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B086 『にほんの建築家 伊東豊雄・観察記』

瀧口 範子 (2006/02)
TOTO出版


同じ著者のコールハースについてのドキュメントではコールハースに振り回されて、若干消化不良な感じがした。(それこそがコールハースの行動力や掴みどころのなさを表していたともいえるが。)

この本では著者の目線が抑えられていたが、その分(?)伊東さんがうまく捉えられていたように思う。

僕の中の自由への憧れも、かなりの部分は伊東さんやその他の建築家の直接的・間接的影響によって無意識のうちに形成されたのかもしれない。(というか、そうだろう)

は~ぁ。伊東豊雄、かっこ良すぎるなぁ。
こんなにわくわくさせてくれる人は他にいない。影響されないようにしても無理な話だ。(一見、分かりやすいので真似をするのは危険すぎますが)
このままコルになるんじゃなかろうか。

新建築サイトの藤本壮介との対談動画も面白い(※)。同じ対談でも動画って間の取り方なんかがわかるので文章に比べて断然情報量が多いのですね。
展覧会行きたいなぁ。※今なぜか新建築のサイトにつながりません。動画は新建築11月号の目次から見れます。




コスプレ

cospla.jpg
整然と区画整理された住宅地にメーカーの家が展示場のように並ぶのを見るとなんか悲しくなってきて気が滅入ってしまう。
何がそんなに気を滅入らせるのだろうか。

小学生の頃、友達が階段室型の”団地”と呼ばれていたところから整然とした住宅地に引っ越したので遊びに行った。
そのときその土地が何か他人行儀な感じがしてとても居心地が悪かった覚えがある。
その頃の感じを思い出すのだろうか。

例えばこの感じを衣類に例えてみると何がしっくりくるだろうか、と考えてみた。

なかなかぴったりのが思い浮かばないがあえて言うならばコスプレ、だろうか。
アニメのキャラクターなんかをそのまま真似たようなちょっと安っぽい手作り感をかもし出しているコスプレ。

そこには自己完結的で周りを断絶するような頑なさを感じるし、使われている素材や形態も人間や周囲との関係性を放棄しているように見える。

そして、なんと言うかリアリティを感じない。(アニメなんかのイメージを直接的にもってきている訳だから当然といえば当然)

住宅地のリアリティのなさと、人間や環境や時間etc.との関係性の薄さがコスプレ的なのである。
一時的なイベントであって日常とはなり得ない(と思う)コスプレと住宅に似たものを感じるというのがなんとも悲しい。

ここで育った子供たちはどんなリアリティを感じるのだろうか。
また、何十年も経てばこれがノスタルジックな風景と感じるのだろうか。(それはそう感じるのかもしれない・・・)

コスプレ的でない住宅をつくると言うことが困難な社会になっている、というのもまた現実だと思う。




B085 『建築空間の魅力 私の体験』

建築空間の魅力 私の体験 芦原 義信 (1980/01)
彰国社


事務所の人が古本屋に出そうとしていたのでもらってきた。

著者の東大退官講演などを収録。
僕がまだ小学校に上がる前の本だが、街並みなどに対する危機感なんかは今と同じ。
現実は進歩なしという感じ。

これぐらいの世代の方の建築論は素直で理解しやすいものが多いような気がするし、実際の設計のプロセスと直結した理論が多いので参考になることが多い。

今の建築論はその辺の方法論が前提としてあった上で、微細な感覚の襞のようなものをすくい上げるようなのが多いので今から建築を学び始める人は取っ掛かりが難しい気がする。

僕も恥ずかしながらその前提の理論をすっとばしてることが多い。『街並みの美学』でも読んでみようかなんて思ったりしている。




B084 『Small House 人と建築の原点』

ニコラス ポープル (2003/08)
エクスナレッジ


「狭小」と書くとなんとなくネガティブなイメージがあるが、空調・清掃・コストその他メリットを挙げればポジティブに捉えることだって出来る。

なにより身の丈にあった、自分のイメージの器にすっぽりと入るような住宅は、小さな宝物のようにちいさな世界を所有する喜びがある。

巧みに世界を縮小できればできるほど、わたくしはいっそう確実に世界を所有する。
しかしこれとともに、ミニアチュールにおいては、価値は凝縮し、豊かになることを理解しなければならない。
ミニアチュールの力動的な効力を認識するには、大きなものと小さなものとのプラトン的弁証法では十分ではない。
小さなものの中に大きなものがあることを体験するには論理を超越しなければならない。(ガストン・バシュラール(1958))

論理の超越を共有する。ってのはどこまで可能か。

この本では建物を「自然の中」「都市の中」「集合住宅」というように章で分けているが、やっぱり大きな自然の中の小さな家という対比が美しい。都市に埋もれるだけでない佇まいというのはどうすればいいのだろうか。
アトリエ・ワンなんかのアプローチは参考になるけれど・・・。




B083 『フォークロアは生きている』

下野敏見 (1994/10)
丸山学芸図書


週末加世田の実家に行くとこの本が机の上においてあった。
聞いてみると、この本に取り上げられている仏像の持ち主の本だった。著者から寄贈されたのだろうか。
著者はどこかで聞いた名前だと思ったが、屋久島の民話を書いた方だった。(屋久島の民話のときは高校教師だったようだが、この本では鹿児島大学教授となっている)
ということでちょっと拝借してざっと読んでみた。

「フォークロアは死んだ」などと早トチリする人もあるようですが、どっこい、フォークロアはこの日本に脈々と生きているのです。
それどころか、フォークロア(folk-lore)すなわち民間伝承はこの世に人がいる限りあるのであり、それを研究する日本民族学も日本列島に人が住んでいる限り必要なものだと考えられます。(はじめに)

各地で脈々と生きているのだろうが、僕もそうだけど多くの人はこういうことに触れることがあまりないまま生活しているのではないだろうか。
たまにでも、こういうことに触れたり考えたりすることは自分たちの足元を見つめなおすためにも大切なことだと思う。
そういえば数年前に県民交流センターで地域の祭りを紹介するようなイベントに行って結構感動した覚えがあるけれども今もやっているのだろうか。




B082 『元気が育つ家づくり―建築家×探訪家×住み手』

仙田 満、渡辺 篤史 他 (2005/02)
岩波書店


建築についていろいろな議論があるけれども根本にはこういう思いがあるはずだ(と願いたい)。

ことさらに元気にならなくてもいいとは思うけれども、われわれには後世に受け継いでいく環境を創る(守る)義務がある。
しかし日本では自分のことばかりを考えていて、環境に対する意識が不足しているように思う。
というか、「自分さえよければ」という考えはますます加速していきそうな気がする。

文化は、そこに住む人の以上でも以下でもないと言われますが、あの時よくぞ創ってくれたこの環境、と後世の人々に言わせてみたいですね。・・・・それには、私たち庶民が、きっかけはどうあれ、建造物や街並み、環境に興味をいだき、やがて「見巧者」になることです。(渡辺篤志)

多くの人は身の周りの物や建物、道路・景観といった環境が生活を破壊することもあれば人間をつくることもあるということを考えたこともないのではないだろうか。
せめて義務教育の間にでも、自分たちがどのような環境をつくっていくのか、その環境がどのように人の幸福や豊かさに関っているのか、という見方があることぐらいは伝えて欲しいと思う。
「経済」という軸以外にも同じように扱うべきさまざまな軸がある、というのがあたり前と感じられるようになって欲しいものです(そんなことを言うのは「負け組」だとか言われるのでしょうが)

仙田満は日本建築家協会会長であり、「子どもを元気にする環境づくり戦略・政策検討委員会」の委員長もしている。
ただ、「子供を元気にする」と言うのは多少違和感がある。子供なんてほっといたって無駄に元気なものだし、現代であってもそれは変わらないだろう。それを大人がさまざまな機会を奪うことによって元気でなくしている(又は大人がそう思い込んでいるだけ)ではないだろうか。
それを「子供を元気にする」というのは元気にしてやると言う大人のエゴのようなものを感じて違和感がある。NHKの「ようこそ先輩」を見ていてもゲストの先生が常識のタガを少し外してやるだけで子供たちがみるみる元の元気さを取り戻すというのはよくある光景だ。
そういえば元気は「元の気」と書く。なるほど。

渡辺篤志は建物探訪で800件以上見ているそうだけれども、それ以上にすごく勉強している。
建築が好きなのが分かるし、それゆえに現実の問題がクリアにみえて悔しいのだろうな。思いはすごく伝わってきた。建築をやっている人にもだけれども、一般の人にこそ読んでみてもらいたい。
建築を見る目を変えるきっかけとして。




ほぼ日

昔はちょこちょこ読んでたんだけども長く見てなかった。
「蟻鱒鳶ル」をとりあげてると言うことで久しぶりに覗いてみた。

その中の 糸井重里のコラムを読む。
何言ってんのぉ、と言われそうなけっこう微妙なところを攻めている。勇気あるなぁ。

<深いって、いいことか?>っていうのに引っかかる。
取り扱い注意な感じの記事だけど、これを読んで反省することしきりである。

建築やってる人は特に「深い」だとか理屈だとかの罠にはまりがち。

もっと、なんと言うか、シンプルでいい。

それが難しかったりするけど。




B081 『道具と機械の本―てこからコンピューターまで』

道具と機械の本―てこからコンピューターまで 歌崎 秀史、デビッド・マコーレイ 他 (1999/10)
岩波書店


図書館より。世界的ベストセラーだそう。

シリンダー錠の構造からデジタル技術まで、いろいろな道具や機械のしくみをイラストで紹介する。

どんなものでもそれを考え出した人がいる。
しくみを知ることでブラックボックスがそうではなくなる。だからなんだと言うことだけれども、これによって道具や機械と少しお近づきになれた気がしてくるし、大げさにいうと視野が、世界が拡がった気分になる。ブラックボックスに囲まれた不安がちょっとした妄想遊びに変えられるのだからおもちゃのようなものでもある。

もしかしたら勉強というのは関係性を築くことかもしれない。
例えばこういう本や物理学は物や世界・宇宙との関係性を築く技術であると考えられるし、歴史は過去(未来)との関係性を築くことだと言える。そして、関係性を築くと言うことは自らの拡がりを獲得することだと思う。ただ、拡がりを感じたい。それだけのことかもしれない。




久しぶりに

東京から高校時代からの友人が来ていたので何人かで飲んだ。

他の業界の話が聞けてとても刺激になったし、自分に対しての甘さを感じさせられた。

僕は自分をみせることに対してまだ逃げる余地を残している。

自分自身にも鹿児島全体にも言えることだけど、意識レベルを底上げしなくてはいけない。

堅い話は置いておいても久しぶりに楽しい夜だった。
こういう機会は時々持たないと。

友人のアドバイスで住宅のスタディのA~Zには何らかのストーリーを被せることにした。
自分でも考えていたけれど、Aから順番にアルファベットに意味を持たせつつ進めていけば、そのときの自分の気持ちと案にずれが出てしまうのが怖くてあきらめていた。

だけども、AからZまでを順番にするのではなくてそのときの気持ちに応じてアルファベットを選ぶのであれば続けられるかもしれない。
それだと、次第に選択できるアルファベットが減っていき、拘束力が強まるのでマンネリ化やネタ切れを防げるし、発想を前に進める原動力になるかもしれない。

と言うことでアルファベットは順次選ぶことにしよう。




B080 『白井晟一空間読解―形式への違犯』

安原 盛彦
学芸出版社(2005/09)

副題にあるとおり「形式への違犯」を読み解く。

モダニズムのルール(オキテと言ってもよい)は便利ではあるが、それだけでは何かが足りないものになってしまう。

白井にはそれに捉われない強さがあった。

ルールをほんの少しはみ出せるだけの強さをもつこと。
その強さは自分の中に見つける以外にない。
自由とは強さのことではないか。




独立

今日久しぶりに友人に会ったら、知らない間に独立していた。

熱い思いを胸に鹿児島で独自のポジションを確立しつつある。

見かけどおり、将来は”ドン”とでも呼ばれてそう。

自分は今できることをひとつひとつ積み重ねていくしかない。
そして、自分がどのようなポジションを目指しているのか今一度見つめなおす必要性を感じた。

一歩一歩確実に、そして時には大胆に。

今日も勇気を分けてもらった。ありがとう。




W016 『鹿児島カテドラル・ザビエル教会』


□所在地:鹿児島県鹿児島市照国町
□設計:坂倉建築研究所
□用途:聖堂
□竣工年:1999年
□参考:鹿児島カテドラル・ザビエル教会
[gmaps:31.59156836057438/130.5509877204895/17/460/300](comment)[/gmaps]
今日、参考にと仕事の合間に見に行ってきました。
外部をちょっと見るだけのつもりでしたが、内部も見ていいとの事で中にも入りました。

大聖堂のパンチングメタルとステンドグラスの構成はさすがにきれい。
赤はザビエルの情熱を示しているそう。(作品リストの1999年参照)
熱い教会。

ひるがえって、小聖堂はこじんまりとした落ち着いた空間。
お祈りをしている人がいたので写真は撮れませんでしたが。

それにしても電線が邪魔。




B079 『悪なんて知らないと猫は言う』

悪なんて知らないと猫は言う―悪とヒトの優雅な哲学 左近司 祥子 (2001/09)
講談社


結構前に読んだ本。
猫好きの哲学者による哲学エッセイ。

プラトンやアリストテレスを軸に善や悪、自由、共同体、自己保持などについて分かりやすく語られる。

争いが行くところまで行ってしまうのは、その争いが、非当事者の立場から見れば、「善い」と「悪い」とのせめぎあいなどではなぃ、「善い」と「善い」のしのぎあいになっているからである。

くしくもこの本は2001年9月10日発行である。
絶対的な善や悪があるなど幻想に過ぎない。しかし、悲しい争いは絶えることがない。

あるのは自分にとっての善や悪だけだ。それなのに人はおせっかいにも周りに対してその善や悪を当てはめたがり無駄な争いを生む。
しかし、猫にとっては善や悪なんてものはどうでもいいことなのだ。猫は『寝たふりをしながら、じっと宇宙の呼び声を聞く』だけである。(谷川俊太郎の詩のように)ペットにするなら犬がいい。
だけどもし無人島に連れて行くなら猫を選ぶかも。




B078 『住宅読本』

中村 好文
新潮社(2004/06/23)

またもや中村好文であるが、読みやすいのでつい。

1章から12章のタイトル
「風景」「ワンルーム」「居心地」「火」「遊び心」「台所&食卓」「子供」「手ざわり」「床の間」「家具」「住み継ぐ」「あかり」
それらは著者がとくに大切にしている事柄だろう。

あるポイントを押えて、それだけでいいと言えるかがどうかが良い住宅になるかどうかの分かれ目かもしれない。

著者がよく引用する『ボートの三人男』の中の簡素な暮らしを小舟に例える引用

がらくたは投げ捨ててしまえ。ただ必要なものだけを積み込んで-生活の舟を軽やかにしたまえ。簡素な家庭、素朴な楽しみ、一人か二人の心の友、愛する者と愛してくれる者、一匹の猫、一匹の犬、一本か二本の愛用のパイプ、必要なだけの衣料と食料、それに必要より少し多めの酒があればそれでよいのだ。

さて、僕にとってこれだけでいいと言えるものはなんだろうか。




B077 『住宅70年代・狂い咲き』

篠原 一男他
エクスナレッジ (2006/02)

70年代、「野武士」達の時代。
個性のある作品が集められているというのもあろうが、この時代の住宅にはエネルギーがある。
建物が「人格(?)」のようなものを獲得しているようにも見える。

あまりに饒舌で押し付けがましいのは嫌われるかもしれないが、そればかりが人格ではない。
藤本壮介が篠原一男の「上原通りの住宅」を『地球のような場所』と評しているが、これも地球のように包容力のある人格を獲得しているという言い方もできるだろう。

マーケテイングを学んでいる友人にアカウントプランニングという手法では企業に人格のようなものを設定する、というようなことを教えてもらった。
何か通ずるものがあるように思う。

あまりに固定的な人格ではつまらないが、コルの建築のように複雑で、篠原一男のように懐の深い人格ができれば良いな。




B076 『建築依存症/Archiholic』

安部 良
ラトルズ(2006/04)

安部良と言う建築家のことはよく知らなかったがタイトルに魅かれて読んでみたらとても共感できる本であった。

設計者とモノとの距離がとても近い。
そして建物と人との距離も近い。

しかし、その距離を縮めるのはそう簡単な事ではない。

僕の建築のテーマも肉体と建築の関係だから、何かにとことん執着しなければつくれないことがよく分かっていた。

ガウディやスカルパに魅かれ石山研の出身であるのも頷ける。

今の建築はほとんどがカタログから選ばれた「製品」の組み合わせでしかなく、それぞれの「製品」の表情はマーケティングの結果としての外面のいい顔がほとんどである。
モノが人と腹を割って話そうなどとは考えてもいない。例えば、思いをこめられず、ただ貼られたビニールクロスにはモノとしての力は、ない。
そして死んだような表情のモノと人との距離は遠い。多くの人はその距離には無関心だ。

僕もなかなかモノと関わることはできていない。
モニターの中で上辺だけのものを描くことしかできていない。

もっとモノの近くにいきたい。そして、建築に、モノに命を吹き込みたい。

「生活者と会話のできる建築がつくりたい」と僕は文中で何度か繰り返している。もちろん建築が声を出してしゃべるわけは無い。でもただ建築を擬人化して、あたかも会話が成立するような親密な空間をつくりたいと言っているだけでは物足りない。例えば小さめのホールで弦楽四重奏の演奏を体験したときに身体中が響きに包み込まれて深く感情を揺さぶられることがある。バレリーナの肉体の躍動を間近で見て、頭の先からお尻まで、脊髄に電気が走るような感覚を覚えることがある。歌手の声が、それが誌のないハミングのようなものであっても、その抑揚と声色だけで心に直接的に届いて、せつなさや嬉しさを感じることがある。生身の人間によるパフォーマンスが体験者の感情に直接的に届くように、建築もパフォーマンスができると僕は思っているのだ。

あたりまえのことかもしれないが、最近デザインとは「関係」のことだと強く思うことが多い。




B075 『デザインのデザイン』

原 研哉
岩波書店(2003/10/22)

タイトルのとおり、デザイナーはまずデザインという概念をデザインすべきなのかもしれない。
著者は時間的にも空間的にも大きな視野で眺めた中でデザインを捉えている。

時代を前へ前へ進めることが必ずしも進歩ではない。僕らは未来と過去の狭間に立っている。創造的な物事の端緒は社会全体が見つめているその視線の先ではなくて、むしろ社会を背後から見通すような視線の延長に発見できるのではないか。・・・・両者を還流する発想のダイナミズムをクリエイティブと呼ぶのだろう。

この人の言葉は頭に映像が浮かぶようでとても分かりやすい。

中でも『欲望のエデュケーション』というところはとても共感できた。現代のマーケティングは人々の欲望を精密にスキャンする。それは「ゆるみ」や文化水準、品格といった対象の性質までをも拾い上げる。例えば、日本車は性能は優秀だが、「美意識が足りないとか哲学が不足している」といわれる。僕もそう思うし、なぜもっと色気のあるデザインをしないのか?というふうにも思う。
しかし、それはデザイナーの問題というよりは日本人の意識水準の問題なのである。日本人の車に対する美意識がヨーロッパのそれに比べると成熟していないのだ。また「市場の欲望の底に横たわっているこういう性質は簡単に改善できるものではない」

そして、拾い上げたものが製品化・消費されることで、さらに消費者の性質を強化する。

だからこそ『欲望のエデュケーション』が必要なのである。

本書でも日本の「nLDK」に代表されるような住宅事情を例に説明されているが、住宅(建築)に対する意識の低さはひどいものだ。
住宅メーカーや不動産屋などの供給サイドに立てば、意識が低く「nLDK」「駅から何分」などの記号で事が済むほうが扱いやすいし、供給側の資質もそれほど要求されずメーカーとしてのメリットもでる。
それで、せっせと広告を打ち、住宅を単なる記号として扱うことを教育すること(負の欲望のエデュケーション)でユーザーを手の届く範囲にとどめておこうとする。

だから日本で住宅に関するマーケティングでは記号ばかりが抽出されるし、それがさらに現状を強化していく。

その場では僕らの存在意義は記号の中に埋もれて消えてしまう。

マーケティングを行う上で市場は「畑」である。この畑が宝物だと僕は思う。畑の土壌を調べ生育しやすい品種を改良して植えるのではなく、素晴らしい収穫物を得られる畑になるように「土壌」を肥やしていくことがマーケティングのもう一つの方法であろう。

やっぱりこの人の言葉はイメージしやすい。

収穫をあせるのではなく、土づくりから収穫、それがまた土づくりにつながる、といったプロセスをイメージすべきだろう。

僕の専門領域はコミュニケーションであるが、その理想は力強いヴィジアルで人々の目を奪うことではなく、5感にしみ込むように浸透していくことだと考えるようになった。

建築についてもいえる。

未来のヴィジョンに関与する立場にある人は「にぎわい」を計画すると言う発想をそろそろやめた方がいい。「町おこし」などという言葉がかつて言い交わされたことがあるがそういうことで「おこされた」町は無惨である。町はおこされておきるものではない。その魅力はひとえにそのたたずまいである。おこすのではなく、むしろ静けさと成熟に本気で向き合い、それが成就した後にも「情報発信」などしないで、それを森の奥や湯気の向こうにひっそりと置いておけばいい。優れたものは必ず発見される。「たたずまい」とはそのようなちからであり、それがコミュニケーションの大きな資源となるはずである。

ここで雅叙苑がとりあげられていた。一度ゆっくり泊まってみたいものだ。

デザインは技能ではなく物事の本質をつかむ感性と洞察力である。

デザイナーは本来コミュニケーションの問題を様々なメディアを通したデザインで治療する医師のようなものである。だから頭が痛いからといって「頭痛薬」を求めてくる患者に簡単にそれを渡してはいけない。・・・・「頭痛薬」を売ることに専念しているデザイナーは安価な頭痛薬が世間に流通すると慌てることになる。




ふ~~

ようやくポートフォリオをアップできた。
[WORKS]
[PROJECT]

前からやろうやろうと思いながらなかなかまとまった時間がとれませんでした。

たけるもとうとう3ヶ月。
まだまだ大人しくはなってくれませんが、僕もそろそろエンジンをかけないと。
がんばります。




B074 『ザ・藤森照信』

藤森照信
エクスナレッジ(2006/08)

藤森照信がなぜ一般の支持を得ているのか。

それは彼が「自ら楽しむ」ということを徹底しているからだろう。

最後の方に奥さんのインタビューが乗っているけれども、奥さんは結構苦労されたみたい。
大変な時期にも夫は「路上観察」や現場へ出たっきり。
藤森さんもきっと奥さんに負担をかけている事を自覚はしていただろうが、誰にも真似できないぐらい楽しみきることが彼にとっての生命線であることを自覚していたから、あえて気づかないふりをしていたに違いない。

と、僕は思う。

その、ある種の強さが藤森さんを藤森さんにしたのだ。

本城直季のミニチュア風写真は建築本としては最初違和感があった。

だけど、子供が箱庭を作るのに熱中するように建物をつくる藤森さんの建物にはふさわしい気もしてきた。

都市の(人口の)嘘っぽさ」を露にする本城氏の写真でも耐えられるのはこれまた藤森さんのテクスチュアのある建物だからかもしれない。

さすがに歴史家&建築家ところどころにどきりとする表現がある。

(建築史家としての)この認識と建築家藤森のデザインの間の関係は考えないようにつとめている。物をつくるには考えない方がいいレベルもある、という知恵を建築史家藤森は歴史から学び、建築家藤森に伝えてある。ミースは何か考えていたんだろうか。感じていただけではあるまいか。安藤や妹島だってどうだろう。

同感。

(エコロジー主義者について)科学技術の時代20世紀の蓄積を軽く見るような、簡単に乗り越えられると考えるようなそういう方向には同意できない。言葉や理論では超えられても、現実では大禍を呼びかねない。マジメさだけが場の空気を支配し、笑いの乏しい世界は私の性に合わないのである。

人は、身体性への働きがあった時にはじめて空間のダイナミズムを感じる。代々木のプールのダイナミズムは、大屋根の端が地面近くまで降りてきていることで生まれた。

藤森建築は自然素材を好んで使う。でもその素材の味を生かすために、藤森はその露出度に寸止めをかける。・・・・・つまり、趣味の固まりがそのままでは嫌味にずれ込んでしまう。そこのところをぐいと意志の力で止めて、物に対する批評の角度を際立たせる(赤瀬川原平)

また、大学院生時代、全国の2000棟を超える近代建築の優品を”相撲を取るように”真剣に見てまわったという話が印象的だった。

そういえば、東京入院時代、暇なので一緒に入院しているおじいさんと空気砲を作ったりして遊んでたのだが、あるときテレビに藤森さんが出てきて、少しこの人に興味がある、と話をしたらそのおじいさんが藤森さんのおじさんにあたる人だったのでびっくりしたことがある。
子供のころは(悪いという意味ではなく)やんちゃだったそうだ。




仕事


今日、ある現場の試験杭に立ち会った。

職人さんたちは炎天下の中、重機を手足のように扱い、手による合図でコミュニケーションをとり合う。

土という建築の中ではおそらく最も扱いにくいものを相手にしている以上、現場の状況によって臨機応変に対処することが要求される。

そんな中、職人さんたちはあまり言葉を交わすことなくとも、個々がその場でやるべきことをきちんとこなし、なおかつ全体では現場が有機的に進行して行く。

なんというかセクシーである。
これが仕事なんだなと感じる。

この、現場での最初の仕事に立ち会うとき、僕はいつもちょっとした嫉妬のようなものを感じてしまう。