非本著で味わっていただきたい。

さて、意味から自由になりポストモダンの世界を生き抜く達人であるコスメフリークとオタクたち。

その先に見えるものは何か、というのがこのブログの最初からのひとつの課題であったのだが最近は少し当初と感じ方が変わってきたように思う。
以前はその突き抜けた先にある可能性というものにある種の期待を抱いていたのだけれども、このごろはその態度は自己防衛的な一時的避難でしかなく、長いスパンで考えた場合やっぱりその先には何もないのではないかという気がしている。

自己防衛を進めていくのではなく、自己防衛をしなくては生きられない現状をずらさなくてはどうしようもないのではないか。(宮台真司の方向がこんな感じで変わった気がします
コスメフリークとオタクたち、両者には逆に自由に縛られている不自由さのようなものを感じてしまうのは、彼らに対する嫉妬からだけだろうか?

動物化の行き着く先は自由をエサに飼いならされ搾取される「自由管理社会」のような気がする。




B097 『前川國男 現代との対話』

松隈 洋他
六耀社(2006/09/26)

「生誕100年・前川國男建築展」を機に行われたシンポジウムの講義録。
大雑把に言うと前半はコルビュジェやレーモンドといった前川國男の周辺から前川に迫り、後半は今現在、現役から見た前川像と言うような構成。

中でも内藤廣の言葉にはっとすることが多かったが、前川國男と内藤廣は建築や社会に対する根本的なスタンスが似ているような気がする。
内藤が前川に関連付けて<分かりにくいことにある価値>や<時間とデイテール>を語るところは内藤自身の著書でも語られていることだ。

『現代との対話』というタイトルがつけられているように、前川が現代の私たちに突きつけているのはこういった社会や時間というものに向き合う建築に対する姿勢だろう。

■今、グローバリゼーションという仕組みと金の流れが、地球を被いつつあります。表向きは、地球環境や市場開放と言ったりしますが、その裏にはある種の権力構造が働いていて、それに私たちは日々さらされているわけです。
そこでは、建築に何ができるか、が問われているのだろうと思います。建築は、まぎれもなく資本主義社会の中で作られるのですから、その仕組みを逆手に取らなければ何もできないわけです。それでも何ができるのか、それを考えることが、建築をやる人間の使命ではないのか。グローバリゼーションは、人間の尊厳を奪うわけです。今、なぜ私がここにいるかとか、この場所だけが私の唯一の場所である、ということを奪っていく。建築はそれに対して抗しうる数少ない手段であると私は思います。(内藤廣)
■ディテールに描かれる物質には、それぞれのエントロピーがあり、それぞれ時間のオーダーをもっているわけです。スティールとコンクリートと木とガラスというように、それぞれの時間を組み合わせて、より人間のために望ましい時間を作ることが、ディテールの真髄ではないか。異なる時間のディメンジョンを組み合わせて、もっと長い時間のディメンジョンを作り出すのが、ディテールなのではないかとの気がしています。(内藤廣)
■前川國男が、その長い活動を通して、最終的に近代建築に求めようとしたこと、それは、身近に手に入る素材を用いて、大地に根付き、時間の流れの中で成熟していくことのできる、簡素で明快な空間を作り出すこと、そして、何よりも、そこを訪れる人々が、自分を取り戻し、共に静かな時を過ごすことのできる、心のよりどころとなる場所を、都市の中に生み出すこと、だったのだと思う。(松隈洋)

しかし、それは社会の流れに抗うことでもあり口で言うほど簡単ではない。いずれ向かい風が追い風に変わるときがくると信じてそのスタンスを貫くことができるだろうか。貫いてこそ独自性や優位性という武器を手に入れられると思うのだがそれを理解してもらうのもまた難しい。(内藤廣も相当苦労された末に今のポジションがある。この問題は僕自身の問題でもあるし、地方が抱えている問題でもあろう。)

また、僕は分かりやすさや楽しさと言うものも、建築における重要な価値であると思っているのだが、それと前川國男の(内藤廣の)投げかけとの折り合いをどうつけるかは今後の課題である。

思ったのだが、内藤の著書に対する感想の最後に

一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。

と書いたようなこと。アアルトの建築に見られるようなアフォーダンスの海のようなものがもしかしたら前川國男の建築にはあるのではないだろうか。(饒舌ではないかもしれないが)
一度、熊本県立美術館を訪れてみよう。




本が好き!(β)


”本が好き!”プロジェクトと言うのがあることを知って申請してみました。

どういうシステムかというと、オリジナル書評のサンプルを添付して申し込みをし、それが承認されるとメンバーに登録されます。メンバーになると、

参加者は出版社から提供された本のリストから、希望の本を選んで献本を受けます。読み終わったら、自分のブログやSNSの日記に書評を書きます。その際、リンクやトラックバックを使って書評のネットワークを作り上げ、それによって「面白い本」の情報をジワジワと広げて、クチコミの力で新しいヒットを生み出す、というのが目的です。
なお、参加者は献本を受けられることを除けば、何の報酬もありません。また、献本を受けたら必ずブログに書評を書く責任があります。(受け取った本が自分に合わなくて、読めない、書けない場合は、自己負担で本が好き!事務局に返却していただきます(ギブアップ制度)。)

というもの。
”本が好き!”レベルで言えばまったく諸先輩方の足元にも及びませんので少し恥ずかしくもありますが・・・

申請が通ったようなので早速献本を申し込んで見ます。

図書館メインだと新書の類がなかなか手に入らないのでけっこういいかも。ただし、献本数が限られているので面白そうなのはすぐに在庫切れになりますが。
また、小説等の分野はどこから手をつけて言いか分からなかったり感想をうまく言葉にできなかったりしたので敬遠しがちでしたが、これを機会にぼちぼち挑戦してみようかと思います。




W019『ゆうかり保育園+デイサービスセンター』


□所在地:鹿児島県鹿児島市
□設計:竹原義二/無有建築工房
□用途:保育園+ディサービスセンター
□竣工年:2007年
[gmaps:31.527043924837933/130.50812602043152/17/460/300](comment)[/gmaps]
竹原義二さん設計の保育園の見学会があるということで行って来ました。
デイケアの方は施工中でしたが保育園の中を一通り見せていただきました。

竹原さんのお話を伺っていると、どうも”混ぜる”というのがキーワードのようです。

園児と高齢者・・・異なる世代を混ぜる。
木・土・石・コンクリート・・・様々な素材を混ぜる。
暑い・寒い・心地よい・・・様々な温度環境を混ぜる。
様々な視線の抜けなどが用意されている・・・内外や部屋同士の関係を混ぜる。

といったように様々な工夫が見られます。

私たちの環境は、大人のエゴによって知らず知らずのうちに偏ったものとなってしまっていると思います。
それは子供たちが多様なものに触れながら逞しく育つために適した環境とは言えません。

建物内だけにとどまらず、街としても
遊ぶと住むを混ぜる。
働くと住むを混ぜる。
植物と建物を混ぜる。
昔と今を混ぜる。
大人も老人も子供も、人間も動物も、好きも嫌いも混ぜる。
・・・・
今までは”分離・排除”が良しとされてきたところがあると思います。
しかし、これからはいろんな”混ぜる”ということが大切になってくるのではないでしょうか。(出来れば車と歩くは分けたいですが)




B096 『藤森照信の原・現代住宅再見〈3〉』

藤森 照信、下村 純一 他
TOTO出版 (2006/09)

もう出てたんだ、ということで〈1〉〈2〉に引き続き〈3〉を図書館で借りてきた。

ついに現代に追いつき妹島和世の「梅林の家」、藤本荘介の「T house」、西沢立衛の「森山邸」まで紹介されている。
ということで後半はこれまでの巻とは若干趣が違う感じがした。
「梅林の家」は鉄板構造で外壁、内壁ともに厚さ16ミリほどの鉄板で出来ているが、そこにあけられた開口によるシュールレアリズムのような光景は全くオリジナルな空間の関係性を生み出している。その感性には脱帽というほかない。

藤森氏はこれらの作品に歴史の原点、本質的なにおいを見出しているように、こういった新しい感性によって空間のあり方というものが”純粋”といえるレベルまで引き寄せられているのかもしれない。

このシリーズで一貫している、「戦後住宅の”開放から自閉へ”」という見方。伊東豊雄はじめ、自閉的・内向的建築家が時代を開いてきたという見方が面白い。
僕も昔、妹島と安藤との間で「収束」か「発散」かと悶々としていたのだが、藤森氏に言わせると妹島はやはり「開放の建築家」ということになるのだろうか?
藤森氏の好みは自閉のようだが、僕ははたしてどちらなのか。開放への憧れ、自閉への情愛、どちらもある。それはモダニズムへの憧れとネイティブなものへの情愛でもある。自閉と開放、僕なりに言い換えると収束と発散。さらにはそれらは”深み”と”拡がり”と言い換えられそうだ。
それはもしかしたら建築の普遍的なテーマなのかもしれないが、その問いは、どちらか?といものよりは、どう共存させるか?ということなのかもしれない。

深みに支えられた拡がり、というような感じか。




B095 『ル・コルビュジエのインド』

北田 英治 写真
彰国社(2005/06)

先日のシンポジウム「鹿児島のかたち・地域のかたち」で”1950年以降・インド以降のコルビュジェ”と言うのが話で出たので、そういえばそういう本があったなぁと図書館で借りてきた。

そのときに案出するベースになったのは、スケッチブックに見られるように、観察ですね。チャンディーガルを歩いたり、インドの風物を観察を描き留めながら、民族の普遍的な知恵がどこにあるのかを探っていく。でもそれにベタッと寄り添ったものをつくるのではなく、それを一度、建築と人間の関係に置き換えて、新しいものをつくる。そうやってタイプを変形、変容させてゆく能力が、後期の彼を支えていたのだろうなと思います。(富永譲)

シンポジウムで言われたのはまさにこういうことだったと思う。
今までなんとなく自分の中で何かが足りないと感じていたのだけれども、このシンポジウムで画竜点睛というか、空いたところのピースを見つけた感じがしたのだ。(全く感覚的なレベルでしかないが)

読書感想ももうすぐ100冊だ。なんやかんや言ってコルに帰ってきそうな気がしてきた。

コルと吉阪隆正の自然に対するアプローチを「海の人」「山の人」と対比している所や、インドでの仕事のアプローチをカーンとコルで「誰でも理解できるシンプルで厳格なルールをつくるか、あるいはアクシデントを全部受け入れるか」と対比しているところが面白かった。モデュロールが厳密な幾何図形を前提とせずとも美しさを担保したから、コルは形の自由と有機的な野生を獲得できた、という分析もあってなるほどと思ったのだが、全てを受け入れる懐の深さとそれを全体としてまとめあげる力量が、これほどおおらかな建築を可能にしたのだろう。




B094 『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』

C.ダグラス ラミス (2000/09)
平凡社

東京にいる頃に本屋で見つけ題名に魅かれてつい買ったもの。
読んだ印象があまり記憶に残っていないので、そのときはそれほどリアリティを感じなかったのかもしれない。

今読んでみるとまた印象が変わるのかな、と思い再読してみた。
(さっき気づいたのだけど『世界がもし100人の村だったら』の再話・翻訳もダグラス ラミスだった)

内容はタイトルの枠に収まらず戦争や環境問題、政治についてなど幅広い問題を扱っている。
最初はタイトルを『21世紀へのコモンセンス』にするつもりだったそうだが、共通しているのは今流通している『常識』が私たちにとって正しいのか、誰のための常識か、と問うところにある。『常識』は、それは”常識だから仕方がない”というように、人々から思考の機会・選択の機会を奪う。
その機能ゆえに一部の目的のために『常識』が捏造され利用されてきた。
その代表が”経済成長・発展”が当然とする常識である。この本では、そういう『常識』を歴史を遡ったり、冷静に分析することでそれが如何に非現実的で、私たちの思考や選択の機会を奪っているかを解りやすく暴いていく。著者は今の経済主導の社会を氷山に向かって突っ走るタイタニックに例えている。(僕はまだ観ていないけれども)『不都合な真実』が話題になっているように、舵をきらなくてはいけないことは明白だ。

舵をきるためには『常識』によって奪われている”思考すること・選択すること”を取り戻さなくてはいけない。
道は自分たちで描けると言うことを思い出そう。

今の『常識』を都合よく感じている者はそれを維持するために必死で人々の恐怖を煽る。
それから自由になることは簡単なことではないかもしれないけれど、それに打ち勝つ勇気と想像力を育てよう。
まずは『常識』の示すものとは異なる可能性があることをイメージすることから始めよう。

一番必要なのは、道を楽しく描いてくれる人なのかもしれない。

幾分昔の本だけれども今でも全く古びていないし、とても読みやすい本なので是非一度読んで見てください。それにしても、なぜ前に読んだときにそれほど印象に残らなかったのか。それが不思議です。
(あたり前のことといえばあたり前のことしか書いていないのもあるが、前は今ほど危機感を感じていなかったのかもしれない。また、鹿児島だからこそリアリティを感じられた部分もあると思う。)




W018 『谷山旧街道をゆく~東谷山編~』


かごしま探検の会のまち並みウォークラリーが谷山であるというので早速行って来ました。
[gmaps:31.526641535630798/130.51695585250854/16/460/300]春日神社[/gmaps]
永田川から南側はいつもの散歩コースですが、今回は永田川の向こう側、谷山旧街道ではなく伊作街道の方。

1JR谷山駅を出発
2~5春日神社
6永田のたのかんさぁ(享保6年)
7上福元耕地整理記念碑とたのかんさぁ(大正11年)
8奥牟田耕地整理記念碑とたのかんさぁ(大正12年)
9~12奥龍権現
13~16波之平刀匠之遺蹟
18伊作街道を歩く
19富迫周次郎翁賢徳碑
20上福元・塩屋耕地整理記念碑兼櫻島爆発記念とたのかんさぁ(大正3年)

このあたりはずっと田んぼだったそうで、たのかんさぁがたくさん。
今は区画整理が進んで田んぼはほとんど残っていません。たのかんさぁを祭る春の”さのぼいど”・秋の”しめど”という祭りも今ではほとんど行われていないようです。
また、刀鍛冶でも有名なところで波之平刀匠といえば全国区です。

ウォークラリーには初めて参加しましたが、地理的・歴史的視点からの案内つきで散歩できるのはとても面白いものですね。
これからも妻や子供をつれてちょくちょく参加したいなと思っています。

それにしても、最近”たのかんさぁ”にご縁が増えた気がします。
加世田の実家に偶然置いてあった本を読んでから、散歩でも時々見かけますし、岩崎美術館では普段入れないところを特別に見せていただきましたし、先日お会いした菊野さんの家は”タノカンの家”ですし、今日もたくさんご縁がありました。

これはタノカン建築をつくれとのお告げでしょうか?(笑
今度は頂いた谷山のマップを見ながら永田川以南もぐるっと散歩してみよう。




B093 『はじめて考えるときのように』

野矢 茂樹、植田 真 他 (2004/08)
PHP研究所

植田真の心地よいイラストと野矢茂樹の心地よい文にひかれてなんとなく買ったもの。
気分転換のために再読。

考えなくてはいけない、とかそんなこと考えなくてもよいとか考えるけれども、考えるっていうことはどういうことだろうか。

そんな感じの疑問から始まる。

つまるところ考えるということは出会いなのかもしれない。

そのために

つめこんでゆさぶって空っぽにする

そして、はじめて考えるときのように考えよう。




鹿児島のかたち・地域のかたち

鹿児島、生活地域建築塾主催のシンポジウムがあったので行って来ました。

JIAの案内を見て知ったのですが講師はなんと象設計集団の富田玲子さん、U研出身の齊藤祐子さん(僕はU研と象とがごっちゃになっていましたが・・・)、そして進行が一つ前の記事で加世田で活動されていると書いた菊野憲一郎さんでした。びっくり。
また鹿児島サイドからは創建築計画研究所の溝口さん、かごしま探検の会の東川隆太郎さんが講演を行ったのですが、この東川さんという方が鹿児島のプロともよべる人で話がとてもおもしろく、そして熱い思いをもっていらっしゃる方でした。

東川さんは建築が専門ではないのですが、建築を含めた環境に対する視点や思いは設計者が反省を込めて見習わなければいけない、と強く感じました。

僕自身、地域性に対するある種の憧れは持っていても正直どうアプローチすればよいか、ピンとくる感覚を持てなかったのですが今日の話で何かヒントが得られたような気がします。

スライドでも笠原小学校などが紹介されましたが、吉阪隆正氏や象設計集団の建物、それから小松義夫さんの写真などをみると、自然と楽しくなってきますし、生命の力が湧いてくるような感じさえ受けます。
”これが建築なのだ”と思えます。
多くの人はこの楽しさを忘れてしまっているのではないでしょうか。
忘れているのならまだよいのですが、僕はこの楽しさを知らないというまま子供が育ち、それが世間の大半を占めてしまうということが非常に怖いのです。
現にそれはかなり現実のものになりつつあるように思います。

それをくいとめるには”楽しい、気持ちよい”こと、東川さんの言葉だと”なつかしい”と感じられること、これっていいでしょ、ってことをあきらめずに言い続ける以外にないのかもしれません。

今日の話は一般の人を含めたもっと沢山のひとに是非とも聞いてもらいたかったです。
みながこの”楽しさ・気持ちよさ”を知ったら街はずっといいものになるのにな。

懇親会では(最初お腹がすき過ぎて言葉が出なかったのですが)、齊藤さんや東川さんと楽しく話させて頂いてとても実りの多い時間でした。