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メモ・つぶやき

さっき、「農業の時間」とあと何だっけなぁ、とおもって昔のメモを拡げていたら、懐かしいメモがたくさん出てきた。

大学を出て、東京に行ってから勤めるまでの1年間で、かなりの本を読んだし、自分の言葉で必死で考えた。
そのときのメモだ。

今の僕の考えはほとんどその1年で考えたことがベースになっているし、あまり進歩していないところを見るとそのときのストックと惰性で今まで来てしまったと言う感じだ。

今、そのときのメモを読み直してみると、今よりもずっと自分に近いところで考えていた感じが伝わってくる。

いろいろと分からなかったり、葛藤があったり真剣に悩んでいたのだが、それは、きっと若かったのだろう(今でも若すぎるぐらい若いが)。

というより、僕の思考が老化して、考えが一人歩きを始めかけてしまっているのだろう。

気がつけば、大切な問いを失いかけてはしないだろうか。

あまり、気負わず、間違いを恐れず、ふと考えたことを出来るだけすばやく書いていこう。

そのために、カテゴリーをひとつ増やしてみました。

(mixiの方で蟻鱒鳶ルのオカガロウさんの日記を読んでちょっとまずいなと思ってしまった)

追記:今は「メモ・つぶやき」のカテゴリーは「考える」と一つにまとめて「考える・つぶやき」にしています。




B019 『建築的思考のゆくえ』

内藤 廣
王国社(2004/06)

『建築的思考のゆくえ』というタイトルに気負って読み始めたのだが、思っていたよりずっと読みやすく、すっ、っと入ってくる文章だった。

分かりやすく書いてあるのは、著者が最近大学の土木分野で教え始めているので、建築以外の分野や一般の読者を視野に入れているのと、等身大で思考をする著者の性格からであろう。

本のタイトルも建築的思考がほかの分野へと拡がっていった先の事を意味しているように思う。

まずは、気になった部分を引用してみる。

世の中には「伝わりやすいもの」と「伝わりにくいもの」がある。(中略)日本文化の、とりわけ日本建築の本質は、具合の悪いことにこの「伝わりにくい』ものの中にある。(p.61)

昨日より今日は進歩し、昨日より今日が経済的にも豊かになる、という幻想。際限なく無意識かされるこのプロセスを意識化すること、形にすること、その上で乗り越えること、がデザインに課せられた役割であることを再認識すべきだ。(p.77)

わたしなりの感想では、世の中で語られている職能も資格も教育も、本来的な意味での建築や文化とはなんの関係もないのではないかと思います。(中略)話は逆なのです。今ある現実をどのようにより良いものにできるか、どのようにすれば人間が尊厳をもって生きられる環境を創りだせるか、が唯一無二の問題なのです。(p.88)

建築は孤独だ。建築はその内部環境の性能を追うあまり、外界に対してその外皮を厚くし、何重にも囲いを巡らせてその殻を閉じてきた。(中略)建築の孤独は深まるばかりだ。建築が多くの人の希望となり得ないのは、この「閉じられた箱」を招来している仕組みにある。(p.123,125)

時間を呼び寄せるためには、形態的な斬新さや空間的な面白さを排除することから始めねばならないと考えている。空間的な面白さは饒舌で、時間の微かな囁きをかき消してしまうからだ。(中略)われわれにせいぜいできることは、現実に忠実であること、時間の微かな囁きが、騒がしい意匠や設計者の浅はかな思い入れでかき消されないようにすることだけだ。(p.166)

最後の引用に内藤の建築の本質が出ている。

内藤廣といえば大屋根の一見して単純でざっくりとした建築をイメージするが、内部には独特の時間が流れているような気がする。
実際にその空間を体験していないのが非常に残念なのだが、形態の面白さに頼らず空気感イッポンで勝負、という感じだ。

どの本かは忘れてしまったが、ある建築の本に人間の感じる時間の概念が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」(だったと思う・・・)と変わってきたというようなことが書いてあった。
本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだろう。

そして、そういう時間の流れは内藤の言う「人間が尊厳をもって生きられる環境」に深く関わるだろうし、建築にとっての重要な要素であるだろう。

最近僕は、時間を呼び込むために空間的に単純であることが必要条件ではない、と感じ始めている。
一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。
たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。
それはまだ、僕の中では可能性でしかないのだが。




MEMO『言葉とディテール』

『言葉とディテール』
世界の細部(ディテール)は言葉によって切り分けられていく、と仮定しよう。すると、われわれが、目の前を通り過ぎる毛の生えた四つ足の動物を「猫」ではなく「犬」であると識別できるのは、「猫」と「犬」という言葉の使い分けを習得したことによる、と説明できる。
建築についても同様だ。建築を学び始めたばかりの学生の目では、壁と天井の接する部分には何も見えない。しかし、たとえば「廻り縁」という言葉を手にした途端、そこに何本もの線が見えてきて、逆にそれらの線がないとどう見えるのか、それらの線を消すにはどうすればなどと考え始める。
つまり、言葉が知覚に先行し、建築のディテールが言葉によって見出される。言い換えれば、言葉による思考の産物として建築の姿が決まっていくと言うわけだ。(花田佳明『ディテール』2006-JANUARY NO.167より)




MEMO「素材」

「素材」のことを考えるとき、同じように自分にとってルールブックの建築がある。・・・ブリンクマンとファン・デル・フルクトが設計したファン・ネレの工場である。これは私が素材を考えるときの教科書だ。その建築が教えてくれるのは、建築を構成するモノたちが「即物的=ザッハリッヒ」であることの意味であり、近代建築にとっての素材というものの持つ意味だ。(岸和郎)




MEMO「廻遊」

「廻遊式住居」とは、このような日本の庭が築いてきた精神性と構成法を、現代の住居をつくるうえでの手法として考えたものである。決して広い住宅に限らず、小さな家であればあるほど、廻遊できるということは、空間に広がりと奥行きを持たせる。分岐点を設け、素材を転換し、あるいは立ち止まるべくシンボルを仕組む。例えば、極小住宅においてあえて大きなテーブルを置くことは、その周りを必然的に回るという行為が生まれ、生活にエンドレスな回路を組み込むことになる。
・・・住宅の平面においてこれまで無駄だと思われ切り捨てられてきた「間」の空間を意識的に操作すること、そしてその「間」を領域的にとらえ、住居を構成するそれぞれの室と絡めて構成すること。「廻遊式住居」というテーマは、近代の住宅がある意味で切り捨てざるを得なかった生活文化の見直しや、現代の家族関係の回復も含めたさまざまな要素を内包している。(竹原義二)




MEMO「壁」

「沈黙している壁には、精神性を感じる」と修行僧は言う。壁に向かって座禅をくむ。つまり、壁に心をこめることにより、建築がつつみこむ空間の中に、静けさやモノの深さを感じるのであろう。
・・・立ち止まる壁力強い壁視線をさえぎる壁優しい壁誘導する壁緊張する壁囲い取る壁艶をもつ壁つなぐ壁光を受ける壁自立する壁光を反射する壁連続する壁研ぎ澄まされた壁
壁にはそれぞれの役割がある。・・・
私は都市の中に建築を据えるとき、自然と向かい合う自立した壁の在り方を考えている。壁によって分割された内と外の空間の在り様に興味を見いだしている。
・・・木と土でつくられた日本の優しい壁と、石でつくられた西欧の力強い石積みの壁・・・これらの壁がバランスよく表現されているような、両者を兼ね備えた壁をつくりたいと思っている。・・・
壁が強い意志を表すとき、これらの壁は厚く中身のつまった重たい壁になる。壁の存在は、密度の濃い壁、その対極にある存在を消す薄い壁、そして、表面のテクスチュアに在るようだ。
・・・シークエンスの展開は壁の配列にリズム感を与え、面として存在する壁の立ち方や壁の中にくり抜かれた開口部、壁と壁の隙間から見える風景を感得する。
・・・うつろいゆく光は表現される壁のテクスチュアの度合いによって空間に色合いをつける。また、壁と壁のズレや壁が向かい合うことによって優しい壁、強い壁、存在する壁になるように意図的に表現している。(竹原義二)




B018 『河辺家のホスピス絵日記―愛する命を送るとき 』

河辺家のホスピス絵日記―愛する命を送るとき 河辺 貴子、山崎 章郎 他 (2000/01)
東京書籍


ホスピスのラフな計画をする機会があった。(本当にラフな)
じっくりと勉強する時間がなかったのだが、こういう施設の線を引くのに、少しは勉強しなければあまりにも心苦しい。
かといって、『建築設計資料』などの資料集は要点的で『計画』的な視点が強すぎるので、そこにいる人間を見失いかねない。
最初からこの手の本に頼るのは危険である。
そこで、図書館へ行って利用者の視点から書かれたものを探して借りたうちの一冊がこの本。

妻である著者が夫を看取った記録である。
実は僕はついこの間(8/21)入籍したのだが、この本を読んでいると著者の夫婦と自分たちを重ね合わせてしまい、涙なくしては読めなかった。
(僕たちが病を抱えているわけではないのだが、僕の妻と著者のキャラがなんとなくかぶって見えた)

著者の夫婦の愛情や絆の深さ、そして、どんなときにもユーモアを忘れない強さ、というよりは優しさに強く感動してしまった。

きっとユーモアは本当の優しさがないと出せない。

きっと本当の優しさは悲しみを知らないと分からない。

本当に悲しく、優しくなる場だからこそユーモアが
生きるのかもしれない。

僕の妻もいざとなったら頼りになる。
彼女の優しさとユーモアに惚れたのだ。
時々ちょっとこわいけど。

今日、『建築設計資料』を買ってきてみていると、この本の舞台となったホスピスが載っていて、図面や写真を見ながら「ここであの人が・・・」と想像して泣きそうになってしまった。
僕はわりかし単純である。

ともあれ、一人の人間の尊厳に関わる重要な場所である。
僕はあんまり人工的な死に方はしたくないと思っているが、まだそんなにじっくり考えたことはない。
実際に計画するようなことになれば、できるだけ正面から向き合って考えたい。




MEMO「ユニバーサル・スペース」

ユニバーサルスペースはなぜかくも徹底的に勝利したか。それが欲望を肯定しながら、しかも欲望に屈服しない建築のあり方を提唱したからである。ミースがユニバーサル・スペースを通じて批判しようとしていたのは、十九世紀のブルジョワジーの室内である。そこでは建築と物(商品)とがべったりと癒着し、建築が欲望に対して惨めなほどに屈服していた。(隈研吾)




MEMO「デ・ステイル」

そのモダニズムのジレンマ(ムーブマンを崩していくと抽象性が消滅する)から、デ・ステイルはなぜか、見事に抜け出したのである。一言で言えば、デ・ステイルはすきまを作った。幾何学的形態(エレメント)と形態の間にすきまを作る。すると、そのすきまの部分に運動(ムーブマン)が発生する。・・・オブジェクトには手をふれず、そのすきまに着目したところにデ・ステイルの決定的新しさがあった。(隈研吾)

建築の形のことを考えるとき、それも「形態」のルールについて考えるとき、必ず思い出す建築がひとつある。それはオランダのデ・ステイル、リートフェルトのシュレーダー邸である。建築の形についてはこの建築が私の教科書だ。20世紀の建築、その形態を支配する一番重要な理念が「構成」と言う概念だとしたら、この建築がその基本的なルール、「面」と「線」でヴォリュームを創るという基本ルールをあらためて私に思い出させてくれる。(岸和郎)




MEMO「建築(家)」「デザイン」

私が今建築をつくることの最大の意味は「精神の開放」です。平たく言えば、人びとが真にリラックスして自由に楽しめる建築をつくることです。(伊東豊雄)

少なくとも、僕のイメージする建築家にとって最小限度に必要なのは彼の内部にだけ胚胎する観念である。論理やデザインや現実や非現実の諸現象のすべてに有機的に対応していても遂にそのすべてと無縁な観念そのものである。この概念の実在は、それが伝達できたときにはじめて証明できる。(磯崎新)

いっそのこと、たった一個の石ころをこの現実の路上に置いてみること。どう置いたら、何が起るのかをじっくりながめてみること。そのような行為を建築デザインと呼びたい衝動にかられている。(隈研吾)

「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」(ノルベルト・ボルツ)

(都市住宅における)建築家の役割は、プライバシーに対する意識の変化を考慮し、単に私的なものを隠蔽するのではなく、住宅に新しい外と内との関係性を成立させるための仕掛けを施すことによって、現代の都市に必要な機能を加えてやることであると思っている(竹原義二)




メモ書き

一度、すべてを取り払う。そして、そこに意志を刻み込む。

視線の動き>断片によるモンタージュアフォーダンス連続する空間の中に空間の流れを図示する地図

あるべきものがない「虚」<→幾何学身体的感覚を研ぎ澄ます。 中庭スキマ大地を堰き止めつつ流れさせる。 超越性-中枢大衆性-公共性領域性-存在論流動性と領域性実存の形式 身体性拡張同調領域擬人化キャラクター テクスチャー・カオス・フラクタル・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA 収縮と発散・フュージョン・突き抜け・合流




なぜ考える(学ぶ)のだろう

なぜ、貴重な時間を割いて本を読んだり、考えたりしているのだろう。

ときおり、そんな疑問というか不安に思うときがある。

きっと、こんなことをしなくても楽しく過ごせるし、設計だって形だけならやっていけるだろう。

しかし、時間を使い、少なからぬ犠牲(とは思っていないけれども)を払って考え学ぶ。

なぜだろう。

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ひとつはこういうことだろう。

どんな職業や行動にも『良心』ってものがあると思う。

建築家には建築家の考えなければならないことがあり、医者には医者の、農家には農家の考えなければならないことがある。

親になれば親として、選挙に行けば投票者として、考えなければならない事がある。

今のような情報過多な時代では、何が正解かなんてことはなかなか言えないだろうが、とにかくそのときの自分の考えるべきことを考えるって言うのが『良心』ってものだろう。

それは、なかなかに難しいことで、自分のごく身近な限られたことに対して考えるだけでも大変であるし、きっちり向き合わないと簡単に安易な考えに絡めとられてしまう。

しかし、あらゆる職業の人が自分の仕事に対してだけでも『良心』を持って行動すればどんなに世の中は住みよくなるだろうか。

とは言っても、僕に出来ることは、建築に関わることを考え学ぶということしかない。

それは、僕が建築に関わる以上最低限の責任であるが、同時に最大のことでもあると思う。

僕は、見せ掛けの慈善事業をやっている人を見れば、その前に自分の仕事で責任を果たせといいたくなるのだ。

その前にやれることがあるだろう。と

とにかく、僕は単にそういう『良心』を持っていたいという欲望があるのだ。

だから考えたいと思うのだろう。
(それは欲望であって、僕がいい人かどうかとは関係ない)

**********************************

もうひとつは僕自身が自由になりたいからだろう。

決まった見方や、概念に「とらわれ」ることは出来るだけ避けたいのだ。

というより、そういう概念のようなものを出来るだけ脱ぎ捨てていきたい。

そのためには考えることや、人の考えに触れることは有効だろう。

そうしながら、自分の周りにこびりついているものを少しづつはがして生きたいのだ。

**********************************

そして、もうひとつは僕が建築に関わっているからだと思う。

もし、他の職業だったらこんなには考えたりしなかったかもしれない。

建築を考えるとき、ものの見方というものは、単純に空間の質に関わる。

それを、現実の建物に出来る実力があるかどうかは別の問題だけれども、僕の世界の捉え方=僕の考える空間の質なのだ。

だから、僕が考え、ものの捉え方が変わることでどういう風に建築が変わるかに興味があるのだ。

だから、まだ見ぬ自分と空間を見たくて学ぶのだ。

まぁ、そこまで行かなくとも他の人の言うことや、つくるものの感じ方が変わるだけでも十分面白い。

**********************************

とにかく、そんなに無駄なことをしているわけではないようだ。

無駄は大歓迎なのだが。




映画『MY ARCHITECT』

mov1.jpg

>>公式HP
>>参考HP
監督のナサニエル・カーンは近代建築の巨匠の一人、ルイス・カーンとカーンの愛人との息子である。

ナサニエルが父と関係のある人々を訪ねてまわるというドキュメントである。

しばらく前に鹿児島の建築家協会の主催でこれを見たのだが、字幕等の入る前のオリジナルのものだったので、言葉やストーリーはあまり分からなかった。(プロジェクターの不具合で音もあまり聴こえなかった)

しかし、カーンの建築の映像はどれも美しく、その土地の人々の誇りであろうと想像させるものであった。

ところどころに挿入されているカーンの動いている映像や過去の写真は、態度は堂々としているがなんとなく物悲しくみえた。

カーンの内に潜むコンプレックスが見えたような気がして、それがカーンの建物の優しさに現れている気がした。

これは、ほとんど映像のみだったので感じることが出来たのかもしれない。
思わぬ収穫だ。

鹿児島で公開されるかは分からないが、字幕入りのものも見なければ。。
[MEDIA]




B017 『LOVE ARCHITECTURE KIKI』

LOVE ARCHITECTURE KIKI (2004/10)
TOTO出版


ムサビの建築学科を卒業し、モデルである著者の建築探索エッセイ。
きれいで親しみのもてる写真ときどらない文章が心地よかった。

著者は僕とほぼ同世代だが、途中からモデル業に専念しているので、ちょうど素人とプロの間のような視点で、等身大という言葉が似合う文章(エッセイ)は逆に新鮮でいろいろなものを思い出させてくれる。

こんなふうに生活と建築が溶け合うのがあたりまえな社会になればステキだなぁ。




W010 『姶良総合運動公園体育館』

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□所在地:鹿児島県姶良郡姶良町平松
□設計:古市徹雄/古市徹雄都市建築研究所
□用途:体育館・観覧場
□竣工年:2005年
[gmaps:31.724717665406757/130.60203552246094/15/460/300](comment)[/gmaps]
内覧会があったので行ってきました。
明日、土木の検査があるようで古市さんが現場に来ており、直接説明して下さいました。

大屋根は厚さ220mmの集成材の木板が構造体と内部仕上・断熱材を兼ねるという構造。
古市さん曰く屋根の部材を少なくしシンプルに見せたかったそうです。

また、木造、鉄骨造、PC造、現場打ちRC造といった構造を適材適所に使用している。

左右対称を崩すということも重要なテーマであったらしく、それによる空間の自由さは感じました。

屋内にあるスロープ状のアップダウンの設けられたランニングコースは、ファサード及び内部空間に程よいアクセントとなり楽しさを与えている。

内部は思っていたよりクローズした感じだったが、体育館の機能による要請から開口部のとり方が難しかったのではないだろうか。

せっかくのスラブ状の屋根であるが、内部から外部へと流れるように見えなかったのは残念に感じた。
屋根が外部にまで流れ出ていれば、より自由で楽しげな空間になったように思うのだが、いろいろと困難があったのであろう。(質問すればよかったなぁ。しまったなぁ。)

ちなみに、この施設の監理は第三者監理の方式がとられて非常に苦労されたようです。
第三者監理のような馬鹿げたことは即刻やめるべきだと思う。

屋上への動線と屋上テラスが非常に気持ちが良く、遊びが効いている感じがしたが、それ以外の部分ではなかなか遊びの部分がとれなかったのではと感じた。

体育館にもとめられる機能性とコストの問題をどう解決し、その中でどういったテーマを見つけられるか。なかなか難しい問題だなと思う。

機能というものに切り込んでいく必要を感じる。


△北側外観途中突き出ている部分は屋内のランニングコース


△西側エントランス上部庇


△南側外観途中突き出ている部分は屋内のランニングコース
こちらの面がPC造


△アリーナ天井


△ミーティングコーナーよりアリーナを見る


△ランニングコース


△ミーティングコーナーよりエントランス上部吹き抜けを見る
屋上へあがる外部階段が内部に現れていてきれいだった


△2階テラス
左の階段から屋上へ


△屋根開口部
空が切り取られる。


△屋上テラス
右のメタリックな煙突のようなものは設備の配管スペース。
この写真だとどちらに重力がかかってるか分からなくなりそう。


△2階への外部階段
2階にもサブエントランスがあり
競技が行われるときは1階が競技者
2階が観覧者のエントランスとなるそう。


△現場にあった屋根をはずした模型




W009 『八代広域消防本部庁舎』

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□所在地:八代市大村町字羽須和970
□設計:伊東豊雄
□用途:消防署
□竣工年:1995年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
[gmaps:32.51633911959724/130.61529636383057/17/460/300](comment)[/gmaps]
近くで見ると多少の汚れがあったりして、その建物の抽象性が薄れている感はあったものの、こちらも予想通りのといった印象でした。

伊東さんのような、建物に(狭義の)リアリティを求めすぎないような思想の場合、そういった印象を抱かせることが最も難しいのであろうが。





W008 『八代市立博物館 未来の森ミュージアム』

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□所在地:八代市西松江城町12-35
□設計:伊東豊雄
□用途:博物館
□竣工年:1991年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト

>>参考HP

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軽やかな屋根とメタリックな素材の扱い。

伊東さんの90年代初期の作品。

最初、写真で想像していたよりも街中にあったので、場所が間違ってないか心配した。

今回の旅行の目玉であったが、閉館間際に滑り込んだためあまりゆっくり見ることが出来なかった。
期待し、想像していただけに、特別な感動はなかったのだが、それはまぁ仕方のないことであろう。

やはり、良いものはよいなぁという感じ。

特別な建築の構成でびっくりさせらることもなかったが、さりげない建築のあり方、心地よい空間は、伊東さんならではである。

最近の恐ろしく自由になった伊東さんの建物も見てみたいなぁ。




W007 『不知火文化プラザ』

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□所在地:熊本県宇宇城市不知火町高良東割2352
□設計:北川原温+伊藤建築事務所
□用途:美術館+図書館
□竣工年:1999年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
>>参考HP

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正面のルーバースクリーンは不知火現象をモチーフにしているようだが、ゆらゆらとした感覚は得られず、はっきりとした物質感を感じてしまった。

僕の印象では写真の方が美しく映る建物である。

町のオープンな美術館・図書館としては成功している印象は受けた。

訪れたのが15時ごろだったので、もう少し薄暗くなってライトアップされれば、また印象が違ったかもしれないが。


△外部通路部分


△内部ホールのトップライト




W006 『杖立橋+Pホール』

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□所在地:熊本県阿蘇郡小国町
□設計:新井清一+シダ橋梁設計センター
□用途:遊歩橋+多目的ホール
□竣工年:1988年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
>>参考HP

[gmaps:33.18251309474914/131.03440761566162/16/460/300](comment)[/gmaps]

杖立の温泉街にある橋とホールの一体となった建築物である。

温泉街を歩いてみて、この町自体にとても興味をもった。

ヴェネチアとはまた違った感じだが、川と立体的な路地が楽しくてつい隅々まで歩いてみたくなる。

ヴェネチアより東洋的な雰囲気でパワーがみなぎっていている。
こなきじじーがその辺を歩いていてもおかしくないような感じ。

さて、この橋はオブジェ的な扱いでデザインされているが、これが特段浮くわけでもなく町の風景としてなじんでいる。
それは、この町のパワーがあってこそであろう。

決して、どこにあっても「あり」のデザインだとは思えないが、ここでは成功しているのではないだろうか。

温泉街としてももう一度訪れたい場所である。

もっと、はちゃめちゃな町にになることを期待します。


△町のパワーを感じる


△橋より川下方向を見る
町の立体的な空間が興味をそそる




W005 『ゆうステーション』

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□所在地:熊本県阿蘇郡小国町
□設計:葉 祥栄/葉デザイン事務所
□用途:交通センター
□竣工年:1987年
[gmaps:33.12296011823188/131.06470584869385/15/460/300](comment)[/gmaps]
道の駅内にあるバスセンター+特産品販売所。

これも、同じ設計者の『小国ドーム』同様木造トラスとガラスによる構成(竣工はゆうステーションが先)

ハーフミラーガラスであまり内部が見えなかったが、もう少しオープンに見せても美しかったのでは、という印象を受けた。

朝8時ごろに訪れたのだが、空いていなかったのは残念であった。

それにしても、このあたりの中高生は見知らぬ僕らにも挨拶をしてくれるのには感心する。
突然のあいさつに逆にこちらが戸惑ってしまうこともあったりした。