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「確信」について

-5/29追伸アリ
友人からもらったコメントでなんとなくつながりが見えてきた気がしたので書いてみる。

僕は今、何らかの「確信」を持っているわけではない。

ただ、まだうまく言葉にならないが、なんとなく何かが「確信」に変わってくれるはずだ、という期待のようなものはある。

しばらくは「確信」まではいかないだろうし、「確信」を探すんだろうなと思う。

いや、探すというより「確信」に変えていく、ということなんだろう。流れの中で。

存在しているものを探すんじゃなくて、生み出す。

ポストモダンの生き方としてはこの違いが決定的な意味を持つ気がする。

存在の確信を持てるものがあるのならそれでもよい。
しかし、中途半端に不変の存在を信じようとすることは、逆に不在に対する不安を伴う。

自ら絶えず確信を生み出し続けること。
仮説としての確信を生きること(!?)

そういう姿勢に自由を感じる。

-追伸
「仮説としての確信」はちょっと弱い気がする。
仮説よりはやはり確信である。

普遍としての確信ではなくて
オリジナリティとしての確信。




B063 『建築の幸せ』

中崎 隆司
ラトルズ(2006/02)

著者は社会学科卒で、生活環境プロデューサー、建築ジャーナリストという肩書きを持つ。

こういう「肩書き」というのはあんまり好きじゃないが、多くの人の中心に立ち、物事の方向性を決めるような人は必要である。
多くの人が共感できるビジョンを示して、目的を共有しなければその場しのぎの連続になってしまう。
(本来なら行政がプロとしてそういう能力を持つべきだと思うが)

具体的な事例がたくさん紹介されておりとても参考になる。

しかし、なんとなく全体を通してぎこちなく感じる部分があった。
その違和感の原因はどこからくるのか。

それは、著者がクリエイターではなくプロデューサー・アドバイザーだということに関係があるように思う。

建築は社会にとっても幸せなものであるべきだ、というのは全くその通りだと思う。
しかし、それ以外の、それを超えたもの、例えば言葉にならないような空間性というものを許容しないような印象を彼の文章からは受ける。

ものをつくる過程ではおそらく膨大な思想的な無駄が生まれていると思う。その無駄が多ければ必ずよいものが出来るとは限らないが、そういう膨大な無駄から何かが生まれることがあることも事実だろう。

そういう無駄のつけいる隙を感じないのだ。
「いや、あれは失敗だとも思うけど、そういうことの先に可能性がありそうな気が・・・するんだけどなぁ・・・」って思う。

ただ、建築家がそういう言葉にならないものに逃げ込みがちで、現実的な部分や社会性から目を背けがちであったというのも事実。

建築家は言葉にならない部分は建築のプロとして実現しながら、社会性等とも正面から向き合わなければいけないと思う。

そういう点で、彼が独自の空間性も持っていながら現実も引き受けようとしている30代の若手に期待しているのも分かる気がする。

タイトルから期待していたようなカタルシスは得られなかったけれど、具体的なヒントには溢れていた。
しかし、こういうことは具体的な実践の中からしか答えは見出せない。
実践の機会を得なければ、具体性を引き受けられるような力はつかない。

ちょっと焦るな。




B062 『仕事のくだらなさとの戦い』

仕事のくだらなさとの戦い 佐藤 和夫 (2005/12)
大月書店


タイトルがあまりにキャッチーな本の多くは
・偏見に満ちた内容の本
・あまりに平凡な考えをただ大袈裟に大発見をしたかのように書いている、タイトル以外に読む場所のないような本
のどちらかである場合が多い気がする。

しかし、本著はその点では読める本であったと思う。
強い思いを理性でぐっと抑えている。

ただ、このタイトルは少し誤解を招く。
著者が戦おうとしているのは「仕事のくだらなさ」ではなく「くだらない仕事」である。
著者は労働そのものには絶望よりはむしろ希望を見ている。

子供が生まれてすぐの読書のタイトルがこれか、と思われるかも知れないが、だからこそのテーマだと思う。

佐藤和夫の執筆の動機の多くは若者が生きていても仕方がないと感じるような現状をどうにかしよう、と言うところからきているようで共感できる。

子供は社会の鏡というが、そうだと思う。
生まれながらに『生きていても仕方がないと感じる』子供だったわけではない。

子供が大人になることに希望をもてる社会だろうか。
大人は子供達に生活や労働に対して喜びや希望、もしくは辛さを受け入れる強さなど前を向く術を伝えてきているだろうか。

資本主義のシステムは自動的に自己を守ろうとする巨大な規範となってしまっている。
何のためにそのシステムを必死に守り、それに乗ろうとしているのか。
それから目を背けたままでは子供達にはそのシステムに利用されているようにしか見えないだろうし、そこに希望は持てないだろう。
たとえシステムを受け入れるとしても、目を背けるだけでなく、少しでも向き合い、子供達に何かを示せるように努力をすべき時期に来ているのではないだろうか。

自分の子供に不憫な思いをさせたいとは思わない。

しかし、僕が子供にしてあげられることの中から、優先順位をつけなければいけないとすれば、一番に来るものは「多くのモノを与えること」ではなくて、「僕自身が人間として先を歩き、何らかの希望を彼に与えられるような生き方をすること」である。

後は彼が判断できるようになってくれれば良い。

著者のヒントは労働にもともと備わっていた、楽しみや喜びを取り戻すこと。
自立性やコミュニケーションが重要。

自分の着る服が自分や自分の親しい友人によって編まれたり縫われたりして、みんながその人しかないような服を着られるとしたら何という豊かな社会であろう。料理を友人たちと楽しんで作り、一緒に夕べにワインやビール、各人の得意料理を雑談しながら楽しめるとしたら、どれほど人間は豊かな生活であろう。こんな当たり前の夢がまったく不可能な方向に日本社会が向かっているのはなぜであろうか。

「ただ生きることを楽しむこと」がこんなに贅沢になってしまった国が他にあるだろうか。

僕が答えを見つけられているわけではない。
それでもやはり、「ただ生きることを楽しむこと」が当たり前と感じられる。そういう姿勢で生きられるようになりたい。




DVD『誰も知らない Nobody Knows』

誰も知らない 柳楽優弥 (2005/03/11)
バンダイビジュアル


「誰も知らない」

そういうことか。

自分のことより相手のことを考えてしまう子供と、
相手のことより自分のことを考えてしまう大人。

前者は強く、後者は弱い。

そういうと単純化しすぎるけれども、どちらも人間のもつ一面。

それが人間。

しかし、それで命を落とすのはあまりに悲しい。

飛び込んでくるニュースはそんなのばっかだ。

-追記

ストーリーそのものと同じぐらい、子供達の演技やセリフが妙にリアルなのに感動した。(特にしげる)
大人の勝手な子供像を押し付けたような感じが全くしない。こんな演技ができるのだろうか、と思っていたが、子供には台本は渡していなかったそう。

モチーフとなった実際の事件はもっと残酷。

⇒(iFinder雑読乱文:誰も知らない<巣鴨子供置き去り事件>)

途中の「私は幸せになっちゃいけないの。」というセリフが印象的。
単純には割り切れないこともある。

⇒(マキのつぶやき)

ただ「責任」ということは忘れてはいけないと思う。
[MEDIA]




B061 『水木しげるの妖怪談義』

水木しげるの妖怪談義 水木 しげる (2000/07)
ソフトガレージ


水木しげるの対談集。
養老孟子や美輪明宏とも対談してたりする。
けっこういっちゃってる。

神は政治、妖怪は生活。。。

妖怪は音。。。

妖怪は雰囲気。。。

妖怪を消し去ることがあたりまえで良いことだ、ということに疑問を持つことさえ難しくなってしまった。

目に見えるもの、頭で理解できること、それがすべてというのはやっぱりどこか寂しい。

そう、何かが抜けおちてるような。
んな気がしませんか。




む展



ときどきのぞかせてもらっているマティックさんのサイトで紹介されていたので行ってきました。

む展のむは、(曖昧な記憶によると…)ムサビのむ、ゼロのむ、無限大のむ、夢のむ。だそう。
場所は鹿児島市立美術館で、今日の午前中にヒアリングがあった物件にドームを考えているのでそれも見学に。(ちなみに前回のプロポーザルは落選。残念。)
市立美術館ドーム

マティックさんの映像作品は単純に楽しめました。
リアルタイムに活動している人達の作品は、その存在自体にも勇気付けられます。
明日じゃなくて今日、11日(日)までなので興味のある方はどうぞ。

その後、帰りにジュンク堂によって立ち読み等。
そこでこれもマティックさんが紹介されていた本を発見。
前にアミュの紀伊国屋で探したときは品切れだったもの。

(small planet) small planet
本城 直季 (2006/04/08)
リトルモア

もしかしたら建築そのものよりも模型の箱庭感・世界観が好きかも知れない僕としてはたまらない一冊。

僕は模型をつくるときは必ずしもリアルを目差すわけではないが実物のもつ世界観や時間の流れのようなものが現れればいいなと思いながらつくっているつもりだった。
しかし、この写真集は逆のベクトル、実物の世界の時間を流れを凍結し模型のように見せようとする力が働いている。(模型らしいことはさして重要ではないそうだが)
そこで、全く別の世界観が現れているのを目の当たりにすると、模型を作っているときは現実の建物とは別に模型そのものの世界をつくりたいと思っているのだとあらためて気づいた。
もしかしたら建物を模型にあわせているのか…

それともう一つ。この本を立ち読みしながらこの感覚に近いものをさっき感じたな、という気がした。

市立美術館で油彩なんかを見るときに、最初は他の人と同じように壁に沿って作品との距離が1mそこらで見ていた。
しかし、よく分からないというか伝わってこない。
そのときふと、佐々木 正人の肌理の話を思い出して、少しずつ遠ざかってみてみた。
すると、ある距離になると、絵の具のかたまりだったものが光やモノの肌理となって奥行きや世界観をつくりだす。
その突然焦点が合う感じは本城 直季の写真と似てるなと思った。
その、一定の距離を持ったときに生まれる焦点と光を、作品とほとんど距離のない状態で生み出すことができるのが作家のイマジネーションの力なのかもしれない。

全くのドシロートで油彩などのそういう見方・距離が正当な見方、あるいは常識なのかはわからない。
だけれど、従来の美塾館の展示の仕方では、玄人はともかく素人のお客さんが壁にそって眺めていても、作家のイマジネーションや世界観は伝わらず、絵の具の塊で終わっていることが多いのではないだろうか。
客に見方を指示するのもナンセンスな気がするが、なんかもったいないという気がした。

ちなみに、この本は立ち読みで我慢して財布に余裕のあるときに、とあきらめたのだけれども、結局我慢できずに建築雑誌を一冊買ってしまった・・・