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B073 『藤森照信の原・現代住宅再見』

下村 純一、藤森 照信 他
TOTO出版(2002/12)

TOTOから事務所に期間で送られてくる『TOTO通信』というものがある。
毎回、明確にテーマが設定された特集を組んでいてとても勉強になる冊子である。

そこで連載されている藤森照信のコーナーを一分まとめたものが本著。(続編も出ている)

中村好文が建物の息遣いを拾い上げるのだとしたら、藤森照信は設計者の情念というか体臭のようなものを嗅ぎ分け、その匂いを分かりやすく説明してくれる。建築も面白いが、それを設計している人間も面白いのである。この刊に取り上げられているのが特に人間臭い年代というのもあるけれども、やはり藤森照信は人間を浮かび上がらせるのがうまい。

また、彼のつくる建物も得意なポジションで我々に多くのことを問いかけてくる。
石山修武と合わせて一度自分の中で整理することは、避けては通れないと思う。でないと、ある部分のもやもやは晴れそうにない。ということで今日『ザ・藤森照信』買ってしまいました・・・




B072 『と/to』

と/to 浅生 ハルミン、小泉 誠 他 (2005/09)
TOTO出版


心地よく誠実なものづくり。

その空気感が誰かに似ていると思えば、小泉氏は中村好文の教え子でもあるそう。

等身大でのモノとの関わりを生み出すこと。

浅生ハルミンのイラストも心地よい。




B071 『私たちが住みたい都市』

山本 理顕
平凡社(2006/02/02)

工学院大学で開催された建築家と社会学者による連続シンポジウムの記録。
全4回のパネリストとテーマは

伊東豊雄×鷲田清一「身体」
松山巌×上野千鶴子「プライバシー」
八束はじめ×西川裕子「住宅」
磯崎新×宮台真司「国家」

と大変興味深いメンバー。

しかし、このタイトルのストレートさに期待するようなスカッとするような読後感はない。

建築という立場の無力感・困難さのなかでどう振舞えるかということが中心となる。

宮台真司の”○○を受け入れた上で、永久に信じずに実践するしかない”いう言葉と、その中で実践を通じて何とか活路を見出そうと踏ん張る山本理顕が印象的。

建築家は、広い意味でのアーキテクチャー・デザイナーになろうとも、それだけでは完全に周辺的な存在になるということです。各トライブのアイコンの設計如何は、人々の幸せを増進させる試みかもしれませんが、それは、各種の料理が人々の幸せを増進させるということ以上のものではありません。(宮台)

宮台の言うように建築家には『個々の料理』を提供する以上のことは出来ないのだろうか。

というより、『個々の料理』こそが世界に接続できる唯一のツールなのかもしれない。

それこそがシステムの思うつぼで、管理された自由でしかありえないのかも知れないという恐れはある。
しかし「『個々の料理』によって世界の見え方がほんの少し違って見えた」という経験を信じる以外にはないのではないだろうか。

そのどうしようもない建築や都市の風景によって私達の生活は今や壊滅的になってしまっているのではないか。建築の専門家として言わせてもらいたい。今の日本の都市は危機的である。私たちの住みたい都市はこんなひどい都市では決してない。こんな都市の住民にはなりたくない。
だから話をしたいと思った。(あとがき)山本理顕

それにしても、そんな思いで議論された『私たちが住みたい都市』でさえ、わくわくするような躍動感のあるイメージを提示できないのはどういうことだろうか。

システムへの介入よりも、イメージの提示こそが必要ではないだろうか。

システムや意味やその他もろもろのものに依存せず、ただデザインし続けることにこそ可能性が残されているはずだ。

もっとシンプルに『私たちが住みたい都市』を思い描いたっていいんじゃないだろうか。




夏文庫あります


現場へ行く途中の本屋(携帯にて)

こう書かれると、「読書の秋」のイメージもあってか、読書がとても涼しげな行為に思えてくる。

風の良く通る縁側に寝っ転がってセミの声と風鈴の音を聞きながら読書しているイメージが浮かぶ。脇には麦茶とスイカ。

見知らぬ本屋の店長にやられたなぁ。(店内の夏文庫コーナーも手作りっぽかったです)




CD『うたううあ』

うたううあ (CCCD) ううあ、ともとも 他 (2004/03/13)
ビクターエンタテインメント


レンタル屋で童謡を探していて見つけた。
NHK教育テレビでううあ(UA)が歌ってたもの。

子供というよりは自分が楽しめた。

どこかで、昔の歌は肉体労働の辛さを軽減させたり楽しみにかえたりする役割があったというのを読んだことがあるけれど、童謡なども、どちらかといえば子供のためというよりも子育てをする側にとっての意味の方が大きいかもしれない。

自分で歌っているうちに、肉体労働も子育ても楽しげなものに変わるから不思議。

そういう意味で”楽しめた”というのは童謡としても成功ということではないだろうか。
[MEDIA]




B070 『意中の建築 下巻』

意中の建築 下巻 中村 好文 (2005/09/21)
新潮社

中村好文・下巻。

やっぱり建築って素敵だと思う。

中村さんはあとがきに、学生から「建築家になるための才能や資質」を問われたときの答えとして次のように書いている。

「もし、僕みたいな市井の住宅建築家になるつもりならね…」と前置きをして、私がまず挙げるのは、
・計画性がないこと
・楽天的であること
のふたつです。もちろん、ほかにも「日常茶飯事を惰性から祝祭に変えられる才能」とか「清貧に耐えられるしなやかな精神」とかもっともらしいことも言いますが、なんにしても最初のふたつは備わっていた方がよいと思います。

うん、妻には申し訳ない(?)がこれらには自信ありだな。

それは、喜ぶべきことのはずだ。きっと。

建物見学で計画性がなくて楽天的といえば、僕もけっこう無茶をしたりしたことがある。
この本でも最初に出てくるサヴォア邸。
パリ郊外にあるコルビュジェの傑作ですが、学生の時に見に行きました。しかし、ここで漫画のようなことが起こりました。

今考えると馬鹿丸出しですが、若気の至りと思って軽く笑ってください。

行ってみると、サヴォア邸は改修工事中らしく見学不可になっていました。しかし、結構な高さの塀越しに中の様子を伺うと人の気配がありません。

はるばるフランスの田舎まで来たのです。

ちょっと、近づいて写真撮るぐらいならいいかな。という誘惑に駆られました。

下のGoogleEarthで見つけた画像で言うとちょうどAのあたりの塀を乗り越えて建物に近づこうとした時、Cのあたりから一匹の犬がひょこひょこ出てきました。

ges.jpg

何じゃ、と思ってとっさにBの位置の木の影に隠れると、その犬はふらふらと歩いてまたCのところに戻りました。

なんか、やばいかなぁと思っていると、今度は犬と一緒に太ったおじさんが一輪車のようなものと草すきフォークを持って出てきて庭掃除を始めてしまいました。

人がいたのかと後悔するも、どうすればよいか分からずただ隠れてじっと身を潜めていると、能天気そうな犬がひょこひょここっちへやってくるではありませんか。

そして、その犬となんとなく目が合ってしまったのですが、別に吠えるでもなくご機嫌であたりをふらふらと歩き回り、ある時突然、その犬は僕の隠れているちょうどその木の幹に片足挙げてショーベンを始めたのです。

なんとなくおちょくられてる気がしてきた時に、おじさんが一輪車を押して犬の方へ(つまり僕の方へ)近づいてきました。

こりゃだめだ。と思い、僕は意を決し、フランス語は分からないので『アイムソーリー』といいながら、敵意がないのを示すために両手を上に挙げて出て行きました。

すると、太ったおじさんは白い顔がみるみる赤くなってなにやらもごもご言い出しました。

そして、僕は文字通り「つまみ出され」ました。

と、これだけのことですが、そのショーベンシーンがあまりに漫画チックで記憶に焼きついています。

楽天的というよりは無謀な話でした。撃たれなくて良かった。

ちなみに、一緒に見学に行った同じ建築学科のクールなツレは僕が塀を登ろうとしたとき「俺は他人のふりをする。ちゅうか他人や」といってその辺をぶらぶら散歩し始めました。

そっちが正解。




B069 『意中の建築 上巻』

中村 好文
新潮社(2005/09/21)

しばらく堅苦しい傾向が続いたので、だいぶ前に買ってからゆっくりと見れなかった中村好文を開いてみる。

さまざまタイプの建物が選ばれているが、そこに共通しているのは、建物から息遣いが聴こえるということ。

それは建物がいろいろな関係を築くことが出来ているということだと思う。

自然との関係・宇宙との関係・書物との関係・地形との関係・生活との関係・時間との関係・街並みとの関係・製作者との関係・・・・・・
当然、その中には建物と人間との幸せな関係も含まれる。

著者のスケッチにも息遣いが聴こえる。やっぱりこういうのもいいなぁ。

建築が機能的で、合理的であることにまったく異論はありませんし、ダイナミックな空間構成も大いに結構。もちろん、鉄とガラスとコンクリートだけで作られたミニマルアートのような、スカッと簡潔明快な建築に感動しないわけではありませんが、ふと、それだけが建築のすべてになってしまったら、建築ならではの「物語性」と「神秘性」が、「機知」と「ユーモア」が、そして「夢」というかけがえのない宝物が失われてしまうことに気づき、寂寞とした思いにとらわれるのです。(p36ストックホルム市立図書館)

私を魅了したのは、家族用の動線さばきの鮮やかさと、居心地の良い場所をサラリとしつらえる達意の平面計画です。・・・(中略)・・・住宅の動線は暮らしの機微に寄り添っているだけでなく、それ自身が「驚きと発見に満ちた小さな旅」でありたいものです。そして、その上で「愉しく」なければなりません。(p112ケース・スタディ・ハウス#1)




B068 『下流社会 -新たな階層集団の出現』

下流社会 新たな階層集団の出現 三浦 展 (2005/09/20)
光文社

「下流」とは、単に所得が低いと言うことではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。

『脱アイデンティティ』のところでも触れたが、この視点のアイデアはおもしろい。

しかし、全体を通して「上流」「中流」「下流」といった階層(意識)の比較ばかりが述べられているのはつまらない。

著者は、終章やあとがきに見られるように、もっと広く温かい視線を持っている中で、あえて『階層意識』を強調したのだと思うし、上流と下流の分裂・対立を危惧しているのは分かる。

しかし、この本を読むことによる効果は著者の意図とは別に、下流という人の不安感を煽り、上流と呼ばれる人の思考停止を招くようなもの、対立意識を強化するようなものではないか。

『上流』『下流』という言葉には単なる分類という意味だけではなく、ある側面からの価値判断が含まれている。

世界の中の日本という国の資本主義的な価値観の中だけで上流だの下流だの競っているのは滑稽でもある。

現実の中で不安を煽られれば、そういう価値基準に安易に流されがちなのも分かる。しかし、狭い価値観の中で上だの下だの言ってる社会ってのはやっぱりお寒いし、逆行・後退している気もする。

僕個人的には、上だの下だの言うような後退はしたくないし、糞喰らえ、と思う。

僕が下流でいよう、という意味ではない。そういう分類が馬鹿らしいと思うだけ。
階層意識なんてのはおよそ前時代的で幻想的で21世紀にふさわしい概念だとは思えない。現実を持ち出す人もいるだろうけれど、ノルベルト=ボルツの言葉をもじると『「現実」を持ち出すことは、たいていは思考をサボるための口実にすぎない』。

「糞喰らえ」というのは僕にとってはモチベーションになる。
高校入学時に教育者から『勉強と部活・恋愛の両立は出来ないからするな』とまじめな顔していわれたことがある。(そんなセリフはドラマの中だけのものだと思っていた)
それに対しての「糞喰らえ」が僕にとっての一番のモチベーションになったし、その教育者を黙らせられたと思う。著者の意図は別のところにあるとおもうし、それを批判するつもりはない。ただ、この「糞喰らえ」が僕の栄養になる。ただそれだけ。
分析自体は興味深いし、『下流』意識に問題がないわけではない。教育機会の平等についてもある程度は賛成。




B067 『シアーズ博士夫妻のベビーブック』

シアーズ博士夫妻のベビーブック ウイリアム シアーズ、マーサ シアーズ 他 (2000/10)
主婦の友社


たまごクラブやひよこクラブ、その他書店に並んでいる多くの子供本がいろんな情報を手早くわかりやすく教えてくれる”友達”のようなものだとしたら、この本は不安や疑問を取り除きながらゆっくり、じっくりと包み込むように教えてくれる”母親”のような本。
つまり、母親のための母親としての本と言う感じ。
一般書にしてはヴォリュームも価格もしっかりしているが、その分内容も頼りがいがある。(639ページ、3400円)

”友達”はたくさんいるのも心強いけれども、それとは別に信頼できる”母親”一人の存在があればなお心強い。

まだ、パラパラとしか読んでいないけれども、さまざまな情報が飛び交う中、子育てに対するシンプルな考えを育ててくれそうです。

やっぱり子育てって大変ですね。
『本当に子育ては24時間営業なんだと思い知ることに』なります。前に友人の結婚式で大阪に行ったとき、子供出来たての別の友人が電車の中の乗客を見回して「(酔っ払って寝てるようなおっちゃんなんかも)みんな子育てをしたんやと思うと尊敬してまうわ」ってゆうようなことを言った。

そん時は、ふーんとしか思わなかったけど、今なんか分かる気がする。




建築はロックだ。

建築はロックだ。

立ち上がる建物はクラシックであったりポップスであったりするかもしれない。

しかし、建築という行為そのものはロックでしかありえない。
と思う。

ただし、目的化したロックはつまらない。ただ、その在り方から自然に立ち上がる様がロックと呼ばれる。

きっと、クラシックの名指揮者もロックンローラーに違いない。




『焦り』から抜け出す正しい方法

このごろずっと疲れがたまっていて、何をやってもうまくいかない。
その原因はおそらく『焦り』だ。

僕と同年代の建築家がいっせいに活躍を始めだしている。
スターダムに上り詰めることを目差しているわけでは全然ないけれども、自然と自分と比較し焦りを感じてしまう。

僕自身、自分でやろうと思っていることと現実のギャップを感じ焦りを感じてしまう。

他人の『焦り』は客観的に見えるし、焦りのマイナス面もよく見える。
しかし、自分の中の焦りをコントロールすることはなかなか難しい。
焦りは空回りを生んで、マイナスにしかならないと頭では分かっているけれど、そう思えば思うほど焦りが増す。

きのう、それが原因で妻とちょっと言い合いになった。
もう一度、自分を見つめなおそう。

「今日出来ることは明日に延ばすな」という格言がある。
今までは、それを続けることで未来を拓けると信じていた。

しかし、時間には限界があり、自分の中でイメージする今日出来ること、今週できること、今月出来ること、今年出来ること、と現実とはギャップが生まれる。

そして、『今日出来るはずのこと、今日までに出来たこと』はどんどん蓄積されて、現実とのギャップは増すばかりになって、いつも何かに追われているような気持ちになっている。

身の周りの大切なことをなおざりにまでして今日やれることをやろうとしても、そのギャップは埋まらずに、焦りと共に罪悪感までが増してしまう。

焦りと罪悪感でがんじがらめになってしまった。

それで、良いわけがない。
そんなでは、良いものがつくれるようになれるわけがない。
なんとか、この悪循環から抜け出さなくては。

『今日やれることを明日に延ばすな』

背中を押してくれるよい言葉ではあるが、いつでも誰にでも効果があるというわけではないのではないか。

「今日やれることをやる」こと自体が目的ではないはずだ。
この言葉が単に自分を縛る規範になってしまったのなら、その規範は崩す必要がある。

『明日やれることは明日やれ』

これは、どこかで聞いたことがある。
でも、自分にはいまいちしっくりこない。

もうちょっとやわらかくしてみる。

『明日やれることは明日やっても良い。今日やることをやる』

こう考えるとちょっと楽になった。
『今日やれることをやれ』と『今日やることをやる』の違いは微妙だけれども僕にとっては大きい気がする。

やれることをすべてやろうとするんじゃなくて、今日大切なことを選んでやる。
いつもどこかで時計を気にしながらではない生活を心掛けてみよう。

『今日やれることを明日に延ばすな』ではなくて
『明日やれることは明日やっても良い。今日やることをやる』

これでも未来は拓けることを実証してみたい。
それを前提としたプランにすればよい。

ストイックであることに逃げ込むのはそろそろ卒業にしよう。

『明日やれることは明日やっても良い』
って仮説。
今日もひとつ大人になった。(ローカルネタです)

今日は昨夜眠れず寝不足なので仕事を早く切り上げて帰宅した。
妻は実家なので、家で一人なのだが、今日はせっかく早く帰ってきたんだからと、勉強はやめて仮眠・料理・風呂・洗濯・掃除・(自分で)散髪その他、とやりたいことをいろいろやろうと思った。

えーと、何時まで仮眠をとって、何時までに風呂と散髪と洗濯を終わらせて・・・・

あれ、これではまた時間に追われるではないか。

ひとつ大人になったのではなかったか。

ということで今日はふたつのことを明日に延ばす。
・掃除機までかけようと思ったけど、掃除は明日にする。
・いつもは明日の弁当までつくるのだけれども、今日は超手抜き料理(目玉焼き豆腐丼)にして、あしたはご飯だけ持っていく。おかずは弁当屋で。

いぇーい、今日はなんか余裕。
ようやく大人になれもした。




B066 『日本建築における光と影』

桜井 義夫、ヘンリィ・プラマー 他
エー・アンド・ユー(1995/06)

『a+u』の臨時増刊号には完成度の高い本が多い。

中でも僕のお気に入りは1995年6月臨時増刊のこの本。
まさに永久保存版。

ヘンリィ・プラマー著の光に関するものには続編もあるが、やはり最初のもののほうが原点に還れる。

タイトル通り、日本の建築の光について書かれた『陰翳礼讃』的書物。

載っている写真も素晴らしいけれど、かなりのボリュームの文章および光に関する引用文は、どれも密度が高く、詩的で、イマジネーションを刺激するものばかり。

日本のような霞の国では、・・・・・我々と世界の間に存在する光は、無色透明な媒体に溶けて広がり、そのレンズを通して見るすべてを空虚にするエーテルとなって、景観に幻覚のような捉えどころのない雰囲気を与えているのである。
希薄化という光の質は日本のゲニウス・ロキを決定しており、それが古代人の感覚や心理形成に奥深い影響を与えたにちがいない。(第1章より)

光がかすむ様子は見るものにとって鎮静作用を発揮するが、それは灰色や闇、透光性が感覚を奪い取るのに類似している。触覚を失い、分子状のヴェールの中にすべてのものが沈んでいくと、心や眼は落ち着きを持ち始める。ぼんやりとした世界に視覚を失うと、途端に神経は緊張を解き魂はくつろぐのである。(第6章より)

どこをとっても、日本的な奥行きのある空間そのものを感じさせる文章に溢れているのだ。

第1章:月影の灰色・・・第4章:色づく影・・・第9章:生け捕る第10章:移ろい・・・と目次を見るだけでも想像力をかきたてられる。

光に色があり、密度があり、湿度があり、生や死がある。
そういう基本的なことを奥行きをもって感じさせてくれます。

それをものとして結実させるにはけっこう腕が必要。

ただ、日本人の中の光に対する感受性は、蛍光灯の明るさ信仰によって忘れられつつある。
その責任の一端は(多くは)僕らにもある。




B065 『ポストモダンの思想的根拠 -9・11と管理社会』

岡本 裕一朗
ナカニシヤ出版(2005/07)

『差異のポストモダンから管理のポストモダンへ』

このアイデアはヒントになる。
しかし、本著の全体的な構成は、周辺の思想をたどるガイドブックのようなもので、専門でもない人にとっては少しまわりくどい気がした。

自由を求める社会が逆に管理社会を要請する。

管理と言っても、大きな権力が大衆をコントロールするような「統制管理社会」ではなくもっと巧妙な「自由管理社会」と呼ばれるものだそう。

一般には、自由と管理は対立し、互いに排除しあう、と考えられるだろう。ところが、ポストモダンな管理社会では、管理は自由を容認し、みずからに組み込んでいる。自由な「差異の戯れ」が肯定され、その上で差異が巧妙に管理されるのだ。そこで、こうした管理社会を、本著では「自由管理社会」と名づけることにしたい。ポストモダンな管理社会は、差異を組み込んだ「自由管理社会」なのである。
・・・(中略)・・・「自由管理社会」では、自由のみが強調されて、管理は不可視になっている。しかし、管理の実態を理解することなしには、自由も危ういと考えなければならない。

自由を謳歌しているつもりが、実は巧妙に管理されたものである。
なんか孫悟空がお釈迦様の掌の上を飛びまわっているようだ。

それに対して、どのようにふるまうか?

・掌の上でもいいから、飛び回ることを謳歌する。
・なんとなく釈然としないので飛び回ることをやめる。
・釈然としないがとりあえず飛び回って謳歌しているつもりになる。
・掌からなんとか降りようとする。
・その他(何があるだろう。飛び回らなくとも楽しむ?)

どのようにふるまうか決めかねてるのが一つ前で書いた「一歩抜け出せなさ」なのかもしれない。

それは、僕の生き方の問題でもあるし、表現の問題でもある。
極端に言えば、去勢された生き方では去勢されたようなものしかつくれないのでは。
(そういえば、この本を読むきっかけになった対談(NA 2006 4-10)で内藤廣がそういう感じのことをいってた)
さて、どうしようか・・・

— メモ—
・掌でもなんでも楽しめばいいじゃん、って言うのが現代の傾向かもしれない。

しかし、皆が自由に振る舞い、利便性を求めると当然リスクが高くなり、セキュリティ対策・情報管理が要請される。
当然それにはいろいろなコストもかかる。
自由なつもりが逆にがんじがらめで、管理社会を維持・強化するために搾取されてるってことはないだろうか。

僕は漠然と感じる生きにくさ、ただ生活するだけでも膨大なコストを要求される社会の原因はこのあたりにあるような気がする。
それを少しだけずらすことはできないだろうか。

・著者は批判的だがジジェクの次の文にも何かしらのヒントが隠れてそうな気がする。

今日のような状況においては、革命的な機会に開かれている唯一の方法は、直接的な行動への安易な呼びかけを断念することだ。そのような呼びかけによって、物事は変わっても全体の情勢は変化させないような行動へと、われわれは必然的に巻き込まれるだけだ。今日の苦境とは、もしわれわれが直接に、「何かをしたい」(反グローバル化運動、貧民救済・・・への参加)という衝動に屈するならば、われわれは確実に現存秩序の再生産に加担することになるのは疑いないということだ。真のラディカルな変革のための基礎を据えるための唯一の道は、行動への衝迫から撤退すること、「何もしないこと」である。こうして、異なった種類の行動のための空間を開くのだ。(ジジェク)

なんとなく東洋的に感じる言葉ではあるが、現代の若者も似たようなことを動物的な嗅覚で感じ取っているのではないだろうか。
(良否は別にして僕は若者のそういう敏感さは信頼してみてもよいと思っている。)




B064 『脱アイデンティティ』

上野 千鶴子 編
勁草書房(2005/12)

複数の人がアイデンティティについてさまざまな視点から論述している。
本著は『「アイデンティティ強迫」に憑かれた近代社会および近代社会理論へのレクイエムを意図して編まれた(上野)』そう。

しかし、個人的な実感としてはアイデンティティの概念はレクイエムを唄うまでもなくすでに失効しているようにも思う。
今では「アイデンティティ」という言葉にピンと来なくなっている。
もちろん個々の状況によって感じ方は様々だろうが、少なくとも僕にとっては「アイデンティティ」が自分にとって重要なテーマではなくなっている。

本著の中では、三浦展の論(『消費の物語の喪失と、さまよう「自分らしさ」』)はとっつきやすく、なるほど、と思わせるものであった。

面白く読めたと思えば、近いうちに読もうと思っている『下流社会』の著者だった。説得力がありマーケティングが専門なのも分かる。

三浦の論は前半はとっつきやすくなるほどと思わせる分、もはやありがちな視点であった。しかし、後半の論はちょっと考えさせられるものがあった。

最近の若者の中では「食べることを楽しいと感じない、面倒と思う子が増えてきた」というのだ。

欲求の基本的な源泉は不足である。しかし、欲求の対象(食物)だけでなく欲求そのもの(どういうものを食べたいか)までが過剰に供給される社会では正常な欲求を維持することは難しくなる。

何を食べたいかまで、押し付けられていると、本当に自分が食べたいのか、『単なる刺激(広告)に対する反応(消費)』でしかないのか分からなくなる。

その結果

食欲を満たすことは幸福感にはつながらず、むしろ食欲は、食べても食べても決して満たされることのないもの、むしろ、いつ何時自分に襲いかかってくるかも知れない不快なもの、不気味なものとして意識されるようになる可能性がある。それが、若者が食べることを面倒くさいと思うようになった理由ではあるまいか。そして、若者は、いつ何が欲しくなるかわからない自分というものをもてあますようになった。自分がわからなくなったのだ。

(これは他のさまざまな欲求に対しても言える)

また、現代の若者は「自分らしさ」をもとめるが、それは単に「楽であること」「マイペース」の同義語になりつつある。

自分の嗜好を表す言葉を聞くと、「個性的」「先進的」「人と違う」といった言葉はまず挙がってこない。むしろそそれらは嫌いな言葉ですらある。逆に好きな言葉は「さりげない」「目立ちすぎない」「シンプル」といった言葉である。
そう考えると、現代の若者の求める自分らしさ志向はずいぶん屈折している。それは1960年代から70年代の若者文化に求められたような、既存の体勢からの個人の解放、アイデンティティの確立としての自分らしさではないし、80年代における、消費を通じた自己表現としての自分らしさでもない。・・・(中略)・・・思えばそういう時代はある意味で幸福であった。

単に欲求をもつことや自分らしさを求めることでさえ、消費社会から自由になることが難しく、全てが絡めとられてしまう。
それを、敏感に感じ取り拒絶する若者は『欲求を欲求すること』さえ奪われているのではないだろうか。

これは他人事ではなく、残念ながら自分自身にも思い当たる節がある。

欲求というものに対してなんとなく胡散臭さを感じ少し距離をおこうとしてしまうところがあるのだ。
素直に欲求をもてない自分がいる。(これは昨日も妻に指摘された。)

ずっと、(ものをつくるということに対して)どこか一歩抜け出せない感じを持っていてその原因がこの距離にあることも自覚している。今見つけようとしているのはきっとそこから抜け出た感覚である。

この欲求にたいする姿勢はモノをつくるものにとっては決定的に重要な問題だろう。安易に姿勢を決めることは出来ない。

自分の中で整理がつかないまま、どこかから借りてきて”とりあえず”欲求を持っているふりはできるかもしれないし、ほとんどの人にとってはそれで良いのだろう。

だけれども、とりあえず借りた欲求からものがつくれるはずがない。つくれるものはやはり借り物だけで、それでは人の心に達することは出来ないように思う。

この悪い意味での優等生的な「一歩抜け出せなさ」は僕の中でのコンプレックスでもある。
ここに目をつむったままだと前に進めない気がする。

いつか必ず抜け出せるという感覚はあるのだが。

— メモ —
ここから抜け出すために、またこのような社会で生きるために必要なものは「欲求をもつための体力」のようなもの、言い換えると「野性」のようなものかもしれないな、と少し思った。
また、平野 啓一郎氏の提唱する分人のようなものがアイデンティティの新しいあり方になってきているのかもしれない。




「確信」について

-5/29追伸アリ
友人からもらったコメントでなんとなくつながりが見えてきた気がしたので書いてみる。

僕は今、何らかの「確信」を持っているわけではない。

ただ、まだうまく言葉にならないが、なんとなく何かが「確信」に変わってくれるはずだ、という期待のようなものはある。

しばらくは「確信」まではいかないだろうし、「確信」を探すんだろうなと思う。

いや、探すというより「確信」に変えていく、ということなんだろう。流れの中で。

存在しているものを探すんじゃなくて、生み出す。

ポストモダンの生き方としてはこの違いが決定的な意味を持つ気がする。

存在の確信を持てるものがあるのならそれでもよい。
しかし、中途半端に不変の存在を信じようとすることは、逆に不在に対する不安を伴う。

自ら絶えず確信を生み出し続けること。
仮説としての確信を生きること(!?)

そういう姿勢に自由を感じる。

-追伸
「仮説としての確信」はちょっと弱い気がする。
仮説よりはやはり確信である。

普遍としての確信ではなくて
オリジナリティとしての確信。




B063 『建築の幸せ』

中崎 隆司
ラトルズ(2006/02)

著者は社会学科卒で、生活環境プロデューサー、建築ジャーナリストという肩書きを持つ。

こういう「肩書き」というのはあんまり好きじゃないが、多くの人の中心に立ち、物事の方向性を決めるような人は必要である。
多くの人が共感できるビジョンを示して、目的を共有しなければその場しのぎの連続になってしまう。
(本来なら行政がプロとしてそういう能力を持つべきだと思うが)

具体的な事例がたくさん紹介されておりとても参考になる。

しかし、なんとなく全体を通してぎこちなく感じる部分があった。
その違和感の原因はどこからくるのか。

それは、著者がクリエイターではなくプロデューサー・アドバイザーだということに関係があるように思う。

建築は社会にとっても幸せなものであるべきだ、というのは全くその通りだと思う。
しかし、それ以外の、それを超えたもの、例えば言葉にならないような空間性というものを許容しないような印象を彼の文章からは受ける。

ものをつくる過程ではおそらく膨大な思想的な無駄が生まれていると思う。その無駄が多ければ必ずよいものが出来るとは限らないが、そういう膨大な無駄から何かが生まれることがあることも事実だろう。

そういう無駄のつけいる隙を感じないのだ。
「いや、あれは失敗だとも思うけど、そういうことの先に可能性がありそうな気が・・・するんだけどなぁ・・・」って思う。

ただ、建築家がそういう言葉にならないものに逃げ込みがちで、現実的な部分や社会性から目を背けがちであったというのも事実。

建築家は言葉にならない部分は建築のプロとして実現しながら、社会性等とも正面から向き合わなければいけないと思う。

そういう点で、彼が独自の空間性も持っていながら現実も引き受けようとしている30代の若手に期待しているのも分かる気がする。

タイトルから期待していたようなカタルシスは得られなかったけれど、具体的なヒントには溢れていた。
しかし、こういうことは具体的な実践の中からしか答えは見出せない。
実践の機会を得なければ、具体性を引き受けられるような力はつかない。

ちょっと焦るな。




B062 『仕事のくだらなさとの戦い』

仕事のくだらなさとの戦い 佐藤 和夫 (2005/12)
大月書店


タイトルがあまりにキャッチーな本の多くは
・偏見に満ちた内容の本
・あまりに平凡な考えをただ大袈裟に大発見をしたかのように書いている、タイトル以外に読む場所のないような本
のどちらかである場合が多い気がする。

しかし、本著はその点では読める本であったと思う。
強い思いを理性でぐっと抑えている。

ただ、このタイトルは少し誤解を招く。
著者が戦おうとしているのは「仕事のくだらなさ」ではなく「くだらない仕事」である。
著者は労働そのものには絶望よりはむしろ希望を見ている。

子供が生まれてすぐの読書のタイトルがこれか、と思われるかも知れないが、だからこそのテーマだと思う。

佐藤和夫の執筆の動機の多くは若者が生きていても仕方がないと感じるような現状をどうにかしよう、と言うところからきているようで共感できる。

子供は社会の鏡というが、そうだと思う。
生まれながらに『生きていても仕方がないと感じる』子供だったわけではない。

子供が大人になることに希望をもてる社会だろうか。
大人は子供達に生活や労働に対して喜びや希望、もしくは辛さを受け入れる強さなど前を向く術を伝えてきているだろうか。

資本主義のシステムは自動的に自己を守ろうとする巨大な規範となってしまっている。
何のためにそのシステムを必死に守り、それに乗ろうとしているのか。
それから目を背けたままでは子供達にはそのシステムに利用されているようにしか見えないだろうし、そこに希望は持てないだろう。
たとえシステムを受け入れるとしても、目を背けるだけでなく、少しでも向き合い、子供達に何かを示せるように努力をすべき時期に来ているのではないだろうか。

自分の子供に不憫な思いをさせたいとは思わない。

しかし、僕が子供にしてあげられることの中から、優先順位をつけなければいけないとすれば、一番に来るものは「多くのモノを与えること」ではなくて、「僕自身が人間として先を歩き、何らかの希望を彼に与えられるような生き方をすること」である。

後は彼が判断できるようになってくれれば良い。

著者のヒントは労働にもともと備わっていた、楽しみや喜びを取り戻すこと。
自立性やコミュニケーションが重要。

自分の着る服が自分や自分の親しい友人によって編まれたり縫われたりして、みんながその人しかないような服を着られるとしたら何という豊かな社会であろう。料理を友人たちと楽しんで作り、一緒に夕べにワインやビール、各人の得意料理を雑談しながら楽しめるとしたら、どれほど人間は豊かな生活であろう。こんな当たり前の夢がまったく不可能な方向に日本社会が向かっているのはなぜであろうか。

「ただ生きることを楽しむこと」がこんなに贅沢になってしまった国が他にあるだろうか。

僕が答えを見つけられているわけではない。
それでもやはり、「ただ生きることを楽しむこと」が当たり前と感じられる。そういう姿勢で生きられるようになりたい。




DVD『誰も知らない Nobody Knows』

誰も知らない 柳楽優弥 (2005/03/11)
バンダイビジュアル


「誰も知らない」

そういうことか。

自分のことより相手のことを考えてしまう子供と、
相手のことより自分のことを考えてしまう大人。

前者は強く、後者は弱い。

そういうと単純化しすぎるけれども、どちらも人間のもつ一面。

それが人間。

しかし、それで命を落とすのはあまりに悲しい。

飛び込んでくるニュースはそんなのばっかだ。

-追記

ストーリーそのものと同じぐらい、子供達の演技やセリフが妙にリアルなのに感動した。(特にしげる)
大人の勝手な子供像を押し付けたような感じが全くしない。こんな演技ができるのだろうか、と思っていたが、子供には台本は渡していなかったそう。

モチーフとなった実際の事件はもっと残酷。

⇒(iFinder雑読乱文:誰も知らない<巣鴨子供置き去り事件>)

途中の「私は幸せになっちゃいけないの。」というセリフが印象的。
単純には割り切れないこともある。

⇒(マキのつぶやき)

ただ「責任」ということは忘れてはいけないと思う。
[MEDIA]




B061 『水木しげるの妖怪談義』

水木しげるの妖怪談義 水木 しげる (2000/07)
ソフトガレージ


水木しげるの対談集。
養老孟子や美輪明宏とも対談してたりする。
けっこういっちゃってる。

神は政治、妖怪は生活。。。

妖怪は音。。。

妖怪は雰囲気。。。

妖怪を消し去ることがあたりまえで良いことだ、ということに疑問を持つことさえ難しくなってしまった。

目に見えるもの、頭で理解できること、それがすべてというのはやっぱりどこか寂しい。

そう、何かが抜けおちてるような。
んな気がしませんか。




む展



ときどきのぞかせてもらっているマティックさんのサイトで紹介されていたので行ってきました。

む展のむは、(曖昧な記憶によると…)ムサビのむ、ゼロのむ、無限大のむ、夢のむ。だそう。
場所は鹿児島市立美術館で、今日の午前中にヒアリングがあった物件にドームを考えているのでそれも見学に。(ちなみに前回のプロポーザルは落選。残念。)
市立美術館ドーム

マティックさんの映像作品は単純に楽しめました。
リアルタイムに活動している人達の作品は、その存在自体にも勇気付けられます。
明日じゃなくて今日、11日(日)までなので興味のある方はどうぞ。

その後、帰りにジュンク堂によって立ち読み等。
そこでこれもマティックさんが紹介されていた本を発見。
前にアミュの紀伊国屋で探したときは品切れだったもの。

(small planet) small planet
本城 直季 (2006/04/08)
リトルモア

もしかしたら建築そのものよりも模型の箱庭感・世界観が好きかも知れない僕としてはたまらない一冊。

僕は模型をつくるときは必ずしもリアルを目差すわけではないが実物のもつ世界観や時間の流れのようなものが現れればいいなと思いながらつくっているつもりだった。
しかし、この写真集は逆のベクトル、実物の世界の時間を流れを凍結し模型のように見せようとする力が働いている。(模型らしいことはさして重要ではないそうだが)
そこで、全く別の世界観が現れているのを目の当たりにすると、模型を作っているときは現実の建物とは別に模型そのものの世界をつくりたいと思っているのだとあらためて気づいた。
もしかしたら建物を模型にあわせているのか…

それともう一つ。この本を立ち読みしながらこの感覚に近いものをさっき感じたな、という気がした。

市立美術館で油彩なんかを見るときに、最初は他の人と同じように壁に沿って作品との距離が1mそこらで見ていた。
しかし、よく分からないというか伝わってこない。
そのときふと、佐々木 正人の肌理の話を思い出して、少しずつ遠ざかってみてみた。
すると、ある距離になると、絵の具のかたまりだったものが光やモノの肌理となって奥行きや世界観をつくりだす。
その突然焦点が合う感じは本城 直季の写真と似てるなと思った。
その、一定の距離を持ったときに生まれる焦点と光を、作品とほとんど距離のない状態で生み出すことができるのが作家のイマジネーションの力なのかもしれない。

全くのドシロートで油彩などのそういう見方・距離が正当な見方、あるいは常識なのかはわからない。
だけれど、従来の美塾館の展示の仕方では、玄人はともかく素人のお客さんが壁にそって眺めていても、作家のイマジネーションや世界観は伝わらず、絵の具の塊で終わっていることが多いのではないだろうか。
客に見方を指示するのもナンセンスな気がするが、なんかもったいないという気がした。

ちなみに、この本は立ち読みで我慢して財布に余裕のあるときに、とあきらめたのだけれども、結局我慢できずに建築雑誌を一冊買ってしまった・・・