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B028 『平成15年度バリアフリー研修会講演録』

中村隆司講師(バリアフリー研究会?)?


どこから入手したかは忘れたが、前に福祉施設についていろいろ調べていたときに見つけてコピーしてたもの。

その中で出てきた「発達保障理論」という言葉がとても心に残っていたので、引っ張り出して再び読んでみた。講師は福祉施設の館長であるが、考え方がとても自由でユーモアもあり好感がもてた。

バリアフリー的発想・理念と理想についての話からいくつか抜き出してみる。(・・・は中略を示す『仲間達』とは入居者)

生活者としての素朴な発想こそ、最高の思想だということです

よく、福祉村と言う言葉がありますよね。個人的には、あんまり好きじゃないんです。・・・何でもそこで揃うからとても便利なようで、一番大事な人と自然と社会との交通交流がないんですよ。・・・ですから”ゆめのむら”じゃなくて、こだわって私たちは”ゆめのまち”と言ってきたんです。

このバリアを作り出してきた言葉とその思想
ア)生活の自由・文化・人権を制限してきた”安心・安全”
私はこの安心・安全という言葉が、どれくらい仲間達を苦しめてきたかと思うんです。
・・・確かに正義を守る安心・安全もあります。同じように大事なものは、その人が欲求・不安・心配・要求・文句を何でも言え、運営・実践に、参加・参画できる安心・安全です。
・・・それから、発達とか成長の希望・可能性のもてる安心・安全

イ)生活を縮め、生活を細めてきた”奉仕”や”サービス”
サービスの質の向上と言いながら、実際は仲間たちの生活を縮めてきたのではないかと私は思っています。少々不便でも面倒でも、今度は何々したいという仲間たちの欲求とか意欲、要求が創出されるハードとソフトのシステムこそ本当のサービスじゃないかと思うんですよね。
・・・つまり、サービスによって助かったのではなくて、”もっと何々したい”という意欲がでてくる。それが本当の福祉サービスじゃないかなと思ったんですよね。

ウ)生活を、不安化させる狭い意味での”バリアフリー”
・・・狭い意味でのバリアは、あえて”区別”という言葉にも置き換えることが出来るんですね。区別とは、人間関係、社会関係作りの基礎です。
・・・すべてがバリアフリーではなくて、仲間達にとっても大事なバリアがあるような気がするんですよね。

これらは(施設を営むものならなおのこと)寄り掛かりたくなるような便利な言葉である。
便利な言葉は思考停止の罠となる。
しかし、中村氏は(おそらく)鋭い観察によってこの罠に陥ることなく自らの思想を導きだしている。

最後のバリアフリーについてなどカーテンや垣根、果ては敷居といったちょっとした段差の意味合いにまで注意を払い、へたな建築士よりも理解がある。

何でもフラットにすればよいというのは安易すぎるし、そういう考え(?)では、微妙な機微のようなものも失われ、記憶や文化といったものまでフラットで貧しいものになってしまうように思う。

「フラット」そのものが目的ではないはずだ。

要するに私たちがつくらなくてはいけない物は、仲間達が自分自身の時間、自分の空間、自分の人間(じんかん)、つまり人間関係を作り出すということです。別の言い方をすれば時間と空間と人間関係の主人公になれる環境整備を徹底的に目指すことです。

私達の理念とか思想は発達保障理論に基ずいています。

ようやく、「発達保障理論」がでてきた。

発達保障理論とは、何かを失いながらも何か意味のあるもの、価値のあるものを再獲得していく過程というふうに捉えることが出来る。つまり、私達の理論は最後まで、成長し発達し続けるんだいう理論、希望なんですね。

この理論は全国障害者問題研究会の理論だそうだが、様々なところに応用できそうだ。

正確な理解かどうかは分からないが、この論のミソは複数の価値の軸を設定することにあるようだ。

例えば上のグラフ。
高齢になったり障害が重くなるにつれ「出来るか出来ない」(縦軸)といったことは当然弱くなる。
ところが、「感情とか表情とか思い」(横軸)は膨らんでくるだろうという想定をする。
すると、縦軸を支援するんじゃなくて横軸を支援するという視点が生まれる。

このように軸を複数、例えば2つの軸を設定することで、二元論的な考えを抜け出せる。

一つの軸では線的な「評価」しか出来なかったものが、2つの軸とすることによって面的になり、そのあらわすものは「評価」ではなく個々のポジション、「個性」となるように思う。

それはもっと次元が増えても良いだろう。(自分のイメージとして扱えるのは限界があるだろうが)

他にもこの講演録には自立と依存、ルール・規則と表現・役割保障、その他、時間や空間いろいろなグラフがのっていたが、やはりそこには独特の視点がある。

それは、例えば以下の文章にも表れている。

私達が提案し過ぎるのではないかと思うんですが、仲間達にとって、迷う時間は大事なんです。

昼は視覚の世界です。そして、夜は聴覚、嗅覚、触覚の世界ですよね。ここでもいろんな環境整備やサービスの質が違うのではないかと思うんです。

規則を学ぶ事からいかに不規則を作り出すかという発想です。・・・この不規則の中に私達の豊かさがありますよね。どこまで不規則を作り出せるか、保障できるかということです。

この空間と時間も、いままでは連続するというふうにやってきたんですけど、どこまで非連続する空間を作り上げるかということですね。非連続とは、生活のメリハリですね。

素晴らしい。
ほんと建築的な視点だ。

このもとになった発達保障理論のテキストを読みたいと思ったが、探し出せなかった。
良いのがないだろうか。




課外授業ようこそ先輩「絵本の中の ぼくわたし」荒井良二 (絵本作家)

NHK総合『課外授業~ようこそ先輩』

『課外授業~ようこそ先輩』はとても好きな番組だ。

子供の可能性の大きさや、大人の存在・「在り方」の大切さに気付かせてくれる。

大人が自分自身で「在り方」のようなものを示すことが、子供に対してできる最大のことではないか、と僕が思うようになったのはこの番組の影響が大きい。(あと尊敬できる幾人かの身近な大人)

しかし、気がついたときに見るだけだったので、過去のゲストを見て後悔することも多い。(ビデオそろえたいなぁ)

ということで水曜日はなるだけ観て、一言二言ブログにUPすることを心掛けよう。

今回は絵本作家の荒井良二。
メモをとりわすれたのは残念。
自由で意外性をもつ作風で、児童文学のノーベル賞と称される「リンドグレン記念文学賞」を日本人として初めて受賞したそうだ。

荒井流絵本の極意
その1.線をひくその2.汚すその3.主人公を貼る

頭で考えるより先に身体を動かす。

設計でも「手で考える」というのは大切だ。
身体で考えることはコンピューターではなかなか補えない。

(絵本では)豊かな雰囲気のようなものを届けられればいい、と言うようなことを言ったのが印象的だった。
何か大切なものが含まれていそうな雰囲気。それが直接的なメッセージよりも多くのものを伝えるのかもしれない。

子供のころは「ありがとう」という言葉もなかなか口に出すことが出来ず、小さく頷いている間に相手がいなくなってしまうような子供だったそうだ。

そういえば、少し前の別の番組(世阿弥について)で瀬戸内寂聴が「コンプレックスのようなものをもたない人はものはつくれない」というようなことを言っていた。

(他に「芸術は必ず反権力であらねばならず、易々とは生きられる訳がない。」というようなことも言っていた。寂聴の芸術などに対する言葉は刃物のように切れ味があって好きだ。自分のやってきたことに自信がないとああは言えない。)

荒井のテーマは’子供たちの常識をくつがえすこと’だったようだけれども、これはこの番組に通底しているように思う。

大人の様々なエゴや思い込み、想像力不足な環境に抑えつけられている子供たちは、ちょっとその環境を壊すだけでとたんにいきいきと躍動する

僕も子供たちにとってそんな存在の大人になりたい。
(それが、僕にとって一番の目標なのかもしれない。まだまだ遠い道のりだけども)
[MEDIA]




B027 『知恵の樹』

管 啓次郎、H.マトゥラーナ 他 (1997/12)
筑摩書房


オートポイエーシスに興味があることと、友人の『映画を観たあとのような読後感』という奨めでだいぶ前に図書館でわざわざ閉架書庫から探してきてもらって少しづつ読み始めた。

しかし、いっこうに進まない。
同じところを何度読み返してもなかなか頭に入ってこない。
すっと読めたのは、浅田の序文だけ。
古い著書ということもあるだろうが、訳が僕と非常に相性が悪いのだ。

訳書にはたまにあるが、原文をそのまま日本語にしただけのような感じ。
こういう訳を見ると不親切さに腹が立ってきてしまう。英文読解のようにいちいち関係代名詞なんかを意識しないと意味がわからない。(建築基準法なんかの文もそうだが)

おまけに句読点やひらがな表記がやたらに多いうえに、3段組で忙しく目を上下しないといけなくて読みづらいったらありゃしない。

なんとかあきらめずに読みきろうと思ったけれども、これでは『映画を観たあとのような読後感』はとても味わえそうにない。

興味があるだけに、余計訳者に腹が立ってきてどうしようもないから、やめたやめた。
返却期限もとうにすぎてるんで、残念だがもう読むのはあきらめる・・・。

ということで、誰か(?)代わりにこの本の感想をコメント欄にでも詳しく書いてくれないだろうか(半分冗談)

追記
友人のコメントを見返すと(ちくま学芸文庫)とある。
文庫版が別に出ているようだ。
発行は1997年のようだから、もうちょっと読みやすくなっているのだろうか???

追記 2009/5

文庫版を買ってきて読んでみた。注記がうるさくて読みにくかったが、なんとか読了。

友人の言う『映画を観たあとのような読後感』というのが少し分かった気がする。

イメージを掴めば世界の違った見方を手に入れられそう。
イメージをつかむには山下 和也 著 『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方』はかなりの良書です。




アネハ

あまりに問題が大きすぎて書ききらなかったけれども、傍観もできない。
憶測混じりで無責任な部分もあるが書いてみる。

○姉歯の構造偽装について

普通の感覚では恐ろしすぎてあんなことはできない。
カメラの前で淡々と喋る姿もあまりに不自然で狂ったものの犯行としか思えない。

というのが、最初の印象だった。
しかし、一人の(もしくは数人の)狂った人間の仕業ですませられない。

これに関わった多くの関係者は皆確実に違和感を感じたはずで、心のどこかで警報が鳴っていたはずである。(鳴らなかったとしたらそれは素人だ)
しかし、誰もが直接の責任は自分にはないとその警報を無視したのだろう。

それは、意図的というよりは身に付いた習慣で、気付かずに無視していたのかもしれない。

皆が警報を無視し、直接の責任者(姉歯)に責任をなすりつけていくうちにあまりにも問題が大きくなりすぎた。

今回、『茶色の朝』が現実のものになったように感じた。

カメラの前の淡々とした姿は、開き直ったというよりは、しでかしたことのあまりの大きさに気付き呆然とし、現実を直視することができなくなっている様に見える。

おそらく、犯行時、姉歯氏の頭の中では、自分ひとりが犯行を行っているという感覚はあまりなかったであろう。意識的ではなくとも『皆なんとなく気付いて見過ごしているのだから自分ひとりの責任ではない』と、「責任の感覚」は過剰に小さかったに違いない。

それが、突然責任として目の前に突き出されて事の大きさにはじめて気付いたということだろう。(単なる憶測)

なんか、子供のイジメに構造が似てる。
取り返しがつかなくなってはじめて気付く。
傍観者も自分には責任はないと思うふりをする。

似たような『なんとなく進行している重大なこと』は環境問題はじめいたるところにある。

そういう『警報』に対してあまりにも無頓着、自分の方ばかり見るのが当然な世の中はやはり寂しい世の中になる気がする。

大人のエゴでそういう寂しい世の中を子供に与えてはいけないと思う。(大人だけなら勝手にやればよい。)

あ、あと、この事件によって知らしめられたのが、
「建築士がいかに冷遇されているか」
ということだろう。
命を護り、社会をかたちづくり、時には感動を与えと、非常に重要な仕事であるはずだけれども、同じ国家資格の医者や弁護士に比べると・・・・

と言い出すと、愚痴になってしまう。

そういう重要性を知らしめる努力や勉強を怠っていたり、忘れてしまっていたりと原因は多分にこちら側にもある。

まぁ、なかなか喰えないのは確かだ。。

(これが本当に書きたかったことだったりして・・・)




B026 『はじめての禅』

竹村 牧男
講談社(1988/06)

確か大学生のころだったと思う。
(狭い意味で)宗教的な人間とはとても思えない父の書斎の本棚を物色しているときにこの本を見つけた。
興味本位で拝借したまま、いまだに返さずに、時々読み返したりなんかしている。
出版当時、著者は筑波大の大乗仏教思想の助教授である。
宗教家と学者の中間のような、程よく情緒的かつ学問的な心地よい文体で読みやすく分かりやすい。

僕は組織や宗教は、深入りすると自己の保守・維持自体が目的となってしまうことが多いような気がして、これらとは少し距離を保っておきたいと思っている。
その中で、「禅」は比較的自由な感じがしてそれほど抵抗感を感じない。
それどころか、魅力的でさえあり時々自分を見つめなおしたくなったときなんかにこの本に戻ってきたりするのである。

さて、なにが魅力的かというとなんとなくぐれた感じかっこいいのだ。
宗教臭くなくどちらかというと『思想』という感じ。
(すこし偏見を含む言い方ですが「宗教とは」という問はおいておきます。)

この本の章立ても実存、言語、時間、身心、行為、協働、大乗と惹かれるものであり、内容も哲学書よりも感覚的に捉えやすい。

(以下、僕の勝手な解釈)

この本に書かれている禅の思想は、「本来の面目(真実の自己)とは何か」との問いに対して道元の読んだ

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり

という詩に集約される。

主-客の分離を超え、言葉や時間によってとらわれることもない。
あらゆるものを否定し尽くし、それでもなお「個」があるところ、否定の先に大きな地平が拡がっているところに単なるニヒリズムにはない魅力があるのだ。

今思ったのだが、その地平とはもしかしたら僕がポストモダンの先に広がっていることを期待している何か、このブログでも今まで考えてきた何かと重なるのではないか。

禅の思想のような曖昧に見えるもの、感覚的なものは現代社会から急速に奪われつつあるもののように思う。何か一方的な見方に世界が覆われていくような怖さを感じる。

しかし、現代社会の行き詰まりを易々と突き抜けてしまいそうな、そんな期待を禅の思想は抱かせる。

それにしても、最初のころ(学生のころ)に読んだ本の影響力とはすごいものがある。
なんか、今まで考えてきたことは、最初のころの直感の枠の中を全く出ていないんじゃないような気がしてきた。
手のひらの上を飛び廻るだけの孫悟空の気分。

(引用や感想等まとまりなし)

我々が有ると思うところの自己は、考えられた自己である。見られた自己、知られた自己であって、対象の側に位置する自己である。しかし、自己は元来、主体的な存在であるべきである。その主体そのものは、知られ、考えられた側にはないであろう。

私にとってかけがえのないある桜の木を、桜といったとたんに、我々は何か多くの大切なものを失いはしないだろうか。我々の眼に言語体系の網がおおいかぶさるとき、事象そのものは多くの内容を隠蔽されてしまう。その結果、我々はある文化のとおりにしか、見たり行動したりすることができなくなり、我々の主体の自由で創造的な活動は制約をうけることになる。

自由であるには考えることよりそのままを感じることが重要ではないだろうか。

ここで道元は、古仏が「山是山」と言ったのは「山是山」といったのではない、「山是山」と言ったのだ、と示している。結局、山は山ではない、山である、といっていることにもなろうが、否定と肯定が交錯してなお詩的ですらある。

こんな一見非論理的なものいいに奥行きが与えられていて、かつ真実を掴んでいるというあたりが魅力的だ。

その場合、桜に対し桜の語を否定することは、実はその前提の主-客二元の構図をも否定することにつらなり、無意識のうちに培われた自我意識を否定していくことをも含んでいるであろう。・・・つまり、桜は桜でない、と否定するところでは、自己も自己でなくなり、逆にそこに真実の自己が見出されうるのである。

我々は、既成の言語体系のままに事物が有ると固執することが、いかに倒立した見方であるかを深く反省・了解しなければならない。そして存在と自己の真実を見出すためには、言語を否定しつくす地平に一たびは立たなければならないのである。

この絶対矛盾に直面させるやり方は、言語-分別体系の粉砕をねらう禅の常套手段でもある。そのことがついには、真に「道う」体験に導くであろう。

『日日是好日』
人生は、厳しいものである。・・・そのときは、苦しみのたうちまわるしかない。その今を生きるしかない。ただひたすらに今に一如していくところにしか、真実の自己はない。そこを好日というのである。

仏教に於ては、すべての人間の根本は迷にあると考へられて居ると思ふ。迷は罪悪の根源である。而して迷と云ふことは、我々が対象化せられた自己を自己と考へるから起るのである。迷の根源は、自己の対象論理的見方に由るのである。『場所的論理と宗教的世界観』西田幾太郎

自己を意識することで怒りや迷いが生まれることは多い。
もう一つ離れてみることでそういった怒りなどを感じずにすむならばそれはすごくハッピーでは。

禅の絶対なるものへの感覚は、極めて独特である。『碧巌禄』第四十五則、「万法帰一」は、そのことを鮮やかに伝えている。
僧、趙州に問う、「万法、一に帰す。一、何の処にか帰する」。
州云く、「我れ青洲に在って、一領の布衫を作る、重きこと七斤」。

絶対とは何かを問われて「布巾を作ったが、七斤の重さがあった」と答える。全くもってファンキーだ。ステキ。

禅は決して一の世界と同一化することを求めているのではない。層氷裏の透明な無と化することを目ざしているのではない。大死一番・絶後蘇息という。絶対の否定から、この現実世界へとよみがえったところに、真実の自己を見出すことを求めているのである。

ゆえに我々に対して現れる仏は、すべて虚妄な幻影にすぎない。対照的に自己を捉えることが迷いの根源であったように、対照的に仏を捉えることはまた、正に迷いの集積である。臨済は「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」といっている。対象の位置におかれた仏は否定されるべきである。その否定する働きの当体にこそ、真の仏が見出されるべきである。・・・このとき、不可得の主体に成りつくし、真実の自己になりきるがゆえに、真に自己に由る、すなわち真に自由となるであろう。

結果、自由を得る。『徹底した否定のあとのつきぬけ・自由』。これは今までさんざん探してきた筋書きである。

なんとなく主客の区別や言葉の縛りを超えた自己をイメージするだけでとても穏やかになれる。それが悟りだとは思わないが、心地よいのだ。

関西人の気質やお笑いと禅をつなげたいなとも思っていましたが、またの機会があれば。
(僕は関西人的気質が世界的に注目され必要となる。と以前から考えている。
近頃はあまりにもフラットな世界が関西人的気質を奪っていかないかと危惧を抱き始めたが)




B025 『建築意匠講義』

香山 寿夫
東京大学出版会(1996/11)

僕は「空間」についての捉え方の多くをこの本からスタートしたように思う。
建築を学び始めの人にはお勧めで、この本のおかげで、最初は掴み所がなく曖昧過ぎた建築・空間という概念を、グッと身近に引き寄せることが出来た。

その時にまとめたメモからいくつか抜き出してみる。

建築とは、空間を秩序づけることであり、人間は空間によって秩序付けられる

私という不確かな存在を定着させるためには、まず、中心が指示され確定されなければならない。同時に輪郭を限定することが必要であるが、囲いは内と外を切断するだけでなくつなぐものでなければならない。

自己のアイデンティティは自分の中心、すなわち固定点を持ち、自分の領域すなわち囲いをもたなければ決して確立できない。

建築家は空間がどちらに向かってどのように広がりたいかを正しく把握することが必要である。

まず、個々の部屋がどうなりたがっているかを考えそれを一つにするために呼び集める。全体を統一するために部分を押し込めてはならない。

中心が確定できない場合でも、中心が多数ある部屋の共同体として考え抜かねばならない。

建築家は光を用いて形をつくる。

・照らす光光と影の対比
・満たす光空間を光のマッスとする
・「照らす光」と「満たす光」は連続的かつ共存しうるものである。

空間における光の意味、あり方を考えていくと、それは必然的に建築の諸要素、すなわち壁、屋根、天井、床の意味を捉え直すことになります。
それが伝統を捉え直すということである。
ここに建築家の最も大きな喜びの一つがある。

入口は常に特別な場所であり、喜びや悲しみ、期待や不安といった様々な意味が集中している。

都市は記憶の積層であり、その根底には大地がある。建築において持続性、連続性が重要であるのはこの由である。

建築は住む人の感情と精神、さらには人間の共同の価値を表現するものである。そして、それは私たちの存在のかけがえのない表象である。

「囲いモテイフ」「支えモティフ」は互いに対立し支配権を得ようと闘っている。それぞれの欲求を汲み取りこの対立を統合させなければならない。

人が生きるということは存在に対する信頼の上で行動しているということであり、私たちはそれを信じつくっていく中でしか、秩序を捉えられない。「行動的懐疑」こそが建築の様式の絶えざる交替を生んできた力である。

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

自己と空間を重ね合わせることでずっとイメージがしやすくなる。

ただし、この本でもカーンの本のときのような重さを感じてしまった。

「○○しなければなりません」「○○必要があります」というような断定的な書き方になんとなく違和感を覚えてしまうのだ。

例えば

・・・これらを、中心がないのだ、中心を考えることが間違っているのだ、と考えないようにしてください。そう安直に考えると、建築を空間としてとらえることができなくなり、単なる部屋のつながりをダイアグラムのようにつくることになります。あくまで、中心が多数あり、移動するような部屋の共同体として考え抜かねばなりません。

と言われると、最近はむしろ、中心や空間をわざと感じさせない、それこそダイアグラムのような建物が脚光をあび、なんとなくそれに共感する部分を持ってしまう自分と折り合いがつかなくなってしまうのだ。

なぜ、断定的な物言いが出来るのか。
それがうらやましくもあり不思議なのである。

あえて今、それに折り合いをつける仮説をつくるとすれば、
「中心を感じさせず、ダイヤグラムそのままに見える建築も、実際は作者の力量によってそうは感じさせないようにさりげなく空間を生み出しているのではないか。そうとは知らず安易に真似をするのは危険だ」
ということになる。それが正確かどうかは分からないが、この先に共通点が見つかりそうな気もしないでもない。

またしても、この本を最初に読んで数年後、妹島和世の作品集を見て衝撃を受けてから、何度となく繰り返してきた様々な問いが浮かんできてしまった。

それは、「空間とは」「普遍とは」「宗教とは」「人間とは」といった容易に答えのない問いに結びついてしまう。

結局は先に書いた

「秩序とはなんであるか」この問いは開かれたままにしておかなければならない。
それは行う中で、ものをつくる中で、一瞬示されるだけでたちまち消えてしまう。
秩序の存在を論理による説明、学問的な認識によってとらえることはありえず、ただ道徳的確信、行動的信念の中においてのみ得られるものである。

ということなのかもしれない。

そこで「道徳的」「確信」「信念」と言った言葉に対してまでも注意深くなるとどうも身動きがとれなくなる。

一度、もっと身近な視点に戻してみないと。

うーむ。また、混乱した文章になったけれども、混乱は僕だけのものだろうか。
みんな何らかの確信を持っているのだろうか。
気になる。




B024 『モダニズム建築の軌跡―60年代のアヴァンギャルド』

モダニズム建築の軌跡―60年代のアヴァンギャルド 内井 昭蔵 (2000/07)
INAX出版


60年代に活躍した日本の建築家を論文及び内井昭蔵との対談形式で紹介。
対談の最後は毎回、後進への一言で締められ示唆に富む。

登場する建築家は

丹下健三 Kenzo Tange
吉村順三 Junzo Yoshimura
芦原義信 Yoshinobu Ashihara
池田武邦 Takekuni Ikeda
大高正人 Masato Otaka
清家清 Kiyoshi Seike
大谷幸夫 Sachio Otani
高橋?一 Teiichi Takahashi
菊竹清訓 Kiyonori Kikutake
内田祥哉 Yoshitika Utida
鬼頭梓 Azusa Kito
槇文彦 Humihiko Maki
林昌二 Shoji Hayashi
黒川記章 Kisho Kurokawa
磯崎新 Arata Isozaki

長谷川堯の序説、この時代の舞台を「演出家=前川國男」「劇作家=浜口隆一」「俳優=丹下健三」とみる部分も面白かった。
建築評論家が脚本を描けた時代だ。

日本におけるこの時代を把握するにはとても良い本だと思う。建築を学び始めの人にもお勧め。

って、このブログは本の紹介が目的ではない。
僕自身の思考の記録である。
だから、うまくまとまらないと思うが感じたことを書いておこう。

この時代の作品や言説に触れてみると、ものすごいパワーを感じる。
今の建築は設計者の考え、『頭の中』が見えるようなものが多いように感じるが、この時代のものには当然考えも見えるが、設計者の『人間そのもの』が見えるものが多いように感じる。
人と建築が分離していない。
(黒川記章や磯崎新の世代あたりから『頭』の方になってきた気がするが。)

その違いはどこから来るのか。
今の建築はこの時代から前に進んでいるのだろうか。
今、どこへ向かうべきなのか。

60年代は、モダニズム、日本、機能、モニュメンタリティ、大衆性・・といった課題やキーワードがはっきりと見えやすかった時代ということもあるだろう。
前の世代に物申すという姿勢もはっきりしているし、前に進むという意志と自信とに溢れている。

しかし、今の時代だって課題は山積み、物申すことだってたくさんあるはずで、みなそれに向かって奮闘している。

なのに、この時代の建築に学生時代に感じたような「希望」を感じるのはなぜなのだ。

建築、社会がまだ純粋だったからか。
そもそも、何を乗り越えようとしているのだろうか。
モダン、ポストモダン。
モダン、ポストモダン。
モダンは幻想か。
なにが、どこからポストなのか。

この本自体の射程が「モダニズム」や「年代」といった大きすぎるものというのもあり、踏み込むと容易に答えの出せない抽象的な問いにどうしても迷い込んでしまう。

おそらく僕にとっては必要なのは『希望』のイメージである。

『問題意識』と『希望』どちらも大切だと思うが、今焦点が『問題意識』に向きすぎている。

しかし、『希望』を描くことこそデザインではないだろうか。

描きにくいからこそ取り組むべきものなのではないか。
それこそがデザイナーの仕事ではないか。

頭ではなく人間の中から湧き出るようなもの。
それを描きたい。

(実は学生のころからずっと望んでいることで、ずっと果たしえてない。
なかなか難しい。
それは、やっぱり人間そのものでぶつからなければ描けないのだ。)

このころの作品や言説にもっと触れてみたくなった。




B023 『ルイス・カーンとはだれか』

ルイス・カーンとはだれか 香山 寿夫 (2003/10)
王国社


カーンについて考えようと思って図書館で借りた本。
カーンの本というよりは、カーンに思いを寄せる香山壽夫の本である。

著者の香山であるが、僕が大学生のころ彼の書いた『建築意匠講義』を借りてきて、大学のコピー機で全頁コピーをしたのを懐かしく思い出した。

大学の授業に不満をもっていたこのころ、僕がはじめて空間の捉え方などを学んだのが『建築意匠講義』であった。
そして、その中で香山によって語られていたカーンの言葉が僕がカーンの思想に触れたほとんど唯一の経験である。

さて、この本であるが、思想の紹介という点では『建築意匠講義』とダブる点も多い。
が、香山個人としてのカーンに対する思いをより強く伝えようという気持ちが伝わる内容だ。

この、本を透してのカーンの印象は、宗教的な人、言葉と行動の人、という感じだ。

僕の受けた印象では、カーンの言葉は若干大袈裟で押し付けがましく感じる。
なんとなく重いのだ。
それを重く感じるのが良いか悪いかは分からない。
しかし、思索を重ねた末のその言葉を重く感じる自分には少なからずショックを受けた。

言葉については別の項で少し考えたが、おそらくカーンの言葉は思考のための言葉で、カーン自身のためのものなのだ。(コルビュジェの言葉とは対照的に)

そして、その彼自身の思索の跡を追うのが僕にはおそらく億劫なのだ。
僕はカーンではない。

(そういう感覚は例えばアトリエ・ワンなどの若手の言葉の使い方にも感じる。彼らの発見する『言葉』はすごく個人的な印象がある。)

香山はカーンを『共通感覚』のうちにある、という。僕の印象とは正反対だ。
そのような『共通感覚』は今では幻想だと思われている。
それでもなお、そのようなものを信じて疑わず、真っ直ぐに進む姿が僕には宗教的に映ったのだが、僕にはそれがうらやましい。
僕にはいまだ見えていないし、「それが建築に対する誠実な姿勢だ」と言われればなんら返す言葉がないからだ。

「オーダー」「フォーム」「ルーム」「光」「沈黙」といったカーンの言葉は魅力的だ。
しかし、僕にはやはりそれらの言葉は基本的にカーン自身のものだと思う。

僕も、カーンのような言葉が紡げるようになりたい。

追記

「億劫」と言うのは言い過ぎた。
疲れていたみたいだ。

カーンの言葉は示唆に富んでいるし、そうやって思索することこそ必要だ。

ただ、カーンの思索にはなんとなく物悲しさを感じる。それは、映画の試写会の映像のみの印象を引きずっているからかもしれない。
でも、おそらくその印象は誤解なのだ。
カーンの思索は最後に「喜び(joy)」へと連なる。

この時代にカーンのように孤独な思索を重ね、作品を残してきたのはやはり偉大であるし、カーンの思索に跡に身を任せようとすることはやはり快楽でもあると思う。




B022 『驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる! 』

驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる! A・J・ジェイコブズ (2005/08/03)
文藝春秋


ある雑誌編集者が1年間をかけてブリタニカ百科事典(全32巻・3万3千ページ)の読破した記録。

某ブログで紹介しているのをみて興味を持ったので買ってみた。

イミダスなんかを通して読んでみようと頭の片隅に浮かんだことはある。
だけども、興味の持続しないことに対しては猫ほどの記憶力しかない僕は、あまりに無駄なので本気で考えたことはない。

しかし、3万ページを超える百科事典を読みきったときに何か突き抜けたものを得ることが出来るのか、それともただの無駄骨に終わるのか、そのことにはすごく興味を魅かれる。

だからといって自分でそれを試そうとは思わないのだが、700ページを超えるこの文庫本を読むことで、それをプチ体験することができるのでは、という期待に胸を膨らませて読み出した。

この本を読むことが退屈な作業にならないかという不安もあったが、最後に何が得られるかの興味と、内容がそれなりに面白かったのとで楽しく読めた。

膨大な時間を消費し、妻には「百貨事典未亡人」といわれ、紙の上ではない本物の体験に対して引け目を感じたり、1年間が無駄に終わる恐怖と戦いながら、何かを成し遂げるために読み切ったのだが、その間の著者の心の動きが面白い。

ちょっと引用してみると、

「わたしが言いたいのは、あなたは生身の人間との交流ができなくなってないかってこと」(p.138)

なんて、妻に言われたりする。これはつらい。
僕もこれを打ち込んでいる今こんなこと言われやしないかとひやひやしている。
最後にこれをひっくり返して堂々と出来るほどの何かを見つけないとやりきれない。

ひょっとしたら僕は(中略)とうてい食べきれないものにかじりついてしまったのではなかろうか。(中略)ぼくは一体なんだってこれをいい考えだと思ったのだろう?(p.175)

『ブリタニカ』の旅を終えるとき、これ以上に知恵のある言葉を僕は手にしているだろうか?すべての知恵の精髄は何かと訊かれたとき、ぼくはどう答えるだろう?』(p.177)

って弱気になったり、

本を読んだくらいで世界の秘密が学べるわけじゃない。フローベールとベンダー先生の言うことには一理ある。額面どおりに受け取れば、僕の試みは奇行すれすれだ。しかし、である。それでもこれは一つの探求であって、それなりに意味があると思うのだ。ぼくは今まで何かを探求したことなんてない。だからどんな結果になるか、何が発見できるか、わからないじゃないか。(p.187)

と、自分を励ましたりする。

ときどき思うのだが、ぼくもこの喩え話の盲人みたいなものではないだろうか。文学や科学や自然について書かれていることを読むだけで、実際に経験してみることはない。ひょっとしたらまちがったトランペットの音を聴いているのかもしれない。それより世界に出て行って、実際に経験するほうが、有意義な時間の使い方ではないだろうか。(p.414)

分かる。分かる。実際の経験の方がずっと健康的な感じがする。
だけども、それだけじゃないものもあると僕も自分を励ましてみる。

僕は事典読みの中毒になっている。もっとも、たいていの中毒者がそうであるように、惹きつけられると同時に嫌悪も覚えているのだが。(p.439)

始めのころは、活字漬けになると現実との関係がおかしくなるんじゃないかと心配だった。ジョン・ロックの盲人が赤という色の概念についてうんと学びながら、現実の赤を知らないのと同じことにならないかと。実際、そうなるのかもしれない。でも、その反対の効果も得られるのだと今は思っている。世界との絆を強め、世界に脅威の念を抱き、世界を新しい目で見られるようになると。(p.489)

と、すこしづつ何かを掴み始める。

ラストは「期待通り」かつ「期待はずれ」であったが、僕はとてもすがすがしい気持ちになった。

百科事典を読破したからといって生活が急変するわけではない。

ただ、世界がほんの少し良く見通せて、世界をほんの少し愛せるようになる。

そして、妻との楽しい夕食、何気ない生活がほんの少し、より愛おしく感じられるようになる。というだけのことだろう。

1年を掛けて得られたこの「ほんの少し」は著者にとって大きな財産であろう。
僕は、700ページほどの文庫本でその「ほんの少し」をほんの少しお裾分けしてもらったわけだ。
読んでよかったと思う。(これを読んでいる人は、『「ほんの少し」をほんの少し』をほんの少し・・・)

なお、これを読んで僕の妻に本を読むことの正当性を論じようと思っていたのだが野暮なのでやめた。

ちなみに本の題名はもとの”The Know-It-All(知ったかぶり)”のほうがずっといい。「○○男」はなんとなくみえみえだねぇ。




W011『知覧特攻平和会館』

w10.jpg
□所在地:鹿児島県川辺郡知覧町郡17881
□設計:-
□用途:資料館
□竣工年:1986?
>写真は知覧町HPより
[gmaps:31.36411783037637/130.43423652648926/14/460/300](comment)[/gmaps]
連休をつかって、福岡の伊東豊雄のぐりんぐりんを見に行く予定だったけれど、土曜に仕事が入ったので断念し、変わりに気になっていた特攻平和会館に行ってきた。

沖縄特攻に散った1036人(?)の遺影や遺品、資料などを展示している施設である。

連休と言うこともあり観光客がたくさん来ていたのでじっくりとは見れなかったが、感激と言葉にならない違和感とを同時に感じる複雑な心境になった。

その、複雑な感覚は建物に入ってすぐのホールの部分、最初から感じた。

ホールの正面に3mx4mの等身大に近い壁画を見て感動し涙が出そうになるが、同時にその下のプレートの中の

私たちは、特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し・・・

と言う部分になんとなく違和感を感じたのだ。

そのときは、大分昔に書かれた文章で感傷的な文章になってしまったのだろうと無理やり納得してやり過ごそうと思った。
しかし、そういう違和感こそ大事にすべきだ

なぜそう感じたのか、考えてみる。

********************************************

展示室には1036人すべてかどうかは分からないが、特攻隊員たちの遺影がずらっとならぶ。

皆、すがすがしくかつ深い目をしている。
でも、今の時代にもいる皆普通の青年たちだ。
ちょうど青春の時期で、自分の友達の顔とだぶって容易に感情移入する。
最後に家族などに贈った手紙などはどれも潔く、家族への思い、国への思い、使命を果たせる誇りなどに溢れている。

その言葉に嘘はないだろう。心から出てきた言葉だと思う。
解説のおじさんの「彼らは負け戦とわかっていながら、後世の人たちが自分たちの生き様を見て勇気付けられ、日本を復興してくれることを願って飛び立った。」と言うような言葉に感動もした。

しかし、皆が同じように潔い文章を書き、すがすがしい顔をしているのに、逆に哀しさを感じる。

特攻志願といっても、志願させたのは環境だ。
誰が好き好んで死にたいだろうか。
志願させたのは、教育であったり、暗黙の強制であっただろうし、若さゆえ前に進まざるを得ないと言うこともあっただろう。
二十歳前後の若者だ。
気がついてみれば自分の命があと数日と決まってしまっていたということがあったに違いない。
それでも後に退ける訳もない。
恐怖心や後悔やその他もろもろの負の感情を抑え込むために、家族や国や名誉やいろいろな理由を探して(また、それらは環境に準備もされていただろうし)自分を騙すまでに必死にすがりついたにちがいない。

だから、潔さとすがすがしさは余計に哀しい。

彼らの言葉に嘘はないが、彼らは彼ら自身を欺いているかもしれない。

彼らは勇士であるよりも犠牲者である。

彼らを勇士とみるその視線が彼らを犠牲者にしたのかもしれないのだ。
(遺族の方が、彼らを勇士と思うのは当然だし、彼らの純粋な思いは尊敬に値すると思うが)

彼らのような犠牲者を出さないためには、彼らが犠牲者であるという認識こそ大切だと思うのだが、展示内容やパンフレット、先に挙げたホールのプレートにはほとんど彼らをたたえる表現しかないように感じた。

ただ、プレートの上の壁画のみが彼らを犠牲者として救っている。

そして、全く意図の異なる表現のものが上下にならんでいることが僕を混乱させたのである。

>>参考記事<<

(『特攻隊志願前に心の準備』金光新聞)

↑宗教的なことはさておき、前半の心の準備をする部分は、そうだろうなと思わせる。


↑ホール上部に描かれた壁画。
実際は目線より上にあり、等身大に近いので迫力があり、まさに天に昇っていくよう。
黒焦げになった人間は、展示されている笑顔の遺影とひとつながりだ。そのギャップがまた哀しい。
戦争の中で死を選択させられた若者は黒焦げになり優しい顔をした天女に包まれてようやく開放される。
混雑のためあまり遺品は見れなかったが、僕は一人一人の遺影の顔とこの壁画を目に焼き付けようと思って廻っていました。
実際に訪れて感じて欲しい。

(特攻隊神話の保存装置 「知覧特攻平和会館」 (田中幸一))

↑割と似た視点の記事。参考に。
日本人は何事もイメージで済ませる傾向が強いと思う。ここで、ただ泣くだけのメンタリティは時に危険であるかもしれない。

※事実関係を間違っていたりしたら教えてください。
また、関連する良い記事やそれはおかしいんじゃないという意見がありましたら教えてください。




精神年齢鑑定

妹がブログでやっていたので僕もやってみた。

>>りゅうりゅうの精神年齢鑑定

*****************************
鑑定結果
あなたの精神年齢は49歳です

あなたの精神はかなり『中年』です。一人前の大人です。威厳が感じられるようになってきましたが、寄る年波のせいで今まで絶対しなかった失敗や間違いをしてしまい、自信喪失してしまうかもしれません。失敗してもそれは歳のせいですのであまり落ち込まないように。

実際の年齢との差19歳

あなたは実際の年齢より大人びています。同年代の人よりしっかりした性格の持ち主で、周りの人々に頼られてお兄さん(お姉さん)役を努めてしまうこともあるでしょう。そこがあなたのよいところです。

幼稚度36%

あなたは小学校高学年並みの幼稚さを持っています。なんだかんだいってもまだまだ子供です。

大人度54%

あなたはなかなかの大人です。冷静さもあり、精神的も発達してきています。

ご老人度86%

あなたは90歳のご老人なみにおじいちゃん(おばあちゃん)っぽさがあります。あと少しの人生頑張って下さい。

あなたとお友達になれそうな人
車寅次郎
水戸黄門
***************************

「あと少しの人生」って、おいっ。




屋上の魔力

あるきっかけがあり「屋上」と「自由」について考えてみたくなった。
ミーハーだけど、僕の「自由」に関する考えは宮台真司の影響が大きいようだ。


学生のころ神戸の殺人事件があり、建築について悶々としていた時期に、友人に進められて『世紀末の作法』を読んだ。

そこにあった『「屋上」という居場所』という文章で僕は初めて「建築」と「機能」や「自由」の関係を考えたのだ。

(思えば「酒鬼薔薇」と宮台を知らなければ問題意識を持つこともなく、今頃はのんきにそして優雅に暮らしていただろうに・・・・(kazutoよオアイコかいな?))

『世紀末の作法』は手元にないので検索してみると、こんな学生コンペが引っ掛かった。(最近、あまり念入りに雑誌を見ないので知らなかった・・・)

コンペのテーマ、まさしく宮台真司の文章だ。

原文も宮台のブログに載っていたので読んでみたが、『世紀末の作法』の『「屋上」という居場所』の趣旨もほぼこういうことだったと記憶している。

このブログで今考えていることを見てみると、10年ほど前に読んだこの本の影響の大きさにびっくりした。

「自由」の感じ方にまで影響をうけている。

■教室にいれば学ぶ人。廊下にいれば通行する人。校庭にいれば運動する人。どこも機能が指定され、そこにいるだけで機能を担わせられる。屋上は違った。そこは機能の空白。どこでもない場所。どこでもない場所で、何でもない人になって、解放される──。
■しかし、やがて人々は、どこでもない場所に、何でもない人が集まること自体を、不安がるようになった。集合住宅の屋上はロックされ、学校の屋上はバスケットコートになったりプールになったりと、機能化された。かくして最後のどこでもない場所が消去された。
■空間の機能的意味が明確になると、人は一方で自由になり、他方で不自由になる。近代化へと向けた動きは、不自由のマイナスより、自由のプラスを評価する価値を一般化した。さて、いったん近代化を遂げた人々が、いつまでも同じ価値観に拘束される必要があるか。
■イエやウチが「住宅」になったとき、人は、一方で自由になり、他方で不自由になった。何が不自由になったのかを記憶する人々が、社会からどんどん退場していく。だからこそ、いま「溶解する境界・あいまいな場所」なのだ。私たちの歴史意識が問われている──。
MIYADAI.com Blog より

青木淳の著書などにも似たような視点が見られるように、自由や便利さを求めるゆえの「不自由さ」窮屈さを感じることは今の時代ではありふれた(しかし、自覚するにはなかなか至らない)感覚なのかもしれない。

それにしても、屋上はどうしてそこまで「自由さ」(に近い特別の感覚)を感じさせるのだろうか。

単に「脱機能化」された場所というだけ以上のものを僕は感じてしまう。(そこがビアガーデンやイベントスペースであっても、僕にとっては特別な場所なのだ。)

ちょっと自分の経験と感覚を思い出してみよう。

10数年前とつい最近、屋上について特別に感じたことがある。

ひとつは高校時代。
寮生活だったのだが、先輩後輩の関係が厳しく1年生は寮の中では掃除やなんやでほとんど自由がなかった。
その寮の中で屋上だけが唯一先輩も足を入れない1年生の自由に使ってよい場所だったのだ。
授業が終わってからから夕食の準備までのほんの数時間を屋上で過ごすのがほとんど唯一気を抜ける時間だった。
(ただ、僕は部活をしていたのでこの時間をあまり堪能はできなかった。今となってはもったいなかった)

屋上はその下にある先輩たちの目の光る窮屈な環境とはまさしく別世界の小さな自由の輝く場所であった。

「屋上に先輩は足を入れない」というルールがどういう形で出来たのかは分からないが、厳しい生活を送る1年生のための場所に屋上が選ばれたのは面白い。

もうひとつはこの前、相方と式場を探していたとき。

あるホテルに説明を聞きに行ったとき(そこのホテルは公共の公園を一時借りて式を行うことの出来るホテルだった。)そこの屋上でも式を行うことが出来るということで、写真を見せてもらったのだがそれが漠然と期待していたイメージにぴったりきたのだ。

その屋上は夏の間はビアガーデンになっていたそうで、特別綺麗な建物でもおしゃれな空間でもない。ただ、桜島へのビューは絶景。
なんてことのない空間なのだが、びびっと来た。
なぜなのだろう。

それまではなんとなく漠然としたイメージのかけらのようなものはあったのだが、なんとなく結婚式場というもの自体になんとなく窮屈さを感じしっくりこないと思っていた。

そもそも結婚式場というもの自体が「機能」と「空間」の癒着した最たるものだ。
最近流行のレストランウェディングという別用途からの「転用」程度ではその関係は切れるものではない。
それに、なんとなく商業主義にのせられているような気がしてシャクでもある。(僕は自分の葬式は商業的な葬祭場ではして欲しくないと思っている。居酒屋で十分。)

それでも、「屋上」の挙式風景の写真を見た瞬間、「機能」や「商業主義」から開放された場所のような気がした。
漠然としたイメージがぱちっとはまった。
恐るべき「屋上」の魔力。

(「公園」でのウエディングでさえも、そういう風に感じなかったのだが、今の公園は都市に飼いならされているからだろうか・・・)

相方も似たように感じていたのにもびっくりなのだが。(繰り返しますが、なんてことのない「普通の屋上」なのだ)

さて、何ゆえ屋上がこれほどまでに別世界たり得るのだろうか。

屋根のスラブは建物と大空を切り分ける。
そして、屋上はどちらかと言えば大空に属する。

それゆえに、屋上はちょっと機能を付け加えたぐらいでは空間が完全に機能化されない、飼いならされない。
どうしても中途半端な感じが残ってしまう。

屋上の下の「せっせと機能している建物に小さく収まった空間」をあざ笑うかのような感じが良いのだ。
だから、都市の中にあればあるほど屋上とその下の空間の対比が生まれ、屋上はより屋上となる。

つまり、建物にも自然にも入れてもらえない「こうもり」のような中途半端な位置付けが屋上を屋上たらしめているのではないだろうか。
これを「計画」によって生み出すのは困難だ。

屋上で式をするということは天候によってはその下の「機能化された空間」に移らざるを得ないというリスクを負うわけだが、管理され尽くせないところも屋上の屋上たるゆえんであるならそれも受け入れねばならない・・・。

って、屋上になんとなく特別なものを感じるのは僕だけだろうか?




無  題

建築の世界でどうやって生きていくか。

自然淘汰の時代はしばらく続くだろう。

今までの小手先だけのやり方ではおそらくやっていけない。

生き残る(と言う表現も嫌だが)ためには、人に必要とされるだけの能力と明確なポジショニングが必要だ。

************************************************

物事はいたってシンプルだ。

「やる」か「やらない」か。

何かをやればやった結果があり、やらなければやらなかった結果がある。

ただ、それだけ。

何もしないでも、この世界で何とかやってけるかもしれないが、やっていけないかもしれない。やっていけなくてもそれなりに楽しめるのかもしれないが後悔ばかりしているかもしれない。先は分からない。
ただ、不安に喰い潰されそうで立ち止まるのが怖い。

僕は大部分は楽天家だが根本は極度の心配性だ。

しかし、不安にかられてがむしゃらに何かをするだけでは消耗するだけ。
僕のような人間が不安から逃れるためには、「何を」やるべきかはっきりさせる必要がある。
将来のビジョンを明確にし、そのために今何をどれだけやるべきかを考えよう。

一度それをはっきりさせれば自分を安心させることが出来るはず。

僕が怖いのは「やれることをやらなかった」ということだけで、やることをやったならばその結果がどんなものであれ受け入れる準備はできている。

(僕がそういう結論に達するかどうかは別として、何もやらないという選択も全然あり)




茶の味

原作・監督・脚本・編集 :石井克人

出演 : 坂野真弥佐藤貴広浅野忠信手塚理美我修院達也三浦友和土屋アンナ



きのうは家で仕事をしなければいけなかったのだが、日曜日を仕事で終わらせるのもいやなのでビデオを借りて観た。

気にはなっていたけど、いつも貸し出し中だった『茶の味』が残っていたのでこれにする。

中身が想像できない所にそそられた。

女の子役(坂野真弥)がかなりいい味を出している。
変な感覚でいい感じ。
だけども、最後のところで微妙に期待を裏切られた感じがする。
微妙なところで。

僕が期待していたのは、

はっきりとしたテーマやストーリー・オチがあって、それに向かって一直線に進むようなものではなく、

テーマを感じさせるすれすれのところをかすめながらも決してくっきりとは姿を見せない、それでいて人の心を掴むようなもの。

例えるなら、中心に核があって、その周りを電子のような物体が揺らぎながらぐるぐる廻っている。決して中心の核にはぶつからない、見ていて心地よい。そんなイメージ。

その電子のような物体の揺れがどんどん大きくなって、そのまま自然と核の重力圏を抜け出してもいい。

そんな映画を期待していたけれども、いい感じで揺れながらも最後の方で微妙に核にかすってしまった感じ。

その後、重力圏を飛び出したように見えるけれども、核にかすったときについたちょっとした気恥ずかしさはぬぐえなかった。

うまく表現できないけれども、僕の感想は「惜しい」。
[MEDIA]




『Open Your Sense.』


文法的にあっているか自信はないが気に入っている


この言葉は自分に言い聞かせるつもりでロゴに入れた。

sense

━━ n. 感覚(器官) (the five ~s 五感); 感じ ((of)); 意識, 勘 ((of)); (one’s ~s) 正気; 分別 (a man of ~); 意味; 意義; 多数の意見, 世論 (the ~ of the meeting 会の意向).

━━ vt. 感じる, 気づく; 〔米〕 理解する; (機械が)探知する; 【コンピュータ】(情報を)読み取る.
sense-datum【心】感覚単位 ((対象が感覚に直接与える刺激)); 【哲】感覚所与.

三省堂提供「EXCEED 英和辞典」より

センス [sense]

物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。
「ユーモアの―」「―に欠ける」

三省堂提供「大辞林 第二版」より

「センス」ってなんだろうか。

僕は、上の引用にもあるように「感じ取る能力」だと思う。

「あの人はセンスがいい」というとき、その人はその通り感覚が研ぎ澄まされているのだ。

感覚は使わないと鈍る。

絶えず自分の中にわずかに起こる機微を感じ取るためのアンテナを張っていないといけない。

「センスがいい」人は絶えずその努力を怠っていない人だ。

この前うちの相方に人に対する接し方を注意された。
鈍りきった感覚を指摘された。
なんとなく自分でも分かっていただけに結構へこんだ。
僕は時々おかしくなる。

『Open Your Sense.』

感覚を開こう。

自分に言い聞かせているのだ。

考えるだけじゃなくて感じ取ること。

sensibleであること。

それはおそらく豊かな生活に最も必要なこと。

『茶色の朝』に怯えるだけではあまりに寂しいのでちょこっと考えてみた。




言葉との距離

自分と自分の発する言葉の距離の大きさを感じて憂鬱になるときがある。

ミクシィの方で、岡さんて方がやってる『蟻鱒鳶ル』のコミュや岡さんの日記を時々ちらちらと見るのですが、いつも心を打たれる。

僕の書いてる事は、イマイチ説得力がない。

僕は文章を書く時、筋道が通ったマトモな文章になってるか。は二の次で、
「自分の気持ちにピタッとしてるか。」
「誰を目の前にしても同じ事が言えるか。」
みたいな事に注意をしながら書いていきます。
(『蟻鱒鳶ル ットントン!』コミュより)

岡さんは(って僕は面識はないのです。数年前のSDレビューの雑誌で見ただけ)自分の文章が下手というようなことを言っているけれども、そこらへんの知識人といわれる人の言葉よりずっと鋭くてぐっとくることを書いている。

人とその人の発する言葉がぴったりくっついている感じ。

僕も時間を縫って何とか言葉を発しようとするのだけど、そうやって出した言葉は独り歩きしてしまって、自分がそれについていけてない。

読む人を意識してしまったり、何か書かなければと脅迫概念のようなものを感じたりと、ブログなんかだとその傾向が強くなりがち。

もっと、自分の足元を見て、そして行動したい。




B021 『茶色の朝』

茶色の朝 フランク パヴロフ、ヴィンセント ギャロ 他 (2003/12)
大月書店


本屋をうろうろしていて、タイトルだけでなんとなく衝動買いしてしまった本。
でも、結構タイムリーで大切なことが書かれていた。

30ページ足らずの寓話であるが、そこにはファシズムの本質が鋭く描かれている。

主人公が何気なく生活をしていると、突然「国家反逆罪」のレッテルを張られ、玄関を強くたたく音がするところで物語は終わる。
しかし、主人公はそれまでの生活のところどころで違和感を感じていたのだ。
その違和感をいろいろともっともな理由をつけて心の奥に封じ込めていく

その描かれ方は絶妙だ。
人はほとんど無意識に自己を正当化し流されていく。
それが、あまりに自分たちにもありえそうなので恐怖心すら覚えてしまった。

物語と同じようなボリュームで収められている高橋 哲哉の解説にもある通り「やり過ごさないこと」「思考停止をやめること」の大切さを鋭く指摘する寓話である。

つい最近、フランスでカリスマ的人物の率いる極右政党が大躍進したことに抵抗してこの本が出版されたそうだが、今の日本の政治を重ね合わさずにはいられない。

参考記事

茶色い朝のつくられ方~選挙取材の現場から②
ここにTBされていた 民主党は日本をあきらめてはいかが?もおもしろかった。「茶色の朝」平和キャンペーン

その他、教育問題やイラク問題などのいろいろな場面でこの本は採り上げられているようです。

やはり、「考えること」は必要だ。
もっと、明るくそれを言えたらなぁ・・・。




国分S邸が建つまで

国分S邸が建つまでの話。

僕がまだ東京で働いていたころ妹の結婚が決まり、家を建てることになって僕に設計の話が来た。(今考えると大胆な妹。)

そのころ、ちょうど東京の事務所を辞めるかどうか悩んでいたころで、それを機会にしばらく鹿児島に帰る事にする。

特に鹿児島にあてがあったと言うわけではなかったけれど、僕にとっても始めての実作だし、近くできちんと見たかった。

ということで、東京で勤めながら夜中に案を考えたり模型をつくり、メールで妹たちとやり取りしながら進めて行き、11月の妹の結婚式で来鹿したときに大工さんと打ち合わせをして大筋が決まった。

—————————————

1月から工事が始まるので、鹿児島に引っ越したのだが、収入がなかったので、谷山の妹夫婦のアパートに居候することにした。(新婚夫婦のところに今考えるととてもあつかましい兄)

毎朝5時過ぎに起きて、妹の旦那の実家から借りた軽トラで1時間ちょいかけて国分の現場に通う。

最初、僕は現場監理のつもりで現場に行き、空いた時間に大工さんの手伝いをしているつもりが、ほぼ100%施工に参加していたので、すぐに大工さんの弟子のようになってしまった。

何度か大工さんの家に泊まったりしているうちに、大工さんから「日当5000円払おうか?」との話があり、ここで完全に大工さんに弟子入りするかたちになる。

ということで、途中から現場近くにアパートを借りて引っ越す。

途中、大工さんの腰の具合が悪くなり、数日間現場に出れない日が続くが、指示を受けて僕一人で現場をすすめる。
「あれっ?これでは本職の大工さんではないか?」
現場監理のつもりが・・・

土日などに妹夫婦も施工に加わったりして、そんなこんなで何とか家が完成した。

—————————————

この現場で、一番難しかったのは大工さんとの関係だった。

一応、見積もり前に図面一式を渡していたが、大工さんは細かく目を通してはいなかった。
当然見積もりもどんぶりである。

設計事務所とのやり方なんて考えたことのない地元の大工さんなのだ。

この大工さんは妹の旦那の知り合いの弟さんなので、「図面通り出来ないのなら辞めろ、よそに頼む」とは言えない。
おまけに僕は監理者でありながら弟子である。

ということで、現場が進んでいきながら、大工さんの「みちょらんど(見積もりに入ってないよ~)」「あわんが(割りに合わない仕事だね~)」を毎日聞かされることになる。

僕の安い日当じゃなかったらとても予算内で出来なかったのではないだろうか。

大工さんも気がいいので、少し程度の良い材料や、大工さんが考えた納まりや仕上げなんかを提案してくれる。

そこで、大工さんの機嫌をとりながら、提案を受け入れたりこちらの提案をお願いしながら、何とかまとまりのつくように進めなければならなかった。

だから、まぁ、作品と呼べるような緊張感のあるものにはなっていない。
それが逆に、妹夫婦の住む住宅としては気が抜けた感じで良かったのではないだろうか、と今では思う。

とにかく、大工さんにはお世話になった。

—————————————

その後、新聞に広告を入れてオープンハウスなどもした。

大工さんや近所の工務店から一緒にやらないかと言う話もあったが、今回の現場でしがらみがあっては監理が出来ないことを痛感したので断った。

自分の設計事務所の登録なんかをして、ちょこちょこと活動していたが、その年の9月にはとりあえず今の事務所の面接を受け勤めることにした。

教訓になりようもないくらいお金がなかったから当然。

楽天的で無謀な兄妹のお話でした。

妹のうちにはたまに遊びに行って寝っころがっています。




最近良く見るホワイトバンド

って、どうなんだろう。

スタイリッシュ感
オサレ感
お気軽感
がなんか嫌だ。背中がかゆくなる。

「お気軽でも、それで子供が救われるのならいいじゃないか。」

確かにそうだろうけど、自分たちが貧困を生み出す構造の元凶の部分にいながら、「お気軽」に「救う」はないだろう。

アメリカ的な楽天的正義感が僕は嫌いだ。

調べてみたら、ホワイトバンドって詐欺?なんですかね。

今の世の中、本当のことを知るのは困難です。

僕にはことの真偽は分かりませんが、やっぱりなんとなくウケツケマセン。

ただ、問題定義にはなってるのかな。




ビデオ・めし・総選挙などなど

村上龍原作/宮藤官九郎脚本/李相日監督の 『69 sixty nine』のビデオを借りてきてみた。
村上龍の小説はちょこちょこ読んだが、これは読んでいない。
とにかく、青春ー、という感じ。ロックだ。
うちの相方はあまり御気に召さなかったようだが、僕は好きだなぁ、こういうの。


村上龍の小説は最近説教くさいというか社会学者的になってきたのでどうかと思っていたが、ちょっと原作もチェックしておこう。

昼までビデオを見て、昼食はお好み焼きを焼きました(イカ&豚玉もち・チーズ入り)
関西風です。
山芋が無かったので70点です。

その後、選挙へ。

言ってしまいますが、選挙区は「該当なし」、比例区は「民主党」と書きました。

小泉さんは好きだし、民主党に過大な期待をしているわけではない。選挙区によさそうな自民党の候補者もいた。

しかし、僕は「自民党」はまったく信用できないのだ。
平気で二枚舌を使って国民を馬鹿にしているとしか思えない。(それでも、多くの人が自民党を選ぶのだから仕方ないが)
新党をつくった彼らも、そのうちに
「亀○さん、是非自民党へ戻って下さい。あなたが必要です。」
「そうか、仕方が無い・・・(涙)」
とかいった喜劇を演じて、気が付いたら自民党はもとの自民党に戻るのではないかと、僕は本気で疑っていたりするのである。
というか、きっとそうなる。

それに、「変わらない」ということは政治の世界においては罪悪だと僕は思うのです。
雑用を色々すまし、夜は、(バーべキューコンロ風)七輪でサンマやらイカを焼きました。
やっぱり、炭で焼くサンマとビールはサイコー!!。

というような、一日でした。

今から、選挙速報見ます。
どうせ、小泉さんというより自民党の策略どおりに行くのだろう。
日本人は心が広いから。
[MEDIA]