1

B078 『住宅読本』

中村 好文
新潮社(2004/06/23)

またもや中村好文であるが、読みやすいのでつい。

1章から12章のタイトル
「風景」「ワンルーム」「居心地」「火」「遊び心」「台所&食卓」「子供」「手ざわり」「床の間」「家具」「住み継ぐ」「あかり」
それらは著者がとくに大切にしている事柄だろう。

あるポイントを押えて、それだけでいいと言えるかがどうかが良い住宅になるかどうかの分かれ目かもしれない。

著者がよく引用する『ボートの三人男』の中の簡素な暮らしを小舟に例える引用

がらくたは投げ捨ててしまえ。ただ必要なものだけを積み込んで-生活の舟を軽やかにしたまえ。簡素な家庭、素朴な楽しみ、一人か二人の心の友、愛する者と愛してくれる者、一匹の猫、一匹の犬、一本か二本の愛用のパイプ、必要なだけの衣料と食料、それに必要より少し多めの酒があればそれでよいのだ。

さて、僕にとってこれだけでいいと言えるものはなんだろうか。




B077 『住宅70年代・狂い咲き』

篠原 一男他
エクスナレッジ (2006/02)

70年代、「野武士」達の時代。
個性のある作品が集められているというのもあろうが、この時代の住宅にはエネルギーがある。
建物が「人格(?)」のようなものを獲得しているようにも見える。

あまりに饒舌で押し付けがましいのは嫌われるかもしれないが、そればかりが人格ではない。
藤本壮介が篠原一男の「上原通りの住宅」を『地球のような場所』と評しているが、これも地球のように包容力のある人格を獲得しているという言い方もできるだろう。

マーケテイングを学んでいる友人にアカウントプランニングという手法では企業に人格のようなものを設定する、というようなことを教えてもらった。
何か通ずるものがあるように思う。

あまりに固定的な人格ではつまらないが、コルの建築のように複雑で、篠原一男のように懐の深い人格ができれば良いな。




B076 『建築依存症/Archiholic』

安部 良
ラトルズ(2006/04)

安部良と言う建築家のことはよく知らなかったがタイトルに魅かれて読んでみたらとても共感できる本であった。

設計者とモノとの距離がとても近い。
そして建物と人との距離も近い。

しかし、その距離を縮めるのはそう簡単な事ではない。

僕の建築のテーマも肉体と建築の関係だから、何かにとことん執着しなければつくれないことがよく分かっていた。

ガウディやスカルパに魅かれ石山研の出身であるのも頷ける。

今の建築はほとんどがカタログから選ばれた「製品」の組み合わせでしかなく、それぞれの「製品」の表情はマーケティングの結果としての外面のいい顔がほとんどである。
モノが人と腹を割って話そうなどとは考えてもいない。例えば、思いをこめられず、ただ貼られたビニールクロスにはモノとしての力は、ない。
そして死んだような表情のモノと人との距離は遠い。多くの人はその距離には無関心だ。

僕もなかなかモノと関わることはできていない。
モニターの中で上辺だけのものを描くことしかできていない。

もっとモノの近くにいきたい。そして、建築に、モノに命を吹き込みたい。

「生活者と会話のできる建築がつくりたい」と僕は文中で何度か繰り返している。もちろん建築が声を出してしゃべるわけは無い。でもただ建築を擬人化して、あたかも会話が成立するような親密な空間をつくりたいと言っているだけでは物足りない。例えば小さめのホールで弦楽四重奏の演奏を体験したときに身体中が響きに包み込まれて深く感情を揺さぶられることがある。バレリーナの肉体の躍動を間近で見て、頭の先からお尻まで、脊髄に電気が走るような感覚を覚えることがある。歌手の声が、それが誌のないハミングのようなものであっても、その抑揚と声色だけで心に直接的に届いて、せつなさや嬉しさを感じることがある。生身の人間によるパフォーマンスが体験者の感情に直接的に届くように、建築もパフォーマンスができると僕は思っているのだ。

あたりまえのことかもしれないが、最近デザインとは「関係」のことだと強く思うことが多い。




B075 『デザインのデザイン』

原 研哉
岩波書店(2003/10/22)

タイトルのとおり、デザイナーはまずデザインという概念をデザインすべきなのかもしれない。
著者は時間的にも空間的にも大きな視野で眺めた中でデザインを捉えている。

時代を前へ前へ進めることが必ずしも進歩ではない。僕らは未来と過去の狭間に立っている。創造的な物事の端緒は社会全体が見つめているその視線の先ではなくて、むしろ社会を背後から見通すような視線の延長に発見できるのではないか。・・・・両者を還流する発想のダイナミズムをクリエイティブと呼ぶのだろう。

この人の言葉は頭に映像が浮かぶようでとても分かりやすい。

中でも『欲望のエデュケーション』というところはとても共感できた。現代のマーケティングは人々の欲望を精密にスキャンする。それは「ゆるみ」や文化水準、品格といった対象の性質までをも拾い上げる。例えば、日本車は性能は優秀だが、「美意識が足りないとか哲学が不足している」といわれる。僕もそう思うし、なぜもっと色気のあるデザインをしないのか?というふうにも思う。
しかし、それはデザイナーの問題というよりは日本人の意識水準の問題なのである。日本人の車に対する美意識がヨーロッパのそれに比べると成熟していないのだ。また「市場の欲望の底に横たわっているこういう性質は簡単に改善できるものではない」

そして、拾い上げたものが製品化・消費されることで、さらに消費者の性質を強化する。

だからこそ『欲望のエデュケーション』が必要なのである。

本書でも日本の「nLDK」に代表されるような住宅事情を例に説明されているが、住宅(建築)に対する意識の低さはひどいものだ。
住宅メーカーや不動産屋などの供給サイドに立てば、意識が低く「nLDK」「駅から何分」などの記号で事が済むほうが扱いやすいし、供給側の資質もそれほど要求されずメーカーとしてのメリットもでる。
それで、せっせと広告を打ち、住宅を単なる記号として扱うことを教育すること(負の欲望のエデュケーション)でユーザーを手の届く範囲にとどめておこうとする。

だから日本で住宅に関するマーケティングでは記号ばかりが抽出されるし、それがさらに現状を強化していく。

その場では僕らの存在意義は記号の中に埋もれて消えてしまう。

マーケティングを行う上で市場は「畑」である。この畑が宝物だと僕は思う。畑の土壌を調べ生育しやすい品種を改良して植えるのではなく、素晴らしい収穫物を得られる畑になるように「土壌」を肥やしていくことがマーケティングのもう一つの方法であろう。

やっぱりこの人の言葉はイメージしやすい。

収穫をあせるのではなく、土づくりから収穫、それがまた土づくりにつながる、といったプロセスをイメージすべきだろう。

僕の専門領域はコミュニケーションであるが、その理想は力強いヴィジアルで人々の目を奪うことではなく、5感にしみ込むように浸透していくことだと考えるようになった。

建築についてもいえる。

未来のヴィジョンに関与する立場にある人は「にぎわい」を計画すると言う発想をそろそろやめた方がいい。「町おこし」などという言葉がかつて言い交わされたことがあるがそういうことで「おこされた」町は無惨である。町はおこされておきるものではない。その魅力はひとえにそのたたずまいである。おこすのではなく、むしろ静けさと成熟に本気で向き合い、それが成就した後にも「情報発信」などしないで、それを森の奥や湯気の向こうにひっそりと置いておけばいい。優れたものは必ず発見される。「たたずまい」とはそのようなちからであり、それがコミュニケーションの大きな資源となるはずである。

ここで雅叙苑がとりあげられていた。一度ゆっくり泊まってみたいものだ。

デザインは技能ではなく物事の本質をつかむ感性と洞察力である。

デザイナーは本来コミュニケーションの問題を様々なメディアを通したデザインで治療する医師のようなものである。だから頭が痛いからといって「頭痛薬」を求めてくる患者に簡単にそれを渡してはいけない。・・・・「頭痛薬」を売ることに専念しているデザイナーは安価な頭痛薬が世間に流通すると慌てることになる。




ふ~~

ようやくポートフォリオをアップできた。
[WORKS]
[PROJECT]

前からやろうやろうと思いながらなかなかまとまった時間がとれませんでした。

たけるもとうとう3ヶ月。
まだまだ大人しくはなってくれませんが、僕もそろそろエンジンをかけないと。
がんばります。