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B090 『99人のデザイナーとつくる未来の本』

萩原 修 (2005/09)
ラトルズ

99人のデザイナーがそれぞれの架空の本のタイトルを設定すると言うかたちで発想の原点のようなものを少しづつ紹介していく。

「デザイナーなんていなくてもいいと考えることがある。それぞれの人が身のまわりのすべてをデザインする世界の方が自然ではないかと。・・・・・(中略)・・・・・「デザイナーと未来をつくっていける」と考えることがある。どんな生活をしたいのかは、それぞれの人が考えればいい。だけど、それを実際にかたちにしていくのにデザイナーの力が必要なこともある。(萩原 修)

デザイナーはあくまで手助け、手助けという言葉も傲慢に聞こえるなら、一緒に楽しんだり未来を見ることしか出来ないのかもしれない。




B089 『space 狭小住宅:日本の解決法』

マイケル・フリーマン、境 紀子 他 (2005/02/11)
河出書房新社

アジアのデザインに詳しいロンドン在住の写真家が日本のコンパクトな住み方を紹介。

しかし、”狭さ”も楽しめるひとつの特色となりうる。

この本でも紹介されている9坪ハウスが典型的だが、積極的な狭さ、なのであり”楽しめる”ことがキーなのだ。

「どちらかというと、家が買い手を選別する」・・・・増沢の根本にあった価値観である、簡潔さと必要性に共感できる人たちだけを惹き付ける家づくりだ。土地がないから狭い場所で我慢をする消費者を対称にしているものではない。自分に必要なものだけを要約したら9坪のスペースで十分だと自分のライフスタイルを掴んでいる消費者に向けてのプロジェクトなのだ。

しかし、実際には狭い土地しか手に入れらないことも多いだろう。
そのときの”狭さ”をどうやって”楽しさ”へ転化するか。
そのためには、住み手が”楽しめる”ことが一番の条件だが、どうやってそれを引き出せるか。
そのために自分がどう楽しめるか。だ。




オープンハウス

ASJ主催の住宅オープンハウスがあったので行ってきました。(設計:CASE施工:阿久根建設

写真は住宅と言うことで残念ながらNG。

風の通りや光の導き方、動線などをしっかり誠実に考えた住宅でした。
特別奇をてらったようなところはなく、毎日の日常が自分のイメージの器ののなかでしっかりと営まれれていく感じ。
住宅っていうのはそれでいいのかもしれないな。




B088 『建築の可能性、山本理顕的想像力』

山本 理顕 (2006/04)
王国社

山本理顕の著書を読むと、建築にも何かやれそうな気がして勇気が出る。(というかほとんどは何もやってこなかったんじゃないか)

彼ほど、制度に対して逃げずに真摯に取り組んでいる建築家、建築が制度となってしまうことに対して敏感な建築家は他にはいない。

建築が制度と化してしまい、制度がまた建築を規定しまうという悪循環の中で、その悪循環を断つには思考停止の循環に陥る前にあったであろう仮説のもとの思想や理念に立ち返るしかない。
そのうえで、

やはり問われるのは、共感してもらえるような仮説が提案できるかどうか

が重要となる。

建築はもはやかたちではなくて、さまざまな人が参加できるような仕組みをつくること自体が建築じゃないかと思います。建築をつくる過程もふくめて、人々が参加するシステムをつくるのが建築なのではないかと。そのためにも建築家の他者への想像力というのか、その他者を包含できるような新しい空間を提案する能力がますます問われているように思います。個人の表現やかたちを目的にしない、それでも多くの人を魅了する空間、そういう意味でのいい建築をつくることが必要なんでしょうね。

かたちではなく、と言い切れるところに彼の強さがある。
建築=かたちであると思われているところに業界の内と外のギャップが生まれているし、それが自分達の首を絞めることになってきているのだから、そういいきるところから始めるのは有効なのかもしれない。




ゆらり

つんく♂と糸井重里の対談の”ゆらり”にドキリとする。

なんとなくゆらぎのようなものを捉まえるには自分もゆらぎに身を任せないといけないような気がするときがある。
まじめに硬くなりすぎると何かを取りこぼしそうな気がして。

だけどゆらぎを捉まえるには、ゆらぎ漂っている獲物を捕獲するハンターのように重心を低く構え、鍛えぬかれた集中力と瞬発力をもってしてゆらぎに向き合わなければいけないのではないか。

そんな風に思った。
抽象的なことだけでは現実に抽象性を獲得することは出来ない。

だとすると同じ糸井重里が共感しているタモリのゆるさはなんだ。
それこそゆらりじゃないか。

そう思ったけれど、そうではなくタモリは自らゆらぎながらも重心低く忍び寄り、集中力と瞬発力をもってして獲物をとらえるカマキリなのではないか。

そのゆらりとした身のこなしに騙されてはいけない。
タモリこそ理想的なハンターかもしれない。

抽象性を獲得したければハンターであれ。

(前半と後半は多少矛盾しているような気もするが・・・気にしない)




B087 『昭和モダン建築巡礼 西日本編』




日系アーキテクチュアの連載をまとめたもの。
戦後の1945から1975年に建てられたモダニズム建築を西から順にレポートしていくのだが、スタートは宮崎の都城市民会館で鹿児島ではなかったのが残念。

最近妙にこの頃の建築に魅力を感じるのだけれどもなぜだろうか。
モダニズムを軸に建築に夢と希望と野心があった時代だからかもしれないが、建築が建築として生きている感じがする。
なんというか表情を持っているというか色気があるのだ。

今ではモダニズムっぽい建築は真似をすれば誰でもできるように思う。
ところが、数あるモダニズム(っぽい)建築のなかでもそのなかに色気を感じるもの、建築として生きている感じがするものといえば極端に数は絞られてくるし、それができる人はなかなかいない。

そもそもモダニズム自体が人間臭さを伴ったものだと思うのだがそのあたりをすっとばかした建築はやっぱり何かが足りないように思う。

建築であることの強さをもっと信じたっていいんじゃないだろうか、と割と素直に思えるようなそんな本でした。

あー、僕も巡礼したい。