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Google Analytics




だいぶ前に話題になっていたときに申し込もうとしたんだけど、順番待ちみたいになって忘れかけてた『Google Analytics』からようやく招待状が届いた。

それで早速使ってみました。

ちょっと動作が重くて、まだ中身はよく見ていないけども面白そう。

どのページにどれぐらい滞在しただとか、来たページからそのまま直帰した割合だとか、サイトのどのボタンのクリックが多いだとか、どのページでどれぐらいの購入があっただとかいろいろ分かる。

サイト製作者にはすごくありがたい情報だろう。

そうでなくとも、あっアメリカからの訪問者が。とか嬉しくなったりして。。

こういうのまで無料で提供するGoogleの意図ってなんなんだろう?




お気に入り




今日ようやくプロポーザルのヒアリングが終わりました。
理想どおりとはいかないけれど今の条件下ではできる限りのことはしたので後は結果を待つのみです。(政治的な力が働いたりせずにフェアな判定が下ることを祈ります。)

ところで、ヒアリングの際の説明用に久しぶりに100分の1の模型を作ったのですが、お気に入りの製作道具の一つがもうそろそろダメになりそうです。

上の写真の左は一般的に良く見かける木工用ボンドなのですが、これが途中で出がわるくなったりと細かい作業にはけっこう使いにくい。

それで、5・6年前、東京にいたころ新宿のハンズで右のペン型ボンドを見つけ、中身を補充しながら使っているのですがこれがなかなか見つからない。
画材屋や文房具屋やDIYショップに行くたびにチェックしているのですが、新宿のハンズ以外ではまだ見たことがありません。

もうボディが破けてときどき中身が飛び出したり固まったりしてしまいます。
ラベルも外れてしまってどこのメーカーかも分からないのですが、どなたかどこで売ってるとか、どこの製品だとか知っている方がいましたら教えてください!



これがなかなかの優れもので、ペン状のボディの先からボンドが細~く出てきて細かい場所に後から接着したり、点付けなどにも便利。さらにペン先のボンド出口の横はへら状になっていてよく考えられています。
筆圧を調整するような感じでボンドの出も調整できるし。

このキャップは(歯磨き粉のように)さかさまなの状態で置けるように僕が後で改造したので、製品のままだとキャップの白い部分はついていません。
一般品のボンドで途中で出が悪くなったりキャップの付けはずしが面倒でイライラしたことがある人もいるはず。
このキャップだとねじらずに抜き差しできるんで便利です。




B059 『吉阪隆正の迷宮』

吉阪隆正の迷宮
2004吉阪隆正展実行委員会 (2005/12)
TOTO出版




吉阪隆正といえばコルビュジェの弟子でコルビュジェの翻訳をした建築家という以上のことはあまり知らなかった。
しかし、この本を読んでみると、吉阪隆正はすばらしく魅力的な人間なようですっかり虜になってしまった。

それもそのはず、吉阪は内藤廣や象設計集団などの僕の肌にあうなぁと思う早稲田系の建築家の師匠にあたる。

吉阪を良く知る人の対談などがメインでその変態ぶりというか天才ぶりというか、型にはまらない感じが強く伝わってくる。
なんとなく”良寛さん”が思い浮かんだ。

余計なものには惑わされずに、まっすぐにはるか先をみつめる眼差しが目に浮かぶが、その眼差しはこの今現代よりもずっと先を捉えているように思う。

「有形学」「不連続統一体」「生命の曼荼羅」「発見的方法」

合理性や理屈の中からこぼれ落ちてしまうものにも限りない魅力がある。

合理的できれいではない。だけれどもそこには、実感というか手ごたえというか触感というか、なんともいえないもの、実存に関わる何かがある。

それは合理的であることよりも合理的(?)で魅力的なことだと思うのだけれども、それに同意してくれる人はどれぐらいいるのだろうか。

吉阪隆正。詳しくは知らなかったけれど希望を感じた。




W015『苓北町民ホール』


□所在地:熊本県天草郡苓北町
□設計:阿部仁史+小野田泰明
□用途:集会場
□竣工年:2002年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
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2003年日本建築学会賞受賞作

機能と形態の内外の関係、” 目的に応じて有機的に機能する自由度の高い空間とこの町らしさを表現する独創的な造形の共存”ということで、ぜひ内部を見てみたかったのだけれども、残念ながら休館のようだった。

何かのイベントの時にこれれば一番良かったのだけれども。

道路側の正面はそっけないほどにあっさりしているが、全体的には”有機的”と呼べるような形態をしている。

しかし、押し付けがましさやしつこさはない。
”有機的”だから自然に感じるというように単純ではないだろうが、一見突飛にみえる形が”さりげなさ”をもっているというのはどういうことだろうか。

どんな力が形態を導いたのだろうか。

そんなことが気になる。






(内観はガラス越しです)




W014『牛深ハイヤ大橋』


□所在地:熊本県牛深市
□設計:レンゾ・ピアノ+ピーター・ライス+岡部憲明+マエダ
□用途:臨港連絡橋
□竣工年:1997年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
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海彩館の敷地を横断するかたちで橋がかかっている。

”最も簡潔な表現によって、一本の線として風景の中に橋を浮上させることで、自然の中に浸透させることを試みた”というようにそのシンプルなラインは美しかった。

人工と自然という対比の中で、力強さと繊細さ、傲慢さと謙虚さと言うものが一つの構築物の中で共存しているのは稀な存在であろう。

サイドに並ぶ防風パネルは内側に仕掛けられた照明によって内外に光の効果をもたらすような形をしており、夜のライトアップされた姿を念頭においてデザインされているようである。

しかし、牛深と長島(鹿児島)を結ぶフェリーは19時までしかなく、乗り損ねたら大変なのと体調を考えて残念ながら夜景はあきらめた。

夜の光のライン。見てみたかったなぁ。







W013『うしぶか海彩館』


□所在地:熊本県牛深市
□設計:内藤廣
□用途:水産観光センター
□竣工年:1997年
□備考:くまもとアートポリスプロジェクト
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内藤廣は今僕の日本で気になる建築家のベスト3に入る。
ようやく実作を観ることができた。

建築が声高に主張するわけではないが空間が生きている。
廻遊性があり自由度の高い空間が楽しい。

権力ではなく包容力。

軽快な屋根と吹きさらしの場と言う選択が心地よさを生み出している。

単なる市場ではないかと言われれば、そうかもしれない。

しかし、その潔さと、すんなりと気持ちの中におさまる感じはなかなか出せない。










B058 『informal -インフォーマル-』

金田 充弘、セシル バルモンド 他
TOTO出版(2005/04)

セシル・バルモンドはおそらく今世界で最も熱くそして哲学的な構造家。

コールハースやリベスキンドといった建築家とのプロジェクトのレポートのような形なのだが、セシルの思考の流れが読み取れるまったくエキサイティングな本。

前に東京で勤めていた事務所の先生が『建築の自由は構造の先にしかない』というようなことを言われていたのだが、最近その言葉が身にしみることが多い。

柱と梁をグリッドにくむようなラーメン構造のような考え方はそれ自体20世紀的で、大型のマンションのように人を無個性化しグリッドの中に押し込めるような不自由さを感じてしまう。

ラーメン構造というのは不自然で(おそらく自然の中では見られない形式だろう)そういうものに何でも還元できると言う人間の傲慢さと、一度出来上がった形式を思考停止におちいったまま何度もリピートしてしまう怠慢さが現れているようで気がめいる。

そこで、そういう不自然さ・不自由さから抜け出そうと言う姿勢がセシルのいう”インフォーマル”なのだが本当に魅力的である。
構造はあきらかに”自然のかけらを鳴らす楽器”の一つであるはずである。
そんな楽器を演奏できる人とコラボレーションできれば楽しいであろうが鹿児島にそういう人はいるのだろうか。(また、セッションにはこちらの力量も必要)

日本でも構造家とのコラボレーションは最近注目を集めているが、逆に一連の事件で不信感も募りつつある。
闇雲に規制を強化することで自由さを奪われることがないように祈るばかりだし、この機会に同じ構造を扱う人でもまったく世界の違う人がいることをもっと知らしめて欲しいものである。

a+u別冊、ほしいなぁ。

■階層的で固定的な意味での秩序は、物事の自然状態から最も遠いものとして理解される。
■こうした乱流に直面して、秩序が安全な要塞として承認される。でもそれは、大事な点を見逃す。それは現実の本質はまさに偶然であり、「秩序」というものが、ひょっとするともっと大きなランダム性の中での、小さい局所的な安定状態に過ぎないかもしれないということだ。




W012『麦のはな』

w10.jpg
□所在地:鹿児島県鹿児島市
□設計:ウチダアーキテクトオフィス
□用途:飲食店
□竣工年:2006年
[gmaps:31.538424419761007/130.53330659866333/18/460/300](comment)[/gmaps]
225号線沿いにある建物でかなり前から気になっていたのだけど、先日ようやくオープンしたようなので食べに行ってきた。

デザイン的にはガラスのスリットをぐるっとまわしてボックスを上下に裂いたような感じ。
両端の大開口部にはガラスを支えるマリオン程度で構造体のようなものは見当たらない。
比較的中央に柱があるのみで上部の屋根はキャンティでもっているような感じだけども水平力をどう処理しているのか良く理解できなかった。

内装は壁・天井は基本的にはよしずのようなもので統一されていた。(大開口部のブラインド代わりにも)
夜、内部から光がもれるとよく分かるけれども、なんと言うか”内臓系”の手法。
黒い外皮を切り裂いたところからオレンジ色の内臓(内装)が見えていると言う感じで、カウンター席周りの扱いだとか、その手法が徹底されていてすごくよくまとまった建物だった。

構造的な手法も含めてここまでつめられるところは、鹿児島にはそうないと思うのだけれどもどこが設計したのだろう。
気になる。









B057 『昔のくらしの道具事典』

昔のくらしの道具事典 小林 克 (2004/03)
岩崎書店


図書館、児童書コーナーより。
おもしれー。

【土間+かまど+羽釜+せいろのドッキング】や【いろりの自在鍵と横木の機構】あたり、ぐぐっときた。

このごろ、豊かさとは関係性のことではないか、とよく考える。

便利にはなったけれども、こうした昔の道具との方がより深い関係が築けたのではないだろうか。

人との関係・モノとの関係・空間との関係・土地との関係・時間との関係・自然/宇宙との関係・目に見えないものとの関係・・・・。

様々なものと多様な関係が築ければそこには豊かさが生まれるだろうし、さまざまな関係性が希薄化すればそこにリアリティを感じとることは難しくなる。

それは「棲み家」という言葉について考えたこと同じことだろう。

昔に戻るということではなく、現代におけるさまざまな関係のあり方というものを見いだす必要があるように思うし、また、現代的な関係性による豊かさというものも身の周りにたくさんあるだろう。

関係性をどうデザインに、生活に組み込んでいくか。
それが大事。




B056 『屋久島の民話 第二集』

下野 敏見 (1965)
未来社


日本の昔話と水木しげる本を図書館で探しちょったら、屋久島の民話があったかぁ借りてみた。

「そひこのはなしじゃ。」

そいで話が終わるんがよか。
そひこのはなし以上のもんがそげんあるわけがなかかぁね。

こん話を集めたとは、種子島の先生(ちゅうても何十年も前の話)やっけど、当時、そん先生が種子島から屋久島を見て

夜の海に黒々と浮かぶ屋久島の中央部に屋久島電工の灯がきらめくのでした。その灯が私には日本に無数にある離島の暗く悲しい運命を自らの手できっぱりと断ち切って、近代工業の島を打ちたてようとする希望の灯に見えるのでした。(中略)ところが島の近代化が進むにつれて古い伝承が急速に失われつつあります。

ちゅうように危惧しちょん。
当時の時代も感じとるん。
じゃっけど、おいは恥ずかしながぁ屋久島ん歴史はよーわかぁん。ちーっとは勉強せんにゃねぇ。

こん本を読んでも、屋久島なんかはそげな話に想像を巡らせらるん、だいにも分からんようなもんが残っちょっけど、都市部ん化けもんは瀕死の状態や。

景色ん中に想像の入る余地はなか。

そいはちぃっとばっかい貧しかやなかか。
化けもんが本当はおるとかおらんとかの問題やなか。おわんくてもそういうことを考えるんはおもしぇえが。

やっぱい水木しげるん本を読んでみっかねぇ。
なんかヒントがあっはずや。

あっ、こん本にのっちょん話がこんページにもいくっか載っちょっど。

(おいん言葉はだいたい合っちょっかねぇ?あんまい自信はなか)




TV『プロフェッショナル・仕事の流儀 「中村好文・心地よい家はこうして生まれる」』


>>番組HP(NHK総合)

「どんな家が欲しいのか、依頼者にはわからない」
「主人公は『家』」
「悪条件にこそ突破口あり」

依頼者もまだ知らない要望を掘り出す。
そこにこそ設計者が依頼者と関わる意味がある。

『家』を主人公に持ってくることで、依頼者の、そして設計者の凝り固まったイメージを抜け出せるのだろう。

家が単なる欲望の結果だけでは息が詰まる。

家は単なる所有物であるのではなく、時には大きくつつみこむ父親や母親のような、時には共に楽しみを分かち合う兄弟や友達のような、互いに関係を築ける相手でなければつまらない。

『家』を主人公にすることで、ようやく家が関係を築けるような相手になれるのかもしれない。

「楽しまなければ心地よいものは生み出せない」

どんな状況においても楽しめる自分を維持し続ける才能こそが、建築家にとって最も必要なものではないだろうか。
[MEDIA]




B055 『モダニストの夢―聴竹居に住む』

高橋 功 (2004/01)
産経新聞ニュースサービス


建築家・藤井厚二(1988-1938)が建てた実験住宅「聴竹居」をインテリアデザイナーでもある2代目店子の高橋功が紹介する。

住まうことを追い求めた藤井の姿勢とそこから生まれる工夫には学ぶべきことは多い。

落ち着いて、とても居心地が良さそう。
だけども、静的な印象の写真が多いせいか脳がとろけて少し歳をとってしまいそうだ。

こういう深みやゆったりと流れる時間と、躍動感や快活さといったものは共存できるのだろうか。
共存する必要はないのか。
それとも、もともと別のことではないのか。

住む人次第か。

ラテン系の人ならどう住みこなすのだろうか。

(当時はそれこそモダンで快活な建物であったろうから、静的な感じは写真の印象でしかないのかもしれないし、もしかしたら静けさの中には生命感で溢れているのかもしれない。)




minicar


缶コーヒーはめったに飲まないので知らなかったけれども、GEORGIAがBMW1/100scaleミニチュアカーキャンペーンをやっていたそう。

それを他のブログで知って、もうキャンペーンは終わってるだろうとあきらめ半分でコンビニに行くと、WANDAがTOYOTA車のキャンペーンをしてた。


初代のクラウン、カリーナ、ソアラ、ハイラックスサーフ、エスティマ、プリウスの6種類。
ミニカーなんかは1/43とか1/64とか中途半端なスケールが多くて1/100スケールの建築模型に使えるのはなかなか手に入らない。画材屋なんかにあるのはちゃちくて高いし。

それがコーヒー付で120円で手に入るんだから安いものです。

BMWを逃したのは残念だけども、嬉しくていっぺんに8個も買ってしまいました。
新しく模型もつくらんとねー。




B054 『あのひとが来て』

あのひとが来て 谷川 俊太郎、谷川 賢作 他 (2005/09/30)
マガジンハウス


3/14のお返しにとちょっと奮発して買ったもの。(CD付)

素晴らしい詩と
素晴らしい音楽と
素晴らしい絵。

豊かで深い。

『深い』というと、その奥に深い意味が隠されていると思いがちだがきっとそうではない。

意味などというものにはとうてい回収されない『深さ』でただ存在していること。
そういうものがあるということ。
そこにこそ美しさや豊かさが存在するということ。

そんなことを思い出させてくれる。

生きる意味とかなんとかいうものは一度忘れてしまえばいい。

そしてもう私は
私がどうでもいい
無言の中心に至るのに
自分の言葉は邪魔なんだ
『旅3arizona』より

身近なものをおそれるあまり
遠くを見すぎて
男の心は宇宙のようにスカスカだ
『猫に見られる』より

私のタマシイに
いつまでも時は満ちないのに
こいつのヒゲの先で
時は満ちる
私を待たずに
『猫を見る』より

時間に満ちた世界は
実際にこの本を手にとって
味わってください。

詩と音楽。もうこれだけで完成した世界に空間を与えるのが、私の仕事であった。山本容子・あとがきより

自分の感じていること、思っていること、考えていることを人に伝えたいなら、詩よりももっとそれに適した形式がある。私は詩をただそこに存在させたいだけだ、石ころのように、洟垂れ小僧のように、と言うと我ながら自分の傲慢にあきれるが。
しかし絵描きでも音楽家でも歌い手でも本音は同じではないだろうか。美しいとしかいえない何かが、目に触れ、耳に触れ、肌に触れてくる、それがARTと呼ばれるものであるはずだ。谷川俊太郎・あとがきより




B053 『甘えのルール』

甘えのルール―赤ちゃんにあなたの愛情を伝える方法 信 千秋 (1998/09)
総合法令出版


相方が図書館で借りてきたのでつまみ読み。

ひとことでいうと3歳まではスキンシップを大切にして甘えさせなさい。それで情緒が安定し人生に立ち向かう基盤ができる。ということ。
そして「甘え」と「甘やかし」は違う。心の甘えをモノですりかえないということ。「心のほしがる物は心で与える―それがルール」

甘えさせてばかりいると、わがままで弱い子になるのではないか、などと思いがちだけど、3歳までは人生を肯定的に受け入れるために甘える必要があるそう。
(そして、これは父親の出る幕ではないそう。さみしいけど。)

説明が中途半端に科学的であろうとしているので、かえって説得力を失っているように思うが、著者がたくさんの親子と接した中から見つけ出してきたことは、まぁそうだろうなと思う。
徹底的に科学的であるか、もっと感性に訴えかけるような簡潔な表現に絞るかした方が訴える力は大きかったように思う。

それはともかく、僕自身これから様々な矛盾する情報に出会うだろうし、混乱することもあるかもしれない。
しかし、子供を育てることは数式で答えを導き出すようになものではない。

自分の子供を信じ、感じ取ることのほうが大切ではないかと思う。

情報も大切だろうけど、ちょっとした安心感を得るためぐらいに考えてあんまり振り回されないようにしよう。

■子育ては「感性」「性格」「情緒」のバランス。
■「音育」感性は振動でつくられる
■「動育」性格は動きで育つ
■「心育」情緒は母親の心の安定で育つ

■子育てで、他人に迷惑をかけない生き方をしなさいと、よく子供に教える人がいますが、本当は少し間違っているようです。人は他に迷惑をかけないでは一日も生きることはできないのです。それだけに他からかけられる迷惑も、ともに背負って解決していこうとする行き方が、自然から与えられた共生の知恵だと思います。(あとがきより)




Region


まだ見ていないが鹿児島の地域ブランディングを考えるフリーペーパーというのがあるそうだ。

実は高校の同級生で腐れ縁のあるM氏が企画から積極的に関わっているものだ。
何度か彼からこういうものをつくるという話は聞いていて少し気にしていたのだけれども、もう2号まで出ていた。

Region=「地域、地方」という言葉に『開かれた地域』という意味が込められている。

彼が東京から鹿児島へ戻るときに熱く語っていたことが一つの形としてここに現れつつある。

彼は彼のもつ情熱や人なつっこさと言った持ち味を生かしつつ一歩一歩前に進んでいる。

ちょっと悔しいけどまいった。

僕は、自分の進む確かな道を定めかねてしまっている。

自分の持ち味を生かせる、自分の生きられる道はどこにあるのだろうか。

大学の3回生の終わりごろ、お世話になった先生に『建築とは何か』と尋ねられた時に深い森に迷い込んでしまった感じがしたが、今も同じように不安と希望の森に迷い込みつつある。

今回は自ら進んで森に入ったようなものだし、その森もぼんやりとは見えつつはある。
しかし、だからこその迷いがある。

こんどこそこの森を抜け出したい。

だからあともう少し歩いてみよう。

そのための歩く力をこの情報誌から/彼から少しもらおう。

********************

近所のMisumiに置いてあるようなので原付を走らせ店員に聞いてみたが、今切れているそうだ。残念。
明日にでも探してみよう。
今回Close upされているN氏も同級生ではないか。はー。




B052 『建築は詩 -吉村順三のことば一〇〇』

永橋 爲成
彰国社(2005/10)

シンプルで居心地のいいすまい。

火と水と植物。光と音楽。

端正な佇まい。品。プロポーション。寸法。

そんな、単純であたりまえのことが大切。

でも当たり前のことで勝負するのが一番難しい。

■一般に物の形は固定した論理でもって、やみくもにつくられるべきものではない。人間の自由さをいいものとして形に生かしていく努力―責任のある自由さ―を大切にしたい。

■建築は、はじめに造型があるのではなく、はじめに人間の生活があり、心の豊かさを創り出すものでなければならない。そのために、設計は、奇をてらわず、単純明快でなければならない。

■計算では出てこないような人間の生活とか、そこに住む人の心理というものを、寸法によって表すのが、設計というものであって、設計が単なる製図ではないというのは、このことである。

■私は建築家として、自分では寸法にいちばん責任をもっている。自分のプロとしての責任として、寸法を大事にしています。




B051 『きもちのいい家』

きもちのいい家 手塚 貴晴、手塚 由比 他 (2005/12)
清流出版


『建築の意味や目的は、気持ちよさを味わうためにある』

自分が『いいなぁ』と思った『ありそうでなかった当たり前のこと』を当たり前にやる。

それだけでいいんだ。と背中を押してくれる。




ようやく

50冊。
去年のうちに100冊と思ってたけどようやく半分。
100冊までは辛くともとにかく読み切ろう。
少しづつ、輪郭が見えてきた気がする。
ぼんやりと。




B050 『地球生活記 -世界ぐるりと家めぐり』

小松 義夫
福音館書店(1999/06)

メーカーさんにもらったカレンダーの写真があまりに魅力的だったので誰が撮ったのだろうと見てみると小松義夫と言う人の撮影だった。
調べていると面白そうな本も出している、ということで図書館で借りてきた。

先進国で暮らす人はそれ以外の人に比べて多くのことを知っていて、多くのものを手にしていると思っている。
しかし、それは本当だろうか。

この本に出てくる先進国とはいえない場所の、たくさんの家はとても斬新だし、壁に描かれた絵は生き生きとし今にも動き出しそうである。
先進国でプロと呼ばれ、知識も豊富と思われている人が必死に到達しようとしているもの、なかなか手にできないものを、ただの生活者が手にしている。

とにかくため息が出るほど豊かなのだ。
それに比べて私たちのつくるものはどうしてこうも貧しくみえるのだろうか。

私たちは謙虚さをすぐに見失う。
浅はかで薄っぺらな知識や、怠けることばかりする意識や、つまらないエゴや、その他もろもろのちっぽけなものを、過信しそれがすべてだと錯覚する。

それらは本当にちっぽけなものに過ぎないのに。

『宗教』という方向には行きたくないが、もっと大きなものを感じ謙虚さを失うべきではないように思う。
これらの家には謙虚さを感じるし、ちっぽけな意識を超えた豊かさを感じる。

佐々木正人の観察によるとフォーサイスの魅力は「有機の動き」すなわち意図を消滅させ外部と一体となるような動きにある。

同じようにこの本の家には、環境や家そのものと、つくる人とがダイレクトに呼応しあう・一体となるような関係が見て取れる。
そして、ここには肌理も粒もある。

おそらく、それが意識をこえた豊かさを生み出している。
(フォーサイスのようなものづくり?)

有機と無機の兼ね合い・せめぎあい、ここいら辺に何かありそうだ。