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足元

『自分の身体により近い足下にこそ いろんなものを積み上げていくことが大切なんだと思います。』
m.mさんの記事より孫引き

さっき書いたものの続きですが、こういう活動の積み重ねが重要なんだと思います。




Podcast『週刊ミヤダイ』

宮台真司の言説に触れるのは久しぶりだったけれども、以前とほんの少し印象が違った。

対象から少し距離をとって、クールな視点で的確に分析をするのは変わっていないけれども、そのクールさの質が変わって見えた。
以前は情動や実存については突き放している印象があったので理論ではすごく納得してもなんとなく受け入れがたい気分が残ったのだが、今回は戦略を変えたのかだいぶ受け入れ難さは消えていた。(ラジオだからっていうのもあるだろうけど)

彼の論調は”なぜ○○なのか?””それは○○だから””○○する必要がある。”というように簡単に図式化が出来るぐらいまで徹底して整理されているので非常に説得力がある。

そんなに単純化できるわけがない、という気持ちもないわけではないが原因と処方箋が示されているのなら、一度受け入れてみるのは何もしないのよりはずっといい。
単純化して消化しやすいようにすることがデザインや政治の機能の一つだろうから、彼の言説は『宮台真司のデザインした思考(行動)のためのツール』だとも捉えられる。
だとすれば、デザイナーのつくった椅子でくつろぐように、彼の作った道具で生活の豊かさを加えたっていい。

印象に残ったのは日本人の持つ『幸せのイメージ』が世界的に見ても概して貧しいということとそれに対する自覚がないということ。
ここ数十年の間に生活の知恵や文化といったものを切り捨ててきた結果、与えられる幸せしかイメージできなくなってしまったのではないか。
そのことが政治や街並みの貧しさにもつながっているように思う。
それは人事ではなく、そのような『幸せのイメージ』の中では僕らの仕事の存在自体が否定されかねない。

宮台氏は『生活世界の充実』をキーワードにあげているが、そのためには個々がそれに対して意識的である必要がある。

今までの都市計画のように誰かが全体を考えまず形をつくると言うのではなく、一人ひとりの中の『幸せのイメージ』が豊かになっていく中で、それら一人ひとりの選択したものの総体としてまちが形づくられている、という方向でないと有効ではないのではないか。

そういう意味では、原氏の言う『欲望のエデュケーション』が重要で、それが実践できる人の存在は貴重だと思う。




Podcast『アートディレクターの新領域』

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Podcastで配信されている多摩美の公開講義を見た。

佐藤可士和氏が講師をしていて、そこで彼がディレクションを担当したふじようちえんが紹介されている。
建築は手塚貴晴+手塚由比が担当。

うーん、理想的な仕事じゃないでしょうか。
ディレクション自体は建築家の重要な仕事のひとつであると思うけれども、別のプロが交通整理してくれるというのはそれはそれで魅力的。

しかし、なんといっても幼稚園のディレクションを佐藤氏に依頼しようと発想した園長先生がすごいですね。

学生の作品に対する講評では

安易にやったところほど強いので、いいところを壊してしまう。

と盛んに言われていた。
”全体を見据えた、部分に対するデリケートな配慮が欠かせない”と言うのは建築についても同じ。
制約や雑務に追われる中、どれだけその姿勢をキープできるかが分かれ目。
[MEDIA]




TV『新日曜美術館』

たまたまテレビをつけたら新日曜美術館で「建築現在進行形伊東豊雄の挑戦」っていうのをやってた。

他の建物が妙に不自由に見えてきてしまいます。
まさに世界が違って見えるという感じ。
人間の根源的な欲求に根ざした空間は建築の閉じた世界を飛び出して広く一般の人にまで訴えかける力があるように思う。

荒川修作の作品と根本的な出所は似ている気がするけれども、扱っているものの階層レベルが違うと思う。
(荒川氏は身体性を謳っているがモノとしては机上論から抜け出せてない感があるけれども、伊東氏はシステムを扱いながらもそのシステム自体が身体性とダイレクトに結びついている)

モダニズムを突き抜けた先にあるもの。
伊東さんの描く世界を自分なりに再解釈してみないと。
構造表現主義とのベクトルの違いは何か。
その違いがなぜ未来を拓くのか。
それは自分にとってはどういうものなのか。

なんとなくTVをつけたらたまたまやってたので危うく見逃すところでした。
BSでは再放送もあるようなので見逃した方は是非。
[MEDIA]




W017 『岩崎美術館・工芸館』


□所在地:鹿児島県指宿市
□設計:槇総合計画事務所
□用途:美術館・事務所
□竣工年:1978年/1987年
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今日は槇文彦設計の美術館を見に行ってきました。(鹿児島では霧島国際音楽ホール(みやまコンセール)も槇さんの設計ですね。)

内部の撮影は禁止ですが受付で頼み込んで撮影許可をもらいました。
階段を軸にしたシーン展開の中に美術品を配するのは(みたことはないが)スカルパのカステルヴェッキオ美術館を思いおこさせます。

工芸館に展示されているパプアニューギニアの神像はかなりの迫力。

う~ん大好き。これ以上にうったえる力を持ったものってそうはないと思う。すごいなぁ。

工芸館2階突き当たりの窓から魅力的な階段が見えていたのですが鍵がかかっていたので出られません。

窓越しに写真を撮ったりドアをガチャガチャしてるのが防犯カメラに映ってたようで、しばらくすると館長さん(?)がやってきました。
怒られるかと思ったのですが”見たそうにしてたのがカメラに映っていたのでやってきた”と言うことで、鍵を開けその階段から展望台まで登らせて頂きました。

その後も館内を一般の人が入れないところまで案内して下さいました。
(使い勝手についての話が多かったです。勉強になりましたが僕がクレームを受けているようで多少耳が痛いところでした。機能性とデザイン性、どちらも兼ねられればよいのですが・・・)

今は非公開になっている庭にも案内して頂いたのですが、そこで珍しいものを発見。
ついこの間読んだ本でみた「たのかんさぁ(田の神様)」がたくさん並んでいます。

宗教などが基になった石造を”公”の石造だとすれば、これは現場から興った”民間”の石造で、その成り立ちは全国的に見てもとても珍しいものだそうです。(たしか)
それがたくさん並んでいます。田が無くなり行き場を失った”たのかんさぁ”が集められたのでしょうか。

美術館に赤ちゃんを連れて行くのは不安もあったけれど割合良い子にしてくれたので助かりました。
詳しく案内していただけるとは思っていなかったし、最後に思わぬものが見れてなかなか良い日でありました。




B086 『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』

瀧口 範子 (2006/02)
TOTO出版


同じ著者のコールハースについてのドキュメントではコールハースに振り回されて、若干消化不良な感じがした。(それこそがコールハースの行動力や掴みどころのなさを表していたともいえるが。)

この本では著者の目線が抑えられていたが、その分(?)伊東さんがうまく捉えられていたように思う。

僕の中の自由への憧れも、かなりの部分は伊東さんやその他の建築家の直接的・間接的影響によって無意識のうちに形成されたのかもしれない。(というか、そうだろう)

は~ぁ。伊東豊雄、かっこ良すぎるなぁ。
こんなにわくわくさせてくれる人は他にいない。影響されないようにしても無理な話だ。(一見、分かりやすいので真似をするのは危険すぎますが)
このままコルになるんじゃなかろうか。

新建築サイトの藤本壮介との対談動画も面白い(※)。同じ対談でも動画って間の取り方なんかがわかるので文章に比べて断然情報量が多いのですね。
展覧会行きたいなぁ。※今なぜか新建築のサイトにつながりません。動画は新建築11月号の目次から見れます。




コスプレ

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整然と区画整理された住宅地にメーカーの家が展示場のように並ぶのを見るとなんか悲しくなってきて気が滅入ってしまう。
何がそんなに気を滅入らせるのだろうか。

小学生の頃、友達が階段室型の”団地”と呼ばれていたところから整然とした住宅地に引っ越したので遊びに行った。
そのときその土地が何か他人行儀な感じがしてとても居心地が悪かった覚えがある。
その頃の感じを思い出すのだろうか。

例えばこの感じを衣類に例えてみると何がしっくりくるだろうか、と考えてみた。

なかなかぴったりのが思い浮かばないがあえて言うならばコスプレ、だろうか。
アニメのキャラクターなんかをそのまま真似たようなちょっと安っぽい手作り感をかもし出しているコスプレ。

そこには自己完結的で周りを断絶するような頑なさを感じるし、使われている素材や形態も人間や周囲との関係性を放棄しているように見える。

そして、なんと言うかリアリティを感じない。(アニメなんかのイメージを直接的にもってきている訳だから当然といえば当然)

住宅地のリアリティのなさと、人間や環境や時間etc.との関係性の薄さがコスプレ的なのである。
一時的なイベントであって日常とはなり得ない(と思う)コスプレと住宅に似たものを感じるというのがなんとも悲しい。

ここで育った子供たちはどんなリアリティを感じるのだろうか。
また、何十年も経てばこれがノスタルジックな風景と感じるのだろうか。(それはそう感じるのかもしれない・・・)

コスプレ的でない住宅をつくると言うことが困難な社会になっている、というのもまた現実だと思う。




B085 『建築空間の魅力 私の体験』

建築空間の魅力 私の体験 芦原 義信 (1980/01)
彰国社


事務所の人が古本屋に出そうとしていたのでもらってきた。

著者の東大退官講演などを収録。
僕がまだ小学校に上がる前の本だが、街並みなどに対する危機感なんかは今と同じ。
現実は進歩なしという感じ。

これぐらいの世代の方の建築論は素直で理解しやすいものが多いような気がするし、実際の設計のプロセスと直結した理論が多いので参考になることが多い。

今の建築論はその辺の方法論が前提としてあった上で、微細な感覚の襞のようなものをすくい上げるようなのが多いので今から建築を学び始める人は取っ掛かりが難しい気がする。

僕も恥ずかしながらその前提の理論をすっとばしてることが多い。『街並みの美学』でも読んでみようかなんて思ったりしている。




B084 『Small House 人と建築の原点』

ニコラス ポープル (2003/08)
エクスナレッジ


「狭小」と書くとなんとなくネガティブなイメージがあるが、空調・清掃・コストその他メリットを挙げればポジティブに捉えることだって出来る。

なにより身の丈にあった、自分のイメージの器にすっぽりと入るような住宅は、小さな宝物のようにちいさな世界を所有する喜びがある。

巧みに世界を縮小できればできるほど、わたくしはいっそう確実に世界を所有する。
しかしこれとともに、ミニアチュールにおいては、価値は凝縮し、豊かになることを理解しなければならない。
ミニアチュールの力動的な効力を認識するには、大きなものと小さなものとのプラトン的弁証法では十分ではない。
小さなものの中に大きなものがあることを体験するには論理を超越しなければならない。(ガストン・バシュラール(1958))

論理の超越を共有する。ってのはどこまで可能か。

この本では建物を「自然の中」「都市の中」「集合住宅」というように章で分けているが、やっぱり大きな自然の中の小さな家という対比が美しい。都市に埋もれるだけでない佇まいというのはどうすればいいのだろうか。
アトリエ・ワンなんかのアプローチは参考になるけれど・・・。




B083 『フォークロアは生きている』

下野敏見 (1994/10)
丸山学芸図書


週末加世田の実家に行くとこの本が机の上においてあった。
聞いてみると、この本に取り上げられている仏像の持ち主の本だった。著者から寄贈されたのだろうか。
著者はどこかで聞いた名前だと思ったが、屋久島の民話を書いた方だった。(屋久島の民話のときは高校教師だったようだが、この本では鹿児島大学教授となっている)
ということでちょっと拝借してざっと読んでみた。

「フォークロアは死んだ」などと早トチリする人もあるようですが、どっこい、フォークロアはこの日本に脈々と生きているのです。
それどころか、フォークロア(folk-lore)すなわち民間伝承はこの世に人がいる限りあるのであり、それを研究する日本民族学も日本列島に人が住んでいる限り必要なものだと考えられます。(はじめに)

各地で脈々と生きているのだろうが、僕もそうだけど多くの人はこういうことに触れることがあまりないまま生活しているのではないだろうか。
たまにでも、こういうことに触れたり考えたりすることは自分たちの足元を見つめなおすためにも大切なことだと思う。
そういえば数年前に県民交流センターで地域の祭りを紹介するようなイベントに行って結構感動した覚えがあるけれども今もやっているのだろうか。




B082 『元気が育つ家づくり―建築家×探訪家×住み手』

仙田 満、渡辺 篤史 他 (2005/02)
岩波書店


建築についていろいろな議論があるけれども根本にはこういう思いがあるはずだ(と願いたい)。

ことさらに元気にならなくてもいいとは思うけれども、われわれには後世に受け継いでいく環境を創る(守る)義務がある。
しかし日本では自分のことばかりを考えていて、環境に対する意識が不足しているように思う。
というか、「自分さえよければ」という考えはますます加速していきそうな気がする。

文化は、そこに住む人の以上でも以下でもないと言われますが、あの時よくぞ創ってくれたこの環境、と後世の人々に言わせてみたいですね。・・・・それには、私たち庶民が、きっかけはどうあれ、建造物や街並み、環境に興味をいだき、やがて「見巧者」になることです。(渡辺篤志)

多くの人は身の周りの物や建物、道路・景観といった環境が生活を破壊することもあれば人間をつくることもあるということを考えたこともないのではないだろうか。
せめて義務教育の間にでも、自分たちがどのような環境をつくっていくのか、その環境がどのように人の幸福や豊かさに関っているのか、という見方があることぐらいは伝えて欲しいと思う。
「経済」という軸以外にも同じように扱うべきさまざまな軸がある、というのがあたり前と感じられるようになって欲しいものです(そんなことを言うのは「負け組」だとか言われるのでしょうが)

仙田満は日本建築家協会会長であり、「子どもを元気にする環境づくり戦略・政策検討委員会」の委員長もしている。
ただ、「子供を元気にする」と言うのは多少違和感がある。子供なんてほっといたって無駄に元気なものだし、現代であってもそれは変わらないだろう。それを大人がさまざまな機会を奪うことによって元気でなくしている(又は大人がそう思い込んでいるだけ)ではないだろうか。
それを「子供を元気にする」というのは元気にしてやると言う大人のエゴのようなものを感じて違和感がある。NHKの「ようこそ先輩」を見ていてもゲストの先生が常識のタガを少し外してやるだけで子供たちがみるみる元の元気さを取り戻すというのはよくある光景だ。
そういえば元気は「元の気」と書く。なるほど。

渡辺篤志は建物探訪で800件以上見ているそうだけれども、それ以上にすごく勉強している。
建築が好きなのが分かるし、それゆえに現実の問題がクリアにみえて悔しいのだろうな。思いはすごく伝わってきた。建築をやっている人にもだけれども、一般の人にこそ読んでみてもらいたい。
建築を見る目を変えるきっかけとして。




ほぼ日

昔はちょこちょこ読んでたんだけども長く見てなかった。
「蟻鱒鳶ル」をとりあげてると言うことで久しぶりに覗いてみた。

その中の 糸井重里のコラムを読む。
何言ってんのぉ、と言われそうなけっこう微妙なところを攻めている。勇気あるなぁ。

<深いって、いいことか?>っていうのに引っかかる。
取り扱い注意な感じの記事だけど、これを読んで反省することしきりである。

建築やってる人は特に「深い」だとか理屈だとかの罠にはまりがち。

もっと、なんと言うか、シンプルでいい。

それが難しかったりするけど。




B081 『道具と機械の本―てこからコンピューターまで』

道具と機械の本―てこからコンピューターまで 歌崎 秀史、デビッド・マコーレイ 他 (1999/10)
岩波書店


図書館より。世界的ベストセラーだそう。

シリンダー錠の構造からデジタル技術まで、いろいろな道具や機械のしくみをイラストで紹介する。

どんなものでもそれを考え出した人がいる。
しくみを知ることでブラックボックスがそうではなくなる。だからなんだと言うことだけれども、これによって道具や機械と少しお近づきになれた気がしてくるし、大げさにいうと視野が、世界が拡がった気分になる。ブラックボックスに囲まれた不安がちょっとした妄想遊びに変えられるのだからおもちゃのようなものでもある。

もしかしたら勉強というのは関係性を築くことかもしれない。
例えばこういう本や物理学は物や世界・宇宙との関係性を築く技術であると考えられるし、歴史は過去(未来)との関係性を築くことだと言える。そして、関係性を築くと言うことは自らの拡がりを獲得することだと思う。ただ、拡がりを感じたい。それだけのことかもしれない。




久しぶりに

東京から高校時代からの友人が来ていたので何人かで飲んだ。

他の業界の話が聞けてとても刺激になったし、自分に対しての甘さを感じさせられた。

僕は自分をみせることに対してまだ逃げる余地を残している。

自分自身にも鹿児島全体にも言えることだけど、意識レベルを底上げしなくてはいけない。

堅い話は置いておいても久しぶりに楽しい夜だった。
こういう機会は時々持たないと。

友人のアドバイスで住宅のスタディのA~Zには何らかのストーリーを被せることにした。
自分でも考えていたけれど、Aから順番にアルファベットに意味を持たせつつ進めていけば、そのときの自分の気持ちと案にずれが出てしまうのが怖くてあきらめていた。

だけども、AからZまでを順番にするのではなくてそのときの気持ちに応じてアルファベットを選ぶのであれば続けられるかもしれない。
それだと、次第に選択できるアルファベットが減っていき、拘束力が強まるのでマンネリ化やネタ切れを防げるし、発想を前に進める原動力になるかもしれない。

と言うことでアルファベットは順次選ぶことにしよう。




B080 『白井晟一空間読解―形式への違犯』

安原 盛彦
学芸出版社(2005/09)

副題にあるとおり「形式への違犯」を読み解く。

モダニズムのルール(オキテと言ってもよい)は便利ではあるが、それだけでは何かが足りないものになってしまう。

白井にはそれに捉われない強さがあった。

ルールをほんの少しはみ出せるだけの強さをもつこと。
その強さは自分の中に見つける以外にない。
自由とは強さのことではないか。




独立

今日久しぶりに友人に会ったら、知らない間に独立していた。

熱い思いを胸に鹿児島で独自のポジションを確立しつつある。

見かけどおり、将来は”ドン”とでも呼ばれてそう。

自分は今できることをひとつひとつ積み重ねていくしかない。
そして、自分がどのようなポジションを目指しているのか今一度見つめなおす必要性を感じた。

一歩一歩確実に、そして時には大胆に。

今日も勇気を分けてもらった。ありがとう。




W016 『鹿児島カテドラル・ザビエル教会』


□所在地:鹿児島県鹿児島市照国町
□設計:坂倉建築研究所
□用途:聖堂
□竣工年:1999年
□参考:鹿児島カテドラル・ザビエル教会
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今日、参考にと仕事の合間に見に行ってきました。
外部をちょっと見るだけのつもりでしたが、内部も見ていいとの事で中にも入りました。

大聖堂のパンチングメタルとステンドグラスの構成はさすがにきれい。
赤はザビエルの情熱を示しているそう。(作品リストの1999年参照)
熱い教会。

ひるがえって、小聖堂はこじんまりとした落ち着いた空間。
お祈りをしている人がいたので写真は撮れませんでしたが。

それにしても電線が邪魔。




B079 『悪なんて知らないと猫は言う』

悪なんて知らないと猫は言う―悪とヒトの優雅な哲学 左近司 祥子 (2001/09)
講談社


結構前に読んだ本。
猫好きの哲学者による哲学エッセイ。

プラトンやアリストテレスを軸に善や悪、自由、共同体、自己保持などについて分かりやすく語られる。

争いが行くところまで行ってしまうのは、その争いが、非当事者の立場から見れば、「善い」と「悪い」とのせめぎあいなどではなぃ、「善い」と「善い」のしのぎあいになっているからである。

くしくもこの本は2001年9月10日発行である。
絶対的な善や悪があるなど幻想に過ぎない。しかし、悲しい争いは絶えることがない。

あるのは自分にとっての善や悪だけだ。それなのに人はおせっかいにも周りに対してその善や悪を当てはめたがり無駄な争いを生む。
しかし、猫にとっては善や悪なんてものはどうでもいいことなのだ。猫は『寝たふりをしながら、じっと宇宙の呼び声を聞く』だけである。(谷川俊太郎の詩のように)ペットにするなら犬がいい。
だけどもし無人島に連れて行くなら猫を選ぶかも。




B078 『住宅読本』

中村 好文
新潮社(2004/06/23)

またもや中村好文であるが、読みやすいのでつい。

1章から12章のタイトル
「風景」「ワンルーム」「居心地」「火」「遊び心」「台所&食卓」「子供」「手ざわり」「床の間」「家具」「住み継ぐ」「あかり」
それらは著者がとくに大切にしている事柄だろう。

あるポイントを押えて、それだけでいいと言えるかがどうかが良い住宅になるかどうかの分かれ目かもしれない。

著者がよく引用する『ボートの三人男』の中の簡素な暮らしを小舟に例える引用

がらくたは投げ捨ててしまえ。ただ必要なものだけを積み込んで-生活の舟を軽やかにしたまえ。簡素な家庭、素朴な楽しみ、一人か二人の心の友、愛する者と愛してくれる者、一匹の猫、一匹の犬、一本か二本の愛用のパイプ、必要なだけの衣料と食料、それに必要より少し多めの酒があればそれでよいのだ。

さて、僕にとってこれだけでいいと言えるものはなんだろうか。




B077 『住宅70年代・狂い咲き』

篠原 一男他
エクスナレッジ (2006/02)

70年代、「野武士」達の時代。
個性のある作品が集められているというのもあろうが、この時代の住宅にはエネルギーがある。
建物が「人格(?)」のようなものを獲得しているようにも見える。

あまりに饒舌で押し付けがましいのは嫌われるかもしれないが、そればかりが人格ではない。
藤本壮介が篠原一男の「上原通りの住宅」を『地球のような場所』と評しているが、これも地球のように包容力のある人格を獲得しているという言い方もできるだろう。

マーケテイングを学んでいる友人にアカウントプランニングという手法では企業に人格のようなものを設定する、というようなことを教えてもらった。
何か通ずるものがあるように思う。

あまりに固定的な人格ではつまらないが、コルの建築のように複雑で、篠原一男のように懐の深い人格ができれば良いな。