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B009 『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』

東 浩紀
講談社(2001/11)

気が付けばすっかりテーマがポストモダンになっている。
意図的というよりやっぱり気になるのだ。
どこへ向かうにしろ、僕のような不器用な人間には、ある程度けりをつけなければならない問題なのだ。

『動物化』という言葉に何かの期待をしてこの本を手にとったのだが、その『動物』という言葉は、もともとはフランスの哲学者コジェーヴの書いた『ヘーゲル読解入門』のある脚注から来ているそうだ。

コジェーヴの主張(の東の要約を)を要約すると、ヘーゲル的歴史の後人々には「動物への回帰(アメリカ的生活様式の追求)」と「日本的スノビズム」の2つの生存様式しか残されていない。「動物」とはヘーゲルの「人間」の規定(与えられた環境を否定する存在)と対応し、常に自然と調和して生きている存在である。
また、「動物」は「欲求(単純な渇望。欠乏‐満足の回路が特徴)」しかもたず、「人間」は「欲望」をもつ。「消費者の「ニーズ」をそのまま満たす商品に囲まれ、またメディアが要求するままにモードが変わっていく」アメリカの消費生活はこの意味で動物的である。一方「スノビズム」とは「与えられた環境を否定する実質的理由が何にもないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式」である。
「スノッブ」は形式的な対立を楽しみ愛でる。コジェーヴは「アメリカ化=動物化より日本化=スノッブ化を予測していた」ため、80年代の日本のポストモダニストに好んで参照されたそうである。
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さて、オタクについてだが、
オタクはスノビズムをへて、いまや動物化している。

あえて、フェイクと知りながら意味を見出して消費するのではなく、もっとクールに「萌え」や「泣き」を「データベース的」に消費する。

そこにあるのは例えば「猫耳」「しっぽ」「触覚のように刎ねた髪」などの単なる要素の集積であり、それらのデータベースから、もっとも効率的に「萌え」や「泣き」を与えてくれる要素の組み合わせを選び出す。

それらの要素の働きは「プロザックや向精神薬と余り変わらない」。
たとえ、ある作品に深く感動したとしても、それを自分の「世界観(大きな物語)に結び付けないで生きていく、そういう術を学」んでいる。

作品のバックにあるのが大きな物語(世界観)ではなく単なるデータベースであることを前提とすることがマナーなのである。

このような小さな物語と大きな物語の切断を東は精神医学の言葉を借りて「解離的」と呼んでいる。

近代は「小さな物語から大きな物語に遡行」できると信じられ、移行期の人々は「その両者を繋げるためスノビズムを必要とした。」
そして、ポストモダンの人々は両者を繋げる事を放棄した。
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オタクを切り口にしての、現代文化分析はある程度理解できた。
そのような「解離」は今の社会を生きるためのひとつの処世術なのだろう。さて、そこで僕の差し迫った問題は「じゃあどうすんべ」ということなのだ。またしても、いつもの問いが頭をぐるぐると廻り出す。
・大きな物語ほ放棄しても良いのか。
・彼らは幸せなのか。
・豊かな行き方ってなに。
・ぼくにそれができるのか。
・「建築」になにがのこされるのか。
・設計の意味はどうへんかするのか。
・そもそもこんなこと考えることに「意味」があるのか。
などなど。きっと、こういうことを考えること自体、意味に対する未練であり、「大きな物語」という幻想の呪縛から抜け出していないのだ。
やっぱり、ポストモダンを生きるのはなかなかに難しく、「オタク」はなかなかのやり手である。しかし、これを自分の中で整理しなければ、自信を持って線の一本も引けやしないのだ。そこで、再び『意味に餓える社会』の最終章を見てみよう。

○すべてがデザイン
「デザインは意味を描いてみせる。」
「だから、デザインが意味の問題を抱えることは決してない。デザインは意味の問題を解決するものなのだ。」
「人間の態度と構想が世界を意味あるものとして開くのだ。」
「人間は意味を形成することによって、意味を求める問いに答えるのである。」
「作為の学の優れた先駆的思想家のホルガー・ヴァン・デン・ボームは要約していう。「・・・人間とは元来意味をつくり出す生き物なのだ。・・・それは、世界を開くデザイン、一つの象徴的形式、一言を以てすれば文化に他ならない。」

なんだ、「自身」をもって線をひけばよかったのだ。

意味とは捜し求めるものではなく、つくり出すものだったのだ。
それは、動物なんかにゃ出来ないだろう。
(なんか、一周して元に戻ったような感覚である。)
だとしたら、「小さな物語」=「大きな物語」となるようにおもうが、如何に。。。




B008 『妹島和世読本 -1998』

妹島 和世、二川 幸夫 他
エーディーエー・エディタ・トーキョー(1998/04)

この本は、僕が大学を卒業し、上京して再度学ぼうとしていたころに購入した。
今考えると、俺も結構ミーハーだなぁ。と思うが、とにかく妹島和世には相当な衝撃を受けたのである。
当時はその衝撃を自分の中でどう解釈してよいか、相当に悩んだ。

恥を惜しむがその当時のメモには

「このごろ、妹島和世の建築にも魅力を感じ始めている。それは、さまざまなものからの開放に対する興味でもある。僕の心は絶えず、内側への収束と外側への発散との間を揺れ動いている。98.5.17」

と書いている。

他にも気になる建築家はいたのだが、当時は両端としての安藤忠雄と妹島和世との建築の間で揺れ動き、自分の考えがどちらに近いかを早急にきめねば前に進めない。という焦りを感じていた。

このころ、僕の中で発見したキーワードは「収束」と「発散」である。
たとえば、安藤忠雄の空間の質は人を精神の内へ内へと志向させる「収束」であり、妹島和世の空間の質は人を精神の外側へと志向させる「発散」ではないかと考えていた。

そして、内へ向かおうが、外へ向かおうが、その究極の行き着く先は同じで、そこにはある種の『開放』と精神的な『自由』があるのではないか。

なんだ。結局は同じではないか。そんなに今悩むことないや。というのが、その当時のとりあえずの結論である。

この、「収束」「発散」「開放」というのは割合気に入っていて、架空の事務所名にも”release”という単語を入れている。(※記事作成時の事務所名)
今考えると、妹島和世の持つ自由さという印象は、モダニズムのさまざまな縛りから自由に羽ばたき、ポストモダンの生き方(建築のあり方)を鮮やかに示しているように見えたため、多くの若者の心をつかんだのだろう。

もちろん、妹島和世の建築は意匠的な狭義のポストモダニズムなどではないが、その思想の自由さには、やはりポストモダンを生きるヒントが隠されているように思う。




B007 『TADAO ANDO  GA DOCUMENT EXTRA 01』

book7.jpg二川幸夫/インタビュー(A.D.A EDITA Tokyo)1995.07
学生のころにおそらく僕が始めて買った作品集です。
建築を意識し始めたころに、安藤忠雄とコルビュジェにはまったのだが、これは当時の関西の学生の通過儀礼とでも言えるようなものだったと思う。
――閉鎖的な大学だったので、当時のほかの大学のことは実は知らないが――

当時は、世界を旅したエピソードや、元プロボクサーで、独学で建築を学ぶという遍歴に、そして建築に対する実直さに素直に魅かれたものである。
冒頭のインタビューを読み、何度初心に戻れたかわからない。

しかし、建築を学び始めてしばらくすると、その実直さが急に照れくさく感じてしまい「安藤忠雄」に興味のないふりをはじめ他の興味の対象を必死に探し始めるのである。

「安藤忠雄」的なものをとりあえず脇において、他の可能性をいろいろ考えたりもしたが、そういう見栄をはるのをそろそろ辞めて、いいものはいいと思っていいのでは、と考えるようになったのは割合最近のことである。

「安藤」的な姿勢、実直にモダニズムを突き詰める姿勢から生まれる、バカ正直にみえる安藤忠雄の建築は、類まれな「強度」を持ち、建築物としての存在意義を確保しているように思う。
方法はどうであれ、それこそが大切なのではないか?
『負ける建築』を書いた隈研吾でさえ「強度」を口にする。宮台真司もしかり。

「強度」という概念はドゥルーズからの言葉だろうが、実は僕はよく理解していない。
しかし、なんとなく今でもキーとなりうる概念の匂いがする。
今後の興味の対象である。

ちなみに、この作品集で好きだったのは、成羽美術館で、アプローチの構成にくらくら来た。




B006 『ぐれる!』

中島 義道
新潮社(2003/04/10)

「ぐれる」

なんとよい響きだろうか。
たぶん天邪鬼である私はつい題名に惹かれて買ってしまった。

「ぐれる」は「かぶく」ほど華やかでなく、「すねる」「ひがむ」「ふてくされる」よりも暴力的で、「すさむ」ほど絶望していないそうだ。
その、丁度よさ加減に惹かれる。

「ぐれたばあさん」「ぐれた社長」「ぐれた奥さん」
「おれ、午前中ぐれていた」「さっきちょっとだけぐれた」
「ぐれた総理大臣」「ぐれた最高裁判所長官」「ぐれた文化勲章受章者」

これらは、ぐれるための条件のなかで、違和感のあるものとして書かれているが、これらの言葉がちょっぴりチャーミングなのは、きっとこの言葉のもつ可能性の大きさを示している。
「かぶく」にも同じような可能性を感じ取れるが、「ぐれる」のほうがひかえめで良い。

『徹底的にぐれることこそ、「正しい」生き方なのです。ただし、下手にぐれるとみんなから―人生に何らかの意味を見つけて生きたい人や、誰かの役に立ちたいと願望している人や、自分が生きてきた爪痕を地上に残したい人・・・からたたきのめされます。―中略―上手にぐれるとは、このように、周囲の単純な人々を徹底的にだましながら、それを心から楽しみながら、ぐれるということです』

つまり、「ぐれる」とは004で触れたようなポストモダンを生きるすべなのだ。たぶん。

『善人とは、自分の価値観以外のものがこの世にあることを絶対にわかろうとしないアホな輩』とし、『こうした善人の策略にひっかかる者は意志の弱い者で、根性が腐っているのだから』『フツーの善人たちの軍門に降り』『「これでよかった」と呟いて死ねばいい』

と言ってのけるあたりなかなか痛快です。

『ぐれるのをやめ』て、『薄汚い善人どもの一員になる』『それだけは避けねばならない』

うむ。それだけは避けねばならない。

歳をとるごとにそれは難しくなるが、だからこそ『真剣に追求するに値し、たいそう味わい深い』のだろう。

終盤に作家を『ぐれ度』によって分類している

A(明確に)ぐれた作家たち
夏目漱石・三島由紀夫・野坂昭如・村上龍など(抜粋)
B(あまり)ぐれていない作家たち
正岡子規・石原慎太郎・司馬遼太郎・五木寛之・宮沢賢治など(抜粋)
Cぐれたように見えてそうでもない作家たち
与謝野晶子・小林秀雄・芥川龍之介・町田康・澁澤龍彦・よしもとばなな・林真理子など(抜粋)
Dぐれていなさそうでぐれている作家たち
良寛・谷崎潤一郎・志賀直哉・江藤淳・立原正秋

私としてはDがもっともグレードが高そうに見えあこがれてしまうが、根がまじめすぎるのはCにしかなれないようだ。

よっぽど真剣でなくては『ぐれていなさそうでぐれている』の称号は頂けそうにないな・・・

『鬱力』に載っている人はAが多い(宮沢賢治はBとなっているが)

やっぱりね。




B005 『CASA BARRAGAN カーサ・バラガン』

齋藤 裕
TOTO出版 (2002/04)

メキシコで活躍した建築家、ルイス・バラガン(Luis Barragan 1902-88)の住宅の作品集、というより写真集。建築家の斉藤裕が解説を加える。
テレビなんかでも紹介されたりするので、比較的知られている建築家だが、恥ずかしながら僕はじっくりと作品集を見るのは初めてだった。
掲載されているのは、バラガン邸、プリエト邸、ガルベス邸、サン・クリストバル、ギラルディ邸です。

とにかく、単純に、美しい。

『静けさは、苦悩や恐れを真の意味で癒します。どんなに豪華な、あるいは、ささやかな家であろうとも、静けさに満ちあふれた住まいをつくることは建築家の使命なのです。・・・』ルイス・バラガン

斎藤裕の解説文のタイトルが『生の謳歌』であるように、静けさのなかから生命感が溢れ出してる。
そういう感じです。

しかし、それはいったいどこからくるのだろうか。

バラガンの住宅はモダニズムの手法による徹底した抽象化という印象を受けるのと同時に土着的な、身体的な感覚を受ける。
この両者のバランスが、すばらしいのだ。抽象化とはこういうことか、と思わされる。

抽象化はまさしく日本建築のお家芸であったであろうが、バラガンは面の構成や色などにによって、物質を、光を抽象化する。
抽象化によって余計なものは削ぎ落とされ、自然、世界そのものを受け止める素地ができ、静けさのなかから生命感が溢れ出しているような場所と時間が生まれる。

また、バラガンはアシエンダ(大農場)の昔の記憶、原風景と呼べるものを大事に抱えていたようである。
そういうものがバラガンのバランス感覚を支えていたのだろう。
それは、バラガンの、そしてメキシコのものである。

おそらく、自分のなかにも原風景と呼べるものはあるし、割合大事にしてきているほうだと思う。
奈良の田舎で走り回った風景、遊び、屋久島の自然と生活・・・そういったものを改めて見つめ直したい気持ちになった。

また、この本で印象に残ったのは、建築家と施主の幸せな関係である。
施主はバラガンの住宅に誇りを持ち、感謝し、大切に住み続けている。

バラガンは幸せだ。

住宅もひとつの環境である。
環境とはおそらく与えられるものではなく、「関係」でしかないと思う。
施主と住宅(願わくば環境の全て)の「関係」をつくる手助けすることが建築家の職能のひとつだと思うのだが、今はそういうことは忘れられ、住宅でさえ商品となり、人々は受身で住宅を消費する。

自分の住宅(環境)と「関係」を結べるのは自分にしかできないのに。




B004  『意味に餓える社会』

ノルベルト ボルツ
東京大学出版会 (1998/12)

だいぶ前に買った本であるが、僕的にはヒットした本である。
がいまだ整理しきれない。

ここにはニーチェの「神の死」の後、ポストモダン社会をどう生きていくか、ということを考えるヒントがある。

著者は『意味を問うことはポストモダンの社会を欲しないということだ』と言い、われわれに意味を与えようとする様々なものの意味の意味を分析し、バッサバッサときっていく。

それはもう、ギター侍も真っ青なぐらい痛快に。

現代のような社会では複雑性と向き合うことを恐れ、思考をサボれば、分かりやすい意味の補助具にすがりつかざるをえなくなる。そして、その補助具に無意識に頼りすぎると自分の判断を失う。
その結果、ある種の「暴力」に知らずに加担するかもしれない。

見渡せば、そういった暴力はいたるところに見つけられる。

しかし、「意味」をクールに突き放すことには、自らの足場を不安定にし実存が崩れ落ちてしまうのではという恐怖がつきまとう。
いまだ僕は、「クールな視点の後の自由」と「実存的恐怖」の間を揺れ動いている。

もし、その恐怖を突き抜けることが出来たなら、もしくは突き抜ける必要がなかったなら、再度、この本について書いてみよう。
もし、この問題を解決できている人がいるなら、その秘訣・ヒントを教えてほしい。

以下、目次(一部は小見出しと部分抜粋も含む)
興味をそそる見出しが並ぶ。(時事ネタ多く古くなったものもある)
第7章、最後の小見出しは「すべてがデザイン」である!!

●●序論

・われわれの現実において、自明なものはもう何もない。自明性の喪失自体が、まったく自明になっているのだ。
・現代を生きるということは、価値のコルセットをつけて生きること、大きな理念や制度の型にはまって生きることではないのだ。人は自分が何であるかを自分で決めなければならない。意味はますます私的なことがらになっていく。

○意味の政治
・問われるのは実はひとつのことである。すなわち、きわめて複雑な、カオスと紙一重の世界と、どのようにかかわったらよいのか?複雑性とは全体が不透明だということだから、透明であること、明確であること、率直であることに対する憧れがいたるところで生まれる。そこで、人々はいまや、失われた意味を捜し求める。

○超自然としての自然
・環境問題が存在しないのではない。他の関連から切り離された環境問題「自体」が存在するのではなく、何らかのシステムが自己の環境から自己を区別するからこそ、環境問題が生ずるのだ。つまり、環境問題とは、本来、それぞれのシステムが非固定的な環境と自己との境界をどう引くかという原理的な問題なのだ。
・エコロジーは逆説的に、豊かな国々の豪華商品になってしまった。そうなると、環境問題に関する市民の感度は鈍ってくる。成長の限界についての感度の成長も限界に達した、とさえいうことができる。

○意味の意味

○意味論的カタストロフ
・これらは特定の概念が使えなくなったことを嘆いているにすぎない。まさにこの点で、またこのようにして、意味の問題が生ずるのである。どんな文化も、意味を仕立てるための一定の規則に基づいて成り立っている。だから、ある社会のこうした意味論的仕掛けが壊れてしまうと、意味の問題が生ずるのだ。したがって、意味の機器と渡渉するものは、何よりもまず、もはや昔ながらの概念をもってしては現代を満足に記述できないことを示唆するにすぎない。
・これに対して、多くの人々は、昔ながらの理論が役に立たなくなったことを、矛盾として世界に投影するという形で反応する。こうして「危機意識=批判的意識」が生まれるのだ。
われわれは単数集合名詞の檻に生きている。つまり、本来複数でしかありえない実態を一戸であるかのように見せる概念の折に生きている。「歴史」「現実」「人間」
・意味論的カタストロフに直面して、多くの人々は言葉を失う。開放をまったく欲しない人々も多い。だから、われわれの文化は、世界が見通しが利かないものになったことを紛らわすために人々に意味を提供し、言葉の補助具を用意するのだ。

○鍵になる概念
・われわれは明確な概念を必要とする。ただし、それが補助的な構成物に過ぎないことを忘れてはならない。そして、補助的な構成物なしにはやってゆけないということ自体が、この本のテーマなのだ。
・この本は、意味の問題を魔術から開放した上で、楽しげに「その日暮らしで行けばよい」と呼びかけるものではない。クールな実務家は、すでに幻滅に基づく世界像を持っているだけに、全然学習するつもりがない。「実務」を持ち出すことは、たいていは思考をサボるための口実に過ぎない。
・理論なしには、そしてヒエラルヒーなしには、いやでもやってゆけない。ヴィジョンを欲しながら同時にヒエラルヒ-を捨てることはできない。未来のブラックボックスを開くための鍵となる観念こそが、ヴィジョンの名に値するであろう。

●●第1章 扱いにくい灰色の基本問題・・・複雑性

○カオスとブラックボックス
・およそ自信のあるデザインならば、世界を開く構想のつもり、意味創出のつもりでなければなるまい。なぜなら、デザインとは、ブラックボックスの世界が複雑になればなるほど、人間と諸システムの接点の造形、インターフェイス・デザインというものが不可欠となる。
・デザイナーは、単純化の名人だ。彼らは常に、複雑性の縮減を任務とする。
・デザイナーは利用させるのが仕事だから、技術すなわち不透明な仕掛けに対する人間の不安を除かなければならない。

○三つの世界
・われわれ全員にとっての問題は、単純化することによってしか世界の複雑性に答えられないということにある。
・かどの複雑性は、まさに政治にとって、実務の優位という帰結をもたらす。
・哲学者でさえ、原理とか最終的根拠付けとか言うものは存在せず、われわれは常に「かのように」的な構成と取り組まねばならないこと、どんな理論の中心にも概念へと分解できないメタファーがあることを、ようやく理解しているようだ。
・そうした埋め合わせが必要だということは、環境に対し適切に対処するに足りる自己の複雑性を持たないということである。

○単に単純でないというだけのことではない
・刺激から守ってくれるものなしには、または刺激に無知でなければ、やってゆけない。何らかのフィルターが一定の情報を「ノイズ」として度外視することによって、複雑性が縮減される。

○人間本位主義と啓蒙主義
・「危機」という語は、高度の複雑性を単純化し、政治化するものである。はっきりいえば、危機は例外状態ではなく、現代に生きるわれわれのノーマルなあり方なのだ。
・「意味」とは、複雑性の自己記述に他ならない。だから、われわれの世界に意味がかけているわけではなく、われわれの属するさまざまのシステムそれぞれの価値が注目されていないというだけのことなのだ。
・ヒューマニズムもまた、複雑性の問題を覆い隠すものである。その友愛主義は人間を尺度として世界を測るものだが、それはとりもなおさず、生じたことの責任を人間に負わせるということだ。しかし、複雑性とは、人間のせいにできないということ、具体的な人間のせいだといえないことにほかならない。
道徳主義者が世論の動向を決めるのは、彼らがメディア受けするだけでなく、人間の心理を味方につけているからでもある。つまり、新しい思考というものは、それが緊急に必要なときに鍵って実現可能性を持たないのだ。ストレスに曝された者は昔ながらのやり方を頼りにする。複雑な観念を持ち出しても、たいていは空振りに終わってしまう。

○未来ないし統計
・統計が好まれるのは、構造を理解しなくとも数を比較するだけで複雑の諸連関を理解できるように思わせるからに他ならない。
・人々は今日、経験を信頼しないでトレンドを探り当てようとする。経験の軽視とトレンド志向とは表裏一体を成すものであろう。

○時間の矢印の破片
○原理主義者たちと阻止者たち
・生活時間と世界時間がかけ離れるや否や、意味を求める問いが発せられるのである。
・イタリアの映画監督パゾリーニは、低開発にとどまることが阻止者(カテコン)としての力を持つと説いている。後進性こそがユートピアとされるのだ。これと全く同様なのが、世間でもてはやされている「ユックリズムの再発見」の、背後にある発想である。ユックリズムを再発見しさえすれば、もうついてゆけないという体験を解釈しなおして、救出のしるしとみなすことができる、とされるのだ。
・ちなみに、ここには、阻止者論(カテコンテイク)のマーケティングが持つ大きな力、遅れをとったことを逆手に取る一種の販売技術が潜んでいる。「万年筆は、テンポを落とすこと、時間の流れに錨をおろすことの表現です」
・阻止者論を見ても原理主義を見てもいえるのは、現在を自己確認的に肯定する態度がますますまれになったということである。
・いまや、新しいものは終わろうとしているのだろうか?実際、終わりの時を示唆するしるしは沢山ある。

●●第2章 意味社会

・つまり宗教は、何が起こるか分からない(不条理な)世界において儀式により意味を構成するわけだ。
・無論、生きるということは、周りの世界の偶然を自分のアイデンティティーの要素になるように解釈してゆくことである。しかし、きわめて重大な問題にかぎって、個人が解釈しきれないものなのだ。宗教はまさにそこをとらえる。

○近代性の落とし穴
・われわれの近代世界が提供できるのはただひとつ、「何のために」を説いたり目標を掲げたりしないでやっていく「機能的意味」だけである。われわれの社会は、高次の意味を問うことがないからこそ、抵抗なく機能するのであろう。そこから言えるのは、意味を問うのは逃げの姿勢だということだ。「意味が見つからないこと」を気に病むものにとっては、すべてが別様でもありうることが(つまるところ自分の自由が)悩みの種なのだ。

・だから、私が思うには、失われた意味を求めるのは近代性の落とし穴から逃れようとする試みに他ならない。

○救済の約束
・もう一度ヤンチュを引用しよう。「意味に対する欲求は、人間意識の進化における強力な自己触媒的要素にほかならない」。われわれは意味を求めることによって、さらに発展しようとする自分の意識を刺激するのである。

○世界の脱魔術化
・社会学的にそっけなく言えば、生存の意味とは何かという問いは、生存そのものの彼岸で現れる。そうした問いは、肉体労働と自然の強制から開放されていることを前提としているのだ。世界と格闘しているものは「救済」してもらうどころではなく、「やる」しかないのだ。
・学問史家の立場からすれば、意味の喪失が体験されるようになった理由は二つしかない。
*近代の知が準拠すべき基準の喪失*知の分業化、ブラックボックス化
近代の知は、「外部の」世界を引き合いに出すのではなく、別の知を引き合いに出す。私は、自分の小さな箱に明かりをともすだけで他のすべてを無視する{つまりブラックボックス化}と言う条件の下でのみ、知の探求者として一人前になれるのだ。そこから生まれるのは、理解しないままで利用せざるをえないような知である。
・人々は理解しないものを用いるために、それに従うのだ。つまり、理解に代えて了承に甘んずるしかないのだ。世界に沢山の知があればあるほど、私自身の無知は増大する。この増大する無知を埋め合わせるためには、信頼するしかない。
・世界が科学的に・技術的になればなるほど、世界を「意味のある」ものとして体験することは不可能になる。

○ナルシシズムの痛手
・人間を尺度として世界を測ることは、もはやできない。これを「擬人的」に表現するなら、世界は人間を見捨ててしまったのである。すでにニーチェが、そのことをはっきり見抜いていた。「われわれはこの場所、この目的、この意味のせいで存在するのだ、こんな状態になっているのだと言えるような、場所も目的も意味もありはしない。とりわけ、全体を裁くこと、測ること、比較すること、まして否認することなどできるわけがないし、誰にもできまい」。

○学者たちと尊師たち

○近代的であることのコスト
・われわれの近代社会の特徴を、社会学者は彼らのそっけない用語で、さまざまの機能システムの分離と呼んでいる。善と真と美、法と権力は、分解して互いに無関係なものになっており、それぞれが特殊な文化によって、すなわちプロフェッショナルたちによって扱われるものになっている。
・しかし、それらは互いにどんな関係に立つのだろう?全体はどこに、一体性はどこにあるのか?答えはない。ここにぽっかり空いた空隙が、意味を求める人々を吸い込むのだ。つまり、意味喪失感の背景として、各部分システムそれぞれの独自性、特殊領域、固有論理が分かれてきたということがある。そして、機能ごとの分離がすべて意味喪失として体験されたことは明らかであろう。
・すなわち、近代化とは常に、一体にかわって差異を、ということなのだ。
・かなりの人々によって、「意味の欠如」として体験されるものは、実は意味の地平が開かれていること、オプションが豊かなことに他ならない。逆説的なことだが、意味が見つからないという喪失感は、文化的な意味がさまざまな形で過剰に提供されていることの結果である。何もかも、大きな意味があるとされるのだ!だから、「意味を見出せない」とは実のところ、「すべてが別様でもありうる状態を苦にする」ということ、つまり結局は「自分の自由を苦にする」、「不確定性(コンティンジエンシー)を苦にする」ということだ。

○押し売り的な救い手
○カタストロフの魅惑
○不幸せな「補助具をつけた神」
○(不)幸せのマネージメント
○独自の型
○重荷を下ろした意味概念
○意味を求める努力
○情報と神話
○意味の身代わり
○学問と政治の対話?
○エリートへの過大な要求
○政治化ではなく大衆化を

●●第3章ポストヒューマン・・・人間という尺度からの別れ
●●第4章批判的意識の大思想家たち
●●第5章それぞれのメディア世代
●●第6章メディアの世界
●●第7章文化・・・近代化の埋め合わせ
○深刻化をやめる
○あるがままの自分でいたい
○文化批判の文化
○重荷からの開放が重荷になる。



○すべてがデザイン




B003 『子どものための哲学対話』

 

子どものための哲学対話―人間は遊ぶために生きている!

内田 かずひろ、永井 均 他 (1997/07)
講談社



『人間は遊ぶために生きている』

子どものためだけなんてもったいない。大人も楽しく読めて、気がらくになる。

あたりまえの人にはあたりまえのことが、そうでない人にはそうでないことが書いてます。

『根が明るい人っていうのはね、いつも自分のなかでは遊んでいる人ってことだよ。・・・なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ』

きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことが出来る可能性がある。

『自分が深くて重くなったような気分を味わうために、苦しんでいる人を利用してはいけない・・・』

いやなことほど、心の中で何度も反復したくなるし、いやな感情ほどそれにひたりたくなるんだよ。忘れてしまうと、自分にとって何か重大なものが失われてしまうような気がするのさ。

人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なにより大切なことなんだ。そして、友情って、本来、友達なんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、なりたたないものなんじゃないかな?』

こんな感じです。あたりまえでしょ。

って、思うかどうかは単に性格の問題のような気もするけども。

いやー、今日は気がらくになった。

近々、永井均の書いたニーチェの本の感想も書こうっと。




B002 『住み家殺人事件 建築論ノート』

松山 巌
みすず書房 (2004/07/25)

著者は東京芸大建築学科卒の小説家・評論家。これも図書館でなんとなく借りた本。『建築雑誌』に連載していたものに加筆して単行本化したもの。
文体には理論派建築家のような鋭さはがないが(本のタイトルの印象のように)著者の思いの伝わる文章で、よく読んで見るとなかなか鋭い考察が見られる。
あとがきに『・・・たとえその地図が厳しい現実の前では無力な夢で終わろうとも彼らに手渡したいと考えた。本書はときに迂回し、ときに遊び、私なりの思考をたどった一枚の地図である。』(彼らとは直接的には芸大の教え子)とあるように、建築と社会の関わり方に対する『地図』を描こうとする試みである。
テーマの射程が大きく、かつ、もともとが連載ということもあり、内容は多肢にわたるが、一貫しているのはなにか「欠如している」、失われつつあるという警告である。

そこでキーとなるのがハンナ・アレントのいう「私的」「公的」という概念である。

『完全に私的な生活を送るということは、何よりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」deprivedということを意味する。』「人間の条件」ハンナ・アレント1994

『内奥の生活のもっとも大きな力、たとえば、魂の情熱、精神の思想、感覚の喜びのようなものでさえ、それらがいわば公的な現われに適合するように一つの形に転形され、非私人化され非個人化されない限りは、不確かで、影のような類の存在にすぎない。』(同上)

『世界の中に共生するというのは、本質的には、ちょうど、テーブルがその周りに座っている人々の真中に位置しているように、事物の世界がそれを共有している人々の真中にあることを意味する。つまり、世界は、すべての介在者と同じように、人々を結びつけると同時に分離させている。』 (同上)

アレントは古代ギリシャの概念を用いて、「私的」より「公的」であることを重要とし、「私的」を何かが「奪われた」状態とする。アレントについてはこちらを参考に。

『・・・あなたはそれほどおかしな社会であれば、もはや自分の生活こそなにより大事にすべきだと考えるだろう。だれもが社会のなかで生活していることぐらいはわかっている、しかし、だからこそプライベートな生活を重視すべきと思うだろう。』

しかし、それでよいのか?はっきりとしたものではないのだが、漠然とひっかかる何かがある。
それに対し、『欠如』『奪われている』という概念は何かの取っ掛かりになるような気がする。

東浩紀がラカン派の「想像界」「象徴界」「現実界」の3つの概念を引き合いに出して、象徴界が弱体化し『「世界の終わり」について思考しているが、「世界」については思考していない』状況を説明していたが、それに通じる部分があるように思う。(それについては別の回に。「郵便的不安たち」東浩紀著(朝日新聞社)1999.08)

建築はアレントの言う「テーブル」すなわち「世界」となれるのか。

われわれは何を『奪われている』のだろうか。

気がつけば、すぐに「考える」ことすらも奪われてしまう。私自身も時に「考える」ことの必要性と無力さのハザマを揺れ動いてしまう。

今度、アレントの本を探してみよう。




B001 『鬱力』

 

鬱力

柏瀬 宏隆 (2003/06)
集英社インターナショナル



私はかねがね、現代社会において鬱的な傾向を持たないような人は、どこかしらに問題を抱えているのではないか?言うなれば、感覚鈍化性非鬱病症候群とでもいえる何らかの症状なのではないか、と思っていた。
そこに、図書館でこのタイトルをみてなんとなく借りてしまった。

著者は精神科医であり、病跡学(人物と病理の関係を探る学問)の成果をもとに、黒澤明や宮沢賢治、ゴッホ、モーツァルトといった天才の創作力・生きる力に「鬱(ここでは少し広い意味で捉えている)」がどう関わるかを分析していく。
「鬱」が大きな力になることを描いているが、著者は病気としての鬱そのものを肯定しているわけではないようだ(精神科医としての視点)。

先に感想を言えば、文章が説明的すぎて途中から少し退屈してしまった。もう少し、著者の意見を前面に押し出して欲しいところだったが、正確さをきすあまり少し控えめになっている感がある。
ので内容についてはここには記さない。

「きみ自身が深くて重い苦しみを味わったことがあるなら、それとおなじ種類の苦しみを味わっている人だけ、きみは救うことが出来る可能性がある。・・・『子供ための哲学対話』永井均」

深い「鬱」をかかえ、それに立ちむかった格闘の跡が見えるからこそ彼らの作品は人々の心の琴線に触れるのだ。上記の引用によると、抱えた「鬱」が深ければ深いほど多くの人に感動を与える可能性があるのだろう。

私もそういう何かを抱えているような人に密かに魅力を感じ、信頼したりするのである。そんなことを再認識した。




立体性・廻遊性

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立体性

重力とどう向き合い、どう表現するかは建築においても重要なテーマとなる。、人間の知覚などの多くも重力によって支配されている。

それゆえ、縦の変化はより強く感じるように思うが、現在、「間取り」「坪単価」という言葉が強い力を持つように、平面的な思考が支配的で立体的な空間把握は忘れられがちになってるように思う。

しかし、立体的な工夫でイメージを拡げられることは多い。
チラリズムも役に立つ。

物理的にも概念的にも立体性をもたせることで奥行きが生まれイメージが拡がる。

平面的な構成の先にも大きな可能性を感じているのだが。

廻遊性

行き止まりはそこでイメージを分断してしまう事が多い(逆に存在感のある壁などで意識を受け止め想像力を引き出すということもあるが)。

そういった、イメージの分断を避け、開放するには廻遊性をもたせることは有効である。

建物の内部外部を問わず、ぐるっと廻れるようにすることで、イメージは急に途切れることなく緩やかに円環をつくる。

その円環からもれでるようにさまざまな場所に想像力を引き出す仕掛けを用意することで、イメージはさらに広がりや面白みを増すのである。

そうして拡がったイメージの中を自己は自由に飛び廻る。

選択の自由

今の世の中を行きていくには、多様性や自由と向き合うことは避けがたい。

それは複数の道を突きつけられるということだ。

複数の道があると言うことは選択できるということで、それは可能性であり、自由であり、責任である。

建物の中を歩き回るにしても、ルートなどのさまざまな選択ができることは自由なイメージの拡がりを生む。

そのようにして、さまざまな可能性を感じられる楽しげなものをつくってみたい。




人と人との関係

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人と人との関係

僕は大学の卒業論文(1997年)で「コミュニティから見たコーポラティブハウスの考察」というテーマを選びました。コミュニティとは地域社会や共同体という意味で使われる言葉です(定義もいろいろありますが)。コーポラテイブハウスは最近良く雑誌等でも見るようになりましたが、家を建てたい人が集まり、自分たちが望ましいと思う住宅を共同して作る集合住宅のことです。

まだ学生のころですから幼稚な面もありますが、基本的な思いは変わっていないので、今回はその卒業論文の冒頭の部分を抜粋して載せようと思います。少々長くなりますが読んでみてください。

注)文中の「建築の心理学」という本は少し古いもの(1980)ですので、現在の心理学と多少食い違う部分があるかもしれませんがご了承ください。また、《》で囲んだ部分は今回書き加えた部分です。

*****以下、卒論より抜粋*****

今日、社会や価値観が多様化・複雑化し、皆が「自由」や「価値観」を叫ぶようになり、何が正しいか、何をするべきか、というのが捉えにくくなってきている。

バーチャルな世界は急速に拡がり、現実と仮想現実の境界は曖昧になりつつある。そのようななか、犯罪の若齢化や悪質化、援助交際、幼児虐待・・・といったさまざまな問題が表面化してきている。世の中に不安を感じている人は多いのではないだろうか。

その原因の一つに、都市の《《都市に限りませんが》》匿名性や自由を求めすぎるあまり、人間関係を軽視してきたことがあるように思う。「建築の心理学」で、クリフォード・モーラーは人の心の健康は他人との実りある交流によって決まる。又自分のパーソナリティというものは他人と交流し、人々から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてそれは特に重要である。というようなことを言っている。

現代の都市においては、まさしくそのことが問題ではないだろうか。ここで、建築の立場から豊かな人間関係を作るためにはどのような方法があるか、ということを考えていくと・・・

---中略---

コミュニティについて論じる前に、コミュニケーションの必要性を考えるために、次に掲げるクリフォード・B・モーラーの「建築の心理学」で引用しているレイトン博士とジョージ・ハーマンの文を読んでもらいたい。

『自分自身というものは、人生のなかで遭遇する{重要な役割を持つ他の人々}から受ける評価によってつくりあげられる合成物、すなわち{内的なコミュニティ}である。したがって、各人の対人関係からもたらされる諸々の経験の質と量とにより大きく左右されるものである。

程よい形で人間形成を遂げる機会を持つためには、人は少なくとも、その人生の中でもっとも急激に成長する時期に正常な社会的役割を果たしているいろいろな人と接触しなければならない。このような機会が少ないときには、その人間形成は惨めな結果となってしまうであろう。』Leighton,My Name is Leighton

『精神医学ではすでに解明されていることであるが、グループのメンバーになるということは、人間の支えとなっている。すなわち、それは生活のなかで普通に発生するショックに耐え、子供たちを幸せな、そして、快活な人間に育て上げるのに役立つ事柄である。

もしも、人が参加しているグループから締め出されたり、自分の価値を評価してくれているグループから脱退したりして、しかも自分がその運営に関与できる別のグループへの参加が出来ないならば、人は、その圧迫感のために、正常な考え方、感じ方、ないし行動を取ることが出来なくなるであろう。

・・・このような状況に置かれてしまうと、自らが実在しているという感覚ですら、怪しくなってくる。そして、すぐに強迫観念にとりつかれるようになり、いわれもない不安感や怒りを抱き、遂には、自分自身にも、他人にも、破滅的な結果をもたらすような衝動的行動をとるに至る。

そして、こうした、正常な軌道から外れた人間は家庭内やそれよりも広い人間関係の中で、必然的にそれを誰かに継承していくよう関係を作り出す。

{孤独な人}は、自分の子供たちを対人関係の中で低い能力しかもてない人間に育て上げてしまうし、ひとつの世代がグループ活動に参加していないならば、次の世代もグループメンバーになっていく能力が弱まる。』Homans,Homan Group 《《現代はより複雑になってきているように感じます》》

すなわち、人間のパーソナリティは他人と交流し、人から評価を受けることによって作られるものであり、成長過程においてコミュニケーションは特に重要であり、人の心の健康を保つ上で、グループに参加してそのメンバーと交流関係を持つことは必須の要件である。ということである。

又、コミュニケーション能力の強弱が次の世代にも影響を与えるとすれば、世代を追うごとにコミュニケーション能力の弱い人が増加するのでは、という危機感を覚える。《《いつか述べたいと思いますが、現在コミュニケーション能力の必要性はますます増してきています。》》

他人との実りある交流関係を持つことによって、人は自分自身を見つめる機会や安心感などさまざまなものをえることが出来る。しかし、人との交流関係の中に、不安感やストレスを感じる人もいるだろう。「実りある交流関係」「本当のコミュニケーション」とは何なのだろうか。

---中略---

ここでも、モーラーの「建築の心理学」のなかで使われている、ノーマン・キャメロンの引用文を参考に考えてみたい。『正常な子供や大人と違って、不適当な人間形成過程を経てきた人間は《《正常・不適当という言葉には引っかかりますが》》、他人の信頼を惹きつけておくことが出来ないから、自分の中に恐怖心や不信感が拡がってゆくのを巧く処理できない。そして、自分がこうなったのも全て他人のせいであると考え始めるために、自分に対して想定される他人の反応や態度もしくは思惑のうちで、自分にとって好ましいと思われる人のみを取り上げて、それらの人だけを自ら設定した心の機能上のコミュニティの中に組み入れてゆく。

そのコミュニティの中に組み込まれた人の中には、実在の人もいるが、単に想像の上にだけにしか存在しない人もいるのである。そして、このように設定された他の人々のグループは、自らを説明したいと思うその人の欲求を当座の間は満足させてはくれるが、それらからは何らの信頼感をも得られず、体外的な緊張感だけがいっそう増すばかりとなる。

このようにして設定されたコミュニティは、他の人が加わっている組織体制とは適応できないばかりではなく、実際は、そのような他の人々のコンセンサスと敵対するものになってゆく。すなわち、彼らが自ら作った仮想のコミュニティのメンバーに期待する行動や態度が、現実にそれらのメンバーによって実行され守られることはないからである。けだし、これらのメンバーは、彼に敵対しないというだけで、彼のコミュニティに組み込まれたものであるからである。

このコミュニティは社会的行動における交流関係、相互期待関係及び相互確認関係を、自らの未熟な考えで作り上げた偽装的なコミュニティ (pseudo-community)でしかないのである。』Cameron,”The Paranoid Pseudo-Commyunity”

ここで、キャメロンは不適当な人間形成過程を経てきた人間は、自ら自分に都合のよい仮想のコミュニティを作り上げているとし、それを偽装的なコミュニティと名付けている。そして、それらの人々は、その偽装的なコミュニティの存在を固く信じており、それは、他人からの遮断状態の中に引きこもろうとするのと同じ防御反応のひとつだと述べている。《《大人が「最近の若者は」と思うことの多くは同じように現代社会で生きようとするひとつの防御反応ではないでしょうか。当然、子供にも責任はあるのですが、多くは大人が無意識に作り上げた社会に問題があるように思います。》》

---中略---

・・・他人との実りある交流関係が、人の心にどのように関係しているかは以上に述べたが、そのことは、ひいては社会全体を改善していくということについても重要な問題であるように思う。そして、そのことが私がコミュニティに付いて考えなければならないと考える一番の理由である。

---以後略---

*******************

ここではコミュニケーションについてのみ抜粋しました。コミュニティという概念は僕が生まれたころに一度熱心に論じられていたようですが、現在の状況の中では安易に適用するのは避けるべきだと思います。

簡単なことではありませんが、現在でも有効となりうる、コミュニティまたはそれに変わる概念を再考する必要があると感じています。




モノの力

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モノには素材そのもののもつ力がある。

人は自分たちが思っているより、ずっと多くのことをモノから感じ取っていると思う。

感じることによって人とモノとの関係が生まれる。

モノが自分の存在を受け止めてくれることだってあるかもしれない。

しかし、今の建築を含めた周りの環境はそういった関係を築くことを忘れている。

「プリントものの木」とは「プリントもの」との関係しか築けない。
そして、子供は「プリントもの」との関係しか知らずに大人になる。
なんか、哀しいし無責任だと僕は思う。




感じる機会

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感じる機会

いつからか、人は目に見えるもの、はっきりと証明できるもの意外は信用しなくなってきたように思います。

人間の感じる力が退化していくのではないかと危惧することはないでしょうか?それは、単なるノスタルジーであるかもしれませんが、何かを失っていくように感じます。

分かりやすいこと、便利なことは、ある意味で快適なことではありますが、それは与えられることが多いゆえ、じっくり考えたり感じたりする機会を奪ってしまいます。

「旅行が雑誌やテレビで見たものの単なる確認作業になり、写真をとることでその確認の証明にしている。そして、そこでの生の体験や発見を見失っている。」というようなことが言われますが、それも利便性などと引き換えに感じる機会を失っている例ではないでしょうか。

光や色、音、匂い、感触などを感じることによって得られるものはたくさんあります。音や匂いがある記憶を呼び覚ます、という経験は誰にでもあると思いますが、そのような機会を失いつつあるように思います。

そのほかにも、動物の本能に驚かされるように、人間にもさまざまな感じる力があると思います。僕を含め、その力を無駄にして生活していることが多いのではないでしょうか。それはたぶんもったいないことのような気がします。




敷地

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ふさぎこんだ敷地

現代の多くの住宅を見てみると、どんな敷地であっても規格化された家を無造作に置き、その家と周りの環境とは切り離されているように思います。敷地の残りの部分を庭にしていても、それが内部の生活とつながっていないため、庭とは名ばかりの存在になっています。場所によっては木の一本もなく敷地の隙間は見捨てられています。

敷地から飛び出す

法律によって敷地に建てられる建物の割合が決まっているので、敷地全てを家にすることはできませんが、建物の配置、窓のとり方、壁の配置、植栽などによって、敷地いっぱいを有効に活用することができます。石をひとつ置くだけでぐっと広がりを感じさせることもできます。

また、想像力を駆使すれば、敷地の枠を外れイメージはぐっと広がります。家そのものの床面積を重要視する傾向がありますが、家を小さくすることで逆に何倍もの広がりを感じるようになることも多々あります。

僕は、敷地に座り込んでじっと動かない、ふさぎこんでいるような住宅を見るとすごくもったいなく思います。

せっかくの敷地ですから、有効に活用し、さらに敷地の枠も外せるような建築を建てたいです。

日本建築から学ぶ

すごく、大雑把に言うと、欧米などでは厳しい自然環境や外敵から身を守るため、壁によって内部を基本的に外部と切り離す建築が発達しました。

一方、日本では比較的気候が温暖ということもあり、”借景”など、巧みに周りの自然環境などを取り込み、周囲と一体化した建物が建てられました。

そして、木の柱と梁の構造、開け放せる建具、縁側や軒の深い庇等が発達したといわれます。

昔の日本建築には領域をあいまいにする作法で学ぶべきものはたくさんあるように思います。




私と空間と想像力

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自己と世界

「私のいる空間が私である」ノエル・アルノー

自己と世界との関係ははるか昔から人間にとって主要なテーマでありつづけました。

普段私たちはこういう事は考えることもなく私は私で世界は別にあるものと感じていると思います。しかし、音楽の世界に浸っているとき、大自然に包まれているときなど、何か自分の世界が広がり、世界と一体になったような感覚は誰でも感じたことがあると思います。僕にとってそのひとつが屋久島での体験でした。

領域の拡大

自分という領域があるとすれば、それは周りの環境や想像力によって無限に大きくなると思います。

例えば自分が鳥になって空を飛んでいることを想像すれば空は自分の領域になります。高台から町の光を見下ろせばその町が自分の領域のように感じます。

建築的な話をすると、家の中心に階段があるとします。その階段をのぼらなくても、階段は登ることを想像させその上の部分にまでイメージを広げます。また、快適なテラスは家の中にいながら外部へ、そして空へとイメージを広げます。さらに想像力をたくましくすれば空は地球上の全ての場所とつながっています。

鹿児島のシンボル的な存在である桜島はそれが見えることで私たちのイメージを一気に引き伸ばしてくれます。

このように、想像力は私たちの世界を広げてくれます。そして、それは私たちのアイデンティティの問題とも深くかかわっています。

「私のいる空間が私である」。だからこそ空間に心地よさを感じられるのかもしれません。




世界観

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古代ギリシャ人の世界観

古代ギリシャ人は建物の配置を厳密に数学的に計算して配置していました。ギリシャ建築の建物の配置にも大まかに2つのタイプがあります。イオニアの人たちは宇宙は無限であると考えていました。そのため、無限に広がる世界に恐れを感じ、自らの領域を確立するために周囲を囲うように建物を配置しました。

一方、ドーリスの人たちは宇宙を有限なものと考えていました。そして恐れることなく、必ず外に向かって開けるような隙間ができるように建物を配置しました。

世界の捉え方

このように、世界のとらえ方は人間の根源的な恐れのような部分に密接に関係しています。

どちらが良いと言うことではなく、現代の社会や人々の考え方によって、建築は変わるということです。

逆に、私たちの周りの環境は私たちの世界観を作り上げます。ここに建築に携わる人に与えられた責任があるように思います。




世界とのつながり

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屋久島で感じたこと

僕の実家は屋久島にありますが、屋久島に帰るといつも海と山の見渡せる丘に登り、ボーっとすることにしています。そこで感じたことが、僕の建築を考える上でのひとつの原点になっています。

月並みな表現ですが、そこでは、何もかも忘れることができます。世界の広さを感じ、自分の存在の小ささを感じます。同時に、自分と世界との境界も曖昧に感じます。次の項でも述べますが、世界そのものが自分であるような感覚になります。そして、冷静に自分を見つめることができます。

抑制された想像力

少年犯罪や、自殺などのニュースを見ると胸が痛みます。僕の想像でしかありませんが、彼らは自分の周りのほんの小さな現実が、世界のすべてというように感じざるをえないような状況に追い込まれてしまったのではないでしょうか。

少し冷静に考えてみると、自分の周りの現実以外にも、想像もつかないほどの広大で多様な世界や可能性が存在していることに気づきます。彼らは逃げ出しても良かったのだと思います。ほんの小さな想像力ときっかけがあれば避けられた事件はたくさんあると思います。

しかし、日本はどんどん想像力を抑制する方向に進んできました。僕が建築と向きあいたいと思うきっかけになった97年の神戸の殺人事件でもいわゆるニュータウンと呼ばれる郊外のことが話題になりました。

同じような住宅が整然と立ち並ぶ砂漠のような状況の中、多様な世界に思いをはせることは困難に思います。さまざまな場面で想像の入り込む余地は切り捨てられ、抑圧されてきたように思います。

世界とつながる

そのような状況の中、想像力がはばたき、世界とつながりを持つことのできるような建築をつくりたいというのが僕の思いです。




想像力

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想像力

僕は建築について考える際に”想像力”を大きなテーマとしています。

設計する側に必要な能力として想像力が必要というだけでなく、建築・住宅を利用する人たちが自然と想像力を働かせるような建築をつくりたいということです。

想像力はさまざまな関係性を開くための鍵なんじゃないかなと思います。




棲み家

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棲みか

学生のころ友人と「棲みかっていう言葉はいいな」という話をしながら、「棲みか」という言葉から生まれる可能性のようなことを考えていたことがあった。
しかし、そのときはうまく言葉に出来なかった。

最近、再び「棲みか」という言葉の持つニュアンスに何か惹かれるものを感じはじめたので、今回は何に惹かれるのかということを何とか言葉にしてみようと思う。

「生きること」のリアリティ

テレビ番組などで会社勤めを辞め、田舎で自給自足をしている人などの特集をよく目にするが、そこには「生きること」のリアリティを求める人の姿があるように思う。

現代のイメージ先行で売る側の論理が最優先される大半の商品住宅において「生きること」のリアリティを感じるのは難しい。

なぜなら、環境と積極的に関わることなしにリアリティは得難いし、商品住宅を買うという行為はどうしても受身になりがちだからである。

僕は「住宅」よりも「いえ」、「いえ」よりも「棲みか」という言葉に積極的に環境とかかわっていこうとする意志を感じる。
それは、子供のころツリーハウスや秘密基地にワクワクしたような感覚に通じるように思う。

単純に環境との関わりを考えると、大地や空との接点、天候や四季の移り変わりを感じること、また社会的な人との関わりなどが思い浮かぶ。それらはリアリティを感じるために重要なテーマになるし、僕も大切にしていきたいと思う。

自由と不自由の隙間

最近強く感じ始めたのだが、機能的で空調なども完璧にコントロールされた完璧に体にフィットするような環境は(そんなものは有り得ないと思うが)、快適であると同時に何か気持ち悪さを感じる。

僕は自由や快適さ・機能性などと同じように、不自由さや不快さなどにもある種の価値が存在すると考えている。

誤解しないで頂きたいのは、それらそのものに価値があるというよりは、自由さや快適さとの隙間に価値があるということである。

それらの「隙間」に積極的に「環境と関わっていける余地」が残されているということが重要なのである。

そのように環境と関わっていった結果、自由や快適さを得られればそれでよいし、それによって別の何かを得られるのではないだろうか。

環境と関わる意志

20世紀は自由や快適さを闇雲に求めてきたし、様々な面で受身の姿勢が見についてしまった。しかし、受身のままでは得られないものもある。

21世紀はそのことへの反省も含め不自由さや不快さにも価値が見出されていくように思う。
そのときに重要になるのが、自由や快適さとの「隙間」、その距離感に対するバランス感覚であり、自発的に環境と関わろうとする意志であると思う。

そして、僕は「棲みか」という言葉のなかにそういった可能性、生きることのリアリティや意志を感じるのである。