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B054 『あのひとが来て』

あのひとが来て 谷川 俊太郎、谷川 賢作 他 (2005/09/30)
マガジンハウス


3/14のお返しにとちょっと奮発して買ったもの。(CD付)

素晴らしい詩と
素晴らしい音楽と
素晴らしい絵。

豊かで深い。

『深い』というと、その奥に深い意味が隠されていると思いがちだがきっとそうではない。

意味などというものにはとうてい回収されない『深さ』でただ存在していること。
そういうものがあるということ。
そこにこそ美しさや豊かさが存在するということ。

そんなことを思い出させてくれる。

生きる意味とかなんとかいうものは一度忘れてしまえばいい。

そしてもう私は
私がどうでもいい
無言の中心に至るのに
自分の言葉は邪魔なんだ
『旅3arizona』より

身近なものをおそれるあまり
遠くを見すぎて
男の心は宇宙のようにスカスカだ
『猫に見られる』より

私のタマシイに
いつまでも時は満ちないのに
こいつのヒゲの先で
時は満ちる
私を待たずに
『猫を見る』より

時間に満ちた世界は
実際にこの本を手にとって
味わってください。

詩と音楽。もうこれだけで完成した世界に空間を与えるのが、私の仕事であった。山本容子・あとがきより

自分の感じていること、思っていること、考えていることを人に伝えたいなら、詩よりももっとそれに適した形式がある。私は詩をただそこに存在させたいだけだ、石ころのように、洟垂れ小僧のように、と言うと我ながら自分の傲慢にあきれるが。
しかし絵描きでも音楽家でも歌い手でも本音は同じではないだろうか。美しいとしかいえない何かが、目に触れ、耳に触れ、肌に触れてくる、それがARTと呼ばれるものであるはずだ。谷川俊太郎・あとがきより




B053 『甘えのルール』

甘えのルール―赤ちゃんにあなたの愛情を伝える方法 信 千秋 (1998/09)
総合法令出版


相方が図書館で借りてきたのでつまみ読み。

ひとことでいうと3歳まではスキンシップを大切にして甘えさせなさい。それで情緒が安定し人生に立ち向かう基盤ができる。ということ。
そして「甘え」と「甘やかし」は違う。心の甘えをモノですりかえないということ。「心のほしがる物は心で与える―それがルール」

甘えさせてばかりいると、わがままで弱い子になるのではないか、などと思いがちだけど、3歳までは人生を肯定的に受け入れるために甘える必要があるそう。
(そして、これは父親の出る幕ではないそう。さみしいけど。)

説明が中途半端に科学的であろうとしているので、かえって説得力を失っているように思うが、著者がたくさんの親子と接した中から見つけ出してきたことは、まぁそうだろうなと思う。
徹底的に科学的であるか、もっと感性に訴えかけるような簡潔な表現に絞るかした方が訴える力は大きかったように思う。

それはともかく、僕自身これから様々な矛盾する情報に出会うだろうし、混乱することもあるかもしれない。
しかし、子供を育てることは数式で答えを導き出すようになものではない。

自分の子供を信じ、感じ取ることのほうが大切ではないかと思う。

情報も大切だろうけど、ちょっとした安心感を得るためぐらいに考えてあんまり振り回されないようにしよう。

■子育ては「感性」「性格」「情緒」のバランス。
■「音育」感性は振動でつくられる
■「動育」性格は動きで育つ
■「心育」情緒は母親の心の安定で育つ

■子育てで、他人に迷惑をかけない生き方をしなさいと、よく子供に教える人がいますが、本当は少し間違っているようです。人は他に迷惑をかけないでは一日も生きることはできないのです。それだけに他からかけられる迷惑も、ともに背負って解決していこうとする行き方が、自然から与えられた共生の知恵だと思います。(あとがきより)




Region


まだ見ていないが鹿児島の地域ブランディングを考えるフリーペーパーというのがあるそうだ。

実は高校の同級生で腐れ縁のあるM氏が企画から積極的に関わっているものだ。
何度か彼からこういうものをつくるという話は聞いていて少し気にしていたのだけれども、もう2号まで出ていた。

Region=「地域、地方」という言葉に『開かれた地域』という意味が込められている。

彼が東京から鹿児島へ戻るときに熱く語っていたことが一つの形としてここに現れつつある。

彼は彼のもつ情熱や人なつっこさと言った持ち味を生かしつつ一歩一歩前に進んでいる。

ちょっと悔しいけどまいった。

僕は、自分の進む確かな道を定めかねてしまっている。

自分の持ち味を生かせる、自分の生きられる道はどこにあるのだろうか。

大学の3回生の終わりごろ、お世話になった先生に『建築とは何か』と尋ねられた時に深い森に迷い込んでしまった感じがしたが、今も同じように不安と希望の森に迷い込みつつある。

今回は自ら進んで森に入ったようなものだし、その森もぼんやりとは見えつつはある。
しかし、だからこその迷いがある。

こんどこそこの森を抜け出したい。

だからあともう少し歩いてみよう。

そのための歩く力をこの情報誌から/彼から少しもらおう。

********************

近所のMisumiに置いてあるようなので原付を走らせ店員に聞いてみたが、今切れているそうだ。残念。
明日にでも探してみよう。
今回Close upされているN氏も同級生ではないか。はー。




B052 『建築は詩 -吉村順三のことば一〇〇』

永橋 爲成
彰国社(2005/10)

シンプルで居心地のいいすまい。

火と水と植物。光と音楽。

端正な佇まい。品。プロポーション。寸法。

そんな、単純であたりまえのことが大切。

でも当たり前のことで勝負するのが一番難しい。

■一般に物の形は固定した論理でもって、やみくもにつくられるべきものではない。人間の自由さをいいものとして形に生かしていく努力―責任のある自由さ―を大切にしたい。

■建築は、はじめに造型があるのではなく、はじめに人間の生活があり、心の豊かさを創り出すものでなければならない。そのために、設計は、奇をてらわず、単純明快でなければならない。

■計算では出てこないような人間の生活とか、そこに住む人の心理というものを、寸法によって表すのが、設計というものであって、設計が単なる製図ではないというのは、このことである。

■私は建築家として、自分では寸法にいちばん責任をもっている。自分のプロとしての責任として、寸法を大事にしています。




B051 『きもちのいい家』

きもちのいい家 手塚 貴晴、手塚 由比 他 (2005/12)
清流出版


『建築の意味や目的は、気持ちよさを味わうためにある』

自分が『いいなぁ』と思った『ありそうでなかった当たり前のこと』を当たり前にやる。

それだけでいいんだ。と背中を押してくれる。




ようやく

50冊。
去年のうちに100冊と思ってたけどようやく半分。
100冊までは辛くともとにかく読み切ろう。
少しづつ、輪郭が見えてきた気がする。
ぼんやりと。




B050 『地球生活記 -世界ぐるりと家めぐり』

小松 義夫
福音館書店(1999/06)

メーカーさんにもらったカレンダーの写真があまりに魅力的だったので誰が撮ったのだろうと見てみると小松義夫と言う人の撮影だった。
調べていると面白そうな本も出している、ということで図書館で借りてきた。

先進国で暮らす人はそれ以外の人に比べて多くのことを知っていて、多くのものを手にしていると思っている。
しかし、それは本当だろうか。

この本に出てくる先進国とはいえない場所の、たくさんの家はとても斬新だし、壁に描かれた絵は生き生きとし今にも動き出しそうである。
先進国でプロと呼ばれ、知識も豊富と思われている人が必死に到達しようとしているもの、なかなか手にできないものを、ただの生活者が手にしている。

とにかくため息が出るほど豊かなのだ。
それに比べて私たちのつくるものはどうしてこうも貧しくみえるのだろうか。

私たちは謙虚さをすぐに見失う。
浅はかで薄っぺらな知識や、怠けることばかりする意識や、つまらないエゴや、その他もろもろのちっぽけなものを、過信しそれがすべてだと錯覚する。

それらは本当にちっぽけなものに過ぎないのに。

『宗教』という方向には行きたくないが、もっと大きなものを感じ謙虚さを失うべきではないように思う。
これらの家には謙虚さを感じるし、ちっぽけな意識を超えた豊かさを感じる。

佐々木正人の観察によるとフォーサイスの魅力は「有機の動き」すなわち意図を消滅させ外部と一体となるような動きにある。

同じようにこの本の家には、環境や家そのものと、つくる人とがダイレクトに呼応しあう・一体となるような関係が見て取れる。
そして、ここには肌理も粒もある。

おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。
(フォーサイスのようなものづくり?)

有機と無機の兼ね合い・せめぎあい、ここいら辺に何かありそうだ。




B049 『レイアウトの法則 -アートとアフォーダンス』

佐々木 正人
春秋社(2003/07)

日本のアフォーダンス第一人者の割と最近の著。

レイアウトと言う言葉からアフォーダンスを展開している。

アーティストとアーティストでない人の境界があるかは分からないが、著者は学者でありながらへたなアーティストよりもずっとアーティスティックな視点や言葉を手に入れている。

それはギブソンから学んだ『目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか』という方法を実践しているからであろう。

本著を読んで、レイアウトの真意やアフォーダンスを理解できたかどうかはかなり怪しいのだが、ぼんやりとイメージのようなものはつかめたかもしれない。

著者が言っているようにアフォーダンスは『ドアの取手に、握りやすいアフォーダンスがあるかどうか』ということよりもずっと奥行きのあるもの、と言うよりは底のないもののようだ。

様々な分野で、一つのある完結したものを追及し可能性を限定するような方向から、”関係性”へと開いていくこと、可能性を開放していく方向へとシフトつつあるように思う。

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。

幾重にも重なる関係性を築きながら流れ創発していくこと。

建築を確固たる変化しないものと捉える事が何かを失わせているのではないだろうか。

*****メモ******

■知覚は不均質を求める。
■固さのレイアウト
■変化と不変
■モネの光の描写。包囲光。
■デッサン(輪郭)派(アングル):色彩(タッチ)派(ドラクロア)
アフォーダンスは色彩派に近い。完結しない。
アトリエワンの定着・観察『読む』『つくる』環境との応答・関係性
■相撲と無知行為・知覚は絶えず無知に対して行われる。無知を餌にする。
■表現・意図は「無機」「有機の動き」=「外部と一つになりつつある無形のこと」
クラシックバレエ=「無機と有機の境界」
フォーサイス=「無機の動きと意図の消滅」動きが「生きて」いる。それは舞台と言う無機的な環境の中で、有機の動きを発見し続けるさま。
■肌理(キメ)と粒(ツブ)それがただそれであること(粒であること)と同時に肌理であること。
知覚は粒と肌理を感じ取る。
人工物には肌理も粒もない。自然にさらされ肌理・粒に近づく。物への愛着は粒への感じなのではないか。

レイアウトや肌理や粒の感じや有機ということは急速に身の周りから失われつつある。




展覧会など



今日はお目当てがあったので久しぶりにまちに出ました。

列車に揺られる気分を味わおうと思って谷山から汽車に乗ったのですが、快速列車に乗ってしまって失敗。
鈍行列車の雰囲気は中央駅から鹿児島駅までの一駅だけでした。
(ちなみに、鹿児島には市電が走っているので、市電を「電車」、JRの方を「汽車」と呼び分けるようですが、まだ僕は使いこなせてません)



ドルフィンポートでパンを買って海際の公園にレジャーシートを敷いて食べました。
昼寝をしたりとまったりと。
ドルフィンポートは出来てそんなにたっていないのに、土曜日の割には人が少なめでした。(少し曇り空と言うのもありますが。)
錦江湾に向かうのを強調するためあえて、まちに背を向ける構成は理解できますが、もう少しまちに向かって開いて、つながりを考えた方が良かったのではと個人的には思います。



その後、お目当ての展覧会に。
鹿児島出身の5人のイラストレーター&デザイナーが、戦後60年間の出来事を60枚のポスターで表現します。

出展している大寺さんのHPをときどき見ているのですが、そこで紹介されていて気になってたので観に来ました。



途中の階段にあったポスター。自画像でしょうか。



会場風景。5人それぞれの個性が見えてとても楽しい展覧会です。
90年代のできごとなどは、すごく懐かしい気がしたのですが、そんなに昔のことではないのですね。

展覧会のあと強く印象に残ったのはテロなどの悲惨な出来事が多かったです。
この60年間でもポスターの出来事から、だんだんとゆるさや隙間というものがなくなっていっていくように感じました。(単に昔のことにはノスタルジーを感じるだけかもしれませんが。)
感じ方は人それぞれ。
展覧会は明日(3/12)までですので、時間のある方は自分なりの60年を感じてみてください。
(会場は天文館タカプラ6階です)



その後、たまたま三越でも版画家の山本容子の展覧会をしていたのをみつけたので観に行きました。
山本容子は「誰でもピカソ」以外ではじっくり観たことがなかったのですが、ちょっとまいりました。
アナログのもつ奥行きの深さをまざまざと見せられた感じです。
描かれた一つ一つのキャラクターが、それぞれ独自の時間の流れをもっていて、その間の余白にもそれらをつなぐ空気や時間が流れている感じ。
独特の空気感や時間の流れに惹きこまれる。
作業風景のVTRもあったけれど、作品と作家の身体とが直につながっている。
いやー、まいった。
(こちらも13日までです。入場料500円の割には展覧会のボリュームもあり。)

イラストや版画の作品は、私たちパパラギの世界にも、ゆったりとした時間や、自然を感じる心や、笑顔やその他さまざまな豊かなものがあることを気付かせてくれます。(また、全く逆のことも示してくれますが)
建築もそういうものでありたいです。

今日は、途中で寄った本屋でずっと探していた本も見つかったし、充実の一日でした。
(身重の妻は大変そうだったけど、楽しかったようです)




B048 『絵本 パパラギ』

絵本 パパラギ―はじめて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと 和田 誠、ツイアビ 他 (2002/03)
立風書房


『はじめて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと』

図書館で小休止がわりに借りてきた。

初版が1920年(スイス)のロングセラーの絵本版。

パパラギとはサモアの言葉で「白人」「文明人」を指す。

ツイアビから診た”パパラギ”はとても不自然で貧しい。

ただ、ここで書かれているツイアビの言葉には、文明人の匂いも感じる。
文明人が何かを語りたいがためにツイアビに語らせているように感じる。
なんとなくフェァじゃない気もするが、それはいいや。

私たちはパパラギの世界に住んでいるが、ここにも楽しみや愛や笑顔はある。
ただ、いろんなものが見えにくくなっているだけだ。

自分とツイアビを比較するのは見えなくなっているものをくっきりと浮かび上がらせる。

だけれども、ツイアビとの比較で今の社会の貧しさを嘆くだけでは、何も変わりはしない。
遠い豊かさを羨望しているだけでいるよりは、身近なところから豊かさやよろこびを感じたり、生み出すことからはじめよう。

パパラギもたまには立ち止まって、ツイアビの話に耳を傾けたり、おおきく深呼吸したり、自分の足元を見たりしてみないといけない。

*****メモ*****

■自然の大きな力から離れてしまった、心が迷った人たちだけが、日もなく、光もなく、風もない、意志の割れ目(ビル)の中で満足しているのだ。
■物がないなら死んだほうがましだ……この人たちはそう考える。食事の皿のほかはなにも持っていなくても、私たちならだれでも、歌を歌って笑顔でいられるのに。
■百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとしない。それどころか、持っていないことをその人のせいにしたりする。・・・・たくさん物を持ったら、仲間に分けてやらなくてはいけない。だれかひとりがたくさんの物を持つのは大自然の心ではない。
■パパラギの世界では、人間の重さをはかるのは気高さや勇気や心の輝きではなく、一日にどのくらいお金を作るか、どのくらいお金を箱にしまっているかなのだ。
■みんなの目は太陽のように輝いている。喜びに、力に、いのちに、そして健康にあふれて輝いている。みんなのような目は、パパラギの国では子供だけしか持っていない。
■機械が何でもすぐに作ってしまうので、パパラギはどんな物にも愛情を持たなくなった。それが機械の持つ大きな呪いだ。
■からだも、心も、全部がいっしょに働いて、はじめて人間は喜びを感じる。一部分だけ生きるのなら、他のところは死んで、人間はめちゃくちゃになってしまう。
■腹いっぱいに食べるために、頭の上に屋根を持つために、村の広場で祭りを楽しむために働くがいいと、自然の大きな力は私たちに教える。それ以上になぜ働かなければならないのか。
■私たちは一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに時を愛してきた。時間が苦しみや悩みになったことはない。
■「太陽はどうして美しく輝くのか」これはまちがいだ。馬鹿げている。日が照れば何も考えないほうがいいのだ。・・・頭で考えるのではなく、肌や手足に感じさせる。
■たいていの子供はたくさんの知識を頭の中に詰め込みすぎていて、どこにもすきまはなく、光もさしてこない。




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「挾土秀平・不安の中に成功がある」』


>>番組HP(NHK総合)

カリスマ左官と言うので久住氏かと思ったが違った。

挾土氏も久住氏と同様苦労の中で、徹底して試行錯誤を行っている。
それがベースになっている。

途中、語っていたが、一つのことをやり続けていれば、いづれそこからどんな枝も生やせるし、どんな花も咲かせられるようになる。
それは、僕も強く感じる。
あることを突き詰めていくと、一方ではあらゆる方向に拡がっていくし、あらゆるものは突き詰めた先では共通するものにたどり着くのではないだろうか。
おそらく極めれば極めるほど、ものごとの境界はなくなっていくし、真にプロフェッショナルといわれる人は共通の言葉で語り合えるようになれるのではと思う。

『常に不安を抱えることで、感覚が研ぎ澄まされ、良い仕事が出来る』

職人だからこそなおさら感覚を大切にするし、独特の作法を持つ。

左官など、土の状態の僅かな変化を自らの身体で感じ取り、その情報に直接身体的に応答する、アフォーダンスの最も洗練されたものの一つだと思う。

この番組を見るといつも羨ましく感じてしまう自分がいるのだが、今回は、自分の身体性と直に向き合えること、試行錯誤を繰り返し新しいことに挑戦できることが眩しく見えた。

プロフェッショナルとは

新しいことに挑戦して、そこですごい不安な気持ちでみんながピリピリしているムード。そのムードのことを僕はプロフェッショナルと言いたいです。そういうことに挑戦してピリピリしている、殺気立っているムードのことをプロフェッショナルだなと思いますね。挾土

挑戦にピリピリし、そして笑いたいなぁ。
[MEDIA]




B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

佐々木 正人
岩波書店(1994/05)

アフォーダンス。
これもフラクタルのように自然のかけらを鳴らす楽器のひとつだと思う。

私たちのものの捉え方は、前世紀的・機械論的な枠組みにとらわれていることが多い。

そのような『不自由な』枠組みから自由になることを実践した理論の一つがギブソンのアフォーダンスである。

■ギブソンの知覚理論から学んだことの一つは、「認識論を実践する」という態度である。
■もっと大事なギブソンのメッセージは「何にもとらわれない、ということをどのようにして構築するのか」という「知の方法」とでも呼べることである。
■彼に学ぶことの第一は、アフォーダンスの理論であることはもちろんだが、それだけではなく、目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか、すなわち「理論」そのものからも自由になる方法である。(あとがきより)

しかし、一度身についてしまった枠組みから抜け出すのはなかなか難しい。
『アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。』といわれても、感覚器(例えば目)から刺激を受け取り、その刺激を脳で処理するというようなイメージをどうしても浮かべてしまう。

本著にも下記のように誤解されやすいと書かれている。

■誤解-1・・・アフォーダンスは反射や反応を引き起こす「刺激」ではないか。↓↓↓
アフォーダンスは「刺激」ではなく「情報」である。動物は情報に「反応」するのではなく、環境に「探索」し、ピックアップしている。「押し付けられる」のではなく、知覚者が「獲得し」、「発見する」もの。そこには必ず探索の過程が観察できる。

■誤解-2・・・アフォーダンスとは知覚者が内的に持つ「印象」や「知識」のような主観的なものではないか。
アフォーダンスは勝手に変化するのではなく、環境の中に実在する。アフォーダンスは誰のものでもある。すなわち「公共的」なもの。

なんとなく、分かったような分からないような感じだが、一つ言えることは”認知とは受動的なものではなくずっと能動的な行為である”ということである。

単に刺激を受け取るのではなく、例えば身体を動かして視点を変えたり、物を触ったり動かしたりしてみたりと、いろいろと探りを入れながら環境から情報をピックアップしていくのである。

■そのようなアフォーダンスをピックアップするための身体の動きを、ギブソンは「知覚システム」と読んだ。
■ギブソンは、感覚器を、それが動かないことを意味する「受容器」という呼び方に対して、あえて動くことを強調して「器官」と呼ぶことを提案している。
■脊椎動物は5種類の知覚システムをもつ。・・・「基礎的定位付けシステム(大地と身体との関係)」「聴くシステム」「触るシステム」「味わい-嗅ぐシステム」「見るシステム」
■「五」という数には意味がある。それは「感覚器官」の種類の数ではなく、「環境への注意のモード」の種類と考えるべき。

運動抑制モデルについても、脳がすべての動きを制御しているという図式ではなく、『共鳴・同調』といったよりダイナミックなものとしてとらえられている。(この辺はオートポイエーシスのとらえ方と重なるように思う)

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。

それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。

(例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

■リアリティーのデザイン
「物」ではなく「リアリティー」を、「形」ではなく「アフォーダンス」をデザインすべき。
■デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。

そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

捕獲するためのアンテナを研ぎ澄ますことが必要だ。

佐々木は、その後(彼独自のものかどうかは知らないが)『レイアウト』という概念を展開している。
それについても興味があるので後日。




がっ



「なんか、今日はアクセスが延びてるなー。友達にリンク貼ってもらったからかね」と思って、アクセス解析のリンク元をみてみると、ひとつ飛びぬけてるのが。

見覚えがないけど、アドレスに「designer」の文字がある。
なんじゃ、と思ってリンク元をたどってみると、あーびっくり。


前に感想を書いた本著者のサイトにここへのリンクが貼ってるではありませんか。

なんてゆうか、自分の奇行をたまたま同じ店に居合わせた芸能人が見ていて、それをその芸能人がブログでネタにした記事をたまたま見つけた、そんな感じです。

軽くテンションあがったんで思わず記事にしてしまいました。

あーびっくり。

こっちの記事に著者サイトへのリンクを貼ってたから、著者のアクセス解析にこのサイトがひっかかって、それで書いた記事にリンクを貼ってたからこっちのアクセス解析に・・・・・・

てな感じかいな。

はーびっくり。




B046 『建築とデザインのフラクタル幾何学』

カール ボーヴィル (1997/12)
鹿島出版会


あまり聞かれなくなって久しい「プロポーション」という言葉に惹かれ出している。

そういう感覚による部分が多いような要素、議論や説明のしにくい個人の領域に行ってしまいそうなものとは、なんとなく距離をおきたいと思っていた。
しかし、人間の意識の部分でコントロールできるものなんてのは僅かにしかなく、もっと感覚を研ぎ澄ませて、それを信じたほうがはるかに可能性が拡がるような気がしてきている。
(数日前の養老孟司の番組でもそんな感じの主張をしていたが、時代の流れと言うか、振り子が逆に動き出しているのだろう)

プロポーション・テクスチャー・カオス・フラクタル・ゆらぎ・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA

僕の中ではこれらの言葉がなんとなくひとつのまとまりとしてイメージされつつある。
“美とはDNAの中に刷り込まれた自然のかけら”だとすれば、造型論やプロポーションやフラクタルはそのかけらを共鳴させるための楽器のひとつといえるかもしれない。

(そうすると、ミニマリズム的なものは静寂のなかにしずくの音が時折響くイメージか)

今さらフラクタルそのものが目的になっては暑苦しいが、楽器のひとつとして扱えるようになるのもいいだろう。
音楽のイメージを拡げるのに楽器があっても良いように、感覚を拡げるためのツールがあってもよい。

この本はフラクタルの基礎的な説明から、建築のデザインへの応用まで分かりやすく説明されているなかなかの良著だと思う。
フラクタル・リズムや凝集といったものはデザインにおける様々な次元での応用がきくだろう。
それは自然のかけらをスパイスとしてデザインに忍び込ませるような使い方もできると思う。

だんだん『楽器』の練習をしたくなってきた。

フラクタルについて

フラクタルの基礎的なこと
フラクタルギャラリー
■建築では渡辺豊和がフラクタルを応用・展開している。




TV『福祉ネットワーク “あそび”を生みだす学校』



NHK教育福祉ネットワーク2月21日(火) 20:00~20:29
シリーズ“こころ”を育てる第2回“あそび”を生みだす学校~建築家町山一郎さん~

ゲストに象設計集団の町山一郎を迎えて1982年に建てられた小学校を紹介する。

前に象の本を読んだときのように、ため息が出っ放しだった。
やっぱり豊かである。
これが建築なんだなぁとつくづく思う。

建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(町山)

豊かさがそこにいる子供達の顔に現れている。

■小学校は日本全国均等に配置されていて、馴染みのある建物であり、地域のコミュニティの核となりうる。
■子育てにおいて、核家族という中で分断された形で子供が育てられている。日常的にも子供どうしが群れをなして遊ぶという機会がどんどん少なくなってきている。それは問題ではないか。
■親が専属で育てるのがいいという意見もあるが、子供をいろんな親が面倒をみて育て、子供が群れをなしてその中で育っていく。そういういろんなことがあわさって子供は育つ。
『子育ての共同化、地域化』が求められている。

それは宮台の言う『異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間』である。

宮代小学校では、全部で6つの門をつくり地域の人がどこからでも入ってこれるよう工夫していたが、いくつかの事件の後、文部科学省の指導があり、やむなく正門以外は閉じられてしまったそうだ。

安易に子供を隔離することによって守ること。それは子供達からコミュニケーションのチャンスを奪い、『隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在』として育ててしまわないだろうか。

最終的に建物がまちに開かれていて、そこに地域の人が参画することによって、地域の目によって子供も守られ、子供がいることで地域の人の集まる拠点となる。
そういう相互関係によって安全も守られ地域の核となることが一番だが、ときどきバランスが崩れることもある。
しかし、そういうのを乗り越えてより良いものができればよい。

と町山は言うが、町山の懐の深さと言うか、もっと長いスパンでものを見る視点に感心した。

また、設計の際『まちのような学校学校のようなまち』というコンセプトを建てたそうだ。

宮台はまち(家・地域)の学校化を問題点として指摘するが、それとは逆に、ここには学校の中にまち(家・地域)が流れ込む構図が見てとれる。

20年以上も前から、そういう視点をもっているというのは素晴らしいが、逆に言うとそれを受け入れる余地がまちの側にもあったということだろう。
(この学校では子供達が裸足で駆け回るが、それは学校側からの提案だったそうだ)

翻って、先日鹿児島県の建物の仕上げの仕様の説明を受けたが、県は学校の仕上げ材の標準仕様というのをつくっていた。
プロポーザルなんかでも、その仕様どおりの材料を明記すれば評価が上がるそうだ。
コストや最低限の仕様については一定の効果があるだろうが、いまどき”標準化”を、それも教育の現場においてうたっているのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。

そういう思想からは、笠原小学校のような学校は決して生まれはしないし、そこには町山のような長い時間を見据えた視点はない。

僕の個人的な意見だけれども、子供の教育以上に税金をかける必要のあるものなどあるだろうか。
他にコスト意識をもつべきことはいくらでもあるだろうに。

28日(火)13:20から再放送があるみたいなんで、興味のある方は是非。
[MEDIA]




B045 『「脱社会化」と少年犯罪』

「脱社会化」と少年犯罪 宮台 真司、藤井 誠二 他 (2001/07)
創出版


何度か書いたことがあるが、1997年の酒木薔薇の事件はあまりにショッキングで僕個人にとっても大きな出来事だった。

自分達はどのような社会を目差してきたのか、これから目差していくのかを根底から問い直されていると感じた。

それから、ときどき宮台の本は読んでいるが、ひとつ前に読んだ本で「『人をなぜ殺してはいけないか?』という問いに答えようとすることのナンセンスさ」というのが頭に浮かんだので本棚から読みやすそうなのを引っ張り出してきた。

100ページ程度のコンパクトな本で内容もかなり凝縮されているのでさっと読むにはちょうど良い。(ちょっと古いが。)

さて、なぜ『人をなぜ殺してはいけないか?』という問いに答えようとすることがナンセンスなのか。

それは、人は「理由があるから人を殺さない」のではないからである。
殺さない理由があるから殺さないというのであれば、理由がなければ人を殺すのかということになる。

僕なりに要約すると、

■人をなぜ殺さないかというと”理由やルールに納得するから殺さない”のではなくて、”殺せないように育つから”である。

■他者とのコミュニケーションの中で自己形成を遂げた人間は、人を殺すことができない。殺せないように育つのである。

■なぜ殺してはいけないのかと言う疑問が出てくる時点で、その社会には重大な欠点がある。

■人を殺せないように育ちあがる生育環境、あるいは社会的プログラムに故障が生じているのだ。

”人を殺せないように育つ”ことの出来ない環境ができてしまっていて、そういう環境をつくったり黙認しているのはまさしく私たちなのである。
私たちは自分達のできる範囲で良いから、その現実と向き合わなければいけないと思うのだ。

「最近のこどもたちは…」「恐い世の中になった。」と他人事のように言って終わりにするのはあまりに無責任だと思う。
そういう小さな無責任・無関心の積み重ねの結果がまさに『人を殺せないように育つことの出来ない環境』なのだ。

そういう環境を変えるためにどうすれば良いか。
答えは簡単には出ないかもしれない。
しかし、個々がその問題から目を背けずに向き合うことが唯一最大の方法である。

そして、それこそが僕が今のところ建築に関わっている一番の理由であり、(おこがましいけれど)このブログのメッセージでもある。

『人をなぜ殺してはいけないのですか?』
この問いは、あまりに哀しい。

*****メモ******

■少年犯罪や凶悪犯罪の数自体は40年ほど前と比べても5分の1程度に激減しており、犯罪の増大・凶悪化という印象はメディアによるところが大きい。
■メディアでは、動機の不可解さ、不透明さに関心が集まっている。
■マスコミの動機や病名の探索は的が外れてきている。
■動機が必要なのは敷居が高い場合で、敷居そのものが低くなってしまっては動機は必要なくなる。
■病気ではなく普通の人でも世界の捉え方が変わり、敷居が低くなってしまえば犯行に及ぶ。病名を付けたがるのは、犯人は”特別な”人として、自分から切り離して安心したいから。
■だから、動機探索する暇があれば、なぜ敷居が低くなったのか、「脱社会的」な存在が増えたかを問うべき。
■「脱社会的」な存在・・・コミュニケーションによって尊厳を維持することを放棄する。社会やコミュニケーションの外に出てしまえば楽に生きられる。モノと人の区別がなくなる。

■人を殺せないように育つことのできない環境になった理由・・・「コンビニ化・情報化」「日本的学校化」
■「コンビニ化・情報化」・・・他者との社会的な交流をせずとも生活が送れるようになった。しかし、これには高度な利便性があり、いまや不可欠となっているので後戻りはできない。
■「日本的学校化」・・・昔は多様な場所で多様な価値観があり、尊厳を維持する方法が多元的に用意されていたが、家や地域が学校的価値で一元化されてしまっているために、学校的価値から外れると自尊心不足になる。
■そのため80年ごろから「第四空間化」が進行する。すなわち、家、地域、学校以外の空間(ストリートや仮想空間など)に流出することで尊厳を回復しようとする。
■それはある程度成功するが、そういう空間に流出できない「良い子」が居場所がなくなり、アダルトチルドレンや引きこもりを出現させたり「脱社会化」=社会の外・コミュニケーションの外に居場所をもとめる存在を生み出す。

■日本的学校化の解除・異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間が必要
■隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざま異質で多様なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要。
■試行錯誤のための条件・・・「隔離よりも免疫化を重要視することに同意する」「免疫化のために集団的同調ではなく個人的試行錯誤を支援するプログラムを樹立する」「成功ではなく失敗を奨励する」「単一モデルではなく多元的モデルを目撃できるようにする」

大学の卒論で考えたことだが、コミュニケーションを糧に育つ環境が必要なのだ。

都市化・利便化は、そういうコミュニケーションの煩わしさから抜け出したいと言う欲求によるものである。
それを、もとに戻すことは難しい。

しかし、昔はいろんなタイプの人が好き嫌い含めて自分の周りにいたものだ。
いろいろな年齢・職業・タイプの人と関わる機会がたくさんあった。
嫌なことを排除していくことが必ずしも善ではない。嫌なおじさんと関わることも子供にとっては違う価値観に触れるチャンスなのだ。

『嫌なことを排除していくことが必ずしも善ではない。』なんてことが、平和ボケ・利便性ボケした日本で受け入れられるとは思わないが。
(だからこそ、問題を意識してもらってボケから醒めてもらわないといけないと思う。)




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「星野佳路・信じる力が人を動かす」』


>>番組HP(NHK総合)

人の表情はちょっとしたことでこんなにも変わるものなんだ。
「ようこそ先輩」でもよく目にする光景)

「任せれば、人は楽しみ、動き出す」

また、星野は「コンセプトに正解はない」と言い”共感”を重視する。

ただ信じるだけではなく、みなが向かう方向を提示し共有するのを忘れていない。
コンセプトの力をまざまざと見た気がする。

プロフェッショナルとは

常に完璧を目指そうとしている。完璧になるなんてことはおそらく生涯ありえないけれど、そこを淡々と目指している。星野

[MEDIA]




B044 『建築ツウに訊け!』

建築ツウに訊け! 大島 健二 (2006/02)
エクスナレッジ


本屋で別の本を探しているときに見つけて、立ち読みで済まそうかさんざん迷った挙句、装丁に惹かれてつい買ってしまった。

”大島本”は4冊目だそうだが、前3冊はなんとなくキャッチーな題名だったため気にも留めてなかった。(そのキャッチーさがある種のユーモアだと読んで分かった。)

いっきに読める内容で面白かった。いや笑えた。

「生協の白石さん」のパロディのような(読んだことないが)読者の質問に著者が答える、という体裁をとっているのだが、この質問の部分だけで十分笑える。(質問の多くは”オースガ編集長”によるそーだ)

笑いの部分を伝えようとするのは野暮なのでやめるが、内容はなかなか深く鋭い。

建築家の生態や問題、隠れた規範などを鋭く浮かび上がらせる。
思考停止を鋭く指摘されドキッとする部分も多々あった。

それをユーモアたっぷりに読ませる文章に仕上げる大島健二、なかなかやる。

皮肉交じりにも読めるが、実際には建築に対する愛情にあふれている。

これからも建築家は社会から大いに訊問され続けていくことでしょう。それに対して建築家は逃げずに、スカさずにキチンと自分なりの意見を述べていきましょう。くれぐれもどこかで聞いたことのあるようなセリフを棒読みしないようにしてください。また、広くはなったが、ちっとも深くならない建築に対するフツーの人々の認識、建築家と同様に自分なりの意見をもてるように精進してください。(あとがきより)

まー、建築やってるなんてのは相当の変人であることは間違いない。

もしかしたら、建築家に対する『なぜ○○するのか?』という問いは、一昔前にはやった『なぜ人を殺してはいけないのか?』という問いのように、答えようとすること自体がナンセンスなことかもしれない。

それは、理論で片付けることのできる種類のものではないのだ。(それに対して理論武装するのも建築家の性向のひとつであるのだが。)

とにかく薄笑いと共に気持ちが軽くなる本でした。
内容はなかなか伝えられそうにないので『自分は建築ツウだ』とか『建築ツウになりたい』と一度でも思ったある人は読んでみて下さい。




B043 『ル・コルビュジェの建築-その形態分析』

ジョフリー・H. ベイカー
鹿島出版会(1991/05)

タイトルの通り、コルビュジェの形態分析。
原著の初版は1984年であるからもう20年以上も前のものである。
僕は学生のときに買った。

分かりやすい魅力的なイラストで、構成の手法や形態のもつ力の流れなんかがよく読み取れる。
今見ても十分楽しい。

その楽しさは著者の力量もあるが、コルビュジェの建物のもつ魅力から来るものだろう。

近代建築の克服・批判という文脈のなかでコル批判がきかれることもあるが、やっぱりコルビュジェは魅力的。
しかし、近代建築が広まる過程でコルビュジェのもつ人間臭い部分は漂白されて都合の良い合理性だけが受け継がれている。

コルの発明はやっぱりコルの発明であって、自らの匂いを嗅ぎ取らないことには自ら人間味のあるものはつくることはできないと思う。そういう過程を抜き去ってしまっていて、コルを批判は出来ない。

ビートルズを聴くとコルビュジェとダブるときが良くある。
ロックやモダニズムのほとんどのことを彼ら天才がやり尽くしてしまって、その後のものはすべて彼らのオルタナティブでしかないように思ってしまう。
そして、その本家のもつ強さを超えることはなかなか難しい。

モダニズムという枠の中にいる限り乗り越えることはほとんど不可能のようにも思えるし、「乗り越える必要があるか」、という問いも含め「どう乗り越えるか」というのを、建築の世界ではずっとやってきていまだに答えが見えていないように思う。

それは、おそらく問いのたて方に問題がある。
「乗り越える」という意識はおそらく無意味なのである。
「コルがコルであった」という事実を他人が乗り越えられるわけがない。

僕も恐れ多くもコルビュジェを乗り越えようなんて思わない。(そんな才能もない。)
しかし、コルのように人間味を帯びたものをつくりたい、とは思う。

コルビュジェは誰よりも純粋で正直であったのではないだろうか。

それが、もっとも難しいことだと思うが、自分に正直になる以外には、やはりものはつくれない。

音楽でもビートルズを超えたかどうかが問題ではなく、その人の正直さが現れたときにはじめて人の心を打つのである。




B042 『デザイン言語-感覚と論理を結ぶ思考法-』

奥出 直人 (著, 編集), 後藤 武 (編集)
慶應義塾大学出版会 (2002/5/8)

慶應義塾大学のデザイン基礎教育の講義をまとめたもの。
取り上げられている講師陣は以下の通り多岐にわたる。

隈研吾塚本由晴三谷徹久保田晃弘佐々木正人Scott S.Fisher高谷史郎藤枝守茂木健一郎東浩紀永原康史原研哉港千尋

「デザイン言語」という言葉には、コミュニケーションツールとしてデザインを捉えることや、感覚(デザイン)と論理(言語)を統括するということが期待されている。
しかし、それはデザインの基本的な性質であって、あらためていうことでもない。
だからこそ、基礎教育のテーマとして選ばれたのであろう。

後藤武が「他者性に出会いながら自分をたえず作り直していくこと」をこの講義に期待しているように、各講師は「他者」としてあらわれる。

第一線で活躍している彼らはそれぞれの独自の視点からデザインの問題を発見している。
例えば「コンピューター=素材≠道具」「演奏する=聴くこと」「脳・感覚=数量化できない質感(クオリア)」というように発想を転換することによって大切なものを浮かび上がらせるのだ。
そこで浮かびあがるのは、近代的なデザインが軽視してきた『身体性』のようなものである。
(もともと、「考えること」と「つくること」はひとつの行為のうちにあったが、近代になってそれらが分離して「設計」「デザイン」という概念が生まれた)
そして、その浮かび上がらせ方、顕在化の方法というものがデザインなのかもしれない。

だが、その方法とは(共感ができるとしても)各々の身体性に基づくもので他人に教えてもらえるものではない。
自ら感覚と論理を駆使して”発見”する以外にないのである。(つまり”他者”としてしか接触できない)

それは、僕がこれまで書いてきた読書録の中でゆっくりと、そして明確に浮かび上がってきたものと一致する。

全くあたりまえのことなのだが、答えは自ら描き出す以外にないし、自らの個人的な感覚・身体性の裏づけなしには人の共感も呼ぶことはできないということだ。
(逆説的だが個人的であることが他人へのパスポートとなるのだ。)