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B074 『ザ・藤森照信』

藤森照信
エクスナレッジ(2006/08)

藤森照信がなぜ一般の支持を得ているのか。

それは彼が「自ら楽しむ」ということを徹底しているからだろう。

最後の方に奥さんのインタビューが乗っているけれども、奥さんは結構苦労されたみたい。
大変な時期にも夫は「路上観察」や現場へ出たっきり。
藤森さんもきっと奥さんに負担をかけている事を自覚はしていただろうが、誰にも真似できないぐらい楽しみきることが彼にとっての生命線であることを自覚していたから、あえて気づかないふりをしていたに違いない。

と、僕は思う。

その、ある種の強さが藤森さんを藤森さんにしたのだ。

本城直季のミニチュア風写真は建築本としては最初違和感があった。

だけど、子供が箱庭を作るのに熱中するように建物をつくる藤森さんの建物にはふさわしい気もしてきた。

都市の(人口の)嘘っぽさ」を露にする本城氏の写真でも耐えられるのはこれまた藤森さんのテクスチュアのある建物だからかもしれない。

さすがに歴史家&建築家ところどころにどきりとする表現がある。

(建築史家としての)この認識と建築家藤森のデザインの間の関係は考えないようにつとめている。物をつくるには考えない方がいいレベルもある、という知恵を建築史家藤森は歴史から学び、建築家藤森に伝えてある。ミースは何か考えていたんだろうか。感じていただけではあるまいか。安藤や妹島だってどうだろう。

同感。

(エコロジー主義者について)科学技術の時代20世紀の蓄積を軽く見るような、簡単に乗り越えられると考えるようなそういう方向には同意できない。言葉や理論では超えられても、現実では大禍を呼びかねない。マジメさだけが場の空気を支配し、笑いの乏しい世界は私の性に合わないのである。

人は、身体性への働きがあった時にはじめて空間のダイナミズムを感じる。代々木のプールのダイナミズムは、大屋根の端が地面近くまで降りてきていることで生まれた。

藤森建築は自然素材を好んで使う。でもその素材の味を生かすために、藤森はその露出度に寸止めをかける。・・・・・つまり、趣味の固まりがそのままでは嫌味にずれ込んでしまう。そこのところをぐいと意志の力で止めて、物に対する批評の角度を際立たせる(赤瀬川原平)

また、大学院生時代、全国の2000棟を超える近代建築の優品を”相撲を取るように”真剣に見てまわったという話が印象的だった。

そういえば、東京入院時代、暇なので一緒に入院しているおじいさんと空気砲を作ったりして遊んでたのだが、あるときテレビに藤森さんが出てきて、少しこの人に興味がある、と話をしたらそのおじいさんが藤森さんのおじさんにあたる人だったのでびっくりしたことがある。
子供のころは(悪いという意味ではなく)やんちゃだったそうだ。




仕事


今日、ある現場の試験杭に立ち会った。

職人さんたちは炎天下の中、重機を手足のように扱い、手による合図でコミュニケーションをとり合う。

土という建築の中ではおそらく最も扱いにくいものを相手にしている以上、現場の状況によって臨機応変に対処することが要求される。

そんな中、職人さんたちはあまり言葉を交わすことなくとも、個々がその場でやるべきことをきちんとこなし、なおかつ全体では現場が有機的に進行して行く。

なんというかセクシーである。
これが仕事なんだなと感じる。

この、現場での最初の仕事に立ち会うとき、僕はいつもちょっとした嫉妬のようなものを感じてしまう。




B073 『藤森照信の原・現代住宅再見』

下村 純一、藤森 照信 他
TOTO出版(2002/12)

TOTOから事務所に期間で送られてくる『TOTO通信』というものがある。
毎回、明確にテーマが設定された特集を組んでいてとても勉強になる冊子である。

そこで連載されている藤森照信のコーナーを一分まとめたものが本著。(続編も出ている)

中村好文が建物の息遣いを拾い上げるのだとしたら、藤森照信は設計者の情念というか体臭のようなものを嗅ぎ分け、その匂いを分かりやすく説明してくれる。建築も面白いが、それを設計している人間も面白いのである。この刊に取り上げられているのが特に人間臭い年代というのもあるけれども、やはり藤森照信は人間を浮かび上がらせるのがうまい。

また、彼のつくる建物も得意なポジションで我々に多くのことを問いかけてくる。
石山修武と合わせて一度自分の中で整理することは、避けては通れないと思う。でないと、ある部分のもやもやは晴れそうにない。ということで今日『ザ・藤森照信』買ってしまいました・・・




B072 『と/to』

と/to 浅生 ハルミン、小泉 誠 他 (2005/09)
TOTO出版


心地よく誠実なものづくり。

その空気感が誰かに似ていると思えば、小泉氏は中村好文の教え子でもあるそう。

等身大でのモノとの関わりを生み出すこと。

浅生ハルミンのイラストも心地よい。




B071 『私たちが住みたい都市』

山本 理顕
平凡社(2006/02/02)

工学院大学で開催された建築家と社会学者による連続シンポジウムの記録。
全4回のパネリストとテーマは

伊東豊雄×鷲田清一「身体」
松山巌×上野千鶴子「プライバシー」
八束はじめ×西川裕子「住宅」
磯崎新×宮台真司「国家」

と大変興味深いメンバー。

しかし、このタイトルのストレートさに期待するようなスカッとするような読後感はない。

建築という立場の無力感・困難さのなかでどう振舞えるかということが中心となる。

宮台真司の”○○を受け入れた上で、永久に信じずに実践するしかない”いう言葉と、その中で実践を通じて何とか活路を見出そうと踏ん張る山本理顕が印象的。

建築家は、広い意味でのアーキテクチャー・デザイナーになろうとも、それだけでは完全に周辺的な存在になるということです。各トライブのアイコンの設計如何は、人々の幸せを増進させる試みかもしれませんが、それは、各種の料理が人々の幸せを増進させるということ以上のものではありません。(宮台)

宮台の言うように建築家には『個々の料理』を提供する以上のことは出来ないのだろうか。

というより、『個々の料理』こそが世界に接続できる唯一のツールなのかもしれない。

それこそがシステムの思うつぼで、管理された自由でしかありえないのかも知れないという恐れはある。
しかし「『個々の料理』によって世界の見え方がほんの少し違って見えた」という経験を信じる以外にはないのではないだろうか。

そのどうしようもない建築や都市の風景によって私達の生活は今や壊滅的になってしまっているのではないか。建築の専門家として言わせてもらいたい。今の日本の都市は危機的である。私たちの住みたい都市はこんなひどい都市では決してない。こんな都市の住民にはなりたくない。
だから話をしたいと思った。(あとがき)山本理顕

それにしても、そんな思いで議論された『私たちが住みたい都市』でさえ、わくわくするような躍動感のあるイメージを提示できないのはどういうことだろうか。

システムへの介入よりも、イメージの提示こそが必要ではないだろうか。

システムや意味やその他もろもろのものに依存せず、ただデザインし続けることにこそ可能性が残されているはずだ。

もっとシンプルに『私たちが住みたい都市』を思い描いたっていいんじゃないだろうか。




夏文庫あります


現場へ行く途中の本屋(携帯にて)

こう書かれると、「読書の秋」のイメージもあってか、読書がとても涼しげな行為に思えてくる。

風の良く通る縁側に寝っ転がってセミの声と風鈴の音を聞きながら読書しているイメージが浮かぶ。脇には麦茶とスイカ。

見知らぬ本屋の店長にやられたなぁ。(店内の夏文庫コーナーも手作りっぽかったです)




CD『うたううあ』

うたううあ (CCCD) ううあ、ともとも 他 (2004/03/13)
ビクターエンタテインメント


レンタル屋で童謡を探していて見つけた。
NHK教育テレビでううあ(UA)が歌ってたもの。

子供というよりは自分が楽しめた。

どこかで、昔の歌は肉体労働の辛さを軽減させたり楽しみにかえたりする役割があったというのを読んだことがあるけれど、童謡なども、どちらかといえば子供のためというよりも子育てをする側にとっての意味の方が大きいかもしれない。

自分で歌っているうちに、肉体労働も子育ても楽しげなものに変わるから不思議。

そういう意味で”楽しめた”というのは童謡としても成功ということではないだろうか。
[MEDIA]




B070 『意中の建築 下巻』

意中の建築 下巻 中村 好文 (2005/09/21)
新潮社

中村好文・下巻。

やっぱり建築って素敵だと思う。

中村さんはあとがきに、学生から「建築家になるための才能や資質」を問われたときの答えとして次のように書いている。

「もし、僕みたいな市井の住宅建築家になるつもりならね…」と前置きをして、私がまず挙げるのは、
・計画性がないこと
・楽天的であること
のふたつです。もちろん、ほかにも「日常茶飯事を惰性から祝祭に変えられる才能」とか「清貧に耐えられるしなやかな精神」とかもっともらしいことも言いますが、なんにしても最初のふたつは備わっていた方がよいと思います。

うん、妻には申し訳ない(?)がこれらには自信ありだな。

それは、喜ぶべきことのはずだ。きっと。

建物見学で計画性がなくて楽天的といえば、僕もけっこう無茶をしたりしたことがある。
この本でも最初に出てくるサヴォア邸。
パリ郊外にあるコルビュジェの傑作ですが、学生の時に見に行きました。しかし、ここで漫画のようなことが起こりました。

今考えると馬鹿丸出しですが、若気の至りと思って軽く笑ってください。

行ってみると、サヴォア邸は改修工事中らしく見学不可になっていました。しかし、結構な高さの塀越しに中の様子を伺うと人の気配がありません。

はるばるフランスの田舎まで来たのです。

ちょっと、近づいて写真撮るぐらいならいいかな。という誘惑に駆られました。

下のGoogleEarthで見つけた画像で言うとちょうどAのあたりの塀を乗り越えて建物に近づこうとした時、Cのあたりから一匹の犬がひょこひょこ出てきました。

ges.jpg

何じゃ、と思ってとっさにBの位置の木の影に隠れると、その犬はふらふらと歩いてまたCのところに戻りました。

なんか、やばいかなぁと思っていると、今度は犬と一緒に太ったおじさんが一輪車のようなものと草すきフォークを持って出てきて庭掃除を始めてしまいました。

人がいたのかと後悔するも、どうすればよいか分からずただ隠れてじっと身を潜めていると、能天気そうな犬がひょこひょここっちへやってくるではありませんか。

そして、その犬となんとなく目が合ってしまったのですが、別に吠えるでもなくご機嫌であたりをふらふらと歩き回り、ある時突然、その犬は僕の隠れているちょうどその木の幹に片足挙げてショーベンを始めたのです。

なんとなくおちょくられてる気がしてきた時に、おじさんが一輪車を押して犬の方へ(つまり僕の方へ)近づいてきました。

こりゃだめだ。と思い、僕は意を決し、フランス語は分からないので『アイムソーリー』といいながら、敵意がないのを示すために両手を上に挙げて出て行きました。

すると、太ったおじさんは白い顔がみるみる赤くなってなにやらもごもご言い出しました。

そして、僕は文字通り「つまみ出され」ました。

と、これだけのことですが、そのショーベンシーンがあまりに漫画チックで記憶に焼きついています。

楽天的というよりは無謀な話でした。撃たれなくて良かった。

ちなみに、一緒に見学に行った同じ建築学科のクールなツレは僕が塀を登ろうとしたとき「俺は他人のふりをする。ちゅうか他人や」といってその辺をぶらぶら散歩し始めました。

そっちが正解。