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立体性・廻遊性

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立体性

重力とどう向き合い、どう表現するかは建築においても重要なテーマとなる。、人間の知覚などの多くも重力によって支配されている。

それゆえ、縦の変化はより強く感じるように思うが、現在、「間取り」「坪単価」という言葉が強い力を持つように、平面的な思考が支配的で立体的な空間把握は忘れられがちになってるように思う。

しかし、立体的な工夫でイメージを拡げられることは多い。
チラリズムも役に立つ。

物理的にも概念的にも立体性をもたせることで奥行きが生まれイメージが拡がる。

平面的な構成の先にも大きな可能性を感じているのだが。

廻遊性

行き止まりはそこでイメージを分断してしまう事が多い(逆に存在感のある壁などで意識を受け止め想像力を引き出すということもあるが)。

そういった、イメージの分断を避け、開放するには廻遊性をもたせることは有効である。

建物の内部外部を問わず、ぐるっと廻れるようにすることで、イメージは急に途切れることなく緩やかに円環をつくる。

その円環からもれでるようにさまざまな場所に想像力を引き出す仕掛けを用意することで、イメージはさらに広がりや面白みを増すのである。

そうして拡がったイメージの中を自己は自由に飛び廻る。

選択の自由

今の世の中を行きていくには、多様性や自由と向き合うことは避けがたい。

それは複数の道を突きつけられるということだ。

複数の道があると言うことは選択できるということで、それは可能性であり、自由であり、責任である。

建物の中を歩き回るにしても、ルートなどのさまざまな選択ができることは自由なイメージの拡がりを生む。

そのようにして、さまざまな可能性を感じられる楽しげなものをつくってみたい。




人と人との関係

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人と人との関係

僕は大学の卒業論文(1997年)で「コミュニティから見たコーポラティブハウスの考察」というテーマを選びました。コミュニティとは地域社会や共同体という意味で使われる言葉です(定義もいろいろありますが)。コーポラテイブハウスは最近良く雑誌等でも見るようになりましたが、家を建てたい人が集まり、自分たちが望ましいと思う住宅を共同して作る集合住宅のことです。

まだ学生のころですから幼稚な面もありますが、基本的な思いは変わっていないので、今回はその卒業論文の冒頭の部分を抜粋して載せようと思います。少々長くなりますが読んでみてください。

注)文中の「建築の心理学」という本は少し古いもの(1980)ですので、現在の心理学と多少食い違う部分があるかもしれませんがご了承ください。また、《》で囲んだ部分は今回書き加えた部分です。

*****以下、卒論より抜粋*****

今日、社会や価値観が多様化・複雑化し、皆が「自由」や「価値観」を叫ぶようになり、何が正しいか、何をするべきか、というのが捉えにくくなってきている。

バーチャルな世界は急速に拡がり、現実と仮想現実の境界は曖昧になりつつある。そのようななか、犯罪の若齢化や悪質化、援助交際、幼児虐待・・・といったさまざまな問題が表面化してきている。世の中に不安を感じている人は多いのではないだろうか。

その原因の一つに、都市の《《都市に限りませんが》》匿名性や自由を求めすぎるあまり、人間関係を軽視してきたことがあるように思う。「建築の心理学」で、クリフォード・モーラーは人の心の健康は他人との実りある交流によって決まる。又自分のパーソナリティというものは他人と交流し、人々から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてそれは特に重要である。というようなことを言っている。

現代の都市においては、まさしくそのことが問題ではないだろうか。ここで、建築の立場から豊かな人間関係を作るためにはどのような方法があるか、ということを考えていくと・・・

---中略---

コミュニティについて論じる前に、コミュニケーションの必要性を考えるために、次に掲げるクリフォード・B・モーラーの「建築の心理学」で引用しているレイトン博士とジョージ・ハーマンの文を読んでもらいたい。

『自分自身というものは、人生のなかで遭遇する{重要な役割を持つ他の人々}から受ける評価によってつくりあげられる合成物、すなわち{内的なコミュニティ}である。したがって、各人の対人関係からもたらされる諸々の経験の質と量とにより大きく左右されるものである。

程よい形で人間形成を遂げる機会を持つためには、人は少なくとも、その人生の中でもっとも急激に成長する時期に正常な社会的役割を果たしているいろいろな人と接触しなければならない。このような機会が少ないときには、その人間形成は惨めな結果となってしまうであろう。』Leighton,My Name is Leighton

『精神医学ではすでに解明されていることであるが、グループのメンバーになるということは、人間の支えとなっている。すなわち、それは生活のなかで普通に発生するショックに耐え、子供たちを幸せな、そして、快活な人間に育て上げるのに役立つ事柄である。

もしも、人が参加しているグループから締め出されたり、自分の価値を評価してくれているグループから脱退したりして、しかも自分がその運営に関与できる別のグループへの参加が出来ないならば、人は、その圧迫感のために、正常な考え方、感じ方、ないし行動を取ることが出来なくなるであろう。

・・・このような状況に置かれてしまうと、自らが実在しているという感覚ですら、怪しくなってくる。そして、すぐに強迫観念にとりつかれるようになり、いわれもない不安感や怒りを抱き、遂には、自分自身にも、他人にも、破滅的な結果をもたらすような衝動的行動をとるに至る。

そして、こうした、正常な軌道から外れた人間は家庭内やそれよりも広い人間関係の中で、必然的にそれを誰かに継承していくよう関係を作り出す。

{孤独な人}は、自分の子供たちを対人関係の中で低い能力しかもてない人間に育て上げてしまうし、ひとつの世代がグループ活動に参加していないならば、次の世代もグループメンバーになっていく能力が弱まる。』Homans,Homan Group 《《現代はより複雑になってきているように感じます》》

すなわち、人間のパーソナリティは他人と交流し、人から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてコミュニケーションは特に重要であり、人の心の健康を保つ上で、グループに参加してそのメンバーと交流関係を持つことは必須の要件である。ということである。

又、コミュニケーション能力の強弱が次の世代にも影響を与えるとすれば、世代を追うごとにコミュニケーション能力の弱い人が増加するのでは、という危機感を覚える。《《いつか述べたいと思いますが、現在コミュニケーション能力の必要性はますます増してきています。》》

他人との実りある交流関係を持つことによって、人は自分自身を見つめる機会や安心感などさまざまなものをえることが出来る。しかし、人との交流関係の中に、不安感やストレスを感じる人もいるだろう。「実りある交流関係」「本当のコミュニケーション」とは何なのだろうか。

---中略---

ここでも、モーラーの「建築の心理学」のなかで使われている、ノーマン・キャメロンの引用文を参考に考えてみたい。『正常な子供や大人と違って、不適当な人間形成過程を経てきた人間は《《正常・不適当という言葉には引っかかりますが》》、他人の信頼を惹きつけておくことが出来ないから、自分の中に恐怖心や不信感が拡がってゆくのを巧く処理できない。そして、自分がこうなったのも全て他人のせいであると考え始めるために、自分に対して想定される他人の反応や態度もしくは思惑のうちで、自分にとって好ましいと思われる人のみを取り上げて、それらの人だけを自ら設定した心の機能上のコミュニティの中に組み入れてゆく。

そのコミュニティの中に組み込まれた人の中には、実在の人もいるが、単に想像の上にだけにしか存在しない人もいるのである。そして、このように設定された他の人々のグループは、自らを説明したいと思うその人の欲求を当座の間は満足させてはくれるが、それらからは何らの信頼感をも得られず、体外的な緊張感だけがいっそう増すばかりとなる。

このようにして設定されたコミュニティは、他の人が加わっている組織体制とは適応できないばかりではなく、実際は、そのような他の人々のコンセンサスと敵対するものになってゆく。すなわち、彼らが自ら作った仮想のコミュニティのメンバーに期待する行動や態度が、現実にそれらのメンバーによって実行され守られることはないからである。けだし、これらのメンバーは、彼に敵対しないというだけで、彼のコミュニティに組み込まれたものであるからである。

このコミュニティは社会的行動における交流関係、相互期待関係及び相互確認関係を、自らの未熟な考えで作り上げた偽装的なコミュニティ (pseudo-community)でしかないのである。』Cameron,”The Paranoid Pseudo-Commyunity”

ここで、キャメロンは不適当な人間形成過程を経てきた人間は、自ら自分に都合のよい仮想のコミュニティを作り上げているとし、それを偽装的なコミュニティと名付けている。そして、それらの人々は、その偽装的なコミュニティの存在を固く信じており、それは、他人からの遮断状態の中に引きこもろうとするのと同じ防御反応のひとつだと述べている。《《大人が「最近の若者は」と思うことの多くは同じように現代社会で生きようとするひとつの防御反応ではないでしょうか。当然、子供にも責任はあるのですが、多くは大人が無意識に作り上げた社会に問題があるように思います。》》

---中略---

・・・他人との実りある交流関係が、人の心にどのように関係しているかは以上に述べたが、そのことは、ひいては社会全体を改善していくということについても重要な問題であるように思う。そして、そのことが私がコミュニティに付いて考えなければならないと考える一番の理由である。

---以後略---

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ここではコミュニケーションについてのみ抜粋しました。コミュニティという概念は僕が生まれたころに一度熱心に論じられていたようですが、現在の状況の中では安易に適用するのは避けるべきだと思います。

簡単なことではありませんが、現在でも有効となりうる、コミュニティまたはそれに変わる概念を再考する必要があると感じています。




モノの力

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モノには素材そのもののもつ力がある。

人は自分たちが思っているより、ずっと多くのことをモノから感じ取っていると思う。

感じることによって人とモノとの関係が生まれる。

モノが自分の存在を受け止めてくれることだってあるかもしれない。

しかし、今の建築を含めた周りの環境はそういった関係を築くことを忘れている。

「プリントものの木」とは「プリントもの」との関係しか築けない。
そして、子供は「プリントもの」との関係しか知らずに大人になる。
なんか、哀しいし無責任だと僕は思う。




感じる機会

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感じる機会

いつからか、人は目に見えるもの、はっきりと証明できるもの意外は信用しなくなってきたように思います。

人間の感じる力が退化していくのではないかと危惧することはないでしょうか?それは、単なるノスタルジーであるかもしれませんが、何かを失っていくように感じます。

分かりやすいこと、便利なことは、ある意味で快適なことではありますが、それは与えられることが多いゆえ、じっくり考えたり感じたりする機会を奪ってしまいます。

「旅行が雑誌やテレビで見たものの単なる確認作業になり、写真をとることでその確認の証明にしている。そして、そこでの生の体験や発見を見失っている。」というようなことが言われますが、それも利便性などと引き換えに感じる機会を失っている例ではないでしょうか。

光や色、音、匂い、感触などを感じることによって得られるものはたくさんあります。音や匂いがある記憶を呼び覚ます、という経験は誰にでもあると思いますが、そのような機会を失いつつあるように思います。

そのほかにも、動物の本能に驚かされるように、人間にもさまざまな感じる力があると思います。僕を含め、その力を無駄にして生活していることが多いのではないでしょうか。それはたぶんもったいないことのような気がします。




敷地

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ふさぎこんだ敷地

現代の多くの住宅を見てみると、どんな敷地であっても規格化された家を無造作に置き、その家と周りの環境とは切り離されているように思います。敷地の残りの部分を庭にしていても、それが内部の生活とつながっていないため、庭とは名ばかりの存在になっています。場所によっては木の一本もなく敷地の隙間は見捨てられています。

敷地から飛び出す

法律によって敷地に建てられる建物の割合が決まっているので、敷地全てを家にすることはできませんが、建物の配置、窓のとり方、壁の配置、植栽などによって、敷地いっぱいを有効に活用することができます。石をひとつ置くだけでぐっと広がりを感じさせることもできます。

また、想像力を駆使すれば、敷地の枠を外れイメージはぐっと広がります。家そのものの床面積を重要視する傾向がありますが、家を小さくすることで逆に何倍もの広がりを感じるようになることも多々あります。

僕は、敷地に座り込んでじっと動かない、ふさぎこんでいるような住宅を見るとすごくもったいなく思います。

せっかくの敷地ですから、有効に活用し、さらに敷地の枠も外せるような建築を建てたいです。

日本建築から学ぶ

すごく、大雑把に言うと、欧米などでは厳しい自然環境や外敵から身を守るため、壁によって内部を基本的に外部と切り離す建築が発達しました。

一方、日本では比較的気候が温暖ということもあり、”借景”など、巧みに周りの自然環境などを取り込み、周囲と一体化した建物が建てられました。

そして、木の柱と梁の構造、開け放せる建具、縁側や軒の深い庇等が発達したといわれます。

昔の日本建築には領域をあいまいにする作法で学ぶべきものはたくさんあるように思います。




私と空間と想像力

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自己と世界

「私のいる空間が私である」ノエル・アルノー

自己と世界との関係ははるか昔から人間にとって主要なテーマでありつづけました。

普段私たちはこういう事は考えることもなく私は私で世界は別にあるものと感じていると思います。しかし、音楽の世界に浸っているとき、大自然に包まれているときなど、何か自分の世界が広がり、世界と一体になったような感覚は誰でも感じたことがあると思います。僕にとってそのひとつが屋久島での体験でした。

領域の拡大

自分という領域があるとすれば、それは周りの環境や想像力によって無限に大きくなると思います。

例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になります。高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じます。

建築的な話をすると、家の中心に階段があるとします。その階段をのぼらなくても、階段は登ることを想像させその上の部分にまでイメージを広げます。また、快適なテラスは家の中にいながら外部へ、そして空へとイメージを広げます。さらに想像力をたくましくすれば空は地球上の全ての場所とつながっています。

鹿児島のシンボル的な存在である桜島はそれが見えることで私たちのイメージを一気に引き伸ばしてくれます。

このように、想像力は私たちの世界を広げてくれます。そして、それは私たちのアイデンティティの問題とも深くかかわっています。

「私のいる空間が私である」。だからこそ空間に心地よさを感じられるのかもしれません。




世界観

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古代ギリシャ人の世界観

古代ギリシャ人は建物の配置を厳密に数学的に計算して配置していました。ギリシャ建築の建物の配置にも大まかに2つのタイプがあります。イオニアの人たちは宇宙は無限であると考えていました。そのため、無限に広がる世界に恐れを感じ、自らの領域を確立するために周囲を囲うように建物を配置しました。

一方、ドーリスの人たちは宇宙を有限なものと考えていました。そして恐れることなく、必ず外に向かって開けるような隙間ができるように建物を配置しました。

世界の捉え方

このように、世界のとらえ方は人間の根源的な恐れのような部分に密接に関係しています。

どちらが良いと言うことではなく、現代の社会や人々の考え方によって、建築は変わるということです。

逆に、私たちの周りの環境は私たちの世界観を作り上げます。ここに建築に携わる人に与えられた責任があるように思います。




世界とのつながり

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屋久島で感じたこと

僕の実家は屋久島にありますが、屋久島に帰るといつも海と山の見渡せる丘に登り、ボーっとすることにしています。そこで感じたことが、僕の建築を考える上でのひとつの原点になっています。

月並みな表現ですが、そこでは、何もかも忘れることができます。世界の広さを感じ、自分の存在の小ささを感じます。同時に、自分と世界との境界も曖昧に感じます。次の項でも述べますが、世界そのものが自分であるような感覚になります。そして、冷静に自分を見つめることができます。

抑制された想像力

少年犯罪や、自殺などのニュースを見ると胸が痛みます。僕の想像でしかありませんが、彼らは自分の周りのほんの小さな現実が、世界のすべてというように感じざるをえないような状況に追い込まれてしまったのではないでしょうか。

少し冷静に考えてみると、自分の周りの現実以外にも、想像もつかないほどの広大で多様な世界や可能性が存在していることに気づきます。彼らは逃げ出しても良かったのだと思います。ほんの小さな想像力ときっかけがあれば避けられた事件はたくさんあると思います。

しかし、日本はどんどん想像力を抑制する方向に進んできました。僕が建築と向きあいたいと思うきっかけになった97年の神戸の殺人事件でもいわゆるニュータウンと呼ばれる郊外のことが話題になりました。

同じような住宅が整然と立ち並ぶ砂漠のような状況の中、多様な世界に思いをはせることは困難に思います。さまざまな場面で想像の入り込む余地は切り捨てられ、抑圧されてきたように思います。

世界とつながる

そのような状況の中、想像力がはばたき、世界とつながりを持つことのできるような建築をつくりたいというのが僕の思いです。




想像力

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想像力

僕は建築について考える際に”想像力”を大きなテーマとしています。

設計する側に必要な能力として想像力が必要というだけでなく、建築・住宅を利用する人たちが自然と想像力を働かせるような建築をつくりたいということです。

想像力はさまざまな関係性を開くための鍵なんじゃないかなと思います。




棲み家

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棲みか

学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉から生まれる可能性のようなことを考えていたことがあった。
しかし、そのときはうまく言葉に出来なかった。

最近、再び「棲みか」という言葉の持つニュアンスに何か惹かれるものを感じはじめたので、今回は何に惹かれるのかということを何とか言葉にしてみようと思う。

「生きること」のリアリティ

テレビ番組などで会社勤めを辞め、田舎で自給自足をしている人などの特集をよく目にするが、そこには「生きること」のリアリティを求める人の姿があるように思う。

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。

なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

僕は「住宅」よりも「いえ」、「いえ」よりも「棲みか」という言葉に積極的に環境とかかわっていこうとする意志を感じる。
それは、子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるように思う。

単純に環境との関わりを考えると、大地や空との接点、天候や四季の移り変わりを感じること、また社会的な人との関わりなどが思い浮かぶ。それらはリアリティを感じるために重要なテーマになるし、僕も大切にしていきたいと思う。

自由と不自由の隙間

最近強く感じ始めたのだが、機能的で空調なども完璧にコントロールされた完璧に体にフィットするような環境は(そんなものは有り得ないと思うが)、快適であると同時に何か気持ち悪さを感じる。

僕は自由や快適さ・機能性などと同じように、不自由さや不快さなどにもある種の価値が存在すると考えている。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。

それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。

そのように環境と関わっていった結果、自由や快適さを得られればそれでよいし、それによって別の何かを得られるのではないだろうか。

環境と関わる意志

20世紀は自由や快適さを闇雲に求めてきたし、様々な面で受身の姿勢が見についてしまった。しかし、受身のままでは得られないものもある。

21世紀はそのことへの反省も含め不自由さや不快さにも価値が見出されていくように思う。
そのときに重要になるのが、自由や快適さとの「隙間」、その距離感に対するバランス感覚であり、自発的に環境と関わろうとする意志であると思う。

そして、僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。