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TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「佐藤可士和・売れるデザインの秘密」』


>>番組HP(NHK総合)

妻に面白そうな番組があると教えてもらって、『プロフェッショナル仕事の流儀』を見た。

ゲストはアートディレクターの佐藤可士和。

課題を見つけ、本質を炙り出し、それに対して解決策を与えていく。
デザインとは何かを非常にクリアーに示してくれている。

広告デザインは”売れる”という目標が非常にクリアーだ。
しかし、個々の課題がクリアーなものとは限らない。

本質に至るまでにはとてつもない思考の積み重ねがあるに違いない。

真っ直ぐに向き合えている姿がとても羨ましく映った。

建築における目標とは一言で言うとなんだろうか。

それをクリアーにしてみせる、それこそがデザインに求められるものだろう。

そうしてクリアーにしたものは、果たして建築的な時間の流れに耐えうるのか?

また、広告におけるデザインの仕事としての位置付けや価値は分かりやすい。

商業施設なら分かるが、それ以外で建築にはデザインが必要であり、対価を払う価値があると大きな声で言うことはできるのだろうか?

自分が価値があると思っているだけではプロとは言えない。

逆に言えばデザインによって何を与え、対価を得るのか。

その部分をクリアーに表現する必要がある。

プロフェッショナルとは

やっぱりハードルが高いことを超えられる人がプロじゃないですか。だから、普通の人が出来ないことをやるのが、プロだから、と思うんですけど。自分がいいと思うものが一番実は難しくて、すごいハードルが高いので、それをどうクリアしようかなと。佐藤

[MEDIA]




B039 『「小さな家」の気づき』

塚本 由晴
王国社(2003/06)

観察・定着・素材(性)・ズームバック・ランドスケープ・社会性・建ち方・分割・アパートメント・オン/オフ・空間の勾配・バリエーション・読むこと・つくること

いくつものキーとなる言葉が出てくるが、どれも普通の言葉である。
しかし、それらの言葉には独特の意味が込められている。

と言うより、新たな言葉を発見しているといったほうがしっくりくる。

それは、さまざまな思考・行為に無意識のうちにしみついた規範やルールといったものを顕在化させ、解体し、再度組み立てる作業であり、マイナスの条件をプラスへと転化する試みである。
(条件の並列化といった方が良いかもしれないと思ったが、やはりプラスへの意志はある。この辺が微妙にみかんぐみとは違う気がする。)

いろいろなものに捉われずに正直であると言うのはなかなか難しいことだが、正直さへ到達するための道具としての言葉を非常にたくみに利用している。

また、環境と定着のプロセスをアフォーダンスのイメージと重ね合わせていたが、その橋渡しの役割を言葉がするのかもしれない。

その言葉は彼ら自身のもので共有できるものではない、と思っていたのだが、再び読み返してみると共感できる部分、ヒントとなる部分も多かった。

一度、言葉を”感じる”必要があるのだろう。

さて、この言葉の先に何があるのか。
単なる批評や言葉遊びでしかないのか。

それとも、捉われない自由さ、『正直さがつくりだす開放感』を手にすることができるのだろうか。
それは、どれだけ正直さに到達できるかにかかっている。

*****メモ******

■使い道のない隙間を作ってしまうと、そこがまるで体の中で血行の悪い場所のように感じられ、内部の空間や窓のレイアウトもその治療のためにあるようになってしまう。
■そもそも社会性というのは垂直軸ではなく水平軸で考えるものではないかと言うことである。建物をデザインすると言うことは、この様々あって入り組んだ社会性を批判的に解きほぐしたり、ぴったりのところを新たに切り出すと言うことである。
■そんな作業の中で、小屋は頭の片隅にあって、常に立ち返って今の仕事の位置を確かめるためのニュートラルな状態を用意してくれる。
■(山本理顕なんかに対して)住宅を批評する水準と言うのは、家族論以外にないのか、というのが僕らの中で関心として大きくなっていった。
■僕は建築を批評してくれるいちばんのパートナーは都市だと思っていて、住宅だって都市の問題だと言いたかった。
■結局、同じ場所にいても、肯定的でいられる人のほうが全然楽しいじゃないですか。それはこちらが世界に投げ込むフレーム次第と言うこと。
■実際には、社会や環境のほうに原因があるとする考え方を否定することはできないのだが、その目に見える形への顕在化は建物のほうにあると考えてみるのである。そうやって社会と建物の間に顕在化の仮定を想定するならば、社会、環境と建物の関係の図式は、因果律の線形からフィードバックのループ型に移行することができる。
■建築論のメタファーは、生物学や記号論から生態学やアフォーダンスへと変更されている。・・・「作ること」と対象の出会いによって「読むこと」のカテゴリーが更新され、「作ること」のオプションが拡大されていく。そんな動的な建築のデザインに、今は魅力を感じている。




B038 『建築を拓く -建築・都市・環境を学ぶ次世代オリエンテーリング』

日本建築学会
鹿島出版会(2004/10)

建築的思考を武器に新しい道を拓いている先駆者25人のインタビューが収録されている。
あまりなじみの無い人もいたのでメモの意味でもざっとあげてみると、

内藤廣大島俊明松村秀一野城智也原利明梅林克大島芳彦松島弘幸アパートメントゼロスタジオ坂村健深澤直人甲斐徹郎玉田俊夫吉岡徳仁西村佳哲福田知弘後藤太一中西泰人love the life勝山里美馬場正尊松井龍哉元永二朗新良太

建築を学ぶ学生を主な読者に想定しているが、”建築をどう拓いていくか”は現に建築に携わる人にも切実な問題である。

この本の中で学生へのメッセージの中で共通しているように感じたのは、
・社会に対して自分がどう関われるかを考える。
・自分の中で感じたものを大切にしそれを突き詰める。

と言うようなことの大切さである。

この本でもいくつものキーワードや方向が見えてくるが、それら全てを突き詰めることは不可能であるし、しょせんは借り物である。
自分でこれと感じたことを突き詰めた先に何かが拓ける。
実際ここに収録されている人もそうやって必要とされるポジションを築いてきたのだ。

僕の本当の興味や出来ることはどこにあるのか。そのための方法は・・・・・

建築という領域を新築することに限定する必要はない、もっと自由に捉えてよいと考えると少し幅が出る。
すぐには答えが出せないのだが、それらを突き抜けるためのきっかけのようなもの、隠し玉はある。(それは秘密。。それを使うかどうかは今後じっくり考えることにする。)

一度、明確なビジョン・ストリーを描いてみたい。

******メモ**********

■本当はみんながほしいと思っているものを掘り起こす能力、あるいはそれをかぎ分けて目に見える形にすることで、イメージを喚起する能力。・・・・製図台の上の真白い紙の上で描けるのが近代建築であるとするならば、出かけていって、見て考えて、そこにいる人と意見を交換しないと、問題すら発見できないと言うような環境体験型の方法論に移りつつあるのだろうと思います。(古谷誠章)
■デザイナーが手を加えることで価値を倍加させていくような手法(大野秀敏)
■「建築家」がどうするか。1.増改築、改修、維持管理を主体とする。2.活躍の場を日本以外に求める。3.建築の分野を拡大する。・・・・第三の道でまず目を向けるべきが「まちづくり」→タウンアーキテクト(布野修司)
■・時間の概念>クロノプランニング・直感が大切。工学と直感は無縁ではない。・「私」を超えること。(内藤)
■リニューアルとは建物をどうやって次の世代に引き継いでいくか(大島)
■・これからの展望が開ける部分というのは結局は生活者しかない。・みんな能力もあるし、繊細さもある。でも、「何かを切り拓いていくぞ」っていう感じは乏しい。(松村)
■人々のアクティビティを呼び込むことによって、広い意味でも経済的価値を生むことが重要。(野城)
■・社会レベルへレンジを広げてみると、まだまだ住宅には取り組むべき問題は山積している。・自分たちが持っている「強み」「リソース」をどのようにデザイン活動に結び付けてゆけるか。(梅林)
■・オーナーの資産を設計デザインという付加価値の観点からマネジメントしますというスタンス。・ただ綺麗にするのではなくて、違う価値基準に乗せ換えてしまいましょう。
■・自分たちの価値観を大切にすること。そしてその価値観やビジョンといったものをしっかりと周りに伝えていくこと。・イメージを育てるのがすごく大変だけれども、それをイメージで終わらせない。(滝口)
■・身体が記憶している、みんなが共鳴する何かがあるはず。・人間のセンサーに対して深い部分で何か感じるようなものを突き詰めてつくってみる、ということが大切。学問として学ぶのではなくて、身体として経験する。(深澤)
■・使い手の意向を読み取って関係性をつくることが本来のデザイン。繋がりとか連続性。・自分にとって価値のあること、心地よいと感じること、そういう感性が現れるのを待つことを大切にしてほしい。(甲斐)
■夢を見、イマジネーションの力を磨くこと(玉田)
■自分なりの生き方で生きていかないとデザイナーとしては成長できない。(吉岡)
■・みんな他人事の仕事はしていない。どんな請負の仕事でも「自分の仕事」にしてしまう。・感動しているとか、心が動いているとか、面白がっているとか、興味のあることがたくさんあるのは、動く大きなプールというか内側の資源(西村)
■デザインを進めていく方法論というか、コンセプトを見つけていくこと自体が大切なことになっていく。(松井)




てかてか


メンテナンスを容易にするために、てかてかとコーティングされた材料は、ウェットな材質やマットな質感に比べ何か足りない感じがするのはなぜだろうか。

(写真は単なるイメージ。京絵付ガラス)

ものには「時間」といった属性があるように思う。
ものに対峙したときに感じる時間の流れのようなもの。
それは質感に負う部分が多い。

てかてかにコーティングされたものは、同時に時間の流れまでもコーティングされてしまっているのではないだろうか。
メンテナンスフリーとはすなわち時間の凍結のことかもしれない。

そういう物質ばかりに囲まれていると時間の感覚を失いはしないだろうか。

また、それを逆手にとって、何万年の時を運ぶ氷河のようにあえて時間を凍結させるという時間の扱いもあるように思う。

何万年でなくても季節や一瞬の風景を閉じ込めると言うのでも良い。

季節や風景を生け捕りにするのは日本人の得意とするところだ。

建築的な時間の中に一瞬を閉じ込める。




B037 『装飾の復権-空間に人間性を』

内井 昭蔵
彰国社(2003/12)

「装飾」というのもなかなか惹かれるテーマである。

アドルフ・ロースの『装飾と犯罪』ではないが、なんとなく自分のなかで装飾をタブー視することが規範化されてしまっている気がする。

しかし、規範化には注意しなければいけないし、時々装飾的と思えるものに魅力を感じる自分の感覚との折り合いもつけなければいけない。

そもそも、装飾、装飾的とはどのようなものを指すのだろうか。
また、許される装飾と許されない装飾があるのだろうか。

この本でも内井は装飾と虚飾を分けている。
その指し示す内容には若干の揺らぎがあるように感じたが、本質的な部分には確固とした基準があるように思う。

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を表現できるかどうかが装飾と虚飾との境目であり、おそらくそれらは身体でしか感じることのできないものだろう。
また、それゆえに身体性を見失いがちな現在においていっそう魅力的に映るときがある。
むしろ、身体が求めるのかもしれない。

その感覚は指宿の高崎正治の建物を訪れたときに強く感じた。
それはとても心地よい空間であった。

装飾=秩序と考えれば、モダニズムのいわゆる装飾を排除したものでも構成やプロポーションが素晴らしく、秩序を感じさせるものであれば「装飾的」といえるかもしれないし、カオス的な秩序の表現と言うのもあるだろう。

いわゆる装飾的であるかどうか、というのはたいした問題ではないのかもしれない。

秩序を持っているかどうか、が『空間に人間性を』取り戻す鍵のように思う。(結局、原点に戻ったということなのか?)

また、時にはあえて装飾のタブーを犯す勇気も必要なのかもしれない。

*******メモ*********

人間の分身、延長としてつくっていくのが装飾の考え方で、もう一つは建築の中に自然を宇宙の秩序感を回復すること。
■「装飾」は合理や理性では割り切れず、感性、好みと言ったようなわけのわからないもの。
■装飾は精神性と肉体性の双方を兼ね備えるもの。
■近代建築のなじみにくさには壁のあり方に原因があるように思う。現代人の心を不安にしている原因は人間が「もの」から離れるところにある。
■水に対しては「いかに切るか」、光に対しては「いかに砕くか」
■水平・垂直のうち現代は世俗的な水平が勝っている。しかし、人間の垂直思考、つまり精神性をもう一度取り戻す必要がある。
■装飾というのは付けたしではない。「装飾」は即物的にいうと、建築の材料の持ち味を一番よく見せる形を見いだすこと。
■ファサードは人間の価値観、宇宙観、美意識、感覚の表現であるからこそ人間性が現れる。建築はその設計者の姿をしているのが一番いい建築。
■しかし、現代建築ではなかなかそうはできない。それは、あまりにも材料とか形に対してし執着できない(経済的・物質的)状況ができているから。
■日本の自然は高温多湿、うっそうとした植物、勢いのある水と声が大きすぎる。そういうところから「単純明快なもの」引き算の美が求められるようになった。

■「わけのわかるもの」ばかりではなく「わけのわからないもの」も必要。
■生活空間には「記憶の襞」のようなものも必要。

■材料とか形に対してし執着できない(経済的・物質的)状況を乗り越えるにはどうすればよいか。
■セルフビルド。流通。生産現場。

■装飾は環境の中に存在する。現在のような(街並み・情報など)ノイジーな環境ではモダニズム的な建物が分かりやすく支持を得るのかもしれない。
■そうではないあり方はないだろうか。環境に埋もれず、秩序を感じさせるようなもの。
引き算ではなく分割。分割でなく・・・




B036 『つくりながら考える・使いながらつくる』

山本 理顕、山本理顕設計工場 他
TOTO出版(2003/02)

邑楽町の新庁舎コンペが白紙になったのは非常に残念だ。

正確なことはわからないが、建築が相も変わらず政治の道具と考えられているようでとても悔しい。
このコンペの開催趣旨自体がそういう業界の悪癖を抜け出しユーザーに開かれたシステムを求めると言うもので、前町長の懐の深さを感じさせるものだったために、悔しさはなおさらだ。

ところで、本書はそういう町長問題が出る前にだされたもの。
山本とスタッフとの会話と言うかたちの本で、邑楽町の計画についても語られている。

山本の問いかけは次の文章に表れていると思う。

僕なら僕がスケッチを描いて、できるだけそのスケッチに忠実なものができあがるというような方法がもう確実に限界にきていると思うんですよ。20世紀までの社会に比べてはるかに複雑になっているし、でも、その複雑さをシンプルなものにしてしまうんじゃなくて、そのまま引き受けることができるんじゃないかと考えたとたんに、多少は展望が開けてきたようにも思う。最初のスケッチにももちろん責任持つけど、でもその最初のイメージが変わってしまってもいいと思う。何よりも最初に描いた僕自身が変わってしまうことが面白いと思うんですよね。

おそらく、「スケッチに忠実な」建築が一般の人々と距離がある・閉じた世界の出来事でしかなくなっている。というようなことに限界を感じているのだろう。
自由に変化することで建築のもつ不自由さをいくらか払拭できるかもしれない。
しかし、今の建築の作られ方は変化に対応しにくくなっている。となると、つくるシステム自体に切り込んでいく必要がある。
(なかでも特に変化に対応しにくいであろう公共施設の分野で新たなシステムを提案できたところに邑楽町の価値があると思うのだが、そういうものは既存のシステムに依存する人には余計なお世話なのだろう。)

ただ、複雑なものをシンプルにしたいと言う未練は少し残る。
それによっても距離をうめる道はあるような気もする。

建築の設計をするということはコミュニケーションそのものなのである。
コミュニケーションの方法が建築の方法と深く関わっているらしい。・・・・(埼玉県立大学のモデュールとレイヤーというシステムは)建築をコントロールするために、きわめて有効なシステムだった。ところがそれだけではなくて、それが同時にコミュニケーションのための重要なツールになったのである。

システム=設計ツール=コミュニケーションツール

システムを一般の人とのコミュニケーションギャップを埋めるツールとすること。
それは、建築を今後成立させるためには必要なことかもしれない。

例えば、内藤廣のような建築のあり方・その空気感を生み出すにはおそらく個人のもつイメージに頼らざるを得ないように思う。

それは、山本のアプローチと対極にあるのだろうか?
それとも何らかのかたちで共存できるのか?
求めているものがそもそも違うのか?

建築は結局は空間でしか会話ができない気もする。

精神の開放のために空間の質そのものに頼るのか。
システムを開放することで建築そのものから開放するのか。

このあたりをじっくり考えてみる必要がありそうだ。




B035 『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』

上野 千鶴子
平凡社(2002/11)

仮に、社会の中から用済みの概念を見つけ、解体することによって、その概念によって縛られている人を解放することが社会学の使命の一つだとしたら、著者は紛れもない社会学者だと思う。

それは彼女の著作名を挙げれば明らかだ。(『家父長制と資本制』『近代家族の成立と終焉』『ナショナリズムとジェンダー』『サヨナラ、学校化社会』など。ちなみに僕は今『脱アイデンティティ』と言う本を読み出したところ。)

著者との対談で山本理顕が

建築は意識の場としてしかつくられません。現実がどんなに変化しても、その変化に対応して建築ができるということはあり得ない。

といっているのが本当だとすれば、概念(意識の場)を解体、変化させようとする著者のような仕事は、建築の根源に関わるものだと思う。

実際、山本は社会学的な分析によって図式化したものを落とし込むことによって建築の可能性を開こうとしている。

この本では、主に「住宅」と「家族」に関する論文や対談が収録されているが「家族を超える」「ハコ」というタイトルが示すように「住宅=住むための器」「家族=愛の共同体」という規範を解体する試みととれる。

ところで「規範」とはなんだろうか。
なかなか扱いづらいものである。
社会をうまく運営しやすくするために必要とされたものが、同時に人びとを拘束することにもなる。
また、「規範」をなくすことが、新たな「規範」となってしまう危険もある。

建築をやっていると「脱nLDK」を考えているうちに、なぜ「脱nLDK」が必要なのか分からなくなってくることがある。
それこそ「規範」になっているからやるのでは本末転倒である。(今の若手にはさらに逆に「脱nLDKの規範」を解体しようとしているように思う)

(寝室+家族団らんの場)=nLDKというように、無批判に「規範」に従っていたのでは、モノと現実とが解離していても気付かなくなってしまう。ゼロからきちんと考えましょう、という程度に考えたほうがよさそうだ。

といっても、これは簡単なことではない。
それに対して山本理顕はうまく道筋をつくっている。
別にゆっくり考えてみたい。

*********メモ*********

■上野千鶴子の提言
1.住宅モデル・選択肢の多様化をせよ
2.モデルに個性はいらない。住み替えを前提とした汎用性のある標準モデルを作成せよ(選択肢を多数含むこと)
3.住宅の暮らしへの特化はもはや終わった。生産的なアクティビティの空間(ラボ)を含みこんで欲しい。
4.顧問の空間に育児・介護の機能を組み込むことが必要。住宅と言うユニットはもはやユニットとしては完結しない。
■地縁・血縁でなく選択縁という考え方。
■近代社会になって規範が見事に内面化された。それが規範の呪縛の強さとなっている。
■福祉は家族解体を前提とした思想。家族を超えたコモンが必要。
■コモンに何を依存するかが問題になる。凝集力。配列の根拠となる。
■住形態に関しては地域社会の問題・介護の問題・家族の問題・育児の問題等を考える必要がある。
■コモンとインディヴィデュアルとパブリックとの関係。
コモンが鍵。ファンクション。必ずしも隣接の必要はない。
■コモンと土間を絡められないか。土間の持つ両義性。
■鉄の扉で一つのユニットを外から隔離したと言う革命。
セル。プライバシー。「家族は愛の共同体」。
■家族だけでは機能不全。
■東雲の後日調査ではf-ルーム(多目的室)の木製建具を9割近くが閉め切っていたようだ。(日経アーキテクチャー2005-10-31)開くことはなかなか難しい。




B034 『この先の建築 ARCHITECTURE OF TOMORROW』

小巻 哲 , ギャラリー間 (編集)
TOTO出版(2003/07)

ギャラリー間の100回目の展覧会を記念して行われたシンポジウムの記録。

各世代から1人ずつ、5世代5人によるセッションが5回行われた。

各セッションの参加者は

1.原広司(1936)、伊東豊雄(1941)、妹島和世(1956)、塚本由晴(1965)、吉村靖孝(1972)

2.磯崎新(1931)、山本利顕(1945)、小嶋一浩(1958)、千葉学(1960)、山城悟(1969)

3.石山修武(1944)、岸和郎(1950)、青木淳(1956)、阿部仁史(1962)、太田浩史(1968)

4.篠原一男(1925)、長谷川逸子(1941)、隈研吾(1954)、西沢立衛(1966)、藤本壮介(1971)

5.槇文彦(1928)、藤森照信(1946)、内藤廣(1950)、曽我部昌史(1962)、松原弘典(1970)

(括弧内は生まれた年)
必ずしも「この先の建築」のビジョンが明確に描き出されたわけではない。

しかし、世代間で建築や社会の感じ方やスタンスに違いがあるものの、全体としてはぼんやりとした方向があるように感じた。
それは例えば「個」や「自由」という言葉に含まれるイメージのようなものである。

「この先の建築」に当然だが確固とした正解があるわけではなく、それは各個がそれぞれ考え実践する中で全体として描き出されるものだということ、 まさしくこのシンポジウムの形式そのものが浮かび上がってきたように思うのだ。

正解があらかじめ用意されているのではない。

この本で最も印象に残ったのはシンポジウムに参加できなくなったために書かれた、伊東豊雄の手紙である。

私が今建築をつくることの最大の意味は「精神の開放」です。平たく言えば、人びとが真にリラックスして自由に楽しめる建築をつくることです。しかし今、日本は建築をつくることにきわめて不自由な社会に思われます。発注者もつくり手も、皆が金縛りにあったように相互監視にばかり夢中になり、何をつくるべきか、なぜつくるべきかを見失っています。私が若い建築家に期待するのは、もっとプリミティブな視点に立ち返って「あなたはなぜ建築をつくるのか」という素朴な問いに答えて欲しいことです。そうでない限りこの自閉的な状況をくぐり抜けることはできないし、ましてや「この先の建築」など望むべくもないように思われます。(伊東豊雄)

「つくる」ということはどういうことか、「つくる」ためにはどうすればよいか、そこに立ち戻ったうえで組織のあり方や関係、具体的な手段などもう一度きちんと考え直さなければならない。

*****以下各セッションから*****
1.

建築のデザインが、あるいはそのデザインがもっている論理性というものは、人びとにたいしてどこまで射程があるのか(原)

(MVRDVについて)自分の外部にある何かを調べることで、自分の立ち位置をよりシャープにしていくという作業を繰り返しているのです。テリトリーをただ闇雲に拡大していくというよりは、建築家が本当にやるべきことは何か、何ができるのかということを、常に自問しているという印象をもちました。(吉村)

僕が妹島さんの建築がすごくいいと思うのは、集落がもっているエレガントなものを、今のデザインで、所帯じみていない形で出してくるからです。
僕はかつてのコミュニティ論なんていうものを、あなたたちが本気になって打破せよといいたい。・・・都市の中に埋没していく、あるいは地縁や血縁や昔のコミュニティだとかいった社会の中に埋没していくのではなく、生活が可能なところで出てくるような身体的な心地よさがあると思います。(原)

今までの経験から言うと、世の中を良くしようと思うとろくなことはないんですね。世の中を良くできるなんて思わないで、自分がうまく生きるということでいいと思います。建築家は人の家をつくるわけですから、建築家としては常に他者に対する思いやりというものを何らかのかたちで表現していくことが重要なような気がします。(原)

1.補

で、なぜつくるのか。先日のシンポジウムでは、建築家として都市にどうアプローチするつもりかといった質問がされていましたが、僕はそんなことはどうだっていいやと思っています。・・・僕は建築をつくり続けてきたから、自分の考えていることをたまたま建築によって表現するだけであって、まず僕が建築をつくりたいと思うのは、建築というフィルターを通すことによって、自分が今の社会の中で何をしなければいけないかとか、何を考えなくちゃいけないかということが少し見えるような気がするからですね。(伊東)

2.

いまだに世の中は計画というものがまだあると信じているところがあって、これが世の中をムチャクチャにしていると僕は思っています。(磯崎)

建築がその国や社会を体現するものとしてではなく、より個人的な人間の身体的な部分との関係の中で位置付けられようとしている(千葉)

先ほど磯崎さんが言いかけた「計画」という話は、個人の責任をどんどん曖昧にしていく。個人が関わるべきものであるにもかかわらず、あらかじめ「計画」という概念があって、最適値がもともとあるんだと考えて、その「計画」に乗ろうと思ったわけですね。そこでは個人がどんどん抽象化されてきて、個人という関わり方ができなくなってくる。(山本)

その使い方のきっかけになるようなもの、それを僕は最近「空間の地形」と読んでいるのですが、その地形をどうつくっていけるのかが今後ビルディングタイプに頼らない一つのアプローチだと思っています。(千葉)

文化的に刷り込まれてしまった身体を偶像破壊して、そのようにカテゴライズされてしまった身体をさらに解体するということをやっていかないと、生々しい身体になかなかたどり着けない。(山本)

3.

マーケットと直接的に結びつく方法をもたなければダメだと思っています。今までの建築ジャーナリズムは、この側面では役に立たない。もうちょっと広範な、そして非常にダイレクトなコミュニケーションの仕方をマーケットとの間でもたないと、これからは進めようがない(石山)

そのとき機能とは空間をある一定の方向に追い込むための一種のアリバイにすぎないのではないか。(青木)

自分にとって切実な問題を超えて正論を言うのはずるいですね。どうして身の丈でやれないのかなぁ。とにかく、そういうことを、少なくとも僕より若い世代にはもうやって欲しくないなあと思います。(青木)

今の世の中はこうだからという言い方は、僕は嫌ですね。何かをつくることから、結果として一般論みたいなものが出てくることはよくあることですが、先に一般論があって、その適用として個別の建築があるというのはもういいのではないですか。(青木)

どうやって食っていったらいいのかというと、設計図がもっている意味をもうちょっと拡大すればいいんだということになるわけで、建築設計がデザインだけではないところにまで踏み込まざるを得ないのではないかと考えています。(石山)

4.

新しい建築のための5つの問い
■住むための「場」:機能主義的な機械としてではなく、より根源的な「住むための場」をつくること。「場」は「きっかけ」「手掛かり」といってもいい。新しい原始性の模索
■不自由さの建築:何もない不自由さではなく、人間にとって「自然」のような、行動を喚起する、快い異物の不自由さ。
■かたちのない建築:機能的にも、存在としても、自律していないこと。完結していないこと。不完全性のもつ可能性。都市。
■部分の建築:全体性を規定せずに、部分から建築を構想することで、今までとは全く異なる、複雑さ、不完全さの建築を生み出すことができるかもしれない。
■弱い建築:複雑さ、多焦点、分散、隣接関係、相対性、不自由さ、不完全性、曖昧さ、喚起する、新しい原始性・・・。
(藤本)

囲碁とか天気予報と言っているときはダイナミックで面白い話なんだけれども、それを建築というものに落としてきたときには、どうなるのだろう。固定してしまうものなのか、あるいは動いて装置のようになっていくのか。最終的に建築にどう到達させようとしているのか(藤本)

私は「かたち以外のことを考えたことがない」(篠原)

最も激しい象徴性と最も強い具体性とが一つになったものが「野生」であるということです。(『野生の思考』レヴィ=ストロース)(篠原)

50年前からの各断面で私がお話しようと思ってきたことの一つは、その時点での自分の「今」が、何かのメカニックで「この先に」変わってきたことです。(篠原)

常にさかのぼっていきたいという気持ちがあるんですね。それは未来のことを考えるときにでも、ある種のプリミティブな状態に立ち返って、今までに試みられなかったことがないもののつくり方で、もう一回全部を構築し直したいという思いがあります。(藤本)

5.

そうしてつくりだされたビジョンが、嘘っぽくてリアルじゃないと分かっていても、そればかりを公共投資でやってきている。だから、再生のシナリオとは違う方向があるのではないか。(内藤)

素材の向こうに先端のエンジニアリングを見たり触れたりしたい(内藤)

当面感のある建築は、たいていの場合、抽象的なイメージを建築として再現しようとした結果だと思うんです。・・・僕らのやり方としては、そういう、いったん抽象化するプロセスには実はあまり興味がなくて、よりダイレクトに社会に反応することで建築をつくりたいという気持ちがずっとしています(曽我部)

「愛着のプロデュース」という言い方にすごく興味がある・・・「建築に何が可能か」ということよりも、「建築家に何が可能なのか」という問題設定ではないかと思います。(曽我部)

説明できることは流通しやすいことで、本当に大切なことは、どうあっても説明できないことではないか。つまり、建築家の一番のコンテンツは、建築の中にしかなくて、言葉の中にはない。(内藤)

建築には無意識の世界―言語化できない世界―に働きかける力があると思っているんです。・・・だから、今の日本の街並みによって無意識の世界がつくられていくのは良くないなという感じがします。(藤森)

同潤会に対しては、歴史としてみてしまう。それは歴史上のある特異点であって、その特異点を美しいオブジェクトとして見ることもできるという理解です。団地というものは、僕にとって、もう少し肉体化されているというか、歴史上の特異点ではなくて、なじんだ風景であり、引き受けざるを得ないようなもの(松原)

(『文学における原風景』奥野健男より)その次の問いが面白くて、ではそういう原っぱも路地もなくなってしまった世代は、一体何が原風景なのかと。彼らにとってはもっと無機的なものではないか。あるいは団地の風景でもいいけれども、彼らには風景の叙述がないんですね。いきなり部屋の中での会話で始まるということを言っています。(槇)

藤森さんは絶望したけれども、見ようによっては悪くない、と皆で言い訳しながらやってきたわけですよ。・・・だけど「それは本当なのか?」ということをもう一度考えたほうがいいのではないかと僕は思っているんです。
・・・たぶん建築が人間社会に対してできる究極は、例えば社会が経済的なクラッシュで疲弊し、人間も疲れ果てたときに、僕達が今やっている仕事が何の支えになるのかということが、建築のきわめて本質的な役割なのではないか、街をつくったりすることの役割なのではないかと思うんです。(内藤)

先ほどから東京の街が美しい、いや美しくないという議論がありますが、どっちも当たっているんですよ。・・・(須賀敦子のように街全体が生き物であるかのような見方、愛のある目差し)そういうかたちで街を見ることができるセンシティヴィティが、これからわれわれがどの街に住み、ものをつくり、あるいは旅行するにあたっても大切だと思います。(槇)




ASJ『未来をのぞく住宅展』


勤めている事務所でASJ(アーキテクツ・スタジオ・ジャパン)『未来をのぞく住宅展』に出展していたので鹿児島市民文化ホールに行ってきた。


鹿児島の設計事務所を中心に8社による住宅展。

主催のASJはクライアントと建築家を結びトータルなサポートを行っている。

僕は正直、ASJは少し前の建築家ブームの流れに便乗した組織、程度に考えていたのだが、展示会後の懇親会でASJに参加し鹿児島スタジオを受け持つ阿久根建設の社長さんとASJの社長さんの会話を横で聞いていて印象が変わった。

経営という視点からなのは当然だが、ユーザーの方をしっかりと向き、社会に貢献するという姿勢がはっきりとしていた。

今のような建設業界の厳しい状況において生き残るために、安直な価格競争に流されずに誠実な姿勢を貫くのは勇気がいることだ。

しかし、価格競争の先には質の低下(木村建設のように)が待っているし、それは社会の環境を悪化させ、やがてはユーザーの信頼を失うことになる。
自社の利益ばかりを見るのではなくユーザーに対して誠実に向き合うことが結局は利益になる。

そういう誠実に「ものづくり」をしていこうという人たちがこの鹿児島にもいると分かったことは僕にとってもすごく励みになった。

一般には、とにかく安く作ることだけ考えていくつもの施工業者に競争させる、というようなことが行われる。
しかし、信頼できる施工業者とパートナーシップを組み、予算に合わせ適正な価格・仕様でつくる。というやり方のほうが、仮に床面積が減ったりしたとしても、同じ予算で総合的には満足した結果が得られる、というようなことがあるかもしれない。

欲望には限りがないし、建物は少し控えめなほうが良かったりもする。
また、建物をつくるのも人間なのである。

懇親会の最後の締めでサウルス建築設計事務所の宇都さんが、これから設計事務所が施工業者を厳しくチェックするという関係から、パートナーとして共に良いものをつくっていく、というような関係に変わっていくかもしれない、というようなことをおっしゃっていた。

姉歯の事件がそれに対しどういう影響を与えるかは分からないが、少し幸せなものづくりの可能性が垣間見れた幸せな夜であった。

あと8日(日)9日(月)も展覧会を行っているので興味のある方は覗いてみてください。

P.S鹿児島のユーザーの住に対する意識は比較的低い印象がある。まずは、その部分に関わることから始めなくては。




格闘技 紅白 大晦日など

あけましておめでとうございます。

どれぐらいの人が見てくれているかわかりませんが、今年もよろしくお願いします。

年々大晦日の実感がわかなくなってきている。

今年はとうとう紅白をほとんど見なかった。
紅白の力が弱くなってきているように感じるのは僕が年を取ったからだろうか?

それにしても須藤VSKIDにはわくわくしたなぁ。

矢沢栄吉から二人の登場シーンを含めすごいエンターティメントを感じたし、格闘技は創造的な仕事だと思わせてくれるものだった。

試合においては、一瞬一瞬相手の動きにあわせ自らを創造していかなければ負ける。
その創造性の勝負を見た気がする。
もっと見たかったなぁ。

ついでに言うと、PRIDEの小川VS吉田の試合にもその創造性がセンスの格差として表れていた。
どこに、と言われるとなんともいえないが、二人のセンスの違いは試合直後から明らかだったように思う。
その試合結果には、いかんともしがたい才能の違いを見せ付けられた気がして、少し憂鬱な気持ちになった。
ちょっと吉田はかっこよすぎた。

それにしても須藤もKIDにも魅せられた。
建築においても、一瞬一瞬の創造にわくわくする。そんなつくり方が出来ないだろうか。

案外、ものづくりというのはそういうもので、頭と身体の分離する以前は当たり前のことだったのかもしれない。

そういうことで、今年の目標の一つは自らの身体性を取り戻すことにしようと思う。
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