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B046 『建築とデザインのフラクタル幾何学』

カール ボーヴィル (1997/12)
鹿島出版会


あまり聞かれなくなって久しい「プロポーション」という言葉に惹かれ出している。

そういう感覚による部分が多いような要素、議論や説明のしにくい個人の領域に行ってしまいそうなものとは、なんとなく距離をおきたいと思っていた。
しかし、人間の意識の部分でコントロールできるものなんてのは僅かにしかなく、もっと感覚を研ぎ澄ませて、それを信じたほうがはるかに可能性が拡がるような気がしてきている。
(数日前の養老孟司の番組でもそんな感じの主張をしていたが、時代の流れと言うか、振り子が逆に動き出しているのだろう)

プロポーション・テクスチャー・カオス・フラクタル・ゆらぎ・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA

僕の中ではこれらの言葉がなんとなくひとつのまとまりとしてイメージされつつある。
“美とはDNAの中に刷り込まれた自然のかけら”だとすれば、造型論やプロポーションやフラクタルはそのかけらを共鳴させるための楽器のひとつといえるかもしれない。

(そうすると、ミニマリズム的なものは静寂のなかにしずくの音が時折響くイメージか)

今さらフラクタルそのものが目的になっては暑苦しいが、楽器のひとつとして扱えるようになるのもいいだろう。
音楽のイメージを拡げるのに楽器があっても良いように、感覚を拡げるためのツールがあってもよい。

この本はフラクタルの基礎的な説明から、建築のデザインへの応用まで分かりやすく説明されているなかなかの良著だと思う。
フラクタル・リズムや凝集といったものはデザインにおける様々な次元での応用がきくだろう。
それは自然のかけらをスパイスとしてデザインに忍び込ませるような使い方もできると思う。

だんだん『楽器』の練習をしたくなってきた。

フラクタルについて

フラクタルの基礎的なこと
フラクタルギャラリー
■建築では渡辺豊和がフラクタルを応用・展開している。




TV『福祉ネットワーク “あそび”を生みだす学校』



NHK教育福祉ネットワーク2月21日(火) 20:00~20:29
シリーズ“こころ”を育てる第2回“あそび”を生みだす学校~建築家町山一郎さん~

ゲストに象設計集団の町山一郎を迎えて1982年に建てられた小学校を紹介する。

前に象の本を読んだときのように、ため息が出っ放しだった。
やっぱり豊かである。
これが建築なんだなぁとつくづく思う。

建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(町山)

豊かさがそこにいる子供達の顔に現れている。

■小学校は日本全国均等に配置されていて、馴染みのある建物であり、地域のコミュニティの核となりうる。
■子育てにおいて、核家族という中で分断された形で子供が育てられている。日常的にも子供どうしが群れをなして遊ぶという機会がどんどん少なくなってきている。それは問題ではないか。
■親が専属で育てるのがいいという意見もあるが、子供をいろんな親が面倒をみて育て、子供が群れをなしてその中で育っていく。そういういろんなことがあわさって子供は育つ。
『子育ての共同化、地域化』が求められている。

それは宮台の言う『異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間』である。

宮代小学校では、全部で6つの門をつくり地域の人がどこからでも入ってこれるよう工夫していたが、いくつかの事件の後、文部科学省の指導があり、やむなく正門以外は閉じられてしまったそうだ。

安易に子供を隔離することによって守ること。それは子供達からコミュニケーションのチャンスを奪い、『隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在』として育ててしまわないだろうか。

最終的に建物がまちに開かれていて、そこに地域の人が参画することによって、地域の目によって子供も守られ、子供がいることで地域の人の集まる拠点となる。
そういう相互関係によって安全も守られ地域の核となることが一番だが、ときどきバランスが崩れることもある。
しかし、そういうのを乗り越えてより良いものができればよい。

と町山は言うが、町山の懐の深さと言うか、もっと長いスパンでものを見る視点に感心した。

また、設計の際『まちのような学校学校のようなまち』というコンセプトを建てたそうだ。

宮台はまち(家・地域)の学校化を問題点として指摘するが、それとは逆に、ここには学校の中にまち(家・地域)が流れ込む構図が見てとれる。

20年以上も前から、そういう視点をもっているというのは素晴らしいが、逆に言うとそれを受け入れる余地がまちの側にもあったということだろう。
(この学校では子供達が裸足で駆け回るが、それは学校側からの提案だったそうだ)

翻って、先日鹿児島県の建物の仕上げの仕様の説明を受けたが、県は学校の仕上げ材の標準仕様というのをつくっていた。
プロポーザルなんかでも、その仕様どおりの材料を明記すれば評価が上がるそうだ。
コストや最低限の仕様については一定の効果があるだろうが、いまどき”標準化”を、それも教育の現場においてうたっているのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。

そういう思想からは、笠原小学校のような学校は決して生まれはしないし、そこには町山のような長い時間を見据えた視点はない。

僕の個人的な意見だけれども、子供の教育以上に税金をかける必要のあるものなどあるだろうか。
他にコスト意識をもつべきことはいくらでもあるだろうに。

28日(火)13:20から再放送があるみたいなんで、興味のある方は是非。
[MEDIA]




B045 『「脱社会化」と少年犯罪』

「脱社会化」と少年犯罪 宮台 真司、藤井 誠二 他 (2001/07)
創出版


何度か書いたことがあるが、1997年の酒木薔薇の事件はあまりにショッキングで僕個人にとっても大きな出来事だった。

自分達はどのような社会を目差してきたのか、これから目差していくのかを根底から問い直されていると感じた。

それから、ときどき宮台の本は読んでいるが、ひとつ前に読んだ本で「『人をなぜ殺してはいけないか?』という問いに答えようとすることのナンセンスさ」というのが頭に浮かんだので本棚から読みやすそうなのを引っ張り出してきた。

100ページ程度のコンパクトな本で内容もかなり凝縮されているのでさっと読むにはちょうど良い。(ちょっと古いが。)

さて、なぜ『人をなぜ殺してはいけないか?』という問いに答えようとすることがナンセンスなのか。

それは、人は「理由があるから人を殺さない」のではないからである。
殺さない理由があるから殺さないというのであれば、理由がなければ人を殺すのかということになる。

僕なりに要約すると、

■人をなぜ殺さないかというと”理由やルールに納得するから殺さない”のではなくて、”殺せないように育つから”である。

■他者とのコミュニケーションの中で自己形成を遂げた人間は、人を殺すことができない。殺せないように育つのである。

■なぜ殺してはいけないのかと言う疑問が出てくる時点で、その社会には重大な欠点がある。

■人を殺せないように育ちあがる生育環境、あるいは社会的プログラムに故障が生じているのだ。

”人を殺せないように育つ”ことの出来ない環境ができてしまっていて、そういう環境をつくったり黙認しているのはまさしく私たちなのである。
私たちは自分達のできる範囲で良いから、その現実と向き合わなければいけないと思うのだ。

「最近のこどもたちは…」「恐い世の中になった。」と他人事のように言って終わりにするのはあまりに無責任だと思う。
そういう小さな無責任・無関心の積み重ねの結果がまさに『人を殺せないように育つことの出来ない環境』なのだ。

そういう環境を変えるためにどうすれば良いか。
答えは簡単には出ないかもしれない。
しかし、個々がその問題から目を背けずに向き合うことが唯一最大の方法である。

そして、それこそが僕が今のところ建築に関わっている一番の理由であり、(おこがましいけれど)このブログのメッセージでもある。

『人をなぜ殺してはいけないのですか?』
この問いは、あまりに哀しい。

*****メモ******

■少年犯罪や凶悪犯罪の数自体は40年ほど前と比べても5分の1程度に激減しており、犯罪の増大・凶悪化という印象はメディアによるところが大きい。
■メディアでは、動機の不可解さ、不透明さに関心が集まっている。
■マスコミの動機や病名の探索は的が外れてきている。
■動機が必要なのは敷居が高い場合で、敷居そのものが低くなってしまっては動機は必要なくなる。
■病気ではなく普通の人でも世界の捉え方が変わり、敷居が低くなってしまえば犯行に及ぶ。病名を付けたがるのは、犯人は”特別な”人として、自分から切り離して安心したいから。
■だから、動機探索する暇があれば、なぜ敷居が低くなったのか、「脱社会的」な存在が増えたかを問うべき。
■「脱社会的」な存在・・・コミュニケーションによって尊厳を維持することを放棄する。社会やコミュニケーションの外に出てしまえば楽に生きられる。モノと人の区別がなくなる。

■人を殺せないように育つことのできない環境になった理由・・・「コンビニ化・情報化」「日本的学校化」
■「コンビニ化・情報化」・・・他者との社会的な交流をせずとも生活が送れるようになった。しかし、これには高度な利便性があり、いまや不可欠となっているので後戻りはできない。
■「日本的学校化」・・・昔は多様な場所で多様な価値観があり、尊厳を維持する方法が多元的に用意されていたが、家や地域が学校的価値で一元化されてしまっているために、学校的価値から外れると自尊心不足になる。
■そのため80年ごろから「第四空間化」が進行する。すなわち、家、地域、学校以外の空間(ストリートや仮想空間など)に流出することで尊厳を回復しようとする。
■それはある程度成功するが、そういう空間に流出できない「良い子」が居場所がなくなり、アダルトチルドレンや引きこもりを出現させたり「脱社会化」=社会の外・コミュニケーションの外に居場所をもとめる存在を生み出す。

■日本的学校化の解除・異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間が必要
■隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざま異質で多様なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要。
■試行錯誤のための条件・・・「隔離よりも免疫化を重要視することに同意する」「免疫化のために集団的同調ではなく個人的試行錯誤を支援するプログラムを樹立する」「成功ではなく失敗を奨励する」「単一モデルではなく多元的モデルを目撃できるようにする」

大学の卒論で考えたことだが、コミュニケーションを糧に育つ環境が必要なのだ。

都市化・利便化は、そういうコミュニケーションの煩わしさから抜け出したいと言う欲求によるものである。
それを、もとに戻すことは難しい。

しかし、昔はいろんなタイプの人が好き嫌い含めて自分の周りにいたものだ。
いろいろな年齢・職業・タイプの人と関わる機会がたくさんあった。
嫌なことを排除していくことが必ずしも善ではない。嫌なおじさんと関わることも子供にとっては違う価値観に触れるチャンスなのだ。

『嫌なことを排除していくことが必ずしも善ではない。』なんてことが、平和ボケ・利便性ボケした日本で受け入れられるとは思わないが。
(だからこそ、問題を意識してもらってボケから醒めてもらわないといけないと思う。)




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「星野佳路・信じる力が人を動かす」』


>>番組HP(NHK総合)

人の表情はちょっとしたことでこんなにも変わるものなんだ。
「ようこそ先輩」でもよく目にする光景)

「任せれば、人は楽しみ、動き出す」

また、星野は「コンセプトに正解はない」と言い”共感”を重視する。

ただ信じるだけではなく、みなが向かう方向を提示し共有するのを忘れていない。
コンセプトの力をまざまざと見た気がする。

プロフェッショナルとは

常に完璧を目指そうとしている。完璧になるなんてことはおそらく生涯ありえないけれど、そこを淡々と目指している。星野

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B044 『建築ツウに訊け!』

建築ツウに訊け! 大島 健二 (2006/02)
エクスナレッジ


本屋で別の本を探しているときに見つけて、立ち読みで済まそうかさんざん迷った挙句、装丁に惹かれてつい買ってしまった。

”大島本”は4冊目だそうだが、前3冊はなんとなくキャッチーな題名だったため気にも留めてなかった。(そのキャッチーさがある種のユーモアだと読んで分かった。)

いっきに読める内容で面白かった。いや笑えた。

「生協の白石さん」のパロディのような(読んだことないが)読者の質問に著者が答える、という体裁をとっているのだが、この質問の部分だけで十分笑える。(質問の多くは”オースガ編集長”によるそーだ)

笑いの部分を伝えようとするのは野暮なのでやめるが、内容はなかなか深く鋭い。

建築家の生態や問題、隠れた規範などを鋭く浮かび上がらせる。
思考停止を鋭く指摘されドキッとする部分も多々あった。

それをユーモアたっぷりに読ませる文章に仕上げる大島健二、なかなかやる。

皮肉交じりにも読めるが、実際には建築に対する愛情にあふれている。

これからも建築家は社会から大いに訊問され続けていくことでしょう。それに対して建築家は逃げずに、スカさずにキチンと自分なりの意見を述べていきましょう。くれぐれもどこかで聞いたことのあるようなセリフを棒読みしないようにしてください。また、広くはなったが、ちっとも深くならない建築に対するフツーの人々の認識、建築家と同様に自分なりの意見をもてるように精進してください。(あとがきより)

まー、建築やってるなんてのは相当の変人であることは間違いない。

もしかしたら、建築家に対する『なぜ○○するのか?』という問いは、一昔前にはやった『なぜ人を殺してはいけないのか?』という問いのように、答えようとすること自体がナンセンスなことかもしれない。

それは、理論で片付けることのできる種類のものではないのだ。(それに対して理論武装するのも建築家の性向のひとつであるのだが。)

とにかく薄笑いと共に気持ちが軽くなる本でした。
内容はなかなか伝えられそうにないので『自分は建築ツウだ』とか『建築ツウになりたい』と一度でも思ったある人は読んでみて下さい。




B043 『ル・コルビュジェの建築-その形態分析』

ジョフリー・H. ベイカー
鹿島出版会(1991/05)

タイトルの通り、コルビュジェの形態分析。
原著の初版は1984年であるからもう20年以上も前のものである。
僕は学生のときに買った。

分かりやすい魅力的なイラストで、構成の手法や形態のもつ力の流れなんかがよく読み取れる。
今見ても十分楽しい。

その楽しさは著者の力量もあるが、コルビュジェの建物のもつ魅力から来るものだろう。

近代建築の克服・批判という文脈のなかでコル批判がきかれることもあるが、やっぱりコルビュジェは魅力的。
しかし、近代建築が広まる過程でコルビュジェのもつ人間臭い部分は漂白されて都合の良い合理性だけが受け継がれている。

コルの発明はやっぱりコルの発明であって、自らの匂いを嗅ぎ取らないことには自ら人間味のあるものはつくることはできないと思う。そういう過程を抜き去ってしまっていて、コルを批判は出来ない。

ビートルズを聴くとコルビュジェとダブるときが良くある。
ロックやモダニズムのほとんどのことを彼ら天才がやり尽くしてしまって、その後のものはすべて彼らのオルタナティブでしかないように思ってしまう。
そして、その本家のもつ強さを超えることはなかなか難しい。

モダニズムという枠の中にいる限り乗り越えることはほとんど不可能のようにも思えるし、「乗り越える必要があるか」、という問いも含め「どう乗り越えるか」というのを、建築の世界ではずっとやってきていまだに答えが見えていないように思う。

それは、おそらく問いのたて方に問題がある。
「乗り越える」という意識はおそらく無意味なのである。
「コルがコルであった」という事実を他人が乗り越えられるわけがない。

僕も恐れ多くもコルビュジェを乗り越えようなんて思わない。(そんな才能もない。)
しかし、コルのように人間味を帯びたものをつくりたい、とは思う。

コルビュジェは誰よりも純粋で正直であったのではないだろうか。

それが、もっとも難しいことだと思うが、自分に正直になる以外には、やはりものはつくれない。

音楽でもビートルズを超えたかどうかが問題ではなく、その人の正直さが現れたときにはじめて人の心を打つのである。




B042 『デザイン言語-感覚と論理を結ぶ思考法-』

奥出 直人 (著, 編集), 後藤 武 (編集)
慶應義塾大学出版会 (2002/5/8)

慶應義塾大学のデザイン基礎教育の講義をまとめたもの。
取り上げられている講師陣は以下の通り多岐にわたる。

隈研吾塚本由晴三谷徹久保田晃弘佐々木正人Scott S.Fisher高谷史郎藤枝守茂木健一郎東浩紀永原康史原研哉港千尋

「デザイン言語」という言葉には、コミュニケーションツールとしてデザインを捉えることや、感覚(デザイン)と論理(言語)を統括するということが期待されている。
しかし、それはデザインの基本的な性質であって、あらためていうことでもない。
だからこそ、基礎教育のテーマとして選ばれたのであろう。

後藤武が「他者性に出会いながら自分をたえず作り直していくこと」をこの講義に期待しているように、各講師は「他者」としてあらわれる。

第一線で活躍している彼らはそれぞれの独自の視点からデザインの問題を発見している。
例えば「コンピューター=素材≠道具」「演奏する=聴くこと」「脳・感覚=数量化できない質感(クオリア)」というように発想を転換することによって大切なものを浮かび上がらせるのだ。
そこで浮かびあがるのは、近代的なデザインが軽視してきた『身体性』のようなものである。
(もともと、「考えること」と「つくること」はひとつの行為のうちにあったが、近代になってそれらが分離して「設計」「デザイン」という概念が生まれた)
そして、その浮かび上がらせ方、顕在化の方法というものがデザインなのかもしれない。

だが、その方法とは(共感ができるとしても)各々の身体性に基づくもので他人に教えてもらえるものではない。
自ら感覚と論理を駆使して”発見”する以外にないのである。(つまり”他者”としてしか接触できない)

それは、僕がこれまで書いてきた読書録の中でゆっくりと、そして明確に浮かび上がってきたものと一致する。

全くあたりまえのことなのだが、答えは自ら描き出す以外にないし、自らの個人的な感覚・身体性の裏づけなしには人の共感も呼ぶことはできないということだ。
(逆説的だが個人的であることが他人へのパスポートとなるのだ。)




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「古澤明・バントはするなホームランをねらえ」』


>>番組HP(NHK総合)

■科学は最高のスポーツだ。
■頭脳より根性
■失敗を楽しめ
■振り出しに戻る勇気・・・成功に近づいてはいるが、どうしても最後までたどり着けない。そんな時はいつも、あえて積み重ねてきた成果を捨て、振り出しに戻る。一からの調整作業や抜本的な見直しを必要とする困難な道のりだが、これまでの成果に固執していては、本当の成功へは決してたどり着けないという信念。
いつでも振り出しに戻れるものこそ一流。

科学の実験は建築のスタディにも似ている。
結果があらかじめ保障されているわけではない中を進んでいかなければならない。

あらゆる想定を行った後、決断し可能性をひとつひとつ切り捨てていく作業が設計することともいえる。

またもや、真っ直ぐに向き合う姿がまぶしく映った。

僕もそういう環境を築かなければ。

プロフェッショナルとは

どんな状況でも楽しめる、エンジョイできるというのがプロフェッショナルだと思います。どんな一見すると嫌だなぁと思うようなものも楽しめるというのが重要なプロフェッショナルの要素だと思います。古澤

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スケール



3月に霧島神宮で結婚式をするので(家族だけでします)、霧島のホテルに衣装合わせに行ってきた。

疲れがたまってたので10号線で休憩しながら帰ったのだけれど空を見るととても綺麗だった。
あたりまえだけれども空や海ってスケールがでかい。

毎日の自分の生活のスケールだけに浸かっていると、それが世界のすべてだと錯覚してしまいそうになる。

そんな時、空のスケールに触れると、自分のスケール感をリセットできる。

時には空のようなスケール、時には小さな花のようなスケールに触れるのは大切なことだろう。

自然の雄大さに比べたら建築なんて無力だなぁと思ってしまうこともあるが、日々の生活のスケールとマクロな又はミクロなスケールの橋渡しの役を建築ができればステキだろうな。




B041 『建築のかたちと空間をデザインする』

フランシス・D.K. チン (1987/05)
彰国社


造型論ついでに学生のころに買った本を引っ張り出してきた。

日本では建築を工学部で教えているところが多い。
今はどうか分からないが、僕のいっていた大学でも、建設に関わる技術については若干学べた気がするが、建築の社会性やデザインの方法といったことは全く触れられなかった気がする。

そんな中で3回生ぐらいのときに買った本であり、よくまとまった良著であるが、「デザインの初心者向け(4年生大学でいえば1~2年生程度)」と書かれていたのにショックと焦りを感じたのを覚えている。

まさしく基本であり、建築に関わる人間にとっては必須の内容だと思う。
しかし、こういう素養を身につける機会のないまま設計という仕事に関わる人が多くいるのが現実である。

そうでなければ、単なる思い付きや慣習だけでつくられたような建物がまちに溢れているはずがない。

”建築の社会性やデザインの方法”なんてことを唯の一度も考えたことがなくても一級建築士になれるのが日本である。

倉田の苛立ちを鎮めることはなかなか難しそうである。

(僕も今一度基本に帰ろうと思う)




B040 『建築造型論ノート』

倉田 康男
鹿島出版会(2004/08)

内容としてはソシュールなどの言語学を基盤とした造型論である。(倉田の講義ノート用の資料を教え子達がまとめたもの)

造型論としては特別な印象はなく、建築をつくる上での基礎的な技術に関わるものである。
技術としてはしっかり学びたいので内容については個人的に後でまとめようと思うが、僕が興味を持ったのは著者がなぜ”造型論”を追い求めたのかである。

倉田康男といえば高山建築学校の校主であり、建築への情念の人という印象がある。(高山建築学校については同じ鹿島出版会から本が出ているのでそちらも是非読みたいと思っている。)

その倉田がなぜ”造型論”なのか?
その真意が知りたかった。

倉田は「建築とは本来、こんなものではない」という苛立ちの元に設計事務所の運営を停止させ、高山建築学校と法政大学での教育にすべてをかける。

その苛立ちは僕も共有できる。
私達の周りの環境はあまりにも貧しい。

近代建築が完全に日常化した今日振り返ってみると、その近代建築の歴史は結局、建築の選ばれた人だけが手にすることのできる芸術品から、万人に許された使い捨て商品へのひたすらな歩みに過ぎなかったことに気づかざるを得ない。

”すべての人に建築を”という近代建築の目標の一つを達成したのかもしれないが、やはり「『建築はそんなものではない』と言いたい気持ちを抑えきることは不可能」なのだ。

エピローグで書かれているように、倉田はやがて建築の犯罪性を真正面から受け止める道へと至る。

どう考えても建築が社会の必需品として存在することの必然性は見つからない。
人間の営むすべての文化的営為の所産がまさにそうであるように、建築はそもそも余剰なのである。そして、もしかしたら、余剰こそが人類にとって最大の必需品なのかもしれない。
・・・建築が本来余剰であるならば、そもそも余剰は存在理由を必要としない。
建築は建築そのものでありさえすればそれで十分である。
・・・奢侈なくしてつくる悦びもないし、罪なくしては美はありえない

ある意味近代建築とは建築のもつ犯罪性・宿命を覆い隠すものであったのかもしれない。

その罪を再び背負う覚悟ができたときに、建築は建築そのものになれる。

そして、「建築が建築そのものであるということは、建築がひとつの独自な世界を表出したときにはじめて言える」のであって、そのとき造型論が必要となるのだ。

倉田はこの造型論を「純粋な技術論」として位置付けている。
それは、真っ直ぐに建築へと至ろうとする倉田の意志であり、社会に建築を取り戻してもらいたいという希望であるのだろう。

「今こそ[創る悦び]をもう一度建築に取り戻さなければならない。」

******メモ********
■「造型論」という言葉の印象から、内藤廣の建築とは相容れないようなイメージが合ったが、建築そのもへ至る姿勢は同じかもしれない。

自らの生きざまを見つめ続けること。
そして目の前の畑を耕し続けること。
いつかはもたらされるであろう[建築]を夢見続けること。
それが建築を学ぶことのすべてなのである。

■確かに建築の創造作業において、建築を造型するという仕事はその有用性や合目的性の追及などの作業に比べると、ときとしては極めて空しく感じられることがある。しかし、建築が最終的には視覚の世界に実存するものであるかぎり、建築の創作行為は、建築を造型するという作業から無縁に成り立たせることは考えられない。
■1人ひとりが各々の身体の内側に[あるべき姿としての建築]を私的普遍性に裏付けられた確実な[イメージ]として築き上げることが、何にもまして重要である。
■[あるべきつがとしての建築]のイメージというようなものは、創り出せるものでもなければ、学びと取れるものでもない。ただひたすら学び続けるという行為の結果として、どこからともなくもたらされて、それぞれに身体化するものなのである。
■正統的学習が必ず目標に導いてくれるという保障はどこにもない。すべての学問に宿命的な有効性と不毛性という原理的に矛盾する二面性をここでは特に覚悟しなければならない。
■今最も必要なことは、ひたすらつくり続けると言う、むしろプリミティブな姿勢なのかもしれない。・・・明日の建築を信じる以外にいかなる途があるというのだろうか。

■最後の解説で「倉田はアブナイ建築家なのである。生きることと論じることを分けようとしない。」といっているが、建築とは本来そのようなものなのだろう。
不安や恐怖、継続と忍耐、そして矛盾を抱え込むことは建築に関わることの本質なのかもしれない。
■そして、そういうことを感じるということはむしろ建築の本質へと近づいていること、歓迎すべきことなのかもしれない。

覚悟なんてのは当然のことなのだろう。




覚悟

内藤廣の奥さんのインタビューをWEBで見つけた。

けっこう複雑な心境。

今をときめく内藤廣もこれだけ苦労している。
勇気が湧くのと同時に不安にもなる。

ただ、あたりまえにものづくりをしていきたい。ただ、それだけの希望なのに、それを継続していくことはあまりに困難である。

その困難を引き受ける覚悟ができるかどうかなのだが、それは僕一人の問題ではなく、確実に身近な人間を巻き込んでしまう。

それだけの覚悟を僕はひきうけられるだろうか。
それとも、もっとうまい道があるのだろうか。

おとといSmaSTAで藤山寛美の特集を見たが、そこには芸に対する凄まじい意気込み・覚悟があった。家族は彼が誇りであろうが、それ以上に苦労をしたはずだ。
逆に言うと、苦労と引き換えに何者にも変えがたいもの得たことも確かだろう。

僕は何を得ようとしているのか。
もう一度原点を見つめなおさなければ、弱気には打ち勝てない。

しかし、そういう悩みもある意味贅沢な悩みなのかもしれない。
インタビューの最後の言葉が胸に響く。

きついよ(笑)。娘は「もっと自分のやりたいことをやればよかったのに」って言うの。
でも「 そういうもんじゃないのよ。人生にもし、なんてない。その時その時精一杯生きることよ」って。




TV『みんなの家』

ビデオ屋でも少し気になっていたのだけれども、べたな描かれ方にストレスをためそうなので遠慮してた。
でも、観てみると案外良かった。

さすがに三谷幸喜、人間をよく観てる。
けっこうくすくす来た。

職人さんがデザイナーのことを「本当は古いものにこだわっているのはあっちの方かもしれない。」といった時にジーンと来てしまった。
デザイナーに語らせているように、あたり前のことがあたり前にやりずらい社会になってしまった。

自分の無力さに気が遠くなることもしょっちゅうだけども、そんななかでも思いを持ち続けることはいいもんだと思わせてくれました。

なんか、大工さんとのやり取りを思い出しました。

(その後、韓国ドラマのチュングムだかなんだかをぼーと見てると、ただひたすらに手間暇をかけて干し野菜を作るおじさんが出てきて、ジーンと来てしまった。
なんかこのごろ、こうベタな演出に過剰に感動してしまいます。なんでしょ。)
[MEDIA]