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B050 『地球生活記 -世界ぐるりと家めぐり』

小松 義夫
福音館書店(1999/06)

メーカーさんにもらったカレンダーの写真があまりに魅力的だったので誰が撮ったのだろうと見てみると小松義夫と言う人の撮影だった。
調べていると面白そうな本も出している、ということで図書館で借りてきた。

先進国で暮らす人はそれ以外の人に比べて多くのことを知っていて、多くのものを手にしていると思っている。
しかし、それは本当だろうか。

この本に出てくる先進国とはいえない場所の、たくさんの家はとても斬新だし、壁に描かれた絵は生き生きとし今にも動き出しそうである。
先進国でプロと呼ばれ、知識も豊富と思われている人が必死に到達しようとしているもの、なかなか手にできないものを、ただの生活者が手にしている。

とにかくため息が出るほど豊かなのだ。
それに比べて私たちのつくるものはどうしてこうも貧しくみえるのだろうか。

私たちは謙虚さをすぐに見失う。
浅はかで薄っぺらな知識や、怠けることばかりする意識や、つまらないエゴや、その他もろもろのちっぽけなものを、過信しそれがすべてだと錯覚する。

それらは本当にちっぽけなものに過ぎないのに。

『宗教』という方向には行きたくないが、もっと大きなものを感じ謙虚さを失うべきではないように思う。
これらの家には謙虚さを感じるし、ちっぽけな意識を超えた豊かさを感じる。

佐々木正人の観察によるとフォーサイスの魅力は「有機の動き」すなわち意図を消滅させ外部と一体となるような動きにある。

同じようにこの本の家には、環境や家そのものと、つくる人とがダイレクトに呼応しあう・一体となるような関係が見て取れる。
そして、ここには肌理も粒もある。

おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。
(フォーサイスのようなものづくり?)

有機と無機の兼ね合い・せめぎあい、ここいら辺に何かありそうだ。




B049 『レイアウトの法則 -アートとアフォーダンス』

佐々木 正人
春秋社(2003/07)

日本のアフォーダンス第一人者の割と最近の著。

レイアウトと言う言葉からアフォーダンスを展開している。

アーティストとアーティストでない人の境界があるかは分からないが、著者は学者でありながらへたなアーティストよりもずっとアーティスティックな視点や言葉を手に入れている。

それはギブソンから学んだ『目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか』という方法を実践しているからであろう。

本著を読んで、レイアウトの真意やアフォーダンスを理解できたかどうかはかなり怪しいのだが、ぼんやりとイメージのようなものはつかめたかもしれない。

著者が言っているようにアフォーダンスは『ドアの取手に、握りやすいアフォーダンスがあるかどうか』ということよりもずっと奥行きのあるもの、と言うよりは底のないもののようだ。

様々な分野で、一つのある完結したものを追及し可能性を限定するような方向から、”関係性”へと開いていくこと、可能性を開放していく方向へとシフトつつあるように思う。

そして、ドゥルーズやオートポイエーシスのように(といってもこれらを理解できているわけではない。単なるイメージ)絶えず流れていることが重要なのかもしれない。

幾重にも重なる関係性を築きながら流れ創発していくこと。

建築を確固たる変化しないものと捉える事が何かを失わせているのではないだろうか。

*****メモ******

■知覚は不均質を求める。
■固さのレイアウト
■変化と不変
■モネの光の描写。包囲光。
■デッサン(輪郭)派(アングル):色彩(タッチ)派(ドラクロア)
アフォーダンスは色彩派に近い。完結しない。
アトリエワンの定着・観察『読む』『つくる』環境との応答・関係性
■相撲と無知行為・知覚は絶えず無知に対して行われる。無知を餌にする。
■表現・意図は「無機」「有機の動き」=「外部と一つになりつつある無形のこと」
クラシックバレエ=「無機と有機の境界」
フォーサイス=「無機の動きと意図の消滅」動きが「生きて」いる。それは舞台と言う無機的な環境の中で、有機の動きを発見し続けるさま。
■肌理(キメ)と粒(ツブ)それがただそれであること(粒であること)と同時に肌理であること。
知覚は粒と肌理を感じ取る。
人工物には肌理も粒もない。自然にさらされ肌理・粒に近づく。物への愛着は粒への感じなのではないか。

レイアウトや肌理や粒の感じや有機ということは急速に身の周りから失われつつある。




B047 『アフォーダンス-新しい認知の理論』

佐々木 正人
岩波書店(1994/05)

アフォーダンス。
これもフラクタルのように自然のかけらを鳴らす楽器のひとつだと思う。

私たちのものの捉え方は、前世紀的・機械論的な枠組みにとらわれていることが多い。

そのような『不自由な』枠組みから自由になることを実践した理論の一つがギブソンのアフォーダンスである。

■ギブソンの知覚理論から学んだことの一つは、「認識論を実践する」という態度である。
■もっと大事なギブソンのメッセージは「何にもとらわれない、ということをどのようにして構築するのか」という「知の方法」とでも呼べることである。
■彼に学ぶことの第一は、アフォーダンスの理論であることはもちろんだが、それだけではなく、目の前にある現実にどれだけ忠実になれるか、すなわち「理論」そのものからも自由になる方法である。(あとがきより)

しかし、一度身についてしまった枠組みから抜け出すのはなかなか難しい。
『アフォーダンスとは、環境が動物に提供する「価値」のことである。』といわれても、感覚器(例えば目)から刺激を受け取り、その刺激を脳で処理するというようなイメージをどうしても浮かべてしまう。

本著にも下記のように誤解されやすいと書かれている。

■誤解-1・・・アフォーダンスは反射や反応を引き起こす「刺激」ではないか。↓↓↓
アフォーダンスは「刺激」ではなく「情報」である。動物は情報に「反応」するのではなく、環境に「探索」し、ピックアップしている。「押し付けられる」のではなく、知覚者が「獲得し」、「発見する」もの。そこには必ず探索の過程が観察できる。

■誤解-2・・・アフォーダンスとは知覚者が内的に持つ「印象」や「知識」のような主観的なものではないか。
アフォーダンスは勝手に変化するのではなく、環境の中に実在する。アフォーダンスは誰のものでもある。すなわち「公共的」なもの。

なんとなく、分かったような分からないような感じだが、一つ言えることは”認知とは受動的なものではなくずっと能動的な行為である”ということである。

単に刺激を受け取るのではなく、例えば身体を動かして視点を変えたり、物を触ったり動かしたりしてみたりと、いろいろと探りを入れながら環境から情報をピックアップしていくのである。

■そのようなアフォーダンスをピックアップするための身体の動きを、ギブソンは「知覚システム」と読んだ。
■ギブソンは、感覚器を、それが動かないことを意味する「受容器」という呼び方に対して、あえて動くことを強調して「器官」と呼ぶことを提案している。
■脊椎動物は5種類の知覚システムをもつ。・・・「基礎的定位付けシステム(大地と身体との関係)」「聴くシステム」「触るシステム」「味わい-嗅ぐシステム」「見るシステム」
■「五」という数には意味がある。それは「感覚器官」の種類の数ではなく、「環境への注意のモード」の種類と考えるべき。

運動抑制モデルについても、脳がすべての動きを制御しているという図式ではなく、『共鳴・同調』といったよりダイナミックなものとしてとらえられている。(この辺はオートポイエーシスのとらえ方と重なるように思う)

ところで、認知に対する認識を改めることは、建築やデザインにとってどのような意味があるのだろうか。

それは、”自然のかけらを響かせるための楽器”の形を改める、ということだろう。

(例えば視覚に対して)、単なる刺激としてどのようなものを与えるかと形を考えるより、相手の知覚システムのどのような動き・モードを、どのようにして引き出すかと考えたほうが、より深いところにある”かけら”を響かせることが出来るのかもしれないし、それは言い換えると「モノ」と「ヒト」とのより良い関係を築くことかもしれない。

■リアリティーのデザイン
「物」ではなく「リアリティー」を、「形」ではなく「アフォーダンス」をデザインすべき。
■デザイナーは「形」の専門家ではなく、人々の「知覚と行為」にどのような変化が起こるのかについてしっかりと観察するフィールド・ワーカーである必要がある。リアリティーを制作するためには、リアリティーに出会い、それを捕獲しなくてはならない。

そのようにして、環境からピックアップされたリアリティーが自然のかけらの一つであるのかもしれない。

捕獲するためのアンテナを研ぎ澄ますことが必要だ。

佐々木は、その後(彼独自のものかどうかは知らないが)『レイアウト』という概念を展開している。
それについても興味があるので後日。




B046 『建築とデザインのフラクタル幾何学』

カール ボーヴィル (1997/12)
鹿島出版会


あまり聞かれなくなって久しい「プロポーション」という言葉に惹かれ出している。

そういう感覚による部分が多いような要素、議論や説明のしにくい個人の領域に行ってしまいそうなものとは、なんとなく距離をおきたいと思っていた。
しかし、人間の意識の部分でコントロールできるものなんてのは僅かにしかなく、もっと感覚を研ぎ澄ませて、それを信じたほうがはるかに可能性が拡がるような気がしてきている。
(数日前の養老孟司の番組でもそんな感じの主張をしていたが、時代の流れと言うか、振り子が逆に動き出しているのだろう)

プロポーション・テクスチャー・カオス・フラクタル・ゆらぎ・自然・美・ルーバー・断片・繰り返し・粒子・拡大・縮小・安らぎ・DNA

僕の中ではこれらの言葉がなんとなくひとつのまとまりとしてイメージされつつある。
“美とはDNAの中に刷り込まれた自然のかけら”だとすれば、造型論やプロポーションやフラクタルはそのかけらを共鳴させるための楽器のひとつといえるかもしれない。

(そうすると、ミニマリズム的なものは静寂のなかにしずくの音が時折響くイメージか)

今さらフラクタルそのものが目的になっては暑苦しいが、楽器のひとつとして扱えるようになるのもいいだろう。
音楽のイメージを拡げるのに楽器があっても良いように、感覚を拡げるためのツールがあってもよい。

この本はフラクタルの基礎的な説明から、建築のデザインへの応用まで分かりやすく説明されているなかなかの良著だと思う。
フラクタル・リズムや凝集といったものはデザインにおける様々な次元での応用がきくだろう。
それは自然のかけらをスパイスとしてデザインに忍び込ませるような使い方もできると思う。

だんだん『楽器』の練習をしたくなってきた。

フラクタルについて

フラクタルの基礎的なこと
フラクタルギャラリー
■建築では渡辺豊和がフラクタルを応用・展開している。




TV『福祉ネットワーク “あそび”を生みだす学校』



NHK教育福祉ネットワーク2月21日(火) 20:00~20:29
シリーズ“こころ”を育てる第2回“あそび”を生みだす学校~建築家町山一郎さん~

ゲストに象設計集団の町山一郎を迎えて1982年に建てられた小学校を紹介する。

前に象の本を読んだときのように、ため息が出っ放しだった。
やっぱり豊かである。
これが建築なんだなぁとつくづく思う。

建物ができたときに、抽象的に美しい、かっこがいいというだけでなくて、むしろ、人がいきいきと使っている場所と言うのが一番価値が高い。(町山)

豊かさがそこにいる子供達の顔に現れている。

■小学校は日本全国均等に配置されていて、馴染みのある建物であり、地域のコミュニティの核となりうる。
■子育てにおいて、核家族という中で分断された形で子供が育てられている。日常的にも子供どうしが群れをなして遊ぶという機会がどんどん少なくなってきている。それは問題ではないか。
■親が専属で育てるのがいいという意見もあるが、子供をいろんな親が面倒をみて育て、子供が群れをなしてその中で育っていく。そういういろんなことがあわさって子供は育つ。
『子育ての共同化、地域化』が求められている。

それは宮台の言う『異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間』である。

宮代小学校では、全部で6つの門をつくり地域の人がどこからでも入ってこれるよう工夫していたが、いくつかの事件の後、文部科学省の指導があり、やむなく正門以外は閉じられてしまったそうだ。

安易に子供を隔離することによって守ること。それは子供達からコミュニケーションのチャンスを奪い、『隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在』として育ててしまわないだろうか。

最終的に建物がまちに開かれていて、そこに地域の人が参画することによって、地域の目によって子供も守られ、子供がいることで地域の人の集まる拠点となる。
そういう相互関係によって安全も守られ地域の核となることが一番だが、ときどきバランスが崩れることもある。
しかし、そういうのを乗り越えてより良いものができればよい。

と町山は言うが、町山の懐の深さと言うか、もっと長いスパンでものを見る視点に感心した。

また、設計の際『まちのような学校学校のようなまち』というコンセプトを建てたそうだ。

宮台はまち(家・地域)の学校化を問題点として指摘するが、それとは逆に、ここには学校の中にまち(家・地域)が流れ込む構図が見てとれる。

20年以上も前から、そういう視点をもっているというのは素晴らしいが、逆に言うとそれを受け入れる余地がまちの側にもあったということだろう。
(この学校では子供達が裸足で駆け回るが、それは学校側からの提案だったそうだ)

翻って、先日鹿児島県の建物の仕上げの仕様の説明を受けたが、県は学校の仕上げ材の標準仕様というのをつくっていた。
プロポーザルなんかでも、その仕様どおりの材料を明記すれば評価が上がるそうだ。
コストや最低限の仕様については一定の効果があるだろうが、いまどき”標準化”を、それも教育の現場においてうたっているのは、ちょっと違うんじゃないかと思う。

そういう思想からは、笠原小学校のような学校は決して生まれはしないし、そこには町山のような長い時間を見据えた視点はない。

僕の個人的な意見だけれども、子供の教育以上に税金をかける必要のあるものなどあるだろうか。
他にコスト意識をもつべきことはいくらでもあるだろうに。

28日(火)13:20から再放送があるみたいなんで、興味のある方は是非。
[MEDIA]




B045 『「脱社会化」と少年犯罪』

「脱社会化」と少年犯罪 宮台 真司、藤井 誠二 他 (2001/07)
創出版


何度か書いたことがあるが、1997年の酒木薔薇の事件はあまりにショッキングで僕個人にとっても大きな出来事だった。

自分達はどのような社会を目差してきたのか、これから目差していくのかを根底から問い直されていると感じた。

それから、ときどき宮台の本は読んでいるが、ひとつ前に読んだ本で「『人をなぜ殺してはいけないか?』という問いに答えようとすることのナンセンスさ」というのが頭に浮かんだので本棚から読みやすそうなのを引っ張り出してきた。

100ページ程度のコンパクトな本で内容もかなり凝縮されているのでさっと読むにはちょうど良い。(ちょっと古いが。)

さて、なぜ『人をなぜ殺してはいけないか?』という問いに答えようとすることがナンセンスなのか。

それは、人は「理由があるから人を殺さない」のではないからである。
殺さない理由があるから殺さないというのであれば、理由がなければ人を殺すのかということになる。

僕なりに要約すると、

■人をなぜ殺さないかというと”理由やルールに納得するから殺さない”のではなくて、”殺せないように育つから”である。

■他者とのコミュニケーションの中で自己形成を遂げた人間は、人を殺すことができない。殺せないように育つのである。

■なぜ殺してはいけないのかと言う疑問が出てくる時点で、その社会には重大な欠点がある。

■人を殺せないように育ちあがる生育環境、あるいは社会的プログラムに故障が生じているのだ。

”人を殺せないように育つ”ことの出来ない環境ができてしまっていて、そういう環境をつくったり黙認しているのはまさしく私たちなのである。
私たちは自分達のできる範囲で良いから、その現実と向き合わなければいけないと思うのだ。

「最近のこどもたちは…」「恐い世の中になった。」と他人事のように言って終わりにするのはあまりに無責任だと思う。
そういう小さな無責任・無関心の積み重ねの結果がまさに『人を殺せないように育つことの出来ない環境』なのだ。

そういう環境を変えるためにどうすれば良いか。
答えは簡単には出ないかもしれない。
しかし、個々がその問題から目を背けずに向き合うことが唯一最大の方法である。

そして、それこそが僕が今のところ建築に関わっている一番の理由であり、(おこがましいけれど)このブログのメッセージでもある。

『人をなぜ殺してはいけないのですか?』
この問いは、あまりに哀しい。

*****メモ******

■少年犯罪や凶悪犯罪の数自体は40年ほど前と比べても5分の1程度に激減しており、犯罪の増大・凶悪化という印象はメディアによるところが大きい。
■メディアでは、動機の不可解さ、不透明さに関心が集まっている。
■マスコミの動機や病名の探索は的が外れてきている。
■動機が必要なのは敷居が高い場合で、敷居そのものが低くなってしまっては動機は必要なくなる。
■病気ではなく普通の人でも世界の捉え方が変わり、敷居が低くなってしまえば犯行に及ぶ。病名を付けたがるのは、犯人は”特別な”人として、自分から切り離して安心したいから。
■だから、動機探索する暇があれば、なぜ敷居が低くなったのか、「脱社会的」な存在が増えたかを問うべき。
■「脱社会的」な存在・・・コミュニケーションによって尊厳を維持することを放棄する。社会やコミュニケーションの外に出てしまえば楽に生きられる。モノと人の区別がなくなる。

■人を殺せないように育つことのできない環境になった理由・・・「コンビニ化・情報化」「日本的学校化」
■「コンビニ化・情報化」・・・他者との社会的な交流をせずとも生活が送れるようになった。しかし、これには高度な利便性があり、いまや不可欠となっているので後戻りはできない。
■「日本的学校化」・・・昔は多様な場所で多様な価値観があり、尊厳を維持する方法が多元的に用意されていたが、家や地域が学校的価値で一元化されてしまっているために、学校的価値から外れると自尊心不足になる。
■そのため80年ごろから「第四空間化」が進行する。すなわち、家、地域、学校以外の空間(ストリートや仮想空間など)に流出することで尊厳を回復しようとする。
■それはある程度成功するが、そういう空間に流出できない「良い子」が居場所がなくなり、アダルトチルドレンや引きこもりを出現させたり「脱社会化」=社会の外・コミュニケーションの外に居場所をもとめる存在を生み出す。

■日本的学校化の解除・異質な他者とのコミュニケーションの試行錯誤を通じてタフな「自己信頼」を醸成するような空間が必要
■隔離された温室で、免疫のない脆弱な存在として育ちあがるのではなく、さまざま異質で多様なものに触れながら、試行錯誤してノイズに動じない免疫化された存在として育ちあがることが、流動性の高い成熟社会では必要。
■試行錯誤のための条件・・・「隔離よりも免疫化を重要視することに同意する」「免疫化のために集団的同調ではなく個人的試行錯誤を支援するプログラムを樹立する」「成功ではなく失敗を奨励する」「単一モデルではなく多元的モデルを目撃できるようにする」

大学の卒論で考えたことだが、コミュニケーションを糧に育つ環境が必要なのだ。

都市化・利便化は、そういうコミュニケーションの煩わしさから抜け出したいと言う欲求によるものである。
それを、もとに戻すことは難しい。

しかし、昔はいろんなタイプの人が好き嫌い含めて自分の周りにいたものだ。
いろいろな年齢・職業・タイプの人と関わる機会がたくさんあった。
嫌なことを排除していくことが必ずしも善ではない。嫌なおじさんと関わることも子供にとっては違う価値観に触れるチャンスなのだ。

『嫌なことを排除していくことが必ずしも善ではない。』なんてことが、平和ボケ・利便性ボケした日本で受け入れられるとは思わないが。
(だからこそ、問題を意識してもらってボケから醒めてもらわないといけないと思う。)




B043 『ル・コルビュジェの建築-その形態分析』

ジョフリー・H. ベイカー
鹿島出版会(1991/05)

タイトルの通り、コルビュジェの形態分析。
原著の初版は1984年であるからもう20年以上も前のものである。
僕は学生のときに買った。

分かりやすい魅力的なイラストで、構成の手法や形態のもつ力の流れなんかがよく読み取れる。
今見ても十分楽しい。

その楽しさは著者の力量もあるが、コルビュジェの建物のもつ魅力から来るものだろう。

近代建築の克服・批判という文脈のなかでコル批判がきかれることもあるが、やっぱりコルビュジェは魅力的。
しかし、近代建築が広まる過程でコルビュジェのもつ人間臭い部分は漂白されて都合の良い合理性だけが受け継がれている。

コルの発明はやっぱりコルの発明であって、自らの匂いを嗅ぎ取らないことには自ら人間味のあるものはつくることはできないと思う。そういう過程を抜き去ってしまっていて、コルを批判は出来ない。

ビートルズを聴くとコルビュジェとダブるときが良くある。
ロックやモダニズムのほとんどのことを彼ら天才がやり尽くしてしまって、その後のものはすべて彼らのオルタナティブでしかないように思ってしまう。
そして、その本家のもつ強さを超えることはなかなか難しい。

モダニズムという枠の中にいる限り乗り越えることはほとんど不可能のようにも思えるし、「乗り越える必要があるか」、という問いも含め「どう乗り越えるか」というのを、建築の世界ではずっとやってきていまだに答えが見えていないように思う。

それは、おそらく問いのたて方に問題がある。
「乗り越える」という意識はおそらく無意味なのである。
「コルがコルであった」という事実を他人が乗り越えられるわけがない。

僕も恐れ多くもコルビュジェを乗り越えようなんて思わない。(そんな才能もない。)
しかし、コルのように人間味を帯びたものをつくりたい、とは思う。

コルビュジェは誰よりも純粋で正直であったのではないだろうか。

それが、もっとも難しいことだと思うが、自分に正直になる以外には、やはりものはつくれない。

音楽でもビートルズを超えたかどうかが問題ではなく、その人の正直さが現れたときにはじめて人の心を打つのである。




B042 『デザイン言語-感覚と論理を結ぶ思考法-』

奥出 直人 (著, 編集), 後藤 武 (編集)
慶應義塾大学出版会 (2002/5/8)

慶應義塾大学のデザイン基礎教育の講義をまとめたもの。
取り上げられている講師陣は以下の通り多岐にわたる。

隈研吾塚本由晴三谷徹久保田晃弘佐々木正人Scott S.Fisher高谷史郎藤枝守茂木健一郎東浩紀永原康史原研哉港千尋

「デザイン言語」という言葉には、コミュニケーションツールとしてデザインを捉えることや、感覚(デザイン)と論理(言語)を統括するということが期待されている。
しかし、それはデザインの基本的な性質であって、あらためていうことでもない。
だからこそ、基礎教育のテーマとして選ばれたのであろう。

後藤武が「他者性に出会いながら自分をたえず作り直していくこと」をこの講義に期待しているように、各講師は「他者」としてあらわれる。

第一線で活躍している彼らはそれぞれの独自の視点からデザインの問題を発見している。
例えば「コンピューター=素材≠道具」「演奏する=聴くこと」「脳・感覚=数量化できない質感(クオリア)」というように発想を転換することによって大切なものを浮かび上がらせるのだ。
そこで浮かびあがるのは、近代的なデザインが軽視してきた『身体性』のようなものである。
(もともと、「考えること」と「つくること」はひとつの行為のうちにあったが、近代になってそれらが分離して「設計」「デザイン」という概念が生まれた)
そして、その浮かび上がらせ方、顕在化の方法というものがデザインなのかもしれない。

だが、その方法とは(共感ができるとしても)各々の身体性に基づくもので他人に教えてもらえるものではない。
自ら感覚と論理を駆使して”発見”する以外にないのである。(つまり”他者”としてしか接触できない)

それは、僕がこれまで書いてきた読書録の中でゆっくりと、そして明確に浮かび上がってきたものと一致する。

全くあたりまえのことなのだが、答えは自ら描き出す以外にないし、自らの個人的な感覚・身体性の裏づけなしには人の共感も呼ぶことはできないということだ。
(逆説的だが個人的であることが他人へのパスポートとなるのだ。)




B040 『建築造型論ノート』

倉田 康男
鹿島出版会(2004/08)

内容としてはソシュールなどの言語学を基盤とした造型論である。(倉田の講義ノート用の資料を教え子達がまとめたもの)

造型論としては特別な印象はなく、建築をつくる上での基礎的な技術に関わるものである。
技術としてはしっかり学びたいので内容については個人的に後でまとめようと思うが、僕が興味を持ったのは著者がなぜ”造型論”を追い求めたのかである。

倉田康男といえば高山建築学校の校主であり、建築への情念の人という印象がある。(高山建築学校については同じ鹿島出版会から本が出ているのでそちらも是非読みたいと思っている。)

その倉田がなぜ”造型論”なのか?
その真意が知りたかった。

倉田は「建築とは本来、こんなものではない」という苛立ちの元に設計事務所の運営を停止させ、高山建築学校と法政大学での教育にすべてをかける。

その苛立ちは僕も共有できる。
私達の周りの環境はあまりにも貧しい。

近代建築が完全に日常化した今日振り返ってみると、その近代建築の歴史は結局、建築の選ばれた人だけが手にすることのできる芸術品から、万人に許された使い捨て商品へのひたすらな歩みに過ぎなかったことに気づかざるを得ない。

”すべての人に建築を”という近代建築の目標の一つを達成したのかもしれないが、やはり「『建築はそんなものではない』と言いたい気持ちを抑えきることは不可能」なのだ。

エピローグで書かれているように、倉田はやがて建築の犯罪性を真正面から受け止める道へと至る。

どう考えても建築が社会の必需品として存在することの必然性は見つからない。
人間の営むすべての文化的営為の所産がまさにそうであるように、建築はそもそも余剰なのである。そして、もしかしたら、余剰こそが人類にとって最大の必需品なのかもしれない。
・・・建築が本来余剰であるならば、そもそも余剰は存在理由を必要としない。
建築は建築そのものでありさえすればそれで十分である。
・・・奢侈なくしてつくる悦びもないし、罪なくしては美はありえない

ある意味近代建築とは建築のもつ犯罪性・宿命を覆い隠すものであったのかもしれない。

その罪を再び背負う覚悟ができたときに、建築は建築そのものになれる。

そして、「建築が建築そのものであるということは、建築がひとつの独自な世界を表出したときにはじめて言える」のであって、そのとき造型論が必要となるのだ。

倉田はこの造型論を「純粋な技術論」として位置付けている。
それは、真っ直ぐに建築へと至ろうとする倉田の意志であり、社会に建築を取り戻してもらいたいという希望であるのだろう。

「今こそ[創る悦び]をもう一度建築に取り戻さなければならない。」

******メモ********
■「造型論」という言葉の印象から、内藤廣の建築とは相容れないようなイメージが合ったが、建築そのもへ至る姿勢は同じかもしれない。

自らの生きざまを見つめ続けること。
そして目の前の畑を耕し続けること。
いつかはもたらされるであろう[建築]を夢見続けること。
それが建築を学ぶことのすべてなのである。

■確かに建築の創造作業において、建築を造型するという仕事はその有用性や合目的性の追及などの作業に比べると、ときとしては極めて空しく感じられることがある。しかし、建築が最終的には視覚の世界に実存するものであるかぎり、建築の創作行為は、建築を造型するという作業から無縁に成り立たせることは考えられない。
■1人ひとりが各々の身体の内側に[あるべき姿としての建築]を私的普遍性に裏付けられた確実な[イメージ]として築き上げることが、何にもまして重要である。
■[あるべきつがとしての建築]のイメージというようなものは、創り出せるものでもなければ、学びと取れるものでもない。ただひたすら学び続けるという行為の結果として、どこからともなくもたらされて、それぞれに身体化するものなのである。
■正統的学習が必ず目標に導いてくれるという保障はどこにもない。すべての学問に宿命的な有効性と不毛性という原理的に矛盾する二面性をここでは特に覚悟しなければならない。
■今最も必要なことは、ひたすらつくり続けると言う、むしろプリミティブな姿勢なのかもしれない。・・・明日の建築を信じる以外にいかなる途があるというのだろうか。

■最後の解説で「倉田はアブナイ建築家なのである。生きることと論じることを分けようとしない。」といっているが、建築とは本来そのようなものなのだろう。
不安や恐怖、継続と忍耐、そして矛盾を抱え込むことは建築に関わることの本質なのかもしれない。
■そして、そういうことを感じるということはむしろ建築の本質へと近づいていること、歓迎すべきことなのかもしれない。

覚悟なんてのは当然のことなのだろう。




B039 『「小さな家」の気づき』

塚本 由晴
王国社(2003/06)

観察・定着・素材(性)・ズームバック・ランドスケープ・社会性・建ち方・分割・アパートメント・オン/オフ・空間の勾配・バリエーション・読むこと・つくること

いくつものキーとなる言葉が出てくるが、どれも普通の言葉である。
しかし、それらの言葉には独特の意味が込められている。

と言うより、新たな言葉を発見しているといったほうがしっくりくる。

それは、さまざまな思考・行為に無意識のうちにしみついた規範やルールといったものを顕在化させ、解体し、再度組み立てる作業であり、マイナスの条件をプラスへと転化する試みである。
(条件の並列化といった方が良いかもしれないと思ったが、やはりプラスへの意志はある。この辺が微妙にみかんぐみとは違う気がする。)

いろいろなものに捉われずに正直であると言うのはなかなか難しいことだが、正直さへ到達するための道具としての言葉を非常にたくみに利用している。

また、環境と定着のプロセスをアフォーダンスのイメージと重ね合わせていたが、その橋渡しの役割を言葉がするのかもしれない。

その言葉は彼ら自身のもので共有できるものではない、と思っていたのだが、再び読み返してみると共感できる部分、ヒントとなる部分も多かった。

一度、言葉を”感じる”必要があるのだろう。

さて、この言葉の先に何があるのか。
単なる批評や言葉遊びでしかないのか。

それとも、捉われない自由さ、『正直さがつくりだす開放感』を手にすることができるのだろうか。
それは、どれだけ正直さに到達できるかにかかっている。

*****メモ******

■使い道のない隙間を作ってしまうと、そこがまるで体の中で血行の悪い場所のように感じられ、内部の空間や窓のレイアウトもその治療のためにあるようになってしまう。
■そもそも社会性というのは垂直軸ではなく水平軸で考えるものではないかと言うことである。建物をデザインすると言うことは、この様々あって入り組んだ社会性を批判的に解きほぐしたり、ぴったりのところを新たに切り出すと言うことである。
■そんな作業の中で、小屋は頭の片隅にあって、常に立ち返って今の仕事の位置を確かめるためのニュートラルな状態を用意してくれる。
■(山本理顕なんかに対して)住宅を批評する水準と言うのは、家族論以外にないのか、というのが僕らの中で関心として大きくなっていった。
■僕は建築を批評してくれるいちばんのパートナーは都市だと思っていて、住宅だって都市の問題だと言いたかった。
■結局、同じ場所にいても、肯定的でいられる人のほうが全然楽しいじゃないですか。それはこちらが世界に投げ込むフレーム次第と言うこと。
■実際には、社会や環境のほうに原因があるとする考え方を否定することはできないのだが、その目に見える形への顕在化は建物のほうにあると考えてみるのである。そうやって社会と建物の間に顕在化の仮定を想定するならば、社会、環境と建物の関係の図式は、因果律の線形からフィードバックのループ型に移行することができる。
■建築論のメタファーは、生物学や記号論から生態学やアフォーダンスへと変更されている。・・・「作ること」と対象の出会いによって「読むこと」のカテゴリーが更新され、「作ること」のオプションが拡大されていく。そんな動的な建築のデザインに、今は魅力を感じている。




B038 『建築を拓く -建築・都市・環境を学ぶ次世代オリエンテーリング』

日本建築学会
鹿島出版会(2004/10)

建築的思考を武器に新しい道を拓いている先駆者25人のインタビューが収録されている。
あまりなじみの無い人もいたのでメモの意味でもざっとあげてみると、

内藤廣大島俊明松村秀一野城智也原利明梅林克大島芳彦松島弘幸アパートメントゼロスタジオ坂村健深澤直人甲斐徹郎玉田俊夫吉岡徳仁西村佳哲福田知弘後藤太一中西泰人love the life勝山里美馬場正尊松井龍哉元永二朗新良太

建築を学ぶ学生を主な読者に想定しているが、”建築をどう拓いていくか”は現に建築に携わる人にも切実な問題である。

この本の中で学生へのメッセージの中で共通しているように感じたのは、
・社会に対して自分がどう関われるかを考える。
・自分の中で感じたものを大切にしそれを突き詰める。

と言うようなことの大切さである。

この本でもいくつものキーワードや方向が見えてくるが、それら全てを突き詰めることは不可能であるし、しょせんは借り物である。
自分でこれと感じたことを突き詰めた先に何かが拓ける。
実際ここに収録されている人もそうやって必要とされるポジションを築いてきたのだ。

僕の本当の興味や出来ることはどこにあるのか。そのための方法は・・・・・

建築という領域を新築することに限定する必要はない、もっと自由に捉えてよいと考えると少し幅が出る。
すぐには答えが出せないのだが、それらを突き抜けるためのきっかけのようなもの、隠し玉はある。(それは秘密。。それを使うかどうかは今後じっくり考えることにする。)

一度、明確なビジョン・ストリーを描いてみたい。

******メモ**********

■本当はみんながほしいと思っているものを掘り起こす能力、あるいはそれをかぎ分けて目に見える形にすることで、イメージを喚起する能力。・・・・製図台の上の真白い紙の上で描けるのが近代建築であるとするならば、出かけていって、見て考えて、そこにいる人と意見を交換しないと、問題すら発見できないと言うような環境体験型の方法論に移りつつあるのだろうと思います。(古谷誠章)
■デザイナーが手を加えることで価値を倍加させていくような手法(大野秀敏)
■「建築家」がどうするか。1.増改築、改修、維持管理を主体とする。2.活躍の場を日本以外に求める。3.建築の分野を拡大する。・・・・第三の道でまず目を向けるべきが「まちづくり」→タウンアーキテクト(布野修司)
■・時間の概念>クロノプランニング・直感が大切。工学と直感は無縁ではない。・「私」を超えること。(内藤)
■リニューアルとは建物をどうやって次の世代に引き継いでいくか(大島)
■・これからの展望が開ける部分というのは結局は生活者しかない。・みんな能力もあるし、繊細さもある。でも、「何かを切り拓いていくぞ」っていう感じは乏しい。(松村)
■人々のアクティビティを呼び込むことによって、広い意味でも経済的価値を生むことが重要。(野城)
■・社会レベルへレンジを広げてみると、まだまだ住宅には取り組むべき問題は山積している。・自分たちが持っている「強み」「リソース」をどのようにデザイン活動に結び付けてゆけるか。(梅林)
■・オーナーの資産を設計デザインという付加価値の観点からマネジメントしますというスタンス。・ただ綺麗にするのではなくて、違う価値基準に乗せ換えてしまいましょう。
■・自分たちの価値観を大切にすること。そしてその価値観やビジョンといったものをしっかりと周りに伝えていくこと。・イメージを育てるのがすごく大変だけれども、それをイメージで終わらせない。(滝口)
■・身体が記憶している、みんなが共鳴する何かがあるはず。・人間のセンサーに対して深い部分で何か感じるようなものを突き詰めてつくってみる、ということが大切。学問として学ぶのではなくて、身体として経験する。(深澤)
■・使い手の意向を読み取って関係性をつくることが本来のデザイン。繋がりとか連続性。・自分にとって価値のあること、心地よいと感じること、そういう感性が現れるのを待つことを大切にしてほしい。(甲斐)
■夢を見、イマジネーションの力を磨くこと(玉田)
■自分なりの生き方で生きていかないとデザイナーとしては成長できない。(吉岡)
■・みんな他人事の仕事はしていない。どんな請負の仕事でも「自分の仕事」にしてしまう。・感動しているとか、心が動いているとか、面白がっているとか、興味のあることがたくさんあるのは、動く大きなプールというか内側の資源(西村)
■デザインを進めていく方法論というか、コンセプトを見つけていくこと自体が大切なことになっていく。(松井)




B037 『装飾の復権-空間に人間性を』

内井 昭蔵
彰国社(2003/12)

「装飾」というのもなかなか惹かれるテーマである。

アドルフ・ロースの『装飾と犯罪』ではないが、なんとなく自分のなかで装飾をタブー視することが規範化されてしまっている気がする。

しかし、規範化には注意しなければいけないし、時々装飾的と思えるものに魅力を感じる自分の感覚との折り合いもつけなければいけない。

そもそも、装飾、装飾的とはどのようなものを指すのだろうか。
また、許される装飾と許されない装飾があるのだろうか。

この本でも内井は装飾と虚飾を分けている。
その指し示す内容には若干の揺らぎがあるように感じたが、本質的な部分には確固とした基準があるように思う。

内井において装飾とは『人間性と自然界の秩序の表現』『宇宙の秩序感を得ること』であるようだ。

秩序を表現できるかどうかが装飾と虚飾との境目であり、おそらくそれらは身体でしか感じることのできないものだろう。
また、それゆえに身体性を見失いがちな現在においていっそう魅力的に映るときがある。
むしろ、身体が求めるのかもしれない。

その感覚は指宿の高崎正治の建物を訪れたときに強く感じた。
それはとても心地よい空間であった。

装飾=秩序と考えれば、モダニズムのいわゆる装飾を排除したものでも構成やプロポーションが素晴らしく、秩序を感じさせるものであれば「装飾的」といえるかもしれないし、カオス的な秩序の表現と言うのもあるだろう。

いわゆる装飾的であるかどうか、というのはたいした問題ではないのかもしれない。

秩序を持っているかどうか、が『空間に人間性を』取り戻す鍵のように思う。(結局、原点に戻ったということなのか?)

また、時にはあえて装飾のタブーを犯す勇気も必要なのかもしれない。

*******メモ*********

人間の分身、延長としてつくっていくのが装飾の考え方で、もう一つは建築の中に自然を宇宙の秩序感を回復すること。
■「装飾」は合理や理性では割り切れず、感性、好みと言ったようなわけのわからないもの。
■装飾は精神性と肉体性の双方を兼ね備えるもの。
■近代建築のなじみにくさには壁のあり方に原因があるように思う。現代人の心を不安にしている原因は人間が「もの」から離れるところにある。
■水に対しては「いかに切るか」、光に対しては「いかに砕くか」
■水平・垂直のうち現代は世俗的な水平が勝っている。しかし、人間の垂直思考、つまり精神性をもう一度取り戻す必要がある。
■装飾というのは付けたしではない。「装飾」は即物的にいうと、建築の材料の持ち味を一番よく見せる形を見いだすこと。
■ファサードは人間の価値観、宇宙観、美意識、感覚の表現であるからこそ人間性が現れる。建築はその設計者の姿をしているのが一番いい建築。
■しかし、現代建築ではなかなかそうはできない。それは、あまりにも材料とか形に対してし執着できない(経済的・物質的)状況ができているから。
■日本の自然は高温多湿、うっそうとした植物、勢いのある水と声が大きすぎる。そういうところから「単純明快なもの」引き算の美が求められるようになった。

■「わけのわかるもの」ばかりではなく「わけのわからないもの」も必要。
■生活空間には「記憶の襞」のようなものも必要。

■材料とか形に対してし執着できない(経済的・物質的)状況を乗り越えるにはどうすればよいか。
■セルフビルド。流通。生産現場。

■装飾は環境の中に存在する。現在のような(街並み・情報など)ノイジーな環境ではモダニズム的な建物が分かりやすく支持を得るのかもしれない。
■そうではないあり方はないだろうか。環境に埋もれず、秩序を感じさせるようなもの。
引き算ではなく分割。分割でなく・・・




B034 『この先の建築 ARCHITECTURE OF TOMORROW』

小巻 哲 , ギャラリー間 (編集)
TOTO出版(2003/07)

ギャラリー間の100回目の展覧会を記念して行われたシンポジウムの記録。

各世代から1人ずつ、5世代5人によるセッションが5回行われた。

各セッションの参加者は

1.原広司(1936)、伊東豊雄(1941)、妹島和世(1956)、塚本由晴(1965)、吉村靖孝(1972)

2.磯崎新(1931)、山本利顕(1945)、小嶋一浩(1958)、千葉学(1960)、山城悟(1969)

3.石山修武(1944)、岸和郎(1950)、青木淳(1956)、阿部仁史(1962)、太田浩史(1968)

4.篠原一男(1925)、長谷川逸子(1941)、隈研吾(1954)、西沢立衛(1966)、藤本壮介(1971)

5.槇文彦(1928)、藤森照信(1946)、内藤廣(1950)、曽我部昌史(1962)、松原弘典(1970)

(括弧内は生まれた年)
必ずしも「この先の建築」のビジョンが明確に描き出されたわけではない。

しかし、世代間で建築や社会の感じ方やスタンスに違いがあるものの、全体としてはぼんやりとした方向があるように感じた。
それは例えば「個」や「自由」という言葉に含まれるイメージのようなものである。

「この先の建築」に当然だが確固とした正解があるわけではなく、それは各個がそれぞれ考え実践する中で全体として描き出されるものだということ、 まさしくこのシンポジウムの形式そのものが浮かび上がってきたように思うのだ。

正解があらかじめ用意されているのではない。

この本で最も印象に残ったのはシンポジウムに参加できなくなったために書かれた、伊東豊雄の手紙である。

私が今建築をつくることの最大の意味は「精神の開放」です。平たく言えば、人びとが真にリラックスして自由に楽しめる建築をつくることです。しかし今、日本は建築をつくることにきわめて不自由な社会に思われます。発注者もつくり手も、皆が金縛りにあったように相互監視にばかり夢中になり、何をつくるべきか、なぜつくるべきかを見失っています。私が若い建築家に期待するのは、もっとプリミティブな視点に立ち返って「あなたはなぜ建築をつくるのか」という素朴な問いに答えて欲しいことです。そうでない限りこの自閉的な状況をくぐり抜けることはできないし、ましてや「この先の建築」など望むべくもないように思われます。(伊東豊雄)

「つくる」ということはどういうことか、「つくる」ためにはどうすればよいか、そこに立ち戻ったうえで組織のあり方や関係、具体的な手段などもう一度きちんと考え直さなければならない。

*****以下各セッションから*****
1.

建築のデザインが、あるいはそのデザインがもっている論理性というものは、人びとにたいしてどこまで射程があるのか(原)

(MVRDVについて)自分の外部にある何かを調べることで、自分の立ち位置をよりシャープにしていくという作業を繰り返しているのです。テリトリーをただ闇雲に拡大していくというよりは、建築家が本当にやるべきことは何か、何ができるのかということを、常に自問しているという印象をもちました。(吉村)

僕が妹島さんの建築がすごくいいと思うのは、集落がもっているエレガントなものを、今のデザインで、所帯じみていない形で出してくるからです。
僕はかつてのコミュニティ論なんていうものを、あなたたちが本気になって打破せよといいたい。・・・都市の中に埋没していく、あるいは地縁や血縁や昔のコミュニティだとかいった社会の中に埋没していくのではなく、生活が可能なところで出てくるような身体的な心地よさがあると思います。(原)

今までの経験から言うと、世の中を良くしようと思うとろくなことはないんですね。世の中を良くできるなんて思わないで、自分がうまく生きるということでいいと思います。建築家は人の家をつくるわけですから、建築家としては常に他者に対する思いやりというものを何らかのかたちで表現していくことが重要なような気がします。(原)

1.補

で、なぜつくるのか。先日のシンポジウムでは、建築家として都市にどうアプローチするつもりかといった質問がされていましたが、僕はそんなことはどうだっていいやと思っています。・・・僕は建築をつくり続けてきたから、自分の考えていることをたまたま建築によって表現するだけであって、まず僕が建築をつくりたいと思うのは、建築というフィルターを通すことによって、自分が今の社会の中で何をしなければいけないかとか、何を考えなくちゃいけないかということが少し見えるような気がするからですね。(伊東)

2.

いまだに世の中は計画というものがまだあると信じているところがあって、これが世の中をムチャクチャにしていると僕は思っています。(磯崎)

建築がその国や社会を体現するものとしてではなく、より個人的な人間の身体的な部分との関係の中で位置付けられようとしている(千葉)

先ほど磯崎さんが言いかけた「計画」という話は、個人の責任をどんどん曖昧にしていく。個人が関わるべきものであるにもかかわらず、あらかじめ「計画」という概念があって、最適値がもともとあるんだと考えて、その「計画」に乗ろうと思ったわけですね。そこでは個人がどんどん抽象化されてきて、個人という関わり方ができなくなってくる。(山本)

その使い方のきっかけになるようなもの、それを僕は最近「空間の地形」と読んでいるのですが、その地形をどうつくっていけるのかが今後ビルディングタイプに頼らない一つのアプローチだと思っています。(千葉)

文化的に刷り込まれてしまった身体を偶像破壊して、そのようにカテゴライズされてしまった身体をさらに解体するということをやっていかないと、生々しい身体になかなかたどり着けない。(山本)

3.

マーケットと直接的に結びつく方法をもたなければダメだと思っています。今までの建築ジャーナリズムは、この側面では役に立たない。もうちょっと広範な、そして非常にダイレクトなコミュニケーションの仕方をマーケットとの間でもたないと、これからは進めようがない(石山)

そのとき機能とは空間をある一定の方向に追い込むための一種のアリバイにすぎないのではないか。(青木)

自分にとって切実な問題を超えて正論を言うのはずるいですね。どうして身の丈でやれないのかなぁ。とにかく、そういうことを、少なくとも僕より若い世代にはもうやって欲しくないなあと思います。(青木)

今の世の中はこうだからという言い方は、僕は嫌ですね。何かをつくることから、結果として一般論みたいなものが出てくることはよくあることですが、先に一般論があって、その適用として個別の建築があるというのはもういいのではないですか。(青木)

どうやって食っていったらいいのかというと、設計図がもっている意味をもうちょっと拡大すればいいんだということになるわけで、建築設計がデザインだけではないところにまで踏み込まざるを得ないのではないかと考えています。(石山)

4.

新しい建築のための5つの問い
■住むための「場」:機能主義的な機械としてではなく、より根源的な「住むための場」をつくること。「場」は「きっかけ」「手掛かり」といってもいい。新しい原始性の模索
■不自由さの建築:何もない不自由さではなく、人間にとって「自然」のような、行動を喚起する、快い異物の不自由さ。
■かたちのない建築:機能的にも、存在としても、自律していないこと。完結していないこと。不完全性のもつ可能性。都市。
■部分の建築:全体性を規定せずに、部分から建築を構想することで、今までとは全く異なる、複雑さ、不完全さの建築を生み出すことができるかもしれない。
■弱い建築:複雑さ、多焦点、分散、隣接関係、相対性、不自由さ、不完全性、曖昧さ、喚起する、新しい原始性・・・。
(藤本)

囲碁とか天気予報と言っているときはダイナミックで面白い話なんだけれども、それを建築というものに落としてきたときには、どうなるのだろう。固定してしまうものなのか、あるいは動いて装置のようになっていくのか。最終的に建築にどう到達させようとしているのか(藤本)

私は「かたち以外のことを考えたことがない」(篠原)

最も激しい象徴性と最も強い具体性とが一つになったものが「野生」であるということです。(『野生の思考』レヴィ=ストロース)(篠原)

50年前からの各断面で私がお話しようと思ってきたことの一つは、その時点での自分の「今」が、何かのメカニックで「この先に」変わってきたことです。(篠原)

常にさかのぼっていきたいという気持ちがあるんですね。それは未来のことを考えるときにでも、ある種のプリミティブな状態に立ち返って、今までに試みられなかったことがないもののつくり方で、もう一回全部を構築し直したいという思いがあります。(藤本)

5.

そうしてつくりだされたビジョンが、嘘っぽくてリアルじゃないと分かっていても、そればかりを公共投資でやってきている。だから、再生のシナリオとは違う方向があるのではないか。(内藤)

素材の向こうに先端のエンジニアリングを見たり触れたりしたい(内藤)

当面感のある建築は、たいていの場合、抽象的なイメージを建築として再現しようとした結果だと思うんです。・・・僕らのやり方としては、そういう、いったん抽象化するプロセスには実はあまり興味がなくて、よりダイレクトに社会に反応することで建築をつくりたいという気持ちがずっとしています(曽我部)

「愛着のプロデュース」という言い方にすごく興味がある・・・「建築に何が可能か」ということよりも、「建築家に何が可能なのか」という問題設定ではないかと思います。(曽我部)

説明できることは流通しやすいことで、本当に大切なことは、どうあっても説明できないことではないか。つまり、建築家の一番のコンテンツは、建築の中にしかなくて、言葉の中にはない。(内藤)

建築には無意識の世界―言語化できない世界―に働きかける力があると思っているんです。・・・だから、今の日本の街並みによって無意識の世界がつくられていくのは良くないなという感じがします。(藤森)

同潤会に対しては、歴史としてみてしまう。それは歴史上のある特異点であって、その特異点を美しいオブジェクトとして見ることもできるという理解です。団地というものは、僕にとって、もう少し肉体化されているというか、歴史上の特異点ではなくて、なじんだ風景であり、引き受けざるを得ないようなもの(松原)

(『文学における原風景』奥野健男より)その次の問いが面白くて、ではそういう原っぱも路地もなくなってしまった世代は、一体何が原風景なのかと。彼らにとってはもっと無機的なものではないか。あるいは団地の風景でもいいけれども、彼らには風景の叙述がないんですね。いきなり部屋の中での会話で始まるということを言っています。(槇)

藤森さんは絶望したけれども、見ようによっては悪くない、と皆で言い訳しながらやってきたわけですよ。・・・だけど「それは本当なのか?」ということをもう一度考えたほうがいいのではないかと僕は思っているんです。
・・・たぶん建築が人間社会に対してできる究極は、例えば社会が経済的なクラッシュで疲弊し、人間も疲れ果てたときに、僕達が今やっている仕事が何の支えになるのかということが、建築のきわめて本質的な役割なのではないか、街をつくったりすることの役割なのではないかと思うんです。(内藤)

先ほどから東京の街が美しい、いや美しくないという議論がありますが、どっちも当たっているんですよ。・・・(須賀敦子のように街全体が生き物であるかのような見方、愛のある目差し)そういうかたちで街を見ることができるセンシティヴィティが、これからわれわれがどの街に住み、ものをつくり、あるいは旅行するにあたっても大切だと思います。(槇)




B033 『建築の終わり―70年代に建築を始めた3人の建築談義』

岸和郎 北山恒 内藤廣
TOTO出版(2003/05)

建築はイデオロギーから直截な形態の問題となった。そして形態の問題は分かりやすいため容易に政治的権力や資本権力の道具になる。そんな状況に無自覚であることを僕は「建築の終わり」と感じている。
「建築とは制度的存在である」なんて、今の感覚ではずいぶん重たい話のように思えるのだが、そんなに簡単には社会の構造は変わらない。現在はさらに巨大な力の構造性のなかに取り込まれているために、そのメカニズムはみえないものとなっているだけなのだ。だから、行く先はみえない、建築はファッションと同じように軽くなり、どの建築もとりあえず消費されることを欲している。そんなとき、捨てられたカードを拾ってみよう。建築を始める切り札はある。

ギャラ間で開催された北山恒の展覧会にあわせて行われた、1950年生まれの三人による対談録。
卒業設計から今にいたるまで、その時代性を感じさせる赤裸々な対談は興味深い。

それぞれにスタンスの異なる三人ではあるが、書中で笠原が『意図的に広義の「普遍」や「秩序」において建築を捉え直そうとしている』と指摘しているように、建築を正面から捉えることをあきらめていない。
そのあたりが、おそらく彼らより若い世代との違いだろう(若い世代は別な視点から建築をあきあきらめない方法を模索しているのだろうが)
そのために、あえて『エッジに立つ』ことで建築を浮き上がらせるのが彼らの試みていることではないだろうか。

「小さな自由、大きな不自由」みたいなものがあるんですよ。大きな不自由については目をつぶりましょうということ。そうやって過ごしてきて、大きな話が見え始めているのが今なんじゃないかと思う。(内藤)

だけどそれを全部自分で一応自己決定できると思っているから、『TOKYO STYLE』みたいなインテリアがわっと出てくる。それは、本当に多様なバリエーションをもって、「私の自己決定でできた自分の空間」みたいなものとして捉えられている。だけどそれは大きな物語に対してなんら影響力がない。本当に小さな幸せ、小さな自由である。みんなそんなものだと思っている。(北山)

市民社会では、自分で自分のあり方を決定できる喜びがなくなってしまって、資本に飼いならされてしまっている。(北山)

内藤の『小さな自由、大きな不自由』にはおおいに共感する。

『小さな幸せ、小さな自由』でいいじゃないか、大きな物語に対して影響力をもつ必要性がどこにあるのだ、という意見もあるだろう。

しかし、それこそが『小さな自由』の危険なところである。小さな自由を餌に飼いならされている間に多くのものが奪われても気付かなくなってしまう。
そして、その奪われた状況を敏感に感じ取っているのが子供たちではないだろうか。

また、「建築⊃建築家」という集合が「建築⊂建築家」というように逆転しているという指摘も興味深い。
「建築」という概念そのものが商品化されつつある。

これから先は、小さな物語に対して大きな物語が侵入してくる時代だと僕は思うんです。そのときに、小さな物語の中で組まれた「建築」という概念は役に立たないと思う。(内藤)

これはおそらく若い世代にあてた大きな物語を捨ててはいけないという警告である。

しかし、若い世代も建築をあきらめたわけではない。

大きな物語を扱えるというのは幻想ではないか、逆に小さな物語を育てることで大きな物語に侵入していくという方法論もある、と言う立場もあろう。
大きなリスクを背負いつつも、今のネット上での小さな情報の伝播の速さ大きさを考えると、無視できない。

小さな物語の中の大きな、または大勢の問題児・反乱児が大きな物語を動かすかもしれない。(それすらも大きな物語(例えば資本)に吸収される可能性は大いにあるが)

うーむ。またもや判断に困ってしまう。

しかし、この本を通して強まった思いもある。

それは、個々のの持つ建築に対するイメージの強さ・重要さである。
やはり、彼らも論理に先立って何らかのイメージのようなものを持っていると感じた。

僕も「建築の始まり」のイメージを見つけ出さなくてはならない。

*************************

建築を設計するということはとりもなおさず、そして言うまでもなく、世界をどう認識するかということの表明でもあるわけで、どんなに批判されても僕は世界は秩序に満ちていて欲しいと願っているんです。(岸)

建築は地に足を付けていなければいけないんじゃないか。地に足を付けた上で頭で考えるからこそ建築なんじゃないか。宙に待ってしまったら、それは孤立した狭隘な概念でしかなくなると思う。(内藤)

「息苦しさ」というのは、たぶん個人の方に選択権がない状況、要するに建築の側から抑圧されている状況だと思うんだけれども、人間を抑圧していくというか、選択権を与えていかないような建築というものが、近代建築のたどってきた様相だとするならば、それとは違う組み立てはできるだろうと僕は思っています。(北山)

モダニティは否定できない、その結果現れるグロバリゼーションの否定できない、
となればそういうものを受け入れつつも、世界中どこであれそれぞれの場所で生きている人間の誇りやそれが依って立つその場所の記憶といったようなものの最後の防波堤に建築がなるしかないんじゃないかと思っている。形あるものは必ず消費の対象になる。攻撃される。だから、そうした大きな流れに対抗するための最大の武器は、目に見えない空間の強度、つまり空気感、といったところかな。そんなものを追い求めて生きたい。(内藤)




B030 『負ける建築』

隈 研吾
岩波書店(2004/03)

隈研吾独特の論理的な文章が続くが、今までに比べなんとなくキレがない気がした。

そのわけはあとがきの最後の部分で分かった気がした。

世界で最も大きな塔が一瞬のうちに小さな粒子へと粉砕されてしまった後の世界に我々は生きている。そんな出来事の後でも、まだ物質に何かを託そうという気持ちが、この本をまとめる動機となった。物質を頼りに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくはなかった。なぜなら我々の身体が物質で構成され、この世界が物質で構成されているからである。その時、何かを託される物質が建築と呼ばれるか塀と呼ばれるか、あるいは庭と呼ばれるかは大きな問題ではない。名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。(p.230)(強調表示は03Rによる)

ぼんやりと浮かぶ可能性のイメージを何とかしぼりだそうとしていたのだろう。
そのための論理的な文体(強)とその内容(弱)の間のギャップがキレのなさを感じさせたのだ。
論理的分析が伝えたいイメージのための後付の説明のようにも感じられる。それは論理性の限界だろうか。

また、彼のような人のこのような告白には勇気付けられる。

彼でさえ、葛藤を抱えていて最後は「愛情」のようなものを頼りにしているのである。
というより、愛情があるからこそこういう困難な問題、情念のようなものに逃げたくなる問題に対して、あえて論理的に挑もうとできるのだろう。(それは隈の性癖であるのかもしれないが)

論理性の先に途は開けるか。情念が論理に勝るのか。
論理性と情念。おそらくそれらは車の両輪である。
そして、その両者のバランスをどうするかという葛藤は常に僕の中にある。

この本で、隈でさえ情念やイメージのようなものが先にあるということを発見できたことは収穫である。

磯崎新が書いた一文を思い出した。

少なくとも、僕のイメージする建築家にとって最小限度に必要なのは彼の内部にだけ胚胎する観念である。論理やデザインや現実や非現実の諸現象のすべてに有機的に対応していても遂にそのすべてと無縁な観念そのものである。この概念の実在は、それが伝達できたときにはじめて証明できる。

この本で隈が投げかけたものを自分の中のイメージ・概念として育てなおすことが重要だろう。

*****以後内容についてのメモ*****

各章の隈の分析は僕達にどういうスタンスを取るのか、という問いを突きつけてくる。

・切断としての建築ではなく、接合としての建築というものはありえないか。「空間的な接合」「物質的な接合」「時間的な接合」
建築は切断であるという前提を疑う。切断されたオブジェクトではなく、関係性としての建築について考察する。
切断によって奪われたものとはなにか。接合のイメージとは。

・場と物を等価に扱うイメージとは。(参考:オブジェクト指向)
ミースのユニバーサルスペース(物のメタレベルにニュートラルな場をおくという方法・ベンヤミンのいう「ブルジョワジーの「挫折した物質」と建築を切断する方法)→建築もまた物質であり、ミースの論理は仮定でしかない。
→仮定ではいけないのか。境界は不要なのか。
→「場と物という分割形式」に僕らがどれだけ捉われているかということを考える必要がある。それらと違うイメージをもてないか。

・建築に批評性は必要か。

時代の中心的欲望に身を寄せながら、批評という行為を通じて、その中心を転移させること。

しかし、批評性ということに捉われすぎたのでは。→(ケインズ的)「建築の時代」から開放され初めて『建築家は建築を取り戻す』

オープンな社会の中で、なおかつ必要とされる建築は何か。それを素直に思考することから始めればいいのである。・・・斜めから正対へ。徹底的にポジティブでアクチュアルに。

それは、「建築の時代」に寄り掛かれないということであり、建築家の能力がそのまま要求されるということである。

・形式対自由の二項対立の可否
形式≒抽象化≒主観性の排除その反発としての自由≒現象学≒個人の主観の重視
その克服としてのポスト構造主義→主観(自由)のメタレベルとしての形式それらの動的な循環運動
形式主義的な建築と受けて側とのギャップ。形式を無限に後進していくことが可能・必要なのか。

最も滑稽なのは・・・建築家自体が批評家という観念的存在を擬装して、リアライゼーションに対しての責任を回避し続けたことである。ポスト構造主義、冷戦的言説を駆使しながら、建築家はそのこころざしの正当化に明け暮れ、結果に対しての責任、「建築」に対しての責任を回避し続けた。

リアライゼーション・建築に対しての責任とは。
『徹底的にポジティブでアクチュアル』な姿勢をここでも要求されている。

隈の考察は建築が何に捉われいるかを見つけ出そうという試みである。

・建築家というブランドの問題。設計主体の「私」化の問題。
独裁者か、コラボレーターか。
「私」の設計手法の拡張可能性

巨大なものは、依然ブランディングという手法に支配されている。そこには依然として大きな断絶があり、いくつもの高いハードルが残されている。しかし「私」とい地道で着実な方法を鍛え、一歩ずつ広い領域へと拡げていく以外に、この都市という「公」を再生させる道はない。

・『施主も建築家サイドも自己というものの確固たる輪郭を失いつつある』中でどのような関係を築けるのか。
隈の言うように、『風俗嬢のごとき、つかず離れずの重くなりすぎない距離感』が求められていることを『受け入れることが、今日における良心的建築家の条件と』言えるのか。

建築家の職能自体が問い直されている。

いかなる形にも固定化されないもの。中心も境界もなく、だらしなく、曖昧なもの……あえてそれを建築と呼ぶ必要は、もはやないだろう。形からアプローチするのではなく具体的な工法や材料からアプローチして、その「だらしない」境地に到達できないものかと、今、だらだらと夢想している。

・そのようなイメージの行く先はどのようなものだろう。形という呪縛から抜け出せるか。それは「自由」へとつながるのか。(形式対自由の問題と合わせて考えたい)
この文章には隈のつくる建築が表れている気がする。

・建築はエンクロージャー(囲い込まれたもの)であることを乗り越えられるのか。

いっそのこと、たった一個の石ころをこの現実の路上に置いてみること。どう置いたら、何が起るのかをじっくりながめてみること。そのような行為を建築デザインと呼びたい衝動にかられている。

アクティビティとの関係は。




B028 『平成15年度バリアフリー研修会講演録』

中村隆司講師(バリアフリー研究会?)?


どこから入手したかは忘れたが、前に福祉施設についていろいろ調べていたときに見つけてコピーしてたもの。

その中で出てきた「発達保障理論」という言葉がとても心に残っていたので、引っ張り出して再び読んでみた。講師は福祉施設の館長であるが、考え方がとても自由でユーモアもあり好感がもてた。

バリアフリー的発想・理念と理想についての話からいくつか抜き出してみる。(・・・は中略を示す『仲間達』とは入居者)

生活者としての素朴な発想こそ、最高の思想だということです

よく、福祉村と言う言葉がありますよね。個人的には、あんまり好きじゃないんです。・・・何でもそこで揃うからとても便利なようで、一番大事な人と自然と社会との交通交流がないんですよ。・・・ですから”ゆめのむら”じゃなくて、こだわって私たちは”ゆめのまち”と言ってきたんです。

このバリアを作り出してきた言葉とその思想
ア)生活の自由・文化・人権を制限してきた”安心・安全”
私はこの安心・安全という言葉が、どれくらい仲間達を苦しめてきたかと思うんです。
・・・確かに正義を守る安心・安全もあります。同じように大事なものは、その人が欲求・不安・心配・要求・文句を何でも言え、運営・実践に、参加・参画できる安心・安全です。
・・・それから、発達とか成長の希望・可能性のもてる安心・安全

イ)生活を縮め、生活を細めてきた”奉仕”や”サービス”
サービスの質の向上と言いながら、実際は仲間たちの生活を縮めてきたのではないかと私は思っています。少々不便でも面倒でも、今度は何々したいという仲間たちの欲求とか意欲、要求が創出されるハードとソフトのシステムこそ本当のサービスじゃないかと思うんですよね。
・・・つまり、サービスによって助かったのではなくて、”もっと何々したい”という意欲がでてくる。それが本当の福祉サービスじゃないかなと思ったんですよね。

ウ)生活を、不安化させる狭い意味での”バリアフリー”
・・・狭い意味でのバリアは、あえて”区別”という言葉にも置き換えることが出来るんですね。区別とは、人間関係、社会関係作りの基礎です。
・・・すべてがバリアフリーではなくて、仲間達にとっても大事なバリアがあるような気がするんですよね。

これらは(施設を営むものならなおのこと)寄り掛かりたくなるような便利な言葉である。
便利な言葉は思考停止の罠となる。
しかし、中村氏は(おそらく)鋭い観察によってこの罠に陥ることなく自らの思想を導きだしている。

最後のバリアフリーについてなどカーテンや垣根、果ては敷居といったちょっとした段差の意味合いにまで注意を払い、へたな建築士よりも理解がある。

何でもフラットにすればよいというのは安易すぎるし、そういう考え(?)では、微妙な機微のようなものも失われ、記憶や文化といったものまでフラットで貧しいものになってしまうように思う。

「フラット」そのものが目的ではないはずだ。

要するに私たちがつくらなくてはいけない物は、仲間達が自分自身の時間、自分の空間、自分の人間(じんかん)、つまり人間関係を作り出すということです。別の言い方をすれば時間と空間と人間関係の主人公になれる環境整備を徹底的に目指すことです。

私達の理念とか思想は発達保障理論に基ずいています。

ようやく、「発達保障理論」がでてきた。

発達保障理論とは、何かを失いながらも何か意味のあるもの、価値のあるものを再獲得していく過程というふうに捉えることが出来る。つまり、私達の理論は最後まで、成長し発達し続けるんだいう理論、希望なんですね。

この理論は全国障害者問題研究会の理論だそうだが、様々なところに応用できそうだ。

正確な理解かどうかは分からないが、この論のミソは複数の価値の軸を設定することにあるようだ。

例えば上のグラフ。
高齢になったり障害が重くなるにつれ「出来るか出来ない」(縦軸)といったことは当然弱くなる。
ところが、「感情とか表情とか思い」(横軸)は膨らんでくるだろうという想定をする。
すると、縦軸を支援するんじゃなくて横軸を支援するという視点が生まれる。

このように軸を複数、例えば2つの軸を設定することで、二元論的な考えを抜け出せる。

一つの軸では線的な「評価」しか出来なかったものが、2つの軸とすることによって面的になり、そのあらわすものは「評価」ではなく個々のポジション、「個性」となるように思う。

それはもっと次元が増えても良いだろう。(自分のイメージとして扱えるのは限界があるだろうが)

他にもこの講演録には自立と依存、ルール・規則と表現・役割保障、その他、時間や空間いろいろなグラフがのっていたが、やはりそこには独特の視点がある。

それは、例えば以下の文章にも表れている。

私達が提案し過ぎるのではないかと思うんですが、仲間達にとって、迷う時間は大事なんです。

昼は視覚の世界です。そして、夜は聴覚、嗅覚、触覚の世界ですよね。ここでもいろんな環境整備やサービスの質が違うのではないかと思うんです。

規則を学ぶ事からいかに不規則を作り出すかという発想です。・・・この不規則の中に私達の豊かさがありますよね。どこまで不規則を作り出せるか、保障できるかということです。

この空間と時間も、いままでは連続するというふうにやってきたんですけど、どこまで非連続する空間を作り上げるかということですね。非連続とは、生活のメリハリですね。

素晴らしい。
ほんと建築的な視点だ。

このもとになった発達保障理論のテキストを読みたいと思ったが、探し出せなかった。
良いのがないだろうか。




B026 『はじめての禅』

竹村 牧男
講談社(1988/06)

確か大学生のころだったと思う。
(狭い意味で)宗教的な人間とはとても思えない父の書斎の本棚を物色しているときにこの本を見つけた。
興味本位で拝借したまま、いまだに返さずに、時々読み返したりなんかしている。
出版当時、著者は筑波大の大乗仏教思想の助教授である。
宗教家と学者の中間のような、程よく情緒的かつ学問的な心地よい文体で読みやすく分かりやすい。

僕は組織や宗教は、深入りすると自己の保守・維持自体が目的となってしまうことが多いような気がして、これらとは少し距離を保っておきたいと思っている。
その中で、「禅」は比較的自由な感じがしてそれほど抵抗感を感じない。
それどころか、魅力的でさえあり時々自分を見つめなおしたくなったときなんかにこの本に戻ってきたりするのである。

さて、なにが魅力的かというとなんとなくぐれた感じかっこいいのだ。
宗教臭くなくどちらかというと『思想』という感じ。
(すこし偏見を含む言い方ですが「宗教とは」という問はおいておきます。)

この本の章立ても実存、言語、時間、身心、行為、協働、大乗と惹かれるものであり、内容も哲学書よりも感覚的に捉えやすい。

(以下、僕の勝手な解釈)

この本に書かれている禅の思想は、「本来の面目(真実の自己)とは何か」との問いに対して道元の読んだ

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり

という詩に集約される。

主-客の分離を超え、言葉や時間によってとらわれることもない。
あらゆるものを否定し尽くし、それでもなお「個」があるところ、否定の先に大きな地平が拡がっているところに単なるニヒリズムにはない魅力があるのだ。

今思ったのだが、その地平とはもしかしたら僕がポストモダンの先に広がっていることを期待している何か、このブログでも今まで考えてきた何かと重なるのではないか。

禅の思想のような曖昧に見えるもの、感覚的なものは現代社会から急速に奪われつつあるもののように思う。何か一方的な見方に世界が覆われていくような怖さを感じる。

しかし、現代社会の行き詰まりを易々と突き抜けてしまいそうな、そんな期待を禅の思想は抱かせる。

それにしても、最初のころ(学生のころ)に読んだ本の影響力とはすごいものがある。
なんか、今まで考えてきたことは、最初のころの直感の枠の中を全く出ていないんじゃないような気がしてきた。
手のひらの上を飛び廻るだけの孫悟空の気分。

(引用や感想等まとまりなし)

我々が有ると思うところの自己は、考えられた自己である。見られた自己、知られた自己であって、対象の側に位置する自己である。しかし、自己は元来、主体的な存在であるべきである。その主体そのものは、知られ、考えられた側にはないであろう。

私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。

自由であるには考えることよりそのままを感じることが重要ではないだろうか。

ここで道元は、古仏が「山是山」と言ったのは「山是山」といったのではない、「山是山」と言ったのだ、と示している。結局、山は山ではない、山である、といっていることにもなろうが、否定と肯定が交錯してなお詩的ですらある。

こんな一見非論理的なものいいに奥行きが与えられていて、かつ真実を掴んでいるというあたりが魅力的だ。

その場合、桜に対し桜の語を否定することは、実はその前提の主-客二元の構図をも否定することにつらなり、無意識のうちに培われた自我意識を否定していくことをも含んでいるであろう。・・・つまり、桜は桜でない、と否定するところでは、自己も自己でなくなり、逆にそこに真実の自己が見出されうるのである。

我々は、既成の言語体系のままに事物が有ると固執することが、いかに倒立した見方であるかを深く反省・了解しなければならない。そして存在と自己の真実を見出すためには、言語を否定しつくす地平に一たびは立たなければならないのである。

この絶対矛盾に直面させるやり方は、言語-分別体系の粉砕をねらう禅の常套手段でもある。そのことがついには、真に「道う」体験に導くであろう。

『日日是好日』
人生は、厳しいものである。・・・そのときは、苦しみのたうちまわるしかない。その今を生きるしかない。ただひたすらに今に一如していくところにしか、真実の自己はない。そこを好日というのである。

仏教に於ては、すべての人間の根本は迷にあると考へられて居ると思ふ。迷は罪悪の根源である。而して迷と云ふことは、我々が対象化せられた自己を自己と考へるから起るのである。迷の根源は、自己の対象論理的見方に由るのである。『場所的論理と宗教的世界観』西田幾太郎

自己を意識することで怒りや迷いが生まれることは多い。
もう一つ離れてみることでそういった怒りなどを感じずにすむならばそれはすごくハッピーでは。

禅の絶対なるものへの感覚は、極めて独特である。『碧巌禄』第四十五則、「万法帰一」は、そのことを鮮やかに伝えている。
僧、趙州に問う、「万法、一に帰す。一、何の処にか帰する」。
州云く、「我れ青洲に在って、一領の布衫を作る、重きこと七斤」。

絶対とは何かを問われて「布巾を作ったが、七斤の重さがあった」と答える。全くもってファンキーだ。ステキ。

禅は決して一の世界と同一化することを求めているのではない。層氷裏の透明な無と化することを目ざしているのではない。大死一番・絶後蘇息という。絶対の否定から、この現実世界へとよみがえったところに、真実の自己を見出すことを求めているのである。

ゆえに我々に対して現れる仏は、すべて虚妄な幻影にすぎない。対照的に自己を捉えることが迷いの根源であったように、対照的に仏を捉えることはまた、正に迷いの集積である。臨済は「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」といっている。対象の位置におかれた仏は否定されるべきである。その否定する働きの当体にこそ、真の仏が見出されるべきである。・・・このとき、不可得の主体に成りつくし、真実の自己になりきるがゆえに、真に自己に由る、すなわち真に自由となるであろう。

結果、自由を得る。『徹底した否定のあとのつきぬけ・自由』。これは今までさんざん探してきた筋書きである。

なんとなく主客の区別や言葉の縛りを超えた自己をイメージするだけでとても穏やかになれる。それが悟りだとは思わないが、心地よいのだ。

関西人の気質やお笑いと禅をつなげたいなとも思っていましたが、またの機会があれば。
(僕は関西人的気質が世界的に注目され必要となる。と以前から考えている。
近頃はあまりにもフラットな世界が関西人的気質を奪っていかないかと危惧を抱き始めたが)




B025 『建築意匠講義』

香山 寿夫
東京大学出版会(1996/11)

僕は「空間」についての捉え方の多くをこの本からスタートしたように思う。
建築を学び始めの人にはお勧めで、この本のおかげで、最初は掴み所がなく曖昧過ぎた建築・空間という概念を、グッと身近に引き寄せることが出来た。

その時にまとめたメモからいくつか抜き出してみる。

建築とは、空間を秩序づけることであり、人間は空間によって秩序付けられる

私という不確かな存在を定着させるためには、まず、中心が指示され確定されなければならない。同時に輪郭を限定することが必要であるが、囲いは内と外を切断するだけでなくつなぐものでなければならない。

自己のアイデンティティは自分の中心、すなわち固定点を持ち、自分の領域すなわち囲いをもたなければ決して確立できない。

建築家は空間がどちらに向かってどのように広がりたいかを正しく把握することが必要である。

まず、個々の部屋がどうなりたがっているかを考えそれを一つにするために呼び集める。全体を統一するために部分を押し込めてはならない。

中心が確定できない場合でも、中心が多数ある部屋の共同体として考え抜かねばならない。

建築家は光を用いて形をつくる。

・照らす光光と影の対比
・満たす光空間を光のマッスとする
・「照らす光」と「満たす光」は連続的かつ共存しうるものである。

空間における光の意味、あり方を考えていくと、それは必然的に建築の諸要素、すなわち壁、屋根、天井、床の意味を捉え直すことになります。
それが伝統を捉え直すということである。
ここに建築家の最も大きな喜びの一つがある。

入口は常に特別な場所であり、喜びや悲しみ、期待や不安といった様々な意味が集中している。

都市は記憶の積層であり、その根底には大地がある。建築において持続性、連続性が重要であるのはこの由である。

建築は住む人の感情と精神、さらには人間の共同の価値を表現するものである。そして、それは私たちの存在のかけがえのない表象である。

「囲いモテイフ」「支えモティフ」は互いに対立し支配権を得ようと闘っている。それぞれの欲求を汲み取りこの対立を統合させなければならない。

人が生きるということは存在に対する信頼の上で行動しているということであり、私たちはそれを信じつくっていく中でしか、秩序を捉えられない。「行動的懐疑」こそが建築の様式の絶えざる交替を生んできた力である。

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

自己と空間を重ね合わせることでずっとイメージがしやすくなる。

ただし、この本でもカーンの本のときのような重さを感じてしまった。

「○○しなければなりません」「○○必要があります」というような断定的な書き方になんとなく違和感を覚えてしまうのだ。

例えば

・・・これらを、中心がないのだ、中心を考えることが間違っているのだ、と考えないようにしてください。そう安直に考えると、建築を空間としてとらえることができなくなり、単なる部屋のつながりをダイアグラムのようにつくることになります。あくまで、中心が多数あり、移動するような部屋の共同体として考え抜かねばなりません。

と言われると、最近はむしろ、中心や空間をわざと感じさせない、それこそダイアグラムのような建物が脚光をあび、なんとなくそれに共感する部分を持ってしまう自分と折り合いがつかなくなってしまうのだ。

なぜ、断定的な物言いが出来るのか。
それがうらやましくもあり不思議なのである。

あえて今、それに折り合いをつける仮説をつくるとすれば、
「中心を感じさせず、ダイヤグラムそのままに見える建築も、実際は作者の力量によってそうは感じさせないようにさりげなく空間を生み出しているのではないか。そうとは知らず安易に真似をするのは危険だ」
ということになる。それが正確かどうかは分からないが、この先に共通点が見つかりそうな気もしないでもない。

またしても、この本を最初に読んで数年後、妹島和世の作品集を見て衝撃を受けてから、何度となく繰り返してきた様々な問いが浮かんできてしまった。

それは、「空間とは」「普遍とは」「宗教とは」「人間とは」といった容易に答えのない問いに結びついてしまう。

結局は先に書いた

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

ということなのかもしれない。

そこで「道徳的」「確信」「信念」と言った言葉に対してまでも注意深くなるとどうも身動きがとれなくなる。

一度、もっと身近な視点に戻してみないと。

うーむ。また、混乱した文章になったけれども、混乱は僕だけのものだろうか。
みんな何らかの確信を持っているのだろうか。
気になる。




B019 『建築的思考のゆくえ』

内藤 廣
王国社(2004/06)

『建築的思考のゆくえ』というタイトルに気負って読み始めたのだが、思っていたよりずっと読みやすく、すっ、っと入ってくる文章だった。

分かりやすく書いてあるのは、著者が最近大学の土木分野で教え始めているので、建築以外の分野や一般の読者を視野に入れているのと、等身大で思考をする著者の性格からであろう。

本のタイトルも建築的思考がほかの分野へと拡がっていった先の事を意味しているように思う。

まずは、気になった部分を引用してみる。

世の中には「伝わりやすいもの」と「伝わりにくいもの」がある。(中略)日本文化の、とりわけ日本建築の本質は、具合の悪いことにこの「伝わりにくい』ものの中にある。(p.61)

昨日より今日は進歩し、昨日より今日が経済的にも豊かになる、という幻想。際限なく無意識かされるこのプロセスを意識化すること、形にすること、その上で乗り越えること、がデザインに課せられた役割であることを再認識すべきだ。(p.77)

わたしなりの感想では、世の中で語られている職能も資格も教育も、本来的な意味での建築や文化とはなんの関係もないのではないかと思います。(中略)話は逆なのです。今ある現実をどのようにより良いものにできるか、どのようにすれば人間が尊厳をもって生きられる環境を創りだせるか、が唯一無二の問題なのです。(p.88)

建築は孤独だ。建築はその内部環境の性能を追うあまり、外界に対してその外皮を厚くし、何重にも囲いを巡らせてその殻を閉じてきた。(中略)建築の孤独は深まるばかりだ。建築が多くの人の希望となり得ないのは、この「閉じられた箱」を招来している仕組みにある。(p.123,125)

時間を呼び寄せるためには、形態的な斬新さや空間的な面白さを排除することから始めねばならないと考えている。空間的な面白さは饒舌で、時間の微かな囁きをかき消してしまうからだ。(中略)われわれにせいぜいできることは、現実に忠実であること、時間の微かな囁きが、騒がしい意匠や設計者の浅はかな思い入れでかき消されないようにすることだけだ。(p.166)

最後の引用に内藤の建築の本質が出ている。

内藤廣といえば大屋根の一見して単純でざっくりとした建築をイメージするが、内部には独特の時間が流れているような気がする。
実際にその空間を体験していないのが非常に残念なのだが、形態の面白さに頼らず空気感イッポンで勝負、という感じだ。

どの本かは忘れてしまったが、ある建築の本に人間の感じる時間の概念が「農業の時間」⇒「機械の時間」⇒「電子の時間」(だったと思う・・・)と変わってきたというようなことが書いてあった。
本来、人間には「農業の時間」すなわち自然の秩序に従った時間が合っているのだろう。

そして、そういう時間の流れは内藤の言う「人間が尊厳をもって生きられる環境」に深く関わるだろうし、建築にとっての重要な要素であるだろう。

最近僕は、時間を呼び込むために空間的に単純であることが必要条件ではない、と感じ始めている。
一見、饒舌にみえても、その空間に身をさらせば、自然や宇宙の時間を感じるような空間もありうるのではと思うのだ。
たとえば、カオスやフラクタル、アフォーダンスといったものが橋渡しになりはしないだろうか。
それはまだ、僕の中では可能性でしかないのだが。




『原っぱ/洞窟/ランドスケープ ~建築的自由について』

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建築によって自由を得たいというのが僕の基本的な考えなのですが、最近、青木淳の本を読み、この点について共感する部分が多かったので、ここで一度考えをまとめてみようと思う。

青木淳のいう「原っぱ」というキーワードは、僕の中では「洞窟」という言葉であった。

例えば無人島に漂着し、洞窟を見つける。
そして、その中を散策し、その中で寝たり食べたりさまざまな行為をする場所を自分で見つけ少しずつその場所を心地よく変えていく。
そこには、環境との対等な関係があり、住まうということに対する意志がある。
それは『棲み家』という言葉で考えたことだ。

青木淳が言うように建築が自由であることは不可能なことかもしれない。しかし、この洞窟の例には洞窟という環境がもたらす拘束と、そこで行うことがあらかじめ定められていないという自由がある。

その両者の間にある『隙間』の加減が僕をわくわくさせるし、その隙間こそが生活であるともいえる。

洞窟のように環境と行動との間に対話の生まれるような空間を僕はつくりたいのである。
そう、人が関わる以前の(もしくは以前に人が関わった痕跡のある)地形のような存在をつくりたい。
建築というよりはをランドスケープをつくる感覚である。
そのように、環境があり、そこに関わっていけることこそが自由ではないだろうか。
何もなければいいというものでもないのである。

青木は『決定ルール』を設定することで自由になろうとしているが、これは『地形』のヴァリエーションを生み出す環境のようなものだと思う。

『洞窟』はある自然環境の必然の中で生まれたものであろう。その環境が変われば別のヴァリエーションの地形が生まれたはずである。

その『決定ルール=自然環境』によって地形がかわり、面白い『萌え地形』を生み出す『決定ルール』を発見することこそが重要となる。

ただの平坦な(それこそ気持ちまでフラットになるような)町ではなく、まちを歩いていて、そこかしこにさまざまな『地形』が存在していると想像するだけでも楽しいではないか。
もちろん、その『地形』とは具体的な立体的構成とかいったものでなく、もっと概念的なもの、さまざまな『可能性』のようなものである。

『原っぱと遊園地』を読んで考えたのはこういうことだ。
(新しいことは何も付け加えていないのだが)

ここらへんに、建築的自由へ近づくきっかけがあるように思う。
また、その『地形』には『意味』や意味の持つわずらわしさは存在しない。

そして、またもや『強度』というのがキーになる気がする。