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ジュニア・チャンプルー

象のブログを発見。
その中の故・大竹康市を偲ぶところが心に響く。

象の本を読んだときのように、なんだかため息が出てしまいました。

ここにもでてくる菊野憲一郎さんという方は、どうも今は加世田で活動していらっしゃるよう。一度お会いしてみたいです。




やまとことば

今日はある現場の地鎮祭がありました。
そのなかの”祝詞奏上”のところで神主さんが建築物の名称や住所、施主や設計者、施工者などの関係者を含めた台詞でお祈りを申し上げます。

そこで、神主さんの台詞になんとなく違和感を覚えたのだけれどもなぜだろうと考えると、住所に数字などが多く記号的になっているのと、固有名詞の中にほとんど訓読みが含まれていないことに気づいた。
すべて漢字の名称であってもほとんどが音読みである。
それが神主さんの口から出ると変によそよそしく感じてしまう。
まだ事務所名は考え中なのだけれども”エーリリースビルディングワークショップ”では地鎮祭では違和感ありまくりだろう。

志村建世さんという方のブログで憲法第9条の第1項を漢語なしで表現することを試しているんだけれども、これが結構いけてます。
あまり、”やまとことば”を意識することはないけれども、意識してみればけっこう奥行きがあってよいものかも、と思った次第であります。




PDF

Acrobat Reader はバージョンアップしてだいぶ早くなったもののそれでもブラウザがすっ止まってしまったりしてPDFファイルをクリックしたらしまったーと思ったものです。

もっとシンプルな単なるリーダーがないかと思ったらありました。

Foxit Reader

さくさく動きます。ブラウザにプラグインできないけれどもAcrobat Readerに比べればまし。

ソフトやOSはシェアの高い物ほどそれにあぐらをかいているのかやたらに重かったり、痒いところに手が届かなかったりすることが多い気がします。




B092 『コート・ハウス論―その親密なる空間』

西澤 文隆
相模書房(1974/07)

僕が生まれる前の年の本。
コートハウスについて論じられているのだが、図版つきで具体的に書かれているので解りやすく今でも十分に参考になる。

著者によるとコートハウスに期待するところのものは

敷地全体を、庭と室内を含めて、あますところなく住居空間として企画し、屋外にも残部空間を残さない住居であり、囲われた敷地の中に自然と人、室内と室外の緊密な関係を造り出す

ことにある。
このことは、僕が住宅に期待する大きな要素でもあるのだが、それは近代建築の作法や伝統的な日本建築の知恵などと重なる部分も多い。

しかし、周りを見渡すととてもコートハウスやコートハウス的思想が定着しているとは思えない。

住宅を快適にするにはかなり有効な方法に違いないのになぜだろうか、と考えるといくつか理由が考えられる。

一つは、日本の敷地の取り扱い方がコートハウスを困難にしている事にある。(民法では近隣の合意が得られない限りは隣地境界線から50cmは建物を離さなくてはいけない)

もう一つは、コートハウスは敷地の形状や特性に合わせていろいろな工夫をする必要があり、メーカー住宅などの規格化に向かない事にあるように思う。
規格化するためには、内外の緊密な関係などに興味を持たずに住宅というパッケージの中身だけで満足してもらっているほうが都合が良いのだ。(規格化というのは特別な工夫が要らず誰でもつくれる、ということでもある)

さらには、現代の近視眼的な傾向もコートハウスが目を向けられない要因の一つであると思う。というか、近視眼的な住宅・生活環境が人々を近視眼的にしているという側面もあると思うのだ。

建築を学んでいてコートハウスに魅かれない人はなかなかいないと思うのだが、それがなかなか一般の人に共有されていかないのはやっぱり少し寂しい気がする。

MEMO

■住宅はどこまでも外界から隔絶された絶対個人の空間でなければならない。そして敷地が広くない場合、自然を100パーセント楽しむためには敷地全体が庭であり、同時にまた住居空間でなければならない。
■住宅は劇場でも教会でも料理屋でもないから、そのような驚きを住む人にあたえることは禁物である。住む人はなんの心の抵抗もなく住めなければならない。しかしこのことは住宅が無性格であったり、無気力なものであることに通じるのではない。住宅は住む人びとに快い安らぎを与え、未来の飛躍に向かって前進すべき人柄のなかへと、ちょうど太陽が生きとし生けるものの身にしみわたっていくように浸透していくべき性質のものであらねばならない。
■サーキュレーション・チャンネルとして使われる廊下はできるだけ少なく、またその部分でも変化が楽しまれ、これにぶらさがる個人のプライバシィをその必要度に応じて保ちながら廊下から居間へ、居間から個室へと移りゆくに従って変化ある庭がもてるようにというのが私が住宅を設計する場合の願いである。

住宅が外部に対してオープンであるべきかどうかという事を悩んだりもするが、それは実は通りに対してもさして重要でないのかもしれない。
散歩をしていてなんとなくいい感じの家だなと思うのは、塀などで囲われていても、その中の庭や家の中での豊かな時間の流れが想像できるものが多い気がする。
そういう家は、住宅そのものがその敷地に対して安心して座り、満足しているような感じを受ける。それが、敷地の上に無造作に置かれ、さらし者にされているような家ではやっぱりあまりよい印象を受けない。敷地の上で住宅それ自信が安心し、楽しんでいるか。そのような見方も建物の良否を見分ける基準になるかもしれない。




ドット絵


ドット絵のエディタもフリーでいいのがある。

メニュー用の小さいアイコンを作ろうと思って久しぶりにドット絵をかいたけど、なんとなくノスタルジックな気分になった。
昔、(中学生の頃)MSXというパソコンとゲーム機の中間みたいなのでちょっとしたゲームをつくって遊んでいた。そのころの性能だと8x8だとか16x16のドットが標準で色も横一列に対して1色しか使えない制限があったりして、1mm方眼紙をせっせと塗りつぶしてキャラを考えたりしていた。
その制限がかえってイメージを喚起して今の高解像度な画像にはない楽しさがあったと思う。
(その前は、ポケコンという計算機程度の横一列の画面の中で今でいうアスキー・アートみたいなキャラでダンジョンを冒険したりドラゴンと戦ったりしたのだから、そうとう想像力がたくましかった)
また、雑誌の投稿で1画面プログラムと言う、たしか40文字x24行ぐらいの画面の中にBASICのプログラムをおさめるというのがあって、これも制限を逆に楽しめた。俳句のような感じ。
僕も一度だけ投稿したことがあったのだけど、そのときは大作のパズルゲームは落選して”けんだま”というシンプルな1画面プログラムがなんかの賞をもらったことがある。
何が言いたかったかというと、あの頃はなんであんなに暇があったんだろうということと、制約もまた楽しということと、MSXなんてマイナーなネタにのる人がいたらすごいなぁ、ということです。




TARA DESIGN EXHIBITION

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今日は久しぶりに街に出たので、黎明館でやっているタラデザイン専門学校の卒業展を覗いてきました。
僕はデザインの教育っていうのを受けたことがないので学生がどういうのをつくるか興味があったので。

20歳前後?ということもあるでしょうが、テーマは全体的に自分の内面やその近辺、もしくは空想の世界のどちらかが多くその中間的な部分、それらを繋ぐような部分は少ないのかなという印象を受けました。
リアリティを感じる部分がそのあたりに多いということでしょうか。

うーん、うまく言えませんがリアリティの行方が気になりました。僕もオジサンです。

だけど、若いっていいですね。彼らの中から内面だとか空想だとかを突き抜けてそれらの間を自由に飛び回るような人が出てくるかもしれません。

(印象だけで書いているので何を書いているのかさっぱりかもしれませんが)

今年は出来るだけ外に出向いていろいろなものを見ようかと思っています。




B091 『藤森照信の原・現代住宅再見〈2〉』

下村 純一、藤森 照信 他 (2003/04)
TOTO出版

前巻に続いて2も読んでみた。
今回は前巻にも増してバラエティに富んでいて面白い。
(青木淳の「S」や石山修武の「世田谷村」等、わりと近作も載っている。)

時代はモダニズムをどう乗り越えるかというところ。
そういう背景もあってか、またまた藤森さんはうまい具合に人間味を浮かび上がらせている。

住宅の背後に人間が見えるか、または住宅が建築として生きているか。それがどの程度できているかが住宅の懐の深さとなるような気がする。
薄っぺらで上っ面だけのきれいな表情にだまされてはいけない。

< 3>がでるとすれば妹島和世や藤本壮介なんかの住宅もあって、これまた面白くなりそう。
・・・と思ったらもう出てたのね・・・