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B026 『はじめての禅』

竹村 牧男
講談社(1988/06)

確か大学生のころだったと思う。
(狭い意味で)宗教的な人間とはとても思えない父の書斎の本棚を物色しているときにこの本を見つけた。
興味本位で拝借したまま、いまだに返さずに、時々読み返したりなんかしている。
出版当時、著者は筑波大の大乗仏教思想の助教授である。
宗教家と学者の中間のような、程よく情緒的かつ学問的な心地よい文体で読みやすく分かりやすい。

僕は組織や宗教は、深入りすると自己の保守・維持自体が目的となってしまうことが多いような気がして、これらとは少し距離を保っておきたいと思っている。
その中で、「禅」は比較的自由な感じがしてそれほど抵抗感を感じない。
それどころか、魅力的でさえあり時々自分を見つめなおしたくなったときなんかにこの本に戻ってきたりするのである。

さて、なにが魅力的かというとなんとなくぐれた感じかっこいいのだ。
宗教臭くなくどちらかというと『思想』という感じ。
(すこし偏見を含む言い方ですが「宗教とは」という問はおいておきます。)

この本の章立ても実存、言語、時間、身心、行為、協働、大乗と惹かれるものであり、内容も哲学書よりも感覚的に捉えやすい。

(以下、僕の勝手な解釈)

この本に書かれている禅の思想は、「本来の面目(真実の自己)とは何か」との問いに対して道元の読んだ

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり

という詩に集約される。

主-客の分離を超え、言葉や時間によってとらわれることもない。
あらゆるものを否定し尽くし、それでもなお「個」があるところ、否定の先に大きな地平が拡がっているところに単なるニヒリズムにはない魅力があるのだ。

今思ったのだが、その地平とはもしかしたら僕がポストモダンの先に広がっていることを期待している何か、このブログでも今まで考えてきた何かと重なるのではないか。

禅の思想のような曖昧に見えるもの、感覚的なものは現代社会から急速に奪われつつあるもののように思う。何か一方的な見方に世界が覆われていくような怖さを感じる。

しかし、現代社会の行き詰まりを易々と突き抜けてしまいそうな、そんな期待を禅の思想は抱かせる。

それにしても、最初のころ(学生のころ)に読んだ本の影響力とはすごいものがある。
なんか、今まで考えてきたことは、最初のころの直感の枠の中を全く出ていないんじゃないような気がしてきた。
手のひらの上を飛び廻るだけの孫悟空の気分。

(引用や感想等まとまりなし)

我々が有ると思うところの自己は、考えられた自己である。見られた自己、知られた自己であって、対象の側に位置する自己である。しかし、自己は元来、主体的な存在であるべきである。その主体そのものは、知られ、考えられた側にはないであろう。

私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。

自由であるには考えることよりそのままを感じることが重要ではないだろうか。

ここで道元は、古仏が「山是山」と言ったのは「山是山」といったのではない、「山是山」と言ったのだ、と示している。結局、山は山ではない、山である、といっていることにもなろうが、否定と肯定が交錯してなお詩的ですらある。

こんな一見非論理的なものいいに奥行きが与えられていて、かつ真実を掴んでいるというあたりが魅力的だ。

その場合、桜に対し桜の語を否定することは、実はその前提の主-客二元の構図をも否定することにつらなり、無意識のうちに培われた自我意識を否定していくことをも含んでいるであろう。・・・つまり、桜は桜でない、と否定するところでは、自己も自己でなくなり、逆にそこに真実の自己が見出されうるのである。

我々は、既成の言語体系のままに事物が有ると固執することが、いかに倒立した見方であるかを深く反省・了解しなければならない。そして存在と自己の真実を見出すためには、言語を否定しつくす地平に一たびは立たなければならないのである。

この絶対矛盾に直面させるやり方は、言語-分別体系の粉砕をねらう禅の常套手段でもある。そのことがついには、真に「道う」体験に導くであろう。

『日日是好日』
人生は、厳しいものである。・・・そのときは、苦しみのたうちまわるしかない。その今を生きるしかない。ただひたすらに今に一如していくところにしか、真実の自己はない。そこを好日というのである。

仏教に於ては、すべての人間の根本は迷にあると考へられて居ると思ふ。迷は罪悪の根源である。而して迷と云ふことは、我々が対象化せられた自己を自己と考へるから起るのである。迷の根源は、自己の対象論理的見方に由るのである。『場所的論理と宗教的世界観』西田幾太郎

自己を意識することで怒りや迷いが生まれることは多い。
もう一つ離れてみることでそういった怒りなどを感じずにすむならばそれはすごくハッピーでは。

禅の絶対なるものへの感覚は、極めて独特である。『碧巌禄』第四十五則、「万法帰一」は、そのことを鮮やかに伝えている。
僧、趙州に問う、「万法、一に帰す。一、何の処にか帰する」。
州云く、「我れ青洲に在って、一領の布衫を作る、重きこと七斤」。

絶対とは何かを問われて「布巾を作ったが、七斤の重さがあった」と答える。全くもってファンキーだ。ステキ。

禅は決して一の世界と同一化することを求めているのではない。層氷裏の透明な無と化することを目ざしているのではない。大死一番・絶後蘇息という。絶対の否定から、この現実世界へとよみがえったところに、真実の自己を見出すことを求めているのである。

ゆえに我々に対して現れる仏は、すべて虚妄な幻影にすぎない。対照的に自己を捉えることが迷いの根源であったように、対照的に仏を捉えることはまた、正に迷いの集積である。臨済は「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」といっている。対象の位置におかれた仏は否定されるべきである。その否定する働きの当体にこそ、真の仏が見出されるべきである。・・・このとき、不可得の主体に成りつくし、真実の自己になりきるがゆえに、真に自己に由る、すなわち真に自由となるであろう。

結果、自由を得る。『徹底した否定のあとのつきぬけ・自由』。これは今までさんざん探してきた筋書きである。

なんとなく主客の区別や言葉の縛りを超えた自己をイメージするだけでとても穏やかになれる。それが悟りだとは思わないが、心地よいのだ。

関西人の気質やお笑いと禅をつなげたいなとも思っていましたが、またの機会があれば。
(僕は関西人的気質が世界的に注目され必要となる。と以前から考えている。
近頃はあまりにもフラットな世界が関西人的気質を奪っていかないかと危惧を抱き始めたが)




B025 『建築意匠講義』

香山 寿夫
東京大学出版会(1996/11)

僕は「空間」についての捉え方の多くをこの本からスタートしたように思う。
建築を学び始めの人にはお勧めで、この本のおかげで、最初は掴み所がなく曖昧過ぎた建築・空間という概念を、グッと身近に引き寄せることが出来た。

その時にまとめたメモからいくつか抜き出してみる。

建築とは、空間を秩序づけることであり、人間は空間によって秩序付けられる

私という不確かな存在を定着させるためには、まず、中心が指示され確定されなければならない。同時に輪郭を限定することが必要であるが、囲いは内と外を切断するだけでなくつなぐものでなければならない。

自己のアイデンティティは自分の中心、すなわち固定点を持ち、自分の領域すなわち囲いをもたなければ決して確立できない。

建築家は空間がどちらに向かってどのように広がりたいかを正しく把握することが必要である。

まず、個々の部屋がどうなりたがっているかを考えそれを一つにするために呼び集める。全体を統一するために部分を押し込めてはならない。

中心が確定できない場合でも、中心が多数ある部屋の共同体として考え抜かねばならない。

建築家は光を用いて形をつくる。

・照らす光光と影の対比
・満たす光空間を光のマッスとする
・「照らす光」と「満たす光」は連続的かつ共存しうるものである。

空間における光の意味、あり方を考えていくと、それは必然的に建築の諸要素、すなわち壁、屋根、天井、床の意味を捉え直すことになります。
それが伝統を捉え直すということである。
ここに建築家の最も大きな喜びの一つがある。

入口は常に特別な場所であり、喜びや悲しみ、期待や不安といった様々な意味が集中している。

都市は記憶の積層であり、その根底には大地がある。建築において持続性、連続性が重要であるのはこの由である。

建築は住む人の感情と精神、さらには人間の共同の価値を表現するものである。そして、それは私たちの存在のかけがえのない表象である。

「囲いモテイフ」「支えモティフ」は互いに対立し支配権を得ようと闘っている。それぞれの欲求を汲み取りこの対立を統合させなければならない。

人が生きるということは存在に対する信頼の上で行動しているということであり、私たちはそれを信じつくっていく中でしか、秩序を捉えられない。「行動的懐疑」こそが建築の様式の絶えざる交替を生んできた力である。

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

自己と空間を重ね合わせることでずっとイメージがしやすくなる。

ただし、この本でもカーンの本のときのような重さを感じてしまった。

「○○しなければなりません」「○○必要があります」というような断定的な書き方になんとなく違和感を覚えてしまうのだ。

例えば

・・・これらを、中心がないのだ、中心を考えることが間違っているのだ、と考えないようにしてください。そう安直に考えると、建築を空間としてとらえることができなくなり、単なる部屋のつながりをダイアグラムのようにつくることになります。あくまで、中心が多数あり、移動するような部屋の共同体として考え抜かねばなりません。

と言われると、最近はむしろ、中心や空間をわざと感じさせない、それこそダイアグラムのような建物が脚光をあび、なんとなくそれに共感する部分を持ってしまう自分と折り合いがつかなくなってしまうのだ。

なぜ、断定的な物言いが出来るのか。
それがうらやましくもあり不思議なのである。

あえて今、それに折り合いをつける仮説をつくるとすれば、
「中心を感じさせず、ダイヤグラムそのままに見える建築も、実際は作者の力量によってそうは感じさせないようにさりげなく空間を生み出しているのではないか。そうとは知らず安易に真似をするのは危険だ」
ということになる。それが正確かどうかは分からないが、この先に共通点が見つかりそうな気もしないでもない。

またしても、この本を最初に読んで数年後、妹島和世の作品集を見て衝撃を受けてから、何度となく繰り返してきた様々な問いが浮かんできてしまった。

それは、「空間とは」「普遍とは」「宗教とは」「人間とは」といった容易に答えのない問いに結びついてしまう。

結局は先に書いた

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

ということなのかもしれない。

そこで「道徳的」「確信」「信念」と言った言葉に対してまでも注意深くなるとどうも身動きがとれなくなる。

一度、もっと身近な視点に戻してみないと。

うーむ。また、混乱した文章になったけれども、混乱は僕だけのものだろうか。
みんな何らかの確信を持っているのだろうか。
気になる。




B024 『モダニズム建築の軌跡―60年代のアヴァンギャルド』

モダニズム建築の軌跡―60年代のアヴァンギャルド 内井 昭蔵 (2000/07)
INAX出版


60年代に活躍した日本の建築家を論文及び内井昭蔵との対談形式で紹介。
対談の最後は毎回、後進への一言で締められ示唆に富む。

登場する建築家は

丹下健三 Kenzo Tange
吉村順三 Junzo Yoshimura
芦原義信 Yoshinobu Ashihara
池田武邦 Takekuni Ikeda
大高正人 Masato Otaka
清家清 Kiyoshi Seike
大谷幸夫 Sachio Otani
高橋?一 Teiichi Takahashi
菊竹清訓 Kiyonori Kikutake
内田祥哉 Yoshitika Utida
鬼頭梓 Azusa Kito
槇文彦 Humihiko Maki
林昌二 Shoji Hayashi
黒川記章 Kisho Kurokawa
磯崎新 Arata Isozaki

長谷川堯の序説、この時代の舞台を「演出家=前川國男」「劇作家=浜口隆一」「俳優=丹下健三」とみる部分も面白かった。
建築評論家が脚本を描けた時代だ。

日本におけるこの時代を把握するにはとても良い本だと思う。建築を学び始めの人にもお勧め。

って、このブログは本の紹介が目的ではない。
僕自身の思考の記録である。
だから、うまくまとまらないと思うが感じたことを書いておこう。

この時代の作品や言説に触れてみると、ものすごいパワーを感じる。
今の建築は設計者の考え、『頭の中』が見えるようなものが多いように感じるが、この時代のものには当然考えも見えるが、設計者の『人間そのもの』が見えるものが多いように感じる。
人と建築が分離していない。
(黒川記章や磯崎新の世代あたりから『頭』の方になってきた気がするが。)

その違いはどこから来るのか。
今の建築はこの時代から前に進んでいるのだろうか。
今、どこへ向かうべきなのか。

60年代は、モダニズム、日本、機能、モニュメンタリティ、大衆性・・といった課題やキーワードがはっきりと見えやすかった時代ということもあるだろう。
前の世代に物申すという姿勢もはっきりしているし、前に進むという意志と自信とに溢れている。

しかし、今の時代だって課題は山積み、物申すことだってたくさんあるはずで、みなそれに向かって奮闘している。

なのに、この時代の建築に学生時代に感じたような「希望」を感じるのはなぜなのだ。

建築、社会がまだ純粋だったからか。
そもそも、何を乗り越えようとしているのだろうか。
モダン、ポストモダン。
モダン、ポストモダン。
モダンは幻想か。
なにが、どこからポストなのか。

この本自体の射程が「モダニズム」や「年代」といった大きすぎるものというのもあり、踏み込むと容易に答えの出せない抽象的な問いにどうしても迷い込んでしまう。

おそらく僕にとっては必要なのは『希望』のイメージである。

『問題意識』と『希望』どちらも大切だと思うが、今焦点が『問題意識』に向きすぎている。

しかし、『希望』を描くことこそデザインではないだろうか。

描きにくいからこそ取り組むべきものなのではないか。
それこそがデザイナーの仕事ではないか。

頭ではなく人間の中から湧き出るようなもの。
それを描きたい。

(実は学生のころからずっと望んでいることで、ずっと果たしえてない。
なかなか難しい。
それは、やっぱり人間そのものでぶつからなければ描けないのだ。)

このころの作品や言説にもっと触れてみたくなった。




B023 『ルイス・カーンとはだれか』

ルイス・カーンとはだれか 香山 寿夫 (2003/10)
王国社


カーンについて考えようと思って図書館で借りた本。
カーンの本というよりは、カーンに思いを寄せる香山壽夫の本である。

著者の香山であるが、僕が大学生のころ彼の書いた『建築意匠講義』を借りてきて、大学のコピー機で全頁コピーをしたのを懐かしく思い出した。

大学の授業に不満をもっていたこのころ、僕がはじめて空間の捉え方などを学んだのが『建築意匠講義』であった。
そして、その中で香山によって語られていたカーンの言葉が僕がカーンの思想に触れたほとんど唯一の経験である。

さて、この本であるが、思想の紹介という点では『建築意匠講義』とダブる点も多い。
が、香山個人としてのカーンに対する思いをより強く伝えようという気持ちが伝わる内容だ。

この、本を透してのカーンの印象は、宗教的な人、言葉と行動の人、という感じだ。

僕の受けた印象では、カーンの言葉は若干大袈裟で押し付けがましく感じる。
なんとなく重いのだ。
それを重く感じるのが良いか悪いかは分からない。
しかし、思索を重ねた末のその言葉を重く感じる自分には少なからずショックを受けた。

言葉については別の項で少し考えたが、おそらくカーンの言葉は思考のための言葉で、カーン自身のためのものなのだ。(コルビュジェの言葉とは対照的に)

そして、その彼自身の思索の跡を追うのが僕にはおそらく億劫なのだ。
僕はカーンではない。

(そういう感覚は例えばアトリエ・ワンなどの若手の言葉の使い方にも感じる。彼らの発見する『言葉』はすごく個人的な印象がある。)

香山はカーンを『共通感覚』のうちにある、という。僕の印象とは正反対だ。
そのような『共通感覚』は今では幻想だと思われている。
それでもなお、そのようなものを信じて疑わず、真っ直ぐに進む姿が僕には宗教的に映ったのだが、僕にはそれがうらやましい。
僕にはいまだ見えていないし、「それが建築に対する誠実な姿勢だ」と言われればなんら返す言葉がないからだ。

「オーダー」「フォーム」「ルーム」「光」「沈黙」といったカーンの言葉は魅力的だ。
しかし、僕にはやはりそれらの言葉は基本的にカーン自身のものだと思う。

僕も、カーンのような言葉が紡げるようになりたい。

追記

「億劫」と言うのは言い過ぎた。
疲れていたみたいだ。

カーンの言葉は示唆に富んでいるし、そうやって思索することこそ必要だ。

ただ、カーンの思索にはなんとなく物悲しさを感じる。それは、映画の試写会の映像のみの印象を引きずっているからかもしれない。
でも、おそらくその印象は誤解なのだ。
カーンの思索は最後に「喜び(joy)」へと連なる。

この時代にカーンのように孤独な思索を重ね、作品を残してきたのはやはり偉大であるし、カーンの思索に跡に身を任せようとすることはやはり快楽でもあると思う。