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B063 『建築の幸せ』

中崎 隆司
ラトルズ(2006/02)

著者は社会学科卒で、生活環境プロデューサー、建築ジャーナリストという肩書きを持つ。

こういう「肩書き」というのはあんまり好きじゃないが、多くの人の中心に立ち、物事の方向性を決めるような人は必要である。
多くの人が共感できるビジョンを示して、目的を共有しなければその場しのぎの連続になってしまう。
(本来なら行政がプロとしてそういう能力を持つべきだと思うが)

具体的な事例がたくさん紹介されておりとても参考になる。

しかし、なんとなく全体を通してぎこちなく感じる部分があった。
その違和感の原因はどこからくるのか。

それは、著者がクリエイターではなくプロデューサー・アドバイザーだということに関係があるように思う。

建築は社会にとっても幸せなものであるべきだ、というのは全くその通りだと思う。
しかし、それ以外の、それを超えたもの、例えば言葉にならないような空間性というものを許容しないような印象を彼の文章からは受ける。

ものをつくる過程ではおそらく膨大な思想的な無駄が生まれていると思う。その無駄が多ければ必ずよいものが出来るとは限らないが、そういう膨大な無駄から何かが生まれることがあることも事実だろう。

そういう無駄のつけいる隙を感じないのだ。
「いや、あれは失敗だとも思うけど、そういうことの先に可能性がありそうな気が・・・するんだけどなぁ・・・」って思う。

ただ、建築家がそういう言葉にならないものに逃げ込みがちで、現実的な部分や社会性から目を背けがちであったというのも事実。

建築家は言葉にならない部分は建築のプロとして実現しながら、社会性等とも正面から向き合わなければいけないと思う。

そういう点で、彼が独自の空間性も持っていながら現実も引き受けようとしている30代の若手に期待しているのも分かる気がする。

タイトルから期待していたようなカタルシスは得られなかったけれど、具体的なヒントには溢れていた。
しかし、こういうことは具体的な実践の中からしか答えは見出せない。
実践の機会を得なければ、具体性を引き受けられるような力はつかない。

ちょっと焦るな。




B062 『仕事のくだらなさとの戦い』

仕事のくだらなさとの戦い 佐藤 和夫 (2005/12)
大月書店


タイトルがあまりにキャッチーな本の多くは
・偏見に満ちた内容の本
・あまりに平凡な考えをただ大袈裟に大発見をしたかのように書いている、タイトル以外に読む場所のないような本
のどちらかである場合が多い気がする。

しかし、本著はその点では読める本であったと思う。
強い思いを理性でぐっと抑えている。

ただ、このタイトルは少し誤解を招く。
著者が戦おうとしているのは「仕事のくだらなさ」ではなく「くだらない仕事」である。
著者は労働そのものには絶望よりはむしろ希望を見ている。

子供が生まれてすぐの読書のタイトルがこれか、と思われるかも知れないが、だからこそのテーマだと思う。

佐藤和夫の執筆の動機の多くは若者が生きていても仕方がないと感じるような現状をどうにかしよう、と言うところからきているようで共感できる。

子供は社会の鏡というが、そうだと思う。
生まれながらに『生きていても仕方がないと感じる』子供だったわけではない。

子供が大人になることに希望をもてる社会だろうか。
大人は子供達に生活や労働に対して喜びや希望、もしくは辛さを受け入れる強さなど前を向く術を伝えてきているだろうか。

資本主義のシステムは自動的に自己を守ろうとする巨大な規範となってしまっている。
何のためにそのシステムを必死に守り、それに乗ろうとしているのか。
それから目を背けたままでは子供達にはそのシステムに利用されているようにしか見えないだろうし、そこに希望は持てないだろう。
たとえシステムを受け入れるとしても、目を背けるだけでなく、少しでも向き合い、子供達に何かを示せるように努力をすべき時期に来ているのではないだろうか。

自分の子供に不憫な思いをさせたいとは思わない。

しかし、僕が子供にしてあげられることの中から、優先順位をつけなければいけないとすれば、一番に来るものは「多くのモノを与えること」ではなくて、「僕自身が人間として先を歩き、何らかの希望を彼に与えられるような生き方をすること」である。

後は彼が判断できるようになってくれれば良い。

著者のヒントは労働にもともと備わっていた、楽しみや喜びを取り戻すこと。
自立性やコミュニケーションが重要。

自分の着る服が自分や自分の親しい友人によって編まれたり縫われたりして、みんながその人しかないような服を着られるとしたら何という豊かな社会であろう。料理を友人たちと楽しんで作り、一緒に夕べにワインやビール、各人の得意料理を雑談しながら楽しめるとしたら、どれほど人間は豊かな生活であろう。こんな当たり前の夢がまったく不可能な方向に日本社会が向かっているのはなぜであろうか。

「ただ生きることを楽しむこと」がこんなに贅沢になってしまった国が他にあるだろうか。

僕が答えを見つけられているわけではない。
それでもやはり、「ただ生きることを楽しむこと」が当たり前と感じられる。そういう姿勢で生きられるようになりたい。




DVD『誰も知らない Nobody Knows』

誰も知らない 柳楽優弥 (2005/03/11)
バンダイビジュアル


「誰も知らない」

そういうことか。

自分のことより相手のことを考えてしまう子供と、
相手のことより自分のことを考えてしまう大人。

前者は強く、後者は弱い。

そういうと単純化しすぎるけれども、どちらも人間のもつ一面。

それが人間。

しかし、それで命を落とすのはあまりに悲しい。

飛び込んでくるニュースはそんなのばっかだ。

-追記

ストーリーそのものと同じぐらい、子供達の演技やセリフが妙にリアルなのに感動した。(特にしげる)
大人の勝手な子供像を押し付けたような感じが全くしない。こんな演技ができるのだろうか、と思っていたが、子供には台本は渡していなかったそう。

モチーフとなった実際の事件はもっと残酷。

⇒(iFinder雑読乱文:誰も知らない<巣鴨子供置き去り事件>)

途中の「私は幸せになっちゃいけないの。」というセリフが印象的。
単純には割り切れないこともある。

⇒(マキのつぶやき)

ただ「責任」ということは忘れてはいけないと思う。
[MEDIA]




B061 『水木しげるの妖怪談義』

水木しげるの妖怪談義 水木 しげる (2000/07)
ソフトガレージ


水木しげるの対談集。
養老孟子や美輪明宏とも対談してたりする。
けっこういっちゃってる。

神は政治、妖怪は生活。。。

妖怪は音。。。

妖怪は雰囲気。。。

妖怪を消し去ることがあたりまえで良いことだ、ということに疑問を持つことさえ難しくなってしまった。

目に見えるもの、頭で理解できること、それがすべてというのはやっぱりどこか寂しい。

そう、何かが抜けおちてるような。
んな気がしませんか。




む展



ときどきのぞかせてもらっているマティックさんのサイトで紹介されていたので行ってきました。

む展のむは、(曖昧な記憶によると…)ムサビのむ、ゼロのむ、無限大のむ、夢のむ。だそう。
場所は鹿児島市立美術館で、今日の午前中にヒアリングがあった物件にドームを考えているのでそれも見学に。(ちなみに前回のプロポーザルは落選。残念。)
市立美術館ドーム

マティックさんの映像作品は単純に楽しめました。
リアルタイムに活動している人達の作品は、その存在自体にも勇気付けられます。
明日じゃなくて今日、11日(日)までなので興味のある方はどうぞ。

その後、帰りにジュンク堂によって立ち読み等。
そこでこれもマティックさんが紹介されていた本を発見。
前にアミュの紀伊国屋で探したときは品切れだったもの。

(small planet) small planet
本城 直季 (2006/04/08)
リトルモア

もしかしたら建築そのものよりも模型の箱庭感・世界観が好きかも知れない僕としてはたまらない一冊。

僕は模型をつくるときは必ずしもリアルを目差すわけではないが実物のもつ世界観や時間の流れのようなものが現れればいいなと思いながらつくっているつもりだった。
しかし、この写真集は逆のベクトル、実物の世界の時間を流れを凍結し模型のように見せようとする力が働いている。(模型らしいことはさして重要ではないそうだが)
そこで、全く別の世界観が現れているのを目の当たりにすると、模型を作っているときは現実の建物とは別に模型そのものの世界をつくりたいと思っているのだとあらためて気づいた。
もしかしたら建物を模型にあわせているのか…

それともう一つ。この本を立ち読みしながらこの感覚に近いものをさっき感じたな、という気がした。

市立美術館で油彩なんかを見るときに、最初は他の人と同じように壁に沿って作品との距離が1mそこらで見ていた。
しかし、よく分からないというか伝わってこない。
そのときふと、佐々木 正人の肌理の話を思い出して、少しずつ遠ざかってみてみた。
すると、ある距離になると、絵の具のかたまりだったものが光やモノの肌理となって奥行きや世界観をつくりだす。
その突然焦点が合う感じは本城 直季の写真と似てるなと思った。
その、一定の距離を持ったときに生まれる焦点と光を、作品とほとんど距離のない状態で生み出すことができるのが作家のイマジネーションの力なのかもしれない。

全くのドシロートで油彩などのそういう見方・距離が正当な見方、あるいは常識なのかはわからない。
だけれど、従来の美塾館の展示の仕方では、玄人はともかく素人のお客さんが壁にそって眺めていても、作家のイマジネーションや世界観は伝わらず、絵の具の塊で終わっていることが多いのではないだろうか。
客に見方を指示するのもナンセンスな気がするが、なんかもったいないという気がした。

ちなみに、この本は立ち読みで我慢して財布に余裕のあるときに、とあきらめたのだけれども、結局我慢できずに建築雑誌を一冊買ってしまった・・・




悪い景観100景

悪い景観100景

テクノラティの検索ワードでトップにあった。

一般の人に興味を持ってもらうという点では成功しているのかもしれないが、内容はというとなんとなく受け付けない。

景観の選定は場当たり的で100選にする説得力はないし、主観的な意見ををまるで公共の意見のようにまとめるあつかましさや押し付けがましさはちょっと耐えられないものがある。

“私(たち)が考える”悪い景観100景と言うようなタイトルで、良し悪しの判断は読者にゆだねるようなら分かる。

そうは言っても、景観などに対する意識をまず持ってもらうことからはじめなければならない。
もしかしたら『美しい景観を創る会』のメンバーは、押し付けがましく反感を買いそうなことを百も承知であえて悪役を買って出ているのかも。

こちらの試みはちょっと苦しいけど面白い。

どっちにしても景観みたいな個人的な価値観に関わるものは難しい問題。

-追記
昨日(今日)の追記は…




B060 『リアリテ ル・コルビュジエ―「建築の枠組」と「身体の枠組」』

富永 譲、中村 好文 他
TOTO出版(2002/01)

2001年に安藤研がギャラ間で行ったコルビュジェの全住宅模型展に合わせて開かれた講座の記録。
(偶然にも僕はちょうどこのころ無理がたたって入院中で、病室でサヴォア邸やガルシュの家なんかの1/100模型をつくっていた…)

富永譲・中村好文・鈴木恂・八束はじめ・伊東豊雄がコルビュジェについて語るのだが、久しぶりのコルビュジェはとても新鮮で面白かった。
うーん、惚れなおす。

最初の方に出てくる写真や言葉を見るだけでため息が出てくる。

コルビュジェは戦略としてキザで大袈裟な物言いをしたという捉え方をしていた。
しかし、そういう側面はあるとしても、奥の部分にはやっぱり人間への愛情で満ちあふれているのだ。

そうでないと、こうも語りかけては来ない。

前にもコルについて書いたけれども、コル自信もかかえる小ざかしさや雑念を超えた大きな純粋さに心を打たれる。

富永譲が、コルの空間のウェイトが前期の「知覚的空間」から「実存的空間」へと移行した。また、例えばサヴォア邸のアブリから広いスペースを眺める関係を例にそれら2つのまったくオーダーの異なるものを同居させる複雑さをコルはもっているというようなことを書いていた。

それは、僕を学生時代から悩ませている「収束」と「発散」と言うものに似ている。

どちらかを選ばねばと考えても答えが出ず、ずっと「保留」にしていたのだけども、どちらか一方だけではおそらく単純すぎてつまらない。(このあたりは伊東さんがオゴルマンを例にあげて語っていた。)
そのどちらをも抱える複雑さを持つ人間でなければならないということだろうか。

そういえば、日経アーキテクチュアの創刊30周年記念特集の対談(2006.4-10号)でも新しい世代の「抜けている感覚」の是非や身体性というものが語られている。
それは「知覚的」か「実存的」かという問題だろうが、僕なんかの世代の多くはそれらに引き裂かれているのではないだろうか。
「知覚」への憧れと「実存」への欲求。
その間にあるのはおそらく一見自由に見えて実はシステムに絡めとられてしまう不自由な社会であり、そこから抜け出そうとすることが僕らを引き裂く。

もっと若い世代だとその今いる地点から「知覚」や「実存」への距離はどんどんと拡がっているように思える。(特に「実存」への距離)
また、その距離に比例するように「知覚」への憧れと「実存」への欲求は深まり、さらに分裂する。

実存的建築家に学生なんかが再び惹かれはじめているのも分かる気がする。

それらを全く異なるもののまま同居させるコルの複雑性。
これこそがコルビュジェの魅力の秘密かもしれない。

あと、この本の伊東さんの話は相変わらず魅力的だったが、他にも鈴木恂の「屋上庭園とピロティ」を「(コルビュジェの例の)手と足」として捉えるところも面白かった。
建築を身体の延長として捉えるような感じ、擬人化やキャラクターを持つことへの興味はもしかしたらコルビュジェの影響かもしれないな。




Google Analytics




だいぶ前に話題になっていたときに申し込もうとしたんだけど、順番待ちみたいになって忘れかけてた『Google Analytics』からようやく招待状が届いた。

それで早速使ってみました。

ちょっと動作が重くて、まだ中身はよく見ていないけども面白そう。

どのページにどれぐらい滞在しただとか、来たページからそのまま直帰した割合だとか、サイトのどのボタンのクリックが多いだとか、どのページでどれぐらいの購入があっただとかいろいろ分かる。

サイト製作者にはすごくありがたい情報だろう。

そうでなくとも、あっアメリカからの訪問者が。とか嬉しくなったりして。。

こういうのまで無料で提供するGoogleの意図ってなんなんだろう?




お気に入り




今日ようやくプロポーザルのヒアリングが終わりました。
理想どおりとはいかないけれど今の条件下ではできる限りのことはしたので後は結果を待つのみです。(政治的な力が働いたりせずにフェアな判定が下ることを祈ります。)

ところで、ヒアリングの際の説明用に久しぶりに100分の1の模型を作ったのですが、お気に入りの製作道具の一つがもうそろそろダメになりそうです。

上の写真の左は一般的に良く見かける木工用ボンドなのですが、これが途中で出がわるくなったりと細かい作業にはけっこう使いにくい。

それで、5・6年前、東京にいたころ新宿のハンズで右のペン型ボンドを見つけ、中身を補充しながら使っているのですがこれがなかなか見つからない。
画材屋や文房具屋やDIYショップに行くたびにチェックしているのですが、新宿のハンズ以外ではまだ見たことがありません。

もうボディが破けてときどき中身が飛び出したり固まったりしてしまいます。
ラベルも外れてしまってどこのメーカーかも分からないのですが、どなたかどこで売ってるとか、どこの製品だとか知っている方がいましたら教えてください!



これがなかなかの優れもので、ペン状のボディの先からボンドが細~く出てきて細かい場所に後から接着したり、点付けなどにも便利。さらにペン先のボンド出口の横はへら状になっていてよく考えられています。
筆圧を調整するような感じでボンドの出も調整できるし。

このキャップは(歯磨き粉のように)さかさまなの状態で置けるように僕が後で改造したので、製品のままだとキャップの白い部分はついていません。
一般品のボンドで途中で出が悪くなったりキャップの付けはずしが面倒でイライラしたことがある人もいるはず。
このキャップだとねじらずに抜き差しできるんで便利です。




B059 『吉阪隆正の迷宮』

吉阪隆正の迷宮
2004吉阪隆正展実行委員会 (2005/12)
TOTO出版




吉阪隆正といえばコルビュジェの弟子でコルビュジェの翻訳をした建築家という以上のことはあまり知らなかった。
しかし、この本を読んでみると、吉阪隆正はすばらしく魅力的な人間なようですっかり虜になってしまった。

それもそのはず、吉阪は内藤廣や象設計集団などの僕の肌にあうなぁと思う早稲田系の建築家の師匠にあたる。

吉阪を良く知る人の対談などがメインでその変態ぶりというか天才ぶりというか、型にはまらない感じが強く伝わってくる。
なんとなく”良寛さん”が思い浮かんだ。

余計なものには惑わされずに、まっすぐにはるか先をみつめる眼差しが目に浮かぶが、その眼差しはこの今現代よりもずっと先を捉えているように思う。

「有形学」「不連続統一体」「生命の曼荼羅」「発見的方法」

合理性や理屈の中からこぼれ落ちてしまうものにも限りない魅力がある。

合理的できれいではない。だけれどもそこには、実感というか手ごたえというか触感というか、なんともいえないもの、実存に関わる何かがある。

それは合理的であることよりも合理的(?)で魅力的なことだと思うのだけれども、それに同意してくれる人はどれぐらいいるのだろうか。

吉阪隆正。詳しくは知らなかったけれど希望を感じた。




W015『苓北町民ホール』


□所在地:熊本県天草郡苓北町
□設計:阿部仁史+小野田泰明
□用途:集会場
□竣工年:2002年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
[gmaps:32.50422441812047/130.05430698394775/15/460/300](comment)[/gmaps]
2003年日本建築学会賞受賞作

機能と形態の内外の関係、” 目的に応じて有機的に機能する自由度の高い空間とこの町らしさを表現する独創的な造形の共存”ということで、ぜひ内部を見てみたかったのだけれども、残念ながら休館のようだった。

何かのイベントの時にこれれば一番良かったのだけれども。

道路側の正面はそっけないほどにあっさりしているが、全体的には”有機的”と呼べるような形態をしている。

しかし、押し付けがましさやしつこさはない。
”有機的”だから自然に感じるというように単純ではないだろうが、一見突飛にみえる形が”さりげなさ”をもっているというのはどういうことだろうか。

どんな力が形態を導いたのだろうか。

そんなことが気になる。






(内観はガラス越しです)




W014『牛深ハイヤ大橋』


□所在地:熊本県牛深市
□設計:レンゾ・ピアノ+ピーター・ライス+岡部憲明+マエダ
□用途:臨港連絡橋
□竣工年:1997年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
[gmaps:32.19214766079049/130.02719521522522/16/460/300](comment)[/gmaps]
海彩館の敷地を横断するかたちで橋がかかっている。

”最も簡潔な表現によって、一本の線として風景の中に橋を浮上させることで、自然の中に浸透させることを試みた”というようにそのシンプルなラインは美しかった。

人工と自然という対比の中で、力強さと繊細さ、傲慢さと謙虚さと言うものが一つの構築物の中で共存しているのは稀な存在であろう。

サイドに並ぶ防風パネルは内側に仕掛けられた照明によって内外に光の効果をもたらすような形をしており、夜のライトアップされた姿を念頭においてデザインされているようである。

しかし、牛深と長島(鹿児島)を結ぶフェリーは19時までしかなく、乗り損ねたら大変なのと体調を考えて残念ながら夜景はあきらめた。

夜の光のライン。見てみたかったなぁ。







W013『うしぶか海彩館』


□所在地:熊本県牛深市
□設計:内藤廣
□用途:水産観光センター
□竣工年:1997年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
[gmaps:32.19389997800197/130.02705574035645/18/460/300](comment)[/gmaps]
内藤廣は今僕の日本で気になる建築家のベスト3に入る。
ようやく実作を観ることができた。

建築が声高に主張するわけではないが空間が生きている。
廻遊性があり自由度の高い空間が楽しい。

権力ではなく包容力。

軽快な屋根と吹きさらしの場と言う選択が心地よさを生み出している。

単なる市場ではないかと言われれば、そうかもしれない。

しかし、その潔さと、すんなりと気持ちの中におさまる感じはなかなか出せない。










B058 『informal -インフォーマル-』

金田 充弘、セシル バルモンド 他
TOTO出版(2005/04)

セシル・バルモンドはおそらく今世界で最も熱くそして哲学的な構造家。

コールハースやリベスキンドといった建築家とのプロジェクトのレポートのような形なのだが、セシルの思考の流れが読み取れるまったくエキサイティングな本。

前に東京で勤めていた事務所の先生が『建築の自由は構造の先にしかない』というようなことを言われていたのだが、最近その言葉が身にしみることが多い。

柱と梁をグリッドにくむようなラーメン構造のような考え方はそれ自体20世紀的で、大型のマンションのように人を無個性化しグリッドの中に押し込めるような不自由さを感じてしまう。

ラーメン構造というのは不自然で(おそらく自然の中では見られない形式だろう)そういうものに何でも還元できると言う人間の傲慢さと、一度出来上がった形式を思考停止におちいったまま何度もリピートしてしまう怠慢さが現れているようで気がめいる。

そこで、そういう不自然さ・不自由さから抜け出そうと言う姿勢がセシルのいう”インフォーマル”なのだが本当に魅力的である。
構造はあきらかに”自然のかけらを鳴らす楽器”の一つであるはずである。
そんな楽器を演奏できる人とコラボレーションできれば楽しいであろうが鹿児島にそういう人はいるのだろうか。(また、セッションにはこちらの力量も必要)

日本でも構造家とのコラボレーションは最近注目を集めているが、逆に一連の事件で不信感も募りつつある。
闇雲に規制を強化することで自由さを奪われることがないように祈るばかりだし、この機会に同じ構造を扱う人でもまったく世界の違う人がいることをもっと知らしめて欲しいものである。

a+u別冊、ほしいなぁ。

■階層的で固定的な意味での秩序は、物事の自然状態から最も遠いものとして理解される。
■こうした乱流に直面して、秩序が安全な要塞として承認される。でもそれは、大事な点を見逃す。それは現実の本質はまさに偶然であり、「秩序」というものが、ひょっとするともっと大きなランダム性の中での、小さい局所的な安定状態に過ぎないかもしれないということだ。




W012『麦のはな』

w10.jpg
□所在地:鹿児島県鹿児島市
□設計:ウチダアーキテクトオフィス
□用途:飲食店
□竣工年:2006年
[gmaps:31.538424419761007/130.53330659866333/18/460/300](comment)[/gmaps]
225号線沿いにある建物でかなり前から気になっていたのだけど、先日ようやくオープンしたようなので食べに行ってきた。

デザイン的にはガラスのスリットをぐるっとまわしてボックスを上下に裂いたような感じ。
両端の大開口部にはガラスを支えるマリオン程度で構造体のようなものは見当たらない。
比較的中央に柱があるのみで上部の屋根はキャンティでもっているような感じだけども水平力をどう処理しているのか良く理解できなかった。

内装は壁・天井は基本的にはよしずのようなもので統一されていた。(大開口部のブラインド代わりにも)
夜、内部から光がもれるとよく分かるけれども、なんと言うか”内臓系”の手法。
黒い外皮を切り裂いたところからオレンジ色の内臓(内装)が見えていると言う感じで、カウンター席周りの扱いだとか、その手法が徹底されていてすごくよくまとまった建物だった。

構造的な手法も含めてここまでつめられるところは、鹿児島にはそうないと思うのだけれどもどこが設計したのだろう。
気になる。









B057 『昔のくらしの道具事典』

昔のくらしの道具事典 小林 克 (2004/03)
岩崎書店


図書館、児童書コーナーより。
おもしれー。

【土間+かまど+羽釜+せいろのドッキング】や【いろりの自在鍵と横木の機構】あたり、ぐぐっときた。

このごろ、豊かさとは関係性のことではないか、とよく考える。

便利にはなったけれども、こうした昔の道具との方がより深い関係が築けたのではないだろうか。

人との関係・モノとの関係・空間との関係・土地との関係・時間との関係・自然/宇宙との関係・目に見えないものとの関係・・・・。

様々なものと多様な関係が築ければそこには豊かさが生まれるだろうし、さまざまな関係性が希薄化すればそこにリアリティを感じとることは難しくなる。

それは「棲み家」という言葉について考えたこと同じことだろう。

昔に戻るということではなく、現代におけるさまざまな関係のあり方というものを見いだす必要があるように思うし、また、現代的な関係性による豊かさというものも身の周りにたくさんあるだろう。

関係性をどうデザインに、生活に組み込んでいくか。
それが大事。




B056 『屋久島の民話 第二集』

下野 敏見 (1965)
未来社


日本の昔話と水木しげる本を図書館で探しちょったら、屋久島の民話があったかぁ借りてみた。

「そひこのはなしじゃ。」

そいで話が終わるんがよか。
そひこのはなし以上のもんがそげんあるわけがなかかぁね。

こん話を集めたとは、種子島の先生(ちゅうても何十年も前の話)やっけど、当時、そん先生が種子島から屋久島を見て

夜の海に黒々と浮かぶ屋久島の中央部に屋久島電工の灯がきらめくのでした。その灯が私には日本に無数にある離島の暗く悲しい運命を自らの手できっぱりと断ち切って、近代工業の島を打ちたてようとする希望の灯に見えるのでした。(中略)ところが島の近代化が進むにつれて古い伝承が急速に失われつつあります。

ちゅうように危惧しちょん。
当時の時代も感じとるん。
じゃっけど、おいは恥ずかしながぁ屋久島ん歴史はよーわかぁん。ちーっとは勉強せんにゃねぇ。

こん本を読んでも、屋久島なんかはそげな話に想像を巡らせらるん、だいにも分からんようなもんが残っちょっけど、都市部ん化けもんは瀕死の状態や。

景色ん中に想像の入る余地はなか。

そいはちぃっとばっかい貧しかやなかか。
化けもんが本当はおるとかおらんとかの問題やなか。おわんくてもそういうことを考えるんはおもしぇえが。

やっぱい水木しげるん本を読んでみっかねぇ。
なんかヒントがあっはずや。

あっ、こん本にのっちょん話がこんページにもいくっか載っちょっど。

(おいん言葉はだいたい合っちょっかねぇ?あんまい自信はなか)




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「中村好文・心地よい家はこうして生まれる」』


>>番組HP(NHK総合)

「どんな家が欲しいのか、依頼者にはわからない」
「主人公は『家』」
「悪条件にこそ突破口あり」

依頼者もまだ知らない要望を掘り出す。
そこにこそ設計者が依頼者と関わる意味がある。

『家』を主人公に持ってくることで、依頼者の、そして設計者の凝り固まったイメージを抜け出せるのだろう。

家が単なる欲望の結果だけでは息が詰まる。

家は単なる所有物であるのではなく、時には大きくつつみこむ父親や母親のような、時には共に楽しみを分かち合う兄弟や友達のような、互いに関係を築ける相手でなければつまらない。

『家』を主人公にすることで、ようやく家が関係を築けるような相手になれるのかもしれない。

「楽しまなければ心地よいものは生み出せない」

どんな状況においても楽しめる自分を維持し続ける才能こそが、建築家にとって最も必要なものではないだろうか。
[MEDIA]




B055 『モダニストの夢―聴竹居に住む』

高橋 功 (2004/01)
産経新聞ニュースサービス


建築家・藤井厚二(1988-1938)が建てた実験住宅「聴竹居」をインテリアデザイナーでもある2代目店子の高橋功が紹介する。

住まうことを追い求めた藤井の姿勢とそこから生まれる工夫には学ぶべきことは多い。

落ち着いて、とても居心地が良さそう。
だけども、静的な印象の写真が多いせいか脳がとろけて少し歳をとってしまいそうだ。

こういう深みやゆったりと流れる時間と、躍動感や快活さといったものは共存できるのだろうか。
共存する必要はないのか。
それとも、もともと別のことではないのか。

住む人次第か。

ラテン系の人ならどう住みこなすのだろうか。

(当時はそれこそモダンで快活な建物であったろうから、静的な感じは写真の印象でしかないのかもしれないし、もしかしたら静けさの中には生命感で溢れているのかもしれない。)




minicar


缶コーヒーはめったに飲まないので知らなかったけれども、GEORGIAがBMW1/100scaleミニチュアカーキャンペーンをやっていたそう。

それを他のブログで知って、もうキャンペーンは終わってるだろうとあきらめ半分でコンビニに行くと、WANDAがTOYOTA車のキャンペーンをしてた。


初代のクラウン、カリーナ、ソアラ、ハイラックスサーフ、エスティマ、プリウスの6種類。
ミニカーなんかは1/43とか1/64とか中途半端なスケールが多くて1/100スケールの建築模型に使えるのはなかなか手に入らない。画材屋なんかにあるのはちゃちくて高いし。

それがコーヒー付で120円で手に入るんだから安いものです。

BMWを逃したのは残念だけども、嬉しくていっぺんに8個も買ってしまいました。
新しく模型もつくらんとねー。