1

B058 『informal -インフォーマル-』

金田 充弘、セシル バルモンド 他
TOTO出版(2005/04)

セシル・バルモンドはおそらく今世界で最も熱くそして哲学的な構造家。

コールハースやリベスキンドといった建築家とのプロジェクトのレポートのような形なのだが、セシルの思考の流れが読み取れるまったくエキサイティングな本。

前に東京で勤めていた事務所の先生が『建築の自由は構造の先にしかない』というようなことを言われていたのだが、最近その言葉が身にしみることが多い。

柱と梁をグリッドにくむようなラーメン構造のような考え方はそれ自体20世紀的で、大型のマンションのように人を無個性化しグリッドの中に押し込めるような不自由さを感じてしまう。

ラーメン構造というのは不自然で(おそらく自然の中では見られない形式だろう)そういうものに何でも還元できると言う人間の傲慢さと、一度出来上がった形式を思考停止におちいったまま何度もリピートしてしまう怠慢さが現れているようで気がめいる。

そこで、そういう不自然さ・不自由さから抜け出そうと言う姿勢がセシルのいう”インフォーマル”なのだが本当に魅力的である。
構造はあきらかに”自然のかけらを鳴らす楽器”の一つであるはずである。
そんな楽器を演奏できる人とコラボレーションできれば楽しいであろうが鹿児島にそういう人はいるのだろうか。(また、セッションにはこちらの力量も必要)

日本でも構造家とのコラボレーションは最近注目を集めているが、逆に一連の事件で不信感も募りつつある。
闇雲に規制を強化することで自由さを奪われることがないように祈るばかりだし、この機会に同じ構造を扱う人でもまったく世界の違う人がいることをもっと知らしめて欲しいものである。

a+u別冊、ほしいなぁ。

■階層的で固定的な意味での秩序は、物事の自然状態から最も遠いものとして理解される。
■こうした乱流に直面して、秩序が安全な要塞として承認される。でもそれは、大事な点を見逃す。それは現実の本質はまさに偶然であり、「秩序」というものが、ひょっとするともっと大きなランダム性の中での、小さい局所的な安定状態に過ぎないかもしれないということだ。




W012『麦のはな』

w10.jpg
□所在地:鹿児島県鹿児島市
□設計:ウチダアーキテクトオフィス
□用途:飲食店
□竣工年:2006年
[gmaps:31.538424419761007/130.53330659866333/18/460/300](comment)[/gmaps]
225号線沿いにある建物でかなり前から気になっていたのだけど、先日ようやくオープンしたようなので食べに行ってきた。

デザイン的にはガラスのスリットをぐるっとまわしてボックスを上下に裂いたような感じ。
両端の大開口部にはガラスを支えるマリオン程度で構造体のようなものは見当たらない。
比較的中央に柱があるのみで上部の屋根はキャンティでもっているような感じだけども水平力をどう処理しているのか良く理解できなかった。

内装は壁・天井は基本的にはよしずのようなもので統一されていた。(大開口部のブラインド代わりにも)
夜、内部から光がもれるとよく分かるけれども、なんと言うか”内臓系”の手法。
黒い外皮を切り裂いたところからオレンジ色の内臓(内装)が見えていると言う感じで、カウンター席周りの扱いだとか、その手法が徹底されていてすごくよくまとまった建物だった。

構造的な手法も含めてここまでつめられるところは、鹿児島にはそうないと思うのだけれどもどこが設計したのだろう。
気になる。









B057 『昔のくらしの道具事典』

昔のくらしの道具事典 小林 克 (2004/03)
岩崎書店


図書館、児童書コーナーより。
おもしれー。

【土間+かまど+羽釜+せいろのドッキング】や【いろりの自在鍵と横木の機構】あたり、ぐぐっときた。

このごろ、豊かさとは関係性のことではないか、とよく考える。

便利にはなったけれども、こうした昔の道具との方がより深い関係が築けたのではないだろうか。

人との関係・モノとの関係・空間との関係・土地との関係・時間との関係・自然/宇宙との関係・目に見えないものとの関係・・・・。

様々なものと多様な関係が築ければそこには豊かさが生まれるだろうし、さまざまな関係性が希薄化すればそこにリアリティを感じとることは難しくなる。

それは「棲み家」という言葉について考えたこと同じことだろう。

昔に戻るということではなく、現代におけるさまざまな関係のあり方というものを見いだす必要があるように思うし、また、現代的な関係性による豊かさというものも身の周りにたくさんあるだろう。

関係性をどうデザインに、生活に組み込んでいくか。
それが大事。




B056 『屋久島の民話 第二集』

下野 敏見 (1965)
未来社


日本の昔話と水木しげる本を図書館で探しちょったら、屋久島の民話があったかぁ借りてみた。

「そひこのはなしじゃ。」

そいで話が終わるんがよか。
そひこのはなし以上のもんがそげんあるわけがなかかぁね。

こん話を集めたとは、種子島の先生(ちゅうても何十年も前の話)やっけど、当時、そん先生が種子島から屋久島を見て

夜の海に黒々と浮かぶ屋久島の中央部に屋久島電工の灯がきらめくのでした。その灯が私には日本に無数にある離島の暗く悲しい運命を自らの手できっぱりと断ち切って、近代工業の島を打ちたてようとする希望の灯に見えるのでした。(中略)ところが島の近代化が進むにつれて古い伝承が急速に失われつつあります。

ちゅうように危惧しちょん。
当時の時代も感じとるん。
じゃっけど、おいは恥ずかしながぁ屋久島ん歴史はよーわかぁん。ちーっとは勉強せんにゃねぇ。

こん本を読んでも、屋久島なんかはそげな話に想像を巡らせらるん、だいにも分からんようなもんが残っちょっけど、都市部ん化けもんは瀕死の状態や。

景色ん中に想像の入る余地はなか。

そいはちぃっとばっかい貧しかやなかか。
化けもんが本当はおるとかおらんとかの問題やなか。おわんくてもそういうことを考えるんはおもしぇえが。

やっぱい水木しげるん本を読んでみっかねぇ。
なんかヒントがあっはずや。

あっ、こん本にのっちょん話がこんページにもいくっか載っちょっど。

(おいん言葉はだいたい合っちょっかねぇ?あんまい自信はなか)




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「中村好文・心地よい家はこうして生まれる」』


>>番組HP(NHK総合)

「どんな家が欲しいのか、依頼者にはわからない」
「主人公は『家』」
「悪条件にこそ突破口あり」

依頼者もまだ知らない要望を掘り出す。
そこにこそ設計者が依頼者と関わる意味がある。

『家』を主人公に持ってくることで、依頼者の、そして設計者の凝り固まったイメージを抜け出せるのだろう。

家が単なる欲望の結果だけでは息が詰まる。

家は単なる所有物であるのではなく、時には大きくつつみこむ父親や母親のような、時には共に楽しみを分かち合う兄弟や友達のような、互いに関係を築ける相手でなければつまらない。

『家』を主人公にすることで、ようやく家が関係を築けるような相手になれるのかもしれない。

「楽しまなければ心地よいものは生み出せない」

どんな状況においても楽しめる自分を維持し続ける才能こそが、建築家にとって最も必要なものではないだろうか。
[MEDIA]




B055 『モダニストの夢―聴竹居に住む』

高橋 功 (2004/01)
産経新聞ニュースサービス


建築家・藤井厚二(1988-1938)が建てた実験住宅「聴竹居」をインテリアデザイナーでもある2代目店子の高橋功が紹介する。

住まうことを追い求めた藤井の姿勢とそこから生まれる工夫には学ぶべきことは多い。

落ち着いて、とても居心地が良さそう。
だけども、静的な印象の写真が多いせいか脳がとろけて少し歳をとってしまいそうだ。

こういう深みやゆったりと流れる時間と、躍動感や快活さといったものは共存できるのだろうか。
共存する必要はないのか。
それとも、もともと別のことではないのか。

住む人次第か。

ラテン系の人ならどう住みこなすのだろうか。

(当時はそれこそモダンで快活な建物であったろうから、静的な感じは写真の印象でしかないのかもしれないし、もしかしたら静けさの中には生命感で溢れているのかもしれない。)




minicar


缶コーヒーはめったに飲まないので知らなかったけれども、GEORGIAがBMW1/100scaleミニチュアカーキャンペーンをやっていたそう。

それを他のブログで知って、もうキャンペーンは終わってるだろうとあきらめ半分でコンビニに行くと、WANDAがTOYOTA車のキャンペーンをしてた。


初代のクラウン、カリーナ、ソアラ、ハイラックスサーフ、エスティマ、プリウスの6種類。
ミニカーなんかは1/43とか1/64とか中途半端なスケールが多くて1/100スケールの建築模型に使えるのはなかなか手に入らない。画材屋なんかにあるのはちゃちくて高いし。

それがコーヒー付で120円で手に入るんだから安いものです。

BMWを逃したのは残念だけども、嬉しくていっぺんに8個も買ってしまいました。
新しく模型もつくらんとねー。




B054 『あのひとが来て』

あのひとが来て 谷川 俊太郎、谷川 賢作 他 (2005/09/30)
マガジンハウス


3/14のお返しにとちょっと奮発して買ったもの。(CD付)

素晴らしい詩と
素晴らしい音楽と
素晴らしい絵。

豊かで深い。

『深い』というと、その奥に深い意味が隠されていると思いがちだがきっとそうではない。

意味などというものにはとうてい回収されない『深さ』でただ存在していること。
そういうものがあるということ。
そこにこそ美しさや豊かさが存在するということ。

そんなことを思い出させてくれる。

生きる意味とかなんとかいうものは一度忘れてしまえばいい。

そしてもう私は
私がどうでもいい
無言の中心に至るのに
自分の言葉は邪魔なんだ
『旅3arizona』より

身近なものをおそれるあまり
遠くを見すぎて
男の心は宇宙のようにスカスカだ
『猫に見られる』より

私のタマシイに
いつまでも時は満ちないのに
こいつのヒゲの先で
時は満ちる
私を待たずに
『猫を見る』より

時間に満ちた世界は
実際にこの本を手にとって
味わってください。

詩と音楽。もうこれだけで完成した世界に空間を与えるのが、私の仕事であった。山本容子・あとがきより

自分の感じていること、思っていること、考えていることを人に伝えたいなら、詩よりももっとそれに適した形式がある。私は詩をただそこに存在させたいだけだ、石ころのように、洟垂れ小僧のように、と言うと我ながら自分の傲慢にあきれるが。
しかし絵描きでも音楽家でも歌い手でも本音は同じではないだろうか。美しいとしかいえない何かが、目に触れ、耳に触れ、肌に触れてくる、それがARTと呼ばれるものであるはずだ。谷川俊太郎・あとがきより




B053 『甘えのルール』

甘えのルール―赤ちゃんにあなたの愛情を伝える方法 信 千秋 (1998/09)
総合法令出版


相方が図書館で借りてきたのでつまみ読み。

ひとことでいうと3歳まではスキンシップを大切にして甘えさせなさい。それで情緒が安定し人生に立ち向かう基盤ができる。ということ。
そして「甘え」と「甘やかし」は違う。心の甘えをモノですりかえないということ。「心のほしがる物は心で与える―それがルール」

甘えさせてばかりいると、わがままで弱い子になるのではないか、などと思いがちだけど、3歳までは人生を肯定的に受け入れるために甘える必要があるそう。
(そして、これは父親の出る幕ではないそう。さみしいけど。)

説明が中途半端に科学的であろうとしているので、かえって説得力を失っているように思うが、著者がたくさんの親子と接した中から見つけ出してきたことは、まぁそうだろうなと思う。
徹底的に科学的であるか、もっと感性に訴えかけるような簡潔な表現に絞るかした方が訴える力は大きかったように思う。

それはともかく、僕自身これから様々な矛盾する情報に出会うだろうし、混乱することもあるかもしれない。
しかし、子供を育てることは数式で答えを導き出すようになものではない。

自分の子供を信じ、感じ取ることのほうが大切ではないかと思う。

情報も大切だろうけど、ちょっとした安心感を得るためぐらいに考えてあんまり振り回されないようにしよう。

■子育ては「感性」「性格」「情緒」のバランス。
■「音育」感性は振動でつくられる
■「動育」性格は動きで育つ
■「心育」情緒は母親の心の安定で育つ

■子育てで、他人に迷惑をかけない生き方をしなさいと、よく子供に教える人がいますが、本当は少し間違っているようです。人は他に迷惑をかけないでは一日も生きることはできないのです。それだけに他からかけられる迷惑も、ともに背負って解決していこうとする行き方が、自然から与えられた共生の知恵だと思います。(あとがきより)