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デザイン

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僕が考えるにデザインとは意志である。

意志を持たないというのも意志。

装飾や形態の操作は意志をかたちにする手段のひとつでしかない。

また、デザインとは発見であると思う。

それは、クライアントや自分自身の隠れた意志を発見することであり、日常や常識に埋もれた価値を発見することである。

そのために、人が何気なく通り過ぎてしまうことに、いちいち立ち止まりながらあーだこーだと考える。
または、人が考えたことやつくったものに目をやり、そこから何かを発見しようとする。

とにかく、デザインとは根気がいる日常なのである。




偽物の氾濫

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偽物の氾濫

昔から日本人は石庭を水にみたてたり、何かを抽象化することを得意にしてきた。
しかし、今の文化は表面的な具体性に走り、人を欺いているように感じてしまう。

例えば、私たちの周りには一見木に見えるもので、実は木目調のものが表面にプリントされているだけというものがたくさんある。
しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

感じるだけで、意識にのぼることはほとんどないかもしれないが、そういった偽者だらけの環境は確実に私たちの世界観や精神状態に影響を与えていると思う。

自然のままの環境を知っている大人は、まだいいかもしれない。
しかし、今のような環境で育つ子供はどうなるのだろう。
デパートで買ってきたカブトムシが死んだのを見て「電池が切れた」という子供がいるように、感じる力が弱くなってはいかないだろうか。

大人になれば「カブトムシが死んだ」と言う「ことば」は頭で理解できるようになるだろうが、「死んだ」と言うことを感じにくくなったりはしないだろうか。

偽物がすべてダメだといっているのではない。
ただ、偽物がまるで本物のように振舞っていることに問題があると思っているdだけだ。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。




見直すべき価値



現状

今、様々な分野では「便利さ」「(狭い意味での)快適さ」「安さ」「早さ」といったものが盛んに競われているように思います。

もちろんこういったものは重要な要素です。

しかし、こういった価値観は誰にでも分かりやすく、それゆえ「情報戦略において便利なもの」として扱われがちです。

見直すべき価値

一方、こういったもの以外にもさまざまな見直すべきものがあるのですが、「便利さ」・・・といったものは便利で伝わりやすいがため、その他の価値を見失わせてしまいます。

僕は「その他」の価値を「便利さ」・・・といった価値と同列に扱うべきであると考えていますし、そこにこそ、良いものを作るカギがあると思います。

21世紀を迎え、私たちは文化や歴史、教育、経済といったあらゆる面での修正を求められています。

専門家に限らず、みなが考えるべき課題はたくさんあります。(専門家であるがゆえ「扱いやすい価値観」に安住していることが多いように思いますが)

それらをひとつひとつ拾い上げることが今必要な作業ではないでしょうか。




B016 『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』

檜垣 立哉
日本放送出版協会(2002/10)

哲学とは何かいまという時代は、どのような時代なのだろうか。そして、いまという時代の中で何かを真剣に考え抜いたり、何かをしようとしてその行動の指針を探したりするときに、よりどころとなるもの、よりどころとすべきものとは、どのようなものだろうか。あるいは、よりどころがあると考えたり、よりどころを求めたりする発想そのものが間違っているのだろうか。ではそれならば、(よりどころがないことも含めて)そこで確かなものと、声を大きくしていえることとはなんなのだろうか。(p8)

この本はこういう書き出しで始まる。

デザインの「強度」というものを考えたくて、ドゥルーズに関する分かりやすい著書を探していたのだが、「解けない問いを生きる」という副題とこの書き出しに惹かれて図書館から借りてきた。

テーマが今の僕にあってたのと(というよりこの時代のテーマなのだろうが)、なんとなく、一般うけのしそうな副題や前書きが、僕にも理解できそうな雰囲気を出していた。
おそらく、著書は難解なこの哲学者を分かりやすく論じるために、かなりの部分をはしょって、意図的にある部分をクローズアップしているのだろう。
そのかいあってか、なんとなくドゥルーズの「卵」「流れ」「生成」ということで言いたいことがぼんやりとはイメージできたような気がする。
僕は、哲学研究者ではないので、ドゥルーズを正確に理解する必要があるわけではなく、そこから、何らかのものを見つけられればよい。

おそらく、最も重要なことは「中心」や「固有性」「私」または「システム」といったものに問いが回収されないということだろう。
「私」「他」という二元論的な設定そのものが西洋的な不自由な見方の気もするが。

個体とは、揺らぎでしかありえず、不純でしかありえず、偏ったものでしかありえず、幾分かは奇形的なものでしかありえない。揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いをになう実質であるもの。それをはじめから、そのままに肯定する倫理を描くことが要求されている。実際にそれは、生きつづけることの過酷さをあらわにするものであるといえるだろう。なぜならばそれは、死の安逸さも他者による正当化も、正義による開き直りもありえない、変化しつづける生の流れを肯定するだけの倫理としてしか描けないのだから。(p107)

流れの中でそれぞれの個体が問題を創造、デザインしながら「かたち」を連続的に生成していき、自ら流れとなっていくさまが、なんとなくではあるがイメージできた。

その流れをあくまで流れとして捉えある一点で固定してしまわない、そんな流動的な態度こそ大切であろう。

ある、決まった解答があらかじめ存在しそれを探そうとするのではなく、その流れの中で「問題を創造」しながら流れていく。
それは、全く異なるベクトルであり、そこには自ら物事を生み出していく主体的な自由がある。

それは、「意味」に回収されずに意味をデザインしていこうとするボルツの著作に共通する部分がある。

人間にはよりどころが必要かもしれない。
しかし、そのよりどころを「受動的に与えられるもの」「すでに存在するもの」として「探す」のではなく、能動的に自ら「生み出す」「編み出していく」というように、ベクトルを変換することにこそ「自由」の扉を開く鍵があると思う。

この本でクローズアップされていた、「流れ」や「生成」、個体やシステムの考え方は、「オートポイエーシス」に通ずる。
一度、河本英夫の本を読みかけて途中で断念していたが、余裕のあるときにでも再チャレンジしてみよう。

また、「強度」がドゥルーズの文脈の中でどう現れるのかは分からなかったが、一度『差異と反復』あたりに挑戦してみるか。痛快な「ぶった斬り」を期待して。




B015 『2次元より平らな世界 ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴』

2次元より平らな世界―ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴

イアン・スチュアート (2003/01/28)
早川書房



120年程前に『2次元の世界』という名著が出版された。
2次元の平面世界「フラットランド」に住むアルバートが異次元からの訪問者「スフィア」と出会い3次元の世界を旅するというものである。
著者のアボットは4次元を想像させるための導入として(当時4次元は最新の知識であった)まず、2次元の世界に住む人には3次元がどう見えるかを想像させたかったようである。

そして、『2次元より平らな世界』は一般向けの数学書で人気の高い著者によって『2次元の世界』の続編という形で書かれた物語である。

物語はアルバートの子孫であるヴィクトリア・ラインという女性の線分が、アルバートの手記を発見し、異次元の使者「スペースホッパー」を呼び出し、ホッパーとともに様々な幾何学世界を巡るという形で進む。
多次元空間から、フラクタル、トポロジー、射影幾何学、特殊相対性理論から超ひも理論まで物理の世界を含む様々な世界を巡る。
フラクタルやトポロジーあたりまでは馴染みがあったのでよかったが後半は僕の想像力がついていけないところもあった。
しかし、普段想像もしないようなことを考えるのは心地よかった。

僕は想像力をひとつのテーマにしたいと思っているのだが、こういう幾何学の世界は狂気にもにた想像力の賜物であろう。しかし、そういう想像力の入る余地はだんだん少なくなってきているのではないだろうか。昔は、幾何学や宇宙の問題・不思議が生活の中で当たり前の存在としてあったであろう。
しかし、今ではそういった想像力の入るような余裕が社会から奪われつつある用に思う。例えば「数学は生きてて役に立つの?意味ないじゃん。」というようなことを聞くとなんとなく悲しくなってしまう。

役に立つかどうかというと、役に立てようと思えば幾らでも役に立つに決まっているが、そもそも「役に立つかどうか」なんて疑問には意味がないと思うのだ。
ただ、それによって色々なものの見方が出来れば、それだけ生きている時間を楽しめるかもしれないというだけのことだろう。

「勉強は役に立つからしなければいけない」なんていうのが当たり前の前提のようになっているような気がするが、おそらくそんな前提のお勉強なんてたいして役には立ちはしない。

まぁ、トップの機関が例えば「円周率を3とする」ような馬鹿なことを考えるような国だから、そういった前提が常識になるのも仕方ないのかもしれない。
結果だけが重要で、その裏に隠れた部分にまで想像をめぐらすことには意味がないのだろうか。

幾何学とは何か、というきちんとした定義は分からないが、ゲームのルールとそのゲームの世界のようなものだろう。幾何学が宇宙や自然の観察と想像力の賜物であって、われわれのDNAに刻み込まれたものであれば、それはやはり極上の「決定のルール」になるのだろう。(もしかしたら、それは強すぎることもあるかもしれないが)幾何学がはるか昔から建築家に愛されてきたのも分かる気がする。




B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』

青木 淳
王国社(2004/10)

ちょっと雑な気がするけれど、建築は、遊園地と原っぱの二種類のジャンルに分類できるのではないか、と思う。あらかじめそこで行われることがわかっている建築(「遊園地」)とそこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」)の二種類である。(p14)

とし、『現在において「原っぱ」が失われつつある』ことを危惧する。

普通には「いたれりつくせり」は親切でいいことだと思われている。でも、それが住宅全体を決めていくときの論理になることで確実に失われるのは、「原っぱ」に見られるような住む人と空間の間の対等関係である。しかし、見渡して見渡してみれば、住宅を取り巻く状況は、すでに「遊園地」に見られるように、空間が先回りして住む人の行為や感覚を拘束するのをよしとする風潮だろう。(p16)

この本を通して述べられていることは、建築の持つ不自由さを自覚しそれと向き合うことである。

はっきりいって設計するということは、残念ながら本来的に人に不自由を与えることなのだと僕は思う。どんな設計も人を何らかのかたちで拘束する。だから、僕はそのことを前提にして、それでも住むことの自由を、矛盾を承知のうえで設計において考えたいと思っている。それが、つまり、「いたれりつくせり」からできるかぎり遠ざかった質、ということの意味である。もともとそこにあった場所やものが気に入ったから、それを住まいとして使いこなしていく。そんな空気を感じさせるように出来たらと思う。(p172)

形式の外にいられるように錯覚することが自由なのではない。形式の中にしかいることができないにもかかわらず、その外があるとして物事を行うこと。それが自由という言葉の本来の意味だと思う。(p182)

これは、まさしく僕が感じていたことで、それをうまく言葉にしてもらったという感覚があった。

僕の場合、形式の外の存在を感じるのは『イマジネーション』の問題であり、それを感じることができるのが自由であると考えていた。

「動線体」「つないでいるもの」「つなげられるもの」

これらのキーワードで語られるのは、「つなげられるもの」に発生する近代的な「機能」による拘束であり、それからの開放の模索である。
われわれは簡単にそれらの「機能」から逃れられそうにない。

「つないでいるもの」にも「つなぐ」という機能が割り当てられていて、僕は道を歩いていて途方にくれそうになるような不自由さを感じることがある。
何か、歩かなければいけない、というように命じられている気分になるのだ。
ほとんどの空間がそのように機能によって自由を奪われている。

宮台真司が『地上90cmの目指し』と呼ぶように、地べたに座り込む行為はそういった機能による拘束から開放されようとする行為であり、僕はそれに対し「だらしない」と思うよりは同情するのである。
それは、僕たちがつくってきた空間に大きな責任があるのだ。

著者が『馬見原橋』を設計する際に「つないでいるもの」であると同時に「人が居られる場所」であること、という同時性に親近感をもつといっているが、それは「つないでいるもの」のもつ機能性からの開放を意図しているのだろう。

「ナカミ」「カタチ」「決定ルール」

僕が『コンセプト』のところで言い切れなかったことが書いてあり、なるほどと感じさせられた。

僕も「ナカミ」か「カタチ」かという葛藤を感じることがあるし、これからもふとするとそういう葛藤に絡めとられると思う。

ここで重要なのは「決定ルール」を「ナカミ」「カタチ」と同列ではなく、それらの上位の概念として位置づけることであろう。

それによって、「ナカミ」か「カタチ」かという葛藤から開放される。

はっきりしていることがふたつあって、それについて書いてみようと思う。ひとつは、空間のどんな決定ルールも、本当のところは、そこでの人間の活動内容からは根拠づけられるべきでないこと。つまり、どんな決定ルールもついには無根拠であることに耐えること。ふたつめは、そのことを誠実に受け入れるならば、より意識的に決定ルールに身を委ねて、それが導いてくれる未知の世界まで、とりあえずは辿り着いてみなくてはならないだろう、ということである。(p66)

この態度をとれる思想をもてるかどうかが重要である。

たいていの建築では、決定ルールが中途半端な適用になる。ある程度は形式的できかいてきだけど、またある程度は、人の心の反応を想定した経験的なものになる。こんな風にすると人はこんな感覚をもつだろう。こんな感覚をもたせたいからここはこうしよう、そんな意識が混入する。確かに人間は、歴史的にでき上がっているそうした意味の網目の世界に住んでいる。だけど、こういう作業が当然のように行われることによって、建築は人間の心をきっと不自由にする。
実際に、ぼくがある種の建築に感じるのは、それゆえのあざとさであり、お仕着せがましさだ。(p80)

僕は人気のリフォーム番組なんかを勉強になるかと思って何度も見ようと試みるが、いつも居心地が悪くなってすぐにチャンネルを変えたくなる。
テレビ番組の企画としての意図や安易な決めつけなんかがみえみえで、なんとなく押し付けがましい不自由さを感じてしまう。
かといって、僕が著者の言うような態度を貫けるかどうかは、まだ自信がないのだが。

ゲーリィの「グッゲンハイム美術館ビルバオ」について次のようなことを書いている。

これは最も恣意という言葉から遠い建築の達成であり、それがぼくたちに完璧な透明な感覚を与えているのだ。
ここでのゲーリィは、それまで誰もできなかったような、未来に属するまったく新しい実験を行い、しかもそれに成功しているように見える。行われた実験は、ナカミかカタチかという二項対立をこえてしまうような次元での、純粋で自律的な決定ルールの、オーバードライブである。(p76)

ややもすると、カタチに大きく振れ、恣意的でしかないと見られがちなゲーリィの建築に感じる自由さをうまく言い当てている。
こういう態度を貫けるゲーリィはやはりタフなのだろう。

住宅「O」についての「現象としての動線体」という解説も、僕の「自分の領域を拡大する」という感覚とかぶる部分が多くて興味深く読めた。「構成を表現を捨てること」については、複雑性を縮減することがデザインであるならば捨てなくてもいいんじゃないかと思うのだが、それについては今後じっくり考えてみよう。

いずれにせよ、意味を求めないクールな突き放したように見える視点など、これは「ポストモダン」の生き方に対する一つの姿勢の模索であるように思う。それは、言葉にするほど簡単ではなく、ゲーリィのようなタフさを要求される姿勢である。
しかし、その先に見える自由はきっと大きい。




B013 『神のかけら』

神のかけら

スコット アダムズ (2003/03)
アーティストハウスパブリッシャーズ



スコット・アダムズは「ディルバート」で有名な漫画家。

若い配達人の僕と、配達先で知り合った老人との問答を中心とした話である。

「神」があることに挑戦した結果、この世は「物質の最小の構成要素」と「確率」の2つの「神のかけら」で成り立つことになった、という説をもとに、神やこの世のことについて問答を繰り返す。

著者が序文で「フィクションの形で包んだ思考的実験」と呼んでいるように、ある仮説によって世界を描いてみせるひとつの実験という名の遊びである。

たとえば、重力に変わる論を展開した後に、重力の存在を前提とした話をしたり、キリスト教的な「神」がそもそも前提であったり、後半は我慢しきれずに多少説教くさくなったりと、時々つっこみを入れたい部分もあった。

しかし、『これは思考的実験なんだ』と思い直してみると楽しく読めた。
その「楽しく」読めた感覚は僕にとって重要だ。

すぐにつっこみを入れたくなるなるのは、悪い癖で、懐疑的になることで柔軟になりたいと思うあまり、逆に頭が固くなっているようだ。
日常でも、もっと素直になったほうがいいときにも無駄に反論を考えたりと頑なになってしまう。
そんな頑なな脳味噌を指摘されたような気がする。

訳者が

『むしろ、読者に「知の自立」を求めている。「みんながそう言うから、そうだと思う」とか、「世間でそう言われているので信じる」とか、だらしなく他にもたれかかったような思考回路ではいかんのではないか、ということである』

とあとがきで述べている。僕もこれには賛成である。

しかし、僕が気付かされたのはこれとは逆に「みんながそう言うから、そうじゃないはずだ」という、あんまり穿った見方ばかりでもいかんのではないか、ということだった。

こういう「遊び」は素直に楽しめる余裕が欲しいものである。

しかし、序文から、これは「思考的実験」であり、精神年齢が55歳以上の「新しい考えに抵抗を覚えるような人たち」は「この思考的実験をおもしろくないと思われるかもしれません。」とクギを刺すのは反則のような気がするのですが?




B012 『CARLO SCARPA 建築の詩人』

 

建築の詩人 カルロ・スカルパ

斎藤 裕 (1997/07)
TOTO出版



CARLO SCALPA 1906-1978

『「さぁ、遊ぼう!」カルロ・スカルパは、デザインすることに対して、生来倦むことを知らぬ深い意欲に溢れていた人だった。・・・デザインするという作業は、スカルパにとって宝探しのようなものだったのではないか。・・・「さぁ、遊ぼう!」そう言って彼は旅に出かけていく。どんなに長い道のりであろうと、どんなに海が深かろうと、探し求めているものを手に入れるまで、無心に遊ぶ子供のように宝探しは続行される。・・・・』斎藤裕

ブリオン家の墓地を中心とした作品集。
スカルパはこの墓地のために約10年間で1200枚ものスケッチを書いたそうが、美しい写真とともにスカルパの思考の跡が見える図面も多数掲載されていて、見ごたえがある。

僕は、立体を確認するためについ、模型やCGに頼ってしまうのだが、スカルパの図面を見ていると、スケッチと想像力の大切さを改めて感じさせられた。

『そこに行けば、誰もがとても幸せになります。
子供たちが遊び、犬は駆け回る。
すべての墓地がそのようにあるべきです。』
カルロ・スカルパ

スカルパが言うように綿密に計画されたシーン展開には厳かな感覚の中に楽しさを引き出す仕掛けが盛り込まれている。
イタリアにあるこの墓地はぜひ訪れた体験したい建築のひとつです。

途中、ブリオン家の人へのインタビューがあるが、ここにもクライアントと建築家の幸せな関係があります。

クライアントは、村人や知識人の「貴族趣味である」というような批判の中、この文化的な建築を実現させるために『勇気を持ち続けて進めていくこと』が必要だったと述べているが、日本の金持ちにこういうことを期待するのは無理な注文だろうか。




B011 『自分の頭と身体で考える』

養老 孟司、甲野 善紀 他
PHP研究所 (2002/02)

最近「ふけた」「ふとった」といわれることが多くなった。
それで、最近『ウォーキング』なるものをしなけりゃならんか、と思ってしまった。

不覚にも。である。実際少しばかりやってしまった。

目的のない「散歩」はとても好きである。
しかし、「健康」を目的にした「ウォーキング」というものには昔から違和感を感じていた。
「ジムのマシンでウォーキング」にはなおさら違和感を感じる。
なぜ、身体を動かすために金を出さなければならないのだ。
ケチで言ってるのが大半だが、『身体』を金でどうにかしようというのはどうも腑に落ちない。
「サプリメント」もしかり。

おそらく、ストレスが多く、健康を守ることも困難な現代社会を生きるには必需品。 ということなのだろうが、 その、アメリカ的な何でも意識でコントロールできると思っている傲慢さと、一見合理的に見えて、実は単なる対処療法でほとんど本末転倒な思想が嫌なのである。

変えるべきは現代社会のほうだろうに、対処療法は原因を補強する。
ほとんど罠である。

罠にはまるのはシャクである。

危うく罠にはまるところであった。

僕は、心の片隅では、いざサバイバルな状況に放り込まれたとしても生きていける、最低限の身体と、『野生』を手放さずに生きていくことが、『生物』としてのマナーだと思っている。
それは、僕のなかでは僕が自然の世界にとどまれる『境界線』なのだ。
(そんなことは関係なく、僕が自然から抜け出せるはずもないのだが)
しかし、これほど脂肪がついてしまってはまったく説得力がない。このままではこの『境界線』を手放さなくてはならなくなる。
それはそれでよいだろうが、罠にはまるのはシャクである。
損な性格である。

そこで、名案を思いついた。
はじめて人力以外で動く自転車(原動機つき)を手に入れたのだが、我がチャリンコを復活させて、これで通勤してやる。

やけである。

しかし、これで、やせる。体力がつく。環境を破壊しない(つもりになれる)。ガソリン代が浮く。事故に会う確立が減る。ボケーっとできる時間が増える。早起きが出来る。ちょっとした悲哀を感じられる。世の中を斜めに見れる。などなど様々な特典を得られる。
なんと合理的なのだろう。ここで躊躇してしまっては僕は非合理的な人間ということになる。

今日(27日)事務所においていたチャリンコのパンクを修理し、乗って帰ってみた。
どうやら40分ぐらいで家に着きそうだ。
なんだ。楽勝である。むしろ期待はずれだ。

そういえば僕が東京にいるころ定期代がもったいなくて小田急線の千歳船橋のアパートから六本木の事務所までチャリンコで1時間かけて通っていたのだ。
あのときのほうが僕は野性味を持っていた。

これで、野性を取り戻せると思ってウキウキ、ウッキーとしだした矢先に擦り切れていたタイヤがついに破けてパンクしてしまった。 もうこのタイヤはだめだ。

これで、週末までチャリンコはおあずけとなりました。

前置きがながくなりましたが、この本について。養老孟司は好きである。
ちょっと売れすぎたけど、昆虫好きだから。甲野善紀も好きである。
丸山弁護士に似てなくもないけど、顔が不敵だから。

両者とも強烈なオリジナリティーをもっていてかっこいいのだ。
NHKか何かで甲野善紀のわけのわからない動きと、わけのわからない自信を見てすっかりファンになってしまったのよ。

二人の対談はなかなかになかなかで、当たり前のことばかり言ってるが、それがオリジナリティだと感じさせる。

きっと、僕も似たようなことを感じている。はず。

何か大きなものに飼いならされていない『ぐれ』続けている二人は素敵である。




B010 『空間に恋して LOVE WITH LOCUS 象設計集団のいろはカルタ』

象設計集団
工作舎(2004/12)

図書館より。
象設計集団の33年間の集大成。

いろはカルタの形式でキーワードをつづりながら作品の紹介をする。
といっても、そんな形式はさらっと破っている。

読んでいる間、ずっとため息が出っぱなしだった。
そこには、圧倒的な豊かさがあった。
生きることの楽しさ。生命の躍動感。自然への、人間への愛情で溢れている。
土着的な建築というだけではくくれない何かがある。

象の活動は設計というより、生きるスタイルそのものが作品である。
(1990年より、北海道十勝の廃校に事務所を移し、バーをつくったり、祭りをしたり、サッカーをしたり、湖に露天風呂をつくってビールをのんだりしている。)
頭ではなく身体で惹きつけられる。
僕の探しているものがここにはたくさんありそうな気がした。

故・大竹康市の『これが建築なのだ―大竹康市番外地講座』1995.09を読んでみたくなったなぁ。




B009 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』

東 浩紀
講談社(2001/11)

気が付けばすっかりテーマがポストモダンになっている。
意図的というよりやっぱり気になるのだ。
どこへ向かうにしろ、僕のような不器用な人間には、ある程度けりをつけなければならない問題なのだ。

『動物化』という言葉に何かの期待をしてこの本を手にとったのだが、その『動物』という言葉は、もともとはフランスの哲学者コジェーヴの書いた『ヘーゲル読解入門』のある脚注から来ているそうだ。

コジェーヴの主張(の東の要約を)を要約すると、ヘーゲル的歴史の後人々には「動物への回帰(アメリカ的生活様式の追求)」と「日本的スノビズム」の2つの生存様式しか残されていない。「動物」とはヘーゲルの「人間」の規定(与えられた環境を否定する存在)と対応し、常に自然と調和して生きている存在である。
また、「動物」は「欲求(単純な渇望。欠乏‐満足の回路が特徴)」しかもたず、「人間」は「欲望」をもつ。「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく」アメリカの消費生活はこの意味で動物的である。一方「スノビズム」とは「与えられた環境を否定する実質的理由が何にもないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式」である。
「スノッブ」は形式的な対立を楽しみ愛でる。コジェーヴは「アメリカ化=動物化より日本化=スノッブ化を予測していた」ため、80年代の日本のポストモダニストに好んで参照されたそうである。
——————–
さて、オタクについてだが、
オタクはスノビズムをへて、いまや動物化している。

あえて、フェイクと知りながら意味を見出して消費するのではなく、もっとクールに「萌え」や「泣き」を「データベース的」に消費する。

そこにあるのは例えば「猫耳」「しっぽ」「触覚のように刎ねた髪」などの単なる要素の集積であり、それらのデータベースから、もっとも効率的に「萌え」や「泣き」を与えてくれる要素の組み合わせを選び出す。

それらの要素の働きは「プロザックや向精神薬と余り変わらない」。
たとえ、ある作品に深く感動したとしても、それを自分の「世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学」んでいる。

作品のバックにあるのが大きな物語(世界観)ではなく単なるデータベースであることを前提とすることがマナーなのである。

このような小さな物語と大きな物語の切断を東は精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼んでいる。

近代は「小さな物語から大きな物語に遡行」できると信じられ、移行期の人々は「その両者を繋げるためスノビズムを必要とした。」
そして、ポストモダンの人々は両者を繋げる事を放棄した。
——————–
オタクを切り口にしての、現代文化分析はある程度理解できた。
そのような「解離」は今の社会を生きるためのひとつの処世術なのだろう。さて、そこで僕の差し迫った問題は「じゃあどうすんべ」ということなのだ。またしても、いつもの問いが頭をぐるぐると廻り出す。
・大きな物語ほ放棄しても良いのか。
・彼らは幸せなのか。
・豊かな行き方ってなに。
・ぼくにそれができるのか。
・「建築」になにがのこされるのか。
・設計の意味はどうへんかするのか。
・そもそもこんなこと考えることに「意味」があるのか。
などなど。きっと、こういうことを考えること自体、意味に対する未練であり、「大きな物語」という幻想の呪縛から抜け出していないのだ。
やっぱり、ポストモダンを生きるのはなかなかに難しく、「オタク」はなかなかのやり手である。しかし、これを自分の中で整理しなければ、自信を持って線の一本も引けやしないのだ。そこで、再び『意味に餓える社会』の最終章を見てみよう。

○すべてがデザイン
「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」

なんだ、「自身」をもって線をひけばよかったのだ。

意味とは捜し求めるものではなく、つくり出すものだったのだ。
それは、動物なんかにゃ出来ないだろう。
(なんか、一周して元に戻ったような感覚である。)
だとしたら、「小さな物語」=「大きな物語」となるようにおもうが、如何に。。。




B008 『妹島和世読本 -1998』

妹島 和世、二川 幸夫 他
エーディーエー・エディタ・トーキョー(1998/04)

この本は、僕が大学を卒業し、上京して再度学ぼうとしていたころに購入した。
今考えると、俺も結構ミーハーだなぁ。と思うが、とにかく妹島和世には相当な衝撃を受けたのである。
当時はその衝撃を自分の中でどう解釈してよいか、相当に悩んだ。

恥を惜しむがその当時のメモには

「このごろ、妹島和世の建築にも魅力を感じ始めている。それは、さまざまなものからの開放に対する興味でもある。僕の心は絶えず、内側への収束と外側への発散との間を揺れ動いている。98.5.17」

と書いている。

他にも気になる建築家はいたのだが、当時は両端としての安藤忠雄と妹島和世との建築の間で揺れ動き、自分の考えがどちらに近いかを早急にきめねば前に進めない。という焦りを感じていた。

このころ、僕の中で発見したキーワードは「収束」と「発散」である。
たとえば、安藤忠雄の空間の質は人を精神の内へ内へと志向させる「収束」であり、妹島和世の空間の質は人を精神の外側へと志向させる「発散」ではないかと考えていた。

そして、内へ向かおうが、外へ向かおうが、その究極の行き着く先は同じで、そこにはある種の『開放』と精神的な『自由』があるのではないか。

なんだ。結局は同じではないか。そんなに今悩むことないや。というのが、その当時のとりあえずの結論である。

この、「収束」「発散」「開放」というのは割合気に入っていて、架空の事務所名にも”release”という単語を入れている。(※記事作成時の事務所名)
今考えると、妹島和世の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。

もちろん、妹島和世の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。




B007 『TADAO ANDO  GA DOCUMENT EXTRA 01』

book7.jpg二川幸夫/インタビュー(A.D.A EDITA Tokyo)1995.07
学生のころにおそらく僕が始めて買った作品集です。
建築を意識し始めたころに、安藤忠雄とコルビュジェにはまったのだが、これは当時の関西の学生の通過儀礼とでも言えるようなものだったと思う。
――閉鎖的な大学だったので、当時のほかの大学のことは実は知らないが――

当時は、世界を旅したエピソードや、元プロボクサーで、独学で建築を学ぶという遍歴に、そして建築に対する実直さに素直に魅かれたものである。
冒頭のインタビューを読み、何度初心に戻れたかわからない。

しかし、建築を学び始めてしばらくすると、その実直さが急に照れくさく感じてしまい「安藤忠雄」に興味のないふりをはじめ他の興味の対象を必死に探し始めるのである。

「安藤忠雄」的なものをとりあえず脇において、他の可能性をいろいろ考えたりもしたが、そういう見栄をはるのをそろそろ辞めて、いいものはいいと思っていいのでは、と考えるようになったのは割合最近のことである。

「安藤」的な姿勢、実直にモダニズムを突き詰める姿勢から生まれる、バカ正直にみえる安藤忠雄の建築は、類まれな「強度」を持ち、建築物としての存在意義を確保しているように思う。
方法はどうであれ、それこそが大切なのではないか?
『負ける建築』を書いた隈研吾でさえ「強度」を口にする。宮台真司もしかり。

「強度」という概念はドゥルーズからの言葉だろうが、実は僕はよく理解していない。
しかし、なんとなく今でもキーとなりうる概念の匂いがする。
今後の興味の対象である。

ちなみに、この作品集で好きだったのは、成羽美術館で、アプローチの構成にくらくら来た。




B006 『ぐれる!』

中島 義道
新潮社(2003/04/10)

「ぐれる」

なんとよい響きだろうか。
たぶん天邪鬼である私はつい題名に惹かれて買ってしまった。

「ぐれる」は「かぶく」ほど華やかでなく、「すねる」「ひがむ」「ふてくされる」よりも暴力的で、「すさむ」ほど絶望していないそうだ。
その、丁度よさ加減に惹かれる。

「ぐれたばあさん」「ぐれた社長」「ぐれた奥さん」
「おれ、午前中ぐれていた」「さっきちょっとだけぐれた」
「ぐれた総理大臣」「ぐれた最高裁判所長官」「ぐれた文化勲章受章者」

これらは、ぐれるための条件のなかで、違和感のあるものとして書かれているが、これらの言葉がちょっぴりチャーミングなのは、きっとこの言葉のもつ可能性の大きさを示している。
「かぶく」にも同じような可能性を感じ取れるが、「ぐれる」のほうがひかえめで良い。

『徹底的にぐれることこそ、「正しい」生き方なのです。ただし、下手にぐれるとみんなから―人生に何らかの意味を見つけて生きたい人や、誰かの役に立ちたいと願望している人や、自分が生きてきた爪痕を地上に残したい人・・・からたたきのめされます。―中略―上手にぐれるとは、このように、周囲の単純な人々を徹底的にだましながら、それを心から楽しみながら、ぐれるということです』

つまり、「ぐれる」とは004で触れたようなポストモダンを生きるすべなのだ。たぶん。

『善人とは、自分の価値観以外のものがこの世にあることを絶対にわかろうとしないアホな輩』とし、『こうした善人の策略にひっかかる者は意志の弱い者で、根性が腐っているのだから』『フツーの善人たちの軍門に降り』『「これでよかった」と呟いて死ねばいい』

と言ってのけるあたりなかなか痛快です。

『ぐれるのをやめ』て、『薄汚い善人どもの一員になる』『それだけは避けねばならない』

うむ。それだけは避けねばならない。

歳をとるごとにそれは難しくなるが、だからこそ『真剣に追求するに値し、たいそう味わい深い』のだろう。

終盤に作家を『ぐれ度』によって分類している

A(明確に)ぐれた作家たち
夏目漱石・三島由紀夫・野坂昭如・村上龍など(抜粋)
B(あまり)ぐれていない作家たち
正岡子規・石原慎太郎・司馬遼太郎・五木寛之・宮沢賢治など(抜粋)
Cぐれたように見えてそうでもない作家たち
与謝野晶子・小林秀雄・芥川龍之介・町田康・澁澤龍彦・よしもとばなな・林真理子など(抜粋)
Dぐれていなさそうでぐれている作家たち
良寛・谷崎潤一郎・志賀直哉・江藤淳・立原正秋

私としてはDがもっともグレードが高そうに見えあこがれてしまうが、根がまじめすぎるのはCにしかなれないようだ。

よっぽど真剣でなくては『ぐれていなさそうでぐれている』の称号は頂けそうにないな・・・

『鬱力』に載っている人はAが多い(宮沢賢治はBとなっているが)

やっぱりね。




B005 『CASA BARRAGAN カーサ・バラガン』

齋藤 裕
TOTO出版 (2002/04)

メキシコで活躍した建築家、ルイス・バラガン(Luis Barragan 1902-88)の住宅の作品集、というより写真集。建築家の斉藤裕が解説を加える。
テレビなんかでも紹介されたりするので、比較的知られている建築家だが、恥ずかしながら僕はじっくりと作品集を見るのは初めてだった。
掲載されているのは、バラガン邸、プリエト邸、ガルベス邸、サン・クリストバル、ギラルディ邸です。

とにかく、単純に、美しい。

『静けさは、苦悩や恐れを真の意味で癒します。どんなに豪華な、あるいは、ささやかな家であろうとも、静けさに満ちあふれた住まいをつくることは建築家の使命なのです。・・・』ルイス・バラガン

斎藤裕の解説文のタイトルが『生の謳歌』であるように、静けさのなかから生命感が溢れ出してる。
そういう感じです。

しかし、それはいったいどこからくるのだろうか。

バラガンの住宅はモダニズムの手法による徹底した抽象化という印象を受けるのと同時に土着的な、身体的な感覚を受ける。
この両者のバランスが、すばらしいのだ。抽象化とはこういうことか、と思わされる。

抽象化はまさしく日本建築のお家芸であったであろうが、バラガンは面の構成や色などにによって、物質を、光を抽象化する。
抽象化によって余計なものは削ぎ落とされ、自然、世界そのものを受け止める素地ができ、静けさのなかから生命感が溢れ出しているような場所と時間が生まれる。

また、バラガンはアシエンダ(大農場)の昔の記憶、原風景と呼べるものを大事に抱えていたようである。
そういうものがバラガンのバランス感覚を支えていたのだろう。
それは、バラガンの、そしてメキシコのものである。

おそらく、自分のなかにも原風景と呼べるものはあるし、割合大事にしてきているほうだと思う。
奈良の田舎で走り回った風景、遊び、屋久島の自然と生活・・・そういったものを改めて見つめ直したい気持ちになった。

また、この本で印象に残ったのは、建築家と施主の幸せな関係である。
施主はバラガンの住宅に誇りを持ち、感謝し、大切に住み続けている。

バラガンは幸せだ。

住宅もひとつの環境である。
環境とはおそらく与えられるものではなく、「関係」でしかないと思う。
施主と住宅(願わくば環境の全て)の「関係」をつくる手助けすることが建築家の職能のひとつだと思うのだが、今はそういうことは忘れられ、住宅でさえ商品となり、人々は受身で住宅を消費する。

自分の住宅(環境)と「関係」を結べるのは自分にしかできないのに。




B004  『意味に餓える社会』

ノルベルト ボルツ
東京大学出版会 (1998/12)

だいぶ前に買った本であるが、僕的にはヒットした本である。
がいまだ整理しきれない。

ここにはニーチェの「神の死」の後、ポストモダン社会をどう生きていくか、ということを考えるヒントがある。

著者は『意味を問うことはポストモダンの社会を欲しないということだ』と言い、われわれに意味を与えようとする様々なものの意味の意味を分析し、バッサバッサときっていく。

それはもう、ギター侍も真っ青なぐらい痛快に。

現代のような社会では複雑性と向き合うことを恐れ、思考をサボれば、分かりやすい意味の補助具にすがりつかざるをえなくなる。そして、その補助具に無意識に頼りすぎると自分の判断を失う。
その結果、ある種の「暴力」に知らずに加担するかもしれない。

見渡せば、そういった暴力はいたるところに見つけられる。

しかし、「意味」をクールに突き放すことには、自らの足場を不安定にし実存が崩れ落ちてしまうのではという恐怖がつきまとう。
いまだ僕は、「クールな視点の後の自由」と「実存的恐怖」の間を揺れ動いている。

もし、その恐怖を突き抜けることが出来たなら、もしくは突き抜ける必要がなかったなら、再度、この本について書いてみよう。
もし、この問題を解決できている人がいるなら、その秘訣・ヒントを教えてほしい。

以下、目次(一部は小見出しと部分抜粋も含む)
興味をそそる見出しが並ぶ。(時事ネタ多く古くなったものもある)
第7章、最後の小見出しは「すべてがデザイン」である!!

●●序論

・われわれの現実において、自明なものはもう何もない。自明性の喪失自体が、まったく自明になっているのだ。
・現代を生きるということは、価値のコルセットをつけて生きること、大きな理念や制度の型にはまって生きることではないのだ。人は自分が何であるかを自分で決めなければならない。意味はますます私的なことがらになっていく。

○意味の政治
・問われるのは実はひとつのことである。すなわち、きわめて複雑な、カオスと紙一重の世界と、どのようにかかわったらよいのか?複雑性とは全体が不透明だということだから、透明であること、明確であること、率直であることに対する憧れがいたるところで生まれる。そこで、人々はいまや、失われた意味を捜し求める。

○超自然としての自然
・環境問題が存在しないのではない。他の関連から切り離された環境問題「自体」が存在するのではなく、何らかのシステムが自己の環境から自己を区別するからこそ、環境問題が生ずるのだ。つまり、環境問題とは、本来、それぞれのシステムが非固定的な環境と自己との境界をどう引くかという原理的な問題なのだ。
・エコロジーは逆説的に、豊かな国々の豪華商品になってしまった。そうなると、環境問題に関する市民の感度は鈍ってくる。成長の限界についての感度の成長も限界に達した、とさえいうことができる。

○意味の意味

○意味論的カタストロフ
・これらは特定の概念が使えなくなったことを嘆いているにすぎない。まさにこの点で、またこのようにして、意味の問題が生ずるのである。どんな文化も、意味を仕立てるための一定の規則に基づいて成り立っている。だから、ある社会のこうした意味論的仕掛けが壊れてしまうと、意味の問題が生ずるのだ。したがって、意味の機器と渡渉するものは、何よりもまず、もはや昔ながらの概念をもってしては現代を満足に記述できないことを示唆するにすぎない。
・これに対して、多くの人々は、昔ながらの理論が役に立たなくなったことを、矛盾として世界に投影するという形で反応する。こうして「危機意識=批判的意識」が生まれるのだ。
われわれは単数集合名詞の檻に生きている。つまり、本来複数でしかありえない実態を一戸であるかのように見せる概念の折に生きている。「歴史」「現実」「人間」
・意味論的カタストロフに直面して、多くの人々は言葉を失う。開放をまったく欲しない人々も多い。だから、われわれの文化は、世界が見通しが利かないものになったことを紛らわすために人々に意味を提供し、言葉の補助具を用意するのだ。

○鍵になる概念
・われわれは明確な概念を必要とする。ただし、それが補助的な構成物に過ぎないことを忘れてはならない。そして、補助的な構成物なしにはやってゆけないということ自体が、この本のテーマなのだ。
・この本は、意味の問題を魔術から開放した上で、楽しげに「その日暮らしで行けばよい」と呼びかけるものではない。クールな実務家は、すでに幻滅に基づく世界像を持っているだけに、全然学習するつもりがない。「実務」を持ち出すことは、たいていは思考をサボるための口実に過ぎない。
・理論なしには、そしてヒエラルヒーなしには、いやでもやってゆけない。ヴィジョンを欲しながら同時にヒエラルヒ-を捨てることはできない。未来のブラックボックスを開くための鍵となる観念こそが、ヴィジョンの名に値するであろう。

●●第1章 扱いにくい灰色の基本問題・・・複雑性

○カオスとブラックボックス
・およそ自信のあるデザインならば、世界を開く構想のつもり、意味創出のつもりでなければなるまい。なぜなら、デザインとは、ブラックボックスの世界が複雑になればなるほど、人間と諸システムの接点の造形、インターフェイス・デザインというものが不可欠となる。
・デザイナーは、単純化の名人だ。彼らは常に、複雑性の縮減を任務とする。
・デザイナーは利用させるのが仕事だから、技術すなわち不透明な仕掛けに対する人間の不安を除かなければならない。

○三つの世界
・われわれ全員にとっての問題は、単純化することによってしか世界の複雑性に答えられないということにある。
・かどの複雑性は、まさに政治にとって、実務の優位という帰結をもたらす。
・哲学者でさえ、原理とか最終的根拠付けとか言うものは存在せず、われわれは常に「かのように」的な構成と取り組まねばならないこと、どんな理論の中心にも概念へと分解できないメタファーがあることを、ようやく理解しているようだ。
・そうした埋め合わせが必要だということは、環境に対し適切に対処するに足りる自己の複雑性を持たないということである。

○単に単純でないというだけのことではない
・刺激から守ってくれるものなしには、または刺激に無知でなければ、やってゆけない。何らかのフィルターが一定の情報を「ノイズ」として度外視することによって、複雑性が縮減される。

○人間本位主義と啓蒙主義
・「危機」という語は、高度の複雑性を単純化し、政治化するものである。はっきりいえば、危機は例外状態ではなく、現代に生きるわれわれのノーマルなあり方なのだ。
・「意味」とは、複雑性の自己記述に他ならない。だから、われわれの世界に意味がかけているわけではなく、われわれの属するさまざまのシステムそれぞれの価値が注目されていないというだけのことなのだ。
・ヒューマニズムもまた、複雑性の問題を覆い隠すものである。その友愛主義は人間を尺度として世界を測るものだが、それはとりもなおさず、生じたことの責任を人間に負わせるということだ。しかし、複雑性とは、人間のせいにできないということ、具体的な人間のせいだといえないことにほかならない。
道徳主義者が世論の動向を決めるのは、彼らがメディア受けするだけでなく、人間の心理を味方につけているからでもある。つまり、新しい思考というものは、それが緊急に必要なときに鍵って実現可能性を持たないのだ。ストレスに曝された者は昔ながらのやり方を頼りにする。複雑な観念を持ち出しても、たいていは空振りに終わってしまう。

○未来ないし統計
・統計が好まれるのは、構造を理解しなくとも数を比較するだけで複雑の諸連関を理解できるように思わせるからに他ならない。
・人々は今日、経験を信頼しないでトレンドを探り当てようとする。経験の軽視とトレンド志向とは表裏一体を成すものであろう。

○時間の矢印の破片
○原理主義者たちと阻止者たち
・生活時間と世界時間がかけ離れるや否や、意味を求める問いが発せられるのである。
・イタリアの映画監督パゾリーニは、低開発にとどまることが阻止者(カテコン)としての力を持つと説いている。後進性こそがユートピアとされるのだ。これと全く同様なのが、世間でもてはやされている「ユックリズムの再発見」の、背後にある発想である。ユックリズムを再発見しさえすれば、もうついてゆけないという体験を解釈しなおして、救出のしるしとみなすことができる、とされるのだ。
・ちなみに、ここには、阻止者論(カテコンテイク)のマーケティングが持つ大きな力、遅れをとったことを逆手に取る一種の販売技術が潜んでいる。「万年筆は、テンポを落とすこと、時間の流れに錨をおろすことの表現です」
・阻止者論を見ても原理主義を見てもいえるのは、現在を自己確認的に肯定する態度がますますまれになったということである。
・いまや、新しいものは終わろうとしているのだろうか?実際、終わりの時を示唆するしるしは沢山ある。

●●第2章 意味社会

・つまり宗教は、何が起こるか分からない(不条理な)世界において儀式により意味を構成するわけだ。
・無論、生きるということは、周りの世界の偶然を自分のアイデンティティーの要素になるように解釈してゆくことである。しかし、きわめて重大な問題にかぎって、個人が解釈しきれないものなのだ。宗教はまさにそこをとらえる。

○近代性の落とし穴
・われわれの近代世界が提供できるのはただひとつ、「何のために」を説いたり目標を掲げたりしないでやっていく「機能的意味」だけである。われわれの社会は、高次の意味を問うことがないからこそ、抵抗なく機能するのであろう。そこから言えるのは、意味を問うのは逃げの姿勢だということだ。「意味が見つからないこと」を気に病むものにとっては、すべてが別様でもありうることが(つまるところ自分の自由が)悩みの種なのだ。

・だから、私が思うには、失われた意味を求めるのは近代性の落とし穴から逃れようとする試みに他ならない。

○救済の約束
・もう一度ヤンチュを引用しよう。「意味に対する欲求は、人間意識の進化における強力な自己触媒的要素にほかならない」。われわれは意味を求めることによって、さらに発展しようとする自分の意識を刺激するのである。

○世界の脱魔術化
・社会学的にそっけなく言えば、生存の意味とは何かという問いは、生存そのものの彼岸で現れる。そうした問いは、肉体労働と自然の強制から開放されていることを前提としているのだ。世界と格闘しているものは「救済」してもらうどころではなく、「やる」しかないのだ。
・学問史家の立場からすれば、意味の喪失が体験されるようになった理由は二つしかない。
*近代の知が準拠すべき基準の喪失*知の分業化、ブラックボックス化
近代の知は、「外部の」世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する{つまりブラックボックス化}と言う条件の下でのみ、知の探求者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である。
・人々は理解しないものを用いるために、それに従うのだ。つまり、理解に代えて了承に甘んずるしかないのだ。世界に沢山の知があればあるほど、私自身の無知は増大する。この増大する無知を埋め合わせるためには、信頼するしかない。
・世界が科学的に・技術的になればなるほど、世界を「意味のある」ものとして体験することは不可能になる。

○ナルシシズムの痛手
・人間を尺度として世界を測ることは、もはやできない。これを「擬人的」に表現するなら、世界は人間を見捨ててしまったのである。すでにニーチェが、そのことをはっきり見抜いていた。「われわれはこの場所、この目的、この意味のせいで存在するのだ、こんな状態になっているのだと言えるような、場所も目的も意味もありはしない。とりわけ、全体を裁くこと、測ること、比較すること、まして否認することなどできるわけがないし、誰にもできまい」。

○学者たちと尊師たち

○近代的であることのコスト
・われわれの近代社会の特徴を、社会学者は彼らのそっけない用語で、さまざまの機能システムの分離と呼んでいる。善と真と美、法と権力は、分解して互いに無関係なものになっており、それぞれが特殊な文化によって、すなわちプロフェッショナルたちによって扱われるものになっている。
・しかし、それらは互いにどんな関係に立つのだろう?全体はどこに、一体性はどこにあるのか?答えはない。ここにぽっかり空いた空隙が、意味を求める人々を吸い込むのだ。つまり、意味喪失感の背景として、各部分システムそれぞれの独自性、特殊領域、固有論理が分かれてきたということがある。そして、機能ごとの分離がすべて意味喪失として体験されたことは明らかであろう。
・すなわち、近代化とは常に、一体にかわって差異を、ということなのだ。
・かなりの人々によって、「意味の欠如」として体験されるものは、実は意味の地平が開かれていること、オプションが豊かなことに他ならない。逆説的なことだが、意味が見つからないという喪失感は、文化的な意味がさまざまな形で過剰に提供されていることの結果である。何もかも、大きな意味があるとされるのだ!だから、「意味を見出せない」とは実のところ、「すべてが別様でもありうる状態を苦にする」ということ、つまり結局は「自分の自由を苦にする」、「不確定性(コンティンジエンシー)を苦にする」ということだ。

○押し売り的な救い手
○カタストロフの魅惑
○不幸せな「補助具をつけた神」
○(不)幸せのマネージメント
○独自の型
○重荷を下ろした意味概念
○意味を求める努力
○情報と神話
○意味の身代わり
○学問と政治の対話?
○エリートへの過大な要求
○政治化ではなく大衆化を

●●第3章ポストヒューマン・・・人間という尺度からの別れ
●●第4章批判的意識の大思想家たち
●●第5章それぞれのメディア世代
●●第6章メディアの世界
●●第7章文化・・・近代化の埋め合わせ
○深刻化をやめる
○あるがままの自分でいたい
○文化批判の文化
○重荷からの開放が重荷になる。



○すべてがデザイン




B003 『子どものための哲学対話』

 

子どものための哲学対話―人間は遊ぶために生きている!

内田 かずひろ、永井 均 他 (1997/07)
講談社



『人間は遊ぶために生きている』

子どものためだけなんてもったいない。大人も楽しく読めて、気がらくになる。

あたりまえの人にはあたりまえのことが、そうでない人にはそうでないことが書いてます。

『根が明るい人っていうのはね、いつも自分のなかでは遊んでいる人ってことだよ。・・・なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ』

きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことが出来る可能性がある。

『自分が深くて重くなったような気分を味わうために、苦しんでいる人を利用してはいけない・・・』

いやなことほど、心の中で何度も反復したくなるし、いやな感情ほどそれにひたりたくなるんだよ。忘れてしまうと、自分にとって何か重大なものが失われてしまうような気がするのさ。

人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なにより大切なことなんだ。そして、友情って、本来、友達なんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、なりたたないものなんじゃないかな?』

こんな感じです。あたりまえでしょ。

って、思うかどうかは単に性格の問題のような気もするけども。

いやー、今日は気がらくになった。

近々、永井均の書いたニーチェの本の感想も書こうっと。




B002 『住み家殺人事件 建築論ノート』

松山 巌
みすず書房 (2004/07/25)

著者は東京芸大建築学科卒の小説家・評論家。これも図書館でなんとなく借りた本。『建築雑誌』に連載していたものに加筆して単行本化したもの。
文体には理論派建築家のような鋭さはがないが(本のタイトルの印象のように)著者の思いの伝わる文章で、よく読んで見るとなかなか鋭い考察が見られる。
あとがきに『・・・たとえその地図が厳しい現実の前では無力な夢で終わろうとも彼らに手渡したいと考えた。本書はときに迂回し、ときに遊び、私なりの思考をたどった一枚の地図である。』(彼らとは直接的には芸大の教え子)とあるように、建築と社会の関わり方に対する『地図』を描こうとする試みである。
テーマの射程が大きく、かつ、もともとが連載ということもあり、内容は多肢にわたるが、一貫しているのはなにか「欠如している」、失われつつあるという警告である。

そこでキーとなるのがハンナ・アレントのいう「私的」「公的」という概念である。

『完全に私的な生活を送るということは、何よりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」deprivedということを意味する。』「人間の条件」ハンナ・アレント1994

『内奥の生活のもっとも大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらがいわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化され非個人化されない限りは、不確かで、影のような類の存在にすぎない。』(同上)

『世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人々の真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人々の真中にあることを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人々を結びつけると同時に分離させている。』 (同上)

アレントは古代ギリシャの概念を用いて、「私的」より「公的」であることを重要とし、「私的」を何かが「奪われた」状態とする。アレントについてはこちらを参考に。

『・・・あなたはそれほどおかしな社会であれば、もはや自分の生活こそなにより大事にすべきだと考えるだろう。だれもが社会のなかで生活していることぐらいはわかっている、しかし、だからこそプライベートな生活を重視すべきと思うだろう。』

しかし、それでよいのか?はっきりとしたものではないのだが、漠然とひっかかる何かがある。
それに対し、『欠如』『奪われている』という概念は何かの取っ掛かりになるような気がする。

東浩紀がラカン派の「想像界」「象徴界」「現実界」の3つの概念を引き合いに出して、象徴界が弱体化し『「世界の終わり」について思考しているが、「世界」については思考していない』状況を説明していたが、それに通じる部分があるように思う。(それについては別の回に。「郵便的不安たち」東浩紀著(朝日新聞社)1999.08)

建築はアレントの言う「テーブル」すなわち「世界」となれるのか。

われわれは何を『奪われている』のだろうか。

気がつけば、すぐに「考える」ことすらも奪われてしまう。私自身も時に「考える」ことの必要性と無力さのハザマを揺れ動いてしまう。

今度、アレントの本を探してみよう。




B001 『鬱力』

 

鬱力

柏瀬 宏隆 (2003/06)
集英社インターナショナル



私はかねがね、現代社会において鬱的な傾向を持たないような人は、どこかしらに問題を抱えているのではないか?言うなれば、感覚鈍化性非鬱病症候群とでもいえる何らかの症状なのではないか、と思っていた。
そこに、図書館でこのタイトルをみてなんとなく借りてしまった。

著者は精神科医であり、病跡学(人物と病理の関係を探る学問)の成果をもとに、黒澤明や宮沢賢治、ゴッホ、モーツァルトといった天才の創作力・生きる力に「鬱(ここでは少し広い意味で捉えている)」がどう関わるかを分析していく。
「鬱」が大きな力になることを描いているが、著者は病気としての鬱そのものを肯定しているわけではないようだ(精神科医としての視点)。

先に感想を言えば、文章が説明的すぎて途中から少し退屈してしまった。もう少し、著者の意見を前面に押し出して欲しいところだったが、正確さをきすあまり少し控えめになっている感がある。
ので内容についてはここには記さない。

「きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことが出来る可能性がある。・・・『子供ための哲学対話』永井均」

深い「鬱」をかかえ、それに立ちむかった格闘の跡が見えるからこそ彼らの作品は人々の心の琴線に触れるのだ。上記の引用によると、抱えた「鬱」が深ければ深いほど多くの人に感動を与える可能性があるのだろう。

私もそういう何かを抱えているような人に密かに魅力を感じ、信頼したりするのである。そんなことを再認識した。