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MEMO「ユニバーサル・スペース」

ユニバーサルスペースはなぜかくも徹底的に勝利したか。それが欲望を肯定しながら、しかも欲望に屈服しない建築のあり方を提唱したからである。ミースがユニバーサル・スペースを通じて批判しようとしていたのは、十九世紀のブルジョワジーの室内である。そこでは建築と物(商品)とがべったりと癒着し、建築が欲望に対して惨めなほどに屈服していた。(隈研吾)




MEMO「デ・ステイル」

そのモダニズムのジレンマ(ムーブマンを崩していくと抽象性が消滅する)から、デ・ステイルはなぜか、見事に抜け出したのである。一言で言えば、デ・ステイルはすきまを作った。幾何学的形態(エレメント)と形態の間にすきまを作る。すると、そのすきまの部分に運動(ムーブマン)が発生する。・・・オブジェクトには手をふれず、そのすきまに着目したところにデ・ステイルの決定的新しさがあった。(隈研吾)

建築の形のことを考えるとき、それも「形態」のルールについて考えるとき、必ず思い出す建築がひとつある。それはオランダのデ・ステイル、リートフェルトのシュレーダー邸である。建築の形についてはこの建築が私の教科書だ。20世紀の建築、その形態を支配する一番重要な理念が「構成」と言う概念だとしたら、この建築がその基本的なルール、「面」と「線」でヴォリュームを創るという基本ルールをあらためて私に思い出させてくれる。(岸和郎)




MEMO「建築(家)」「デザイン」

私が今建築をつくることの最大の意味は「精神の開放」です。平たく言えば、人びとが真にリラックスして自由に楽しめる建築をつくることです。(伊東豊雄)

少なくとも、僕のイメージする建築家にとって最小限度に必要なのは彼の内部にだけ胚胎する観念である。論理やデザインや現実や非現実の諸現象のすべてに有機的に対応していても遂にそのすべてと無縁な観念そのものである。この概念の実在は、それが伝達できたときにはじめて証明できる。(磯崎新)

いっそのこと、たった一個の石ころをこの現実の路上に置いてみること。どう置いたら、何が起るのかをじっくりながめてみること。そのような行為を建築デザインと呼びたい衝動にかられている。(隈研吾)

「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」(ノルベルト・ボルツ)

(都市住宅における)建築家の役割は、プライバシーに対する意識の変化を考慮し、単に私的なものを隠蔽するのではなく、住宅に新しい外と内との関係性を成立させるための仕掛けを施すことによって、現代の都市に必要な機能を加えてやることであると思っている(竹原義二)




メモ書き

一度、すべてを取り払う。そして、そこに意志を刻み込む。

視線の動き>断片によるモンタージュアフォーダンス連続する空間の中に空間の流れを図示する地図

あるべきものがない「虚」<→幾何学身体的感覚を研ぎ澄ます。 中庭スキマ大地を堰き止めつつ流れさせる。 超越性-中枢大衆性-公共性領域性-存在論流動性と領域性実存の形式 身体性拡張同調領域擬人化キャラクター テクスチャー・カオス・フラクタル・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA 収縮と発散・フュージョン・突き抜け・合流




なぜ考える(学ぶ)のだろう

なぜ、貴重な時間を割いて本を読んだり、考えたりしているのだろう。

ときおり、そんな疑問というか不安に思うときがある。

きっと、こんなことをしなくても楽しく過ごせるし、設計だって形だけならやっていけるだろう。

しかし、時間を使い、少なからぬ犠牲(とは思っていないけれども)を払って考え学ぶ。

なぜだろう。

**********************************

ひとつはこういうことだろう。

どんな職業や行動にも『良心』ってものがあると思う。

建築家には建築家の考えなければならないことがあり、医者には医者の、農家には農家の考えなければならないことがある。

親になれば親として、選挙に行けば投票者として、考えなければならない事がある。

今のような情報過多な時代では、何が正解かなんてことはなかなか言えないだろうが、とにかくそのときの自分の考えるべきことを考えるって言うのが『良心』ってものだろう。

それは、なかなかに難しいことで、自分のごく身近な限られたことに対して考えるだけでも大変であるし、きっちり向き合わないと簡単に安易な考えに絡めとられてしまう。

しかし、あらゆる職業の人が自分の仕事に対してだけでも『良心』を持って行動すればどんなに世の中は住みよくなるだろうか。

とは言っても、僕に出来ることは、建築に関わることを考え学ぶということしかない。

それは、僕が建築に関わる以上最低限の責任であるが、同時に最大のことでもあると思う。

僕は、見せ掛けの慈善事業をやっている人を見れば、その前に自分の仕事で責任を果たせといいたくなるのだ。

その前にやれることがあるだろう。と

とにかく、僕は単にそういう『良心』を持っていたいという欲望があるのだ。

だから考えたいと思うのだろう。
(それは欲望であって、僕がいい人かどうかとは関係ない)

**********************************

もうひとつは僕自身が自由になりたいからだろう。

決まった見方や、概念に「とらわれ」ることは出来るだけ避けたいのだ。

というより、そういう概念のようなものを出来るだけ脱ぎ捨てていきたい。

そのためには考えることや、人の考えに触れることは有効だろう。

そうしながら、自分の周りにこびりついているものを少しづつはがして生きたいのだ。

**********************************

そして、もうひとつは僕が建築に関わっているからだと思う。

もし、他の職業だったらこんなには考えたりしなかったかもしれない。

建築を考えるとき、ものの見方というものは、単純に空間の質に関わる。

それを、現実の建物に出来る実力があるかどうかは別の問題だけれども、僕の世界の捉え方=僕の考える空間の質なのだ。

だから、僕が考え、ものの捉え方が変わることでどういう風に建築が変わるかに興味があるのだ。

だから、まだ見ぬ自分と空間を見たくて学ぶのだ。

まぁ、そこまで行かなくとも他の人の言うことや、つくるものの感じ方が変わるだけでも十分面白い。

**********************************

とにかく、そんなに無駄なことをしているわけではないようだ。

無駄は大歓迎なのだが。




映画『MY ARCHITECT』

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>>公式HP
>>参考HP
監督のナサニエル・カーンは近代建築の巨匠の一人、ルイス・カーンとカーンの愛人との息子である。

ナサニエルが父と関係のある人々を訪ねてまわるというドキュメントである。

しばらく前に鹿児島の建築家協会の主催でこれを見たのだが、字幕等の入る前のオリジナルのものだったので、言葉やストーリーはあまり分からなかった。(プロジェクターの不具合で音もあまり聴こえなかった)

しかし、カーンの建築の映像はどれも美しく、その土地の人々の誇りであろうと想像させるものであった。

ところどころに挿入されているカーンの動いている映像や過去の写真は、態度は堂々としているがなんとなく物悲しくみえた。

カーンの内に潜むコンプレックスが見えたような気がして、それがカーンの建物の優しさに現れている気がした。

これは、ほとんど映像のみだったので感じることが出来たのかもしれない。
思わぬ収穫だ。

鹿児島で公開されるかは分からないが、字幕入りのものも見なければ。。
[MEDIA]




B017 『LOVE ARCHITECTURE KIKI』

LOVE ARCHITECTURE KIKI (2004/10)
TOTO出版


ムサビの建築学科を卒業し、モデルである著者の建築探索エッセイ。
きれいで親しみのもてる写真ときどらない文章が心地よかった。

著者は僕とほぼ同世代だが、途中からモデル業に専念しているので、ちょうど素人とプロの間のような視点で、等身大という言葉が似合う文章(エッセイ)は逆に新鮮でいろいろなものを思い出させてくれる。

こんなふうに生活と建築が溶け合うのがあたりまえな社会になればステキだなぁ。




W010 『姶良総合運動公園体育館』

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□所在地:鹿児島県姶良郡姶良町平松
□設計:古市徹雄/古市徹雄都市建築研究所
□用途:体育館・観覧場
□竣工年:2005年
[gmaps:31.724717665406757/130.60203552246094/15/460/300](comment)[/gmaps]
内覧会があったので行ってきました。
明日、土木の検査があるようで古市さんが現場に来ており、直接説明して下さいました。

大屋根は厚さ220mmの集成材の木板が構造体と内部仕上・断熱材を兼ねるという構造。
古市さん曰く屋根の部材を少なくしシンプルに見せたかったそうです。

また、木造、鉄骨造、PC造、現場打ちRC造といった構造を適材適所に使用している。

左右対称を崩すということも重要なテーマであったらしく、それによる空間の自由さは感じました。

屋内にあるスロープ状のアップダウンの設けられたランニングコースは、ファサード及び内部空間に程よいアクセントとなり楽しさを与えている。

内部は思っていたよりクローズした感じだったが、体育館の機能による要請から開口部のとり方が難しかったのではないだろうか。

せっかくのスラブ状の屋根であるが、内部から外部へと流れるように見えなかったのは残念に感じた。
屋根が外部にまで流れ出ていれば、より自由で楽しげな空間になったように思うのだが、いろいろと困難があったのであろう。(質問すればよかったなぁ。しまったなぁ。)

ちなみに、この施設の監理は第三者監理の方式がとられて非常に苦労されたようです。
第三者監理のような馬鹿げたことは即刻やめるべきだと思う。

屋上への動線と屋上テラスが非常に気持ちが良く、遊びが効いている感じがしたが、それ以外の部分ではなかなか遊びの部分がとれなかったのではと感じた。

体育館にもとめられる機能性とコストの問題をどう解決し、その中でどういったテーマを見つけられるか。なかなか難しい問題だなと思う。

機能というものに切り込んでいく必要を感じる。


△北側外観途中突き出ている部分は屋内のランニングコース


△西側エントランス上部庇


△南側外観途中突き出ている部分は屋内のランニングコース
こちらの面がPC造


△アリーナ天井


△ミーティングコーナーよりアリーナを見る


△ランニングコース


△ミーティングコーナーよりエントランス上部吹き抜けを見る
屋上へあがる外部階段が内部に現れていてきれいだった


△2階テラス
左の階段から屋上へ


△屋根開口部
空が切り取られる。


△屋上テラス
右のメタリックな煙突のようなものは設備の配管スペース。
この写真だとどちらに重力がかかってるか分からなくなりそう。


△2階への外部階段
2階にもサブエントランスがあり
競技が行われるときは1階が競技者
2階が観覧者のエントランスとなるそう。


△現場にあった屋根をはずした模型




W009 『八代広域消防本部庁舎』

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□所在地:八代市大村町字羽須和970
□設計:伊東豊雄
□用途:消防署
□竣工年:1995年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
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近くで見ると多少の汚れがあったりして、その建物の抽象性が薄れている感はあったものの、こちらも予想通りのといった印象でした。

伊東さんのような、建物に(狭義の)リアリティを求めすぎないような思想の場合、そういった印象を抱かせることが最も難しいのであろうが。





W008 『八代市立博物館 未来の森ミュージアム』

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□所在地:八代市西松江城町12-35
□設計:伊東豊雄
□用途:博物館
□竣工年:1991年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト

>>参考HP

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軽やかな屋根とメタリックな素材の扱い。

伊東さんの90年代初期の作品。

最初、写真で想像していたよりも街中にあったので、場所が間違ってないか心配した。

今回の旅行の目玉であったが、閉館間際に滑り込んだためあまりゆっくり見ることが出来なかった。
期待し、想像していただけに、特別な感動はなかったのだが、それはまぁ仕方のないことであろう。

やはり、良いものはよいなぁという感じ。

特別な建築の構成でびっくりさせらることもなかったが、さりげない建築のあり方、心地よい空間は、伊東さんならではである。

最近の恐ろしく自由になった伊東さんの建物も見てみたいなぁ。




W007 『不知火文化プラザ』

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□所在地:熊本県宇宇城市不知火町高良東割2352
□設計:北川原温+伊藤建築事務所
□用途:美術館+図書館
□竣工年:1999年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
>>参考HP

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正面のルーバースクリーンは不知火現象をモチーフにしているようだが、ゆらゆらとした感覚は得られず、はっきりとした物質感を感じてしまった。

僕の印象では写真の方が美しく映る建物である。

町のオープンな美術館・図書館としては成功している印象は受けた。

訪れたのが15時ごろだったので、もう少し薄暗くなってライトアップされれば、また印象が違ったかもしれないが。


△外部通路部分


△内部ホールのトップライト




W006 『杖立橋+Pホール』

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□所在地:熊本県阿蘇郡小国町
□設計:新井清一+シダ橋梁設計センター
□用途:遊歩橋+多目的ホール
□竣工年:1988年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
>>参考HP

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杖立の温泉街にある橋とホールの一体となった建築物である。

温泉街を歩いてみて、この町自体にとても興味をもった。

ヴェネチアとはまた違った感じだが、川と立体的な路地が楽しくてつい隅々まで歩いてみたくなる。

ヴェネチアより東洋的な雰囲気でパワーがみなぎっていている。
こなきじじーがその辺を歩いていてもおかしくないような感じ。

さて、この橋はオブジェ的な扱いでデザインされているが、これが特段浮くわけでもなく町の風景としてなじんでいる。
それは、この町のパワーがあってこそであろう。

決して、どこにあっても「あり」のデザインだとは思えないが、ここでは成功しているのではないだろうか。

温泉街としてももう一度訪れたい場所である。

もっと、はちゃめちゃな町にになることを期待します。


△町のパワーを感じる


△橋より川下方向を見る
町の立体的な空間が興味をそそる




W005 『ゆうステーション』

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□所在地:熊本県阿蘇郡小国町
□設計:葉 祥栄/葉デザイン事務所
□用途:交通センター
□竣工年:1987年
[gmaps:33.12296011823188/131.06470584869385/15/460/300](comment)[/gmaps]
道の駅内にあるバスセンター+特産品販売所。

これも、同じ設計者の『小国ドーム』同様木造トラスとガラスによる構成(竣工はゆうステーションが先)

ハーフミラーガラスであまり内部が見えなかったが、もう少しオープンに見せても美しかったのでは、という印象を受けた。

朝8時ごろに訪れたのだが、空いていなかったのは残念であった。

それにしても、このあたりの中高生は見知らぬ僕らにも挨拶をしてくれるのには感心する。
突然のあいさつに逆にこちらが戸惑ってしまうこともあったりした。




W004 『小国ドーム』

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□所在地:熊本県阿蘇郡小国町
□設計:葉 祥栄/葉デザイン事務所
□用途:体育館
□竣工年:1988年
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杉の角材5,602本を使用した木造立体トラス構法のドーム。
その木材1本1本に子供たちの名前が記されているようです。

正面部分はガラス面となっており、ドームの屋根の部分とガラス部分は構成上明確に分けられていた。

内部には入っていないが、サイドやトップライトからの光が木材の立体トラスの間をやわらかく染み渡るように広がっていて、綺麗だった。

ガラスの扱いや光の具合によって、屋根の物質としてのリアリティが和らいで軽やかというか幻想的な印象を受けた。

体育館としての規模による仰々しさを緩和し、周囲の多少湿っぽい森の空気感になじませることには成功しているのではないだろうか。




W003 『馬見原橋』

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□所在地:熊本県阿蘇郡蘇陽町
□設計:青木淳+中央技術コンサルタンツ
□用途:橋梁
□竣工年:1995年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト

>>参考HP

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フィーレンデール構造の橋梁で上部を車歩道、下部を歩道に利用している。

下部の通路に開いている穴の周囲に小さな魚がころがっていた。
誰かがここで釣りをしていたのだろう。
ここが、生活者に利用されている証拠である。

僕は水際で例えば座って休んだり、寝転んで水の音を聞きながら空を眺めたり、ただボーっと川を眺めたりといったことが、ごく普通にできればどんなにいいだろうと思っている。

しかし、僕の周りでは水際を歩いていて、そういう行動が不自然でない場所というのは生活の中でなかなか見つけることが出来ない。

もし、こんな橋が仕事場の近くにあったなら、夕方、頭をクールダウンするためにしょっちゅう訪れて、奥の方で寝っ転がっているかもしれない。

道路を掘り返して無駄な工事に税金を掛けるのなら、例えば水際にこういった橋とちょっとしたベンチ、それにそれを生活になじませる様々な仕掛けを考えることにお金を掛けてもらいたいところである。




W002 『都城市民会館』

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□所在地:宮崎県都城市
□設計:菊竹清訓建築設計事務所
□用途:市民会館
□竣工年:1966年

[gmaps:31.721021650841944/131.05908393859863/17/460/300]都城市民会館[/gmaps]

菊竹清訓のメタボリズムを体現するような作品。

これも、『今となってはどうかな』などと思っていたのだが、さすがに良かった。

早朝だったため内部は見れなかったが、その力強い外観には感銘を受けた。

宮崎駿のアニメに登場しそうな、生物とも要塞とも見える今にも動き出しそうな姿には愛着を覚える。

建物がキャラクターを持つと言うのは大切に思う。

その建物に感情移入できることで、自分の意識と建物の間に関係が生まれ、空間の感じ方に少なからぬ影響を与えると思うのである。

建物に生命を吹き込むと言えば大げさであるが、そんな大げさなことも大切ではないかと思い出しているこのごろである。

w02.jpg


追記(‘07.05.01)
再度訪れてみたけれどもやっぱり傑作。
ほぼ取り壊されることが決定しているようですが残念でなりません。2007.04.29の段階ではまだ外観は見れました。壊される前に是非一度訪れてみてください。(内部は休館になっています。)
新しく出来た施設はどこにでもあるような”いかにも施設”という建物。こうやって都市の中から記憶がなくなり、どことも区別のつかないフラットな都市になっていくのでしょう。
あー、やっぱり残念です。建築がいつも政治の道具ぐらいの扱いなのが悔しい・・・

追記(‘07.05.22)
まだ、存続の可能性は残っているようです!
ここに動向が載っていました。

追記(‘07.10.30)
解体予算可決から一転、大学施設として活用されていくことになりそうです!
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W001 『ふれあいプラザ なのはな館』

※この記事は設計者より作品の無断使用との指摘があり削除依頼がありましたので削除致しました。




『原っぱ/洞窟/ランドスケープ ~建築的自由について』

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建築によって自由を得たいというのが僕の基本的な考えなのですが、最近、青木淳の本を読み、この点について共感する部分が多かったので、ここで一度考えをまとめてみようと思う。

青木淳のいう「原っぱ」というキーワードは、僕の中では「洞窟」という言葉であった。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。
そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。
そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。
それは『棲み家』という言葉で考えたことだ。

青木淳が言うように建築が自由であることは不可能なことかもしれない。しかし、この洞窟の例には洞窟という環境がもたらす拘束と、そこで行うことがあらかじめ定められていないという自由がある。

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。

洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。
何もなければいいというものでもないのである。

青木は『決定ルール』を設定することで自由になろうとしているが、これは『地形』のヴァリエーションを生み出す環境のようなものだと思う。

『洞窟』はある自然環境の必然の中で生まれたものであろう。その環境が変われば別のヴァリエーションの地形が生まれたはずである。

その『決定ルール=自然環境』によって地形がかわり、面白い『萌え地形』を生み出す『決定ルール』を発見することこそが重要となる。

ただの平坦な(それこそ気持ちまでフラットになるような)町ではなく、まちを歩いていて、そこかしこにさまざまな『地形』が存在していると想像するだけでも楽しいではないか。
もちろん、その『地形』とは具体的な立体的構成とかいったものでなく、もっと概念的なもの、さまざまな『可能性』のようなものである。

『原っぱと遊園地』を読んで考えたのはこういうことだ。
(新しいことは何も付け加えていないのだが)

ここらへんに、建築的自由へ近づくきっかけがあるように思う。
また、その『地形』には『意味』や意味の持つわずらわしさは存在しない。

そして、またもや『強度』というのがキーになる気がする。




言葉



かなり大雑把に言うと言葉には2種類あるように思う。

A.思考のための言葉
B.コミュニケーションのための言葉

この2つである。

A.思考のための言葉

「建築家の話す言葉は分かりにくい」と言われることがあるが、言葉が使われる場が思考の場である限り、分かりやすい必要なんて全くないと僕は思う。
おそらく、言葉を発しているほうでさえ、思考の流れのなかで何とか言葉を紡ぎ出しているのだろうから、その流れを断ち切ってまで分かりやすくする必要はない。
それをどう捉えるかは聞き手の自由である。

B.コミュニケーションのための言葉

目的が相手にこちらの考えを伝えることであれば、それは分かりやすい必要がある。

しかし、Aも自分とのコミュニケーションでもあるといえるし、Bも曖昧なものを相手に投げかけることもあろうから、やっぱりこの2つには分けられないようにも思う。ホントは何が言いたかったかというと、

「建築家の話す言葉は分かりにくい」というのは最もな話だがそれも必要なことで、営業的なあまりにもキャッチーな言葉ばかりが飛び交うのも、なんか違うのではないか。と

もっと言葉の持つ流動性や曖昧さ、奥行きといったものを大切にしたいなぁ。と

そんなことです。




コンセプト

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「コンセプト」

これも「デザイン」同様、芸術家気取りと思われやすい。

conceptを辞書で引くと「概念・観念・着想・考え」とあるが、この場合、「構想」を加えたほうが良いと思う。

「コンセプト」は意志の共有の為には欠かせない。
また、自ら意思決定を行う為の基準となる。
いわば補助線のようなものである。
デザインのうまくいっているものは、この補助線がうまく機能しているのである。
それは、ぱっと目に見えたり、うまく隠されていたりするが。

人はおそらくその補助線の存在を「無意識に」察知する能力を持っている。
頭で理解するのではなく、感じるのである。

そんな補助線はデザインに全く興味のない人にはどうでもいいかと言うと、僕はそうは思わない。

建築は環境のひとつである。
誰であっても、いやでも日常的に関わらざるを得ない。
知らないうちに感じとり、無意識に大きな影響を受けているに違いない。

おそらく、補助線による「意味の縮減」は美であり、快楽であろう。
興味があろうがなかろうが心地よいものは心地よいのだ。

だから、僕たちは「芸術家きどり」とののしられようが、補助線の存在とデザインに気をかけなければならないのである。