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コスプレ

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整然と区画整理された住宅地にメーカーの家が展示場のように並ぶのを見るとなんか悲しくなってきて気が滅入ってしまう。
何がそんなに気を滅入らせるのだろうか。

小学生の頃、友達が階段室型の”団地”と呼ばれていたところから整然とした住宅地に引っ越したので遊びに行った。
そのときその土地が何か他人行儀な感じがしてとても居心地が悪かった覚えがある。
その頃の感じを思い出すのだろうか。

例えばこの感じを衣類に例えてみると何がしっくりくるだろうか、と考えてみた。

なかなかぴったりのが思い浮かばないがあえて言うならばコスプレ、だろうか。
アニメのキャラクターなんかをそのまま真似たようなちょっと安っぽい手作り感をかもし出しているコスプレ。

そこには自己完結的で周りを断絶するような頑なさを感じるし、使われている素材や形態も人間や周囲との関係性を放棄しているように見える。

そして、なんと言うかリアリティを感じない。(アニメなんかのイメージを直接的にもってきている訳だから当然といえば当然)

住宅地のリアリティのなさと、人間や環境や時間etc.との関係性の薄さがコスプレ的なのである。
一時的なイベントであって日常とはなり得ない(と思う)コスプレと住宅に似たものを感じるというのがなんとも悲しい。

ここで育った子供たちはどんなリアリティを感じるのだろうか。
また、何十年も経てばこれがノスタルジックな風景と感じるのだろうか。(それはそう感じるのかもしれない・・・)

コスプレ的でない住宅をつくると言うことが困難な社会になっている、というのもまた現実だと思う。




B085 『建築空間の魅力 私の体験』

建築空間の魅力 私の体験 芦原 義信 (1980/01)
彰国社


事務所の人が古本屋に出そうとしていたのでもらってきた。

著者の東大退官講演などを収録。
僕がまだ小学校に上がる前の本だが、街並みなどに対する危機感なんかは今と同じ。
現実は進歩なしという感じ。

これぐらいの世代の方の建築論は素直で理解しやすいものが多いような気がするし、実際の設計のプロセスと直結した理論が多いので参考になることが多い。

今の建築論はその辺の方法論が前提としてあった上で、微細な感覚の襞のようなものをすくい上げるようなのが多いので今から建築を学び始める人は取っ掛かりが難しい気がする。

僕も恥ずかしながらその前提の理論をすっとばしてることが多い。『街並みの美学』でも読んでみようかなんて思ったりしている。




B084 『Small House 人と建築の原点』

ニコラス ポープル (2003/08)
エクスナレッジ


「狭小」と書くとなんとなくネガティブなイメージがあるが、空調・清掃・コストその他メリットを挙げればポジティブに捉えることだって出来る。

なにより身の丈にあった、自分のイメージの器にすっぽりと入るような住宅は、小さな宝物のようにちいさな世界を所有する喜びがある。

巧みに世界を縮小できればできるほど、わたくしはいっそう確実に世界を所有する。
しかしこれとともに、ミニアチュールにおいては、価値は凝縮し、豊かになることを理解しなければならない。
ミニアチュールの力動的な効力を認識するには、大きなものと小さなものとのプラトン的弁証法では十分ではない。
小さなものの中に大きなものがあることを体験するには論理を超越しなければならない。(ガストン・バシュラール(1958))

論理の超越を共有する。ってのはどこまで可能か。

この本では建物を「自然の中」「都市の中」「集合住宅」というように章で分けているが、やっぱり大きな自然の中の小さな家という対比が美しい。都市に埋もれるだけでない佇まいというのはどうすればいいのだろうか。
アトリエ・ワンなんかのアプローチは参考になるけれど・・・。




B083 『フォークロアは生きている』

下野敏見 (1994/10)
丸山学芸図書


週末加世田の実家に行くとこの本が机の上においてあった。
聞いてみると、この本に取り上げられている仏像の持ち主の本だった。著者から寄贈されたのだろうか。
著者はどこかで聞いた名前だと思ったが、屋久島の民話を書いた方だった。(屋久島の民話のときは高校教師だったようだが、この本では鹿児島大学教授となっている)
ということでちょっと拝借してざっと読んでみた。

「フォークロアは死んだ」などと早トチリする人もあるようですが、どっこい、フォークロアはこの日本に脈々と生きているのです。
それどころか、フォークロア(folk-lore)すなわち民間伝承はこの世に人がいる限りあるのであり、それを研究する日本民族学も日本列島に人が住んでいる限り必要なものだと考えられます。(はじめに)

各地で脈々と生きているのだろうが、僕もそうだけど多くの人はこういうことに触れることがあまりないまま生活しているのではないだろうか。
たまにでも、こういうことに触れたり考えたりすることは自分たちの足元を見つめなおすためにも大切なことだと思う。
そういえば数年前に県民交流センターで地域の祭りを紹介するようなイベントに行って結構感動した覚えがあるけれども今もやっているのだろうか。




B082 『元気が育つ家づくり―建築家×探訪家×住み手』

仙田 満、渡辺 篤史 他 (2005/02)
岩波書店


建築についていろいろな議論があるけれども根本にはこういう思いがあるはずだ(と願いたい)。

ことさらに元気にならなくてもいいとは思うけれども、われわれには後世に受け継いでいく環境を創る(守る)義務がある。
しかし日本では自分のことばかりを考えていて、環境に対する意識が不足しているように思う。
というか、「自分さえよければ」という考えはますます加速していきそうな気がする。

文化は、そこに住む人の以上でも以下でもないと言われますが、あの時よくぞ創ってくれたこの環境、と後世の人々に言わせてみたいですね。・・・・それには、私たち庶民が、きっかけはどうあれ、建造物や街並み、環境に興味をいだき、やがて「見巧者」になることです。(渡辺篤志)

多くの人は身の周りの物や建物、道路・景観といった環境が生活を破壊することもあれば人間をつくることもあるということを考えたこともないのではないだろうか。
せめて義務教育の間にでも、自分たちがどのような環境をつくっていくのか、その環境がどのように人の幸福や豊かさに関っているのか、という見方があることぐらいは伝えて欲しいと思う。
「経済」という軸以外にも同じように扱うべきさまざまな軸がある、というのがあたり前と感じられるようになって欲しいものです(そんなことを言うのは「負け組」だとか言われるのでしょうが)

仙田満は日本建築家協会会長であり、「子どもを元気にする環境づくり戦略・政策検討委員会」の委員長もしている。
ただ、「子供を元気にする」と言うのは多少違和感がある。子供なんてほっといたって無駄に元気なものだし、現代であってもそれは変わらないだろう。それを大人がさまざまな機会を奪うことによって元気でなくしている(又は大人がそう思い込んでいるだけ)ではないだろうか。
それを「子供を元気にする」というのは元気にしてやると言う大人のエゴのようなものを感じて違和感がある。NHKの「ようこそ先輩」を見ていてもゲストの先生が常識のタガを少し外してやるだけで子供たちがみるみる元の元気さを取り戻すというのはよくある光景だ。
そういえば元気は「元の気」と書く。なるほど。

渡辺篤志は建物探訪で800件以上見ているそうだけれども、それ以上にすごく勉強している。
建築が好きなのが分かるし、それゆえに現実の問題がクリアにみえて悔しいのだろうな。思いはすごく伝わってきた。建築をやっている人にもだけれども、一般の人にこそ読んでみてもらいたい。
建築を見る目を変えるきっかけとして。




ほぼ日

昔はちょこちょこ読んでたんだけども長く見てなかった。
「蟻鱒鳶ル」をとりあげてると言うことで久しぶりに覗いてみた。

その中の 糸井重里のコラムを読む。
何言ってんのぉ、と言われそうなけっこう微妙なところを攻めている。勇気あるなぁ。

<深いって、いいことか?>っていうのに引っかかる。
取り扱い注意な感じの記事だけど、これを読んで反省することしきりである。

建築やってる人は特に「深い」だとか理屈だとかの罠にはまりがち。

もっと、なんと言うか、シンプルでいい。

それが難しかったりするけど。




B081 『道具と機械の本―てこからコンピューターまで』

道具と機械の本―てこからコンピューターまで 歌崎 秀史、デビッド・マコーレイ 他 (1999/10)
岩波書店


図書館より。世界的ベストセラーだそう。

シリンダー錠の構造からデジタル技術まで、いろいろな道具や機械のしくみをイラストで紹介する。

どんなものでもそれを考え出した人がいる。
しくみを知ることでブラックボックスがそうではなくなる。だからなんだと言うことだけれども、これによって道具や機械と少しお近づきになれた気がしてくるし、大げさにいうと視野が、世界が拡がった気分になる。ブラックボックスに囲まれた不安がちょっとした妄想遊びに変えられるのだからおもちゃのようなものでもある。

もしかしたら勉強というのは関係性を築くことかもしれない。
例えばこういう本や物理学は物や世界・宇宙との関係性を築く技術であると考えられるし、歴史は過去(未来)との関係性を築くことだと言える。そして、関係性を築くと言うことは自らの拡がりを獲得することだと思う。ただ、拡がりを感じたい。それだけのことかもしれない。