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W004 『小国ドーム』

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□所在地:熊本県阿蘇郡小国町
□設計:葉 祥栄/葉デザイン事務所
□用途:体育館
□竣工年:1988年
[gmaps:33.116310671866415/131.0740613937378/15/460/300](comment)[/gmaps]
杉の角材5,602本を使用した木造立体トラス構法のドーム。
その木材1本1本に子供たちの名前が記されているようです。

正面部分はガラス面となっており、ドームの屋根の部分とガラス部分は構成上明確に分けられていた。

内部には入っていないが、サイドやトップライトからの光が木材の立体トラスの間をやわらかく染み渡るように広がっていて、綺麗だった。

ガラスの扱いや光の具合によって、屋根の物質としてのリアリティが和らいで軽やかというか幻想的な印象を受けた。

体育館としての規模による仰々しさを緩和し、周囲の多少湿っぽい森の空気感になじませることには成功しているのではないだろうか。




W003 『馬見原橋』

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□所在地:熊本県阿蘇郡蘇陽町
□設計:青木淳+中央技術コンサルタンツ
□用途:橋梁
□竣工年:1995年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト

>>参考HP

[gmaps:32.68101449328644/131.15150213241577/17/460/300](comment)[/gmaps]

フィーレンデール構造の橋梁で上部を車歩道、下部を歩道に利用している。

下部の通路に開いている穴の周囲に小さな魚がころがっていた。
誰かがここで釣りをしていたのだろう。
ここが、生活者に利用されている証拠である。

僕は水際で例えば座って休んだり、寝転んで水の音を聞きながら空を眺めたり、ただボーっと川を眺めたりといったことが、ごく普通にできればどんなにいいだろうと思っている。

しかし、僕の周りでは水際を歩いていて、そういう行動が不自然でない場所というのは生活の中でなかなか見つけることが出来ない。

もし、こんな橋が仕事場の近くにあったなら、夕方、頭をクールダウンするためにしょっちゅう訪れて、奥の方で寝っ転がっているかもしれない。

道路を掘り返して無駄な工事に税金を掛けるのなら、例えば水際にこういった橋とちょっとしたベンチ、それにそれを生活になじませる様々な仕掛けを考えることにお金を掛けてもらいたいところである。




W002 『都城市民会館』

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□所在地:宮崎県都城市
□設計:菊竹清訓建築設計事務所
□用途:市民会館
□竣工年:1966年

[gmaps:31.721021650841944/131.05908393859863/17/460/300]都城市民会館[/gmaps]

菊竹清訓のメタボリズムを体現するような作品。

これも、『今となってはどうかな』などと思っていたのだが、さすがに良かった。

早朝だったため内部は見れなかったが、その力強い外観には感銘を受けた。

宮崎駿のアニメに登場しそうな、生物とも要塞とも見える今にも動き出しそうな姿には愛着を覚える。

建物がキャラクターを持つと言うのは大切に思う。

その建物に感情移入できることで、自分の意識と建物の間に関係が生まれ、空間の感じ方に少なからぬ影響を与えると思うのである。

建物に生命を吹き込むと言えば大げさであるが、そんな大げさなことも大切ではないかと思い出しているこのごろである。

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追記(‘07.05.01)
再度訪れてみたけれどもやっぱり傑作。
ほぼ取り壊されることが決定しているようですが残念でなりません。2007.04.29の段階ではまだ外観は見れました。壊される前に是非一度訪れてみてください。(内部は休館になっています。)
新しく出来た施設はどこにでもあるような”いかにも施設”という建物。こうやって都市の中から記憶がなくなり、どことも区別のつかないフラットな都市になっていくのでしょう。
あー、やっぱり残念です。建築がいつも政治の道具ぐらいの扱いなのが悔しい・・・

追記(‘07.05.22)
まだ、存続の可能性は残っているようです!
ここに動向が載っていました。

追記(‘07.10.30)
解体予算可決から一転、大学施設として活用されていくことになりそうです!
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W001 『ふれあいプラザ なのはな館』

※この記事は設計者より作品の無断使用との指摘があり削除依頼がありましたので削除致しました。




『原っぱ/洞窟/ランドスケープ ~建築的自由について』

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建築によって自由を得たいというのが僕の基本的な考えなのですが、最近、青木淳の本を読み、この点について共感する部分が多かったので、ここで一度考えをまとめてみようと思う。

青木淳のいう「原っぱ」というキーワードは、僕の中では「洞窟」という言葉であった。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。
そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。
そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。
それは『棲み家』という言葉で考えたことだ。

青木淳が言うように建築が自由であることは不可能なことかもしれない。しかし、この洞窟の例には洞窟という環境がもたらす拘束と、そこで行うことがあらかじめ定められていないという自由がある。

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。

洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。
何もなければいいというものでもないのである。

青木は『決定ルール』を設定することで自由になろうとしているが、これは『地形』のヴァリエーションを生み出す環境のようなものだと思う。

『洞窟』はある自然環境の必然の中で生まれたものであろう。その環境が変われば別のヴァリエーションの地形が生まれたはずである。

その『決定ルール=自然環境』によって地形がかわり、面白い『萌え地形』を生み出す『決定ルール』を発見することこそが重要となる。

ただの平坦な(それこそ気持ちまでフラットになるような)町ではなく、まちを歩いていて、そこかしこにさまざまな『地形』が存在していると想像するだけでも楽しいではないか。
もちろん、その『地形』とは具体的な立体的構成とかいったものでなく、もっと概念的なもの、さまざまな『可能性』のようなものである。

『原っぱと遊園地』を読んで考えたのはこういうことだ。
(新しいことは何も付け加えていないのだが)

ここらへんに、建築的自由へ近づくきっかけがあるように思う。
また、その『地形』には『意味』や意味の持つわずらわしさは存在しない。

そして、またもや『強度』というのがキーになる気がする。




言葉



かなり大雑把に言うと言葉には2種類あるように思う。

A.思考のための言葉
B.コミュニケーションのための言葉

この2つである。

A.思考のための言葉

「建築家の話す言葉は分かりにくい」と言われることがあるが、言葉が使われる場が思考の場である限り、分かりやすい必要なんて全くないと僕は思う。
おそらく、言葉を発しているほうでさえ、思考の流れのなかで何とか言葉を紡ぎ出しているのだろうから、その流れを断ち切ってまで分かりやすくする必要はない。
それをどう捉えるかは聞き手の自由である。

B.コミュニケーションのための言葉

目的が相手にこちらの考えを伝えることであれば、それは分かりやすい必要がある。

しかし、Aも自分とのコミュニケーションでもあるといえるし、Bも曖昧なものを相手に投げかけることもあろうから、やっぱりこの2つには分けられないようにも思う。ホントは何が言いたかったかというと、

「建築家の話す言葉は分かりにくい」というのは最もな話だがそれも必要なことで、営業的なあまりにもキャッチーな言葉ばかりが飛び交うのも、なんか違うのではないか。と

もっと言葉の持つ流動性や曖昧さ、奥行きといったものを大切にしたいなぁ。と

そんなことです。




コンセプト

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「コンセプト」

これも「デザイン」同様、芸術家気取りと思われやすい。

conceptを辞書で引くと「概念・観念・着想・考え」とあるが、この場合、「構想」を加えたほうが良いと思う。

「コンセプト」は意志の共有の為には欠かせない。
また、自ら意思決定を行う為の基準となる。
いわば補助線のようなものである。
デザインのうまくいっているものは、この補助線がうまく機能しているのである。
それは、ぱっと目に見えたり、うまく隠されていたりするが。

人はおそらくその補助線の存在を「無意識に」察知する能力を持っている。
頭で理解するのではなく、感じるのである。

そんな補助線はデザインに全く興味のない人にはどうでもいいかと言うと、僕はそうは思わない。

建築は環境のひとつである。
誰であっても、いやでも日常的に関わらざるを得ない。
知らないうちに感じとり、無意識に大きな影響を受けているに違いない。

おそらく、補助線による「意味の縮減」は美であり、快楽であろう。
興味があろうがなかろうが心地よいものは心地よいのだ。

だから、僕たちは「芸術家きどり」とののしられようが、補助線の存在とデザインに気をかけなければならないのである。




デザイン

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僕が考えるにデザインとは意志である。

意志を持たないというのも意志。

装飾や形態の操作は意志をかたちにする手段のひとつでしかない。

また、デザインとは発見であると思う。

それは、クライアントや自分自身の隠れた意志を発見することであり、日常や常識に埋もれた価値を発見することである。

そのために、人が何気なく通り過ぎてしまうことに、いちいち立ち止まりながらあーだこーだと考える。
または、人が考えたことやつくったものに目をやり、そこから何かを発見しようとする。

とにかく、デザインとは根気がいる日常なのである。




偽物の氾濫

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偽物の氾濫

昔から日本人は石庭を水にみたてたり、何かを抽象化することを得意にしてきた。
しかし、今の文化は表面的な具体性に走り、人を欺いているように感じてしまう。

例えば、私たちの周りには一見木に見えるもので、実は木目調のものが表面にプリントされているだけというものがたくさんある。
しかし、本来、私たちは無意識にその素材の持つ手触りや、重さ、密度などを感じていて、偽物は偽物、本物は本物だと感じる力を持っている。

感じるだけで、意識にのぼることはほとんどないかもしれないが、そういった偽者だらけの環境は確実に私たちの世界観や精神状態に影響を与えていると思う。

自然のままの環境を知っている大人は、まだいいかもしれない。
しかし、今のような環境で育つ子供はどうなるのだろう。
デパートで買ってきたカブトムシが死んだのを見て「電池が切れた」という子供がいるように、感じる力が弱くなってはいかないだろうか。

大人になれば「カブトムシが死んだ」と言う「ことば」は頭で理解できるようになるだろうが、「死んだ」と言うことを感じにくくなったりはしないだろうか。

偽物がすべてダメだといっているのではない。
ただ、偽物がまるで本物のように振舞っていることに問題があると思っているdだけだ。

偽物は偽物として、本物は本物として扱い、それぞれの素材の可能性を探求することが、モノをつくる者として、誠実な姿勢ではないだろうか。




見直すべき価値



現状

今、様々な分野では「便利さ」「(狭い意味での)快適さ」「安さ」「早さ」といったものが盛んに競われているように思います。

もちろんこういったものは重要な要素です。

しかし、こういった価値観は誰にでも分かりやすく、それゆえ「情報戦略において便利なもの」として扱われがちです。

見直すべき価値

一方、こういったもの以外にもさまざまな見直すべきものがあるのですが、「便利さ」・・・といったものは便利で伝わりやすいがため、その他の価値を見失わせてしまいます。

僕は「その他」の価値を「便利さ」・・・といった価値と同列に扱うべきであると考えていますし、そこにこそ、良いものを作るカギがあると思います。

21世紀を迎え、私たちは文化や歴史、教育、経済といったあらゆる面での修正を求められています。

専門家に限らず、みなが考えるべき課題はたくさんあります。(専門家であるがゆえ「扱いやすい価値観」に安住していることが多いように思いますが)

それらをひとつひとつ拾い上げることが今必要な作業ではないでしょうか。




B016 『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』

檜垣 立哉
日本放送出版協会(2002/10)

哲学とは何かいまという時代は、どのような時代なのだろうか。そして、いまという時代の中で何かを真剣に考え抜いたり、何かをしようとしてその行動の指針を探したりするときに、よりどころとなるもの、よりどころとすべきものとは、どのようなものだろうか。あるいは、よりどころがあると考えたり、よりどころを求めたりする発想そのものが間違っているのだろうか。ではそれならば、(よりどころがないことも含めて)そこで確かなものと、声を大きくしていえることとはなんなのだろうか。(p8)

この本はこういう書き出しで始まる。

デザインの「強度」というものを考えたくて、ドゥルーズに関する分かりやすい著書を探していたのだが、「解けない問いを生きる」という副題とこの書き出しに惹かれて図書館から借りてきた。

テーマが今の僕にあってたのと(というよりこの時代のテーマなのだろうが)、なんとなく、一般うけのしそうな副題や前書きが、僕にも理解できそうな雰囲気を出していた。
おそらく、著書は難解なこの哲学者を分かりやすく論じるために、かなりの部分をはしょって、意図的にある部分をクローズアップしているのだろう。
そのかいあってか、なんとなくドゥルーズの「卵」「流れ」「生成」ということで言いたいことがぼんやりとはイメージできたような気がする。
僕は、哲学研究者ではないので、ドゥルーズを正確に理解する必要があるわけではなく、そこから、何らかのものを見つけられればよい。

おそらく、最も重要なことは「中心」や「固有性」「私」または「システム」といったものに問いが回収されないということだろう。
「私」「他」という二元論的な設定そのものが西洋的な不自由な見方の気もするが。

個体とは、揺らぎでしかありえず、不純でしかありえず、偏ったものでしかありえず、幾分かは奇形的なものでしかありえない。揺らぎであり、不純であり、偏っていて、幾分かは奇形であること。だからこそ、世界という問いをになう実質であるもの。それをはじめから、そのままに肯定する倫理を描くことが要求されている。実際にそれは、生きつづけることの過酷さをあらわにするものであるといえるだろう。なぜならばそれは、死の安逸さも他者による正当化も、正義による開き直りもありえない、変化しつづける生の流れを肯定するだけの倫理としてしか描けないのだから。(p107)

流れの中でそれぞれの個体が問題を創造、デザインしながら「かたち」を連続的に生成していき、自ら流れとなっていくさまが、なんとなくではあるがイメージできた。

その流れをあくまで流れとして捉えある一点で固定してしまわない、そんな流動的な態度こそ大切であろう。

ある、決まった解答があらかじめ存在しそれを探そうとするのではなく、その流れの中で「問題を創造」しながら流れていく。
それは、全く異なるベクトルであり、そこには自ら物事を生み出していく主体的な自由がある。

それは、「意味」に回収されずに意味をデザインしていこうとするボルツの著作に共通する部分がある。

人間にはよりどころが必要かもしれない。
しかし、そのよりどころを「受動的に与えられるもの」「すでに存在するもの」として「探す」のではなく、能動的に自ら「生み出す」「編み出していく」というように、ベクトルを変換することにこそ「自由」の扉を開く鍵があると思う。

この本でクローズアップされていた、「流れ」や「生成」、個体やシステムの考え方は、「オートポイエーシス」に通ずる。
一度、河本英夫の本を読みかけて途中で断念していたが、余裕のあるときにでも再チャレンジしてみよう。

また、「強度」がドゥルーズの文脈の中でどう現れるのかは分からなかったが、一度『差異と反復』あたりに挑戦してみるか。痛快な「ぶった斬り」を期待して。




B015 『2次元より平らな世界 ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴』

2次元より平らな世界―ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴

イアン・スチュアート (2003/01/28)
早川書房



120年程前に『2次元の世界』という名著が出版された。
2次元の平面世界「フラットランド」に住むアルバートが異次元からの訪問者「スフィア」と出会い3次元の世界を旅するというものである。
著者のアボットは4次元を想像させるための導入として(当時4次元は最新の知識であった)まず、2次元の世界に住む人には3次元がどう見えるかを想像させたかったようである。

そして、『2次元より平らな世界』は一般向けの数学書で人気の高い著者によって『2次元の世界』の続編という形で書かれた物語である。

物語はアルバートの子孫であるヴィクトリア・ラインという女性の線分が、アルバートの手記を発見し、異次元の使者「スペースホッパー」を呼び出し、ホッパーとともに様々な幾何学世界を巡るという形で進む。
多次元空間から、フラクタル、トポロジー、射影幾何学、特殊相対性理論から超ひも理論まで物理の世界を含む様々な世界を巡る。
フラクタルやトポロジーあたりまでは馴染みがあったのでよかったが後半は僕の想像力がついていけないところもあった。
しかし、普段想像もしないようなことを考えるのは心地よかった。

僕は想像力をひとつのテーマにしたいと思っているのだが、こういう幾何学の世界は狂気にもにた想像力の賜物であろう。しかし、そういう想像力の入る余地はだんだん少なくなってきているのではないだろうか。昔は、幾何学や宇宙の問題・不思議が生活の中で当たり前の存在としてあったであろう。
しかし、今ではそういった想像力の入るような余裕が社会から奪われつつある用に思う。例えば「数学は生きてて役に立つの?意味ないじゃん。」というようなことを聞くとなんとなく悲しくなってしまう。

役に立つかどうかというと、役に立てようと思えば幾らでも役に立つに決まっているが、そもそも「役に立つかどうか」なんて疑問には意味がないと思うのだ。
ただ、それによって色々なものの見方が出来れば、それだけ生きている時間を楽しめるかもしれないというだけのことだろう。

「勉強は役に立つからしなければいけない」なんていうのが当たり前の前提のようになっているような気がするが、おそらくそんな前提のお勉強なんてたいして役には立ちはしない。

まぁ、トップの機関が例えば「円周率を3とする」ような馬鹿なことを考えるような国だから、そういった前提が常識になるのも仕方ないのかもしれない。
結果だけが重要で、その裏に隠れた部分にまで想像をめぐらすことには意味がないのだろうか。

幾何学とは何か、というきちんとした定義は分からないが、ゲームのルールとそのゲームの世界のようなものだろう。幾何学が宇宙や自然の観察と想像力の賜物であって、われわれのDNAに刻み込まれたものであれば、それはやはり極上の「決定のルール」になるのだろう。(もしかしたら、それは強すぎることもあるかもしれないが)幾何学がはるか昔から建築家に愛されてきたのも分かる気がする。




B014 『原っぱと遊園地 -建築にとってその場の質とは何か』

青木 淳
王国社(2004/10)

ちょっと雑な気がするけれど、建築は、遊園地と原っぱの二種類のジャンルに分類できるのではないか、と思う。あらかじめそこで行われることがわかっている建築(「遊園地」)とそこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」)の二種類である。(p14)

とし、『現在において「原っぱ」が失われつつある』ことを危惧する。

普通には「いたれりつくせり」は親切でいいことだと思われている。でも、それが住宅全体を決めていくときの論理になることで確実に失われるのは、「原っぱ」に見られるような住む人と空間の間の対等関係である。しかし、見渡して見渡してみれば、住宅を取り巻く状況は、すでに「遊園地」に見られるように、空間が先回りして住む人の行為や感覚を拘束するのをよしとする風潮だろう。(p16)

この本を通して述べられていることは、建築の持つ不自由さを自覚しそれと向き合うことである。

はっきりいって設計するということは、残念ながら本来的に人に不自由を与えることなのだと僕は思う。どんな設計も人を何らかのかたちで拘束する。だから、僕はそのことを前提にして、それでも住むことの自由を、矛盾を承知のうえで設計において考えたいと思っている。それが、つまり、「いたれりつくせり」からできるかぎり遠ざかった質、ということの意味である。もともとそこにあった場所やものが気に入ったから、それを住まいとして使いこなしていく。そんな空気を感じさせるように出来たらと思う。(p172)

形式の外にいられるように錯覚することが自由なのではない。形式の中にしかいることができないにもかかわらず、その外があるとして物事を行うこと。それが自由という言葉の本来の意味だと思う。(p182)

これは、まさしく僕が感じていたことで、それをうまく言葉にしてもらったという感覚があった。

僕の場合、形式の外の存在を感じるのは『イマジネーション』の問題であり、それを感じることができるのが自由であると考えていた。

「動線体」「つないでいるもの」「つなげられるもの」

これらのキーワードで語られるのは、「つなげられるもの」に発生する近代的な「機能」による拘束であり、それからの開放の模索である。
われわれは簡単にそれらの「機能」から逃れられそうにない。

「つないでいるもの」にも「つなぐ」という機能が割り当てられていて、僕は道を歩いていて途方にくれそうになるような不自由さを感じることがある。
何か、歩かなければいけない、というように命じられている気分になるのだ。
ほとんどの空間がそのように機能によって自由を奪われている。

宮台真司が『地上90cmの目指し』と呼ぶように、地べたに座り込む行為はそういった機能による拘束から開放されようとする行為であり、僕はそれに対し「だらしない」と思うよりは同情するのである。
それは、僕たちがつくってきた空間に大きな責任があるのだ。

著者が『馬見原橋』を設計する際に「つないでいるもの」であると同時に「人が居られる場所」であること、という同時性に親近感をもつといっているが、それは「つないでいるもの」のもつ機能性からの開放を意図しているのだろう。

「ナカミ」「カタチ」「決定ルール」

僕が『コンセプト』のところで言い切れなかったことが書いてあり、なるほどと感じさせられた。

僕も「ナカミ」か「カタチ」かという葛藤を感じることがあるし、これからもふとするとそういう葛藤に絡めとられると思う。

ここで重要なのは「決定ルール」を「ナカミ」「カタチ」と同列ではなく、それらの上位の概念として位置づけることであろう。

それによって、「ナカミ」か「カタチ」かという葛藤から開放される。

はっきりしていることがふたつあって、それについて書いてみようと思う。ひとつは、空間のどんな決定ルールも、本当のところは、そこでの人間の活動内容からは根拠づけられるべきでないこと。つまり、どんな決定ルールもついには無根拠であることに耐えること。ふたつめは、そのことを誠実に受け入れるならば、より意識的に決定ルールに身を委ねて、それが導いてくれる未知の世界まで、とりあえずは辿り着いてみなくてはならないだろう、ということである。(p66)

この態度をとれる思想をもてるかどうかが重要である。

たいていの建築では、決定ルールが中途半端な適用になる。ある程度は形式的できかいてきだけど、またある程度は、人の心の反応を想定した経験的なものになる。こんな風にすると人はこんな感覚をもつだろう。こんな感覚をもたせたいからここはこうしよう、そんな意識が混入する。確かに人間は、歴史的にでき上がっているそうした意味の網目の世界に住んでいる。だけど、こういう作業が当然のように行われることによって、建築は人間の心をきっと不自由にする。
実際に、ぼくがある種の建築に感じるのは、それゆえのあざとさであり、お仕着せがましさだ。(p80)

僕は人気のリフォーム番組なんかを勉強になるかと思って何度も見ようと試みるが、いつも居心地が悪くなってすぐにチャンネルを変えたくなる。
テレビ番組の企画としての意図や安易な決めつけなんかがみえみえで、なんとなく押し付けがましい不自由さを感じてしまう。
かといって、僕が著者の言うような態度を貫けるかどうかは、まだ自信がないのだが。

ゲーリィの「グッゲンハイム美術館ビルバオ」について次のようなことを書いている。

これは最も恣意という言葉から遠い建築の達成であり、それがぼくたちに完璧な透明な感覚を与えているのだ。
ここでのゲーリィは、それまで誰もできなかったような、未来に属するまったく新しい実験を行い、しかもそれに成功しているように見える。行われた実験は、ナカミかカタチかという二項対立をこえてしまうような次元での、純粋で自律的な決定ルールの、オーバードライブである。(p76)

ややもすると、カタチに大きく振れ、恣意的でしかないと見られがちなゲーリィの建築に感じる自由さをうまく言い当てている。
こういう態度を貫けるゲーリィはやはりタフなのだろう。

住宅「O」についての「現象としての動線体」という解説も、僕の「自分の領域を拡大する」という感覚とかぶる部分が多くて興味深く読めた。「構成を表現を捨てること」については、複雑性を縮減することがデザインであるならば捨てなくてもいいんじゃないかと思うのだが、それについては今後じっくり考えてみよう。

いずれにせよ、意味を求めないクールな突き放したように見える視点など、これは「ポストモダン」の生き方に対する一つの姿勢の模索であるように思う。それは、言葉にするほど簡単ではなく、ゲーリィのようなタフさを要求される姿勢である。
しかし、その先に見える自由はきっと大きい。




B013 『神のかけら』

神のかけら

スコット アダムズ (2003/03)
アーティストハウスパブリッシャーズ



スコット・アダムズは「ディルバート」で有名な漫画家。

若い配達人の僕と、配達先で知り合った老人との問答を中心とした話である。

「神」があることに挑戦した結果、この世は「物質の最小の構成要素」と「確率」の2つの「神のかけら」で成り立つことになった、という説をもとに、神やこの世のことについて問答を繰り返す。

著者が序文で「フィクションの形で包んだ思考的実験」と呼んでいるように、ある仮説によって世界を描いてみせるひとつの実験という名の遊びである。

たとえば、重力に変わる論を展開した後に、重力の存在を前提とした話をしたり、キリスト教的な「神」がそもそも前提であったり、後半は我慢しきれずに多少説教くさくなったりと、時々つっこみを入れたい部分もあった。

しかし、『これは思考的実験なんだ』と思い直してみると楽しく読めた。
その「楽しく」読めた感覚は僕にとって重要だ。

すぐにつっこみを入れたくなるなるのは、悪い癖で、懐疑的になることで柔軟になりたいと思うあまり、逆に頭が固くなっているようだ。
日常でも、もっと素直になったほうがいいときにも無駄に反論を考えたりと頑なになってしまう。
そんな頑なな脳味噌を指摘されたような気がする。

訳者が

『むしろ、読者に「知の自立」を求めている。「みんながそう言うから、そうだと思う」とか、「世間でそう言われているので信じる」とか、だらしなく他にもたれかかったような思考回路ではいかんのではないか、ということである』

とあとがきで述べている。僕もこれには賛成である。

しかし、僕が気付かされたのはこれとは逆に「みんながそう言うから、そうじゃないはずだ」という、あんまり穿った見方ばかりでもいかんのではないか、ということだった。

こういう「遊び」は素直に楽しめる余裕が欲しいものである。

しかし、序文から、これは「思考的実験」であり、精神年齢が55歳以上の「新しい考えに抵抗を覚えるような人たち」は「この思考的実験をおもしろくないと思われるかもしれません。」とクギを刺すのは反則のような気がするのですが?




B012 『CARLO SCARPA 建築の詩人』

 

建築の詩人 カルロ・スカルパ

斎藤 裕 (1997/07)
TOTO出版



CARLO SCALPA 1906-1978

『「さぁ、遊ぼう!」カルロ・スカルパは、デザインすることに対して、生来倦むことを知らぬ深い意欲に溢れていた人だった。・・・デザインするという作業は、スカルパにとって宝探しのようなものだったのではないか。・・・「さぁ、遊ぼう!」そう言って彼は旅に出かけていく。どんなに長い道のりであろうと、どんなに海が深かろうと、探し求めているものを手に入れるまで、無心に遊ぶ子供のように宝探しは続行される。・・・・』斎藤裕

ブリオン家の墓地を中心とした作品集。
スカルパはこの墓地のために約10年間で1200枚ものスケッチを書いたそうが、美しい写真とともにスカルパの思考の跡が見える図面も多数掲載されていて、見ごたえがある。

僕は、立体を確認するためについ、模型やCGに頼ってしまうのだが、スカルパの図面を見ていると、スケッチと想像力の大切さを改めて感じさせられた。

『そこに行けば、誰もがとても幸せになります。
子供たちが遊び、犬は駆け回る。
すべての墓地がそのようにあるべきです。』
カルロ・スカルパ

スカルパが言うように綿密に計画されたシーン展開には厳かな感覚の中に楽しさを引き出す仕掛けが盛り込まれている。
イタリアにあるこの墓地はぜひ訪れた体験したい建築のひとつです。

途中、ブリオン家の人へのインタビューがあるが、ここにもクライアントと建築家の幸せな関係があります。

クライアントは、村人や知識人の「貴族趣味である」というような批判の中、この文化的な建築を実現させるために『勇気を持ち続けて進めていくこと』が必要だったと述べているが、日本の金持ちにこういうことを期待するのは無理な注文だろうか。




B011 『自分の頭と身体で考える』

養老 孟司、甲野 善紀 他
PHP研究所 (2002/02)

最近「ふけた」「ふとった」といわれることが多くなった。
それで、最近『ウォーキング』なるものをしなけりゃならんか、と思ってしまった。

不覚にも。である。実際少しばかりやってしまった。

目的のない「散歩」はとても好きである。
しかし、「健康」を目的にした「ウォーキング」というものには昔から違和感を感じていた。
「ジムのマシンでウォーキング」にはなおさら違和感を感じる。
なぜ、身体を動かすために金を出さなければならないのだ。
ケチで言ってるのが大半だが、『身体』を金でどうにかしようというのはどうも腑に落ちない。
「サプリメント」もしかり。

おそらく、ストレスが多く、健康を守ることも困難な現代社会を生きるには必需品。 ということなのだろうが、 その、アメリカ的な何でも意識でコントロールできると思っている傲慢さと、一見合理的に見えて、実は単なる対処療法でほとんど本末転倒な思想が嫌なのである。

変えるべきは現代社会のほうだろうに、対処療法は原因を補強する。
ほとんど罠である。

罠にはまるのはシャクである。

危うく罠にはまるところであった。

僕は、心の片隅では、いざサバイバルな状況に放り込まれたとしても生きていける、最低限の身体と、『野生』を手放さずに生きていくことが、『生物』としてのマナーだと思っている。
それは、僕のなかでは僕が自然の世界にとどまれる『境界線』なのだ。
(そんなことは関係なく、僕が自然から抜け出せるはずもないのだが)
しかし、これほど脂肪がついてしまってはまったく説得力がない。このままではこの『境界線』を手放さなくてはならなくなる。
それはそれでよいだろうが、罠にはまるのはシャクである。
損な性格である。

そこで、名案を思いついた。
はじめて人力以外で動く自転車(原動機つき)を手に入れたのだが、我がチャリンコを復活させて、これで通勤してやる。

やけである。

しかし、これで、やせる。体力がつく。環境を破壊しない(つもりになれる)。ガソリン代が浮く。事故に会う確立が減る。ボケーっとできる時間が増える。早起きが出来る。ちょっとした悲哀を感じられる。世の中を斜めに見れる。などなど様々な特典を得られる。
なんと合理的なのだろう。ここで躊躇してしまっては僕は非合理的な人間ということになる。

今日(27日)事務所においていたチャリンコのパンクを修理し、乗って帰ってみた。
どうやら40分ぐらいで家に着きそうだ。
なんだ。楽勝である。むしろ期待はずれだ。

そういえば僕が東京にいるころ定期代がもったいなくて小田急線の千歳船橋のアパートから六本木の事務所までチャリンコで1時間かけて通っていたのだ。
あのときのほうが僕は野性味を持っていた。

これで、野性を取り戻せると思ってウキウキ、ウッキーとしだした矢先に擦り切れていたタイヤがついに破けてパンクしてしまった。 もうこのタイヤはだめだ。

これで、週末までチャリンコはおあずけとなりました。

前置きがながくなりましたが、この本について。養老孟司は好きである。
ちょっと売れすぎたけど、昆虫好きだから。甲野善紀も好きである。
丸山弁護士に似てなくもないけど、顔が不敵だから。

両者とも強烈なオリジナリティーをもっていてかっこいいのだ。
NHKか何かで甲野善紀のわけのわからない動きと、わけのわからない自信を見てすっかりファンになってしまったのよ。

二人の対談はなかなかになかなかで、当たり前のことばかり言ってるが、それがオリジナリティだと感じさせる。

きっと、僕も似たようなことを感じている。はず。

何か大きなものに飼いならされていない『ぐれ』続けている二人は素敵である。




B010 『空間に恋して LOVE WITH LOCUS 象設計集団のいろはカルタ』

象設計集団
工作舎(2004/12)

図書館より。
象設計集団の33年間の集大成。

いろはカルタの形式でキーワードをつづりながら作品の紹介をする。
といっても、そんな形式はさらっと破っている。

読んでいる間、ずっとため息が出っぱなしだった。
そこには、圧倒的な豊かさがあった。
生きることの楽しさ。生命の躍動感。自然への、人間への愛情で溢れている。
土着的な建築というだけではくくれない何かがある。

象の活動は設計というより、生きるスタイルそのものが作品である。
(1990年より、北海道十勝の廃校に事務所を移し、バーをつくったり、祭りをしたり、サッカーをしたり、湖に露天風呂をつくってビールをのんだりしている。)
頭ではなく身体で惹きつけられる。
僕の探しているものがここにはたくさんありそうな気がした。

故・大竹康市の『これが建築なのだ―大竹康市番外地講座』1995.09を読んでみたくなったなぁ。




B009 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』

東 浩紀
講談社(2001/11)

気が付けばすっかりテーマがポストモダンになっている。
意図的というよりやっぱり気になるのだ。
どこへ向かうにしろ、僕のような不器用な人間には、ある程度けりをつけなければならない問題なのだ。

『動物化』という言葉に何かの期待をしてこの本を手にとったのだが、その『動物』という言葉は、もともとはフランスの哲学者コジェーヴの書いた『ヘーゲル読解入門』のある脚注から来ているそうだ。

コジェーヴの主張(の東の要約を)を要約すると、ヘーゲル的歴史の後人々には「動物への回帰(アメリカ的生活様式の追求)」と「日本的スノビズム」の2つの生存様式しか残されていない。「動物」とはヘーゲルの「人間」の規定(与えられた環境を否定する存在)と対応し、常に自然と調和して生きている存在である。
また、「動物」は「欲求(単純な渇望。欠乏‐満足の回路が特徴)」しかもたず、「人間」は「欲望」をもつ。「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく」アメリカの消費生活はこの意味で動物的である。一方「スノビズム」とは「与えられた環境を否定する実質的理由が何にもないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式」である。
「スノッブ」は形式的な対立を楽しみ愛でる。コジェーヴは「アメリカ化=動物化より日本化=スノッブ化を予測していた」ため、80年代の日本のポストモダニストに好んで参照されたそうである。
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さて、オタクについてだが、
オタクはスノビズムをへて、いまや動物化している。

あえて、フェイクと知りながら意味を見出して消費するのではなく、もっとクールに「萌え」や「泣き」を「データベース的」に消費する。

そこにあるのは例えば「猫耳」「しっぽ」「触覚のように刎ねた髪」などの単なる要素の集積であり、それらのデータベースから、もっとも効率的に「萌え」や「泣き」を与えてくれる要素の組み合わせを選び出す。

それらの要素の働きは「プロザックや向精神薬と余り変わらない」。
たとえ、ある作品に深く感動したとしても、それを自分の「世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学」んでいる。

作品のバックにあるのが大きな物語(世界観)ではなく単なるデータベースであることを前提とすることがマナーなのである。

このような小さな物語と大きな物語の切断を東は精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼んでいる。

近代は「小さな物語から大きな物語に遡行」できると信じられ、移行期の人々は「その両者を繋げるためスノビズムを必要とした。」
そして、ポストモダンの人々は両者を繋げる事を放棄した。
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オタクを切り口にしての、現代文化分析はある程度理解できた。
そのような「解離」は今の社会を生きるためのひとつの処世術なのだろう。さて、そこで僕の差し迫った問題は「じゃあどうすんべ」ということなのだ。またしても、いつもの問いが頭をぐるぐると廻り出す。
・大きな物語ほ放棄しても良いのか。
・彼らは幸せなのか。
・豊かな行き方ってなに。
・ぼくにそれができるのか。
・「建築」になにがのこされるのか。
・設計の意味はどうへんかするのか。
・そもそもこんなこと考えることに「意味」があるのか。
などなど。きっと、こういうことを考えること自体、意味に対する未練であり、「大きな物語」という幻想の呪縛から抜け出していないのだ。
やっぱり、ポストモダンを生きるのはなかなかに難しく、「オタク」はなかなかのやり手である。しかし、これを自分の中で整理しなければ、自信を持って線の一本も引けやしないのだ。そこで、再び『意味に餓える社会』の最終章を見てみよう。

○すべてがデザイン
「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」

なんだ、「自身」をもって線をひけばよかったのだ。

意味とは捜し求めるものではなく、つくり出すものだったのだ。
それは、動物なんかにゃ出来ないだろう。
(なんか、一周して元に戻ったような感覚である。)
だとしたら、「小さな物語」=「大きな物語」となるようにおもうが、如何に。。。




B008 『妹島和世読本 -1998』

妹島 和世、二川 幸夫 他
エーディーエー・エディタ・トーキョー(1998/04)

この本は、僕が大学を卒業し、上京して再度学ぼうとしていたころに購入した。
今考えると、俺も結構ミーハーだなぁ。と思うが、とにかく妹島和世には相当な衝撃を受けたのである。
当時はその衝撃を自分の中でどう解釈してよいか、相当に悩んだ。

恥を惜しむがその当時のメモには

「このごろ、妹島和世の建築にも魅力を感じ始めている。それは、さまざまなものからの開放に対する興味でもある。僕の心は絶えず、内側への収束と外側への発散との間を揺れ動いている。98.5.17」

と書いている。

他にも気になる建築家はいたのだが、当時は両端としての安藤忠雄と妹島和世との建築の間で揺れ動き、自分の考えがどちらに近いかを早急にきめねば前に進めない。という焦りを感じていた。

このころ、僕の中で発見したキーワードは「収束」と「発散」である。
たとえば、安藤忠雄の空間の質は人を精神の内へ内へと志向させる「収束」であり、妹島和世の空間の質は人を精神の外側へと志向させる「発散」ではないかと考えていた。

そして、内へ向かおうが、外へ向かおうが、その究極の行き着く先は同じで、そこにはある種の『開放』と精神的な『自由』があるのではないか。

なんだ。結局は同じではないか。そんなに今悩むことないや。というのが、その当時のとりあえずの結論である。

この、「収束」「発散」「開放」というのは割合気に入っていて、架空の事務所名にも”release”という単語を入れている。(※記事作成時の事務所名)
今考えると、妹島和世の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。

もちろん、妹島和世の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。




B007 『TADAO ANDO  GA DOCUMENT EXTRA 01』

book7.jpg二川幸夫/インタビュー(A.D.A EDITA Tokyo)1995.07
学生のころにおそらく僕が始めて買った作品集です。
建築を意識し始めたころに、安藤忠雄とコルビュジェにはまったのだが、これは当時の関西の学生の通過儀礼とでも言えるようなものだったと思う。
――閉鎖的な大学だったので、当時のほかの大学のことは実は知らないが――

当時は、世界を旅したエピソードや、元プロボクサーで、独学で建築を学ぶという遍歴に、そして建築に対する実直さに素直に魅かれたものである。
冒頭のインタビューを読み、何度初心に戻れたかわからない。

しかし、建築を学び始めてしばらくすると、その実直さが急に照れくさく感じてしまい「安藤忠雄」に興味のないふりをはじめ他の興味の対象を必死に探し始めるのである。

「安藤忠雄」的なものをとりあえず脇において、他の可能性をいろいろ考えたりもしたが、そういう見栄をはるのをそろそろ辞めて、いいものはいいと思っていいのでは、と考えるようになったのは割合最近のことである。

「安藤」的な姿勢、実直にモダニズムを突き詰める姿勢から生まれる、バカ正直にみえる安藤忠雄の建築は、類まれな「強度」を持ち、建築物としての存在意義を確保しているように思う。
方法はどうであれ、それこそが大切なのではないか?
『負ける建築』を書いた隈研吾でさえ「強度」を口にする。宮台真司もしかり。

「強度」という概念はドゥルーズからの言葉だろうが、実は僕はよく理解していない。
しかし、なんとなく今でもキーとなりうる概念の匂いがする。
今後の興味の対象である。

ちなみに、この作品集で好きだったのは、成羽美術館で、アプローチの構成にくらくら来た。