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Region


まだ見ていないが鹿児島の地域ブランディングを考えるフリーペーパーというのがあるそうだ。

実は高校の同級生で腐れ縁のあるM氏が企画から積極的に関わっているものだ。
何度か彼からこういうものをつくるという話は聞いていて少し気にしていたのだけれども、もう2号まで出ていた。

Region=「地域、地方」という言葉に『開かれた地域』という意味が込められている。

彼が東京から鹿児島へ戻るときに熱く語っていたことが一つの形としてここに現れつつある。

彼は彼のもつ情熱や人なつっこさと言った持ち味を生かしつつ一歩一歩前に進んでいる。

ちょっと悔しいけどまいった。

僕は、自分の進む確かな道を定めかねてしまっている。

自分の持ち味を生かせる、自分の生きられる道はどこにあるのだろうか。

大学の3回生の終わりごろ、お世話になった先生に『建築とは何か』と尋ねられた時に深い森に迷い込んでしまった感じがしたが、今も同じように不安と希望の森に迷い込みつつある。

今回は自ら進んで森に入ったようなものだし、その森もぼんやりとは見えつつはある。
しかし、だからこその迷いがある。

こんどこそこの森を抜け出したい。

だからあともう少し歩いてみよう。

そのための歩く力をこの情報誌から/彼から少しもらおう。

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近所のMisumiに置いてあるようなので原付を走らせ店員に聞いてみたが、今切れているそうだ。残念。
明日にでも探してみよう。
今回Close upされているN氏も同級生ではないか。はー。




B052 『建築は詩 -吉村順三のことば一〇〇』

永橋 爲成
彰国社(2005/10)

シンプルで居心地のいいすまい。

火と水と植物。光と音楽。

端正な佇まい。品。プロポーション。寸法。

そんな、単純であたりまえのことが大切。

でも当たり前のことで勝負するのが一番難しい。

■一般に物の形は固定した論理でもって、やみくもにつくられるべきものではない。人間の自由さをいいものとして形に生かしていく努力―責任のある自由さ―を大切にしたい。

■建築は、はじめに造型があるのではなく、はじめに人間の生活があり、心の豊かさを創り出すものでなければならない。そのために、設計は、奇をてらわず、単純明快でなければならない。

■計算では出てこないような人間の生活とか、そこに住む人の心理というものを、寸法によって表すのが、設計というものであって、設計が単なる製図ではないというのは、このことである。

■私は建築家として、自分では寸法にいちばん責任をもっている。自分のプロとしての責任として、寸法を大事にしています。




B051 『きもちのいい家』

きもちのいい家 手塚 貴晴、手塚 由比 他 (2005/12)
清流出版


『建築の意味や目的は、気持ちよさを味わうためにある』

自分が『いいなぁ』と思った『ありそうでなかった当たり前のこと』を当たり前にやる。

それだけでいいんだ。と背中を押してくれる。




ようやく

50冊。
去年のうちに100冊と思ってたけどようやく半分。
100冊までは辛くともとにかく読み切ろう。
少しづつ、輪郭が見えてきた気がする。
ぼんやりと。




B050 『地球生活記 -世界ぐるりと家めぐり』

小松 義夫
福音館書店(1999/06)

メーカーさんにもらったカレンダーの写真があまりに魅力的だったので誰が撮ったのだろうと見てみると小松義夫と言う人の撮影だった。
調べていると面白そうな本も出している、ということで図書館で借りてきた。

先進国で暮らす人はそれ以外の人に比べて多くのことを知っていて、多くのものを手にしていると思っている。
しかし、それは本当だろうか。

この本に出てくる先進国とはいえない場所の、たくさんの家はとても斬新だし、壁に描かれた絵は生き生きとし今にも動き出しそうである。
先進国でプロと呼ばれ、知識も豊富と思われている人が必死に到達しようとしているもの、なかなか手にできないものを、ただの生活者が手にしている。

とにかくため息が出るほど豊かなのだ。
それに比べて私たちのつくるものはどうしてこうも貧しくみえるのだろうか。

私たちは謙虚さをすぐに見失う。
浅はかで薄っぺらな知識や、怠けることばかりする意識や、つまらないエゴや、その他もろもろのちっぽけなものを、過信しそれがすべてだと錯覚する。

それらは本当にちっぽけなものに過ぎないのに。

『宗教』という方向には行きたくないが、もっと大きなものを感じ謙虚さを失うべきではないように思う。
これらの家には謙虚さを感じるし、ちっぽけな意識を超えた豊かさを感じる。

佐々木正人の観察によるとフォーサイスの魅力は「有機の動き」すなわち意図を消滅させ外部と一体となるような動きにある。

同じようにこの本の家には、環境や家そのものと、つくる人とがダイレクトに呼応しあう・一体となるような関係が見て取れる。
そして、ここには肌理も粒もある。

おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。
(フォーサイスのようなものづくり?)

有機と無機の兼ね合い・せめぎあい、ここいら辺に何かありそうだ。




B049 『レイアウトの法則 -アートとアフォーダンス』

佐々木 正人
春秋社(2003/07)

日本のアフォーダンス第一人者の割と最近の著。

レイアウトと言う言葉からアフォーダンスを展開している。

アーティストとアーティストでない人の境界があるかは分からないが、著者は学者でありながらへたなアーティストよりもずっとアーティスティックな視点や言葉を手に入れている。

それはギブソンから学んだ『目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか』という方法を実践しているからであろう。

本著を読んで、レイアウトの真意やアフォーダンスを理解できたかどうかはかなり怪しいのだが、ぼんやりとイメージのようなものはつかめたかもしれない。

著者が言っているようにアフォーダンスは『ドアの取手に、握りやすいアフォーダンスがあるかどうか』ということよりもずっと奥行きのあるもの、と言うよりは底のないもののようだ。

様々な分野で、一つのある完結したものを追及し可能性を限定するような方向から、”関係性”へと開いていくこと、可能性を開放していく方向へとシフトつつあるように思う。

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。

幾重にも重なる関係性を築きながら流れ創発していくこと。

建築を確固たる変化しないものと捉える事が何かを失わせているのではないだろうか。

*****メモ******

■知覚は不均質を求める。
■固さのレイアウト
■変化と不変
■モネの光の描写。包囲光。
■デッサン(輪郭)派(アングル):色彩(タッチ)派(ドラクロア)
アフォーダンスは色彩派に近い。完結しない。
アトリエワンの定着・観察『読む』『つくる』環境との応答・関係性
■相撲と無知行為・知覚は絶えず無知に対して行われる。無知を餌にする。
■表現・意図は「無機」「有機の動き」=「外部と一つになりつつある無形のこと」
クラシックバレエ=「無機と有機の境界」
フォーサイス=「無機の動きと意図の消滅」動きが「生きて」いる。それは舞台と言う無機的な環境の中で、有機の動きを発見し続けるさま。
■肌理(キメ)と粒(ツブ)それがただそれであること(粒であること)と同時に肌理であること。
知覚は粒と肌理を感じ取る。
人工物には肌理も粒もない。自然にさらされ肌理・粒に近づく。物への愛着は粒への感じなのではないか。

レイアウトや肌理や粒の感じや有機ということは急速に身の周りから失われつつある。




展覧会など



今日はお目当てがあったので久しぶりにまちに出ました。

列車に揺られる気分を味わおうと思って谷山から汽車に乗ったのですが、快速列車に乗ってしまって失敗。
鈍行列車の雰囲気は中央駅から鹿児島駅までの一駅だけでした。
(ちなみに、鹿児島には市電が走っているので、市電を「電車」、JRの方を「汽車」と呼び分けるようですが、まだ僕は使いこなせてません)



ドルフィンポートでパンを買って海際の公園にレジャーシートを敷いて食べました。
昼寝をしたりとまったりと。
ドルフィンポートは出来てそんなにたっていないのに、土曜日の割には人が少なめでした。(少し曇り空と言うのもありますが。)
錦江湾に向かうのを強調するためあえて、まちに背を向ける構成は理解できますが、もう少しまちに向かって開いて、つながりを考えた方が良かったのではと個人的には思います。



その後、お目当ての展覧会に。
鹿児島出身の5人のイラストレーター&デザイナーが、戦後60年間の出来事を60枚のポスターで表現します。

出展している大寺さんのHPをときどき見ているのですが、そこで紹介されていて気になってたので観に来ました。



途中の階段にあったポスター。自画像でしょうか。



会場風景。5人それぞれの個性が見えてとても楽しい展覧会です。
90年代のできごとなどは、すごく懐かしい気がしたのですが、そんなに昔のことではないのですね。

展覧会のあと強く印象に残ったのはテロなどの悲惨な出来事が多かったです。
この60年間でもポスターの出来事から、だんだんとゆるさや隙間というものがなくなっていっていくように感じました。(単に昔のことにはノスタルジーを感じるだけかもしれませんが。)
感じ方は人それぞれ。
展覧会は明日(3/12)までですので、時間のある方は自分なりの60年を感じてみてください。
(会場は天文館タカプラ6階です)



その後、たまたま三越でも版画家の山本容子の展覧会をしていたのをみつけたので観に行きました。
山本容子は「誰でもピカソ」以外ではじっくり観たことがなかったのですが、ちょっとまいりました。
アナログのもつ奥行きの深さをまざまざと見せられた感じです。
描かれた一つ一つのキャラクターが、それぞれ独自の時間の流れをもっていて、その間の余白にもそれらをつなぐ空気や時間が流れている感じ。
独特の空気感や時間の流れに惹きこまれる。
作業風景のVTRもあったけれど、作品と作家の身体とが直につながっている。
いやー、まいった。
(こちらも13日までです。入場料500円の割には展覧会のボリュームもあり。)

イラストや版画の作品は、私たちパパラギの世界にも、ゆったりとした時間や、自然を感じる心や、笑顔やその他さまざまな豊かなものがあることを気付かせてくれます。(また、全く逆のことも示してくれますが)
建築もそういうものでありたいです。

今日は、途中で寄った本屋でずっと探していた本も見つかったし、充実の一日でした。
(身重の妻は大変そうだったけど、楽しかったようです)




B048 『絵本 パパラギ』

絵本 パパラギ―はじめて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと 和田 誠、ツイアビ 他 (2002/03)
立風書房


『はじめて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと』

図書館で小休止がわりに借りてきた。

初版が1920年(スイス)のロングセラーの絵本版。

パパラギとはサモアの言葉で「白人」「文明人」を指す。

ツイアビから診た”パパラギ”はとても不自然で貧しい。

ただ、ここで書かれているツイアビの言葉には、文明人の匂いも感じる。
文明人が何かを語りたいがためにツイアビに語らせているように感じる。
なんとなくフェァじゃない気もするが、それはいいや。

私たちはパパラギの世界に住んでいるが、ここにも楽しみや愛や笑顔はある。
ただ、いろんなものが見えにくくなっているだけだ。

自分とツイアビを比較するのは見えなくなっているものをくっきりと浮かび上がらせる。

だけれども、ツイアビとの比較で今の社会の貧しさを嘆くだけでは、何も変わりはしない。
遠い豊かさを羨望しているだけでいるよりは、身近なところから豊かさやよろこびを感じたり、生み出すことからはじめよう。

パパラギもたまには立ち止まって、ツイアビの話に耳を傾けたり、おおきく深呼吸したり、自分の足元を見たりしてみないといけない。

*****メモ*****

■自然の大きな力から離れてしまった、心が迷った人たちだけが、日もなく、光もなく、風もない、意志の割れ目(ビル)の中で満足しているのだ。
■物がないなら死んだほうがましだ……この人たちはそう考える。食事の皿のほかはなにも持っていなくても、私たちならだれでも、歌を歌って笑顔でいられるのに。
■百枚のむしろを持っていても、持たないものに一枚もやろうとしない。それどころか、持っていないことをその人のせいにしたりする。・・・・たくさん物を持ったら、仲間に分けてやらなくてはいけない。だれかひとりがたくさんの物を持つのは大自然の心ではない。
■パパラギの世界では、人間の重さをはかるのは気高さや勇気や心の輝きではなく、一日にどのくらいお金を作るか、どのくらいお金を箱にしまっているかなのだ。
■みんなの目は太陽のように輝いている。喜びに、力に、いのちに、そして健康にあふれて輝いている。みんなのような目は、パパラギの国では子供だけしか持っていない。
■機械が何でもすぐに作ってしまうので、パパラギはどんな物にも愛情を持たなくなった。それが機械の持つ大きな呪いだ。
■からだも、心も、全部がいっしょに働いて、はじめて人間は喜びを感じる。一部分だけ生きるのなら、他のところは死んで、人間はめちゃくちゃになってしまう。
■腹いっぱいに食べるために、頭の上に屋根を持つために、村の広場で祭りを楽しむために働くがいいと、自然の大きな力は私たちに教える。それ以上になぜ働かなければならないのか。
■私たちは一度も時間について不平を言ったことはなく、時の来るままに時を愛してきた。時間が苦しみや悩みになったことはない。
■「太陽はどうして美しく輝くのか」これはまちがいだ。馬鹿げている。日が照れば何も考えないほうがいいのだ。・・・頭で考えるのではなく、肌や手足に感じさせる。
■たいていの子供はたくさんの知識を頭の中に詰め込みすぎていて、どこにもすきまはなく、光もさしてこない。




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「挾土秀平・不安の中に成功がある」』


>>番組HP(NHK総合)

カリスマ左官と言うので久住氏かと思ったが違った。

挾土氏も久住氏と同様苦労の中で、徹底して試行錯誤を行っている。
それがベースになっている。

途中、語っていたが、一つのことをやり続けていれば、いづれそこからどんな枝も生やせるし、どんな花も咲かせられるようになる。
それは、僕も強く感じる。
あることを突き詰めていくと、一方ではあらゆる方向に拡がっていくし、あらゆるものは突き詰めた先では共通するものにたどり着くのではないだろうか。
おそらく極めれば極めるほど、ものごとの境界はなくなっていくし、真にプロフェッショナルといわれる人は共通の言葉で語り合えるようになれるのではと思う。

『常に不安を抱えることで、感覚が研ぎ澄まされ、良い仕事が出来る』

職人だからこそなおさら感覚を大切にするし、独特の作法を持つ。

左官など、土の状態の僅かな変化を自らの身体で感じ取り、その情報に直接身体的に応答する、アフォーダンスの最も洗練されたものの一つだと思う。

この番組を見るといつも羨ましく感じてしまう自分がいるのだが、今回は、自分の身体性と直に向き合えること、試行錯誤を繰り返し新しいことに挑戦できることが眩しく見えた。

プロフェッショナルとは

新しいことに挑戦して、そこですごい不安な気持ちでみんながピリピリしているムード。そのムードのことを僕はプロフェッショナルと言いたいです。そういうことに挑戦してピリピリしている、殺気立っているムードのことをプロフェッショナルだなと思いますね。挾土

挑戦にピリピリし、そして笑いたいなぁ。
[MEDIA]




B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

佐々木 正人
岩波書店(1994/05)

アフォーダンス。
これもフラクタルのように自然のかけらを鳴らす楽器のひとつだと思う。

私たちのものの捉え方は、前世紀的・機械論的な枠組みにとらわれていることが多い。

そのような『不自由な』枠組みから自由になることを実践した理論の一つがギブソンのアフォーダンスである。

■ギブソンの知覚理論から学んだことの一つは、「認識論を実践する」という態度である。
■もっと大事なギブソンのメッセージは「何にもとらわれない、ということをどのようにして構築するのか」という「知の方法」とでも呼べることである。
■彼に学ぶことの第一は、アフォーダンスの理論であることはもちろんだが、それだけではなく、目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか、すなわち「理論」そのものからも自由になる方法である。(あとがきより)

しかし、一度身についてしまった枠組みから抜け出すのはなかなか難しい。
『アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。』といわれても、感覚器(例えば目)から刺激を受け取り、その刺激を脳で処理するというようなイメージをどうしても浮かべてしまう。

本著にも下記のように誤解されやすいと書かれている。

■誤解-1・・・アフォーダンスは反射や反応を引き起こす「刺激」ではないか。↓↓↓
アフォーダンスは「刺激」ではなく「情報」である。動物は情報に「反応」するのではなく、環境に「探索」し、ピックアップしている。「押し付けられる」のではなく、知覚者が「獲得し」、「発見する」もの。そこには必ず探索の過程が観察できる。

■誤解-2・・・アフォーダンスとは知覚者が内的に持つ「印象」や「知識」のような主観的なものではないか。
アフォーダンスは勝手に変化するのではなく、環境の中に実在する。アフォーダンスは誰のものでもある。すなわち「公共的」なもの。

なんとなく、分かったような分からないような感じだが、一つ言えることは”認知とは受動的なものではなくずっと能動的な行為である”ということである。

単に刺激を受け取るのではなく、例えば身体を動かして視点を変えたり、物を触ったり動かしたりしてみたりと、いろいろと探りを入れながら環境から情報をピックアップしていくのである。

■そのようなアフォーダンスをピックアップするための身体の動きを、ギブソンは「知覚システム」と読んだ。
■ギブソンは、感覚器を、それが動かないことを意味する「受容器」という呼び方に対して、あえて動くことを強調して「器官」と呼ぶことを提案している。
■脊椎動物は5種類の知覚システムをもつ。・・・「基礎的定位付けシステム(大地と身体との関係)」「聴くシステム」「触るシステム」「味わい-嗅ぐシステム」「見るシステム」
■「五」という数には意味がある。それは「感覚器官」の種類の数ではなく、「環境への注意のモード」の種類と考えるべき。

運動抑制モデルについても、脳がすべての動きを制御しているという図式ではなく、『共鳴・同調』といったよりダイナミックなものとしてとらえられている。(この辺はオートポイエーシスのとらえ方と重なるように思う)

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。

それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。

(例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

■リアリティーのデザイン
「物」ではなく「リアリティー」を、「形」ではなく「アフォーダンス」をデザインすべき。
■デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。

そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

捕獲するためのアンテナを研ぎ澄ますことが必要だ。

佐々木は、その後(彼独自のものかどうかは知らないが)『レイアウト』という概念を展開している。
それについても興味があるので後日。




がっ



「なんか、今日はアクセスが延びてるなー。友達にリンク貼ってもらったからかね」と思って、アクセス解析のリンク元をみてみると、ひとつ飛びぬけてるのが。

見覚えがないけど、アドレスに「designer」の文字がある。
なんじゃ、と思ってリンク元をたどってみると、あーびっくり。


前に感想を書いた本著者のサイトにここへのリンクが貼ってるではありませんか。

なんてゆうか、自分の奇行をたまたま同じ店に居合わせた芸能人が見ていて、それをその芸能人がブログでネタにした記事をたまたま見つけた、そんな感じです。

軽くテンションあがったんで思わず記事にしてしまいました。

あーびっくり。

こっちの記事に著者サイトへのリンクを貼ってたから、著者のアクセス解析にこのサイトがひっかかって、それで書いた記事にリンクを貼ってたからこっちのアクセス解析に・・・・・・

てな感じかいな。

はーびっくり。